All Chapters of 冷酷夫、離婚宣言で愛を暴走: Chapter 341 - Chapter 350

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第341話

私はうなずき、ひとまず心菜を一人にしておくことにした。少し時間を置けば、自分なりに整理できるかもしれない。そのとき、私がゲストルームへ向かうのを見た時生が、眉をひそめて呼び止めた。「昭乃、いつまでゲストルームで寝るつもりだ?」時生は私の前に立ちはだかり、まっすぐに見つめてくる。真剣な目をしていた。「お前はこの家の女主人だ。お前の部屋は主寝室だろ」思わず小さく笑ってしまい、彼を見上げた。「時生。優子をこの家に迎え入れて、主寝室に住まわせたときは?そのときも、私が女主人だなんて言った?」時生の顔がすっと曇り、横に下ろしていた手をぎゅっと握りしめる。長い沈黙のあと、どこか後ろめたさをにじませた声で言った。「あのときは、お前にひどい思いをさせたと思ってる。優子にはもうきちんと話をつけた。これまでお前を傷つけたことは、お前がもう一度チャンスをくれるなら、全部取り戻す」私は彼を見つめ、一語一語はっきりと言った。「でもね、心にずっと刺さったままの痛みってあるの。もう奥深く入り込んでしまって、抜けないし、なかったことにもできないの」言い終わる前に、時生が一歩踏み出し、突然私を強く抱きしめた。焦ったような声で、手探りするみたいに言う。「昭乃、じゃあ教えてくれ。どうすればいい?どうすれば、前みたいに戻ってくれる?」私は力を込めて彼の腕を振りほどき、数歩下がった。「私たち、結婚して四年になるよね。でも、身近な人以外で、私があなたの妻だって知ってる人がどれだけいるの?時生、今ここで私たちの関係を公表できる?本当にやり直したいなら、せめて私にちゃんとした立場をくれてもいいんじゃない?」けれど、わかっていた。彼はしない。案の定、時生は眉を強く寄せた。「そんなどうでもいい肩書きが、そんなに大事か?」思わず笑ってしまう。「前はね、どうでもいいって思ってた。だから世間はみんな、あなたと優子が理想のカップルだって信じ込んだ。優子のファンに泥をかぶせられて、私が『愛人』扱いされたとき、あなたはどこにいたの?時生、教えてよ。どこまでが『どうでもいい肩書き』なの?私は四年間あなたの妻だったのに、堂々と名乗れる立場すらなかった。それも『どうでもいい』って言うの?」彼は口を開きかけたまま、言葉を失った。しばらくして、ようやく重たい声を絞り出す。「今の俺の言
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第342話

時生は自ら、心菜の好きな料理を持って部屋まで行ったが、結局そのまま手つかずで下に持って降りてきた。私は心配になって尋ねた。「やっぱり、まだ何も食べないの?」時生はため息をつき、料理を脇に置いて言った。「ずっと優子に会いたいって騒いでる。どれだけ言い聞かせても聞かないんだ」私は黙り込んだ。何を言えばいいのか分からないし、心菜に何をしてあげられるのかも分からない。そのとき、時生が私を見て言った。「どうしても俺と離婚するつもりなら、心菜の人生に踏み込むな。いっそこのまま勘違いさせておいたほうがいい」胸がぎゅっと締めつけられる。思わず悔しさが込み上げて問い返した。「時生、それって脅し?」時生の表情はいつも通り冷たいままだった。「もしあの子がお前を受け入れたのに、それでもちゃんとした家庭を持てないなら、俺が今までしてきたことは何のためなんだ?」私はそんな言葉に揺さぶられたりしない。子どもを盾にして私を縛ろうなんて、甘く見ないでほしい。私は一語一語、はっきりと言った。「時生、あなたがしていることは、自分の犯した過ちの償いにすぎない。心菜は私の娘よ。それは生まれた瞬間から決まっていること。あなたの一言二言で変わるものじゃないし、私たちの結婚がどうなろうと変わらない!」そのとき、突然、二階の階段のほうから幼い声がした。「……お風呂入りたい」私も時生もはっとして顔を上げると、心菜が二階の階段口に立ち、じっとこちらを見下ろしていた。時生は少し迷ってから言った。「心菜、使用人さんに洗ってもらう? それとも……ママにしてもらうか?」心菜はちらっと私を見て、ぼそっと言った。「……この人でいい」胸の奥に、ほっとしたような温かさが広がる。まさか、私にお風呂を任せてくれるなんて。きっと、もっと長い間拒まれると思っていたのに。こうして私は心菜の部屋へ上がった。浴室に水の流れる音が響く。バスタブの温度を調整して、私はやさしく声をかけた。「心菜、もう入っていいよ」心菜はまるで人形みたいに無表情で、私が言ったことをただそのままやるだけだった。胸が張り裂けそうになる。私はできるだけ穏やかに言った。「心菜、すぐには受け入れられないよね。ゆっくりでいいの。焦らなくていいから、ね?」心菜は返事をせず、ぽつりと聞いた。「あっちのアヒルちゃん
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第343話

心菜の甲高い泣き声に気づいて、時生が駆けつけてきた。ドアを押し開けた彼は、床一面の散らかりようと、びしょ濡れの私の服を見て、すぐに眉をひそめた。「何があった?」時生は慌てて心菜を抱き上げ、問いただすような目で私を見る。どうしようもない無力感とやるせなさが、波のように押し寄せてきた。私は何も言わず、そのままバスルームを出た。全身の痛みをこらえながら部屋に戻る。ドアを閉めた瞬間、こらえていた涙があふれ落ちた。……夜になっても、何度も寝返りを打つばかりで、まったく眠れなかった。落ち着いてから、心菜が向けてきたあの目を思い出すと、背筋がぞくりと冷える。――もう、限界だ。翌朝早く、別荘はしんと静まり返っていた。身支度をさっと済ませ、バッグを持って仕事へ向かう。ここに来るのも、きっとこれが最後になる。玄関を出ようとしたそのとき、ちょうど外から戻ってきた時生と鉢合わせた。時生は私を一瞥し、自分から口を開く。「さっき、心菜をお母さんのところに預けてきた。しばらく向こうで暮らさせるつもりだ」その言葉に、私はぎゅっと指を握りしめる。「私の勘違いじゃなければ、優子もあなたのお母さんのところにいるんでしょ?」時生は否定しなかった。ただ私から目をそらし、声を低くする。「昨夜、心菜はずっと泣いてた。今は優子から離れられないんだ。お前も少しは考えたほうがいい。どうすれば母親としてやっていけるのか」胸が締めつけられ、息が詰まりそうになる。私は怒りを押し殺せず言い返した。「時生、心菜を私から引き離したのはあなたでしょ。優子に母親の立場を与えて、ずっとそばに置いたのもあなた。私は四年間、母親でいる時間を奪われたのよ。それなのに、どうして今さら私が母親失格みたいに言われなきゃいけないの?」時生の表情がわずかに変わった。でも、眉をひそめるだけで、何も言い返してこない。私はそのまま外へ向かう。すると彼が急に手首をつかんだ。「昭乃、俺のそばにいればいい。心菜がお前を受け入れられるよう、俺が何とかする」私は手を振りほどき、問い返す。「もし、嫌だと言ったら?」時生の黒い瞳に、冷たくて残酷な光が宿る。「それなら、心菜はずっと優子を母親だと思い続けるだろうな。娘を失いたいなら、好きにしろ」「……ふふ」怒りを通り越して、
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第344話

私はその親子鑑定の報告書をしばらく見つめていた。やがて顔を上げると、もう以前のような迷いは目の奥になく、まるで自分とは関係のない話でもするかのように静かな声で言った。「親権は、いりません」真紀は書類を持つ手を一瞬止め、顔を上げて私を見る。少し意外そうだった。私はその視線を受け止めたまま続ける。「今はただ、できるだけ早く離婚して、過去ときっぱり決別したいんです」「わかりました」真紀は私が提出した資料をまとめながら言った。「今回は証拠も十分ですし、もう問題は起きないでしょう。ただ……前回は訴えを取り下げていますので、改めて離婚訴訟を起こすとなると、解決までには時間がかかります。ですから、まずはご主人と話し合って、署名してもらう方向で進めるのが一番だと思います」私はうなずいた。「大丈夫です。彼がサインするかどうかに関係なく、離婚する決意は変わりませんから」それに、もう家からは出て行った。お金もいらないし、子どもの親権も求めない。一枚の離婚届に、いったいどれほどの意味があるというのだろう。法律事務所を出て歩道を歩きながら、胸の奥が驚くほど軽くなっていることに気づいた。心菜を手放すことは、妥協なんかじゃない。自分自身を解放することだったのだ。……会社に戻り、席に着いたばかりの私の隣に、理沙が椅子を引き寄せて近づいてきた。声をひそめ、いかにも不思議そうな顔で言う。「昭乃、見た?神崎社長がまたうちの会社に来てるよ!」私は彼女の視線の先、社長室のほうをちらりと見てから、淡々と返した。「それがどうしたの?」理沙は分析するように言う。「うちみたいな小さな会社、買収されたばかりでしょ。一年の利益だって、神崎グループ本社の一日の端数にもならないはず。それなのに、あの人がこんなに頻繁に来るなんて、どう考えても時間の無駄じゃない?」胸の奥がなぜかざわついた。でも、そんなはずはないとも思う。私は水をひと口飲み、何でもないふうに言った。「さあね。トップの考えてることなんて、私たちにわかるわけないでしょ」理沙はうなずいたが、すぐに眉をひそめる。「そうだ、今週ちょっとした食事会やるじゃない?編集長が退職するから、その送別会がてらに。本当は神崎社長は呼ぶつもりなかったんだけど、あんなに出入りしてるのに無視するのも感じ悪いよね。どう思
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第345話

胸の奥にふっと怒りが込み上げた。だけど、理子にだけは得意な顔をさせたくなかった。私は深く息を吸い込み、高司に向き直る。「社長、今週うちの部署で編集長の送別会を開くんです。もしお時間があれば、ぜひいらしてください」その目に一瞬、わずかな驚きがよぎった。私から声をかけたことが意外だったのかもしれない。理子はぱっと目を見開き、信じられないという顔で私を見る。そこにはあからさまな軽蔑が混じっていて、まるで「あなたが社長を誘うなんて身の程知らずよ」とでも言いたげだった。高司が口を開く前に、理子が割って入る。「昭乃さん、社長は毎日お忙しいんですよ。あなたたちのその程度の集まりに参加できるわけないでしょう?」私はにっこりと笑い、少しも怒りをにじませずに返す。「理子さん、私は社長にお声がけしています。理子さんが代わりに決めるんですか?」理子の顔が一瞬で赤くなり、助けを求めるように高司を見る。上司が自分をかばってくれるのを待っているのだ。けれど高司は、彼女をたしなめる様子もなく、落ち着いた声で言った。「時間が合えば行きます」ちょうどそのとき、エレベーターのドアが開いた。彼はそのまま真っすぐ外へ出ていく。理子は振り返りざまに私をきつく睨み、足早にあとを追った。理沙が驚いた顔で私を見つめている。「なに、その目」じっと見られて落ち着かない。理沙の目はきらきらしていた。「今まで気づかなかったけど、あなたってこんなに強気だったんだね。さっきの理子の顔、見た?ほんとひどい顔してたよ」褒められて、少し照れてしまう。理沙は続ける。「正直、神崎社長は鼻で笑うと思ってたのに。ちゃんと返事してくれるなんてびっくり。いつもクールで近寄りがたい感じだから、私なんて話しかける勇気もないよ」胸の奥に、説明のつかない感情がふわりと広がる。でも、余計なことは考えないようにと自分に言い聞かせ、その感情を無理やり押し込めた。夜、帰宅してから、いつものように小説を更新する。優子がSNSにクランクイン写真を投稿していた。ファンが一斉に拡散し、依頼している宣伝アカウントも「結婚への想い」関連の話題を次々と流している。ネットはかなり騒がしかった。その頃、私たちの制作チームのグループチャットも盛り上がっていた。主演女優・安藤里桜【相変わらず派手にや
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第346話

実は、私はグループの中ではほとんど発言しない。しかし、みんなのやり取りを眺めていると、つい深夜まで見てしまい、会話が終わるまで画面を閉じられないこともあった。翌朝、スマホの着信音で目が覚めた。画面に表示された「心菜」の二文字に、思わず眉をひそめる。それでも、母親には子どもに対する本能のようなものがある。私は結局、電話に出た。「……あの、幼稚園まで送ってもらえる?」向こうから聞こえた声は、どこか遠慮がちで、もう「おばさん」とも呼ばない。あれだけ私を嫌っているのに、どうして私に送ってほしいなんて言うの?すぐには返事をせず、「今どこにいるの?」と聞いた。「おばあちゃんの家。朝、体調が悪いって言って、起きてくれなくて……」心菜の声は小さくなった。「もし来てくれないなら……一人で幼稚園に行くね」前にこっそり家を抜け出して事故に遭ったことを思い出し、胸がぎゅっと締めつけられる。「家で待ってて。すぐ行くから」淑江の家に着いたが、心菜の姿は見当たらなかった。淑江はパジャマ姿でリビングに座り、ちらっと私を見上げると、二階を指さした。「心菜なら寝室で着替えてるわよ。あの子、のろのろしてて、まだ終わらないの。私はもう面倒見る元気なんてないから、自分で様子を見てきて」私は出勤前で急いでいたので、早く着替えを手伝って幼稚園に送ろうと、そのまま二階へ上がった。使用人に案内され、二階の部屋の前まで行く。「お嬢様はこちらです」そう言うと、使用人はそのまま立ち去った。ドアを押し開けた瞬間、私は目を見開いた。時生と優子が、裸のままベッドに横たわっている。掛け布団は腰のあたりをかろうじて隠しているだけだった。優子はすでに目を覚ましていて、名残惜しそうに指で時生の輪郭をなぞりながら、横目で私を挑発するように見ている。一瞬の衝撃と動揺のあと、私は必死に平静を装い、無言でスマホを取り出してカメラを向けた。私が泣きも騒ぎもせず、冷静に写真を撮り始めたことに、優子は明らかに動揺した。私の意図を悟ったのだろう。顔色を変え、慌てて駆け寄ってスマホを奪おうとする。「誰か!来て!」優子が大声で叫ぶ。すぐに淑江が数人の使用人を連れて駆けつけた。優子はすかさず言う。「お母さん、この人が私と時生の写真を撮ったの!ばらまかれるかも
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第347話

「あなた……!」淑江は顔を真っ赤にして、私の鼻先を指さしながら怒鳴った。「やることやっといて、被害者ぶるつもり?どの立場で私にそんな態度が取れるのよ!」これ以上、言い合う気力はなかった。私はそのまま外へ向かい、車に乗り込む。エンジンをかけた瞬間、時生が慌てて追いかけてくるのが見えた。けれど私の車は、もうゆっくりと走り出している。彼は車の横まで駆け寄り、必死に窓を叩きながら何か叫んでいる。ガラス越しに見える焦った顔が、ただ滑稽に思えた。次の瞬間、私はアクセルを踏み込む。車はそのまま前へ飛び出し、彼を完全に置き去りにした。ハンドルを握る手は、ずっと震えていた。もう時生に期待なんてしていない。それでも、彼と優子のあの場面を目の当たりにした衝撃は、体が拒絶反応を起こすほど強くて、吐き気が込み上げてきた。……三十分後、ようやく会社の駐車場に着いた。車を降りた途端、時生の車が目の前に滑り込んできた。いつの間に追いついたのか。今の彼は、これまでの余裕ある姿とは別人のようだった。しわだらけのシャツに、乱れた髪。目の下には赤い血の筋が浮かんでいる。彼はいきなり私の手首をつかんだ。「昭乃、話を聞いてくれ。違うんだ、お前が見たのは……」私は手を振り払う。指先が冷たく、視線はボタンを掛け違えたままのシャツに落ちた。私の声は、驚くほど落ち着いていた。「ちゃんと洗ってきた?」時生の言葉が喉で止まる。焦りは一瞬で消え、顔色がみるみる青ざめた。唇が動くのに、声が出ない。私は小さく笑った。「時生社長、あんなことしたあと、シャワーも浴びずに飛び出してきたの?気持ち悪くないの?」そう言ってエレベーターへ向かおうとした瞬間、また手首を強くつかまれる。「昭乃、ちゃんと説明させてくれ!」怒鳴り返そうとしたその時、視界の端に一台のベントレーがゆっくりと入ってきた。車が止まり、高司がドアを開けて降りる。黒のスーツがすらりとした体を際立たせ、今の時生の乱れた姿とあまりに対照的だった。胸が、不意に大きく跳ねる。高司の視線が、時生につかまれた私の手首に落ちた瞬間、その目が冷えた。彼は時生を見ることなく、まっすぐ私を見つめた。淡々とした声なのに、有無を言わせない圧がある。「また遅刻だな」心臓がきゅっと縮む。私は慌て
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第348話

高司のそのひと言は、まるで平手打ちのようだ。時生の顔色が一瞬で真っ青になる。私は二人の間に立ち尽くし、頬がじんわり熱くなるのを感じた。恥ずかしくて、その場から消えてしまいたいくらいだった。幸い、朝の出勤ラッシュはもう過ぎていて、駐車場に人影はほとんどない。もし誰かに見られていたら、どんな噂になるかわからない。私は思いきり腕を振りほどき、ようやく時生の手から抜け出すと、足早に高司のそばへ向かった。顔を上げ、まっすぐ彼を見て、きっぱりと言う。「社長、私は辞めるつもりはありません。これからは社内の規律を守ります。遅刻もしません」高司の視線が、赤くなった私の手首で一瞬止まり、それから顔色を失った時生へと移った。だが何も言わない。彼は腕時計に目を落とし、淡々と言った。「辞める気がないなら、今何時だ?ここで何をしている」胸がぎゅっと縮む。私は慌ててうなずいた。「今すぐ行きます!」そう言って、高司のあとを追い、エレベーターへ向かった。……ドアが閉まった瞬間、緊張で呼吸まで浅くなる。高司は私を見ないまま、低い声で言った。「会社は仕事をする場所だ。私的な感情のもつれを処理する場じゃない。自分の問題を整理できないなら、ここに来る必要はない」心臓が強く縮み、わけもなく胸が苦しくなった。今朝のことを説明しようとしたけれど、以前、彼が言った言葉が頭をよぎる。――そうだ。高司は上司であって、私の私生活に踏み込む人じゃない。だから、喉まで出かかった言葉を飲み込み、ただ黙り込んだ。喉がひりつく。そのとき、エレベーターが突然大きく揺れ、強い浮遊感とともに下へ落ちた。悲鳴が喉で詰まり、体が勝手に横へ倒れそうになる。次の瞬間、力強い腕が私の腰を抱き寄せ、しっかりと支えた。高司の手のひらが背中に触れ、清潔感のある木調の香りがふわりと広がる。エレベーターはどこかの階で引っかかったように止まり、それ以上は落ちなかった。朝から押し込めていた感情が、もう抑えきれなかった。娘に裏切られ、夫とその相手が裸で同じベッドにいるのを目の当たりにし、挙げ句の果てに高司には誤解される。しかもエレベーターまで故障だなんて。全部が一気に押し寄せて、鼻の奥がつんとする。気づけば涙がぽろぽろと落ち、肩が小さく震えていた。背中にあるその手が、そっ
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第349話

言い終わるやいなや、「マネージャー」と書かれたバッジをつけた男性が慌てて人をかき分けてやって来た。顔いっぱいにへつらうような笑みを浮かべている。「私です!今回の件は当社の不手際です。すぐに全面点検を手配しますので……」高司は途中でその言葉を遮った。声色に一切の迷いもない。「今日から、ここに来なくていい」男の笑顔が一瞬で凍りつく。「神崎社長、私は……今回の故障は突発的なもので、ちゃんと点検の手配はしていました……」高司はそれ以上聞こうともせず、くるりと背を向け、そのまま隣の非常用エレベーターへ向かった。胸がきゅっと縮む。私は慌てて後を追った。あんなに冷たい彼を見るのは、これが初めてだった。たったひと言で、誰かの仕事を終わらせてしまうなんて。これまで何度も助けてもらったせいで、私は勝手に彼を美化していたのかもしれない。時生とは違う、立場は上でも、もっと穏やかで寛容な人だと。でも、さっきの光景を見て思い知らされた。結局、上に立つ人はみんな同じなんだ。働く側の大変さを思うと、数秒迷った末、私は小さな声で言った。「社長、あの……エレベーターの故障は、あの人のせいじゃないですよね」高司の足が止まり、振り返る。視線がまっすぐ私に落ちて、ゆっくりと言った。「でも、君を泣かせた」胸を強く打たれたみたいに、心臓が跳ねる。――私が泣いたから?それで、あのマネージャーを?思考が追いつく前に、高司は続けた。「君が泣くと、こっちまで気分が悪くなる。次からは俺の前で泣くな。でないと、また誰かが巻き添えを食うかもしれない」思わず唾をのみ込む。なぜか少し怖くて、ただ小さくうなずくしかなかった。私は小さくうなずくしかなかった。やっぱり、私の思い上がりだ。私が泣いて彼の機嫌が悪くなって、その八つ当たりがあのマネージャーに向いただけ……きっとそういうことだ。ちょうどそのとき、非常用エレベーターのドアが開いた。理子がちょうど入口に立っていて、顔いっぱいに不安と焦りを浮かべている。高司の姿を見るなり、すぐに駆け寄った。「社長!さっきエレベーターに閉じ込められたって聞きました。大丈夫ですか?」高司は眉をひそめ、少しうんざりしたように言う。「ただの故障だ。そんなに騒ぐことか?」そう言い残し、理子の横を素通りして、そのま
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第350話

もう一人がため息まじりに言った。「きっと女を待ってるんでしょ!あんな大富豪をこんなに待たせる人って、どんな人か見てみたいよ」私はそのまま駐車場へ向かったけれど、時生が車で後をつけてきた。やがて私は一軒のカフェの前で車を止め、中に入る。すると彼もドアを押して入ってきて、迷いなく私の向かいに腰を下ろした。家に帰らなかったのは、一つは彼に家まで追いかけられて、居座られるのが嫌だったから。もう一つは、いつ一緒に役所へ行くのか、はっきり聞きたかったからだ。時生は、私がこうして向き合ったのは、自分に言い訳の機会を与えたからだと思ったらしい。席に着くなり、重い表情で私を見つめて言った。「昨日、俺と優子はお母さんに変な薬を飲まされたんだ。あのとき、本当に自分でも理性がきかなかった。昭乃、信じてくれ。昨夜までは、優子とは一度もやましい関係なんてなかった。人格をかけて誓う」私は彼を見つめて、ふっと笑った。「四年間も浮気して、妻の実の娘を愛人に育てさせた男に、『人格』なんてあるの?」その一言は、完全に彼の逆鱗に触れた。もともと彼は私に対してどこか見下した態度だったし、さっきのあの説明だって、彼なりの限界だったのだろう。それでも私が受け入れなかったことで、彼は一瞬で苛立ちを露わにした。「人は前を向いて生きるもんだろ!俺はもう状況を立て直そうとしてる。どうしてお前は俺の変化を見ようとしない?」私は疲れきって、静かにため息をついた。同じことを何度も繰り返すのは、本当にしんどい。もう彼に理解してほしいとも思わないし、反省してほしいとも思わない。だから、私は単刀直入に言った。「離婚したほうが、あなたにも、私にも、優子にもいい。ここまで来て、こんな結婚を続ける意味があると思う?」「離婚には同意しない」時生の黒い瞳が一気に冷え、声には露骨な威圧がにじんだ。「昭乃、そんな考えは捨てろ」彼がこう言うたび、私はほとんど絶望しかける。愛してほしいと願っていた頃はあんなに遠かったのに、どうして今は、離れることさえ許されないのだろう。目の奥がじんと熱くなるのをこらえながら、私は言った。「婚姻届受理証明書を公表すれば、あなたが不倫してたことはすぐに知られる。だって前にカメラの前で、優子と付き合ってるってあんなに派手に宣言したでしょう?結婚日と照らし合わ
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