All Chapters of 冷酷夫、離婚宣言で愛を暴走: Chapter 291 - Chapter 300

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第291話

時生は、冷えた表情のまま一瞬だけ驚いたような顔を見せた。その直後、眉のあたりにかすかな不機嫌さがにじむ。見れば分かる。彼は我慢しているのだ。きっと、あの頃を思い出したのだろう。私が彼にないがしろにされ続けていた日々。私が贈ったものは、どれもまともに大事にされなかったこと。だから、彼のほうが後ろめたい。私に怒る資格なんてない。しばらく沈黙したあと、時生は淡々と言った。「これからは、俺の物を勝手に処分しないでくれ。お前がくれたものなんだから、もう俺の物だ」「……わかった」心はまったく揺れなかった。そう言われたから、ただ頷いただけ。正直、かなり投げやりな返事だった。けれど次の言葉は、完全に予想外だ。「もう一度、マフラーを編んでくれないか。今度はちゃんと使うから」……よく、そんな厚かましいことが言えるな、と思った。「もう編み方、忘れちゃった。何年もやってないし」言い方は柔らかくしたけれど、断っているのは明らかだ。時生はプライドの高い人だ。さっきの流れなら、私が折れてくると思っていたのだろう。しかし、私はそうしなかった。だから彼も、それ以上は言わなかった。「特に用がないなら、もう部屋に戻るね」そう言うと、彼が私を呼び止めた。声は低く、抑えた調子だった。「昭乃……あと、どれくらい時間がかかる?」一瞬、意味がわからず、彼を見る。時生は続けた。「はっきり言うよ。あとどれくらいで、俺たちは昔みたいに戻れる?」――昔みたいに?また、彼に寄りかかって生きるだけの存在に戻れと?都合よく弄ばれて、騙されていた、あの頃に?私が黙っていると、彼は両手でそっと私の肩を押さえた。「昭乃、まだ怒ってるのはわかってる。でも、気持ちの整理がついたら……また昔みたいに戻ろう。な?俺は、前の昭乃が好きなんだ」深くて黒い、その瞳を見つめながら、思う。――どうしたら伝わるんだろう。昔の昭乃は、もう戻らないって。「……わかった」本心とは裏腹の返事だった。かつて彼が私にしていたのと同じように、ただ、その場をやり過ごすための言葉。……今夜さえ乗り切れば、それで終わりだと思っていた。けれど、それから数日。彼は意図的なのか無意識なのか、何かにつけて私に用事を言いつけてきた。まるで、私が昔みたいに、彼の態度に関
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第292話

私は指先が白くなるほどアイロンの持ち手を強く握りしめた。――どうすれば、時生を落ち着かせられるのだろう。そのとき、外から使用人がドアをノックした。「旦那様、優子さんが心菜ちゃんを連れていらっしゃいました」その報告で、時生の意識はようやく別のことに向いた。そして私も、心菜が来たと聞いて、胸が一気に高鳴った。私は時生と一緒に階下へ降りた。リビングに入った瞬間、心菜がトタトタと駆け寄り、時生の胸に飛び込む。「パパ!会いたかった!」時生は娘を抱き上げ、やさしい声で言った。「パパも心菜に会いたかったよ」黒くて大きな瞳いっぱいに戸惑いを浮かべ、心菜は首をかしげる。「じゃあ、どうしてまたおばあちゃんの家にいなきゃいけないの?前みたいに、パパとママと一緒に住れないの?それに……」その視線が、そっと私に向けられる。警戒するような、怯えた目で。「昭乃おばさん、なんでまた戻ってきたの?」時生の目が、少しだけ深くなる。何か考えているようだった。やがて、根気強く娘に言い聞かせる。「昭乃おばさんは、パパの奥さんなんだ。だから、これからはずっとここに住む。大きくなったら、心菜もわかるよ」「え?」心菜は目を見開いたまま、ますます混乱している。「でも、パパの奥さんはママでしょ?なんで昭乃おばさんなの?」時生の顔に、困ったような表情が一瞬よぎった。明らかに答えに詰まり、同じ言葉を繰り返すしかない。「……そのうち、わかる」自分で蒔いた種の結果を、今さら飲み込むしかないのだろう。理屈ひとつ、うまく説明できないまま。それでも心菜は引き下がらなかった。「ねえパパ、もしかしてママと離婚するの?心菜たちを捨てちゃうの?」声は今にも泣き出しそうだ。「クラスの芽依ちゃんのパパとママもそうだったよ。あとで一緒に住まなくなったの。芽依ちゃん、毎日泣いてる。パパが外に女を作って、自分を捨てたって……」その言葉は、針のように私の胸に突き刺さった。これは心菜自身が考えたことなのか、それとも優子が吹き込んだのか。わからない。けれど、時生の顔色は一瞬で険しくなった。彼は大きく息を吸い、声を抑えて言う。「パパとママの間に何があっても、パパはずっと心菜が大好きだ。絶対に手放したりしない」私はその横で、胸に綿を詰め込まれたような気持ちになった。幼
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第293話

心菜がふいに顔を上げ、その目はぞっとするほど冷たかった。「前にクラスの芽依ちゃんのパパも、まったく同じことしてた。ママは家に住まわせないくせに、泥棒猫を家に連れてきたの!ねえパパ、昭乃おばさんも泥棒猫なんでしょ?」その言葉に、私は衝撃を受け、立っていられなくなりそうになった。「心菜!」時生の声が一気に張り詰める。「誰にそんなことを教わった!泥棒猫ってなんだ、誰がそんなこと言っていい!」心菜に対して、彼がここまで厳しい声を出したことはなかった。小さな体がびくっと震え、みるみる目が赤くなり、唇を震わせたまま、それ以上何も言えなくなる。小さくすすり泣きながらも、心菜は憎しみを込めた目で私を睨み続けていた。時生は深く息を吸い、胸の奥の怒りを抑え込むようにして言った。「仏間に行って立って反省しなさい。自分が今、何を言ったのか、よく考えるんだ」心菜は唇を噛みしめ、一歩進んでは振り返りながら、仏間へ向かった。ただ、去り際に向けられたあの視線が、本当に怖かった。時生に似ているようで、優子にも似ている。冷たくて、陰りを帯びた目。胸を大きな手でぎゅっと掴まれたみたいで、浅く息をするだけでも痛い。心菜が出て行ったあと、時生は小さくため息をついた。「さっきの心菜の言葉、気にしないでくれ。まだ子どもなんだ、何も分かってない」私は鼻をすすり、喉の奥が締めつけられるのを感じながら答えた。「そうね。子どもに何が分かるっていうの。大人が教えた通りに覚えるだけよ」途端に、時生の眉がきつく寄った。「またそうやって、優子が教えたって言いたいのか?」私は彼を見上げて言った。「違うなら誰?彼女じゃなければ、あなた?」「また始まったな、いい加減にしろよ!」時生は苛立ったように言う。「俺がそんなこと教えるわけないだろ。もちろん、優子だって同じだ。さっき心菜が言ってただろ、クラスの友だちが言ってたって」彼は、言葉の端々で優子をかばい、少しの疑いも向けなかった。一方で、何かあるたびに、真っ先に疑われるのはいつも私。その現実に、どうしようもない無力感が押し寄せてきた。疲れた。本当に、もう疲れた。私は深く息を吐き、これ以上話す気にもなれず、そのままゲストルームへ向かった。もう深夜だというのに、まったく眠れない。頭の中では、さっきの心菜
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第294話

医者は軽く頷きながら言った。「昭乃さん、今回、ずいぶん進歩しましたね」私は少し驚いて、信じられないように尋ねた。「進歩?どういう意味……」「あなたがもう、ご主人との関係にこだわらなくなったってことですよ」医者は穏やかに説明した。「以前は『どうして信じてくれないの?』『いつ心変わりしたの?』ばかり口にしていました。でもさっきあなたが話していたのは、全部娘との関係のことばかりでした。少なくとも、この結婚については、心が少し整理できたってことです」私は恐る恐る尋ねた。「それって、以前より治療がしやすくなるってことですか?」医者は丁寧に分析してくれた。「目の前にある答えは、たった二つしかないです。ひとつは、心菜があなたの実の子だとした場合です。その子は気持ちが揺れやすいだけで、今は一時的にあなたに偏見を持っているとしても、時間をかければ向き合い方はいくらでもあります。子どもは石じゃありません。努力すれば、必ず反応が返ってきます。もうひとつは、実の子じゃない場合です。そのほうが、むしろ話は簡単です。『母娘』というつながりに縛られる必要がなくなりますから、この結婚を続ける価値があるのかどうか、自分の気持ちもはっきり見えてきます」彼は少し間を置き、さらに言った。「それに、今は、悩むのが早すぎます。娘かどうかもまだ分からないのに、先に自分を追い込んで頭痛や不眠になるなんて、割に合いませんよ。もし違っていたら、この数日のつらさは、全部無駄になってしまいます」医者の言葉に、私はなんだか目の前が明るくなるような気がした。もちろん、これから向き合わなければならない問題はまだたくさんある。でも、焦らず一歩ずつ、乱れずに進めばいい。薬を手に診療所を出ると、空は晴れ渡り、気分も自然と軽くなった。ニュース社に戻り、手元の原稿をいくつか片付けているうちに、あっという間に夕方になった。その時、スマホが鳴った。澄江からの電話だ。私はすぐに出ると、澄江は会いたいから今晩ご飯を食べに来てほしいと言った。澄江は少し寂しそうに続ける。「最近、高司の母親が体調を崩していてね。今夜も岡本家に行くらしいの。私一人で食べても、何を食べても味気ないのよ」高司が夜いないと聞き、私は澄江の誘いを受けることにした。前回のゴルフ場のこともあってか、なぜか高司に会うのが少
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第295話

私は一瞬で落ち着かなくなり、慌てて立ち上がった。「おばあちゃん、もう時間も遅いですし。私、用事があるので今日はこれで失礼します」これ以上ここにいたら、どんな誤解が広がるかわからない。それに、岡本家には、祖母が祖父にこの話を伝えているかどうかも不安だ。ちゃんと説明しなきゃいけない。澄江はきょとんとした様子で言った。「昭乃、どうして急に?高司に送らせなさいよ」「いえ、大丈夫です。車で来てますから」そう答えながら、私は高司の目を見ることすらできなかった。それでも、高司は後を追ってきた。車の前まで来ると、彼は低い声で言った。「お母さんにはもう説明してある。もし時生に話す必要があるなら、俺も一緒に説明するよ。もともと、これは祖母が引き起こしたことだから」「大丈夫です」無理に笑顔を作って言う。「それじゃ失礼します、おじさん」私のその「おじさん」という呼び方に、高司は眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。帰り道、私はかなりスピードを出して車を走らせた。もう八時は過ぎていたけれど、明日まで待てなかった。ところが、岡本家に着いた瞬間、ちょうど中から時生が出てくるところに遭遇した。彼の表情は凍りついたように暗い。私は見て見ぬふりをして、そのまま家の中へ向かおうとした。だが、二歩も進まないうちに手首をつかまれ、有無を言わさず彼の車へ引きずり込まれた。ドアが「バン」と閉まり、彼は反対側から乗り込むと、勢いよく私をシートに押さえつけた。男の目には怒りが渦巻いていた。歯を食いしばりながら吐き捨てる。「昭乃、俺は十分すぎるほどお前を尊重してきた。時間が欲しいって言うから、ちゃんと待った。なのに何だ?俺の前ではそうしておいて、裏では別の男とつながってるってことか」「違う、あなたが思ってるようなことじゃない!誤解なの。澄江おばあちゃんが……」言い終わる前に、時生は私の顎を強くつかみ、荒い口調で遮った。「高司といい仲になって、その上、あのばあさんまで連れてきて縁談だと?俺を何だと思ってる?最初から、俺とやり直す気なんてなかったんだろ?」「時生、もう一度言うけど、私は本当に何も知らなかった!」必死に押し返そうとしたけれど、彼の力は圧倒的だった。彼は冷たく笑い、突然シートを倒して、覆いかぶさってくる。「俺が甘すぎ
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第296話

こうして私は、外で借りている部屋へ車を走らせた。リビングには、いつもの木目の床にやわらかな黄色い灯りが落ちていて、体にまとわりついていた冷えが少しずつほどけていく。靴を脱ぐと、もう力が残っていないみたいに、そのままソファへどさっと腰を下ろした。今日のカウンセリングを思い出しながら、ふと考えた。これって、災い転じて福となす、なのだろうか?少なくとも、時生も、もう私たちが元に戻れないことは理解したはずだ。やり直すくらいなら、いっそ嫌われてしまったほうがいい。そのほうが、離婚の手続きもスムーズに進む。夜、寝る前に、今日処方された薬を飲んだ。そのおかげか、久しぶりにぐっすり眠れた。……翌日は週末で、仕事は休みだった。目を覚ますと、「結婚の行方」の制作チームのグループチャットには、すでに何十件ものメッセージが流れていた。主演、プロデューサー、監督、スタッフが全員入っているグループで、普段は雑談などせず、仕事の話しか出ない。開いてみると、プロデューサーやスタッフが次々と書き込んでいる。プロデューサー・南原梨英【さっき情報が入ったんだけど、黒澤グループが優子に新作ドラマを出資したらしい。題材も方向性も、うちの『結婚の行方』とほぼ同じ。完全にぶつけてきてる!】監督・早川恒一【それどころか、もうセットも組み終わって、こっそり撮影を始めてるって話だ】主演女優・安藤里桜【時生、太っ腹だね。優子に40億も出すなんて】南原梨英@安藤里桜【冗談言ってる場合?優子たちの作品、脚本家が誰か知ってる?星野明希よ。名前、聞いたことあるでしょ?】その瞬間、グループは静まり返った。星野明希(ほしの あき)は、もともと女性向けネット小説の草分け的存在で、十六歳から恋愛小説を書いていた人だ。今ではネット作家の枠を越え、名の知れた脚本家になっている。そのとき、里桜が優子のSNSのリンクをグループに貼った。優子は相変わらず、黙っていられない性格で、何か始める前から世界中に知らせたがる。彼女は台本を読んでいる写真を投稿し、こう書いていた。【『結婚の行方』との協力は中止になりました。新作『結婚への想い』、現在準備中です。私の最強の支えでいてくれるヒーローに感謝!@黒澤家公式アカウント】時生には個人のSNSがないため
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第297話

梨英はため息をつき、諭すように言った。「わかった、誰が誰を真似したかはもう言わない。でもね、今はよりを戻す展開が完全に主流なの。視聴者はそういうのが大好き。あなたが趣味で書いてるなら口出ししないけど、問題は出資側でしょ?赤字を出すわけにはいかない。明希がどれだけ人気か、わかってる?今回の企画、向こうは最初からうちを狙ってきてるのよ。いっそ、あなたが直接本社に行って、社長に話してみる?」このドラマの裏で、最大の出資者が高司だということは、私も知っている。でも、神崎グループの事業規模はあまりにも大きく、高司が日々判断しているのは何億、何十億単位の案件ばかりだ。そのうえ現役の弁護士として法廷にも立っている。そんな人が、傘下の小さな映像制作会社の一作品にまで目を向けるとは思えない。それに私は、これ以上高司と関わりを持ちたくなかった。少し黙ってから、私は尋ねた。「ほかに方法はない?もし、私がストーリーを変えなかったら」梨英は表情を引き締めて言った。「それなら……トップ俳優の佐伯真也を呼べたら話は別ね。今、彼は話題性ナンバーワンで、里桜と優子を合わせたよりも注目度が高い。でも、今は勢いがすごすぎて、ギャラもとんでもない。昔ならともかく、今はライバルも強すぎる。この作品、投資リスクが高くて、これ以上本社に追加出資をお願いするのは正直難しいわ」「いくらくらいなの?」と私は聞いた。「前のドラマでは、1話4000万円って噂よ」思わず息をのんだ。芸能界のお金の回り方って、本当に桁が違う。梨英は、私が諦めたと思ったのか、肩を軽く叩いた。「お金もそうだけど、何より真也は簡単には動かない。昭乃、もうやめましょ。今日の会議で決めた通り、脚本を直すの。今すぐ。まだ時間はある」正直、書き直し自体は不可能じゃない。しかし、時生みたいな男とよりを戻す展開を考えただけで、どうしても強い抵抗を感じてしまう。もしこのドラマが放送されたら、女性が深く傷つけられても、無条件で許し、最後は子どもや家庭のためにクズ男の元へ戻る。そんな価値観を、私自身が世に出すことになる。この作品を見て、歪んだ結婚生活に一生縛られてしまう女性が増えたら……?しばらく沈黙したあと、私は覚悟を決めて言った。「お金は、私が出す。でも、内容は変えない」自分の口からその言葉が出たこ
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第298話

「おばあちゃん、気にしないでください。謝っていただくことでもありません。私が先に、自分の結婚のことをきちんとお話ししていなかったせいで、誤解させてしまっただけですから」澄江は言った。「来てくれないなんて、それじゃあおばあちゃんに怒ってるってことになるでしょ。じゃあ、今どこで働いてるの?おばあちゃんが会いに行くわ」さすがにこの寒い中、高齢の方を外に出すわけにはいかず、私はため息まじりに答えた。「……じゃあ、あとで私のほうから伺います」……神崎家。私が着いたとき、高司もいた。どうやら帰ってきたばかりらしく、濃いグレーのコートはまだ脱いでおらず、ネクタイも少し緩めたまま。袖を肘までまくった姿は、力が抜けているのに、どこか品があった。私の姿を見ても、驚いた様子はない。すでに澄江から聞いていたのだろう。「ご飯にしよう」ごく自然な、何気ない口調。その一言で、まるで私がこの家の一員のような気がしてしまった。食事の最中、澄江は昨日のことをまた思い返していた。話すほどにつらくなったのか、最後には今にも泣きそうな声になる。「おばあちゃん、年を取って頭が回らなくなって……どうしてあんなことを……あなたに、あんな大きな迷惑をかけてしまったのかしら。高司は今や、あなたにとっては叔父にあたるでしょ?もう、辻褄が合わなくて……本当に、変な話よね」高司は淡々と食事をしながら、ときどき軽くなだめる程度だった。私は、澄江がそんなふうに泣くのを見るのがつらくて、根気よく言葉を尽くして慰めた。ようやく少し落ち着いたかと思ったのに、今度は別のことを思い出したようで、澄江は哀れむような目で私を見つめた。「こんなにいい子なのに……どうして、あんな男と結婚してしまったのかしら」そして憤ったように続ける。「私だって年寄りだけど、ちゃんと動画も見るのよ。優子なんて、公式に名指しされてるのに、しょっちゅう出てきて騒いでるでしょ?結局、時生の後ろ盾があるからよ。慎みってものがないのよ。ほら、今日もまた出てきて、時生がドラマに投資したとか言って……」澄江が止まらずに愚痴っていると、高司が突然、感情の読めない声で口を挟んだ。「おばあちゃん、心配しすぎだよ。夫婦なんて、喧嘩してもすぐ仲直りするものだろ。俺たちが口を出すことじゃない」その瞬間、背骨をなぞ
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第299話

高司がそんなことを言い出すとは、正直かなり意外だった。しかし、人の情けはできるだけ借りないほうがいい。でないと、さっきの食事の席のように、ああいう嫌味を言われても、反論する資格すらなくなってしまう。「ありがとうございます、おじさん。もう解決しました」そう言い残して、私はそのまま玄関へ向かい、神崎家を後にした。帰り道、梨英から電話がかかってきた。たぶん、彼女が真也と話をつけて、何か動きがあったのだろう。「真也のほうは、どうでした?」そう聞くと、梨英は不機嫌そうに答えた。「早川監督と一緒にマネージャーに当たったんだけどね、向こうも『結婚への想い』の制作側から声がかかってて、少し考えたいって言われたの。でもさっきSNSを見たら、優子の投稿的に、もう『結婚への想い』の主演は彼で決まりっぽい……正直、うちは厳しいかも」「まだ契約してないなら、可能性はありますよ」自分でも、どこからそんな自信が湧いてきたのかは分からなかった。「こっちは引き続き交渉するつもり。何かあったらまた連絡するね」電話を切って家に着き、私はSNSを開いた。優子が、真也と一緒に脚本を読んでいる写真を投稿していて、両方のファンが一斉に沸き立っていた。【きゃーー!このツーショット何!?尊すぎる!横顔だけで心臓持ってかれるし、優子ちゃんの笑顔が甘すぎて溶ける!このビジュアル、マジ天使でしょ!もう本編が待ちきれない!】【どっかの売れてないドラマ、便乗してくるのやめてくれない?『結婚の行方』ってタイトルからしてダサすぎでしょ。うちの推しを狙うとか、身の程知らずもいいとこ。どうせ端っこで埃かぶって終わりだよ。『結婚への想い』の足元にも及ばないわね】【笑える。さっき里桜の痛いファンが騒いでるの見たけど、真也と数本共演しただけで五度目があるとか本気で言ってんの?売れない作品はさっさと諦めなよ、恥さらしだから】【……】コメントの中には、明らかに優子側の仕込みも混じっていた。とはいえ、勢いは相当なものだ。紗奈もこれを見たらしく、翌日には私の家に押しかけてきて、私以上にこのドラマが潰されるんじゃないかと心配していた。事情をざっと説明すると、彼女はすぐに聞いてきた。「資金は大丈夫?お金が必要なら、遠慮なく言って」「大丈夫」私は軽く笑って言った。「前に時生
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第300話

紗奈はにやっと笑い、私の腕にしがみついて言った。「一緒に連れてってよ!彼がデビューした頃からずっと推してるんだから。もし同じテーブルでご飯なんて食べられたら、もう一生分の運を使い切ってもいい!」私は思わず顔をしかめる。「その気持ち、浩平先生は知ってるの?嫉妬しない?」紗奈はすぐに「しーっ」という仕草をして、小声で言った。「それだけは絶対に内緒!でもさ、あの人毎日手術ばっかりで、もう何週間もデートしてないんだよ?どうせ暇なんだし、お願い、推しに会わせて!」あまりにもしつこくて、私は根負けした。梨英に相談したあと、結局、紗奈も一緒に連れて行くことにした。夜にようやく憧れの人に会えるとわかると、紗奈は午後にはもう帰宅して、服選びと身支度に没頭し始めた。夕方、ホテルへ向かう車の中でも、彼女はずっと鏡を見ながら髪を整えている。「もういいって。十分かわいいよ」私は呆れつつ言った。「今夜ははしゃぎすぎないでね。仕事の話がメインなんだから」「わかってる、安心して!」紗奈はそう言って、私にウインクした。……個室のドアを開けると、真也がソファに腰かけ、台本に目を通していた。ベージュのニットがよく似合っていて、清潔感があり、まさに私の小説の男主人公にぴったりだ。私たちに気づくと、彼とマネージャーが立ち上がり、丁寧に挨拶をする。「結城さんですね?」彼とマネージャーと順に握手しながら、私は頭を下げた。「今日はお時間をいただいて、ありがとうございます」トップスターの立場にありながら、真也には優子のような、裏で人を見下す嫌な感じがまったくない。そのとき、紗奈がそっと私の服の裾を引いた。あっ、と気づいて、慌てて紹介する。「こちらは、私の親友の桜井紗奈です」「桜井さん、はじめまして」真也は礼儀正しく軽く会釈した。その様子を見て、紗奈は両手を軽く合わせ、嬉しそうに微笑んでいる。この調子だと、今日の食事が終わったあとも、夢にまで笑顔が出てきそうだな、と思ってしまう。その頃、梨英と監督は、真也のマネージャーと何やら話し込んでいた。一方で、真也の視線はずっと入口のほうを気にしている。まるで、誰かを待っているかのようだ。しばらくしてから、彼は何気ない調子で私に聞いた。「今夜、里桜も来るって聞いてたんですが……渋滞で
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