All Chapters of 冷酷夫、離婚宣言で愛を暴走: Chapter 601 - Chapter 610

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第601話

私は深く息を吸い込んだ。こんな場所で時生が暴れ出すんじゃないかと、不安でたまらなかった。階下には大勢の招待客がいる。そんな危険を冒すわけにはいかない。私は胸の奥の動揺を押し隠し、彼のもとへ歩み寄ると、わざと腕にそっと手を添えた。「帰ったらちゃんと説明するから」これまでになく穏やかな口調でそう言った。けれど時生の視線は、高司から一瞬たりとも離れない。皮肉っぽく口元をゆがめると、冷笑を浮かべて言った。「おじさん。甥の奥さんにまで手を出すつもり?本当に見境がないんだね」少し間を置き、その声はいっそう冷たくなる。「さっき下では、俺は昔のことは水に流して、おじさんの噂まで火消ししてやった。それなのに、その舌の根も乾かないうちに俺の妻を部屋へ連れ込むなんて、あまりにも筋が通ってないんじゃないか?」高司はすぐには答えなかった。ただ長い脚でゆっくりと一歩ずつ近づいてくる。彼が近づくにつれ、その場の空気はどんどん張り詰め、目には見えない圧力に押されるように、時生の強気な表情も少しずつ揺らいでいった。そして時生の目の前で立ち止まると、一語一語はっきりと言い放つ。「そうだ。俺は君の妻に惹かれている……もうすぐ、君が完全に負けを認める日が来る」「ふざけるな!」時生の怒りは一気に爆発した。右拳を握り締め、そのまま高司へ殴りかかろうとする。私はとっさに彼の腕を押さえ、二人にしか聞こえない声で警告した。「時生。ここで騒ぎを起こしたら、私たちの取引はその場で終わりだから」時生の体がぴくりと固まり、どうにか怒りを飲み込んだ。最後に高司を鋭く睨みつけると、私の手首をつかみ、そのまま私を引っ張って部屋を出ていく。振り返ったその瞬間、高司の瞳に、必死に押し殺した想いと痛みが浮かんでいるような気がした。階下のパーティー会場では相変わらず音楽が流れ、人々は楽しげに談笑している。けれど私たちは、もうそこにいる気分ではなかった。時生は足早に歩き、ほとんど私を引きずるように廊下を抜け、そのまま駐車場まで向かった。助手席のドアを開けると私を車内へ押し込み、自分は運転席へ回り込む。「バタン」とドアが閉まる。時生はエンジンをかけず、体をこちらへ向けると、両手を私のシートの左右につき、逃げ場のないように私を囲い込んだ。「昭乃。俺はさっき下で
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第602話

私は狂った相手と共倒れになるような賭けをするつもりはなかった。だから、それ以上時生と真っ向からぶつかることはせず、とりあえず落ち着かせようと思った。けれど、私が一歩引いたことで、かえって時生は図に乗った。彼は体をこちらへ向けて私を見つめ、有無を言わせない口調で言った。「今日から、お前と心菜は黒澤家に戻るんだ。芝居をするなら最後まで徹底しないと意味がない。中途半端にして失敗したら、高司まで巻き込むことになる。それは困るだろ?」私は眉をひそめ、とっさに断ろうとした。だが、時生は私が最終的には折れるとでも思っているのか、すでに車を私の家へ向かわせていた。私は窓の外を流れていく街並みを眺めながら、どうやってこの場を切り抜けようかと頭を巡らせる。ようやくマンションの前が近づいた頃、私はそっとコートのポケットに手を入れ、スマホを取り出した。そして、以前優子からかかってきた電話の履歴を開く。ほどなくして電話はつながり、ちょうどそのタイミングで時生の車もマンションの前に停まった。私はスマホをシートの後ろへそっと置き、このあと時生と交わす会話が、向こうにもはっきり聞こえるようにした。「さっき、私と心菜に黒澤家へ戻ってほしいって言ってたけど、その前に心菜が幼稚園から帰ってきたら、本人の気持ちも聞いたほうがいいんじゃない?」「心菜を言い訳に使うな」時生はすぐに私の言葉を遮った。「お前さえその気になれば、あの子が反対するはずない」私はわざと少し折れたような口調で言う。「戻るのは構わない。でも、一つ条件がある」一拍置いて、私は強い口調で続けた。「今回戻るなら、もう優子と曖昧な関係を続けないで。きっぱり縁を切って、二度と会わないこと。私たちの前から完全に消えてもらう。それを約束して」時生はほとんど迷うことなく答えた。「安心して。お前が嫌がる相手を、俺がそばに置いておく理由はない」彼は手を伸ばして私の頬に触れようとしたが、私はすぐに身を引いた。時生は気まずそうに手を引っ込めると、わざと優しい声で言った。「お前と心菜さえ戻ってきてくれれば、俺の世界にはもうお前たちしかいらない」……その頃、電話の向こうで。優子はスマホを勢いよくテーブルへ叩きつけた。画面は鈍い音を立てて粉々に割れる。「昭乃、この性悪女!」顔を歪め、歯ぎしりし
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第603話

その態度は驚くほど低姿勢で、少しの迷いも見せなかった。淑江は考えれば考えるほど腹が立ってきた。恥さらし!本当に恥さらしだ!黒澤家の面目をすっかり潰してしまったじゃない!そのとき、使用人が足音を忍ばせて入ってきて、小声で報告した。「淑江様、優子様がお見えです。現在、玄関でお待ちになっています」「優子?」淑江は眉をひそめ、軽蔑を隠そうともせず鼻で笑った。「何しに来たの?昭乃ひとりにも勝てなかった役立たずが。評判はとっくに地に落ちたっていうのに、まだうちへ来る顔があるの?」前に優子が昭乃を陥れようとして失敗し、逆に企みが暴かれてからというもの、評判も将来もすべて失っていた。淑江は今では、優子のことなどまともに見る気にもならない。今の優子には、黒澤家に足を踏み入れる資格などないと思っていた。「追い返しなさい」淑江は冷たく命じた。「もう休んだと伝えて。誰にも会わないって」使用人はその場で少しためらい、困ったように言った。「ですが……優子様は、淑江様が絶対に興味を持つものをお持ちだと。それから、今日お会いにならなければ、きっと後悔するとおっしゃっています」「ほう?」淑江はティーカップを持つ手を止めた。まさか優子が昭乃の弱みでも掴んで、あの女を息子のそばから追い払えるというのだろうか。それなら少し興味が湧いた。考えを変えた淑江は使用人に言った。「いいわ、通してちょうだい。どんな面白いものを持ってきたのか、この目で見てあげる」ほどなくして、優子は使用人に案内され、リビングへ入ってきた。淑江はソファにもたれたまま、相変わらず尊大な態度を崩さず、ちらりと一瞥しただけだった。そこに敬意の欠片もない。「さあ、話して。私が興味を持つものって何?」優子は意味ありげに微笑んだ。「もうご存じですよね?時生は昭乃と心菜を黒澤家へ迎え入れるつもりです。そう遠くないうちに、昭乃は正式に黒澤家の一員になります。淑江さん一人で、本当に彼女に勝てると思っていますか?」淑江は喉の奥で冷笑を漏らし、あからさまな嘲りを浮かべた。「まさか、あなたを頼れっていうの?確かに私は昭乃が時生のもとへ戻るのは望んでいない。でも、あなたは?」彼女は優子を頭の先から足元まで値踏みするように見て、さらに辛辣に言った。「今のあなたは評判なんて最悪。まるで嫌
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第604話

淑江はハッと顔を上げると、全身を抑えきれないほど震わせた。その目には恐怖と信じられないという色が浮かび、まるで命を取りに来た亡霊でも見ているかのようだ。かすれた声で問い詰める。「どうしてそんなことを知ってるの? それに、その証拠は……どこで手に入れたの?」あの件は当時、大金を払ってもみ消した。時生にさえ知られていない話だ。部外者の優子が、証拠を手に入れられるはずがない。リビングのクリスタルシャンデリアが冷たい光を放ち、血の気を失った淑江の顔を照らしていた。優子は鼻で笑うと、見下したように言った。「私には私のやり方がありますので。あなたの弱みなんて、とっくにこちらが握っています。一度こちら側についた以上、お好きなときに抜けられるなんて、お思いではありませんよね?」淑江は指先が白くなるほどソファの肘掛けを握り締め、額には冷や汗が滲んだ。「じゃ、じゃあ……あなたは、どうしたいの?」「もちろん、あなたの息子さんのお嫁さんになることです」優子はふっと笑った。しかし、その口調には一言一言はっきりと脅しが込められていた。「ご安心ください。私たちが本当の家族になれば、この件は誰にも話しません。家族のことを外へ漏らすようなことはしませんから」そう言った直後、声色が一気に冷たくなる。「ですが、もし私に協力していただけないのでしたら、私は法を守る善良な市民として行動するしかありません。そうなれば淑江さん、残りの人生を刑務所で過ごすことになるかもしれませんね」「やめて! お願い!」淑江は慌てて優子の手をつかみ、膝が勝手に崩れ落ちて、今にもカーペットの上にひざまずきそうになる。「優子、お願いだからそんなことしないで! あなたの言うことなら何でも聞くわ。時生のことは私から話す。あなたがあの子のたった一人の妻よ。この家もこれからはあなたの好きにしていい。だからお願い、これ以上大事にしないで。絶対に誰にも知られちゃだめなの!」優子は怯えきった淑江の姿を見つめ、目の奥に満足げな笑みを浮かべた。手をゆっくり引き抜くと、落ち着いた口調で言う。「父は不正が発覚して、時生さんに刑務所へ送られました。でも、兄と母まで路頭に迷わせるわけにはいきませんよね。あなたは黒澤グループの株主なのですから、できるだけ早く兄をグループ会社の部長に就けてください。それ
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第605話

夜が更けても、黒澤家の屋敷だけはまだ煌々と明かりが灯っていた。使用人たちは掃除道具を手に屋敷中を行き来し、シャンデリアの細かな隙間まで丁寧に磨き上げている。時生はリビングの中央に立ち、わずかに眉を寄せて言いつけた。「春代、みんなに指示を出してくれ。屋敷中、全部、昭乃が出て行く前の状態に戻すんだ」そう言って少し間を置き、リビングに飾られている、以前優子がオークションで落札した置物へ視線を向けると、すぐに付け加えた。「それから、優子に関係する物は一つ残らず片づけてくれ。昭乃に見つかるようなことは絶対にあってはならない」春代は手を止めると、ぱっと顔をほころばせた。「はい!それって……奥様がお戻りになるんですか?」昨日のパーティーで時生が昭乃への想いを堂々と示したことは、誰もが目にしていた。ネットでも祝福の声であふれ、春代はこの日が来るのをずっと待ち望んでいた。昭乃のことになると、時生の口調も少し柔らかくなる。「ああ。明日、昭乃が心菜を連れて帰ってくる」そう言うと、彼はゲストルームのドアを開けて中を見渡した。「この部屋の寝具は片づけてくれ。これから昭乃が帰ってきたら、泊まるのは主寝室だけだ」春代は嬉しそうに返事をし、振り返ると使用人たちへ作業を急ぐよう声をかけた。一方、時生は書斎へ向かい、優子のことをどう片づけるべきか考え始めた。自分が彼女に負い目を感じているのは事実だ。面と向かって出て行ってほしいとは、どうしても言えなかった。長いこと考えた末、彼は健介に電話をかけて指示を出した。「明日までに優子を潮見市から立ち去らせてくれ。補償が欲しいなら、金額は好きなだけ言わせればいい」電話の向こうで健介は一気に顔をしかめたが、渋々引き受けるしかなかった。どうしてこういう面倒な役回りは、いつも自分なんだ。翌朝、夜明けと同時に健介は優子の家の前で待ち構えていた。だが、ドアを開けたのは家政婦だった。健介は中をのぞき込みながら尋ねた。「優子さんはいらっしゃいますか?」家政婦は正直に答えた。「優子さんなら朝早くに出かけました。時生社長のお母様と朝食をご一緒されるそうです」「社長のお母様?」健介は思わず目を丸くした。あの騒動のあと、淑江は時生の前で何度も優子の悪口を言っていたはずだ。それなのに、どうして急に二人が一緒にい
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第606話

「いや!」優子は勢いよく顔を上げ、涙声で言った。「時生、前にも言ったよね。私はあなたを陰で支えるだけでいいの。昭乃さんの邪魔なんて絶対にしない……」「最後まで聞いてくれ」時生は彼女の言葉を遮り、少し強い口調で続けた。「俺は昭乃とちゃんと家庭を築いていきたい。だから君が潮見市にいるのは、俺たちにとって良くないんだ」隣で優子が息もつけないほど泣いているのを見ながら、淑江は心の中で「また白々しい芝居を」と毒づいた。昨日、この女の本性を目の当たりにして初めて、自分にも敵わない相手がいるのだと痛感した。だが今は、自分の弱みを優子にしっかり握られている。仕方なく口を開いた。「時生!昭乃と高司のこと、もう忘れたの?たとえ彼女を連れ戻したって、彼女の心にはあなたなんていないのよ!いつまで現実から目を背けるつもり?」「俺と昭乃は幼なじみだ。俺たちの絆は他人には分からない」時生はきっぱりと言い切った。「昭乃は一時、道を踏み外しただけだ。俺が本気で向き合えば、きっとまた受け入れてくれる」「じゃあ優子はどうなるの?」淑江は強い口調で言った。「私は優子しか嫁として認めない!昭乃なんて、二度と黒澤家の敷居はまたがせないわ!」「黒澤家は俺の家だ。誰を迎え入れるか、誰と暮らすかは俺が決める」時生は彼女を一瞥し、冷たく言い放った。「お母さん、口を出しすぎだ」淑江は優子の目の奥に沈んだ暗い感情を見て、胸がざわついた。そして覚悟を決めたように言い放つ。「いいわ!私の言うことを聞かないっていうなら、マスコミに話してやる。あなたと優子が今も関係を切っていないことも、私が嫁として認めているのは優子だけだってことも!黒澤グループの株価が暴落して大騒ぎになっても、私を恨まないでね!」一息置くと、さらに決定打を放った。「それに、昔あなたが心菜を優子に預けて育てさせたことだって、世間はまだ知らないでしょ?自分の娘にどんなことをしたのか、みんなに知られてもいいの?」時生は目を見開き、信じられないという表情を浮かべた。「お母さん……本当に俺の母親なのか?黒澤グループがようやく立ち直ったのに、それを自分の手で壊したいのか!」「知ったことじゃない!」淑江の声は震えていたが、それでも歯を食いしばって続けた。「今日から私と優子はここに住む。それに優子のお母さんも呼ぶわ。昭乃をここへ
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第607話

私はほっと胸をなで下ろした。やっぱり賭けは間違っていなかった。この女なら、どんな手を使ってでも時生のそばへ戻る方法を見つける。これで時生も、私と心菜を黒澤家の屋敷へ連れ戻そうなんて言えないはず。そんなことを考えていると、突然スマホが鳴った。画面には「澄江」と表示されている。通話ボタンを押すと、落ち込んだ声が耳に届いた。「昭乃、正直におばあちゃんに話して。あなた、本当に時生とやり直したの?本当にあの人を許したの?男ってそう簡単には変われないのよ。もうあなたがつらい思いをするのは見たくないの」その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなり、鼻の奥がつんとした。でも同時に、その優しさが嬉しかった。「おばあちゃん、昨日は何の相談もしないまま時生をパーティーに呼んでしまって、ご心配をおかけしました。てっきり……怒られると思っていました」「この子ったら」澄江はため息をつき、いたわるような声で言った。「おばあちゃんは長く生きてきたんだから、あなたが高司を助けようとしていたくらい分かるわよ。最初からそのつもりだって知っていたら、何があってもあなたにそんな無理はさせなかったのに」私は鼻をすすり、込み上げる気持ちを抑えながら、小さく尋ねた。「おばあちゃん、信じてくださってありがとうございます。神崎家は今どうですか?高司さんのほうも、もう問題はありませんか?」「行政のほうから以前、高司に内々で話があったの。やっぱり例のスキャンダルが原因で、協力の話が止まっていたのよ」澄江の声は少し穏やかになった。「でも昨日のパーティーで高司の潔白はすっかり証明されたわ。神崎家も危機を脱したの。今は異議申し立ての手続きを進めていて、よほどのことがなければ認められるはず。そうなれば、また公的な入札にも参加できるわ」「よかったです……本当によかったです」ここ数日ずっと張りつめていた心が、ようやく落ち着いた。けれど澄江の声は再び沈んだ。「でも、あなたはどうするの?昨日は一晩中眠れなかったの。神崎家を救う代わりに、あなたが犠牲になるなんて思うと後悔ばかりで……最初からこんな芝居をするんじゃなかった。今じゃ私たちも後には引けなくなってしまった。それに、あなたと高司の結婚式を挙げるって約束したのに、あの子に何て説明すればいいの」私はスマホを握る手に力を込めた。昨日、
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第608話

沙耶香の顔には、不安がはっきりと浮かんでいた。瞳までさっきよりずっと曇っている。この子が怖いのは、置いていかれること。そして、また里奈のもとへ送り返されることだ。私は腕に力を込め、一言一言かみしめるように約束した。「大丈夫。おばさんは時生おじさんと一緒に行ったりしないから」沙耶香はすぐには信じられなかったようで、顔を上げて言った。「でも心菜が、時生おじさんが迎えに来てくれるって言ってたよ」考えるまでもない。きっと時生がこっそり心菜に会って、何か吹き込んだのだろう。心菜はまだ子どもだ。親の言うことを信じてしまうのも無理はない。私は沙耶香の髪を優しくなでながら言った。「約束する。絶対に沙耶を置いていかない。時生おじさんの家には戻らないし、沙耶を見捨てることも絶対にないから」その言葉を聞いてようやく、沙耶香の強張っていた表情が少しずつ和らいだ。その時だった。玄関の外から、心菜の弾んだ声が聞こえてきた。「パパが来た!」私は胸がずしんと重くなった。心菜はたぶん、私と時生が仲直りしたと思っているのだろう。だから以前ほど彼を警戒していない。一方で沙耶香の体は、また一瞬でこわばった。小さな手がぎゅっと私の服の裾をつかみ、瞳には不安がいっぱいだった。時生が本当に私と心菜を連れて行ってしまうのではないかと怯えているのだ。私は微笑んだ。「おばさんを信じて。ね?」沙耶香はしばらく私を見つめ、それから力強くうなずいた。私は沙耶香と手をつないで部屋を出た。リビングでは、時生が大きな荷物をいくつも抱えて立っていた。袋から見えているのは、どう見てもケーキ作りの材料だ。普段はほとんど台所にも立たない人なのに、この前、私の誕生日ケーキ作りがうまくいったものだから、今度は心菜の好みに合わせることまで覚えたらしい。「昭乃」時生は笑顔で近づいてきた。私たちを黒澤家へ連れて帰る話には一切触れず、ただ言った。「今日はお前たち座ってるだけでいいよ。俺が腕を振るって、イチゴのケーキを作るから」けれど心菜は、その話題を流さなかった。小さな顔を見上げて尋ねる。「パパ、昨日は今日ママと私をおうちに迎えに来るって言ってたよね?」時生の表情に一瞬だけ戸惑いが走ったことにも気づかず、心菜は続けた。「でも迎えに来るなら、沙耶も一緒
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第609話

「わかった。住所を送って」私はほとんど反射的にそう返事をした。電話を切ると、立ち上がって玄関へ向かい、コートを羽織る。物音を聞きつけた時生が、すぐにキッチンから出てきた。「出かけるのか?」「うん。会社で急ぎの仕事が入って」私はそっけなく答え、それ以上説明する気にもなれなかった。沙耶香は不安そうに私をじっと見つめている。置いていかれるんじゃないかと心配しているようだ。私は沙耶香の手を握り、時生に言った。「心菜のことお願いね。私は沙耶を連れて行くから」時生の笑みが少しだけ薄れる。「どうしても今行かなきゃいけないの?ケーキ……もうすぐできるんだ。娘が一生懸命作ったんだよ。少しくらい食べてあげない?」「あなたと同じ。私も甘いものは好きじゃないから」冷たく言い放つと、時生は黙り込んだ。きっと思い出したのだろう。昔、私が嬉しそうにケーキを焼き上げ、スプーンを口元へ差し出して「一口だけでも」と頼むたび、彼が適当にあしらっていたことを。案の定、それ以上引き止めることはできなかった。それでも、私が沙耶香を連れて行こうとすると、一歩前に出て言う。「仕事に子どもを連れて行くのは大変だろう?ここに置いていったら?安心して。心菜の友達なんだから、ちゃんと同じように面倒を見るよ」「結構だわ」私はきっぱり断り、沙耶香の手を引いて外へ向かった。「あなたは自分の娘だけ、ちゃんと見ていて」エレベーターに乗った途端、沙耶香は大きく息をつき、小さな顔を見上げて、三日月のように目を細めて笑った。「昭乃おばさん、時生おじさんがいないだけで、空気までおいしく感じる!」その一言に思わず笑ってしまった。頭を優しく撫でながら言った。「ふふ、私もまったく同じこと思ってた」……私はまず会社へ戻って取材機材を受け取り、理沙から送られてきた取材原稿にも目を通した。取材相手を見て、私は思わず驚く。なんと、前に江川市で私を診てくれた宗樹だった。今回、雑誌の「レジェンド人物伝」のゲストとして招かれたのは、心理学と東洋医学の鍼治療を組み合わせた独自の治療法に精通しているだけでなく、実業家としても大きな成功を収めているからだった。私は一通りプロフィールに目を通して予習を済ませると、そのまま車で白金クラブへ向かった。隣に座る沙耶香は、これから取材
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第610話

そこまで言うと、宗樹は言葉を切った。私も高司との関係についてあまり話したくなかったので、こう切り出した。「宗樹さん、お忙しいところ恐縮ですが、そろそろ取材を始めてもよろしいでしょうか?」「もちろんです」宗樹も踏み込みすぎたと気づいたのか、それ以上は何も聞かず、快く取材に応じてくれた。静かな茶室で行われた取材は一時間近くに及んだ。宗樹の受け答えは筋道が通っていて、それでいて温かみがあり、一つひとつの話から「伝説」と呼ばれる理由が伝わってきた。東洋医学とビジネスはまったく異なる分野だが、彼はどちらでも見事な成果を残していたのだ。取材が終わると、私はレコーダーとノートを片づけ、笑顔で立ち上がった。「宗樹さん、今日は本当に有意義な取材になりました。ご協力ありがとうございました」宗樹はすぐには返事をせず、テーブルの下に置かれていた紫檀の箱から、白みを帯びた玉飾りを取り出した。淡い青の模様がうっすらと浮かんでいる。「昭乃さん、少し待ってください」そう言って玉飾りを私の前に差し出すと、真剣な、それでいてどこか悔いをにじませた口調で言った。「先日、玄吾に会って初めて知ったのですが、お母さんとは、俺も彼も昔からの知り合いだったそうなんです。当時、俺たちはみんな帝都大学の同窓生でした。あれほど才能に恵まれた人が、こんなにも早く亡くなられたなんて、本当に残念でなりません。この玉飾り、どうか受け取ってください。ほんの気持ちですが」私は思わず固まった。母が宗樹と知り合いだったなんて。でも、母はもうこの世にはいない。今さら過去を掘り返したいとも思わなかった。私は玉飾りをそっと押し返した。「宗樹さん、お気持ちはありがたいのですが、こんなに高価なものはいただけません」「昭乃さん、最後まで聞いてください」宗樹は誠実な眼差しで続けた。「今日昭乃さんが取材に来なくても、いずれ機会を見つけてお渡しするつもりでした。ちょうど今日、その機会が訪れたので、俺も長年の心残りを一つ果たせます」その声には、どこか願うような響きがあった。私は彼の手のひらに載る、ぬくもりまで伝わってきそうな玉飾りを見つめ、結局それを受け取った。そのとき、茶室の扉が外から開き、入ってきたのは晴臣だった。私の姿を見るなり、彼は驚いたように目を見開く。宗樹は湯
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