All Chapters of 青春も愛した人も裏切ってしまった: Chapter 1 - Chapter 10

23 Chapters

第1話

生まれ変わった小泉奈月(こいずみ なつき)は、真っ先に離婚協議書を手に青山元治(あおやま もとはる)のもとを訪れ、口を開けば二言だけだった。「離婚に同意するわ。子どもを一人、私が連れていく」元治は協議書をめくる手を止め、視線を上げると、一瞬だけ驚きが過ったが、すぐにいつもの冷淡さで覆い隠した。「四人の子どもの中で、わざわざあの病弱な子を選ぶのか」彼は指先で机を軽く叩きながら、探るような口調で言う。「奈月、今度はまた何を企んでいる」「信じるかどうかは勝手、署名して」奈月は協議書を彼の前へ押しやった。元治はペンを握ったまま空中で動きを止め、三十秒ほど経った後、いきなり身を乗り出して署名すると、ペンを机に叩きつけるように置いた。「言ったことは必ず守れ」……「奈月、元治が離婚すると言ってるって本当?」電話口から母の切羽詰まった声が聞こえる。「四人の子どもは……どうするつもりなの?」「一人連れて行く」奈月は淡々と答えたが、軽く丸めた指先が心の揺れを隠しきれなかった。「一人でも連れて帰る方がいいわ」母の声は少し和らぎ、続けて言う。「男の子を連れて戻れば、いずれは小泉家の跡継ぎとして支えてくれる」「朔真は落ち着いているし、朔矢は賢い。朔斗はやんちゃだけど愛嬌があるし……どの子にするか、もう決めたの?」「私は朔乃を選ぶ」電話口が突然沈黙した。三秒の間を置き、母の声が一気に鋭くなる。「正気なの?あの子は小さい頃から本家で育って、あなたと親しくもないのよ」奈月は静かに目を閉じた。母の懸念が分からないわけではなかった。青山朔乃(あおやま さくの)は生まれた時わずか1500グラムで、退院したその日から姑に「静養が必要」との理由で抱えられ、先月になってようやく彼女のもとに戻された。情の深さで言えば、当然ながら自分で育ててきた三人の息子には及ばない。だが奈月だけは知っていた。この世で唯一、自分に心から寄り添ってくれるのは、この小さな娘だけだと。前の人生で自分が亡くなった後、墓前で娘は皺だらけの御年玉を握りしめ、しゃくり上げながら泣いていた。「ママ、お金ぜんぶあげるから、死なないでよ……」居間の壁に掛けられた家族写真は、陽射しに晒されて少し色褪せていた。写真の中で元治は三人の息子を抱い
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第2話

電話を切った瞬間、奈月の胸から石が落ちたように、全身がふっと軽くなった。ギィ……部屋の扉がそっと開き、朔乃がぬいぐるみを抱いて立って、柔らかな声には期待がにじんでいた。「ママ、お誕生日パーティー、いつ始まるの?」「朔乃、いい子ね。ママもすぐ降りるわ」奈月の声は自然と優しくなる。部屋の隅には贈り物が山のように積まれていた。朔真のための絶版百科事典、朔矢のための限定フィギュア、朔斗が欲しがっていたスターのサイン、そして朔乃が心から望んでいた人形。それはすべて、前の人生の記憶をもとに用意したものだった。ただ今回は、あの頃のように「ママありがとう」と言われるのを、じっと待つつもりはなかった。階段の曲がり角に差しかかると、リビングからの会話が耳を突き刺した。「元治、本当に私のために離婚してくれるの?」都子の声は泣き声を帯びていた。「朔矢たち、どの子だって私には大事なのに。それに、彼女はあなたを愛しているのよ。もし離婚を拒んだら?」「拒むものか」元治の声は冷たく硬い。「署名しなければ、君を連れて国外で結婚式を挙げるだけだ」「都子おばさん、泣かないで!」それは朔矢の声。「僕、あの悪いママなんかと一緒に行かない」「朔真もだ!」「ねえ、僕たちが国外に行って、結婚式でフラワーボーイやろうよ!」朔斗が弾む声で言った。奈月の爪は手のひらに食い込み、痛みで指先が痺れた。前の人生で一度経験しているとはいえ、裏切りを再び目の当たりにすると、やはり胸が苦しくなる。彼女は深く息を吸い、冷たい顔のまま角を曲がった。「誕生日パーティーを始めよう」怯えた都子が慌てて彼女の腕を掴む。「奈月さん、私が歓迎されないのは分かってる。すぐに帰るから……」すれ違う瞬間、都子は突然足を挫いたふりをして、奈月の腕を思い切り引いて階段へと倒れ込んだ。「きゃっ!」奈月の視界に映ったのは、元治と三人の息子の顔が一斉に青ざめる様子。元治は最初、彼女に手を伸ばしかけた。だが都子の泣き声を耳にした瞬間、その手は無理やり方向を変え、都子を抱きかかえた。天地が回転し、背中を階段に叩きつけられた激痛が爆ぜる。視界は霞み、薄れていく。朦朧とした目に映ったのは、都子を抱いて外へ駆け出す元治と、その後を追う三人の息子。誰一人、倒れた奈月に目を向けることはなか
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第3話

家に戻ると、奈月はすぐに荷造りを始めた。棚いっぱいに詰め込まれていたアクセサリーやブランドバッグは、まとめてリユースショップへ送りつける。それらはすべて元治が贈ったもの。前世では宝物のように大切にしていたが、今ではただの皮肉にしか見えない。結婚前の財産はすでに公証済み。持参金と名義の不動産を信託会社に委ねれば、もう何も未練はない。クローゼットを開けると、整然と並んだ男物と子供服が目に入り、奈月はしばし呆然とした。ここにある一枚一枚は、彼女が父子それぞれの好みに合わせ、寸法も素材も間違えずに選んできたものばかり。そして自分の服は、奥の隅に押しやられたほんの数着だけ。まるで自分という存在が、あってもなくてもいいもののように。奈月は扉を閉め、娘の部屋へ向かった。朔乃はピアノの前に座り、背筋をぴんと伸ばして練習している。響く旋律には、年齢に似つかわしくない陰りが滲んでいた。元治が「娘を連れて出かけるのは不便だ」と口癖のように言いながら、毎週欠かさず三人の息子を乗馬に連れて行くのを思い出すと、奈月の胸は痛んだ。「朔乃、もうやめて。ママと一緒に新しいドレスを買いに行こう」彼女は娘の冷たい小さな手を握り、海市一番のショッピングモールへ直行した。パーマ、メイク、衣装替え、スタイリング……ひと通り終えると、鏡の中の奈月はまるで別人だった。華やかな化粧が精緻な顔立ちを際立たせ、身体にぴったり合ったワンピースがしなやかなラインを美しく描き出している。隣でふわふわのドレスを着た朔乃がくるりと回り、頬を赤らめて言った。「ママ、お姫様みたい」「うちの朔乃こそお姫様よ」奈月はその頬をつまむ。「さ、屋上の回転レストランで美味しいものを食べよう」二人が店に入ると、見慣れた姿が目に飛び込んできた。窓際の席に、元治が都子と三人の息子を連れて座っている。奈月の装いはあまりにも人目を引き、瞬く間に場の視線をさらった。元治の手が不意に止まり、視線がぶつかると喉仏がごくりと動く。「ママ?」息子たちが先に声を上げ、目を丸くした。元治は無言のまま、彼女から目を離せないように、視線を鎖骨から腰のラインへとすべらせ、慌てて逸らす。都子は指先を手のひらに食い込ませながら、顔には作り笑いを浮かべた。「奈月さん、どうしてここに?ま
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第4話

奈月の喉まで出かかった言葉は、目の前の数人に完全に塞がれてしまった。元治は煩わしそうな表情を浮かべながらも、指先はかすかに身側で縮こまる。「誰を選ぶかは君の自由だ。それに急ぐことでもない」少し間を置き、わざと腕を高く上げて都子を抱き締め、声に軽蔑を混ぜた。「ここで拗ねて言うことじゃない。離婚届を出すその日にはっきりする」彼の目の奥にある「また拗ねているだけだ」という確信めいた色を見て、奈月は全身の力が抜けていくのを感じた。たとえ心臓を差し出しても、彼にとってはまた注意を引くための芝居でしかないのだ。彼女が深く息を吸い込み、長い間胸の奥に押し込んでいた問いをついに吐き出した。「もしあの時、あなたを救ったのが私だったら、同じようにしてくれた?」「もしもなんてない」元治は振り向きもせず言い捨てた。「俺が愛しているのは都子だ。恩など関係ない。どけ、彼女を病院へ連れて行く」奈月を押しのけ、彼は都子を抱いたまま大股で去っていく。その言葉は、奈月が抱いていた最後の望みを完全に踏み砕いた。その後数日、三人の息子たちはまるで人が変わったように、ありとあらゆる方法で彼女を喜ばせようとした。朔真が差し出したお粥は、わざとらしく彼女の整理した契約書にこぼれ、朔矢がりんごを剥けば、刃先は危うく彼女の手を切りそうになり、朔斗は彼女のビデオ会議に突入して大声で歌い、頭痛を引き起こす。奈月は冷ややかに見守った。前の人生では、こうした「子供の無邪気な過ち」に騙され、彼らはまだ幼い、いつか理解してくれると信じていた。だが突き落とされてから悟った。根から歪んでいる性質は、決して正されることはない。離婚の証拠を探そうと、リビングの監視カメラを開いたとき、映った光景に指先がきゅっと縮んだ。三人の息子はカーペットに集まり、頭を突き合わせてひそひそと話している。幼い顔には計算高さが浮かんでいた。「ママ、僕たちがわざとだって気づかないかな?」朔矢が眉を寄せる。「まさか。僕たちは実の息子だよ」朔真が白い目を向ける。「都子おばさんが言ってた。女はみんなこういうのに弱いって」「都子おばさんの甥っ子は頭が弱いけど、占い師が朔乃なら抑えられるって言ったんだ」朔矢が声を潜める。「朔乃がいなくなれば、ママは僕たちしか選べない」「でももしママが僕
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第5話

「もちろん、離婚届を出すその日にならなければ分からない」奈月はわざと悩ましげにため息をついた。視線の端で、三人の息子の顔が一斉にしょんぼりと落ち、つられて元治と都子の表情も険しくなる。この光景に、奈月の胸の奥にひそかな愉悦がわき上がった。前世の彼女は彼らに結託して騙され、家という牢獄に囚われ、命の最後の火を燃やし尽くした。いま彼らが覚えるわずかな不安など、利息にすぎない。まもなくスタッフが彼女の愛馬「フロスト」を引いてきた。純白のアラブ馬は首を高く掲げ尾を振り、陽光を浴びた銀のたてがみが輝く。立ち止まると、奈月の手のひらに甘えるように鼻先をすり寄せた。都子の瞳が一瞬明るくなり、羨ましげに言う。「本当に綺麗。私にもこんなサラブレッドがあったらいいのに」そう言うなり、彼女は直接手を伸ばし馬の首に触れようとした。奈月の目が鋭く細まる。フロストは父が亡くなる前、国外からわざわざ取り寄せた馬。気性が激しく、彼女と長年世話してきたスタッフ以外が近づけば即座に荒れる。ヒヒーン――案の定、フロストは前脚を大きく上げ、鼻息を荒く噴きかけた。「都子、危ない」元治が素早く腕を伸ばし、彼女を抱き寄せて庇う。その顔は硬い。奈月は急ぎ馬の頭を押さえ、低く宥める。「フロスト、大丈夫よ。落ち着いて、いい子」馬のいななきは収まったが、前脚で地を掘りながら、都子を鋭く睨み続ける。都子は恐怖で顔面蒼白になり、元治の胸に飛び込み震えた。「畜生め、人を傷つけようとするとは!」元治の怒りが弾け、スタッフに手を振る。「この馬を屠畜場に送れ」「触ってみろ!」奈月が振り返って、瞳は血走っていた。震える手で馬鞭を握りしめる。「元治、これは父が残した最後の形見よ!フロストに手を出すなら、まず私を踏み越えていけ」空気が一瞬で張り詰める。元治は初めて彼女のこの姿を見て、胸の奥が妙に締めつけられる。何か言いかけたその時、都子が袖をそっと引く。「元治、いいの。怪我してない。私のことで夫婦仲を壊さないで」「夫婦仲?」元治は鼻で笑い、奈月の固く結んだ唇を見やって冷たく言い放つ。「こいつに語る資格などあるか」だが、振り上げていた手はそっと下ろされていた。すぐさま三人の息子が寄ってくる。朔斗が拳を握りしめ、フロストを
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第6話

馬小屋の方からの騒ぎがどんどん近づいてきた。朔真、朔矢、朔斗が、それぞれ小馬に乗って狂ったように駆け出してくるのが見えた。「ママ!助けて!」三人の子供の顔は恐怖に覆われ、奈月の方へ必死に駆けてくる。小さな体は馬の背で揺れ、今にも振り落とされそうな危うさだった。奈月の心臓が一気に締め付けられ、本能のままに駆け出した。身ごもって産んだ子供たち。さっきその計算高さを見せつけられたばかりでも、この瞬間は他のことなど考えていられない。だが、距離が縮まるにつれ、彼女の瞳孔は強く収縮した。三人の口元に浮かんだ一瞬の得意げな笑みは奈月の視界に突き刺さった。それは、仕組まれた罠が成功した笑みだった。もう身を翻すには遅すぎた。ギシッ――朔真が乗る小馬が先に突進し、馬蹄が風を切って彼女の胸を激しく踏み抜いた。バキッと骨が砕ける音とともに、激痛が爆ぜ、奈月の体は宙に弾かれ、芝生に叩きつけられた。息をつく間もなく、朔矢と朔斗の馬も次々に突っ込み、無情に馬蹄で彼女の体を踏みつけた。彼女が芝生に伏せたまま、口から血を吐き、下の草を真っ赤に染めていく。視界は霞み、耳元の風の音さえ遠のいていった。朦朧とする意識の中で、元治の声が聞こえた。どこか自分でも気づかぬ焦りを帯びていた。「君たち、やりすぎだ!奈月は何だかんだ言っても母親だぞ……」都子がすかさず柔らかく遮る。「子供なんて分かってないのよ。私のために怒ってくれたのは嬉しいけど、もし怪我でもしたら私こそ心配でたまらないわ」「だって、あの女が都子おばさんをいじめるのが我慢できなかった」朔真の声には子供らしからぬ憎悪がこもっていた。「罰を与えなきゃ気が済まないんだ」「都子おばさん、僕たち、前から話し合ってたんだ」朔矢の声は冷たく、まるで子供とは思えない。「毎日この女の相手をするのは面倒だ。大怪我して入院すれば、目障りじゃなくなるし、しばらく静かになる」朔斗が続ける。幼い声なのに、妙に確信めいていた。「それにね、僕たち聞いちゃったんだ。パパと都子おばさんの話を。僕たち三人は、パパと都子おばさんの受精卵を、彼女のお腹に入れたから生まれたんだって。本当の子供は朔乃だけ。僕たちとパパ、都子おばさんこそが、本当の家族なんだよ」ブンと奈月の頭が真っ白になる。これ
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第7話

都子がハイヒールを鳴らしながら入ってきた。華やかな装いと、全身を包帯で覆われて目だけを覗かせる奈月との対比は、あまりに残酷で眩しかった。「ふん、しぶといわね。これでまだ死なないなんて」ベッドの周りを半周し、嘲りを口にする。「医者はね、下半身はもうダメだって言ってたわ。一生立ち上がれないそうよ。ねえ、この姿を元治が見たら、ますます私の方を大事にすると思わない?」奈月は目を閉じたまま、何も言わなかった。「まだ知らないでしょ?」都子は耳元に顔を寄せ、香水と悪意の匂いをまとわせて囁いた。「あなたが昏睡していた間、元治は毎日、片時も離れず私のそばにいたの。あなたの息子たちは、毎日交代で私にお話を聞かせてくれたり、ご飯を食べさせてくれたり。本当の母親より、よっぽど優しいのよ」彼女はくすりと笑い、奈月の包帯に覆われた腕を指で突いた。「そうそう、フロストって名前の馬、もう二度と見られないわよ。元治は私が馬肉を食べたことがないって聞いて、その場で馬を殺したんだ。煮込んだ肉が美味しい、残念ね、あなたは味わえないけど」「ブンッ」奈月の目が弾けるように開いた。沈黙していた瞳に嵐が巻き起こり、どこから湧いたのか分からぬ力で、彼女は都子を突き飛ばした。「きゃっ!」不意を突かれた都子はよろめき、腰を椅子にぶつけて顔を歪める。「この役立たずが手を出すなんて!」腰を押さえながら立ち上がり、奈月へ飛びかかる。ハイヒールの先を鋭く彼女の脚へと振り上げた。「今日こそ殺してやる」「やめなさい」駆けつけた看護師は、都子が脚を上げて蹴り込もうとする瞬間を目撃し、鋭く叱責した。「ここは病院です」都子の足が空中で止まり、次の瞬間には腕を抱えて目に涙を浮かべ、いかにも傷ついたふうに言う。「わ、私はただ水を飲ませようとしただけなのに、奈月さんが誤解して、私を突き飛ばしたの」看護師は疑わしげに奈月を見たが、彼女は唇を固く閉ざし、包帯の下の胸が激しく上下するだけだった。結局、看護師はそれ以上問わず、「病院内では静かにしてください」と注意して、医者を呼びに出て行った。都子は奈月を一瞥し、スカートを整えて悔しそうに部屋を後にした。その後、医者が検査に来て、深いため息をついた。「小泉さん、腰椎の損傷は想像以上に深刻です。これから先
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第8話

言葉が落ちた瞬間、役所は時計の音だけが響くほど静まり返った。元治の顔に浮かんでいた柔らかさが一瞬で凍りつき、その視線は奈月が朔乃の手を握っているところに釘付けになる。選ばれなかった三人の息子たちは胸を撫で下ろしつつも、どうしても理解できなかった。母親が幼い頃から自分たちと一緒に暮らしていたのに、祖母の家に預けられていた朔乃を選ぶなんて。抑えきれない苛立ちが元治の胸を焦がし、怒りに似た感情が沸き上がる。彼は当然、奈月が息子を選ぶと思っていた。今回の離婚も、ただの駆け引きで、いずれ戻ってくると信じている。胸の奥をかき乱す不安と焦燥に突き動かされ、元治は低い声で言い放った。「駄目だ。別の子にしろ」そう言うや否や歩み寄り、朔乃を引き戻そうと手を伸ばす。「ママ!」朔乃の小さな顔は恐怖に染まり、どうしていいか分からず必死に奈月を見上げた。奈月は一歩前に出て、元治の前に立ちはだかる。「元治、どういうつもり?」彼の冷たい視線が二人の間を行き来し、冷ややかな声が響く。「どういうつもりだと?俺が佐々木家との縁談を承諾したのを知っていながら、朔乃を選ぶ。つまり、あの子を駒にして、俺と佐々木家の関係を壊そうってことだろう?」「元治」奈月は彼の圧に怯むことなく、まっすぐに視線を返した。「子どもの頃から知り合いで、八年も夫婦だった。私の性格くらい分かっているはず」彼女は一言一言を噛みしめるように、はっきりと告げた。「朔乃を選ぶ。誰にも変えさせない」その声は大きくなかったが、場にいた全員の耳に鮮明に届いた。三人の息子は真っ先に動揺し、口々に叫びながら駆け寄る。「朔乃を選んじゃ駄目だよ!」「ママ、あの子のこと嫌いじゃなかったの?」「どうして僕たちの中から選ばないの?」彼らは奈月の服を掴み、泣きそうな声で訴える。「ママ、もう僕たちを愛してないの?」奈月は力強くその手を振り払った。「そうよ。もう愛していない」その言葉は、元治に向けられたものでもあった。「あり得ない」元治の胸に雷が落ちたような衝撃が走る。かつて彼女は命を削るほどに自分を愛し、八年間家事に尽くしてきた。そんな彼女が「愛していない」と簡単に言えるはずがない。これはきっと、怒りに任せた口走りに違いない。そう自分に言い聞かせても、
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第9話

結局、元治は子と婚姻届を出すことはなく、そのまま背を向けて去っていった。胸の奥を見えない手で鷲掴みにされたような痛みと、理由の分からない恐怖が入り混じり、今にも押し潰されそうだった。本来なら喜ぶべきはずだった。離婚も成立し、もう誰にも邪魔されず都子と一緒になれる。それなのに、心臓のあたりにぽっかりと穴が開き、冷たい風が吹き込んで、ただ虚しさだけが残った。車を飛ばし、気づけば八年間暮らした家へと戻っていた。しばらくして、都子が三人の息子を連れて追いかけてきた。「元治、どうして帰ってきちゃったの?婚姻届はまだでしょ」彼女は甘えるように言いながらも、瞳の奥に緊張を隠している。だが元治は、その懐かしい愛らしい仕草を見ても、心がまるで動かなかった。初めて出会ったときのときめきも、夜ごと眠れずに想った気持ちも、今では霞のように遠く、掴みどころがない。無理に口角を上げても、顔はこわばるばかりだった。「今日の場は、婚姻届を出す雰囲気じゃなかった」彼はしぼんだ声で言い訳を口にした。「日を改めよう。騒ぎが落ち着いたら連れて行く」都子の目に怒気が一瞬よぎるも、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。「分かったわ。全部あなたに任せる」けれど下ろした指先は、深く手のひらに食い込んでいた。夜、都子は赤いレースのネグリジェに身を包み、素足でカーペットを踏みしめながら、後ろからそっと彼の腰に腕を回す。その声は魅惑的で、まるで羽が彼の耳元をかすめるようにささやく。「元治、今夜私はあなたのものよ」しかし元治はこの誘惑にも微動だにせず、心は波立たなかった。都子は彼がまったく動じないのを見て、唇を噛みしめ、彼のボタンを解こうと手を伸ばす。そのとき、隣の部屋から三人の息子の喧嘩声が響いてきた。「お話読んで!ママがいつもしてくれたお話」「クマさんのパジャマどこ?灰色のなんか嫌だ」「オレンジジュースがいい!牛乳は嫌だ、臭い」奈月がいなくなって、ほんの半日で家は大混乱だった。元治は苛立ちを隠さず、都子を突き放した。「見てくる」都子はその場に固まり、彼が慌ただしく去っていく背中を見つめた。優しげだった表情はひび割れていった。やがてその顔が歪み、低く呟く。「奈月、もういないはずなのに、どうしてまだ私を邪魔するの」それ
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第10話

「奈月」元治の喉から飛び出たその切実な呼び声を聞いた瞬間、都子の瞳が暗く沈み、指先がぎゅっと音もなく握りしめられた。「パパ」だが玄関から響いてきたのは三人の息子たちの声だった。元治の顔から期待の色が瞬く間に消え、代わりに隠しきれない失望が広がる。「今日、ピアノのコンクールじゃなかったのか?どうしてもう帰ってきた?」その一言で朔真の顔が真っ赤になり、怒りに唇を尖らせる。「パパ、あいつらひどいんだ!僕たちのこと、愛人を母親にしてるって言ったんだ」朔矢もすぐに続く。「僕たちちゃんと説明したよ。都子おばさんが本当のママだって。でも謝りもしないで、逆に僕たちを愛人の子だって笑ったんだ!だからケンカになって……そのせいで出場資格を取り消された」朔斗は鼻をすすり、赤く腫れた目を指さした。「パパ、見てよ……僕たち、本当に愛人の子なの?」元治の顔には複雑な色が浮かぶ。子どもたちが軽々しく家の恥を口にしたことに苛立ちを覚えながらも、外で傷つけられた彼らを思うと胸が締めつけられた。初めて後悔した。離婚さえしなければ、子どもたちに真実を告げなければ、こんな惨めなことにはならなかったのではないかと。だが都子はその心の揺れに気づかない。むしろ子どもたちの話を聞いた彼女の目には、憐れみではなく、かすかな喜びがよぎる。すぐに消して、切実な表情を作った。「元治、早く婚姻届を出しましょう。私が正式な妻になれば、この子たちをしっかり守ってあげられる。二度と誰にもバカにさせない」彼女の言葉は誠実そのものに聞こえ、まるで本当に子供思いの母親のように見えた。だが元治の耳には突き刺さった。「子どもたちがこんな目に遭ってるのに、君の頭にあるのは届のことだけか?」元治は燃えるような視線を都子に向ける。「籍がなければ、この子たちはお前の子じゃないのか?庇う気もないのか?忘れるな。今日のことを招いたのは、誰だ。もし……」口から出かかった言葉を、元治は寸前で飲み込んだ。もし奈月だったら、きっと今ごろは涙で目を赤くしながら、相手の親に掛け合いに行っただろう。自分の立場より子どもを優先するに違いない。それを口にこそしなかったが、彼女を見る目には冷たい影が落ちる。「都子、いつからそんなに打算ばかりする女になった?本当に失望した」
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