《冷酷夫、離婚宣言で愛を暴走》全部章節:第 561 章 - 第 570 章

586 章節

第561話

そのせいで今の時生は、何から償えばいいのかさえ分からなくなっていた。……屋敷の暖かな灯りが雨の帳を遮っている。私は玄関の方を見つめながら、不安な気持ちを抱えていた。心菜はもう時生について行ってしまっただろうか。子育てって、実はペットを育てるのと少し似ている。長くそばにいてくれた人、温もりをくれた人に、子どもは本能的に懐くものだ。時生には深く傷つけられた。それでも、心菜を可愛がっていたことだけは紛れもない事実だった。もし心菜が本当に彼について行くことを選んだとしても、私は何を責められるだろう。そんなことを考えていると、玄関の方から「カチャッ」と小さな音が聞こえた。私ははっと顔を上げた。すると、そこには心菜が立っていた。手にした傘からはまだ雨粒がぽたぽたと落ちている。髪にも頬にも水滴がついていた。その姿を見た瞬間、張りつめていた心が一気にほどけた。私はすぐに立ち上がり、迎えに行った。高司は振り返り、ウォークインクローゼットから乾いたタオルを持ってきた。差し出されたタオルを受け取るとき、不意に彼の指先が私の手の甲に触れた。そこにはかすかな温もりがあった。私はタオルを受け取り、しゃがみ込んで、心菜の頬や髪の先についた雨粒を丁寧に拭いた。心菜はうつむいたまま、小さな手で服の裾をぎゅっといじっている。しばらくしてから、ようやく黒く澄んだ瞳を上げ、小声で言った。「ママ、私、パパを帰らせたの。さっき会いに行ったんだけど……怒ってる?」私は胸がきゅっとなり、頭を優しく撫でた。鼻の奥が少しツンとする。「おバカさん。ママが怒るわけないでしょ」その言葉を聞いた途端、心菜の強張っていた肩がふっと緩んだ。そして、ほっとしたような笑顔を見せた。心菜は無意識にポケットへ手を入れ、何かを取り出そうとした。けれど途中でぴたりと動きを止めると、慌てて手を引っ込め、代わりに私の服の裾を引っ張った。「ママ、誕生日のケーキ食べたい」隣で見ていた澄江が、優しく心菜の髪を撫でながら言った。「ちゃんと取ってあるわよ。心菜が帰ってくるのを待ってたの。いちばん大きなお花のところを残しておいたのよ。ピンク色のお花なの」そう言うと、心菜の手を引いてダイニングの方へ向かった。心菜はケーキを受け取り、甘えた声で言った。「ひいおば
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第562話

しかしその後、時生が大学のバスケットボールの試合で事故に遭い、骨折したと聞いたことがあった。私は怖くなって、すぐに手芸店でキットを買い、自分の手でこのお守りを作った。あの頃の私は、一本の針と一束の糸さえあれば、二人の未来をしっかり結びつけられると信じていた。「厄除」の二文字をもっと丁寧に縫えば、遠くにいる彼も元気でいてくれると思っていた。実は、このお守りの裏には私の名前も入れてある。ただ当時は、親に恋愛のことがバレるのが怖かった。それも片想いだったからなおさら。二人の名前を一緒に縫い込めば、ずっと離れずにいられると本気で思っていた。私は布袋に縫い付けられた文字をそっとなぞった。喉の奥が何かで詰まったように苦しく、息をするだけで胸が締めつけられる。「ママ、どうしたの?」心菜の声には心配そうな響きが混じっていた。私は慌てて我に返る。彼女の頭を撫で、無理やり笑顔を作って言った。「なんでもないよ。ちょっと昔のことを思い出しただけ。もう遅いから、先に寝ようか?」心菜は頷いたが、その目には分かったような分からないような表情が浮かんでいた。部屋を出る前、彼女はもう一度つま先立ちになり、私の腰にぎゅっと抱きつくと、小さな声で言った。「ママ、お誕生日おめでとう。何があっても、私はママを捨てたりしないからね」胸の奥がじんわりと温かくなる。私は彼女の頬にキスをして言った。「ママもだよ」心菜が部屋を出ていったあと、私はようやくこらえていた涙を抑えきれなくなった。時生のためじゃない。この何年もの間、無駄にしてしまった青春と情熱のためだ。最初から最後まで、自分だけが夢を見ていた。目が覚めたときには、すべてが悪夢のようだ。そのとき、部屋のドアが静かに開き、高司が姿を見せた。私は胸がざわつき、とっさに顔を背けて慌てて涙を拭った。けれど、もう遅かった。高司は私のそばまで来ると、何も言わずにテーブルの上のお守りを手に取った。そこに刺繍された「時生」の名前を見た瞬間、彼の眉がわずかに動いた。そして、何かを察したようだ。一方で、彼がもともと手に持っていたベルベットの小箱は、いつの間にかスラックスのポケットへとしまわれていた。「思い出してしまった?」その声は静かだったが、どこか冷たかった。口元には、か
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第563話

本当なら高司に言えたはずだった。さっき泣いていたのは、この何年もの間に費やしてきた時間や想いが無駄だったことが悔しかったから。自分の愚かさが情けなかったからだと。しかし、今の彼を前にすると、もう何ひとつ説明したいとは思えなかった。私はふと気づいた。結婚も恋愛も、本当に難しいものなのだと。誤解や裏切りに耐えられないのなら、一人で生きていくほうがよほど楽なのかもしれない。その時、高司が突然尋ねた。「それで、昭乃。君は本当に離婚したいのか?もししたくないなら、今ここで言ってくれ。俺も抱えている案件は多い。意味のないことに時間を使うのは好きじゃない」胸の奥が鈍く痛んだ。気づけば、言葉が先に口をついていた。「貴重な時間を取らせてごめんなさい。離婚の件は、もう高司さんに迷惑をかけない。これからは自分で何とかする」「そうか」高司はもともとプライドの高い性格だ。私に歩み寄るはずもなく、その場でスマホを取り出し、秘書に電話をかけた。「昭乃が離婚の件はもうこちらに任せないと言っている。明日、裁判所で訴え取り下げの手続きを進めてくれ。できるだけ早く」私は愕然とした。また取り下げるの?そうなったら、今度こそまた六か月待たなければならないじゃない。私は、本気で離婚するつもりだと伝えたかった。もうこれ以上、そんなに長く待てないのだと。けれど、彼の冷え切った表情と、さっき私と心菜を侮辱した言葉を思い出すと、何ひとつ話したくなくなった。高司もすぐには立ち去らなかった。黙ったまま私を見つめていた。私が折れて謝るのを待っていたのだ。だけど、私は口を開かなかった。時生の前では、長い間ずっと自分を押し殺してきた。それでも最後はこんな結末だった。だからこれからは、自分の気持ちのままに生きたい。もう誰かのために我慢したり、自分を曲げたりしたくなかった。私が黙り続けるのを見て、高司も何も言わず、そのまま部屋を出ていった。……書斎。高司はネクタイを緩め、椅子の背にもたれかかった。こめかみを押さえる指先には力がこもっている。脈打つような痛みが続いていた。彼は自嘲気味に唇を歪めた。本来なら今日は、彼女の誕生日を祝うはずだった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。彼女の母親の件がどれほどつらいもの
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第564話

翌朝早く、神崎家の食卓にはどこか重たい沈黙が漂っていた。向かいに座る高司は、整った顔立ちに氷のような冷たさを宿している。普段から口数は少ないが、澄江の話には適度に相づちを打っていた。だが今はただ目を伏せ、皿の上の料理を機械的に切り分けているだけで、近寄りがたい空気をまとっていた。澄江は最初、その異変に気づいていなかった。銀のスプーンでスープをひと口すくいながら、にこやかに私へ視線を向ける。「そういえば昭乃、昨日は高司からどんなプレゼントをもらったの?一昨日から書斎で小さな箱をいじっていてね。何なのか聞いても教えてくれなかったのよ」箸を持つ手がわずかに止まった。昨夜、高司が部屋に入ってきたとき、たしかに四角い小箱のようなものを手にしていた気がする。私が答える前に、向かいの高司が突然ナイフとフォークを置いた。その声は、少しも温度を感じさせなかった。「おばあちゃん、しばらく隣の都市へ出張に行くことになった。この間は家に戻らない。何か急ぎの用事があったら、直接電話してくれればいいから」私は顔を上げて彼を見た。けれど彼は、あからさまに私の視線を避けた。わかっている。出張なんて、たぶん口実だ。ただ私に会いたくないだけ。それなら今の私はどうなのだろう。心菜と沙耶香を連れて、まるで厄介者のように神崎家に居座っているだけじゃないか。まさか、本当に彼から「出て行ってくれ」と言われるまでここにいるの?澄江が口を開く前に、私は深く息を吸い込み、喉の奥の苦しさを押し込めながら静かに言った。「おばあちゃん、私もここに長くお世話になりました。前の件ももう落ち着きましたし、そろそろ心菜たちを連れて自分の家へ戻ろうと思うんです」その言葉が落ちた瞬間、高司の手がぴたりと止まった。スプーンがコーヒーカップの縁に触れ、かすかな音を立てる。けれど、それもほんの一秒だけだった。彼はすぐに何事もなかったようにコーヒーをかき混ぜ始める。泡がゆっくりと渦を描く。その顔には何の感情も浮かんでいなかった。まるで私の言葉など、どうでもいいことのように。そこでようやく澄江も異変に気づいた。険しい顔の孫と私を見比べると、何かを悟ったように眉をひそめ、テーブルの下で高司の足を軽く蹴った。「あなた、昭乃とケンカしたの?昨日は昭乃の誕生日だったでしょ。
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第565話

私は思わず目を見開いた。すべり台付きベッド?澄江は笑いながら説明した。「数日前に心菜がね、家ではすべり台付きのベッドで寝てるのって話してくれたの。寝る前に何回かすべって遊べるんだって。せっかく子どもたちがここに泊まるんだから、喜ぶものを用意してあげたくてね。こっそり注文しておいたのよ。今日、ちょうど届く予定だったの」「でも……」私は口を開きかけたが、言葉になる前に、澄江が私の手を握った。その手のひらは温かく、少しごつごつしていて、長い年月を重ねてきたぬくもりがあった。「昭乃、あなたがつらい思いをしているのは分かってるわ」澄江は優しい目で私を見つめながら言った。「高司はね、小さい頃に両親を亡くして、私がずっと育ててきたの。あの子が冷たく見えるのは、人を思いやる気持ちをどう伝えればいいのか知らないから。それに、大切な人をどう引き留めればいいのかも分からないのよ。昨日あなたたちの間で何があったのかは知らないけれど、あの子に少しだけ時間をあげてくれない?それと、あなた自身にも。たった一週間でいいの。一週間たっても、あの子が謝りに来なくて、あなたを悲しませたままなら、その時は、出ていきたければ出ていけばいい。私は絶対に引き留めないわ。私が自分であなたたちを送り届ける。どうかしら?」澄江の言葉を聞いた瞬間、私はもうこらえきれなくなった。どうして私なんかが、こんなにも温かい人に出会えたのだろう。私は涙声で言った。「おばあちゃん、高司さんは私を怒らせたわけじゃないんです。本当に。ただ……昨日になって急に気づいたんです。私たちの関係、少し進むのが早すぎたんじゃないかって。まだちゃんと考えられていないことも多いし、心の準備もできていなくて……」「考えがまとまらないなら、ゆっくり考えればいい。準備ができていないなら、ゆっくり整えればいいのよ」澄江は手をひらひらと振りながら、きっぱりと言った。「でもね、何があったにせよ、あの子は男なんだし、それにあなたよりずっと年上でしょ。誤解があったとしても、あんなふうに冷たくするのは駄目よ。この件は、高司が悪いわ!」そう言うと、澄江は玄関の方へ向かって声を張った。「すべり台付きのベッドは心菜と沙耶のお部屋に運んでちょうだい。子どもたちにぶつけないように気をつけてね」それから再び私に向き
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第566話

ドアの外では、心菜は澄江に買ってもらったすべり台付きベッドのことを昭乃に話そうとやって来ていた。けれど、少しだけドアを開けた瞬間、昭乃が昨日時生からもらったお守りを燃やしているのが目に入った。心菜の足がぴたりと止まる。さっきパパからわざわざ電話がかかってきて、お守りをママに渡したかと聞かれた。そして、ママがお守りを受け取ったときどんな反応をしたのかも聞かれた。心菜にはわからなかった。ママは一体どれほどパパを嫌っているのだろう。パパからもらったものまで燃やしてしまうなんて。中へ入ることも、母に声をかけることもできず、心菜は足音を忍ばせて自分の部屋へ戻った。しばらく迷ったあと、沙耶香が澄江のところへ遊びに行っている隙に、一人で部屋に残り、時生へ電話をかけた。電話はすぐにつながり、時生の優しい声が電話口の向こうから聞こえてきた。「心菜、どうしたんだ?急にパパに電話して」心菜はすべり台に腰掛けながら、ふくれっ面で言った。「パパ、この前ママがお守りをもらってどうしたか聞いてたでしょ?」「そうだよ。それで……どんな反応だった?」時生の声には、わずかな期待がにじんでいた。「燃やしちゃった」心菜は言った。「パパ、もうお守りはあげないほうがいいよ。あれって燃やしたらなくなっちゃうもん。今度は大きなダイヤをあげなよ。あれなら燃えないでしょ」時生は、昭乃がかつて自分のために手作りしてくれたお守りまで燃やしてしまったと聞き、胸がずしりと冷え込んだ。もしかしたら昭乃は一時的に怒っているだけで、お守りを見れば昔の思い出を少しは思い出してくれるかもしれない、という淡い期待を、彼はまだ捨て切れずにいた。だが今、そのわずかな希望も冷水を浴びせられたように一瞬で消え失せ、彼の胸には冷たい絶望だけが残った。時生は無理に笑いながら言った。「そうか、わかったよ。心菜はいい子にして、神崎家でちゃんと言うことを聞くんだよ。ママを怒らせちゃだめだからね」電話を切ると、時生はスマホの待ち受け画面を見つめた。皮肉なことに、その家族写真は合成されたものだった。自分と昭乃、それに心菜の写真を業者に頼んで加工してもらったのだ。そうしてようやく、三人は一枚の写真の中で仲良く並ぶことができた。窓の外では、ちょうどいい陽射しが差し込んでいる。
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第567話

ここ二日ほど静かだと思ったら、手口を変えてきたのか。私はとっくに時生の連絡先を全部ブロックしていた。私に連絡が取れなくなったから、今度は結城家にまで嫌がらせを始めたのだ。その瞬間、あの日高司が言っていた「訴えを取り下げる」という話を思い出した。時生のような執着心の強い人間と、これからも延々と付き合わなければならないと思うと、頭が痛くなった。いっそ今すぐ高司に電話して、少し折れてでも頼み込んで、何とか先に離婚だけでも成立させてもらえないだろうか、という馬鹿げた考えまで浮かんだ。けれど、その考えはすぐに打ち消した。あの日の高司の態度はあまりにも頑なだった。私が何を言ったところで、応じてくれるとは限らない。私は大きくため息をつき、電話に向かって言った。「お父さん、お母さん、彼のことは放っておいて。いつもどおり過ごしてね。どうせ私に見せつけたいだけなんだから、そのうち気が済めば勝手に帰るよ」「でも、あの人、屋根裏部屋でお酒飲んでるのよ!」奈央の声はさらに焦りを帯びた。「もし急性アルコール中毒になったり、転んでケガでもしたら、うちのせいにされるじゃない!」私はスマホを握る指に力を込めた。奈央の言う通りだった。もし時生が結城家で何かあれば、淑江の性格なら家中ひっくり返す勢いで騒ぎ立てるだろう。とはいえ、私はどうしても彼の顔を見に行きたくなかった。「わかった。今から警察に連絡する」電話を切ろうとしたその時、電話口の向こうから聞き慣れない男の声がした。おそらく時生のボディーガードが電話を代わったのだろう。その声には、わずかな脅しが混じっていた。「昭乃さん。時生社長は結城家を相手に本気で事を荒立てるつもりはないそうです。ですので、昭乃さんも共倒れになるような真似はおやめください。その方が皆さんのためです」私は深く息を吸った。胸の奥で膨れ上がった怒りが、今にも爆発しそうだった。彼はもう私の母を死に追いやった。それなのに、まだ手を引こうとしない。私の大切な人たちを一人残らず傷つけ、私を一生罪悪感の中に閉じ込めるまで、気が済まないというのだろうか。私は怒りを押し殺し、冷たく言い放った。「時生に伝えて。今から行くって。もし両親に何かあったら、私は命を懸けても彼を許さないから」電話を切ると、私は急いで着替えた。外へ
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第568話

時生の傍らには、飲み干された酒瓶が一本置かれていた。ひどく酔っているはずなのに、どこか冷ややかで気品のある雰囲気は消えていない。足音が聞こえた瞬間、彼は勢いよく顔を上げた。焦点の定まらなかった視線が、一瞬で私へ向けられる。そして、ふらつきながら立ち上がると、グラスの酒が数滴こぼれ落ちた。私の前まで来ると、彼の体から漂う酒の匂いにラベンダーの香りが混ざり、私は思わず眉をひそめた。私が口を開く前に、時生が突然私の手を握った。その掌は焼けるように熱い。まるで宝物を見せる子どものように、ほろ酔いで潤んだ瞳をきらきらと輝かせながら、かすかに震える声で言った。「昭乃、見てくれ。二日かけて、やっとここを昔と同じようにしたんだ。この風鈴に吊るされた願い事も、お前があの頃書いたものと全部同じなんだよ。昔の俺ができなかったことは、これから全部叶えていく。だから……もう一度やり直せないか?」私はかなり力を入れて、ようやく彼の手を振りほどいた。そして静かに彼を見つめる。「時生、もう十分でしょ」私がそう言った瞬間、彼の目に宿っていた光がすっと消えた。私は一語一語、はっきりと言い放つ。「こんな過去の欠片を並べれば、私が受けた傷をなかったことにできると思うの? あなたが私に負っているものは、命なのよ」時生はその場で固まったまま、ただ真っ直ぐ私を見つめていた。ほろ酔いの瞳には薄く涙が滲んでいる。まるで私の言葉が理解できないかのように、自分だけの世界に閉じこもったまま、独り言のように続けた。「昭乃、昔の俺が見落としてしまったことも、お前を失望させたことも、全部少しずつ償っていく。ここには俺たちの思い出がたくさんあるだろう。本当に全部忘れてしまったのか?」「昭乃、私たちは外で待ってるから」その時、不意に玄関の方から奈央の声が聞こえた。振り返ると、奈央と孝之が階段の前に立っていて、二人とも不安そうな顔をしている。奈央は、時生が酒に酔って我を失い、私に暴力を振るうのではないかと心配しているようだった。私に向かって「刺激しないで」と目配せしながら、同時に「なんとかして早く帰らせなさい」と口の動きで必死に伝えてくる。私はそのままラタンチェアまで歩いて腰を下ろした。半分眠り、半分酔った状態でぶつぶつと話し続ける時生を、ただ黙って聞き流す
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第569話

私は時生の視線をまっすぐ受け止め、淡々と言った。「先に私の世界からいなくなったのは、あなたでしょ」そう言い終えた瞬間、階段のほうからハイヒールの音が聞こえてきた。優子が上がってきた。丁寧にメイクを施し、明らかに時間をかけて着飾っている。なかなか来なかったのも納得だった。だが、屋根裏部屋に飾られた風鈴や思い出の品々を目にした途端、彼女の表情がぴたりと固まった。ここが私と時生の過去が詰まった場所だと、一瞬で理解したのだ。優子の口元がわずかに引きつり、その目には一瞬だけ憎しみの色がよぎった。彼女は私を見つめながら言った。「昭乃さん、私をここに呼んだのは、彼がどれだけあなたを愛してるか見せつけて、私を諦めさせるためですか?」私はその様子がおかしくて仕方なかった。「そんなことしてる暇はないわ。早くこの人を連れて帰って。これ以上ぐずぐずしてたら、気が変わって引き留めるかもしれないから」そう言うと、優子は慌てたような顔になった。せっかく手に入れたものを失うのが怖いのだろう。彼女は急いで時生のそばへ行き、その腕にしがみついた。「時生、こんなに飲んじゃって……もう帰ろう?ここにいても迷惑になるだけだし、私が送るから」だが時生は勢いよく彼女の手を振り払った。あまりの力に、優子は転びそうになる。彼は最後にもう一度だけ私を見た。その目には失望も、不満も、諦めきれない想いも入り混じっていた。そして何も言わず、ふらつきながら背を向ける。壁に手をつき、よろめきながら階段を下りていった。優子は恨めしそうに私を睨みつけると、慌てて時生の後を追った。屋根裏部屋の風鈴が風に揺れて涼やかな音を鳴らす。暖かな黄色い灯りは相変わらず優しく部屋を照らしていた。けれど、あの頃の気持ちはもう二度と戻らない。今の私にとって、ここにあるものはすべて意味を失っていた。……赤い車が夜の街を滑るように走っていた。車内にはほのかな灯りだけがともり、時生の横顔を淡く照らしていた。助手席にもたれた彼は眉をわずかに寄せ、長いまつ毛が目元に薄い影を落としていた。優子はハンドルを握る手に少し力を込めながらも、視線は何度も隣の彼へ向かっていた。その目には、企みの色が浮かんでいる。ちょうどこの数日は、妊娠しやすい時期に当たっていた。前に妊
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第570話

精力剤を買い終えた優子は車に戻り、助手席ですっかり眠り込んでいる時生を見つめながら、そっと口元を緩めた。今夜が終われば、この男はもう二度と自分の手のひらから逃げられない。そう思うと胸の高鳴りはますます強くなり、思わずアクセルを踏む足にも力が入った。家に着くと、泥酔した時生を寝室のベッドまで運ぶのにかなり苦労した。時生は相変わらず目を閉じたまま、何かをぼんやりと呟いている。耳を近づけて聞いてみると、口にしていたのはずっと「昭乃」の名前だった。そのうえ、不意に彼に手を握られる。時生は眉をひそめ、苦しそうに呟いた。「昭乃……俺が悪かった。頼むから離れないでくれ。行かないで……頼む……」優子の目つきが一瞬で冷え込んだ。爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握る。だが、すぐにその嫉妬を押し込めた。大丈夫。彼の子どもを身ごもってしまえば、昭乃にもう入り込む余地はなくなる。胸の中で燃え上がる感情を必死に押し殺しながら、彼女は立ち上がってコップに水を注ぎ、精力剤を一錠取り出すと、優しく声をかけた。「私は離れたりしないわ。ほら、先に酔い止めを飲んで」酔いと眠気の狭間で、時生は何の疑いもなく、その錠剤を水で流し込んだ。優子は口元を吊り上げ、勝利を確信したような笑みを浮かべる。そして棚を開け、高性能のビデオカメラを取り出した。これは以前、景也と付き合っていた頃に、刺激を求めて使っていたものだ。今は時生に使うのにちょうどいい。ようやく手に入れたこのチャンスを、絶対に逃すわけにはいかない。今夜は彼の子どもを授かるだけでなく、十分な証拠も残しておかなければならない。写真、動画、音声……それらさえ手元にあれば、あとで時生が責任逃れをしようとしても、従わせる方法はいくらでもある。シャワーを浴びて浴室から出る頃には、薬はすでに効き始めているようだった。優子はベッドの端に腰掛けると、苦しそうに身じろぐ男へと身を寄せ、低く囁いた。「時生。今夜が終わったら、もう私を振り払うことはできないわ。私たちの運命は、これからずっと固く結ばれるの」……翌朝。厚いカーテンの隙間から差し込む朝の光が、カーペットの上に細長い光の筋を落としていた。時生は激しい頭痛とともに目を覚ました。二日酔いのめまいが波のように押し寄せ、喉は焼け
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