All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 821 - Chapter 830

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第821話

酔った人間というのは、極めて正直だ。今の詩織もまた、例外ではない。彼女は誤魔化すことなく、無防備なまでに素直に頷いた。「うん」「じゃあ……好きなだけしていいよ、ん?」詩織は、彼へ届かせようと懸命に顎を浮かせたが、どうしても距離が縮まらない。「……届かない」と、ひどくもどかしげに不満を漏らし、唇を尖らせた。柊也は彼女の華奢な肩をそっと抱きすくめると、自身もゆっくりと顔を伏せた。やがて、互いの鼻先が触れ合うほどの至近距離で動きを止める。熱を帯びた吐息が直接肌を撫でる距離。車内の空気が、途端に濃密で甘い色を帯びた。「これなら?」低い声で問う。ぎゅっと寄っていた詩織の眉間が、ようやくふわりと解けた。「うん、届く」少しだけ顎を浮かせ、そのまま彼の唇にそっと重なり合う。ブランクへの戸惑いか、それとも強すぎるアルコールのせいか。彼女の口づけは、ひどく浅くて無邪気なものだった。まるで甘いキャンディをペロリと味見するような、小鳥のようなキス。飢え切った柊也にとって、そんな物足りない接触で満たされるはずがない。だが、彼は決して自分から踏み込もうとはしなかった。下手に動いて、この奇跡のような美夢から彼女を現実に引き戻してしまうのが怖かったのだ。だから必死に冷静を装い、ただされるがままに詩織の柔らかな唇を受け止める。……それでも、わずかに荒れ始めた熱い呼吸と、理性のタガが外れそうになるのを堪えるため、シートを握り込む痛々しいまでに青筋の浮いた左手だけが、彼の限界が近いことを物語っていた。偶然か、それとも計算づくなのか。柊也の唇から微かに香るミントタブレットの清涼感が、今の詩織にはたまらなく心地よく、無意識のうちに深く溺れさせていく。だが、無理な体勢で首を伸ばし続けていたため、しばらくするとふいに疲れがどっと押し寄せてきた。「……もう、疲れちゃった」もどかしげに彼の唇から離れると、とろけるような甘やかな声音で、彼女はぽつりと不満を漏らした。「……ねえ、少しはあなたからしてくれないの?」――次の瞬間。詩織が瞬きをするよりも早く、張り詰めていた理性の糸が完全に千切れた。柊也の大きな手が彼女の柔らかな腰をぐっと引き寄せると同時に、唇が塞がれる。今度は彼の方から、貪るように深く、重い口づけを落とし
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第822話

視界が白く濁り、意識が波間にあてどなく浮き沈みする。「……上、掴まってろ」掠れた声で促されるまま、詩織はルーフサイドのアシストグリップに指を絡めてしがみついた。彼が与える甘美な衝撃に腰が浮き上がるたび、車の天井に髪の擦れる音が幾度も響く。やがて——本港の夜空を彩る最後の花火が盛大に弾けた瞬間。詩織の脳裏にも、痛みすら覚えるほどの絢爛な光が眩く弾け飛んだ。夜空の喧騒が終わりを告げ、辺りは再び深い静寂に包まれる。柊也は温かい指先で、汗に濡れて額に張り付いた詩織の前髪をそっと払いのけた。彼女はすでに深い眠りに落ちている。その頬には、生々しい情事の余韻である艶やかな朱色がまだ色濃く残っていた。すっぽりと腕の中に収めながら、柊也の瞳には、とめどない優しさと手放しがたい愛おしさが波打っていた。......翌朝。澄んだ山の空気に、鳥のさえずりと朝露の匂いが溶け込んでいた。心地よい自然のホワイトノイズに包まれ、詩織はいつまでも微睡みの底にたゆたっていた。ただ、ずっと同じ姿勢で寝ていたせいで身体に妙な強張りを覚え、無意識のうちに寝返りを打とうとする。ふと、背中の支えが消え、宙に浮いたような感覚に襲われた。だが次の瞬間には、すかさず大きな手が彼女の細い腰をしっかりと抱き留め、再び温かい胸のなかへ引き戻す。決してシートから転げ落ちないように。実は昨夜から一晩中、柊也はこの動作を何度も何度も繰り返していた。彼は一睡もしていなかった。目を閉じてしまえば、これがすべてひとときの非現実的な春の夜の夢で、目覚めたときに彼女が消えてしまうのではないかと怖かったのだ。だから、こうして夜が明けるまでただ彼女を抱きしめ、見守り続けた。彼女を乗せた両脚はとうの昔に痺れきり、次第に感覚すら失われつつあったが、それでも腕の力をわずかたりとも緩めようとはしなかった。そのとき、腕の中にいる詩織の長い睫毛が微かに震え、目を覚ます気配を見せた。柊也は、彼女の酔い方を誰よりも熟知している。どんなに深酒をして酔い潰れようと、昨夜起こった出来事の記憶が抜け落ちるような女ではない。——目が覚めて、彼女が気まずい思いをしないように。そう思い至った彼は、咄嗟にそっと目を閉じ、深い眠りの淵にいるふりをした。詩織が目を覚ましたのは、まさ
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第823話

「はあ!?あんた、一晩中ずっと車の中で賀来柊也とイチャついてたっていうの!?」電話の向こうで、ミキは完全に爆発していた。その甲高い叫び声は、電話越しでも詩織の鼓膜を突き破りそうなほどの大音量だ。詩織は思わずスマートフォンを耳から遠ざけ、ミキの絶叫が収まるのを待ってから、小さくぼやいた。「……あんた、子供の頃に声楽でも習っておけばよかったのに」「話逸らさないでよ!」ミキは食い下がる。「ちゃんと白状しなさい。一体どういうこと?どうしてまたあのクソ男と寝ちゃってんの!」「寝てないわよ……」「車を揺らしておいて、寝てないって言う気?」「……いや、揺らしてないってば」その言葉に、ミキは一瞬だけピタリと黙り込んだ。が、直後に先ほどを上回る大絶叫を上げた。「やっぱりね!私の目に狂いはなかったわ。あのクズ也って男、もう使い物にならないのよ!アハハハ、あいつEDなんだわ!」詩織はこめかみを揉みながら、あけすけすぎる親友にこの話をしたことを激しく後悔し始めた。昨夜は確かに酔ってはいたが、感覚まで失っていたわけではない。彼が使い物にならないどころか、どれほど凶暴な熱を秘めていたか、身をもって知っているのだから……だが、ミキの意識が都合よく「立たない元カレ」という方向へ逸れてくれたおかげで、これ以上昨夜の生々しいディテールを追及されずに済んだ。詩織はあえて反論せず、沈黙を貫くことにした。ひとしきり大爆笑したあと、ミキは急に宥めるような口調に変わる。「まあ、気に病むことないわよ。あんたは世の女が誰でも犯す過ちを犯しただけなんだから。わかる、わかるわよ。要するに、長らく男の肌から遠ざかってたから変に意識しちゃってんのよ。何人か別の男と寝てみれば、こんなのすぐに慣れるわ」「…………」まったく、こんな親友を持った自分はなんて幸せ者なのだろうか、と詩織は呆れ半分にため息をついた。「あんたのほうはどう?最近」今度は詩織がミキの近況を尋ねた。電話越しに、ミキのひどく退屈そうな声が返ってくる。「相変わらずよ。役所への届出は済ませたし、あとは財産分与と慰謝料の公正証書が仕上がるのを行儀よく待ってるだけ」「白彦のほうは?妙な真似はしてこない?」詩織が案じたのは、ミキの元夫の動向だった。「最近はアイツ、可愛いお抱えの愛人をヨイシ
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第824話

詩織は言葉通り単なる気まぐれだろうと軽く受け流し、スマートフォンをバッグにしまった。先ほどのミキとの強烈な電話を終えて息をついた絶妙なタイミングで、オフィスに響太朗が姿を現した。昨日のうちにランチを共にする約束をしていたのだ。詩織が立ち上がり、彼と連れ立ってフロアを後にすると、すれ違う社員たちの間にひそやかなざわめきが広がった。連日のようにメディアで二人の関係が報じられていることもあり、「社長たち、いよいよゴールイン間近なんじゃ……」という好奇心を孕んだ憶測が背中に突き刺さってくる。響太朗が予約してくれていたのは、海が見渡せるベイエリアのレストランだった。昼の港は、夜とはまるで違う顔を見せる。太陽の光を弾く水面は爽やかで、どこまでも開放的な活気に満ちている。一方の夜の港は、海面に揺れる光の粒が息を呑むほどに美しく、夢幻のように煌びやかだ。――詩織は、どちらかといえば夜の港のほうが好きだった。そこまで考えたところで、ふいに思考の糸が脱線した。夜。暗がり。そして、昨晩の車内で交わした、理性を焼き切るような熱烈な記憶の断片が唐突に脳裏にフラッシュバックする。途端にカッと内側から熱が込み上げ、頬が朱に染まっていくのが自分でも分かった。詩織はたまらず目の前のグラスを掴むと、キンと冷えた氷入りのレモンウォーターを半分以上も一気に煽り、必死に狂わされそうな頭を冷まそうとした。前菜がテーブルに並べられると、響太朗がようやく本題を切り出した。「小春の実の両親が、親権の主張を取り下げたよ。これでようやく決着がついた」詩織は少なからず驚いた。一審の時点ではあんなに頑なな態度だったのに、どうして急に放棄したのだろうか。不思議そうな顔をする詩織に、響太朗が裏の事情を説明し始める。「奴らも、本気で小春を取り戻したかったわけじゃない。最初から愛していたなら、そもそも見捨てたりしないだろう? あんな騒ぎを起こしたのは、小春の実の父親が青山に致命的な弱みを握られていたからなんだ。青山はそれを盾にして、彼らに親権要求の矢面に立たせた」青山は、響太朗が何があっても小春の親権を手放さないことを見越していた。目的を果たすためにはどうしても「結婚」して家庭環境を整える必要があると踏み、恩着せがましく自分の娘である静姫を後妻に押し込
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第825話

――なるほど。柊也が広王の周年パーティーに顔を出した本当の理由は、そういうことか。私とあんな意味深な空気を漂わせながら、裏ではしっかり別の女に色目を使っている。最低のクズ男だ。苛立ちを隠せないまま踵を返し、テーブルに戻った詩織の表情は明らかに硬かった。「どうかしたのかい?」響太朗が気遣うように声をかけてきたが、詩織は「仕事で少し」とだけ短く返した。響太朗はそれ以上詮索しなかった。ホテルに戻ると、密から『薬膳スープをデリバリーしておいたから、絶対飲んでくださいね』とメッセージが入っていた。それを見て、詩織は自分の生理が近づいていることにようやく気がついた。毎月、生理の1週間前になると、密はこうして体を温めるスープを手配してくれる。そのおかげで生理前の不調はいくらか和らぐものの、根本的な解決にはならない。元々、人より子宮内膜が薄い体質だった。数年前の流産を機に重い生理痛を抱えるようになり、それ以来、どんなに体質改善を試みても効果はなかったのだ。シャワーを浴びている最中、下腹部にずんと鈍い重みを感じた。だが、周期からいえば生理は来週のはずだ。今まで狂ったことなどないし、ただの気のせいだろう。詩織はそう結論づけた。翌日、広王の産業パークへの現地視察。到着すると、メインゲートではすでにレオが待っていた。しかし、詩織を驚かせたのは、そこに柊也の姿があったことだ。どうやら昨日の見合いでレオの令嬢とすっかり意気投合し、今日はさらに一歩関係を進めようという腹らしい。車を降りた詩織は、その場で数秒間だけ立ち尽くした。胸の奥を、ひやりと冷たい風が吹き抜けていく。ふいに波立った得体の知れない感情を強引に押さえ込み、詩織は歩み寄ってレオに挨拶をした。柊也にも、ただ淡々と会釈だけを返す。あくまで大人の対応で。そして、徹底的に他人行儀に。柊也はほとんど口を開かなかったが、その視線はずっと詩織にまとわりついて離れなかった。最初はひどく居心地が悪かった。火傷しそうなほど熱を帯びた眼差しは、嫌でも意識を削ってくる。しかし、途中からは腹を括り、柊也の存在など空気と同然だと完全に無視を決め込み、視察の仕事のみに没頭した。一方、そんな二人の間のただならぬ空気を察知し、密かに内心で頭を抱
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第826話

詩織はつっけんどんに言い放った。シラフの彼女が自分に冷たいのは百も承知だが、それでも柊也は小さく息を吐いた。「……酔っていた時の君のほうが、ずっと可愛げがあったな」あの夜の彼女は、自分を突き飛ばしたり、冷たい視線を向けたりしなかった。胸を抉るようなひどい言葉をぶつけることもなく、それどころか、甘くキスをねだってきたりもしたのに。詩織の胸中はただでさえざわついていた。どこから湧いてきたのかも分からない正体不明の熱が胸の奥で燻り、行き場をなくしている。そこへあの夜の記憶をピンポイントで突かれ、彼女は尻尾を踏まれた猫のように過剰に反応した。「……次その話を持ち出したら、本気で暗殺者を雇うわよ」親の仇でも見るかのように、柊也を鋭く睨みつける。しかし、柊也は面白そうに眉を片方持ち上げただけだった。「江崎社長ともあろう人が、タダで散々いい思いだけしておいて、今さら知らぬ存ぜぬを決め込むつもりか?」「……っ!」カッと顔を真っ赤に染め上げ、詩織は即座に噛みついた。「誰がいい思いをしたって!?言いがかりも大概にして!」「ああ、なるほど。最後まで『食べきれなかった』から、欲求不満でそんなに突っかかってくるわけか」「欲求不満なのはそっちでしょう!」「そうだが?」あっさりと肯定され、詩織は言葉を失った。柊也は悪びれる様子もなく、じっと彼女の目を見据え、ぐっと距離を詰める。「俺は欲求不満だ。……なぁ、いつになったら俺を満たしてくれるんだ?」無理もない。この五年間、彼女以外の女を抱く気になどなれず、文字通りずっと渇ききっていたのだ。筋金入りの欲求不満に決まっている。詩織の息が詰まった。恥知らずな面の皮の厚さで、彼に太刀打ちできるはずがない。最終的に彼女ができる抵抗は、憤懣やるかたない顔で「……頭おかしいんじゃないの」と吐き捨てることだけだった。怒りのままに足早に化粧室へと逃げ込み個室に入る。頬にこびりついた不自然な熱が引くまでしばらくそこに留まり、ようやく立ち上がろうとした瞬間だった。――ズンッ!下腹部に、えぐるような激しい痛みが走った。覚えのあるその鈍痛に、生理が前倒しでやってきたのだと悟る。今日やたらと苛立って感情がコントロールできなかったのも、ホルモンバランスの乱れのせいだったというわけだ。日頃か
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第827話

病院の診察室のベッドでも、詩織は痛みのあまりエビのように丸まっていた。しかし、問診にあたる医師は至って冷静なトーンで淡々と質問を投げかけてくる。「普段からこれほど痛むんですか?」「いえ……普段は、ここまで酷くは……しかも今回は、予定より早くて……」詩織は荒い息を吐きながら、必死に言葉を絞り出した。医師は手元のバインダーを見たまま言葉を継ぐ。「性交渉はありますか?営みは円満ですか?」「……っ」直球の質問に、詩織は絶句した。沈黙した彼女に対し、医師は顔を上げて眼鏡のブリッジを押し上げる。「恥ずかしがる必要はありません。診断を下す上で非常に重要な項目なんですよ」そう念を押され、詩織は仕方なくモゴモゴと「……ありません」と答えた。途端に、傍らに立っていた柊也の気配がピタリと止まる。彼は意地悪なほど意味深な眼差しで、ベッドの上の詩織をねっとりと見下ろした。そんな二人の空気などお構いなしに、医師はカルテにペンを走らせながら、真面目な顔でアドバイスを続けた。「適度な性交渉は骨盤周辺の血流を促進させ、筋肉の緊張をほぐします。それによって、女性の重い生理痛を和らげる効果が期待できるケースも少なくないんですよ」そう語り終えると、医師は横目でチラリと柊也をねめつけた。その視線は――「この立派な図体で役立たずか」という哀れみか、それとも「女を抱く甲斐性もないのか」という呆れか。堂々と軽蔑の色が混じっていた。柊也は一つ咳払いをすると、医師に向かって神妙な面持ちで教えを乞うた。「その……『営み』以外で、この痛みを根本的に治す方法はありますか?」そのひたすらに真摯な態度が通じたのか、医師の彼を見る目は先ほどより幾分か和らいだ。「原発性の月経痛は、基本的に完治させるのは難しいものです。鎮痛剤で症状をコントロールしながら、生活習慣の改善、適度な運動や温熱療法、あるいは心理的なストレスケアをしていくしかありません。もちろん、年齢を重ねたり、出産を経験したりすることで自然に軽減したり、嘘のように痛みが消えたりするケースもありますがね」柊也は真剣な面持ちでその説明に聞き入り、さらにいくつかの具体的な質問を重ねては、医師の言葉を一つ残らず頭に刻み込んでいるようだった。そのやり取りの最中、点滴の成分がようやく効き始めたのか、詩織は徐々に体のこわばりが
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第828話

詩織は苛立たしげに眉根を寄せた。「柊也、私、もう十分に分かりやすく伝えたと思うんだけど」冷え切った、相手を何万キロも彼方へ突き放すような言葉。これまで何度となく彼に浴びせてきた。それは彼に言い聞かせているようでいて、自分自身に強く言い含めているのでもあった。口にするたび、あの暗雲に覆われていた日々を、どれほど血を吐くような思いで歩いてきたかをまざまざと思い出させられる。泥の底から死に物狂いで這い上がり、やっとの思いで自分自身を救い出したのだ。もう二度と、誰の引力にも振り回されたくなかった。もしもう一度どん底に突き落とされたら、今度こそ自力で這い上がる力など残っていないと分かっていたから。だから、自分の心を揺さぶる可能性のあるものは、本能的にすべて拒絶する。愛も、温もりも、もういらない。一人でも遠くまで歩いていける。美味しいものを食べ、美しい景色を見ることができる。一度でも決定的に「見捨てられた」経験のある人間の心には、決して塞ぐことのできない醜い傷跡が残る。その傷は事あるごとに脈打ち、残酷な真理を囁きかけてくるのだ。――『愛は必ず消える。一番愛してくれた人間でさえ、ある日突然、無慈悲にあなたを捨て去るのだ』と。ましてや彼は、すでに一度、この手を放しているのだから。まるで運命の神様が彼女を試練にかけるように、一番執着していたものを何度も目の前にぶら下げ、期待させては裏切り、心が完全に死んで何も望まなくなるまで徹底的に研磨し続けているかのようだった。柊也は伏し目がちに薄く自嘲的な笑みを浮かべた。「分かってるよ。だが、それと俺が君をホテルへ送ることとは関係ないだろう」「送ってもらう必要がないの」詩織は氷のように冷ややかな目を彼に向けた。「もう『必要ない』って言ってるの。理解できる?」その瞬間、柊也は言葉を失った。心臓の奥底で淡い痛みが弾け、それが猛毒のように四肢の隅々まで広がっていく。あまりの痛みに指の力が抜け、詩織の手首を繋ぎ止めておくことすらできなくなった。詩織はその隙を逃さず、冷たく腕を引き抜いた。反射的に彼女を追って手が伸びるが、あっさりと避けられてしまう。虚空を掻いた彼の手は、ただ空しく宙を彷徨うだけだった。分かっている。これはすべて自分の蒔いた種だ。先に彼女の心を踏みに
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第829話

詩織は無意識のうちに床から天井まである窓へと引き寄せられ、舞い散る雪に触れようと手を伸ばした。指先が冷たいガラスにぶつかって、ようやく自分が室内にいることに気がつく。本港市で雪が降るなど、前代未聞の奇跡だ。この歴史的瞬間を見逃すまいと、記念撮影はそっちのけで、誰もが外へ出ようと色めき立った。レオまでもが、「江崎社長、一緒に下へ行きませんか」と詩織を誘い出す始末だ。気の利く秘書がすかさずおだてる。「雪は豊穣の吉兆と言いますからね。まさに天が祝福してくれているんです。広王と中博の提携は、間違いなく大成功を収めますよ!」その言葉にレオはすっかり気をよくして豪快に笑った。詩織の胸の中にも、名状しがたいふわりとした軽やかさが広がっていた。しかし、一行がビルから外へ出ても、肌を刺すような寒さは微塵も感じなかった。本港市の温暖な気候は嘘をつかない。道路に雪が積もる気配は一切なく、手のひらに落ちた白い結晶は、ものの二秒でただの水滴に変わってしまった。この雪は、どこかおかしい。「これ、人工雪じゃないか?」誰かの呟きは、すぐに事実として証明された。詩織の視線の先にも、雪を噴き上げる降雪機が設置されているのがはっきりと見えた。――なんだ。人工雪か。リサはあからさまに肩を落とした。「だよね。本港に雪なんか降るわけないと思った」だが、すぐにうっとりとした夢見るような顔になる。「でも、すっごくロマンチック!どこの大企業のトップが愛の告白をしてるのかしら。こんな素敵な演出で迫られたら、私ならその場で結婚をOKしちゃう!」レオが呆れて娘の頭を軽く小突く。「こんな安っぽい手品にコロッと騙されるとは情けない。どうせ女たらしのくだらん企みに決まってるだろうが」「もう、パパったら!そうやってすぐ乙女の夢をぶち壊すんだから。一生お嫁に行けなくなったらどうするの!」リサは頭を押さえながら、無粋な父親に文句を垂れた。レオは怒るに怒れず、ただ困ったように笑うしかない。降雪機は休むことなく白い欠片を空に放ち続けている。道ゆく人々は皆すっかり足を止め、空を見上げたり、スマートフォンで写真を撮ったりして歓声を上げていた。その時、詩織のスマートフォンがブルッと短く震えた。メッセージの受信通知。画面に表示されたのは、アドレス
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第830話

出ない!彼女は画面をスワイプし、迷わず通話を切断した。せっかくの絶好調な気分を、あんなクソ男のせいで台無しにされたくはなかった。着信音はそれきり鳴らなかったが、代わりに白彦から短いメッセージが届いた。【合意内容に一部修正がある。会社まで来い】ミキはギリッと奥歯を噛み締めた。腹の底から怒りが湧き上がるが、行かないわけにはいかない。この土壇場でケチをつけられ、手続きを止められるのだけは絶対に嫌だった。あと少し。本当にあと一息の辛抱だ。道端の狂犬にぶつかったと思って我慢しよう。ミキは道中、ひたすら自分にそう言い聞かせていた。北里市の超一等地にそびえ立つ由木グループの本社ビルは、街のランドマークだ。その威容は圧倒的で、週末ともなれば観光客がわざわざ写真を撮りに来るほど有名なSNS映えスポットでもある。だが、ミキがここに来るのは今日が初めてだった。白彦と結婚して五年。ただの一度も、彼の会社に足を踏み入れたことはないのだ。エントランスを抜け、受付で用件を伝えた。もちろん、「社長の元妻です」などと名乗るつもりはない。そもそも白彦はミキの存在を社内で完全に隠し通している。受付の女性はマニュアル通りの冷淡な声で尋ねてきた。「お約束はございますか?」「ありません」とミキは答える。呼び出してきたのは向こうなのだから。受付の女性はミキの服装を値踏みするように一瞥すると、顔をツンと背けて言い放った。「でしたらお引き取りを。由木社長にお会いいただくには、事前の完全予約が必要となっております」彼の方から指定して呼び出したのだとミキが口を開きかけた、その時だった。受付の女性の顔から先ほどの傲慢さが一瞬で消え去り、別人のような満面の笑みが浮かんだ。あろうことかカウンターからわざわざ小走りで出てきて、揉み手でもせんばかりの態度で甘い声を出す。「璃々子様!今日も社長にスープのお差し入れですかぁ?社長は本当に幸せ者ですねぇ」ミキは振り向くまでもなく、背後に誰が来たのかを悟った。璃々子は甘ったるい声でクスクスと笑って答えた。「白彦兄さん、最近仕事が忙しすぎてお食事もろくに召し上がらないの。倒れちゃったら心配だから、私が毎日こうやって見張りに来てるってわけ」「まぁ、なんてご立派なんでしょう! 社長が璃々
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