Todos os capítulos de 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ: Capítulo 21 - Capítulo 30

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21.静寂の残響

ホテルの部屋に、静けさが降りていた。絶頂の余韻がまだ皮膚の奥でじくじくと疼く。だが、汗ばんだ体温が冷えていくにつれて、瑛司の胸の中にも不思議な空洞が広がっていく。蓮はシーツの上で仰向けになり、無造作に片腕を投げ出している。窓の外には街灯の淡いオレンジがぼんやりと滲み、カーテン越しに夜の街のざわめきがかすかに伝わってきた。瑛司は蓮の肩を抱き寄せることも、何か言葉をかけることもできずにいた。裸のままベッドに沈み、胸の鼓動だけが自分の存在をかろうじて主張している。先ほどまであれほど近く、すべてを曝け出していたはずの蓮が、今はまるで手の届かない場所にいるように思える。蓮は起き上がり、ベッドサイドのテーブルから煙草とライターを取り出した。裸のままシーツを腰に巻きつけ、窓辺へ歩いていく。その背中は細く、しなやかで、どこまでも孤独に見えた。「……タバコ、いい?」瑛司は微かに首を振るだけだった。蓮が火をつける。ぱちり、とライターの音が夜の静けさを切り裂く。一口目の煙が、カーテンの隙間から漏れる光をくぐって、ゆっくり天井へ昇っていく。「東條さんって、意外と執着するタイプ?」蓮は、淡々とした声で言った。その声音には、あの行為の最中に浮かべていた苦しげな表情も、かすかな涙も、跡形もなかった。「……さあ、どうだろう」瑛司は答えながらも、自分がどこか別の場所に置き去りにされたような気分になっていた。執着――その単語の鋭さが、胸の内側をひっかく。蓮は振り返らず、窓の外を眺めたまま煙を吐く。オレンジ色の光に、淡い煙の筋が交じる。ベッドの上で身動きもできずにいる瑛司を、蓮はまるで“遠い他人”のような声で問い詰めてくる。「既婚者なのに、こんなことして後悔しないの?」「……わからない」正直に、そう答えるしかなかった。本当は、“後悔”とい
last updateÚltima atualização : 2025-09-10
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22.冷えたベッド、遠い背中

瑛司は寝室のドアをそっと閉め、息を潜めて足元の絨毯に体重を預けた。リビングの明かりはすでに落ちていて、廊下から差し込む青白い光だけが、薄く部屋の輪郭をなぞる。ベッドの上では美月がすでに寝返りを打ち、薄い掛け布団を背中まで引き寄せている。部屋の空気は冷たく澄んで、すべての物音がやけに大きく耳に届いた。瑛司はゆっくりと浴衣からパジャマに着替え、ベッドの縁に腰を下ろした。隣で美月が小さく身じろぎする。その気配だけが、ふたりの間に横たわる距離の深さを突きつける。「もう、寝るの?」美月の声が暗闇の奥から転がってきた。瑛司は一瞬だけ躊躇い、肩越しに振り返る。「ああ…ちょっとだけ、仕事してた」「最近、帰るの遅いよね」「今、プロジェクトが立て込んでてさ…ごめん」「別に、謝ってほしいわけじゃないよ」美月は布団に顔を半分沈め、天井を見上げている。その横顔に、瑛司は遠い違和感を覚える。自分の中で「家族」という輪郭が日ごとに薄れていく。それを自覚するほど、罪悪感のようなものが全身を満たした。「今日は、もう寝る?」「……うん」ふたりの間に会話が落ちる。まるで穴の開いた水槽みたいに、言葉は何も満たさないまま消えていく。瑛司は電気を消して布団に入る。隣の美月の温もりが、思ったよりも遠い。肌が触れるか触れないか、ギリギリの間隔。眠気はすぐには来ない。美月もまた、目を閉じているだけで眠っていないことが、呼吸の浅さでわかった。「ねえ、瑛司」「なに?」「最近、全然…」その先の言葉を、美月は飲み込んだ。寝室の静けさが、ふたりの間にまるで仕切りのように降りる。瑛司は何も答えられない。理由が口の中に浮かんでくるけれど、全部、言葉にならなかった。「ごめん、なんか…最近、仕事がきつくて」「&helli
last updateÚltima atualização : 2025-09-10
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23.逃げるほど、浮かび上がる名前

朝、瑛司はオフィスの窓際でコーヒーカップを握ったまま、窓越しのビル群をぼんやり眺めていた。出社してからずっと、身体がどこか重い。眠りの浅さもあるが、それ以上に“気配”が纏わりついて離れない。デスクに戻り、パソコンを立ち上げる。未読メールの山。部下が何人も話しかけてくる。それらすべてに瑛司は慣れた返事と指示を返しつつ、頭のどこかで別のことを考えていた。ふいに隣の席の後輩が笑いながら書類を差し出してきた。「東條さん、ここの文言チェックお願いできますか」「ああ……すぐ見る」声が自分のものではないように感じる。目の前の書類に目を落とすも、視界の端に蘇るのは昨夜の――いや、もっと前から積み重なってきた“あの人”の姿だった。指の節、肌の質感、寝癖が残る後ろ髪、横顔。胸の奥で、熱がじわじわと蘇る。何かを否定しようとするほど、鮮明に浮かび上がってくる。昼休み、オフィスの屋上で缶コーヒーを飲んでいると、渋谷の空気は乾いているはずなのに、自分の身体の内側はじっとりと湿っていた。周囲の笑い声や雑踏も、すべて自分とは距離があった。ふとスマートフォンを取り出し、画面の履歴を見つめる。蓮からのメッセージは、そっけない仕事の連絡ばかりだった。それでも、返信が届くたび、瑛司の心臓はわずかに跳ねた。“俺は、何をしてるんだろう”そう思う。罪悪感と、それでも収まらない熱。帰宅途中、電車の窓に自分の顔がぼんやりと映る。額のシワ、少し疲れた目。だがその奥で、確かに何かが疼いていた。ホームの雑踏。イヤホンから流れる音楽さえ、蓮の低い声の記憶に邪魔されてしまう。“蓮”――名前を思い浮かべただけで、身体の奥がざわつく。家に着く頃には、すっかり日が暮れていた。誰もいないリビングの明かりを点け、スーツを脱いで洗面所へ。妻は今日は友人と外
last updateÚltima atualização : 2025-09-11
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24.名前を呼ばない約束

蓮のマンションの部屋は静まり返っていた。夜の都市のざわめきが窓の外に遠ざかり、ベッドルームの中には淡い間接照明だけが温度の低い光を落としている。瑛司はベッドに腰掛け、隣に座る蓮の横顔をじっと見つめていた。シャワーを浴びて乾かしたばかりの髪から、柔らかな石鹸の匂いが漂う。肌はまだ火照りを残し、瑛司の膝と膝の間に蓮の裸足が触れるたび、微かな熱が移ってくる。「……本当に、俺でいいの?」蓮がぼそりと呟いた。その目はどこか遠く、まるで見えない壁の向こう側から声を投げているようだった。瑛司はうなずく。返事のかわりに、蓮の手の甲にそっと指を重ねる。「他に、誰かがいいと思ったことはない」「……それ、今だけでしょ。どうせ飽きる」投げやりな声。だが、その奥に細い糸のような緊張が感じ取れた。瑛司は手を動かし、蓮の指先から手首、そして二の腕へとゆっくり撫で上げる。そのまま肩を抱き寄せて、顔を近づける。蓮は抗うでもなく、ただじっとしていた。「……名前は、呼ばないで」ベッドに沈み込むような声だった。「これはただの体の関係」と、何度も繰り返してきた蓮の言葉が、二人の間に静かに落ちる。瑛司は答えない。そのかわりに、蓮の顎を指で持ち上げ、唇を重ねた。最初は軽いキスだった。だが、すぐに唇が熱を帯びる。蓮が息を呑み、唇がわずかに開く。瑛司はその隙を逃さず、舌を差し入れる。舌と舌が絡み、唾液の温度が溶け合う。蓮の手が無意識に瑛司のシャツの裾を握った。「……もっと」蓮が漏らす声は、熱と虚しさが混じった響きだった。「これだけ?」「……俺は、満たしてほしいわけじゃないから」「そうか?」「……これは遊びだから」瑛司は返
last updateÚltima atualização : 2025-09-11
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25.心の壁にひびが入る音

シーツに沈む蓮の肌は、汗と涙とが混じったような熱で濡れていた。部屋の空気は蒸し、互いの呼吸が静けさを塗りつぶしていく。瑛司は自分でも驚くほど、強く蓮の足を抱え込み、その奥へと深く沈み込む。挿入のたび、蓮の背中が跳ね、声が押し殺される。「…やだ、…そんなに、激しく…」瑛司は蓮の手首を枕の上に縫い留めるように押さえ、もう片方の手で頬を撫でる。唇が何度も蓮の頬を這い、熱い吐息が耳朶を焦がした。「蓮…名前を呼んで。俺のこと、名前で」蓮は苦しそうに首を振る。喉を鳴らし、声が途切れがちになる。「…呼ばない…」「どうして…俺はお前の全部が欲しい。心ごと、俺に寄りかかってほしい」「…そんなの、…無理…だよ…」泣きそうな声が混じる。だが瑛司はなおも、激しさを増す動きで蓮の中を満たしていく。互いの汗と体温、皮膚のざらつき、体の奥に貫かれる痛みと快感。蓮は何度も首を横に振りながら、身体の奥で渦巻く感情を抑えきれない。「蓮、お願いだ…俺を、名前で呼んで…」唇が蓮の首筋に触れ、鼓動をなぞる。指先が蓮の頬に触れるたび、その薄い皮膚の下で小さな震えが伝わる。「…いやだ…呼んだら、もう戻れなくなるから…」「いい、それでいいんだ」息遣いが重なる。ベッドの上で体と体がもつれあい、蓮の背中が強く反り返る。「…だめ、そんなふうにされたら…」「…蓮…」身体が繋がるごとに、心の中の壁がきしんでひび割れる音がした。蓮の頬に一筋、涙が伝う。その熱さに瑛司の心臓がざわめく。「お願い…」「何?」
last updateÚltima atualização : 2025-09-12
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26.名前の向こうに触れる

静寂が、夜をすっかり支配していた。蓮のマンションの寝室、ベッドサイドのスタンドライトが、淡く丸い影を壁に投げている。シーツは乱れ、二人の汗と呼吸の名残がまだ空気に漂っている。瑛司は仰向けのまま、しばらく動けずにいた。絶頂の余韻と、蓮が“瑛司さん”と呼んだあの震える声が、全身の細胞に染みついて離れない。心臓が、まだ早鐘を打っている。横で蓮が息を落ち着けようと、静かに深呼吸しているのがわかる。瑛司はそっと横目で、蓮の横顔を窺う。細い喉、額に貼りついた髪、白いまぶた。ほんの少しだけ唇が開いて、呼吸と一緒に溶けていく。指先で触れれば、すぐに消えてしまいそうな静けさだった。「……ありがとう」声に出すと、思っていたよりもずっと低く、掠れていた。蓮は応えない。ただ、薄くまぶたを伏せている。そのままベッドの端に手を伸ばし、無言でタオルを取る。汗ばんだ身体を拭き、何も言わずにシーツから出て立ち上がった。肩のあたりでシャツを探し、背を向けたまま着替え始める。その後ろ姿には、ついさっきまでの熱も、情も、もう影さえ残っていなかった。瑛司は、動き出しかけた腕を、シーツの中で止める。「行かないで」と呼び止めたい衝動が喉元までこみ上げてくる。だが、その一言が恐ろしくて、唇は固く閉じられたままだった。「……蓮」ようやく出た声は、空気にすぐ吸い込まれてしまいそうにかすれていた。蓮はゆっくりとこちらを振り返り、目を合わせないまま小さく息をつく。「……さっきのこと、もう忘れて」「……」「ごめん。俺……たぶん、もう、こういうのやめた方がいい」瑛司の胸が、鈍く痛んだ。「やめるって……どうして」「…&he
last updateÚltima atualização : 2025-09-12
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27.沈黙の通知

スマートフォンの画面には、最後に既読がついた蓮からのメッセージが、まるで見知らぬ他人からのもののように整然と並んでいた。時刻は夜十一時をまわっている。部屋の明かりは落としきれず、天井灯の白さが夜の静けさを際立たせる。瑛司はソファに座ったまま、何度目かわからないほどLINEの画面を開いていた。「明日の件、データ確認できたら連絡を」その一文。短い、淡白な文面。昨日までは、同じ画面のなかで時折、蓮の絵文字や「ふふ」と笑うような調子が滲んでいたはずなのに。今日になってから、瑛司がどんな言葉を送っても、返事は「はい」「了解しました」ばかりだった。瑛司は小さく息を吐く。指先が熱い。スマートフォンをテーブルに置いても、視線はしがみつくように画面へ残った。時計の針が重苦しく動く音がやけに耳に障る。何かを見落としたのではないか。瑛司は、ふいに自分の送った履歴を遡る。「無理してないか」「この前の企画案、すごくよかった」「今度、飯でもどう?」他愛もない言葉ばかりだが、読み返すたび、どこかの一文が余計だったのかもしれないと疑心暗鬼になる。蓮の返事が冷たくなる直前、何を話したか、思い出そうとするほど記憶は薄く曇る。もう一度、今夜になってからの自分の言葉を打とうとして、瑛司は思いとどまった。心臓の奥がじりじりと熱を持っている。一度は「今日、少し話せないか」と送ったが、すぐに「すみません、明日納期なので」とだけ返されて会話が切れた。本当に忙しいのか、それとも自分から距離を取りたくて「納期」を盾にしているのか。瑛司の脳裏に、どちらともつかない不安がじわじわと溶けていく。窓の外では街路樹が風に揺れていた。カーテンの隙間からわずかに滲むオレンジ色の街灯。妻が寝室で寝息を立てている気配が、家全体を静謐で満たしている。その静けさが、今は耳障りだった。「……なんでだよ」瑛司は、誰にも聞こえない声で呟く。答えのない問いが、暗い部屋の壁に吸い込まれていく。スマートフォンを再び手に取る。LINEのタイムラインには、誰かの休日や、
last updateÚltima atualização : 2025-09-13
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28.満たされない食卓

キッチンから漂う味噌汁の湯気は、どこか頼りなく夜の空気に消えていく。ダイニングテーブルには、二人分の食事が並べられていた。サラダの葉が瑞々しさを保ったまま残っている。グラスの水には氷が浮かび、光を歪ませている。美月は箸を動かしながら、どこか落ち着かない手つきで皿をつついていた。「今日さ、会社の子が妊娠したって。もうすぐ産休なんだって」その言葉の明るさは、食卓の上に置かれた白いプレートよりもずっと冷たかった。瑛司は味噌汁を一口、口に運ぶ。出汁の味はするが、舌の奥には何も残らない。美月が話す声だけが、やけに大きく響く。美月は続ける。「みんなお祝いしてて、いいなあって思っちゃった。赤ちゃんってさ、やっぱり家族が増える感じだよね」言葉に籠もった期待を、瑛司は真正面から受け止められずにいた。「そうだな」その返事は、空中を彷徨い、すぐに重力に負けて落ちていく。美月は小さく笑った。その笑みは、心からのものではなく、どこかで練習されたもののようだった。「私たちも、もう少しだよね。きっと大丈夫だよね」美月がテーブルの上で両手を合わせると、指先がわずかに震えているのが見えた。その仕草が、瑛司の胸の奥に鈍い痛みをもたらす。「うん、たぶん…」言葉が細く途切れる。箸を持つ手が、食欲と関係なく動いていることに気づく。ご飯粒が器の縁に張り付き、取り残されている。その隙間を埋めるように、美月は話し続ける。「こないだ婦人科の先生がね、今月はタイミングよくやってみてって言ってて…」話題はいつものように、妊活と体温、次の検査へと流れていく。瑛司はそのすべてを、どこか遠くのことのように聞いていた。彼の脳裏には、蓮の横顔が浮かんでいた。あの夜、薄闇のなかで見上げてきた澄んだ眼差し。冷えたシーツの上で触れた、滑らかな肌の感覚。手のひらに残る余韻。それが、今、美月の言葉よりも鮮やかに思い出される。「瑛
last updateÚltima atualização : 2025-09-13
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29.名を呼べない夜

瑛司の部屋には夜の気配が色濃く沈んでいた。ベッドの上に横たわったまま、彼は天井の淡い模様を見つめている。エアコンの微かな風が頬をなぞるが、その冷たさすら皮膚の奥にまで届かない。部屋はすでに日付をまたいでいる。隣の寝室からは、美月の寝息だけが断続的に聞こえてきて、その音がやけに遠く感じられる。手の中にはスマートフォン。画面の明かりだけが、自分の存在を確かめる唯一の光源だった。液晶に浮かぶLINEの画面。蓮のアイコンが、小さな円でぽつりと並んでいる。数日前のやりとりがスクロールで現れては消えていく。「ありがとう」「またね」短い挨拶文。そのひとつひとつを指でなぞるたび、瑛司の心はどんどん熱を帯びていった。「今、何してる」一度だけそう打ち込んだメッセージは、結局送信できずに消した。既読のつかないままの画面が、まるで自分自身が切り離されたように虚しかった。指先は汗ばんでいる。熱いものが、掌から全身へゆっくりと移っていく。夜の静寂が、やけに重たい。どこかで水道の滴る音が響いた。そのリズムが瑛司の神経に触れる。ベッドの上で寝返りを打つ。シーツの摩擦が、肌にじりじりと伝わる。過去のやりとりをスクロールしながら、ふいに一枚の画像に目が留まる。蓮が送ってくれた、グラス越しの街の灯りの写真。そのときのメッセージ、「この場所、静かで好きだよ」と添えられていた。夜の飲み屋、二人でいたときの記憶。グラスの縁をなぞる蓮の指先、その細さや骨ばった形、白く滑らかな肌。――目を閉じれば、簡単に思い出せる。瑛司は、スマートフォンを握る手にぐっと力を込めた。なぜこんなにも、自分は蓮を欲しがっているのか。家庭の中では感じたことのない熱。妻の前では決して生まれなかった衝動。夜風がカーテンを少し揺らす。冷たい空気が額を撫でても、熱だけが増していく。胸の奥で火花が弾けるような、もどかしい痛み。LINEの過去のやりとりを、何度も何度も往復する。蓮の
last updateÚltima atualização : 2025-09-14
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30.待ち合わせない朝

靴音がアスファルトを叩くたびに、曇り空が少しずつ低くなっていくように感じた。瑛司はスーツの襟元を整えながら、地下鉄の駅を通り過ぎる。改札には入らず、無関係な顔で脇道へ逸れた。ポケットの中でスマートフォンが何度も震えていたが、取り出さなかった。社からの通知だろう。応答するつもりも、今のところはなかった。朝七時半、外はまだ湿り気を含んだ空気が残っていた。昨夜降った雨の名残が歩道の端に光っている。自宅から会社までのルートとはまったく別の道を歩くのは、久しぶりだった。蓮の家の最寄り駅で降りたのも、あの夜以来かもしれない。あの夜、蓮が「鍵、開いてるよ」と言った声が、ふいに脳裏に蘇る。その記憶が、胸の奥に重く沈んだまま、まだどこにも着地していない。瑛司は人の流れを避けながら、幾度となく曲がり角を選んだ。目的地は明確だったのに、なぜか足取りだけが不確かだった。住宅とカフェが混在する細い通り、曇天の下では全てが灰色に染まって見える。コンビニの袋を提げた女性が早足で通り過ぎる。その足音だけが現実を証明するようだった。蓮の家の近くまで来て、歩みが自然と遅くなった。マンションの入り口を見上げる。コンクリート打ちっぱなしの外観、木々に囲まれたエントランス。蓮らしい静かで洗練された建物。二階。数日前、自分の手が触れたばかりのドア。だが今は、その扉の向こうに何があるのかまるで見当もつかない。立ち止まったまま、スマートフォンを取り出す。ロックを外し、LINEの画面を開く。蓮のアイコンは、今朝も変わらず静かにそこにあった。送ったきり既読のつかないメッセージが、青白い光の中で沈黙を続けている。「近くまで来てる」打ちかけて、すぐに消す。蓮に会いたい。でも、会ってどうする?言い訳か、謝罪か、それとも――正直に言えば、ただ顔を見たい。それだけなのだ。ただ、それだけが怖いほどに切実だった。周囲を気にするふりをしながら、マンションの前をゆっくりと通り過ぎる。ベランダを見上げてもカーテンは引かれ
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