七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した のすべてのチャプター: チャプター 791 - チャプター 800

863 チャプター

第791話

もちろん、そんな本音は喉の奥に飲み込むしかない。太一はぶつぶつと文句を並べた。「いつまでも逃げ回ってたって、一向に埒が明かねえだろうが!同じ街にいる以上、どうしても今日みたいに鉢合わせるんだよ。もしさっきの物音がなかったら、お前、今頃捕まってたんだぞ?――これからどうするつもりなんだよ」答えを拒むような、長い沈黙が流れた。やがて、柊也の声が低く漏れた。「……さあな。自分でも、どうしたいのか分からん」詩織が席に戻ると、ミキが不思議そうに尋ねてきた。「遅かったね、どうしたの?」「ちょっと仕事でトラブルがあって。もう大丈夫、食べよう」詩織は平静を装って箸を動かした。一方、白彦がようやくミキを捕まえたのは、夜の九時を回った頃だった。ミキはホテルに戻り、シャワーを浴びたばかりだった。濡れた髪を乾かすのも忘れ、彼女の意識は先ほど受け取った澪士からのプレゼントに釘付けになっていた。包装の雰囲気からして、中身はジュエリーの類だろう。洗練された、いかにも女性が好みそうな上品なセンス。だが、ミキの心はなぜか晴れなかった。――きっと、今まで大勢の女に贈ってきたから、手慣れているだけ。ミキはふいっと顔を背け、タオルで髪を拭き始めた。けれど、半分ほど乾かしたところで、どうしても抗えずに手が止まる。結局、彼女はその包みを手に取り、リボンを解いた。予想通り、中に入っていたのは宝飾品だった。しかし、それは単なる高価なジュエリーではなかった。重厚な輝きを放つ、最高級のラベンダー翡翠のセット。それを見た瞬間、ミキの視界が急激に熱く潤み、鼻の奥がツンと痛んだ。震える指先で、ベルベットのケースに収められた翡翠にそっと触れる。胸の奥が、激しく揺さぶられた。このジュエリーは、かつて父が自らデザインに加わり、母の三十歳の誕生日に贈ったものだった。ミキの家族にとって、何物にも代えがたい大切な思い出の品。両親が相次いで他界した後、母が遺した宝石や資産はすべて叔父の手によって持ち去られ、跡形もなく売り払われてしまった。ミキの手元には、形見と呼べるものは何一つ残されなかった。ここ数年、ようやく経済的な余裕ができたミキは、両親ゆかりの品を探し回っていた。だが、あまりに長い年月が経ちすぎており、多くの品は行方知れずのままだった。
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第792話

ミキの胸に、かつてないほどの嫌悪感が込み上げた。「だったらさっさと離婚協議書にサインして、本気かどうか確かめればいいじゃない!」彼女は冷たく言い放った。「いつまでも自分に都合のいい妄想の世界にいないでよ!」そう吐き捨てると、白彦の鼻先でドアを思い切り力任せに閉めた。バタン、と凄まじい音が響く。白彦は咄嗟に半歩下がらなければ、危うくドアに顔をぶつけるところだった。それでも引き下がれず、ミキと徹底的に決着をつけようと、再びドアを叩こうとしたその時――内側からミキの怒鳴り声が飛んできた。「これ以上付きまとうなら、警察を呼ぶわよ!」白彦は奥歯を噛み締め、振り上げた手を下ろした。今のミキは完全に頭に血が上っていて、どんなひどい言葉でも平気でぶつけてくる。これ以上やりあっても関係がさらにこじれるだけだ。今は互いに頭を冷やしたほうがいい。最後に白彦は苛立ちをぐっと押し殺し、ドア越しに一言だけ落とした。「……誕生日、おめでとう」ドアの向こうからは何の反応もない。聞こえていたのかさえ定かではなかった。ホテルを出て駐車場に戻った白彦は、車のシートに沈み込み、長いことそのまま動けずにいた。得体の知れない、泥のような重苦しい感情が胸の奥でどろどろと渦巻いている。璃々子からの着信が何度画面を光らせても、電話に出る気には到底なれなかった。一方の璃々子は、電話を無視されて派手に癇癪を起こしていた。白彦が彼女の着信を無視するなんて、これまで一度たりともなかったのだ。とにかくミキと二人きりにしておくわけにはいかない。焦った璃々子は、マネージャーの斎藤に白彦へ電話をかけさせた。斎藤からの着信には、白彦はあっさりと出た。斎藤は璃々子に命じられた通り、「璃々子さんの体調が優れず、病院にいるんです」と告げた。急いで病院へ駆けつけた白彦の目に飛び込んできたのは、片目に痛々しい包帯を巻いた璃々子の姿だった。それを見た途端、白彦の胸に焦燥が走る。彼は顔をこわばらせ、心配そうに駆け寄った。「どうしたんだ? また目の調子が悪くなったのか?」璃々子はあからさまに涙ぐんだ顔をしているというのに、健気に首を横に振った。「私は大丈夫。だから心配しないで」傍らに立つ斎藤が、すかさず口を挟む。「昼間、由木さんが慌ててお出かけになった後、何度お電話
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第793話

「あんたのやってることは、本当にむごいよ!あの子の心をズタズタに引き裂いておきながら、それでも手放そうとしないなんて。愛していないなら、どうしてあの子を解放してやらないんだ!」怒号が響く中、病室のベッドの上で、璃々子は息を潜めて一言も発することができなかった。サワが嵐のように去った後、白彦は三十分以上も外でタバコを吸い続け、全身にひどい紫煙の匂いを染み込ませてからようやく病室に戻ってきた。璃々子は何事もなかったかのように、純真な顔を作って尋ねた。「朝ごはん、食べる?斎藤さんに買ってきてもらうけど」「俺はいらない。この後用事があるから、空港への見送りも行けない」白彦の声はひどく掠れており、その顔には隠しきれない深い疲労が刻まれていた。璃々子は喉の奥を詰まらせた。「白彦兄さん……一緒に帰ってくれないの?」「一人で帰れ」冷たい宣告に、璃々子は唇を噛み締めた。これ以上すがるのは逆効果だと悟り、黙って小さく頷く。白彦はそんな彼女へと顔を向け、その目をじっと見つめた。数秒間の沈黙の後、彼はぽつりと、静かな声で言った。「璃々子。お前のその目だけは……大事にしろ」昨晩、白彦を追い払った後、ミキは久しぶりにぐっすりと眠ることができた。夢に現れたのは、ずっと会いたかった母の姿だった。若かりし頃の母は、上品で息を呑むほど美しい。笑うと両頬に可愛らしいえくぼが浮かぶ。残念ながら、ミキはそのえくぼを受け継ぐことはできなかったけれど。夢の中のミキは、まだほんの小さな子供だった。父が特別に誂えてくれたお姫様のような部屋で、ベッドに寝転びながら、母が読んでくれるおとぎ話に耳を傾けていた。幸せな夢の余韻に包まれて、ミキは昼過ぎまでベッドから抜け出せずにいた。サワからの電話がなければ、もう少しあの温かい世界に浸っていたかったくらいだ。「……おばあちゃん?」電話に出たミキの甘えたような声を聞いて、サワの心はすっかりとろけてしまった。「ミキちゃん、ドアを開けておくれ。あんたの大好きなスイーツを買ってきたよ」「えっ、おばあちゃん、今どこにいるの?」「あんたの部屋の目の前だよ」ミキは慌ててベッドから跳ね起き、玄関へ走った。ドアを開けた瞬間、サワが力いっぱいミキを抱きしめてきた。「どうして江ノ本へ!?」
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第794話

ミキの視線はそこに留まることなく、さっと逸らされ、そのままサワを支えて車を降りた。サワは立ち止まり、白彦の方を振り返って返答を待った。白彦はサワの視線を露骨に避けながら言った。「おばあちゃん、先に行っててくれ。この電話に出たらすぐ行くから」サワは棘を含んだ声で念を押した。「今回のお礼参りは、とても大切なんだよ。絶対に、あんたもいなくちゃならないんだからね」「ああ、分かってる」サワはミキの手を引いて、そのまま寺の境内へと歩き出した。ミキの心は冷え切っていた。こんな時にまで優先して出なければならない電話。彼の中で璃々子という存在がどれほど重いのか、まざまざと見せつけられた気分だった。それも、名ばかりとはいえまだ妻である自分の目の前で、隠そうともせずに。平日のためか、寺を訪れる参拝客の影はまばらだった。サワはこの寺の大口の檀家であり、五年前にはここに滞在したこともあるため、専用の案内人がすぐに出迎えてくれた。二人は本堂で線香をあげた後、白彦を待つために茶室へと通された。茶室は竹林の広がる斜面の上に建っており、窓から見下ろすと、九十九段の長い石段が見渡せた。その石段には、一歩登るごとに深々と土下座をして祈りを捧げる熱心な信者の姿があった。ミキは、その光景をぼんやりと見つめていた。――かつて、私にもあんな風に祈った日があった。私もあの信者たちと同じように、大切な人のために、一歩ごとに頭を地面に擦りつけて祈願したのだ。ただ、あの時の私は九十九段を二往復――合計百九十八段の苦行を耐え抜き、二つのお守りを授かった。一つは詩織に。そしてもう一つは、白彦のために。あの時は急に思い立ったせいで、薄手のズボン一枚という無防備な格好で、ゴツゴツとした石段に何度も膝をつき、二往復も跪いたのだった。ようやく白彦にお守りを手渡した時、ミキの両脚はまともに立つことすらできないほど震えていた。だが、それを受け取った白彦は冷たく言い放ったのだ。「こんな無意味なことに時間と体力を浪費するな。みっともなくボロボロになって」あの頃のミキは、彼が生まれつき冷淡な性格だから、こういう信仰や感情に寄り添えないだけなのだと自分に言い聞かせていた。一杯のお茶を飲み終えても、白彦は一向に姿を見せなかった。サワの顔色が目に見えて
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第795話

サワの言葉は、紛れもない本心だった。ミキは鼻の奥がツンとして、思わず目頭を熱くした。こくりと頷き、涙声で「はい」と答える。「さあ、帰ろうか。今日は風が強すぎる。仏様もお休みみたいだね」サワの丸まった背中が、どこか物悲しげに見えた。ミキは尋ねた。「お礼参りじゃなかったんですか?」「もういいんだよ。仏様は私の願いを叶えてくれなかったんだから、お礼なんてする必要はないさ」ミキは仕方なくサワの腕を支え、参道を戻り始めた。お守りの授与所の前を通りかかったとき、ふと見覚えのある背中が視界に入った。思わず足が止まる。サワがそれに気づいて振り返った。「どうかしたのかい?」「あ、いえ……」ミキはもう一度その背中を盗み見ると、手洗いに寄りたいと適当な口実を作り、サワに少しだけ待ってもらうことにした。サワを休憩所のベンチに座らせると、ミキは足早に観音堂へと引き返した。先ほどのお守りの授与所があるお堂だ。物陰からこっそりと相手の顔を確認し、間違いがないと分かると、すかさずスマホで写真を撮り、詩織にメッセージを送った。【詩織、今日おばあちゃんの付き添いで鳳凰寺に来てるんだけど、一匹の亀を見つけたの。見てみる?】その頃、詩織はオフィスで仕事の処理に追われていた。スマホの画面に表示されたメッセージを見て、ゆっくりと首を傾げる。【188の亀なんだけど、見たことある?】詩織は返信した。【188キロの亀? だいぶ大きいわね】【……】【身長188センチの亀って言ってんの】そこでようやく、詩織はミキの意図を察した。【柊也に会ったの?】【ビンゴ!あの人、今日鳳凰寺に来てるのよ。珍しくない?いい大人の男が、こういうの信じるんだね】ミキの文面には、野次馬根性がありありと滲んでいた。詩織は、スマホの画面を見つめたまま一瞬思考を止めた。柊也は神仏の類なんて信じない。そう言いたかった。少なくとも、昔の彼はそうだった。けれど、不意に脳裏にある記憶が蘇る。あの日——雨が降る鳳凰寺で偶然彼を見かけたときのことだ。冷たい雨に打たれながら、彼が石段を一段上るごとに深く額ずき、ひたすらに祈りを捧げていたあの姿が。その記憶が邪魔をして、ミキの言葉をそのまま否定することはできなかった。結局、詩織は短くこう返すしかなかった。【さあ、どう
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第796話

「柊也、ちょっと車で待っててくれ!俺も線香あげてくる!」自分だって、事業を大成功させてやる!太一の行動は素早かった。わずか十分ほどで祈願を済ませ、足早に車に戻ってくる。これ以上柊也を待たせて機嫌を損ねるのが怖かったからだ。運転席に乗り込むと、太一は助手席の柊也に尋ねた。「このまま直接、海雲おじさんの病院に行くか?」「ああ」柊也が短く応じると、そのままシートに深く寄りかかり、目を閉じて黙り込んでしまった。太一はいつものことだと特に気に留めず、エンジンをかけて車を病院へと走らせた。その頃、ミキもまた病院に向かっていた。山を下りた後、サワがずっと胸が苦しいと訴えていたのだ。元々持病があるため、心配したミキが安心のためにと、病院での検査を強く勧めた結果だった。診察の結果、血圧の上昇による胸のつかえだと判明した。医師からは、家族が注意深く様子を観察し、何かあればすぐに受診するようにと告げられる。ミキが四六時中サワのそばにいられるわけではない以上、この注意事項はどうしても白彦に伝えておく必要があった。そのため、彼女は白彦の番号を着信拒否リストから解除し、電話をかけた。意外にも通話はすぐに繋がった。だが、ミキが口を開くより先に、スピーカー越しに聞こえてきたのは璃々子の声だった。「ミキさん、白彦兄さんに何か用?彼なら今、私のレントゲン写真を取りに行ってくれてるけど」ミキは一瞬押し黙り、淡々と尋ねた。「……今、どこの病院にいるの?」「江ノ本病院だけど、どうかした?」「ちょうどいいわ。私も今、江ノ本病院にいるの。お見舞いに行ってあげる」ミキの声は、感情の波一つないほどに凪いでいた。電話の向こうで璃々子が言葉に詰まるのを確認し、ミキは一方的に通話を切った。サワの付き人に一言声をかけると、そのまま真っ直ぐ整形外科の病棟へと足を向ける。病室に着くと、白彦はまだ戻っておらず、中には璃々子が一人でベッドに座っていた。白彦と二人きりになるため、わざとマネージャーの斎藤を遠ざけたのだろう。やはり後ろめたさがあるのか、ミキの顔を見た途端、璃々子の態度はあからさまに萎縮した。ミキは無言のまま、ベッドの足元に掛けられたカルテを手に取った。『足首の捻挫』それも、ごく軽度のものだ。たかがこれしきの怪
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第797話

「尊重ねえ」ミキは鼻で笑った。だがその顔に張り付いていた嘲りの笑みは、璃々子の首元に揺れる『お守り』を見た瞬間、不自然に凍りついた。ミキは勢いよく立ち上がると、璃々子の首からそのお守りをむしり取り、裏返して確認した。――間違いない。自分がかつて、血の滲むような思いで手に入れたあの平安符だ。彼女は氷のように冷たい視線で璃々子を射抜いた。「これ、どこで手に入れたの?」突然奪い取られ、璃々子は激昂した。起き上がって取り返そうと手を伸ばす。「返しなさいよ!それは白彦兄さんが私にくれたの!返してよ!」しかし、長身のミキが腕を高く上げると、璃々子の指先は掠りもしなかった。ミキは見下ろすように冷酷な表情を浮かべる。心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じた。うまく言葉にできない感覚。ただ、ひたすらに寒かった。凍えるように、冷たい。空気に触れている手の甲さえ、みるみるうちに氷のように冷えきっていく。「早く返して……!」璃々子は足の痛みなどすっかり忘れ、ベッドから身を乗り出して必死に飛びかかってきた。ミキはスッと二歩後ろへ下がる。「それは白彦兄さんが私にくれたものなのよ!どうして私のものを奪うわけ!?」璃々子はさらに詰め寄り、金切り声を上げた。「昔からそう!あんたはパパとママの愛情まで私から奪ったくせに、今度はこれまで奪う気!?返しなさいよ!」狂乱したように喚き散らす璃々子を前に、ミキはただただ滑稽に感じていた。私が、叔父夫婦の愛情を奪った?あの家で虐待されなかっただけでも運が良かった方だというのに、何を馬鹿なことを。だが、ミキがそう反論しようと口を開きかけた矢先――背後から、ひどく沈んだ冷たい声が響いた。「二人とも、何をしているんだ」「きゃあっ!」突然、璃々子が短い悲鳴を上げ、床に激しく倒れ込んだ。その一部始終を、ミキはただ冷ややかな目で見下ろしていた。正直なところ、感心すら覚える。この女は本当に身の程知らずで、どこまでも捨て身だ。背後に何があるかも確認せず、躊躇いなく自ら後ろへ倒れ込んだのだから。ゴツン、と後頭部がベッドの縁に打ち付けられる鈍い音が響く。直後、璃々子のわざとらしい悲痛な叫び声が病室に木霊した。次の瞬間、ミキの体は強い力で乱暴に突き飛ばされた。白彦だっ
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第798話

反論の余地を塞がれた白彦は言葉に詰まり、それでも腹の虫が治まらないのか、ギリッと奥歯を噛み締めてから警告めいた口調で言い放った。「お前は、俺たちの問題に度々璃々子を巻き込もうとするが、いい加減にしろ。彼女と俺たちの夫婦関係は別問題だ。お前のくだらない嫉妬のせいで、彼女のキャリアに傷がついたらどうする。同じ芸能界にいるお前なら、そういう悪評がどれだけ致命的か分かっているはずだ!」――ええ、その通り。彼女は芸能人だ。だが、私だって同じ世界で生きているはずなのだ。それなのに白彦は、妻である自分がどんな悪影響を被るかなど、これまで一度たりとも心配してくれたことはない。いつでも璃々子の側にべったりと張り付き、彼女を守ることしか頭にない男なのだ。ミキは伏し目がちに、床の上で無惨に踏み躙られたあのお守りをじっと見つめ、音もなく笑みをこぼした。その隙に、いくらか痛みが引いたのか、璃々子がベッドからよろよろと降りて、床のお守りに手を伸ばした。白彦はそこで初めて、その薄汚れた布切れの存在に気づいたらしい。彼は不快そうに眉をひそめた。「なんだそれは。汚れてるから捨ててしまえ」だが璃々子はそれを宝物のように両手で包み込むと、表面の汚れを愛おしそうに拭った。「五年前、私が手術を受けた時にあなたがくれたものじゃない。ずっと大切にしてきたんだから、絶対に捨てないわ」――そうだったのか。ミキは再び、激しい衝撃に打ちのめされた。彼は五年前、すでにこの平安符を璃々子に渡していたのだ。あまりにも残酷な真実を前に、ミキはしばらく呆然と立ち尽くした。そして唐突に、乾いた笑いが込み上げてくる。心臓が、雑巾のように引き絞られるように痛んだ。彼女は氷のように冷えきった両手をコートのポケットに突っ込み、ひたすらに強く握りしめた。爪が手のひらに深く食い込む。塞がるはずのない胸の奥の深い傷口が、白彦の手によって今再び生々しく引き裂かれたのだ。血の気が引くのを感じながら、ミキは再びお守りを奪い返そうと手を伸ばした。だが、またしても白彦に片手で乱暴に退けられる。血走った目で彼を睨みつけ、ミキは声を震わせた。「それは、私が命懸けで手に入れたお守りよ! 元の持ち主の私に返しなさい!」それを聞いた璃々子は、慌ててお守りを胸に抱き込みながら、縋
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第799話

「それからね。お守りっていうのは念がこもるものなの。他人のために祈られたものを横取りなんかしたら、いつか必ず天罰が下るわよ!」「お前、いい加減に……ッ!」白彦がミキを止めようと手を伸ばした。だが、ミキはそのまま裏拳を返すような勢いで、今度は白彦の頬を思い切り張り飛ばした。パーンッ!!さっきよりも遥かに重く、鋭い音が弾ける。ミキの掌がジンジンと痺れるほどのフルスイングだった。璃々子が短い悲鳴を上げて言葉を失う中、ミキは冷酷な目で見下ろしながら白彦に言い放った。「よくその節穴の目で見ておきなさい。本気の『ヒステリー』っていうのは、こういうことを言うのよ!」白彦は頬にくっきりと浮かんだ赤い手形をさすりながら、氷の刃のような声で言った。「俺が今までお前を甘やかしすぎたせいで、随分と思い上がりやがって」「ええ、思い上がったついでに『手』も上がっちゃったわ」ミキは一歩も引かずに冷笑を返す。白彦の顔からサァッと血の気が引き、怒りで青すじが浮かんだ。しかし、彼が怒りを爆発させるより早く、病室の入り口から威厳に満ちた声が響いた。「一体なんの騒ぎだい?」サワだった。彼女をひどく恐れている璃々子は、ビクッと肩を震わせると、白彦の背中に隠れるように慌てて身を潜めた。白彦は込み上げる怒りをどうにか喉の奥に押し込むと、「……おばあちゃん」と呼びかけた。サワの鋭い視線がぐるりと病室内を舐めるように見回す。まず白彦の頬に浮かぶ鮮やかな手形に気づき、次に璃々子の頬にも同じものが刻まれているのを見咎めた。最後にミキへ視線を移し、彼女の頬には何もないことを確認すると、サワはホッとあからさまな安堵の息を吐いた。――よし、ミキちゃんが無傷ならそれでいい。次の瞬間、サワは白彦に向かって夜叉のような険しい顔を作り、冷たく言い放った。「白彦、ちょっと表へ出なさい」だが、ミキを振り返った途端、その声色は驚くほど柔らかく慈愛に満ちたものへと一変した。「ミキちゃん、おばあちゃんの手を引いておくれ」白彦は不満げな仏頂面で二人の後をついて病室を出た。サワは廊下を真っ直ぐ進み、人の少ない静かな場所まで来ると備え付けの椅子に腰を下ろした。そして隣の空席をポンポンと叩く。「ミキちゃんも座りなさい」ミキが腰を下ろすと、白彦も当然のようにその隣に
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第800話

その一部始終を、白彦は穴の開くほど見つめていた。ミキが微塵の躊躇いもなくペンを走らせるのを見た瞬間、彼の心臓が急激に締め付けられる。手にしている紙切れは羽のように軽いはずなのに、まるで巨大な岩が胸の上にのしかかっているかのようにひどく息苦しい。――こいつは、俺のことが好きだったはずじゃなかったのか?どうしてあんなに、あっさりとサインなんてできるんだ?いや、待て。これは俺の気を引くための、新たな駆け引きなのか?思考が鈍く絡み合い、どう判断していいのか分からなくなった白彦は、焦燥感に駆られてギリッと顎を強張らせた。「さっさとサインしなさいよ。何をぼさっと突っ立ってるんだい」痺れを切らしたサワが、苛立たしげに声を荒げる。白彦はゴクリと喉仏を揺らし、どうにか掠れた声でおざなりな口実を絞り出した。「条項の内容を、一度弁護士に確認させないと……」だが、その言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、サワは容赦なく白彦のすねを蹴り飛ばした。「お前は、この私すら信用できないって言うのかい!上等だよ。なら私も、どうすればバカな孫と縁を切れるか弁護士に相談させてもらうからね!」白彦は頭を抱えた。「おばあちゃん……俺はただ、普通の正規の手続きを踏みたいだけだ」「私のやり方が正規の手続きさ! つべこべ言わずに早くサインしな!」サワは頑として一歩も譲らず、さらに声を張り上げた。「ミキちゃんは今が女として一番いい時期なんだ。お前みたいなろくでなしに関わって、無駄にしていい青春なんて一秒もないんだよ!早くあんたらが離婚してくれないと、私がミキちゃんに新しいお見合いの席を用意してやれないじゃないか。万が一あんたのせいで運命の人とすれ違っちゃったら、どう責任取るつもりだい!」白彦の顔色はますます陰鬱さを増した。祖母の性格は嫌というほど分かっている。ここで明確な結果を出さない限り、一歩も引かずに徹底抗戦を続ける気だろう。自分はいくらでも付き合えるが、八十近い祖母の体が持つとは思えない。まるでそれに合わせるかのように、付き人の小田さんがサワの背中をさすりながら声をかけた。「サワさん、お医者様から血圧が高いので感情の起伏には気をつけるようにと言われたばかりじゃありませんか」ミキも慌ててサワの背中を軽く叩いて落ち着かせようとする。「そう
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