《七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した》全部章節:第 901 章 - 第 910 章

1031 章節

第901話

加工じゃなくてマジでこの仕上がりなら、相当ヤバい肉体美じゃない!ミキは礼儀として、すかさずコメントを残した。【ちょっと、目の保養すぎるんですけど! 腹筋で大根おろせそう🤤💕 もっと全体見せてよー!】コメントを書き終えると、他の動画をスワイプして見始めた。しばらくして、「もう一回じっくり見よう」と思い出し、先ほどのページに戻ってみると……驚いたことに、その動画はすでに削除されていた。「はあ?ケチすぎない!?」まだ舐め回すように隅々まで堪能していなかったというのに!一方、個室に戻った詩織は、今夜はほとんどお酒を飲まずに済んでいた。主催者である坂崎社長から、事前の挨拶で「今夜は軽く嗜む程度にしましょう」と提案があったからだ。普段から彼と飲み歩いている経営者仲間たちは、その異例の宣言に戸惑い、ニヤニヤと冷やかした。「坂崎さん、さては奥さんから『飲みすぎ禁止令』でも出ましたか?」坂崎社長は苦笑して手を振った。「いやいや、そうじゃありませんよ。実は友人から特別に釘を刺されてましてね。『可能ならあまり飲ませないでやってくれ。女性陣に配慮してほしい』とね」この場にいる女性は、詩織ただ一人だ。同席者たちの興味津々な視線が、一斉に彼女へ注がれる。普段なら、こういう場面でも見事に話題を切り返して場を盛り上げるのが彼女の流儀だった。しかし今夜は、なぜか頬がカッと熱くなるのを止められなかった。詩織はグラスを手に取り、少しはにかみながら立ち上がった。「皆様の紳士的なお気遣いに感謝いたします。お言葉に甘えまして、今夜は一口だけ。……でも、感謝の気持ちはこのグラスにたっぷり込めておりますわ」会食が終わり、帰りの車に乗り込むと、ミキはようやく一日中張り詰めていた警戒を解いた。ふわぁ、と大きなあくびを一つする。「どうやら、あいつも諦めたみたいね!」ミキは勝ち誇ったように言った。「やっぱり男なんて、どうせみんな三日坊主なのよ!」詩織は手に持った絶妙な温度のレモンウォーターを一口飲みながら、いたたまれない気持ちで親友の横顔を盗み見た。……三日坊主、か。事情など何も知らないミキは、自分の『鉄壁のガード』が完璧に機能したのだと信じて疑わず、一人ご満悦の様子だ。自分が築き上げたはずのその強固な防壁が、とっくの昔に『敵』に内側から浸透され
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第902話

詩織が張ったはずのバリアも、そのあまりに露骨な視線を前にしては、次第に揺らぎ始める。二人の間に流れる奇妙な空気には、事情を知る京介はもちろん、何も知らない須藤学長までもが気づき、不思議そうに二人を見比べた。「おや、お二人はお知り合いですか?」「いえ、あまり」「ええ、よく知っています」返ってきたのは、正反対の答えだった。学長は察しのいい男だ。苦笑まじりに、からかうような口調で柊也に向けた。「君が女性に対してこれほど興味を示すなんて、珍しいこともあるものだ」柊也は否定しなかった。ただ、ゆっくりと詩織の全身をなぞるように視線を滑らせる。そのねっとりとした眼差しは、まるで視線だけで彼女を愛撫しているかのようだった。ようやく式典が始まり、学長が壇上で祝辞を述べ始めると、詩織は密かに安堵のため息をついた。次いで、来賓として招かれた柊也の出番がやってくる。若き成功者として、在校生たちに起業の経験を語るためだ。彼が壇上へ向かうと、空いたその席に、今度は学長がちゃっかりと腰を下ろした。詩織との距離を縮めるための、彼なりの根回しなのだろう。地方からの赴任間もない学長にとって、人脈作りは急務であり、詩織がその理解を示して談笑に応じると、話題はやがて柊也のことになった。学長に彼との接点を尋ねると、彼は懐かしそうに目を細めた。「彼とはもう、十二、三年前からの付き合いになりましてね。当時、私はこの街の工業高校で生活指導の主任をしていたんですよ。そう、江ノ本第一高校の隣にある、あの酷く荒れた学校です」学長の話によれば、当時のその学校は問題児の掃き溜めのような場所だったという。「素行の悪い連中ばかりでしてね。ろくに授業も受けず、外の不良グループとつるんでは喧嘩や窃盗を繰り返す。挙句には女子生徒の後をつけるような不届き者までいた。連中、まだ未成年なものだから、こちらとしても扱いには本当に手を焼いたものですよ」十二、三年前、詩織は江ノ本第一高校に通っていた。当時の学校周辺は決して治安が良いとは言えず、不勉強な不良たちが常にうろついているような場所だった。あの一帯の空気には、今も苦い記憶が染みついている。詩織自身、執拗に後をつけられるという恐怖を味わったことがあるからだ。当時、放課後の居残り勉強を終えた彼女は、毎日欠かさ
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第903話

店主と一緒に路地へ戻ったとき、そこにはもう誰の姿もなかった。冷たいコンクリートの上に、詩織のリュックと上着だけがぽつんと取り残されていた。その夜の恐怖は、彼女の心に深い傷を残した。しばらくの間は夜の居残り勉強に出ることもできず、昼間に同じ道を通るときでさえ、言いようのない不安に襲われた。いつも誰かに後ろをつけられているような気がして、何度も振り返る。だが、そこには誰もいない。ただの思い過ごしか、恐怖が作り出した幻覚なのだと自分に言い聞かせるしかなかった。やがて事情を知った京介が、彼女の帰宅に付き添ってくれるようになった。ある日のこと、以前助けを求めた商店の店主に鉢合わせると、並んで歩く二人を見て、店主は「おや、彼氏かい?」と親しげに笑いかけてきた。ちょうどその時、店内にはあの工業高校の制服を着た男子生徒が買い物をしていた。詩織は変に絡まれるのを避けるため、つい「ええ。危ないからって、毎日迎えに来てくれるんです」と話を合わせてしまった。店主は京介に向かって、感心したように何度も頷いてみせた。「……それで、それが賀来社長とどう繋がるのですか?」須藤学長の声が、詩織の意識を現実へと引き戻した。「それが、大いに関係がありましてね」学長は懐かしむように話を続けた。「ある夜、その不良グループが一人の少女を執拗に追い詰めていたところを、賀来君がひとりで叩きのめしたんです」「彼もまだ十八か十九そこらの頃でしょう。八人を相手にたった一人で立ち向かったのだから、当然、無傷とはいかなかった。結局、半月ほど入院する羽目になりましたが、あのアバズレ共も相当こっぴどくやられたようでしてね」「生活指導主任だった私は、学校側の責任として謝罪や警察の対応に奔走しましたよ。それからは関係各所の厳しい監視の下、問題児の指導と周辺住民の安全確保のために、死に物狂いで警備体制を立て直したものです」学長のその言葉を聞いた瞬間、詩織は息を呑んだ。確かに思い返せば、あの事件の直後、学校の周辺には警察の防犯拠点がいくつも新設されていた。あんなに恐ろしかった暗い近道にも、等間隔に明るい街灯が立ち並び、防犯カメラまで設置され、見違えるほど安全な道へと変わったのだ。治安が劇的に改善されたことで、詩織はほどなくして京介の付き添いを断り、再び一人で帰宅す
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第904話

京介の痛切な問いかけに対し、詩織の眼差しはどこまでも凪いでいた。感情の波一つ立たない、静かで、そしてどこか残酷なほどに穏やかな瞳だった。「いいえ」少しの間を置いて、彼女は真摯に言葉を紡いだ。「私は誰のことも、待ってなんかいません」それは強がりでも、嘘でもなかった。この数年、詩織だって新しい恋をしようとしなかったわけではない。ミキが口を酸っぱくして言っていたように、過去の呪縛を断ち切り、新たな出会いへと踏み出そうとした時期は確かにあった。実際、彼女の身の回りには好意を寄せてくれる優秀な男性たちもいた。しかし、どういうわけか、いつも最後にほんの少しの『縁』が足りなかったのだ。京介に対する感情も例外ではなかった。かつては確かに彼の優しさに心が揺らいだ瞬間があり、彼となら新しい人生を歩めるかもしれないと思ったことさえあった。けれど――結局は、ボタンの掛け違いのようにすれ違ってしまった。何度かのすれ違いを経験するうちに、彼女は誰かと道が分かれることに慣れてしまったのだ。他愛のない期待を抱くのをやめ、ただ自分のペースで、一歩ずつ前に進むことだけを選んだ。人生という道の上で、すれ違う人々はまるで走馬灯のように現れては消えていく。それでも詩織は、もう二度と誰かのために自分の足を止めることはなかった。それは、柊也に対しても同じはずだった。「でも、君はさっき、明らかに……!」京介は焦燥しきった声で、食い下がるように身を乗り出した。一拍置いて出かかった言葉を飲み込み、何とか別の表現を探り当てる。「……明らかに、彼を気にしていただろう」隣に座っていたからこそ、京介には彼女の微かな変化が痛いほどよく見えていたのだ。最初は柊也のことなど一瞥もしていなかったのに、学長と短い会話を交わした直後から、彼女の視線はどうしようもなく彼を追うようになっていた。「それでも、彼を待っていたんじゃないと言うのか?」悲痛な響きを帯びた追及にも、詩織は静かに首を横に振った。「ええ、待っていません」「……」「正確に言うなら――彼の方が勝手に先回りをして、私の行く先で待ち伏せしているだけです」その毅然とした一言に、京介は息を呑み、完全に言葉を失った。彼が先回りしているだけ。その事実を突きつけられ、
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第905話

柊也は眉をひそめた。何がおかしいのか全く見当がつかない。 すると小林は、もったいぶるように後部座席のドアをガチャリと開けてみせた。車内から、聞き慣れた着信音が漏れ聞こえてくる…柊也の足がピタリと止まった。後部座席には、詩織が座っていた。彼女は小首を傾げ、静かにこちらを見つめている。その手のひらには、着信を知らせて画面が点滅するスマートフォンが握られていた。西の空は燃えるような夕霞に染まっていたが、彼女の瞳の奥に宿る柔らかな光に比べれば、どんな美しい夕暮れの色も色褪せて見えた。彼女からこんな穏やかな眼差しを向けられるのは、いったいいつ以来だろうか。校門前を行き交う人々のざわめきも喧騒も、今の柊也には一切届かない。今の彼の世界には、ただ一人、彼女しか存在していなかった。「……乗る車を間違えたんじゃないのか?」詩織は片眉をぴくりと上げ、からかうように返した。「じゃあ、今すぐ降りようか?」柊也の精悍な顔立ちに、余裕たっぷりの甘い笑みが広がる。「もう遅い。ここは一度乗ったら最後、そう簡単には降りられない特等席なんだ」彼はなめらかな動作で車に乗り込み、詩織が外へ逃げる最後の退路を自らの体で完全に塞ぎ込んだ。運転席の小林がエンジンをかけるより早く、後部座席から柊也の低い声が飛んだ。「小林、ドアを全部ロックしろ。蚊一匹たりとも車外に逃がすな。もし逃がしたら、お前の首が飛ぶと思え」「…………」小林は言われた通り、即座にすべてのドアをカチャリとロックした。退路を断たれた詩織は、少し恨めしそうにルームミラー越しに小林を見た。「アイツを睨むなよ。給料を払ってるのは俺なんだから、文句があるなら俺に言え」柊也は背もたれに深く寄りかかりながら、身体の半分を彼女の方へと傾けてくる。その表情は酷く気だるげで、瞳の奥には悪戯っぽい光が揺らめいている。小林がビクビクしながら、ルームミラー越しに詩織の様子を窺う。詩織は呆れたように大きなため息をつきつつ、今度は柊也を横睨みした。「……別に、運転手さんを責めてなんかないわよ」彼女の冷ややかな態度などどこ吹く風で、柊也はすっと指を伸ばし、彼女の耳元にかかる後れ毛をすくい上げた。さらりとした髪の感触を指先で弄びながら、甘く囁く。「俺たち離れ離れになって、これでちょうど336時
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第906話

信じられないというように詩織が呆れると、柊也は声を出して笑った。「俺だって神様じゃない、ただの男だぞ。片思いくらいするさ」「そういう意味じゃないわ。当時のあなたの立場や環境なら、好きになったら堂々と追いかけて、告白すればよかったじゃない。わざわざ陰からこっそり見つめるような真似、あなたらしくないわ」そこまで言ってから、詩織はハッとして付け加えた。「でも……それには一つ条件があるわね。相手が成人していること。未成年相手の恋愛は犯罪だもの」柊也は少し考えるような素振りを見せてから、静かに答えた。「俺が彼女に出会った時、彼女はまだ……未成年だったからな」その言葉に、詩織はピタリと動きを止めた。彼女の記憶のタイムラインでは、柊也と初めて出会ったとき、彼女はすでに成人していた。つまり、柊也が「未成年の頃から片思いしていた」相手というのは、間違いなく自分ではない、別の誰かだということになる。どういうわけか、その事実を突きつけられた瞬間、詩織の胸の奥にじわりと苦いものが広がった。誤魔化すように視線を窓の外へ逸らし、彼に弄ばれていた自分の髪の毛を不意に引き抜く。突然空を掴んだ柊也の掌を、冷ややかな空気がすり抜けていった。車内の温度が、急激に下がったような気がした。彼女が身を引けば、彼が距離を詰めてくる。後部座席の片側に、ほとんど寄り添うようにして二人は押し込められた。詩織は顔を背けたまま、感情の読めない平坦な声で告げた。「……もういいわ。あなたの過去の恋愛事情なんて、興味ないから」何年もの付き合いがあるのだ。今の彼女が明らかに機嫌を損ねていることなど、柊也には痛いほど分かっていた。彼は強引に手を伸ばし、背けられた詩織の頬を両手で包み込んで、無理やり自分の方へと向かせた。いつもの気だるげな響きは消え、その双眸には射抜くような真剣な光が宿っている。「一つだけ、はっきりさせておく」低い声が、車内に響いた。「俺は、柏木志帆を愛したことなんて一度もない」「……最初から最後まで、欠片すらな」詩織の抗うような動きが、ピタリと止まる。――その言葉はつい最近、志帆の従妹である美穂の口からも聞かされたものだった。だが、あの時は本気で受け取ろうとはしなかった。「百聞は一見に如かず」と言うではないか。柊也が志帆にどれほ
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第907話

拉致され、目隠しをされていた恐怖の中、確かに銃声を聞いた。自分を抱き起してくれた人物が、撃たれたこともはっきりと覚えている。その後、賀来の邸宅で松本さんが彼の傷の手当てをしているのを見たとき、詩織はひどく自嘲したのだった。この人は、真実の愛のためなら命すら惜しくないのね。それに比べて、私のこの七年間の献身なんて、彼にとっては一文の価値もないんだわ。「誰もが、俺はこの傷を志帆のために負ったと思っている」柊也は静かにつぶやくと、詩織の手を取った。そして、その指先をゆっくりと、自身の腕に残る古い傷跡へと押し当てた。「だけど、違う。この傷は……お前を護るために刻まれたものだ。柏木志帆とはまったく関係ない」彼の熱い体温と確かな鼓動が、指先から伝わってくる。「あの日、お前が本港市の空港を出発する前、志帆の母親である佳乃とトラブルになっただろう。あの女はそれを根に持ち、裏社会の人間を使って本港市でお前を拉致し、報復しようとした。高坂剛太郎からその裏情報を得た俺は、わざと婚約式の衣装を台無しにして、『代わりの衣装を調達する』という口実で島を抜け出し……お前の元へ駆けつけたんだ」事件から五年という月日が流れてもなお、その時のことを語る彼の声には、隠し切れない恐怖と安堵が滲んでいた。間に合って本当によかった。彼女が無事で、本当によかった。彼の腕に触れている詩織の手のひらは、小刻みに震えていた。胸の奥で複雑な感情が荒波のように渦を巻き、どうやっても鎮めることができない。瞳の奥に抗いがたい熱が集まり、それはやがて透明な滴となって、長い睫毛の先からぽろぽろとこぼれ落ちた。堪えようとすればするほど、感情の波はより一層激しく押し寄せてくる。「……痛かったでしょう?」喉の奥が詰まり、絞り出した声はひどく震えていた。柊也は少し驚いたように目を見張った。真実を証明したかっただけで、決して彼女を泣かせたかったわけではないのだ。小さくため息をつくと、彼は身を屈め、彼女の濡れた瞼にそっと唇を落とした。じんわりとした熱と、微かな塩気が唇に伝わる。「泣くなよ。こんな傷、とうの昔に治ってる」子供をあやすような低い声で囁いたが、優しい言葉をかければかけるほど、彼女の涙は後から後から溢れてくる。――しまったな。柊也は内心で酷く狼狽
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第908話

運転席の小林は実に気の利く男だった。彼は空気を読み、すぐさま運転席と後部座席の間にあるパーティションを静かにせり上がらせ、二人だけの完全な密室を作り上げたのだ。外の目から遮断された絶対的なプライベート空間が、柊也のタガをさらに外していく。詩織は戸惑いと緊張で身体をこわばらせていたが、彼の容赦なく深い、甘く焼け付くような口づけに抗うことはできなかった。圧倒的な男の熱と匂いが彼女を隙間なく包み込み、侵食していく。神経の隅々まで彼に支配され、やがて詩織の身体から力が抜け、抗議の意思すらも熱い吐息の中に溶けて消えた。気がつけば彼女は、彼の腕の中にぐったりと身を預けていた。とろけるように柔らかい彼女の身体と、熱く火照った彼の身体。互いの荒い息遣いだけが、狭い車内に生々しく響く。それでも、完全に理性を手放しそうになる寸前で、柊也はギリギリで踏みとどまった。これ以上踏み込めばどうなるか、誰よりも彼自身がよく分かっている。彼女がようやく自分に対する強固な拒絶を解き、ほんの少しでも受け入れてくれたのだ。その歩み寄りが針の穴ほどの小さなものであっても、今の彼にとっては十分すぎるほどの奇跡だった。彼女を心の底から渇望し、抱きたくて狂いそうだったが――今はまだ、耐えなければならない。柊也は震える腕で彼女を胸に強く引き寄せ、抱き締めた。彼の焼け付くような胸板に耳を押し当てられた格好になり、詩織の鼓動が跳ねる。彼の胸の奥から、力強い心音が高鳴っているのが痛いほど伝わってきた。ドクン、ドクン、と。早鐘を打つその音が、次第に自分自身の心音と重なり合い、溶け合っていく。詩織は身じろぎすらできず、ただおとなしく彼の腕の中にすっぽりと収まっていた。なぜなら――彼が今、どれほど熱に浮かされ、どれほど必死に己の衝動を抑え込んでいるのか、密着した身体の確かな感触を通して、誰よりもはっきりと理解してしまったからだ。甘く濃密な熱が満ちていた車体が、突如として激しい急ブレーキで前のめりになった。強い衝撃が走ったが、柊也が咄嗟に詩織を抱きすくめたため、彼女はかすり傷ひとつ負わずに済んだ。しかしその分、彼の腕が前方のパーティションに強く打ち付けられ、ドスッと重い音が車内に響き渡る。車が完全に停まるなり、自身の痛みには目もくれず、柊也は真
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第909話

その微笑ましい光景を見て、柊也は思わず笑いを漏らしそうになった。視界の端でそれに気づいた詩織が、怪訝な視線を向ける。柊也は甘やかすような笑みを浮かべた。「君が動物と会話できるなんて、知らなかったよ」からかわれているのは明白だったので、詩織は綺麗に無視を決め込み、すっかり母親のような顔つきで仔猫の相手を続けた。仔猫のほうも完全に彼女を母親だと思っているらしく、小さな頭で手のひらに擦り寄り、時折ちろりと舌を出して彼女の指先を舐めている。すると、柊也が大真面目な顔をして口を開いた。「で、俺がパパだってことは、ちゃんとそいつに教えてやったのか?」詩織はなんと言っていいかわからず、冷ややかな目を彼に向けた。だが、柊也は独自の論理で堂々と推し進める。「そいつが君をママだと思ってるなら、順当にいって俺がパパになるだろう?」「……馬鹿じゃないの」マンションに着くと、病院で買い込んだ猫用品がかなりの量になっていた。詩織は運転手の小林に手伝ってもらおうとしたが、柊也がこの点数稼ぎのチャンスを部下に譲るはずがない。バックミラー越しの鋭い視線に気づいた小林は、しどろもどろになりながら言った。「あ、あの、私、手首が腱鞘炎でして……荷物はちょっと持てそうにありません」「腱鞘炎なのに運転してたの?そっちの方がよっぽど危なくない?」詩織には、柊也のわかりやすい魂胆などお見通しだ。「雇われの身の人間を、あんまりいじめないでやってくれ」こんな時だけ物分かりのいい上司を演じながら、柊也は軽く肩をすくめた。「俺にも少しは、いいところを見せるチャンスをくれないか?」「でも、今日はミキが家に来てるから」詩織の意図は明確だった。どうせ部屋には上げない、という牽制だ。柊也は小さくため息をついた。「わかってる。上の玄関先まで運んだらすぐ帰るよ。それでいいか?」親友であるミキという厄介な『門番』がいる以上、中に入り込めないことくらい彼も承知している。それならと、詩織もこれ以上は拒まず、大人しく彼に荷物持ちを任せることにした。エレベーターに揺られながら、柊也が唐突に問いかけてきた。 「なあ、君のところの『手厳しいお目付け役』は、何が好みなんだ?」 「……お目付け役?」 詩織が怪訝そうに聞き返すと、彼は平然と言ってのけた。 「彼女の親友ってい
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第910話

「……ちょっと、あんた」じっと探るような目つきに、詩織は心細さを隠しきれず、思わず声が上ずった。「な、何よ……」「おかしいわね」ミキはまるでスパイを尋問するような鋭い視線を向けてきた。「なんであんたから、賀来柊也の匂いがするの?」「は……?柊也の匂いって、何のことよ」「とぼけないでよ。私、頭の回転じゃあんたに敵わないけど、鼻の良さだけは自信あるの。この香りは絶対にあの男のものだわ。しかも、これだけしっかり移ってるってことは、かなり密着しないとあり得ないわよ!」腰に手を当てて「さあ、洗いざらい吐きなさい」と迫りくるミキ。詩織はしどろもどろになりながら弁解した。「だ、だから、式典で席が隣同士だったのよ。ウソだと思うなら、大学の公式SNSを見てみなさいよ」実はミキも、その公式アカウントの写真をとっくにチェック済みだった。集合写真で柊也が詩織にぴったりとくっついているのを見ていたため、「まあ、そういうこともあるか」とあっさり納得してくれた。ちょうどそのタイミングで、仔猫が小さな肉球でミキの指にじゃれついたため、彼女の意識は完全にそちらへ移ってしまった。「ああもう、この子ほんとに天使ね……!」――その夜。シャワーを浴びてベッドに入ろうとした詩織のスマホが震えた。画面を見ると、柊也からのメッセージ。【子どもは寝たか?】「…………」どこまで父親を気取っているのだろうか。詩織は呆れて返信を打つのをやめた。数分後、再びバイブレーションが鳴る。【どうやら、ママの方も寝てしまったみたいだな】続いて、三通目。【おやすみ】画面に浮かんだその短い言葉を、詩織はじっと見つめ続けた。やがて小さく息を吐き、ずっと未登録のままだった彼の番号を、ついに連絡先に追加する。ただし、「賀来柊也」と登録すれば、鋭いミキに見つかった時に面倒なことになる。入力しようとした指を止め、詩織はバレないように、まったく別の名前を打ち込んだ。翌朝、ミキはいつもよりずっと早く起き出してきた。「ねえ聞いて! 超有名なファッション誌の編集長から、新年の表紙の件で打ち合わせしたいって連絡が来たの!」弾んだ声で報告してくる彼女の、久しぶりに見る生き生きとした姿を、詩織はもちろん全力で応援した。今日は自分は会社に行かないからと、自分の専属運転手に彼女
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