Tous les chapitres de : Chapitre 811 - Chapitre 820

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第811話

太一はワケが分からず、移動の猛ダッシュで額に滲んだ汗をぐいっと拭った。昨日、柊也が突然ふらりと本港市へ向かうと言い出した時、太一はちょうど外せない重要な商談を抱えていて同行できなかったのだ。その時、太一は『いっそ商談をキャンセルして一緒に本港市へ行こうか?』と提案した。だが、返ってきたのは『そんなにお邪魔虫になりたいのか?』という冷ややかな一言。言葉に詰まった太一は、大人しく同行を諦めた。ところが、その翌日の午後。突然柊也から電話がかかってきて、『本港市まで俺を迎えに来い』と呼び出されたのだ。あの時の声のトーンと言ったら、完全にこの世の終わりみたいな、ひどく落ち込んだ響きだった。心配のあまり、太一は自社『栞』の生薬プロジェクトの取引相手をその場に放置し、大慌てで本港市行きの飛行機に飛び乗ったというのに。やっと到着し、まだ機体から一歩も降りていないというのに。『お前の出番はもうない』からの、『空港からそのままトンボ帰りしろ』だ。女心が秋の空なら、こいつの心はゲリラ豪雨か何かか?太一は心の中で必死に己を宥めた。『相手は病人だ。しかもウチのボスで、腐れ縁のダチだ。……耐えろ、俺。ここは大人になって水に流してやれ』そして彼は飛行機を降りるや否や、到着ゲートからそのまま出発ゲートへとUターンし、江ノ本市へ戻る一番早い便のチケットを買う羽目になった……ふとスマホを見ると、秘書からのメッセージが届いていた。【Ninaさんが激怒しています。栞との提携は白紙に戻すと言い張って……】それを読んで、太一はさらに盛大に頭を抱えた。あのNinaのご機嫌取りに行けば、またあの手この手でセクハラまがいにベタベタ触られるのは目に見えている。踏んだり蹴ったりだ。……一方その頃、詩織は響太朗との法的な打ち合わせを長引かせ、病室を出る頃には夜の十二時近くなっていた。慌てて柊也の病室へ戻ると、彼は本当にまだ起きていた。それどころか、扉から現れた彼女の姿を見た瞬間、心底安堵したように長く息を吐き出した。「早く休んでって言ったのに」詩織はベッドサイドのカルテを一瞥した。今夜はもう点滴を追加する必要はない。「……待ってるって言っただろ」ベッドの上の彼は、相変わらず頑固だった。怪我人に免じて、詩織はそれ以上のお小言
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第812話

珍しく、柊也は大人しく頷いた。「はい」注意する気も失せたのか、看護師は手短に申し渡すと、足早に次の病室へと入っていった。詩織はこちらへ向けられた視線を感じる。布団に頭まですっぽりと埋もれている彼女の姿を見て、柊也の口角は我慢しきれずにふっと持ち上がった。彼の静かで、けれど少しおどけた声が、耳に響いた。「そんなに被ってたら、苦しくないか?」顔から火が出るほど耳の裏が熱くなり、詩織は死んだふりを貫こうと固く唇を噛んだ。「……それとも、俺の匂いを嗅いでいるのが好きなのか?」「……ッ!」詩織は弾かれたように布団を跳ね除け、腹立ち紛れに彼をキッと睨みつけた。だが、血で赤く染まった腕の包帯が目に入った途端、きつく結んでいた唇がわずかに震え、険しい眼差しもたちまち柔らかく萎んでしまう。その傷口が開いた理由なんて、わざわざ考えるまでもなかった。昨夜、うたた寝した彼女をわざわざこのベッドまで抱きかかえて運んだからに決まっている。大人しくベッドから降りると、詩織は目で「横になって」と彼を促し、自らは洗面台へと向かった。手早く顔を洗い、ポーチに常備しているコスメで簡単なメイクを施す。今日はこれから法廷へ立たなければならないし、おそらくまたマスコミのフラッシュを浴びることになる。それなりに取り繕う必要があった。もともとの顔立ちが整っているため、さっと整えただけのナチュラルメイクでも、彼女の美しさは十分に引き立つ。洗面台から足を踏み出した瞬間、すかさず柊也の視線が追ってきた。「朝メシ、何が食いたい?」そう言いかけて、彼女の顔を見た彼の言葉がピタリと止まった。その目は、一切の誤魔化しもなく彼女だけをまっすぐに射抜いている。それは紛れもなく、一人の男が女の美しさに魅了され、溺れるような熱を含んだ『男の目』だった。あまりにも直球な視線に耐えきれず、詩織は居心地の悪さを紛らわすように、無意識のうちに頬にかかった後れ毛を耳にかけた。「……あなたは何が食べたいの?」「お前」カッと、詩織の頬から火が出たように熱くなった。柊也は自分が無意識に心の声を漏らしてしまったことに遅れて気づき、慌てて咳払いをした。「……お前が食うものなら、何でも」そんな風に訂正されると、まるでこちらが一人で変な勘違いをして赤面しているみた
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第813話

詩織が病院に戻ったのは、すっかり夕食の時間を過ぎた頃だった。「賀来様、今日はお食事に一切手を付けられなくて……」付き添いの看護師からそう告げられ、詩織は血の気が引く思いだった。自分の夕食を摂るのも忘れ、慌てて病室へ駆け込む。ドアを開けると、ベッドの上の柊也は目を閉じていた。だが、その表情は凍りついたように硬い。寝ているのか、それとも狸寝入りか。苛立ちが込み上げ、詩織は眉をひそめた。「どういうつもり?なんで食事を摂らないの」柊也はぴくりとも動かない。詩織はこめかみを押さえた。また癇癪か。一体何が気に入らないというのか。外傷の回復には栄養が不可欠だ。それなのに食事を拒否して、どうやって治すつもりなのか。「答えて。起きてるんでしょ」低い声で詰問する。やっと開かれたその瞳は、暗く沈んでいた。氷水に浸したような冷ややかな声が落ちる。「放っておいてくれ」詩織は言葉を詰まらせ、次いで怒りを露わにした。「私が好きで世話をしてるとでも?あんたが私を庇って怪我したんじゃなきゃ、誰が構うもんですか!」室内の空気が、一瞬にして凍りついた。言い過ぎた――詩織はハッとした。いくらなんでも相手は重傷人だ。こんな刺激を与えて、もし具合が悪化でもしたら……この最悪な空気をどう収拾すべきか。そう考えあぐねていた時だった。――グゥ。詩織の腹が、間の抜けた音を立てた。死のような沈黙を破り、唐突に柊也が口を開く。「腹が減った。肉うどんが食いたい」「……」詩織は絶句した。こっちはまだ怒っているというのに。だが、背に腹は代えられない。まずは食事だ。スマホを取り出し、手慣れた操作でいつもの店からデリバリーを頼む。注文を終えてから、ふと気づいた。肉うどんは自分の好物だ。そもそも以前の柊也は、好んで麺類を食べるような男ではなかったはずなのに。いぶかしく思って視線を向けると、彼はまたスッと伏し目がちになり、瞳の奥の色を隠してしまった。能面のように、一切の感情が抜け落ちた横顔だ。デリバリーが到着するまで、病室には重苦しい空気が漂っていた。届いたのは二つの器。当然、一つは柊也の分だ。詩織は蓋を開けると、ごく自然な動作でティッシュを一枚テーブルに敷き、割り箸で汁に浮いた刻みネギを丁寧につまみ出し始め
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第814話

五日間。――短すぎる。あっさりと終わらせてたまるか。初めは、遠くから彼女の姿を一度でも見られればそれでいいと思っていた。それが、実際に顔を合わせれば少しでも言葉を交わしたくなり、声を聞けば、今度はその身体を抱きしめたくなる。一日そばにいてくれれば二日、いや、いっそこのまま永遠に自分から離れないでほしいとさえ願ってしまう。人間の欲望とは、かくも底なしで強欲なものらしい。看病三日目の朝も、詩織は気がつけば病室のベッドの上で目を覚ましていた。だが、もう驚きはない。すっかり見慣れたルーティンに、彼女は淡々と身支度を整えに洗面所へ向かった。顔を洗って戻ると、ちょうど医師が柊也の包帯を交換しているところだった。またしても開いてしまった腕の傷口を見て、医師は険しい顔で小言をこぼしている。「どうしてこの傷ばかり何度も開くんですか?こんなに頻繁に裂けていては、すぐに化膿してしまいますよ」柊也は一切の言い訳をせず、ただ黙って医師の説教を聞き流していた。やがて医師が退出すると、詩織はベッドに歩み寄り、冷たい声で問い詰めた。「……また私をベッドに運ぼうとして、傷を開いたのね?」「違う」彼は短く否定した。「自分で動いた時に無理がかかっただけだ。お前は関係ない」「そんな見え透いた嘘、私が信じるとでも?」柊也は詩織と視線を合わせようとはしなかったが、それでも頑なに言い張った。「俺は事実を言っている」「あのね、こんな無茶をする必要なんかないのよ」詩織はため息まじりに言い放った。「私はソファーで寝れば十分。今ここに残ってあなたの世話をしているのも、単に命を救われた『借り』を返しているだけ。知ってるでしょう?私は、あなたにこれ以上の借りを作りたくない。私のために何かしてほしいなんて少しも思ってないの。お互いに干渉しない、ただの赤の他人でいたいだけなのよ」静かで、ひどく冷徹な拒絶。彼女のその声は、柔らかくも鋭利な刃となって、柊也の心臓の最も脆い部分を容赦なく切り裂いた。数秒の沈黙の後、柊也はゆっくりと口を開いた。「俺が好きでやってると思うか?」詩織の思考が、一瞬だけ止まった。「俺だって、自分を抑えられないんだ」「お前が危ない目に遭っているのに、見て見ぬふりなんてできるわけがない。頭で考えるより先に、身体が動いてしまう
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第815話

不幸中の幸いだったのは、果物ナイフの刃がなまくらで、傷が浅く済んだことだ。だがそれでも、またしても柊也に「借り」を作ってしまった事実は、詩織の胸に重くのしかかった。五年前、あの関係に終止符を打ち、二度と振り返らず前を向いて歩こうと決めた時。柊也とはもう金輪際、一切の関わりを持たないと心に誓ったはずなのだ。だから、自分の決意を揺るがすような出来事が起きるたび、ひどく胸騒ぎがする。心の奥底から拒絶反応が湧き起こる。傷が癒えたからといって、かつての痛みを無かったことになど絶対にできない。だから詩織は、医師が柊也の手当てを終えるのを見届けると、そのまま足早に病室を後にした。立ち去る間際、彼の顔を見る気にはなれなかった。別れの言葉すら一つも残さずに。だが、駐車場の車に乗り込み、運転席の大森から「このまま空港へ向かいますか?」と尋ねられた時だった。詩織は数秒の沈黙のあと、ポツリと口にした。「……江ノ本市には、まだ戻らないわ」大森がルームミラー越しにちらりと視線を送ってくる。「中博と広王の提携プロジェクトが、ちょうど大詰めの段階なのよ」詩織は早口でそう釈明し、ひと呼吸おいてから付け加えた。「……すごく重要な案件だから」それは大森へ向けた説明というより、自分自身に言い聞かせるための口実のようだった。P国人実業家がトップを務める広王は、独自の厳しいルールを重んじるため、交渉のハードルが途方もなく高い。今回は響太朗のコネクションがあったおかげで、ようやく提携の話が軌道に乗ったところだった。先方もその響太朗の顔を立てて、広王の創立記念パーティーの招待状をこちらに送ってきていたのである。――そして現在。源治と共にその華やかなパーティー会場へ足を踏み入れた詩織は、まさかこんな場所で、再び柊也と鉢合わせすることになるなど夢にも思っていなかった。逆算すれば、あの騒然とした病院を後にしてから、ちょうど五日が経過している。昨夜、付き添いの看護師から「無事に退院されました」と報告のメッセージが入っていた。傷の治りも順調で、食事も言われた通りに三食きちんと摂っていたらしい。ただ、まったく口を利かず、一度も笑わなかったという。一日の大半を、ただ静かにやり過ごし、力なく窓の外を眺めているか。あるいは―
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第816話

今となっては、二人の立ち位置が完全に逆転してしまっている。この世は、まったくもって皮肉で狂っている。「じゃあ、このまま遠くから見つめるだけでいいんですか?」源治が呆れたように尋ねる。柊也の声はさらに低く沈んだ。「……人が多い場所なら、あいつも私を無下に追い払ったりはしないからな」――目すら合わせてはくれないが。「……」源治は絶句した。この男は……本当に自分の知るあの冷徹な賀来柊也と同一人物か?性格が真逆の双子の兄弟がいるなんて話は聞いたことがないぞ。しかし結局のところ、柊也の「遠くから見守る」という殊勝な態度は長くは続かなかった。ある男の姿が視界をよぎったからだ。数馬武。かつて詩織に枕営業を強要しようとして逃げられ、その報復として柊也に『男としての急所』を文字通り完膚なきまでに潰された下劣な男である。その数馬が詩織のそばへ近寄るのを見た瞬間、柊也は持っていたグラスをテーブルに突き立てるように置き、猛禽類のような足取りで一直線に彼女の元へ向かった。詩織は彼に背を向けて談笑しており、背後に迫るただならぬ気配に気づいていない。会場に着いたばかりの数馬もまた、影に潜んでいた柊也の存在には微塵も気づいていなかった。彼がわざわざトラウマの元凶である詩織に声をかけたのは、中博と広王の提携話を聞きつけ、あわよくば甘い汁を吸おうと企んだからだ。両社の合同プロジェクトは、動く金が数兆円規模に上る。指の隙間からこぼれ落ちる蜜を舐めるだけでも、彼らのような輩にとっては一生遊んで暮らせるほどの莫大な利益になる。まさに、虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。だからこそ、数馬は詩織の顔を見ただけで冷や汗が吹き出し、かつての激痛の記憶に股間が縮み上がる思いをしながらも、無理やり愛想笑いを顔に貼り付けてすり寄ってきたのである。「江崎社長、いやあ、こんな所でお会いできるとは光栄です」数馬の態度は、不気味なくらい低姿勢だった。公の華やかな場である以上、詩織も露骨に無視するわけにはいかない。当たり障りのない会釈で応じた。数馬はここぞとばかりに本題を切り出した。「中博と広王がBMI(ブレイン・マシン・インターフェース)の共同開発に乗り出すと耳にしましてね。非常に興味を惹かれております。実は私も以前、似たような事業に投資
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第817話

周辺の騒ぎは小さくなく、広王のトップでさえもそれに気づき、わざわざ様子を見に足を運んできた。よりによって、柊也が詩織の身代わりに酒を飲むと宣言したタイミングで。その声音――どう見ても、ただのビジネスパートナーの域を超えている。広王のご意見番であるP国人実業家、レオ・シモンは、興味深そうに尋めた。「お二人は……ずいぶんと親しいご関係のようですが?」もし別の人間からの質問であれは、詩織は即座に「ただの顔見知りです」と冷たく切り捨てていただろう。だが、事前の調査でレオという人物の性格は把握している。彼は何よりも「嘘」を嫌う性質だ。一度でも見え透いた嘘をつく者を信用に足らないとみなし、取引のテーブルから容赦なく蹴り落とす。それに、かつての自分と柊也の恋愛沙汰など、業界ではとっくに知れ渡った公然の秘密だ。彼が決意して少し調べればすぐに露見するようなことを、わざわざ隠す意味もないし、隠しきれるものでもない。「……元恋人です」詩織はきっぱりと、事実だけを口にした。その短い言葉を聞いた瞬間、柊也の動きがピタリと止まり、瞳の奥に張り付いていた冷気があっという間に溶け去った。ただの『取引先』から、『元恋人』への昇格。これ以上の前進があるだろうか?少なくとも後者には、彼女と確かに結ばれていたという揺るぎない事実が含まれているのだから。レオは愉快そうに大声を上げて笑った。「ははは!まさかお二人にそんな過去がおありだったとはね!聞けば、江崎社長は近く高坂氏とご結婚されるそうじゃないですか。賀来社長、これほどに素晴らしく美しい女性を手放したこと……さぞや後悔しておいででしょうな?」ようやく和らいでいた柊也の眉間に、ふたたびどす黒い冷気が凝縮していくのがわかった。詩織ですら、思わずこめかみが引き攣るのを感じた。このレオという男……随分と危険な爆弾をぶっ込んでくるじゃないか。幸いにも、柊也はそれ以上の波風を立てることはなく、氷のように冷えきった表情のまま、黙ってグラスの酒を煽っていた。ただその酒は、彼にとって耐え難いほど苦い味がしたはずだ。「……少し、化粧室へ失礼いたします」詩織は適当な口実を作り、柊也から足早に距離を取った。やがてパウダールームから出てきた時のことだ。手洗い場の鏡の前で口紅を直していた女性が、振り返り
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第818話

美咲の夫は本港市を拠点とする実業家であり、これらのゴシップはすべて地元のマダムたちのネットワークから仕入れたものだ。数馬の正妻は、もともと夫のひどい色ボケのせいで肩身の狭い思いをしてきた。しかし江ノ本市での一件を境に、数馬が男として二度と機能しなくなると、彼女の天下が訪れたのである。数馬には、正妻との間に設けたたった一人のしか息子がいない。その息子は母親を何よりも第一に慕っていたため、武としては今更妻を蔑ろにするわけにはいかなくなった。もし妻が息子を連れて家を飛び出しでもすれば、数馬家の血筋が絶えてしまうからだ。完全に家庭内の実権を握り、マダムたちのコミュニティでも羽振りを利かせるようになった数馬の妻は、裏で若いツバメまで囲うようになっていた。他のマダムから「ご主人にバレて離婚されたらどうするの?」と聞かれた際、彼女は酒の勢いも手伝って、武の情けない下半身の事情をあっさりと暴露してしまったらしい。夫はとっくに気づいているが、見て見ぬふりをしているだけだ。自分の顔に泥を塗られない限り、いくらでも腹の虫を抑え込むだろう、と。この顛末は、マダムたちの間ではすでに公然の秘密となっていた。もちろん、美咲もその一人だ。――その事実の全貌を知らされ、詩織は言葉を失った。当時、数馬が不自然なほどあっさりと本土の市場から撤退したことを、詩織は不思議に思っていた時期があった。しかし、その裏にこんな真相が隠されていようとは。ましてや、柊也が自分の知らないところで、そこまで徹底的な報復を行っていたなんて……彼は、一体どこまで私を……頭の中が真っ白なまま、ぼうっとした足取りでパーティー会場に戻った時。すでにそこには、柊也の姿はなかった。帰ったの?もう、いなくなってしまったの?彼と別れてから――初めてだった。詩織は、彼が自分より先にこの場から消えてしまったことに、どうしようもない空虚さと喪失感を覚えていた。パーティーも終盤に差し掛かった頃、手が空いたレオから声が掛かり、詩織は応接室で提携についての具体的な話し合いの席に着いた。詩織には確かな技術と優秀な人材がある。対するレオには莫大な資本と独自の太いパイプがある。この提携が成立すれば、間違いなく互いにとって巨大な利益を生む。レオは詩織に対する当初の偏
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第819話

顔を上げると、逆光の中に佇むシルエットがあった。彫りの深い輪郭が濃い影に飲まれ、表情までは読み取れない。それでも、詩織の唇から自然とその名が零れ落ちた。「……柊也。帰ったんじゃ、なかったの?」酔いが回っているせいか、しゃがみ込んだままの身体がふらふらと頼りなく揺らぐ。霞む視界のなかで、彼の背後から射し込む光の筋もまた、ゆらゆらと幻のように揺らめいて見えた。「俺に――」喉の奥から絞り出すような低い声。柊也のひどく熱を帯びた眼差しが、ほんのりと朱に染まった詩織の頬にじっと注がれた。「帰ってほしかったか?」詩織はひどく困惑したように眉を寄せた。まるで、この世で最も難解な問いを突きつけられたかのように、じっと黙り込む。やがて、見かねた柊也がふっと問いの角度を変えた。「じゃあ、そばにいてほしいか?」それでも詩織は眉間の皺を解かず、ただ「……わからない」と弱々しく呟く。その答えになっていないようなひと言に、柊也の唇の端がわずかに吊り上がった。「なら、いてほしいってことにしとく」そのとき、少し離れた場所で空を震わせる音が響き、暗い瑠璃色の夜空に鮮やかな大輪がいくつも咲き乱れた。不意に上がった花火に気を取られ、詩織はそちらへ顔を向ける。何度見ても、本港市の海を彩るこの絢爛な光景には、つい心を奪われてしまう。彼女の視線を追いながら、柊也が静かな声で尋ねた。「花火、見に行きたいか?」詩織は、ひどく素直にこくりと頷いた。「おいで」短く告げ、彼がこちらへ手を差し伸べる。詩織の視線は、彼の骨張った大きな手のひら――数日前に彼女を庇った際についた痛々しいガーゼに、ほんの一秒だけ落ちた。そして、心のなかで渦巻く戸惑いを振り切るように、ゆっくりと腕を伸ばし、その手を取った。一方、車を回して待機していた大森は、いくら待っても姿を見せない詩織を探しあぐねていた。仕方なくスマートフォンを鳴らしてみるが、コール音が虚しく響くばかりで一向に出る気配がない。いよいよ部下を総動員して探すべきかと思案し始めた矢先、手元の画面に響太朗からの着信が点滅した。電話に出るなり、響太朗が手短に告げる。「今夜は詩織の護衛はしなくていい。ほかの人員もすべて撤収させろ」響太朗の命令には絶対服従の大森は、何の疑問も差し挟むことなく、即座に身を正
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第820話

当時十歳だった剛太郎は、医師の足元にすがって必死に懇願した。母さんの命を助けてほしい、と。だが、所詮は幼い子供の願いである。決定権を持つ昇吾が出した無情な指示を前に、医師が聞き入れるわけもなかった。冷え切った分娩室のベッドで、美渚は泣きながら昇吾に「せめて最期に一目会いたい」と懇願し続けた。しかし、その悲痛な叫びを伝え聞いた昇吾は、ただただ忌々しげに顔をしかめただけだった。「せっかくの初夜の晩になんて縁起の悪い女だ。俺の気分を害するな」と吐き捨てる始末。その言葉を聞いた瞬間、美渚の中で何かが完全に砕け散り、生きる気力を手放した。産み落としたばかりの赤ん坊に一瞥すらくれることなく、壁の方へ寝返りを打ち、間もなくして冷たく息を引き取った。手術室からおくるみに包まれた響太朗が抱き出されたとき、冷遇された美渚の死を憐れむ者は誰一人おらず、そこにいたのは幼き剛太郎ただ一人だったのだ。それから十数年――剛太郎はM市の裏社会でのし上がり、響太朗もまた、兄の庇護の下で類まれな才能を開花させていった。対照的に、自業自得の末に堕ちていく昇吾の晩年は無様そのものだった。妻や愛人を次々と屋敷に囲ったものの、誰の腹にも跡継ぎが宿ることはなかった。ついには、新しく迎えたばかりの第四夫人が運転手と密通している現場に鉢合わせし、怒りのあまり心筋梗塞を起こして寝たきりになってしまう。残された夫人たちが金に目が眩み、財産を食い物にしようと躍起になり始めたとき――長らく姿を消していた兄弟が、忽然と姿を現した。ベッドの両脇に立つ息子二人の姿を、昇吾は己を救う唯一の希望かのように見つめた。だが、冷ややかに見下ろす二人の口から告げられたのは、残酷な真実だった。第四夫人を送り込み、高坂家を内部から崩壊させた黒幕は、目の前の息子たちだという事実。それからわずか一週間後。昇吾は失意のうちに息を引き取った。ほどなくして顧問弁護士が、生前彼が築き上げた巨大企業『徳昇グループ』の全実権を、響太朗が掌握したと発表。響太朗がトップに就任して真っ先に行ったのは、グループの中枢にまで入り込んでいた第二夫人と第三夫人を役員会から一掃することだった。さらに、多額の業務上横領で徹底的に追い詰め、二人を冷酷なまでに法廷に引きずり出した。判決はそれぞれ懲役十年
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