All Chapters of 冷酷夫、離婚宣言で愛を暴走: Chapter 281 - Chapter 290

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第281話

時生は淡々とした声で言った。「心菜はまだ小さい。一人で海外に行かせるのは、正直心配だ」「私がちゃんと面倒を見るわ!」優子が慌てて保証するように言う。「一瞬たりとも離れず、ずっとそばにいる。まさか……私のこと、信用してないの?」「君には仕事があるだろ」時生は彼女の言葉を遮った。口調は静かだが、有無を言わせない。「心菜につきっきりで、仕事を疎かにするわけにはいかない」優子はまた被害者ぶった調子で、泣きながら訴えた。「私の仕事なんて、もうとっくに止まってるの。新しいドラマの制作側にもわざと嫌がらせされてるし、この数日、フィギュアスケートの練習で体中ケガだらけ。だったらいっそ、その時間を全部心菜に使ったほうがいいわ」そう言いながら、青あざの残る腕や脚を時生に見せた。時生の視線はその傷跡に二秒ほど留まったが、本物かどうかを見極めることもなく、ただ淡々と言った。「新作ドラマの出資は俺がなんとかする。来週、監督に会わせてやる」優子の目に浮かんでいた悔しさは、一瞬で驚きに変わり、すぐに隠しきれない喜びへと変わった。彼女は必死に口元の笑みを抑え、伏し目がちに、いかにも控えめな調子で言う。「時生……やっぱり、私を見捨てたりしないと思ってた」時生は答えず、ただ淡々と告げた。「もう遅い。帰ったほうがいい」優子は素直に返事をし、立ち去るとき、私の横を通り過ぎながら、口元に得意げな笑みを浮かべた。――時生が優子に何をしてやろうと、私にはどうでもいい。娘さえ、彼女の手に渡らなければ。たとえ時生が、空の星を摘んで彼女に差し出そうと、それは私には関係のないことだ。優子が去ったあと、私も帰ろうとした。「昭乃」背を向けた瞬間、時生が私を呼び止めた。私は足を止めたが、振り返らなかった。彼は数歩近づいた。首元にかかる息は、相変わらず冷たくて馴染みのあるものだ。「お前の兄の件、告訴は取り下げてもいい。今回は……これで終わりにしよう」その寛大そうな言葉を聞き、私はかすかに口元を緩め、問い返した。「それで?今回は何が条件なの?」――私は、彼をよく知っている。時生の差し出すものに、無償なんてものはない。案の定、彼は眉をわずかにひそめ、低い声で言った。「こちらが告訴を取り下げる代わりに、お前も離婚訴訟を取り下げてほしい。せめて……償う機会
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第282話

私は顔から火が出そうになり、慌てて何度も頭を下げた。「すみません、今すぐ母を連れて帰りますから……」けれど奈央は、どうしてもその場を離れようとせず、泣きながら訴えた。「昭乃、弁護士さんから聞いたの。お兄ちゃん、向こうで人と揉めて、ひどく殴られたらしいのよ……顔中あざだらけだって!あの子は小さい頃から大事に育ててきたの。だからこんな苦労したことなんてなかったのよ。今、お兄ちゃんを助けられるのは高司さんしかいないの。国内でも一番有名な弁護士だって聞いたわ。きっと、何か方法があるはずよ!」ちょうどこのとき、高司が戻ってきた。背が高くて気品のある彼の後ろには、スーツ姿の男女が何人か続いていて、どうやら仕事の相手らしい。この騒ぎに気づいた高司は、不機嫌そうに眉をひそめ、亮介に尋ねた。「どういう状況だ?」「た、高司さん……こちらは……昭乃さんのお母さんで……」亮介はおずおずと答える。「昭乃さんのお兄さんの件で来られたみたいです」そこでようやく、高司は私がここにいることに気づいたようだ。奈央も彼を見るなり、場の空気などお構いなしに駆け寄り、泣きすがった。「高司さん、どうか知恵を貸してください。息子を助けてやってください……!」私は慌てて奈央の腕をつかんだが、力が入っていてまったく動いてくれない。高司は明らかに不快そうだったけれど、ぐっと感情を抑え、後ろの取引先らしき人たちに言った。「すみません」それから私に向き直り、淡々と告げた。「今、大事な案件で忙しい。先にお母さんを連れて、ラウンジで待っててくれ」その目の奥に、ほんの一瞬、露骨な嫌悪が浮かんだ気がした。まるで、面倒ごとを押し付けられたときのような視線。一瞬で顔が熱くなり、プライドが音を立てて崩れ落ちた。もうこれ以上、助けを求める気にはなれない。私は気まずく言った。「すみません、高司さん。母は私が連れて帰ります。お仕事、どうぞお構いなく」高司は軽くうなずき、すらりとした足取りで奥へと歩いていった。奈央は、亮介と私の二人がかりで引き止めなければ、追いかけてしまいそうだ。私は相当苦労して、ようやく奈央を車に乗せた。責める気にはなれず、ため息まじりに言う。「……お母さん。実は前にも、お兄ちゃんの件で高司さんに相談したことがあるの」奈央はすぐに聞き返した。「それ
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第283話

スマホがずっと震え続けていた。奈央がそばで泣いていて気づいていない隙に、私はさりげなくスマホをバッグにしまい込み、その電話には出なかった。さっき法律事務所で、高司が眉をひそめてこちらを見た表情が、まだ目に焼きついている。きつい言葉を言われたわけじゃない。それでも、あの視線に混じったわずかな嫌悪が、私に突きつけてきた。私はもう顔向けできないし、これ以上、彼の助けを受ける資格もない。そもそも、私たちの間には埋めようのない差がある。仮に手を差し伸べてもらえたとしても、それは一方通行だ。助けるのは彼で、助けられるのが私。私は、何を返せるというのだろう。だから、スマホがバッグの中で震え続けていても、結局出なかった。高司も、きっと礼儀とか、祖父母の顔を立てての電話だったんだと思う。私が出なかったから、彼も二度目はかけてこなかった。やがてスマホは静かになり、車内には奈央の押し殺したすすり泣きだけが残った。胸の奥が詰まるようで、息苦しい。私は小さく息をつき、少し弱った声で言った。「お母さん、先に家に帰ろう。お兄ちゃんのことは……私がもう一度、考えてみるから」そう言いながら、ふと奈央が最初に口にした言葉を思い出し、一言一言かみしめるように続ける。「結城家に育ててもらった恩は、ちゃんと心に刻んでる。私は……恩を仇で返すようなことはしない」奈央は気まずそうに私を見て、慌てて言った。「昭乃、お母さんは……そんなつもりで言ったんじゃないの。気にしないで……」私は何も返さず、そのままアクセルを踏んだ。……結城家。奈央と一緒に中へ入った瞬間、リビングのソファに座っている人物を見て、思わず足が止まった。時生だった。カーキ色のトレンチコートに身を包み、どこか品のある佇まい。冷えた視線が、まっすぐこちらに向けられる。どう見ても、ビジネスの世界で容赦なく決断を下し、かつて競合相手の一家を追い詰めた男には見えない。胸の奥から一気に怒りが噴き上がり、私はきっと睨みつけた。「時生、よくも結城家に顔を出せたわね?」時生の表情がわずかに沈み、黒い瞳に複雑な色が浮かぶ。そのとき、父が自らお茶を運んできて、慌てて間に入った。「昭乃、誤解してる。時生は私が呼んだんだ。そんな言い方をするもんじゃない」そう言ってから、父は時
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第284話

私は口元を少し引きつらせて言った。「そんなこと、どうでもいい。前にもあなたは私を疑って、誤解したでしょ。そのときだって、真実なんて一度も大事にされたことはなかった。私はただ、どうしたら兄を放っておいてもらえるのか、それだけが知りたいの」時生は拳をぎゅっと握りしめ、関節が白くなるほど力を込めていた。必死に何かをこらえているようだ。そして、冷えた声で言う。「訴えを取り下げることはできるって言ったはずだ。ただし条件がある。今すぐ離婚訴訟を取り下げて、戻ってこい。もう一度、俺の妻としてやり直すんだ」どうしてもわからなかった。時生はいったい、何がしたいのか。何を求めているのか。彼は私を愛してなんていない。それなのに、なぜ「やり直す」なんて言うの?考えられる理由は、ひとつしかなかった。時生みたいな人間が、離婚裁判で「訴えられる側」になるなんて、我慢ならないのだ。きっと彼は、振られるくらいなら、自分から振るべきだと思っているのだ。私はうなずいた。迷いはなかった。「いいよ。わかった」離婚訴訟なんて、一生に一度しか起こせないものじゃない。兄の件が完全に落ち着いたら、また起こせばいいだけだ。……二日後、私は離婚訴訟を取り下げた。時生も約束は守った。とはいえ、兄が犯したのは刑事事件だ。弁護士の話では、保釈が認められるとしても、早くて一か月先になるらしい。孝之から電話がかかってきたとき、私は黒澤家の別荘のリビングに立っていた。向こうで、父は興奮した声で言った。「今回は本当に、時生が大目に見てくれたおかげだよ。昭乃、時生とはうまくいってるのか?お父さんもお母さんも、君たちにどうお礼を言えばいいかわからなくてな」「……」電話を切って、私は静かに息を吐いた。結城家はひとまず落ち着いた。育ててもらった恩は、これで返せたはずだ。それでも、胸の奥にのしかかる重さは、まるで減らなかった。だって、私と時生の取引は、まだ始まったばかりなのだ。そのとき、時生が背後から私を抱き寄せた。こわばる私の体など気にも留めず、顎をそっと私の頭のてっぺんに乗せ、優しい声で言う。「お兄さんも、しばらくしたら出てこられるはずだ。ほら、みんな穏やかに過ごせてる。こういうの、いいだろ?」滑稽だ。時生の言葉を訳すなら、こうだ。――俺の
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第285話

そう言うと、時生は使用人に指示した。「彼女のスーツケースを主寝室に運んで。荷物もきちんと片づけておいて」使用人が動こうとしたので、私は慌てて言った。「待って」それから私は時生を見て、尋ねた。「本気で、私とやり直したいの?」彼は笑った。「俺の誠意、まだ足りない?今回、お兄さんへの訴えを取り下げたのがどれだけ大変だったか知ってるだろ。取締役会の連中がどれだけ騒いだか、俺がどれだけ圧力を背負ったか」私はその言葉に丸め込まれることなく、のらりくらりとかわした。「もし本当にやり直したいなら、少し時間をくれない?これまでのこと、私の中で整理するのに時間が必要なの。今は……まだ、あなたと一緒に主寝室で暮らす気にはなれないの。前に使ってたゲストルーム、しばらくそこに住ませてもらえない?」主寝室なんて、時生と優子が散々使った場所だ。そこに私を寝かせるなんて、毎日吐き気がするに決まってる!時生の視線がしばらく私の顔に留まり、何かを察したように、珍しく自分から説明した。「昭乃、俺と優子の間には、お前が想像してるようなことは何もなかった。本当に何もだ。もしあのベッドが気になるなら、今すぐ替えさせる」私は、少しだけ言葉を失った。時生の言葉なんて、どこまで本当か分からない。男女が同じ部屋、同じベッドであれだけ長く過ごして、何もなかったなんて、あまりにも滑稽だ。でも、今はそれを追及する時じゃない。それに、彼が誰と何をしようと、もうどうでもよかった。今はとにかく機嫌を取って、この期間を無事にやり過ごす。兄の手続きが終わって外に出たら、もう一度離婚を訴えるつもりだから。だから私は落ち着いた声で言った。「信じるわ。でも、この結婚をもう一度受け入れるには、やっぱり時間が必要なの。気持ちが整理できたら、主寝室に戻る」時生は数秒間私を見つめ、結局それ以上は無理強いせず、うなずいた。「分かった」私は心の中でそっと息を吐き、それ以上何も言わず、急いでスーツケースを引いてゲストルームへ向かった。……夕食の時間になると、テーブルには私の好きな料理がほとんど並んでいた。その時、時生はまだ書斎で仕事をしていて、春代がにこにこしながら私に言った。「奥様、これはすべて旦那様がわざわざ指示なさったんですよ。ほら、以前はこの食卓に、旦那様は肉料理なんて一品も置
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第286話

その後、時生から贈られた思い出の品や指輪、ジュエリーはすべて売り払い、そのお金を母の治療費に充てた。まさかあの指輪が、再び時生の指にはめられるときが、私たちの結婚が、すでに終わりへ向かっていたなんて、思いもしなかった。そのとき、時生が突然私に聞いた。「お前の結婚指輪は?食事が終わったら出してつけなよ。前は、キラキラしたものが好きだっただろ?」「売ったわ」私は淡々と、そう答えた。時生の手にしたスプーンがぴたりと止まり、眉間に露骨な不機嫌さが浮かぶ。「いつ売った?」「あのときよ。思い出の品を売ったとき。あなたのお母さんが、これからは母の治療費をあなたが負担しないっていう話だったでしょ。だから、売れるものは全部売ったの」理由ははっきり説明したし、これで私を責めることはできないはずだ。案の定、時生は何も言い返せなかった。さっきまでの穏やかな表情は消え、氷のように冷えた顔で黙々と食事を続ける。食べ終わると、そのまま一人で二階へ上がり、私に一言もかけなかった。正直、私はほっとしていた。今みたいに放っておいてくれる方が、ずっと楽だ。逆に、彼が近づいてくるほうが、私には猛獣に追い詰められるようで、息が詰まる。食後、ゲストルームに戻ると、スマホに何件も不在着信が入っていた。全部、理沙からだ。折り返し電話をかける。「昭乃!やっと出た!助けてほしいの!最近、会社が忙しすぎて手が回らなくてさ。ちょうど内部推薦の枠があって、試用期間は二か月。問題なければ正社員になれるんだけど、来てみない?」私は少し考えた。仕事があれば、堂々と朝早く出て夜遅く帰れる。一日中この別荘で、時生の目の届くところにいるより、ずっといい。「うん、行く」そう答えると、理沙は大喜びだった。ふと思い出して、私は聞いた。「ねえ、会社に食堂ってある?」理沙は笑って言う。「あるよ!しかも、けっこう美味しいよ」それって、これからは三食全部、会社で済ませられるってこと?自分でも驚くほど、私は時生を避けたいと思っていた。食事も、睡眠も、彼の顔を見ることすら、もうしたくない。通話を終えると、理沙が会社の住所を送ってきた。……翌日、私は早起きしたけれど、時生はそれ以上に早く起きていた。彼は朝になると、ランニングか仏間に行くかで
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第287話

私がまるで石のように固まっているのを見て、編集長は一瞬きょとんとしてから言った。「昭乃さん、何か問題でも?」「えっと……」私は気まずそうに口を開く。「高司さんって、あまり取材を受けない方だと聞いたんですが……」編集長はうなずいて言った。「だからこそ、あなたに挑戦してもらいたいの。前に理沙が一度行ったけど、門前払いだったのよ。でも、これだけ話題になる記事を書いてきたんだから、あなたならできると思って」私はどうやって断ろうかと頭をフル回転させていた。せめて別の仕事に替えてもらえたら……!けれど編集長は続ける。「そんなにプレッシャーに思わなくていいわ。取材できたらラッキー、無理でも仕方ない。他の雑誌社も誰一人成功してないんだから」ここまで言われてしまった以上、これ以上断ったら、空気が読めない人みたいだ。「……わかりました」私は腹をくくって引き受けた。編集長室を出ると、理沙が声をかけてきた。「高司さんは本当に手ごわいよ。どうしても無理だったら、無理に粘らなくていいからね。編集長も、ダメ元くらいの気持ちだから」「うん、わかってる」そう答えたが、結局は高司に会わなきゃいけない。それに、あの日、奈央が君堂法律事務所で大騒ぎしたことを思い出すと、穴があったら入りたい気分だ。編集長室を出てから、少し言い訳を考えてから、高司に電話をかけた。電話口からは「プー、プー」という音が流れ、しばらくして無機質な女性の音声が「ただいま電話に出られません」と告げる。私は一瞬、動きを止めた。……もしかして、わざと?あの日、奈央を連れて事務所を出たあと、高司から電話がかかってきたけど、私は出なかった。つまり、これは仕返し?そう思ったが、すぐにその考えを振り払った。高司の年齢や立場を考えたら、そこまで気にする人じゃないはずだ。それに、あのときは迷惑をかけたくなかっただけ。でも、二回目、三回目と電話をかけても、やはり音沙汰はなかった。その頃には、私、本気で怒らせたんじゃ……と薄々感じ始めていた。……翌日、取材用の質問リストを抱えて、私は直接君堂法律事務所へ向かった。ちょうど亮介が書類を持ってエレベーターから出てきたところで、私を見るなり少し驚いた様子で、どこか意味ありげに聞いてきた。「昭乃さん、高司さんにご用ですか?
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第288話

「今、暇がない」高司は私の言葉を遮った。口調は淡々としているのに、かなり距離感があった。そう言うと、クラブをキャディに渡し、軽い足取りで休憩エリアの方へ歩いていく。私は一瞬ぽかんとした。――暇がない?ゴルフをして遊んでいる暇はあるじゃないか。そのとき、遠くからだんだん近づいてくる声がした。「俺がちょっとトイレに行ったくらいで、なんで打つのやめたんだ?」声の方を見ると、濃いグレーのスポーツウェアに身を包んだ男性が立っていた。彼も背が高く、どこか余裕のある雰囲気で、眉目には気取らない品の良さがあり、高司と年も近そうだ。高司は軽く彼に視線を向け、淡々と紹介する。「こちらは潮見市の江城家の江城晴臣(えじょう はるおみ)。俺の友人だ」続けて、今度は晴臣に私を紹介した。「昭乃。『週刊フォーカス』の記者だ」晴臣は私を一度じっと見回し、にっこりと笑みを深めた。そして高司を見ると、からかうような口調になる。「なるほどね。だからプレーを中断したのか。客人が来たってわけだ。でもさ、君って昔から記者が来るの嫌ってただろ?今日は珍しく例外だね」私は、自分から無理やり押しかけたと説明しようとしたその前に、高司が口を開いた。声の調子は相変わらず平然だった。「取材できるかどうかは、本人の腕次第だ。俺は何も約束してない」その一言で、私はぱっと背筋が伸びた。案の定、高司は私に視線を向け、ゆったりと言う。「ちょうど晴臣も来た。少し一緒に回ろう。昭乃さん、俺に勝てたら、取材の話も考えてやる」一瞬驚いたけれど、すぐに胸をなで下ろした。ゴルフは、実は私の得意分野だ。兄に教わったのがきっかけで、大学時代には地区のゴルフ協会主催の大会で優勝したこともある。でも、ふと思った。ここで彼の友人の前で本気で勝ってしまったら、さすがに彼の顔を潰すことになるんじゃない?下手をしたら逆効果かもしれない。そう考えて、私はあえて力を抑え、距離も一本一本調整しながら打った。結果は予想どおり、高司に一打差で負けた。クラブを振り終えた高司が、ちらりと私を見る。何か察したような目だったけれど、表情は変わらなかった。その様子をしっかり見ていた晴臣が、意味ありげに笑いながら高司の肩を軽く叩く。「この昭乃さん、なかなか賢いね」私は何も言えず、黙って下を向
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第289話

ここまで言うと、晴臣は苛立ったように手を振った。「もういい、やめよう。引き続き探そう。とにかく早く見つかってほしい。こんな見知らぬ街に、しょっちゅう来る羽目になるのはごめんだからな」私はそばで、彼らが友人同士で話す昔話を聞いていたけれど、内容はよく分からず、黙ったままでいた。その時、晴臣がふっと笑って、高司に言った。「そうだ、ひとつ聞いていい?君がうちに注文してるあのダイヤの指輪、どうしてもあれじゃなきゃダメ?」高司は視線を上げた。「何か問題でも?」「潮見市の黒澤グループ、黒澤時生から今朝連絡があってさ」晴臣は肩をすくめた。「ほとんど付き合いはないから意外だったよ。俺のところに、最高級の南アフリカ産ダイヤの指輪があるって知っててね。奥さんへのプレゼントだとかで、高値で買いたいって」時生の名前を聞いた瞬間、私ははっとして、手にしていたグラスの水を危うくこぼしそうになった。高司の視線が、さりげなく私のほうへ流れてくる。そのだけで、全身が落ち着かなくなった。私と時生の間にあった、あの見苦しいいざこざを、彼はすべて知っている。わざわざ説明する必要なんてないはずなのに、こんなふうに見られると、頬が熱くなり、胸の奥がざわついて、恥ずかしくて穴があったら入りたい気分だ。晴臣は何か面白い話を思い出したのか、ひとりで笑い出す。「そういえば、時生の噂って聞いたことあるな。前は小さな芸能人とやけに親しかったって話じゃなかった?それが、実はもう奥さんがいたとはね。でも今日の様子を見る限り、奥さんのことは本気みたいだ。あの指輪のために、俺の原価の二十倍を出すって言ってきた。誠意は十分だよ」その言葉に、高司は口元だけで薄く笑った。どこか見下すような響きで言う。「何だ?君は奥さんの誕生日パーティーに何億も使うくせに、時生のその程度の金が惜しいのか?」「いやいや、そういう話じゃないだろ」晴臣は眉を上げ、抜け目のない笑みを浮かべた。「俺らは商売人だ。お金とケンカする理由なんてない。で、どうだい?譲る気はある?上乗せ分は、二人で半分ずつってことで」私は隣で、無意識に指を絡めながら座っていた。胸の中に、綿を詰め込まれたみたいに、重たいものが溜まっていく。時生のこのやり方は、一見気前がいいようで、正直かなり引いた。それ以上に居心地が悪
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第290話

全力で挑んだが、結果は完敗だった。情けないほどボロボロで、クラブを握る手にすら力が入らない。そのとき晴臣が戻ってきて、ちょうど最後の一打を見届けた。彼は冗談めかして言う。「高司、さすがにそれは大人げないだろ。なんで女の子相手に本気になるんだ?」高司は答えず、ただこちらに視線を向けた。声は、以前と同じ冷たさに戻っている。「昭乃さん。賭けは賭けだ。悪いけど、あなたの単独取材は受けられない」サンシェードの隙間から差し込む陽射しが、彼の顔を照らしていた。あたたかいはずの光なのに、胸の奥からじわりと寒気が広がっていく。「……大丈夫です」私は笑顔を崩さず、ぎりぎりの体面を保った。「では、お友だちとの時間を邪魔してはいけませんね。これで失礼します」……ゴルフ場を出てすぐ、理沙に電話をかけた。力の抜けた声で言った。「ダメだった。高司はまったく取り合ってくれなかった」電話の向こうから、予想どおりと言わんばかりの笑い声が返ってくる。「でしょ?あの人、そう簡単に動くタイプじゃないもの。大丈夫よ、今まで成功した人なんていないんだから。編集長も責めないって」そう言われて、胸に残っていた敗北感は少し和らいだ。けれど、高司が最後に見せた、あの含みのある嘲るような表情を思い出すと、やっぱり胸の奥が詰まる。黒澤家の別荘に戻ると、時生はすでに帰ってきていた。リビングのソファに腰掛け、手には上品なベルベットの箱。私に気づくと、それを差し出す。「開けてみて」一瞬、ぼんやりしてしまった。その姿が、高校生だった頃の彼と重なったからだ。高校部だった時生が、よく中等部の私を迎えに来て、一緒に帰ったこと。珍しいものを手に入れると、今みたいに、少し得意げで、秘密めいた顔で私に差し出してきたこと。しかし今は、あの頃みたいな気持ちはもうない。胸が弾むことも、甘い喜びも、何一つ湧いてこない。私がなかなか手を伸ばさないのを見て、時生は自分で箱を開けた。中に収まっていたのは、晴臣が口にしていた、あのダイヤの指輪だった。高司と晴臣の会話が、耳の奥で一気によみがえる。その指輪を見つめながら、皮肉としか思えない。けれど時生は、私の異変にはまったく気づいていなかった。私の手を取り、薬指に指輪をはめると、満足そうに眺める。「いいね。サ
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