午後九時過ぎ、蓮は傘をささずに駅からマンションへと歩いた。小雨は降ったり止んだりで、顔に当たる水滴の感触はむしろ気持ちよかった。生暖かい空気が肌にまとわりつき、コンクリートに反射した夜の湿気が、都会の匂いに苦味を混ぜていた。自分の足音が、濡れたアスファルトの上でやけに大きく響く。背後に人影はない。振り返るほどの不安はなかった。けれど、何かがざわつく。数秒遅れて聞こえてくるような音。あるいは、自分の心拍がズレて聞こえているだけかもしれない。マンションのエントランスに差し掛かると、オートロックの横に並ぶ郵便受けに目がいった。一度通り過ぎようとした足が止まり、引き返して蓮は自分のポストを開ける。奥に、一通の封筒があった。差出人の名前も、宛名も書かれていない。薄いクリーム色の紙に、黒のボールペンでただ、四文字の名前。癖のある文字。角ばった線が乱れている。見覚えのある筆跡だった。「……また?」声にならないほどの呟きが、喉の奥に引っかかる。封筒をポケットに突っ込み、そのままエレベーターに乗る。エレベーターの中は、妙に無音だった。蛍光灯の光が冷たく反射して、自分の顔が色を失って見えた。床の表示がひとつ、またひとつと点灯する。誰かがどこかの階で乗ってくるかもしれないと一瞬構えたが、扉が開くことはなかった。部屋に入ると、靴を脱ぐ音が妙に大きく響いた。照明はつけない。玄関を抜け、廊下を通り抜けてリビングに入る。ソファの背にコートをかけ、そのまま暗がりに腰を落とす。雨の音は、もう聞こえなくなっていた。代わりに、冷蔵庫のモーター音と、時折聞こえる外の車の走行音が、空間を満たしていた。ポケットの中から、封筒を取り出す。中は空だった。ただ、その封筒の表面に書かれた「蓮」という名前が、じっとこちらを見つめているように感じた。無言の圧力。あの癖字を見た瞬間に、体の奥がざわついた。何かを言われたわけでも、されそうにな
Última atualização : 2025-09-25 Ler mais