Alle Kapitel von 冷酷夫、離婚宣言で愛を暴走: Kapitel 301 – Kapitel 310

378 Kapitel

第301話

高司は淡々とした口調で言った。「俺のことは気にせず、話を続けて」そこでようやく、梨英が真也にこちらとの提携について切り出した。真也は少し困ったような表情を浮かべ、代わりにマネージャーが口を開く。「申し訳ありません。今回は見送らせてください。また別の機会があれば、ぜひ。実は今回、黒澤グループのほうと先に話がまとまっていまして……それに、最終的な判断は真也一人でできるものではありません。彼は事務所所属のタレントですから、会社の方針に従う必要があるんです」マネージャーはさりげなく、真也をこの交渉の中心から外した。全盛期の今、余計なところで恨みを買わせたくなかったのだろう。梨英の笑顔はそのまま固まり、私も少し肩を落とした。正直、真也を口説くのが簡単じゃないことは、最初からわかっていた。今夜こうして食事の場を設けたのも、半分はダメ元だったのだ。話が行き詰まりかけたそのとき、亮介がドアを開けて入ってきて、書類袋を一つ差し出した。誰も予想していなかった。その中に入っていたのが、真也と私たちとの正式な契約書だなんて。当の本人である真也ですら状況が飲み込めず、戸惑った声を上げる。「高司さん……これは……?」芸能界ではトップクラスの存在でも、高司を前にすると、どこかおどおどしてしまうらしい。高司はもともと多くを語るタイプではないが、その佇まいには、上に立つ者特有の冷たさと気高さがにじんでいる。ほとんど命令に近い口調で、真也に言った。「さっき来る途中で、君の事務所の社長と話をつけておいた。この契約にサインしろ。仕事に必要な手配は、全部俺がやる」真也はマネージャーのほうを見た。ちょうどそのタイミングで、マネージャーのスマホにメッセージが届く。おそらく、事務所の社長からだろう。マネージャーが小さくうなずくのを見て、真也はちょうどいい加減の笑みを浮かべて言った。「御社とご一緒できるなんて、光栄です」私と紗奈は、その笑顔に少し無理があることに気づいていた。誰だって、無理やり決められるのは気持ちのいいものじゃない。それでも、それ以上に胸が高鳴っていた。高司のひと言で、ここ数日抱えていた迷いや行き詰まりが、一気に片付いてしまったのだ。……それにしても。さっき入ってきたとき、通りがかったから様子を見に来ただけって言ってなかった
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第302話

食事会が終わった頃には、すでに九時近くになっていた。私たちが会場の正面玄関に差しかかったところで、同じく外へ出ようとしていた時生と優子にばったり出くわした。二人はほかの人たちに挨拶していて、「結婚への想い」の制作チームらしい。中に、私も知っている有名な監督がいたのだ。優子は甘えた笑顔を浮かべ、時生に何か話しかけている様子だ。ところが、私と真也が並んで立っているのに気づいた瞬間、二人の表情に一瞬だけ驚きが走った。優子は疑わしそうな目を向けて、真也に尋ねる。「真也、どうして彼女たちと一緒にいるの?今夜は用事があって来られないって言ってたよね?」真也はどこか落ち着かない視線を浮かべながら答えた。「うん……先に梨英さんたちと約束してて」梨英は業界でも名の知れたプロデューサーだ。芸能界の裏事情にも精通しているはず。案の定、彼女は優子をまったく相手にしていなかった。露骨に見下したような視線を向けるだけで、こちらに言った。「私はこれで失礼するわ。今夜は会社に戻って契約書を整理しないと」「契約書?」優子が反射的に聞き返す。すると紗奈が、からかうような口調で言った。「決まってるでしょ。『結婚の行方』の主演の契約よ!今夜、真也さんはもう私たちと正式に契約したの」優子の顔色は、みるみる青白くなった。真也を見つめて言う。「……前に、私たちで話はついてたじゃない」「ごめん」真也は、それだけを淡々と口にした。紗奈は嘲りを隠そうともせず、舌打ちする。「ほんと、厚かましい人もいたもんだよね。まだ契約もしてないのに、SNSでツーショット載せて大々的に宣伝してさ。今ごろ、思いきり恥かいてるんじゃない?まあいいけど。どうせ面の皮が厚いんだから、何言われても平気でしょ」優子はぎろりと紗奈を睨みつけ、唇を震わせながら、やがて隣の男にすがるように声をかけた。「時生……だって、最初に真也に声をかけたのは、私たちだったでしょ?」時生は私と紗奈を冷たく一瞥し、それから真也を見下すように鼻で笑った。「所詮、役者だろ。そんなやつの言葉に、信用なんてあるか?主演だって、別に彼じゃなくてもいい」そう言い捨てると、優子の腕を引いてそのまま立ち去った。ただ、その言葉は真也を皮肉ったつもりだったのだろうが、隣にいた女もまた、同じ「役者」であることを、彼は
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第303話

紗奈を家まで送り届けてから、私もそのまま帰宅することにした。その途中、スマホが鳴った。なんと、心菜が子ども用のスマホからかけてきたのだ。嬉しい反面、正直かなり意外だった。心菜は普段、私にどこか距離を置いていて、むしろ少し避けているくらいなのに、どうして自分から電話なんて……?心菜はもじもじしながら、こう説明した。「この前、編んでくれた三つ編み、すごくきれいだった。明日、幼稚園で発表会があるの。もう一回、編んでくれない?パパが、今日は帰らないって言ってたけど……本当?」少し黙ってから、せっかくの親子の距離を縮めるチャンスだと思い、私は答えた。「あとで帰るよ。眠かったら先に寝てて。明日の朝、いちばん可愛い髪型にしてあげるから」「……ありがとう」小さくそう言う声は、誰かにお礼を言うのに慣れていない感じだ。黒澤家の別荘に戻ったときには、心菜はもう眠っていた。時生はリビングに座り、暗い目で私をじっと見つめ、低い声で言った。「本気で心菜との関係を良くしたいなら、自分の力でちゃんと動け。紗奈の後ろ盾を使って、優子を追い詰めるな。桜井家が真也を引っ張ってくるのに、相当苦労したのは知ってるだろ?」その言葉に、思わず笑ってしまった。私は彼の目をまっすぐ見て、聞き返す。「私が優子をどうこうするのに、誰かの力を借りる必要があると思ってる?」時生は鼻で笑い、口元に皮肉な笑みを浮かべた。「じゃあ、自分にそんな力があると?優子は十六歳で芸能界に入って、全部自分の実力でここまで来た。お前がちょっとしたゴシップ記事を書いたくらいで、業界に口出しできるとでも?」その自信満々な目を見て、私は内心おかしくてたまらなかった。彼は何も知らない。優子が必死に出演したがっていたドラマの原作者が私だということも、そして今や、私が「結婚の行方」に出資していることも。私は口角をわずかに上げ、淡々と言った。「私に力があるかどうかは、あなたが決めることじゃない。これから、ちゃんと見てればいいわ」そう言い残し、彼の険しい顔を振り返ることもなく、ゲストルームへ向かった。話が噛み合わない相手と話すだけ無駄だ。心菜の髪を編む約束がなければ、今夜はそもそも帰ってきていない。それに今日は、「結婚の行方」の最大の問題も片付いた。久しぶりに、ぐっすり眠れそうだ。…
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第304話

最後のひと言が、氷の刃みたいに胸に突き刺さった。怒りで赤くなったその小さな顔を見つめた瞬間、足元から一気に冷たいものが這い上がってくる。――優子はいったい、どれだけ歪んだ考えをこの子に吹き込んだの?深く息を吸い、胸の奥で渦巻く感情を必死に押さえ込んでから、私ははっきりと言った。「心菜、優子はあなたのママじゃない」「嘘つき!」甲高い声で叫び返したかと思うと、次の瞬間には突然わっと泣き出した。その泣き声は鋭くて、家中に響き渡る。私が反応する間もなく、「バンッ」と音を立ててドアが開き、時生が険しい顔で入ってきた。次の瞬間、彼は私を押しのけ、そのまま心菜を抱き上げる。私はよろめいて、肘をテーブルの角にぶつけた。鋭い痛みが走る。それでも彼は、私を見ることもなく、娘を気遣うように声をかけた。「どうしたんだ?何があった?」心菜は泣きじゃくりながら叫ぶ。「パパ!おばさんが心菜の髪を引っ張ったの!すごく痛かった……!」時生の視線が、一瞬で鋭さを帯び、私を射抜いた。――こんな小さな子が、ここまで計算できるなんて。言い回しまで、優子とそっくりだ。私は何もしていないのに!そのとき、外から使用人の声がした。「旦那様、優子さんがお見えです」時生が答える前に、優子が駆け込んできた。「心菜、どうしてこんなに泣いてるの?」心菜は私を指さし、しゃくり上げながら言う。「おばさんが髪を引っ張って、心菜のママになるって言ったの……」時生の目が、氷のように冷たくなる。「昭乃。お前にはチャンスをあげた。やり直すことだって考えた。それなのに、お前は何をした?」肘の痛みをこらえながら、私はスマホを取り出し、録音を再生した。「自分で聞いて。さっき、あなたの娘が何を言ったか」スピーカーから心菜の声が流れる。小さな体がびくっと震え、わずかに動揺した様子を見せた。けれど、時生の表情は変わらない。淡々としていて、責める気配すらなかった。優子が口を開く。「昭乃さん、さすがにやりすぎじゃありません?録音なんて、子供に使う手段じゃないでしょう。心菜は私と時生に甘やかされて育ったから、言葉がきついところはあるけど、悪気はないんです。子どもの言葉を本気にするなんて、子育てをしたことがない人だからこそ、そんなふうに受け取るんですよ」そう言ってから、時
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第305話

実は、景也は昨夜すでに保釈されて、家に戻っていたらしい。奈央は私に言った。「昨日は遅かったでしょ。あなたたちの休みを邪魔したくなくて、言わなかったの」「戻ってきたなら、それでよかった」今回は幸いにも、時生が私とのいざこざを、結城家にまで持ち込むことはなかった。奈央は少し間を置いてから言った。「お昼に時生と一緒に帰ってきて、ご飯でもどう?今回は彼、あなたのお兄ちゃんを許してくれたでしょ。ちゃんとお礼を言いたくて」「結城家を潰しかけた相手に、何を感謝するの?」もう両親に隠すつもりはなかった。「それに、私、もうすぐ時生と離婚する。これからは、彼を結城家に連れてくることもないわ。仕事の付き合いがあるなら、お母さんとお父さんで直接呼んで」奈央は物憂げにため息をついた。「あなただけでも……来てくれない?この前は、お母さんの言い方がきつすぎたわ。考えれば考えるほど、申し訳なくて」ちょうど兄にも話したいことがあったので、私は答えた。「わかったよ。お昼、仕事が終わったら行く」……結城家。景也は拘留所で相当こたえたのか、どこか魂が抜けたみたいで、様子がおかしかった。奈央が言った。「昭乃にちゃんとお礼を言いなさい。彼女が時生に頼んでくれなかったら、こんなに簡単に出てこられたと思う?」景也は私を一瞥し、感情の抜け落ちた声で言った。「……ありがとう」私は真顔で言った。「お兄ちゃん。これからは、誰に頼まれても、違法なことをやる前にちゃんと考えて。私はもうすぐ時生と離婚する。次があったら、もう助けられないから」「ふん。結局、俺がお前の旦那の会社の機密を盗んだから、肩を持ってるだけだろ?」景也は冷たく笑った。「でも忘れるな。お前を育てたのは結城家だ。時生と何の関係がある?俺がやったのは、結城家を大きくするためだ!一生、時生の下にいるなんてごめんだ。なんで、みんな分かってくれないんだ!」最後は怒鳴り声になり、そこに、かつての景也の面影はもうなかった。私は静かに彼を見つめて言った。「だから、時生を踏み台にするために、優子と手を組んだんでしょ?あなたが考えた『家を大きくする方法』って、結局は人の成果を盗むことだった。前は、あんなにまっすぐだったのに……誰が、あなたをこんなふうにしたの?」景也は叫んだ。「何度も言わせるな!俺がやったことは
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第306話

まさか、景也がここまで話が通じなくなっているとは思わなかった。昔は確かに衝動的なところはあったけれど、親思いで、少し反抗的な時期はあっても、決して親に逆らうような人じゃなかった。景也は私たちを置き去りにして、そのまま二階へ上がっていった。奈央は、まるで空が落ちてきたかのような顔で叫んだ。「どうしてこんなことに……?あの優子なんて、もう評判も最悪なのに。もし本当にお兄ちゃんがあの子と関係してたら、私たちはどうすればいいの?」孝之はしばらく黙り込んだあと、ゆっくりと言葉を選ぶように言った。「今日から、人をつけて一瞬たりとも目を離さずに見張らせる。もし本当に優子と何かあるようなら……俺にはもう、あいつは息子じゃない」奈央は声を上げて泣き崩れ、景也の変わりようをどうしても受け入れられない様子だった。私は二人をしばらくなだめてから、出勤時間が迫っていたこともあり、結城家を後にした。ところが、会社へ向かう途中の空は重たい雲に覆われ、黒い雲が何層にも重なって、不気味な雰囲気だ。もうすぐ土砂降りになるのかと思い、私は少しスピードを上げた。その瞬間、ハンドルが手の中で激しく揺れ、メーターの針が落ち着きなく左右に振れ、車内のアロマも一緒にガタガタと揺れ出した。スマホには地震速報が表示され、私は慌てて路肩に車を寄せた。続いて、車内のラジオからノイズ混じりの声が断続的に流れてきた。「地震局からの最新情報です。本日14時25分ごろ、江川市でマグニチュード7の地震が発生しました。本市でも強い揺れを感じています……」放送は途中で途切れ、代わりにけたたましい警報音が鳴り続けた。江川市と潮見市は隣り合った都市で、距離も近い。だから、十分ほど前に江川市で大地震が起きた影響で、潮見市でも揺れを感じたのだ。すでに通りでは、建物から外へ逃げ出す人たちの姿が見え、街中が人であふれていた。後ろ首にじっとりと冷や汗が浮かび、真っ先に思い浮かんだのは母のことだった。母は一人で病院にいる。もしこのあと揺れが潮見市まで広がったら、どうなってしまうのだろう。ラジオでは「市民の皆さんは落ち着いて、高い建物から離れてください」と繰り返し流れていたが、私は迷うことなく車を病院へ向け、ついでに会社には休みの連絡を入れた。幸い、揺れはさっきの一度きりだった。病院に
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第307話

私は呆然と理沙を見つめ、胸の奥がじんと痛んだ。彼女には、家族がいる。ただその家族は、誰一人として彼女を愛していない。編集長は眉をひそめて言った。「あなたにやる気があっても、一人じゃこの仕事量は無理だよ!」しばらく考えてから、私はようやく口を開いた。「編集長、理沙と一緒に行きます」編集長は信じられない、という顔で私を見た。私はまだ試用期間中で、本来ならこんな任務に出る必要はない。だからさっきまで、編集長は私を完全に人数に入れていなかったのだ。それなのに私が自分から名乗り出ると、編集長の目が赤くなった。「昭乃……本当に、行ってくれるの?もし行ってくれたら、戻ってきたらすぐ正式採用にする」緊急事態のため、私たちニュース記者は現地の一次情報を取らなければならない。人員が決まると、私と理沙はそれぞれ家に戻り、急いで荷物をまとめて被災地へ向かう準備をした。家ではテレビをつけ、被災地の状況を確認しながら、最低限の荷物をまとめた。現地に行っていなくても、空撮で映し出される被災後の光景は、目を背けたくなるほどだ。そのとき、スマホが鳴った。時生からの着信だった。電話に出ると、落ち着いた声の奥に、かすかな焦りが滲んでいる。「今、どこにいる?」私は適当に、短く返した。「外」すると時生は言った。「位置情報を送って。今すぐ迎えに行かせる。家の別荘なら震度8でも耐えられる」彼ももう知っているのだろう。江川市で地震が起き、潮見市も決して安全ではないということを。私は逆に聞き返した。「じゃあ、あなたはどこにいるの?」時生は一瞬黙り込み、しばらくしてから低い声で答えた。「心菜が気分転換にモルディブへ行きたいって言ってて……今は海外だ」「それなら、ゆっくり休めばいいじゃない。わざわざ形だけの心配なんてしなくていい」そう言って、私はそのまま電話を切った。……一方その頃、モルディブ。地震のニュースを知った淑江は、ほっとした表情で言った。「本当に、出てきて正解だったわ。神様に守られたのね。国内にいたら危なかったもの」優子は親しげに腕を絡めて笑う。「そうですね、お義母さん。心菜って本当に福の神です。あの子が急に家族旅行を提案しなかったら、私たちも国内で不安な思いをしてましたよ」二人の会話を聞きながら、時生の胸
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第308話

時生はその知らせを聞いた瞬間、胸がずしりと沈んだ。電話の向こうに向かって、間髪入れずに言う。「チャーター機を手配してくれ。今すぐ戻る」言い終えるや否や、優子が心菜を連れて部屋に入ってきた。「時生、どこへ行くの?」優子は彼の前に立ちはだかり、不安そうに見上げる。「心菜とお母さんを連れて、安全が確認できるまでここで待っててくれ。俺は先に戻って様子を見てくる」時生はそのまま外へ向かって歩き出した。その瞳の奥で渦巻く不安は、冷静な表情を今にも突き破りそうだ。優子は止められないと悟り、そっと心菜に目配せする。心菜は慌てて時生の脚にしがみつき、泣きながら叫んだ。「パパ、行かないで!地震ってすごく怖いの。死んじゃうよ!」優子も必死に訴える。「そうよ。もしあなたに何かあったら、私と心菜はどうなるの?」時生は感情を抑えたまま、静かに言った。「でも……昭乃が、まだあっちにいる」その言葉に、優子の表情が一瞬でこわばり、目に悔しさと怒りが滲んだ。そこへ淑江がやって来て、声を荒げる。「時生、正気なの?優子も心菜もいるし、私だってここにいるのよ。どうしてわざわざそんな危険な場所に戻るの!」時生は眉を寄せ、低く答えた。「昭乃と、連絡が取れないんだ」「……あの人?」淑江は鼻で笑う。「連絡が取れないなら好都合じゃない。もし死んだら、離婚の手間も省けるわ。あんたはそのまま優子と結婚すればいい。四年も黒澤家の奥さんの座に居座って、身の程知らずにもほどがある。優子はこの数年、仕事もしながら心菜の面倒まで見てきたのよ。いつまで優子に名分を与えないつもりなの!」優子は頬を赤らめ、緊張した面持ちで時生の返事を待った。だが時生の声には、はっきりと不満が滲んでいた。「お母さん。昭乃は俺の妻だ。少なくとも今は、まだ」その一言に、淑江は激昂する。「もし地震に遭ったのがあなただったら、あの女がこんなふうに命がけで探しに来ると思う?」時生は一瞬言葉を失い、そして、はっきりと答えた。「……来るさ、彼女なら」優子と淑江は、思わず顔を見合わせた。時生が普段、昭乃を大切にしているようには見えなかっのだ。それなのに、こんな命の危険が迫る状況で、彼は戻ろうとしている。だが、優子の合図を受けた心菜は、なおも必死に時生の脚を抱きしめたままだ。
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第309話

もし心菜が私の娘じゃなかったら、私の子どもは本当に、もうこの世にいないことになる。自分の命と引き換えにできるなら、きっと私は迷わずそうしたと思う。そのとき、聞き慣れた声がして、幻聴かと思った。「昭乃!」信じられなくて振り返ると、少し離れた場所に時生が立っていた。足元は一面の瓦礫で、彼のつやのある子牛革の靴も、分厚い埃にまみれている。一瞬、昔のキャンパスに戻ったみたいだった。彼がグラウンドから、手を振りながら私の名前を呼んでいた、あの頃に。――でも彼はモルディブにいるはずじゃ?私は痺れる膝を押さえながら立ち上がった。時生は足早に私の前まで来て、整った顔立ちは、まるで霜でも降りたかのように冷えている。怒りを必死に抑え込むように、低い声で言った。「誰の許可で、こんなところに来た?」「仕事だから」私は落ち着いて答えた。時生は歯を食いしばる。「自分から死にに来たようなもんだろ」私は思わず彼の腕を引き、数歩前へ進んで、果てしなく広がる瓦礫と、行き交うボランティアたちを指さした。「見て。ここに命懸けで来る人がいなかったら、瓦礫の下の人たちには、生きる希望すら残らない」時生は唇を引き結び、探るような視線で、しばらく私を見つめていた。そのとき、どこからか「電波が入ったぞ!」という声が上がる。私は急いでその場に座り込み、さっき撮った映像を会社の社内ネットワークにアップした。潔癖症のはずの時生が、地面の汚れも気にせず、私の隣に腰を下ろした。私の指がタッチパッドの上を忙しく動くのを見ながら、淡々と言う。「命懸けで来るのは、人を助けるためだ。でもお前は写真と動画を何枚か撮るために来てる。それで、本当に価値があるのか?」「私が現場で撮ったものが多くの人の目に触れるから、心を動かされる人が出る。そうすれば、もっと多くのボランティアが集まるし、支援金や物資だって増える」そこまで言って、私は苦笑した。「少なくとも、この四年間、形だけ保ってきた結婚生活よりは、よっぽど意味があると思う」彼を傷つけるつもりで言ったわけじゃない。ただ、画面に映る光景を見ていると、結婚生活で削られていた自分の感情が、再び少しずつ形を取り戻していくのを感じた。時生はあまりに冷たかった。私は、自分の熱を彼に伝えれば、冷たい彼を温められ
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第310話

深夜、さすがに体力の限界で、私は臨時の情報拠点へ戻った。すべての映像資料をアップロードし終えると、そのまま力が抜けて、床に敷かれた簡易ベッドにへたり込む。背中の壁がごつごつしていて、骨に響くように痛い。顔を横に向けると、時生が隅に立ち、眉をひそめながら周囲を見回していた。高そうなスーツには埃がつき、髪も少し乱れている。それでもなお、品の良さは隠しきれず、この場の空気から浮いていた。「もう帰ったら?」喉がかれて、声もかすれていた。「ここはあなたがいる場所じゃない。そんな大事な身で、わざわざこんなところで苦労しなくていいでしょ」時生は私の顔を見つめ、さらに眉を寄せた。「俺に実力を見せつけたいだけなら、もう十分わかった。だから一緒に帰ろう。意地を張るのはやめてくれ」私は彼を見つめながら、どこか可笑しくて、同時に胸の奥が苦くなった。首を横に振り、かすかに笑みを浮かべる。「時生、自分を買いかぶりすぎだし、私を甘く見すぎ。あなたと張り合うために、命を賭けるほどバカじゃない」彼は黙り込んだまま、暗い瞳で私を見つめていた。しばらくして、何も言わずに近くへ来て、私の隣に腰を下ろす。床の埃が彼のスラックスに付いたけれど、潔癖症のはずの彼は気にも留めない様子だ。「疲れてるなら、少し寄りかかれ」不意に、低くて静かな声でそう言いながら、彼は私のほうへ少し距離を詰めた。戸惑う間もなく、彼は私の頭を軽く押さえ、そのまま自分の肩に預けさせる。抗うこともできず、押し寄せる疲労と眠気に負けて、肩に触れて間もなく眠りに落ちた。もっとも、こんな場所で、ぐっすり眠れるはずもない。空がうっすら明るみ始めた頃、私は目を覚ました。時生はほとんど眠っていなかったらしく、私を肩に預けたままの姿勢で、手にした数珠をゆっくり回しながらぼんやりしている。「起きた?」黎明の光に包まれた彼の整った横顔は、いつもより柔らかく見えた。「……うん」目の下に浮かぶうっすらとした隈と、隠しきれない疲れを見て、私は言った。「やっぱり帰ったほうがいいよ。ここにいても、あなたにできることは何もない」力仕事もできないし、手伝いにもならない。すると彼は眉をひそめ、言い返す。「俺の肩で、二時間以上ちゃんと眠れた。それだけでも、ここにいた意味はあっただろ?
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