Semua Bab 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Bab 941 - Bab 950

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第941話

柊也の声はわずかにかすれ、溢れ出す想いを抑えきれない様子で、詩織の瞼にそっと唇を落とした。松田龍二との因縁、そしてあの夜の記憶が詩織の脳裏を駆け巡る。胸が締め付けられるような感覚に襲われ、彼女は震える声で尋ねた。「……じゃあ、あの路地裏で私を助けてくれたのも、あなただったの?」「ああ」柊也はどこまでも優しい声で応じた。「あの頃、君が危ない目に遭わないか心配で、ずっと後をつけていたんだ。……まさか、本当にあんな奴らに襲われるとは思わなかったけど」あの時期、彼は父である海雲に「もう無茶な真似はしない」と約束し、監視のボディガードを遠ざけていた。ただ、誰にも邪魔されずに彼女を見つめていたかったのだ。顔を合わせることも、言葉を交わすこともない。それでも、遠くから彼女の姿を目にするだけで、明日も生きていこうと思えた。以前、須藤校長から聞かされた言葉が脳裏に蘇る。「あの日、身を呈して君を助けてくれた人はね、ひとりで八人を相手にして、半月も入院したんだよ」――あの時の恩人は、他でもない柊也だったのだ。その事実を噛みしめ、詩織の胸の奥で一旦は引いた熱が再びぶり返す。柊也は彼女の瞳の奥を覗き込むように、じっと見つめ続けた。「……誤算だったのは、退院してようやく君に会いに行った時、君の隣にはもう『騎士』がいたことだ」「それに、君が彼を『彼氏だ』と言っているのも、この耳で直接聞いてしまったからね」あまりに皮肉で、あまりに切ないすれ違い。「……どうして、あの時聞いてくれなかったの?」詩織は苦い後悔に苛まれる。十二年だ。人生の中で、これほど長い時間をどれだけ持てるというのだろう。「聞いたさ。だけど君は『好きな人がいる』と答えた。……俺は、それが京介のことだとばかり思っていたよ」京介の名を口にするだけで、柊也の瞳には隠しきれない暗い影が落ちる。未だにその名には、拒絶反応にも似た痛みが伴うのだ。「それはあなたが……いつだって私に冷たく接していたからじゃない」詩織の声に、割り切れない想いが混じる。「お母さんに骨髄を提供してくれた時も、私は恩返しがしたいって、あなたを訪ねて行ったのに」それは、詩織にとってあまり思い返したくない、若気の至りだった。当時、彼女はまだ十八歳。世間のことなど何も分かっておらず、人の心の機微に
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第942話

触れ合うほどに近い場所から、熱い吐息がうなじに吹きかかる。その熱は瞬く間に肌を伝い、全身を火照らせていった。顔を真っ赤にし、心臓を狂わせながらも、詩織は精一杯の平静を装う。「……救急箱を、片付けようとしただけ。別に、逃げてなんてないわ」柊也はその赤い耳たぶを至近距離で見つめ、不意に低く笑った。「何が可笑しいのよ」すべてを見透かされているような気まずさに耐えかね、再びその場を離れようとする。だが、立ち上がるよりも早く、背後から熱い体が重なった。痺れるような感触が腰に伝わり、逃げ場を塞がれる。そのまま耳たぶに柔らかな唇が落とされ、敏感な耳の奥に熱が吹き込まれた。思わず身をよじって避けようとしたが、柊也はそれを許さない。顔を傾けた彼は、逃げる詩織の淡い桜色の唇を、逃さず啄んだ。一度火がついた熱情は、もう誰にも止められなかった。柊也の口づけは激しく、貪欲で、彼女の退路を断つように深く、深く注がれる。やがて詩織が諦めたように瞳を閉じ、すべてを受け入れると、その力は少しずつ解け、甘く絡み合うような抱擁へと変わっていった。重なる胸の奥から、互いの鼓動がはっきりと伝わってくる。特に柊也のそれは、壊れそうなほど激しく打ち鳴らされていた。長い沈黙を破るように、柊也がようやく唇を離した。離れた詩織の頬は、上気して薄紅色に染まっている。その姿を見つめる柊也の瞳に、激しい衝動が渦巻いた。五年の空白――募りに募った独占欲は、たかが一度のキスで収まるはずもない。彼女の眼差し一つで、彼の欲望は容易く限界を超えてしまう。細い腰に回された指先が、無意識に、だが確かな意味を持って這い回った。そこが詩織の弱点であることを、柊也はよく知っている。どの場所が敏感で、どこを愛でれば彼女の理性が溶け出してしまうのか。五年という月日が流れても、彼はそのすべてを手の内に入れていた。首筋に熱い唇を這わせると、詩織の体がびくりと震えた。結んだ唇から漏れた子猫のような吐息が、柊也の昂ぶった神経をさらに煽る。痺れるような快感が全身を駆け抜け、柊也の声は、もはや判別できないほど掠れていた。彼は確認するように、愛おしさを込めてささやく。「……いいか?」自分は決して紳士ではない。かつて、骨髄提供の恩返しだと言って
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第943話

詩織は小さく唇を噛み、ためらいがちに尋ねた。「……苦しい?」「見れば分かるだろ?」柊也は力なく笑い、まいったというように息を吐く。「この五年間、誰とも寝てないんだ。今までも何度かチャンスはあったけど、君に嫌われるのが怖くて、ずっと必死に耐えてきた」「俺だって男だ。君を前にして何の欲も湧かない方が、どうかしてる」ましてや相手は、十二年間求め続けた女性なのだ。抗えるはずがない。数秒の沈黙の後、詩織はぽつりと言った。「ミキが言ってた。一度私を捨てた人は、これから先も私を大切にしないって。手に入れた途端、どうせまた冷たくなるだけだって」その言葉に、柊也の熱は一瞬にして凍りついた。顔を上げた彼の瞳に、痛切な自責の念が浮かぶ。彼女がこれほどまでに怯え、今の状況を夢幻のように感じてしまうのは、すべて自分が深く傷つけたからだ。彼は詩織の手を取り、その甲に謝罪と祈りを込めるように深く口づけた。「……ごめん。俺が君を傷つけたからだ」「無理強いは絶対にしない。もし君が、手に入れられたら捨てられると不安に思うなら、この先ずっと焦らしてくれて構わない。一生そのまま、俺を弄んだっていい」詩織が帰宅したのは、すでに夜の十時を回っていた。柊也が家まで送り届けてくれたのだ。玄関を入ると、ミキがカイと遊んでいた。詩織の姿に気づき、声をかけてくる。「夕ご飯、食べた?」「うん、食べたよ」「よかった。私、作ってないから」ミキはカイを抱きかかえ、わしゃわしゃと撫で回している。カイもすっかり撫でられ慣れたもので、威嚇することもなくされるがままだ。「私、来週から仕事で北里に撮影に行くんだ。しばらく専属シェフはお休みだから、休暇中のお手伝いさん、呼び戻したら?」詩織は少し考えた。「ううん、いいよ。最近向こうも休みを満喫してるみたいだし。夕飯なら心配しないで。密がいるから、飢え死にすることはないわ」「それもそうね」密がいなくても、あの『忠犬』が目を光らせているのだ。たしかに彼女が食事に困る心配はないだろう。詩織がカイを抱き上げようと身を乗り出した時、ミキがふと彼女の首筋に目を留めた。「ねえ、首のそこ、どうしたの?赤いけど」「えっ……あ、蚊に刺されたのかも」「真冬に蚊なんている?」「……」詩織は言葉に詰まった
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第944話

詩織は光一に探りを入れてみた。「どうやら、とんでもない相手を怒らせたようです。詳細は私にも分かりませんが……華栄に大きな損失が出る前に発覚して、不幸中の幸いでした」自分が持ち込んだ案件だったため、光一はひたすら恐縮し、頭を下げ続けた。「江崎社長、今回は本当に申し訳ありませんでした。このお詫びとして、次回はもっと大きな案件を華栄に紹介させていただきます」「岡本さん、どうかお気になさらないでください」光一を見送った後、詩織は業界の友人に連絡して情報を探った。「『栞』って会社、聞いたことある?」友人は逆にそう尋ねてきた。「もちろん。確か、高温超電導の研究からスタートして、ここ一、二年は独自の資産運用会社も設立したはず。いくつものプロジェクトに投資して大儲けしてるって噂よね。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いじゃない」詩織にとって、その社名は強く印象に残っていた。というのも以前、真理子が『ココロ』の出資元として『栞』に目星をつけ、接触を図っていたという話を聞いていたからだ。彼女はかなりの労力を注ぎ込み、あと少しで『栞』の扉をこじ開けるというところまで漕ぎ着けていたはずだった。だがなぜか、突然交渉は白紙に戻された。不意打ちを食らった真理子は、仕方なく本港市の資本に望みを託すことになった。新たな出資者を見つけるため、何度も本港市へ足を運んでいたのだ。当然、詩織にも本港市には人脈がある。真理子のそうした動向は、すべて詩織の耳に入っていた。最近では、『桐生キャピタル』とかなり親密にやり取りしているらしい。桐生キャピタルのトップは、小宮山序だ。だが今、詩織の関心は本港市の桐生キャピタルにはなかった。目の前の『栞』だ。彼女は手元のメモ用紙に『栞』のローマ字、「SHIORI」と書き留めた。社名をローマ字で表記するのは、詩織の昔からの習慣だった。メモを簡潔にするためと、万が一の機密漏洩を防ぐためだ。——高温超電導からのスタート。そこで詩織のペン先がピタリと止まった。ふと、ある記憶が蘇ったのだ。かつて柊也が、志帆のために設立した会社。その名を『パース・テック』と言った。その設立目的も、まさに高温超電導プロジェクトの開発だった。ただし、最終的にそのプロジェクトは大きな事故を起こし、結果としてエイジアま
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第945話

同じ人間の血が通っているとは思えない、あまりの冷酷さだ。五年間だぞ!この五年、俺がどれだけ地獄を見てきたと思っているんだ!泣きつくようなスタンプを連打しても、柊也は完全スルー。太一は、自分のアカウントがミュートされているのではないかと本気で疑った。【ココロの真理子が、本港市にある桐生キャピタルと接触し始めたらしい。最近頻繁に会ってるみたいだが、何を企んでるかまでは分からない】最後にそうメッセージを送って、ようやく返信が来た。【監視を続けろ】「……」太一は絶句した。『栞』の話題になると死んだふりをするくせに、詩織に関することとなると途端に生き返るのだ。もううんざりだ!【で、お前は華栄で一体何にそんなに忙しくしてるわけ?】自分の会社を放り出すほど、一体何をしているというのか。案の定、柊也はこのメッセージも華麗にスルーした。腹立たしさと好奇心に耐えきれなくなった太一は、詩織への挨拶を口実に、自ら華栄のオフィスへ乗り込んだ。足を踏み入れるなり、詩織に尋ねる。「柊也のやつはどこ?姿が見えないけど」もちろん、詩織も彼のお目当てが柊也であることは百も承知だった。彼女は書類から顔も上げずに答えた。「プロジェクトチームのみんなに、コーヒーを買いに行ってるわ」太一は顎が外れそうになった。「あいつに……パシリでコーヒーを買いに行かせてるのか?」いくらなんでも、大物の無駄遣いが過ぎないか?「何か問題でも?」詩織は逆に問い返した。アシスタントの仕事って、そういうものでしょう?「……いや、何でもない」太一はようやく悟った。要するに、完璧な主従関係が成立しているのだ。一方は平然と顎で使い、もう一方は喜んでこき使われている。完全に惚れた弱みというやつだ。詩織のオフィスを出た太一は、まだ呆然としていた。やがて、外から二十杯以上ものコーヒーを両手に提げて戻ってきた柊也の姿を目撃し、彼の表情は完全にヒビ割れた。本当に、自分の会社の社長室に座るより、ここでパシリをしている方がマシだというのか?だが、さらに太一の正気を奪ったのはその後の光景だった。柊也は買ってきたコーヒーをチームの同僚たちに一つ一つ配り終えると、今度は給湯室にこもり、一心不乱に詩織のための特製ハーブティーを淹れ始めたのだ。誰か、あ
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第946話

詩織は閉じていた目を開き、彼を見上げた。「苦労して、って?」「ああ」柊也の長い指が彼女の頬を滑り、そのままうなじへと移動して、ゆっくりと揉みほぐしていく。「接待のプロみたいな同業者からノウハウを聞き出して、少しずつ君の酒に慣らしていったんだ」それはもう十年以上も前のことのはずなのに、彼の記憶にははっきりと刻まれているらしかった。「最初の頃、君のリミットはたったグラス三杯だった。チャンポンなんてもってのほかで、ビールと焼酎を混ぜれば二杯半で完全にダウン。ワインなら四杯はいけたが、後を引くから結局三杯に抑えなきゃならなかった」「あの頃、接待の席で君に三杯以上飲まれないように、俺がどれだけ言い訳をでっち上げたことか」「少し酒に強くなってからは、五杯から八杯いけるようになった。強い酒もお猪口なら十杯は飲めたな。チャンポンも平気になったが、その分悪酔いしやすくなった。だから飲む前に必ずヨーグルトで胃の粘膜を保護させて、飲んだ後には翌日の頭痛対策でレモン水を用意したんだ」詩織自身でさえ曖昧になっているような細かいデータまで、柊也はまるでマニュアルを読み上げるようにスラスラと語ってみせた。「どうしてそこまで鮮明に覚えてるの?」不思議に思って尋ねると、予期せぬ答えが返ってきた。「毎回、記録をつけていたからな」「記録って……どうしてそんなこと」「俺が同行できない接待の時、誰も君の酒量を代わりに計算してやれないだろう。だから君の限界を正確に把握して伝えておく必要があった。そうすれば、君自身でペース配分ができるからな」そう言われてみれば、思い当たる節がある。詩織が単独で会食に出向く時、柊也は必ず「これ以上は飲むな」とリミットを念押ししてきた。どうしても酒を断れない相手なら、あの手この手で言い訳を作って逃げろ。どうしようもなく厄介な相手なら、いっそ契約ごと見送っても構わない——と。だが、当時の詩織はあまりにも必死すぎた。彼が海外へ拠点を移していた二年間、彼女は自分の胃をボロボロにするまで、身を粉にして働き続けたのだ。こんな結果になるなら、最初から彼女に酒の飲み方など教えなければよかった。その時のことを、彼は今でも深く後悔しているらしい。彼女の眉間を優しく撫でる彼の指先から、痛切な後悔が伝わってくる。その瞳は
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第947話

彼は車のシートにどっしりと構えたまま、手のひらで彼女の細い腰をしっかりとホールドし、その赤い唇のすぐ近くで低く囁いた。「これなら、思う存分できるだろ?」彼女の方から求めてくるなど、滅多にないことだ。これがどれほど理性を削る甘い拷問だとしても、彼は喜んでその底なし沼に溺れる覚悟だった。密着した姿勢に、詩織の頬がカアッと熱くなる。全身が小さく震えた。これまでの睦み合いは、いつも柊也が主導権を握っていた。五年の空白も重なり、こうしたことへの免疫はすっかり失われている。ただ、子供のように唇を押し当てることしかできない。見かねた柊也が、低く甘い声で導く。「詩織、口を開けて」促されるままに唇を割ると、すぐに熱い粘膜が吸い上げられた。湿り気を帯びたキスは、彼がずっと抱いてきた感情そのもののように、温かく、それでいて懸命に理性を保っている。もともと、詩織は飲み込みが早い女だ。絡まる舌に自らも応え、彼の熱を追いかける。その積極的な変化に、柊也はたまらなく愛おしそうに目を細めた。深淵のような瞳に、歓喜の光が宿る。あまりに無防備で健気な姿に、柊也の自制心が悲鳴を上げた。キスは不意に深く、激しくなる。肺の酸素が強引に奪われ、熱い吐息が口内を満たしていく。主導権はあっけなく、柊也の手へと戻った。突然の豹変に翻弄され、詩織は無意識に彼の背中へ爪を立てた。逃げ場のない快楽に、声にならない吐息が漏れる。一度唇が離れると、柊也は赤く腫れた彼女の唇を、燃えるような眼差しで見つめた。そのまま首筋へと顔を埋め、熱い吐息を吹きかける。詩織の肌が、瞬時に鮮やかな緋色に染まった。柊也の手は、まるで火の玉のように熱い。腰を抱き寄せるその熱量に、詩織の背筋が戦慄いた。車はいつの間にか、詩織の住むマンションの下に停まっていた。運転手は空気を読み、すでに車を降りて姿を消している。詩織の鼓動は早鐘を打ち、言葉にできない渇望が全身を支配した。彼の服を掴む指先に、ぎゅっと力がこもる。柊也がコンソールボックスから除菌シートを取り出し、ゆっくりと自分の指先を拭った。詩織は潤んだ瞳を細め、ぼうっとした頭で彼を見つめている。上気した顔は熱く、眼差しには艶があった。車内の空気は、濃密な情欲に塗り潰されていく。詩織は彼の肩
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第948話

詩織がマンションの部屋に戻っできたのは、電話を切ってからさらに三十分後のことだった。柊也の視線は、エントランスに吸い込まれていく彼女の後ろ姿を、見えなくなるまで未練がましく追い続けていた。彼女の姿が消えると、彼は深く、長いため息を吐き出した。体中を駆け巡る血の熱を、必死に沈めようとする。こわばりきった体がゆっくりと解けるまで、かなりの時間を要した。やり場のない熱と苛立ちを逃すように、シャツの襟元を乱暴に引っ張る。詩織のあの親友は、下手に姑よりよっぽど厄介だ。しかも詩織は、彼女のこととなるとなぜか過剰に庇い立てするのだ。俺の存在が、将来ミキの優先順位を超える日が来るのだろうか。諦めきれない苛立ちを抱えたまま、柊也はスマートフォンを取り出し、ある番号へと発信した。詩織が玄関のドアを開けると、ちょうどミキがカイにミルクを与えているところだった。子猫のぽっこり膨らんだお腹は、まるで手羽先餃子のようにパンパンになっている。「さっき『もう下に着く』って言ってたのに、ずいぶん時間かかったわね?」ミキはからかうように尋ねた。幸い、玄関の照明が暗かったおかげで、後ろめたい視線を隠すことができた。昔、柊也とこっそり付き合い始めたばかりの時でさえ、こんなに緊張したことはなかったのに。「えっと、ちょっと道が混んでて」「こんな時間に渋滞?」ミキが容赦なく核心を突く。また言い訳を考えておくのを忘れた。詩織は苦し紛れに話を合わせるしかない。「なんか軽い事故があったみたいで。少し足止め食っちゃったの」ミキは「ふーん」とだけ言って、それ以上は追及してこなかった。信じたのか、あえて乗ってやったのかは分からない。詩織が手を洗ってリビングに戻ると、ミキはすでに温め直した夕食をテーブルに並べ、向かいの席に座っていた。詩織が箸を進めている間、ずっと彼女の顔を穴が開くほど見つめてくる。さすがに居心地が悪くなり、詩織は顔を上げた。「ねえ、さっきから何見てるの?」「あんた、リップどうしたのよ。グチャグチャじゃない」「……お酒飲んだから落ちたんじゃないの」「アシスタントは化粧直しするよう注意してくれなかったの?」詩織は危うく舌を噛みそうになった。注意するどころか、そのリップを台無しにした張本人なのだ。「それ
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第949話

これ以上踏み込めば、本当に恥ずかしさで爆発しかねない。話題が変わったことで、詩織の胸のつかえもようやく少しだけ下りた。【ミキの新しい仕事、あなたが手を回したの?】【ああ、手強いお目付け役の機嫌を取るためにな】彼はことあるごとにミキを「お目付け役」と呼ぶ。詩織もすっかりその呼び名に慣れてしまい、初めの頃のようにいちいち反論すらしなくなっていた。とはいえ、身内に対する庇護欲は強い。ミキの気持ちを尊重するなら、今は柊也に妥協してもらうしかなかった。【ミキはいつも「養ってほしい」なんて冗談言ってるけど、本当は自分の仕事にすごく誇りを持ってるの。機嫌を取るのはいいけど、絶対ぬか喜びになるような真似はしないでね】詩織は自分の懸念を正直に伝えた。【分かってる。二人の邪魔さえしなければ、彼女をトップの女優に押し上げてみせるさ】翌朝。ミキの出発はかなり早かったため、昨夜のうちに「タクシーで行くから見送りは気にしないで」と詩織に念を押していた。しかしマンションのエントランスを出ると、すでに一台の黒塗りの車が待機していた。運転手が慇懃に頭を下げる。「近藤様。ボスの仰せで、空港までお送りいたします」「あなたのボスって……誰?」「賀来柊也様です」——露骨な餌付けね!だが……まだ外は暗く、ここでタクシーを拾おうと思ったら大通りまで歩かなければならない。ミキはほんの数秒だけ葛藤した後、あっさりと妥協して車に乗り込んだ。車に乗り込むと、運転手が助手席に用意されていた紙袋を差し出した。「近藤様。ボスから手配された朝食です。どうぞお召し上がりください」中に入っていたのは、数日前に彼女が食べてお気に入りになったという、あのお店のキッシュだった。——ふん。随分とご機嫌取りがお上手なこと。彼が過去に詩織にした酷い仕打ちさえ知らなければ、少しは見直してもいいところだけど。ミキはキッシュを頬張り、高級車のシートにドカッと腰を落ち着けながら運転手に言った。「あなたのボスに伝えといて。私、奢られたり物をもらったりしても、すぐ忘れちゃうタチなのよ。恩とか義理に縛られる気なんてさらさらないから」運転手は愛想よく微笑んだ。「承知いたしました」腹が満たされると、彼女はロールス・ロイス名物の『スターライト・ヘッドライナー』
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第950話

「白彦、悪いことは言わねえ。女ってのは甘やかしすぎちゃダメなんだ。つけ上がるだけだぞ」喋っているのは、由木白彦と長年つるんでいる悪友の、乾武志(いぬい たけし)だった。ミキがすでに由木家から籍を抜き、法的にも関係を断ったことを知る数少ない人間の一人だ。「武志の言う通りだよ。ミキのやつ、わざとお前を脅してるだけだって。弁護士まで立てて『公正証書を作れ』なんて息巻いてるけどさ、結局お前がいなきゃ生きていけないんだから」そう追従したのは、もう一人の友人、仙道健(せんどう けん)だ。普段から口の悪い男だが、今日はさらに輪をかけて毒を吐いている。「放っておけよ。向こうが音を上げて縋り付いてくるまで、適当にあしらってればいいんだ」武志が鼻で笑って付け加えた。「そうそう。身寄りのない女なんだ、お前に見放されたら行く当てもないだろ」白彦は終始無言のまま、ただひたすらに酒を煽っていた。この飲み会をセットしたのは彼自身だ。時間が経てば経つほど、彼の苛立ちは募っていた。特に、ミキの代理人である峰岸丞弁護士から二、三日おきに公正証書へのサインを催促されるのが、たまらなく癪に障る。離婚届を出してやったのだから、それで彼女の気は済んだはずだ。なぜあれほど徹底的に自分との縁を切ろうとするのか、彼には到底理解できなかった。これまでは少し放っておけば向こうから折れてきたのに、今回はどれだけ待っても彼女から歩み寄ってくる気配はない。プライドを捨てて自ら江ノ本市へ出向いたこともあった。だが彼女は弁護士の助言通り一切の接触を拒否し、どんな提案にも耳を貸さず、裁判をちらつかせてまで完全なる決別を突き通そうとしている。彼にとって唯一の救いがあるとすれば、このところ二階堂澪士が彼女のそばにいないことくらいだった。武志がまだ何か言おうとしたその時、テーブルの上に置かれていた白彦のスマートフォンの画面が光った。着信を報せるディスプレイには、その場にいる全員に見えやすいように名前が表示されている。健がその名前に気づいて、ニヤリと笑った。「おやおや、お前んとこの『愛妻』からお呼び出しだぜ。早く出てやれよ」武志も面白そうにからかう。「璃々子ちゃんは相変わらず寂しがり屋だねぇ。俺たち、集まってまだ一時間も経ってないのに」どうやら、彼の取り巻
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