《七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した》全部章節:第 891 章 - 第 900 章

1031 章節

第891話

詩織も決してノリの悪いボスではない。部下たちの輪に混ざり、グラスを交わして笑い合う。ただ、少し気分が良くなりすぎて、いつもより杯を重ねてしまったのは確かだった。宴会がお開きになる頃には、とうに日付が変わっていた。ここ数日、新エネルギー事業のIPO案件にかかりきりで、二日も徹夜が続いていた詩織。そこにアルコールが回ったことで限界を迎え、彼女は個室のソファの隅に丸まってすっかり寝入ってしまった。こういう場では、密は一滴もアルコールを口にしない。宴会の後、全員を無事にタクシーに乗せて見送るという重要な任務があるからだ。最後の一人を見送り終えた密は、詩織を家まで送り届けるため、急いで個室へと引き返した。しかし、廊下の先で目にした光景に、彼女はハッと足を止めた。柊也が、眠りに落ちた詩織を大切そうに横抱きにして歩いてくる。密は口を開き、何かを言いかけた。すると柊也は、「しーっ」と人差し指を唇に当てた。「起こさないでやって。彼女、ここ数日ずっとまともに休めてなかったから」詩織の眠りを絶対に妨げないよう、その声はひどく低く、意図的に押し殺されていた。それでも、微かな響きに反応したのか、詩織は夢の中で小さく眉を寄せた。そして、心地よい温もりを求める本能のままに、無意識のうちにすり寄るように彼の胸へと顔を埋める。そのあまりにも無防備な彼女の姿と、二人の間に流れる親密な空気に、密は喉まで出かかった言葉を、ただそのまま飲み込むしかなかった。初冬を迎え、一週間続いた雨がようやく上がった。日中は晴れ間も見えたが、夜になるとやはり肌寒い。柊也は詩織を包むブランケットの端をしっかりと引き寄せ、彼女を横抱きにしたままゆっくりと歩みを進めていた。どんなに細心の注意を払っても、車に乗り込む際の動きでどうしても刺激してしまう。目を覚ました詩織は、霞がかったようなとろんとした瞳で彼を見つめた。ちゃんと相手が誰なのか認識できているのかも怪しい。「もう少し眠っていなよ。家に着いたら起こしてあげるから」柊也は穏やかな声で囁いた。詩織は何も言わず、しばらくじっと彼を見つめてから、ぽつりとこぼした。「レモンウォーター、ないの?」以前の彼は、こういう時いつも前もって用意してくれていたのだ。「あるよ。今、飲む?」こくりと頷くのを見
閱讀更多

第892話

『彼女の親友は、時に姑よりも手厳しい』とはよく言ったものだ。最初にその例えを思いついた人間は間違いなく天才だろう。柊也は仕方がないなというように、甘くため息をついた。「……なら、何度でも俺をオモチャにして遊べばいい。君の気が済むまで、好きなようにどうとでもしていいから。ね?」詩織はすっかり夢の中を彷徨っているのか、むにゃむにゃと寝言のようにこぼした。「今日は遊ばない。きょうは、もう眠いから……」途端に、柊也の息遣いがわずかに荒くなった。理性を総動員して押さえ込んだ声は、ひどく低く、危険な色を帯びて掠れている。「……わかった。じゃあ、次は……たっぷり遊んでもらうからな」翌朝、詩織は頭が割れるような痛みに襲われて目を覚ました。熱めのシャワーを浴びて、ようやく少しだけ息を吹き返す。寝室から出ると、ちょうど密が朝食の入った手提げ袋を持って部屋に入ってくるところだった。「あ、詩織さん、起きました?朝ごはん買ってきましたよ。あと、二日酔いに効く特製のしじみ汁も」「ありがとう……」詩織はこめかみを揉みながら食卓についた。体が鉛のように重く、なんとも言えない倦怠感が全身にまとわりついている。「具合、悪いですか?」顔色が優れないのを見て、密が心配そうに覗き込む。「ちょっとね」詩織は答えてから、ふと疑問を口にした。「昨日のお酒、何かおかしかったかな?」「いえ、みんなピンピンしてますよ」「じゃあ、なんでこんなに頭が重いんだろう……」呟きながら、お椀を手に取り、温かい汁を一口すする。──その瞬間、舌に広がった『馴染みのある味』に、詩織の思考はピタリと停止した。「どうかしました?」不自然に動きを止めた詩織に、密が首を傾げる。「……ううん、なんでもない」詩織は小さくかぶりを振り、汁物を半分ほど飲み干した。不思議と、あんなに酷かった目眩が少し和らいでいく。密に促されるまま、朝食のパックを開けた。今日のメニューはやけに手が込んでいる。消化に良さそうな温かいお粥に、優しい味付けのお惣菜、そして保温ボトルに入ったホットジンジャーティーまで添えられていた。詩織がそのボトルをじっと見つめていると、密が慌てたように弁解し始めた。「あ、もうすぐ生理が来る頃じゃないかと思って!今のうちに体を温めておけば、少しは楽になるかなって」
閱讀更多

第893話

彼の手のひらは詩織の体温より低く、かといって冷たすぎることもない。熱を出した体にはたまらなく心地よい温度だった。無意識のうちに喉の奥から小さなため息が漏れる。まぶたが重く、目を開ける気力すら湧かない。「ひどい熱じゃないか。解熱剤は飲んだ?」そう言いながら、柊也は持参した紙袋から体温計を取り出し、念のために彼女の熱を測った。三十九度二分。「飲んでない……家には、普通の風邪薬しかなくて」熱にうなされる詩織の声は弱々しく、かすれていた。これほどの高熱が出ているにもかかわらず顔面は蒼白で、唇からすっかり血の気が失せている。「病院、行くか?」柊也はあくまで彼女の意志を尊重するように、優しく尋ねた。詩織が極端に病院を嫌うことを、彼はよく知っている。中学生の頃から母親の初恵を看病するため、頻繁に病院へ通っていた彼女の心の底には、「病院はいつか母を奪い去ってしまう恐ろしい場所」というトラウマのような拒否感が根付いているのだ。案の定、詩織はふるふると首を横に振った。「ただのインフルエンザだから……一晩寝れば治るわ」「自分のこと、不死身だとでも思ってるのか?」柊也は困ったようにため息をついた。彼女がそう言って絶対に病院へ行きたがらないことなど、最初からお見通しだったのだ。だからこそ、彼は万全の準備を整えてここへ来た。彼が手にしている袋の中には、さきほど病院で処方してもらったばかりのインフルエンザの特効薬と、新品の鎮痛剤の箱が入っていた。「まずは横になって。お湯を持ってくるから」柊也はそう言って、彼女の体を支えようと手を伸ばした。詩織は彼を押し退けようとしたが、高熱ですっかり虚脱しており、逆にその反動で自身の体がふらりと大きく揺らいでしまった。ズキズキと痛む頭を押さえながら、詩織は彼を睨むように問い詰める。「なんで……ここにいるの?」「小林から、君が熱を出したって聞いたんだ」ここまで来て誤魔化す意味もないと、柊也はあっさりと白状した。あの裏切り者……心の中でアシスタントを毒づきながら、詩織はふと玄関の方へ視線を巡らせた。「じゃあ、ドアの暗証番号は?どうやって入ってきたのよ」「君が自分で教えたんだろ」柊也は事もなげに答えた。「昨日の夜、君をここまで送り届けた時にね。自分の口でしっかり言ってたぞ」
閱讀更多

第894話

その名前を聞いた瞬間、詩織の動きがピタリと止まった。日向先生。数年前、柊也が紹介してくれた婦人科の名医だ。あの時、柊也は自ら「一緒に病院へ行く」と約束してくれたにもかかわらず、結局、翌日になって志帆の用事を優先し、詩織をすっぽかしたのだ。あの時、自分は一体どんな気持ちだっただろうか。――もう悲しむことすら馬鹿らしくなるほどの、底なしの絶望と麻痺。柊也が二口目をすくって口元に運んできたが、詩織はもう、それを飲もうとはしなかった。「どうした?口に合わなかったか?」彼女が顔を背けたのを見て、柊也が心配そうに覗き込む。「……うん、不味い」不味い。最悪の味がする。柊也は自分で一口味見をしてみた。日向先生に教わった通りの手順で作ったし、味も決して悪くないはずだ。熱のせいで食欲がないのだろうと考えた彼は、あくまで辛抱強く、優しい声で尋ねた。「じゃあ、他に何か食べたいものはある?俺が作ってくるよ」「何もいらない」詩織はすっかり気力を失ったようにぐったりとして、体の痛みに小さく眉をひそめた。「もう帰って。……一人にしてよ」「絶対に邪魔はしないから」ただでさえ高熱を出して苦しんでいる彼女を、こんな状態のまま一人きりにして帰れるわけがない。「でも、私はあなたの顔を見たくないの」冷酷な拒絶の言葉に、柊也は数秒ほど沈黙し――やがて、絞り出すようにこう言った。「……目を閉じていれば、俺の顔は見えないだろ」詩織は全身の細胞がウイルスと戦っているような激しい消耗感に襲われ、彼と言い争う気力すら残っていなかった。いっそ背を向けて、無理やり目を閉じる。薬が効いてきたのか、それとも柊也が極力気配を殺してくれていたからか。ほどなくして、詩織は再び泥のような眠りに落ちた。今度はかなり長く眠っていたらしい。ふと目を覚ますと、いつの間にか寝室のベッドに寝かされていた。部屋にはフットライトだけが点いており、周囲は水を打ったように静まり返っている。ドアの向こうから、微かな物音が聞こえる。どうやらキッチンから響いているようだ。下腹部の痛みはだいぶ治まっていたが、頭はまだ鉛のように重く、思考の歯車が普段の半分も回らない。外にいるのが柊也だと理解するまでに、ずいぶんと時間がかかってしまった。まだ、帰ってなかったの……?
閱讀更多

第895話

詩織はあえて何も聞かず、ただ静かに、少しずつ口に運んでいった。柊也はベッドの端に腰を下ろし、深く、静かな瞳で彼女を見つめている。美味しいものを食べさせてもらった手前、さすがにこれ以上冷たくあしらうのも気が引けた。詩織の口調は、先ほどよりもいくぶんか和らいでいた。「……うどん、ごちそうさま。もう大丈夫だから、帰って」柊也は彼女のこういう『用が済んだらポイ』という態度にすっかり慣れっこになっているらしく、動じる様子もない。「あと一時間したらもう一回薬を飲む時間だ。それを飲ませたら帰るよ」詩織が再び眉をひそめるのを見て、彼はすかさずなだめるように付け加えた。「二回目の薬を飲み終わったら絶対に出るって約束する。長居はしないから」これ以上拒絶されるのを恐れるように、彼はさっさと立ち上がると、空になった器を持って足早に部屋を出ていった。部屋に再び静寂が戻る。しかし、空気中に漂う彼のウッディで冷たい香水の名残だけは、どうしても消え去ってくれなかった。食事をして体力がつき、さらにたっぷりと汗をかいたおかげで、ようやく熱が引き始めた。時間ぴったりに薬を持って戻ってきた柊也は、詩織がしっかりと飲み下すのを見届けた。そして再び彼女の額に手を当て、もう熱がぶり返していないことを確認すると、ようやく安堵の息をついた。「汗をかいたから、着替えてから寝なよ。シャワーはまだ駄目だ。完全に熱が下がりきるまでは我慢して」彼は細々としたことまで丁寧に言い含めていく。「キッチンの鍋にうどんのつゆが温めてあるし、冷蔵庫のチルド室には下ごしらえした海老しんじょうも入ってる。もしお腹が空いたら、茹でて食べるといい。刻みネギと三つ葉もチルド室にあるから、仕上げに少し散らすともっと美味しくなる」「明日の薬も一回分ずつ分けて置いてあるからね。朝八時に飲むこと。胃が荒れるから空腹のまま飲んじゃ駄目だよ。それから、もし明日もまだお腹が痛むようなら鎮痛剤を飲むように。痛みがなければ飲まなくていい」あれこれと口うるさく世話を焼く彼に対し、詩織は一切相槌を打たなかった。「……じゃあ、帰るよ」ベッドの上の詩織はしばらく沈黙したのち、微かに聞き取れるかどうかの小さな声で「……ん」とだけ応じた。柊也の口元に、ふっと柔らかな笑みが浮かぶ。彼は立ち去る間際、
閱讀更多

第896話

「お手伝いの松本さんがね、私が家でひもじい思いをしないようにって、旅行に出る前に作り置きしてくれたのよ」詩織は迷わず嘘をついた。ミキに怪しまれる前に、すかさず話題をすり替える。「それより、味付けのコツを早く教えてよ。朝やってみたんだけど、どうにも味が変で」ミキの思考回路は基本的にシングルタスクだ。あっさりと見当違いの方向へ誘導され、先ほどの疑問などすっかり忘れた様子で、真面目に味付けの手順をレクチャーし始めた。だが悲しいかな、詩織のスキルポイントはすべて仕事に全振りされている。ほんの簡単な調味料の加減すら、彼女にとっては未知の領域だった。ちょうどマンションのエレベーターに乗り込んだところだった詩織は、いっそ諦めてこう言った。「もうすぐ家に着くから、電話はそのままで。帰ったら紙とペンでメモするわ」「オッケー」とミキが軽く応じる。玄関のドアを開けるなり、詩織はスマホに向かって声を張り上げた。「よし、着いたわ。じゃあ教えて。まずは……」その言葉は、キッチンから姿を現した長身のシルエットを目にした瞬間、ピタリと途切れた。「まずは白だしと薄口醤油を合わせて……」そんな事態になっているとは露知らず、電話口の向こうでミキがなおも真剣に手順を読み上げている。柊也は湯気を立てる海老しんじょうの温うどんをダイニングテーブルに置くと、玄関に立ち尽くす詩織に向かって、ひどく甘く穏やかな声をかけた。「ちょうどいいタイミングだったね。うどん、今できたところだ。手を洗って、熱いうちに食べなよ。キッチンに君の好きなおかずもいくつか用意してあるから、今持ってくる」詩織の思考回路が、完全にショートした。やがて、スマホのスピーカーから聞こえてきたミキの、地を這うような低い声が、彼女の意識を現実に引き戻した。「……ねえ、詩織。なんであんたの家に、賀来柊也がいるわけ?」「…………」言い逃れのできない状況に陥り、詩織は一瞬どう言い訳していいか分からず言葉に詰まった。「隠し事はなしよ。全部吐きなさい」ミキのドスを効かせた声に、観念して事情を打ち明けるしかなかった。「あのね、昨日から風邪で熱が出ちゃって、おまけに女の子の日も重なって、本当に死にそうだったの。それで密に薬を届けてもらおうとしたんだけど、あの子もダウンしてて……」「前置きはい
閱讀更多

第897話

詩織は潔く抵抗を諦め、手を洗って食卓についた。もっちりとしたうどんをすすりながら、釘を刺すように柊也に言う。「もう、うちには来ないで。……色々と不都合だから」「食事中は静かに」柊也は短く制した。これ以上、自分の聞きたくない言葉を彼女の口から出させないための、有無を言わせぬ大人の余裕と圧があった。詩織が平らげるのを見計らい、柊也は絶妙な温度の白湯が入ったグラスを差し出した。そして、薬を飲むのを目でしっかりと見張る。「だいぶ良くなったとはいえ、すぐに薬をやめちゃ駄目だ。念のため、あと三回はきちんと飲んで治しきること」詩織には、幼い頃から薬嫌いという困った癖があった。よほど限界に達しない限り薬に頼ろうとせず、少しでも症状が和らぐと、自己判断ですぐに飲むのをやめてしまうのだ。柊也は、彼女のその悪癖をよく知っていた。あれは以前、北の地方へプロジェクトの商談に行った時のことだ。記録的な大雪に見舞われ、二人は凍えるような寒さの中で一晩を明かす羽目になった。その後、詩織はひどい風邪をこじらせ、熱が上がったり下がったりを繰り返して一向に良くならなかった。柊也が問い詰めてようやく、熱が下がった途端に彼女が薬を飲むのをやめ、そのせいで症状がぶり返していたことが発覚したのだ。それ以来、柊也は彼女のこの悪癖をずっと覚えていた。詩織が体調を崩すたびに、きちんと薬を飲み終えるまで彼が必ずそばで見張るようになったのだ。ただ、もともと詩織は健康体で滅多に病気をしないため、彼がそこまで細かく気を配ってくれていることに当時は気がついていなかった。後に胃を悪くした時も、彼の仕事の邪魔になりたくなくて意図的に隠していたくらいだ。だからこそ、詩織は彼が自分のそんな些細な癖まで把握し、別れた今でも当たり前のように覚えていることに、内心ひどく驚き、そして揺さぶられていた。薬は昨日と同じもののはずなのに、今日はやけに苦く感じた。味覚が正常に戻ってきている証拠なのだろう。詩織が思わず顔をしかめたのを見て、柊也はくるりとキッチンへ戻り、湯気を立てる『柚子と生姜の黒糖葛湯』を運んできた。口の中に残る薬の苦味がどうしても耐えがたく、詩織はその甘い誘惑を拒みきれなかった。スプーンを手に取り、少しずつ口へ運ぶ。柚子の爽やかな風味と黒糖のコクのあ
閱讀更多

第898話

柊也の眉がピクリと跳ねる。「ああ」ためらいも、一瞬の思考さえも挟まない、完全な即答だった。――狂おしいほどに。病院での、あの未遂に終わった曖昧なキスの記憶が、ずっと彼の頭にこびりついて離れなかったのだ。彼女のその無防備な一言は、くすぶっていた導火線に直接火を放つようなものだった。だが、詩織の瞳に小悪魔のような光が走る。「でも、私さっきドリアン食べたばかりよ?あんたがいっちばん嫌いな匂いだけど」わざとらしく言ってのける姿に、からかわれたのだと悟り、柊也は思わず鼻で笑った。見事に彼女の掌の上で転がされ、煽り立てられた熱のやり場がない。確かに、ドリアンの匂いは反吐が出るほど嫌いだ。だが……それがどうした?仮に今、彼女が全身ドリアンまみれだったとしても、ためらわずにその唇を奪ってやる。詩織のしてやったりの表情は、しかし二秒と持たなかった。男の瞳の奥にどす黒い情欲が渦巻いているのを見て、詩織はハッとした。本能が危険を告げ、慌てて逃げ出そうとしたが、もう遅い。完全に獲物をロックオンした捕食者のごとく、彼の動きは容赦なかった。詩織が身を翻すより早く、大きな手が強引にその後頭部をホールドし、有無を言わさずその唇を塞ぐ。「んっ……!」詩織は反射的に唇をぎゅっと結んで抵抗したが、彼の圧倒的な力には到底敵わない。空いた左手で顎を掴まれ、くいっと指先に力を込められると、いとも容易く口内への侵入を許してしまった。容赦のない深い口づけに、詩織の喉から微かに甘い声が漏れる。そのか弱く無防備な響きは、柊也にとって何よりの媚薬だった。もはや理性のブレーキなど効くはずもない。――完全に、火遊びが過ぎた。甘い熱に溶かされ、思考が白く飛んでいく直前。詩織の脳裏をよぎったのは、そんな手遅れな後悔だった。柊也の腕の中にすっぽりと閉じ込められ、詩織の心臓は破裂しそうなほどに早鐘を打っていた。嵐のような激しい口づけは、やがて甘く微熱を帯びたものへと変わっていく。彼女の唇を食むように、執拗に、そしてねっとりと舌を絡ませる。だが、詩織が少しでも逃げようと身をよじると、再び牙を剥くように猛烈なキスが降ってきた。詩織に主導権など欠片もなかった。柊也はもはや、こんな上辺だけの接触では満足できなくなっていた。
閱讀更多

第899話

詩織は彼の手を振り払い、ミキを庇うように言った。「彼女に当たらないでよ」詩織の中で自分の優先順位がミキより低いことなど、柊也はとうの昔に理解していた。それでも、実際に面と向かってこう言われると、さすがに堪えるものがある。「君のことが心配だっただけだ。……少し、過敏になってた」少しだけ傷ついたような、殊勝なトーン。その声色に、詩織はあっさりと絆されてしまった。「そういう意味じゃなくて……」そのやり取りをそばで見ていたミキは、ギリギリと奥歯を噛み締めた。あのクソ男、どこでそんな女狐顔負けのあざといテクニックを覚えてきたわけ!?被害者ぶるんじゃないわよ、胸糞悪い!だが、詩織の健康を第一に考えれば、ここで意地を張るわけにもいかない。ミキは忌々しい気持ちを呑み込み、大人しく消毒と除菌を済ませに向かった。一通り全身を清めてリビングに戻ってくるなり、ミキは堂々と縄張りを主張した。「はい、終わったわよ。用が済んだなら、あんたはもうとっとと帰りなさい!」柊也はテーブルの上のドリアンを片付けながら、冷ややかで、どこか皮肉めいた声で応じた。「宇宙船にでも乗ってきたのか?ずいぶん早い到着だったな」「たまたまC市にいたからよ!」C市からここ江ノ本市までは、車でわずか一時間ほどの距離だ。なるほど、それならこの早さも頷ける。ミキが駆けつければ、詩織から帰るように促されるだろうとは予想していた。ただ、そのタイミングが想定よりもかなり早まってしまっただけだ。内心ではひどく名残惜しかったが、こればかりは潔く引き下がるしかない。「もう一度熱を測ろう。熱が下がっていれば帰るよ」そう言って、柊也は耳式体温計を手に取った。彼の指の腹が耳たぶをかすめた瞬間、せっかく平熱に戻りかけていた詩織の頬が、コントロールを失ったようにカッと熱を帯びる。三十七度三分。微熱の範囲だ。もう心配はない。ずっと張り詰めていた柊也の心が、ようやくふっと軽くなった。彼は再び、甘く穏やかな声で尋ねる。「頭はどう?まだ痛む?」詩織はふるふると首を振った。「だいぶ良くなった」「お腹は?」「もう痛くない」彼女の回復が遅れれば遅れるほど、看病を口実に少しでも長くこの部屋に留まることができる。それでも彼は、一秒でも早く彼女の苦痛が消え去ることを心から
閱讀更多

第900話

ミキは非常に有能なボディーガードだった。柊也が少しでも付け入る隙を与えまいと、四六時中、詩織の傍に張り付いて目を光らせていたのだ。そうして一週間が過ぎたが、柊也が姿を見せることは一度もなかった。ミキもさすがに安心したようだった。「あいつもやっと空気が読めるようになったみたいね。もうちょっかい出してこないなんて」密が差し入れてくれたお菓子をつまみながら、パソコンに向かう詩織に得意げに笑いかける。詩織は画面から少しだけ視線を外し、ミキの手にあるお菓子を見て、何か言いたげに口をつぐんだ。だが、満面の笑みでそれを頬張る親友を見て、結局出かかった言葉をそっと飲み込んだ。午後になると、今度は密が甘いスープのデザートを運んできた。ミキはすっかり丸くなったお腹をさすりながら、詩織に向かって密を絶賛した。「あんたのアシスタント、本当に最高!小腹が空いた絶妙なタイミングでお菓子を持ってきてくれるし、喉が渇いたと思ったら冷たいデザートまで!もう完全に私の心、掴まれちゃったわ!」キンキンに冷えたココナッツミルクを一口飲み、ミキは至福の表情を浮かべた。「やっぱりこういう暑い日は、冷たいものに限るわよねー!」詩織は、自分の手にあるマグカップをぎゅっと握りしめた。……彼女のカップの中身は、温かい飲み物なのだ。本当は、自分だって冷たいデザートを食べたいのに。すると、密が淡々とした口調で容赦なく釘を刺してきた。「日向先生から、『冷たいものは生理痛を重くする』と伺っております」「…………」詩織は無言で視線を逸らし、大人しく温かい飲み物をすすった。その夜、詩織は接待の席にミキを伴うことになった。東華キャピタルの坂崎社長が主催する会食だ。ミキがこういう堅苦しい場を嫌っていることは、詩織もよく知っていた。飛び交う話題は難解なビジネス用語ばかりで、ミキにとっては退屈以外の何物でもないからだ。だから気を遣って、「無理してついて来なくていいよ?」と勧めてみたのだが。「ダメよ!もしその隙にあのクズ也が近づいてきたらどうするの! 私が片時も離れず見張ってなきゃ!」ミキは即座に却下した。「……そんなに、彼のこと嫌い?」詩織はつい、恐る恐る探りを入れてしまった。ミキは親の仇でも見るような顔つきで、語気を強めて言い放った。「私にとっては、一
閱讀更多
上一章
1
...
8889909192
...
104
掃碼在 APP 閱讀
DMCA.com Protection Status