Todos os capítulos de 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ: Capítulo 51 - Capítulo 60

62 Capítulos

51.見えない影

午後九時過ぎ、蓮は傘をささずに駅からマンションへと歩いた。小雨は降ったり止んだりで、顔に当たる水滴の感触はむしろ気持ちよかった。生暖かい空気が肌にまとわりつき、コンクリートに反射した夜の湿気が、都会の匂いに苦味を混ぜていた。自分の足音が、濡れたアスファルトの上でやけに大きく響く。背後に人影はない。振り返るほどの不安はなかった。けれど、何かがざわつく。数秒遅れて聞こえてくるような音。あるいは、自分の心拍がズレて聞こえているだけかもしれない。マンションのエントランスに差し掛かると、オートロックの横に並ぶ郵便受けに目がいった。一度通り過ぎようとした足が止まり、引き返して蓮は自分のポストを開ける。奥に、一通の封筒があった。差出人の名前も、宛名も書かれていない。薄いクリーム色の紙に、黒のボールペンでただ、四文字の名前。癖のある文字。角ばった線が乱れている。見覚えのある筆跡だった。「……また?」声にならないほどの呟きが、喉の奥に引っかかる。封筒をポケットに突っ込み、そのままエレベーターに乗る。エレベーターの中は、妙に無音だった。蛍光灯の光が冷たく反射して、自分の顔が色を失って見えた。床の表示がひとつ、またひとつと点灯する。誰かがどこかの階で乗ってくるかもしれないと一瞬構えたが、扉が開くことはなかった。部屋に入ると、靴を脱ぐ音が妙に大きく響いた。照明はつけない。玄関を抜け、廊下を通り抜けてリビングに入る。ソファの背にコートをかけ、そのまま暗がりに腰を落とす。雨の音は、もう聞こえなくなっていた。代わりに、冷蔵庫のモーター音と、時折聞こえる外の車の走行音が、空間を満たしていた。ポケットの中から、封筒を取り出す。中は空だった。ただ、その封筒の表面に書かれた「蓮」という名前が、じっとこちらを見つめているように感じた。無言の圧力。あの癖字を見た瞬間に、体の奥がざわついた。何かを言われたわけでも、されそうにな
last updateÚltima atualização : 2025-09-25
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52.距離の消失

ビジネスホテルの部屋は、簡素だった。ベージュの壁紙、無機質な木製デスク、少しだけ沈んだベッド。換気の効きすぎた空気が乾いていて、鼻腔の奥に微かに漂うのは、洗剤と消毒剤が混じったような人工的な匂いだった。瑛司はソファの端に腰を下ろし、スマートフォンを手の中で転がしていた。画面には、蓮からのメッセージが表示されたままだった。『今夜は、眠れそうにない』たった一行の言葉。それなのに、読むたびに胸が締めつけられる。彼は、その通知を美月の隣で受け取った。何も言わなかった美月の沈黙が、すべてを語っていた気がする。自分が、もうこの場所にいられないこと。彼女の人生を、確かに裏切ったこと。取り返しのつかない何かが壊れてしまったこと。瑛司はスマホを伏せ、両肘を膝にのせて前屈みになった。額に手を当て、目を閉じる。光も音も、全てを遮断したくて、深く深く呼吸を落とした。だが、胸の奥には確かな熱が渦巻いていた。それは罪悪感ではない。後悔でもない。もっと…切実な何か。あのとき、蓮の声が聞こえたような気がした。眠れない、というその言葉の裏に滲んだ何か。不安。渇望。あるいは、哀しさ。瑛司はスマホを開き直し、メッセージ画面を見つめた。既読をつけたまま、何分、いや何時間が経っただろう。返事を打とうと何度も画面に指を添え、そのたびに消してきた。「会いたい」と書きかけた。「俺も眠れない」とも。けれど、どれも嘘くさく感じてしまった。そんな言葉では足りない。今の蓮に、本当に必要なものではない気がして。指先でそっと、既に打ちかけていた文字列を削除する。何も送れないまま、瑛司はまたスマホを伏せた。天井を見上げる。そこには何の模様もなく、ただ白い蛍光灯の淡い光が滲んでいた。蓮は今、何をしているのだろう。眠れないと言ったまま、どこかで目を閉じ
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53.本気の選択

夜の帳がすっかり降りていた。窓の外に見える街灯の明かりが、カーテンの隙間から室内に細く伸びている。蓮の部屋は、照明を落としたまま、薄暗さと静けさに包まれていた。ソファの端に腰を下ろした蓮は、手にしたグラスの氷が溶けていく音だけを聞いていた。耳の奥にずっと残っている、あの通知音。瑛司からの既読はついたままだったが、それきり何の反応もなかった。それでよかった。眠れないと自分から送っておいて、返事を待つなんて、惨めすぎる。ただ、胸の内にわだかまるものは、どうしようもなかった。そのとき、インターホンが鳴った。身体がわずかに跳ねる。時刻は夜の九時過ぎ。配達にしては遅すぎる。誰だろう、と訝しみながらも、蓮は立ち上がり、モニターを確認する。そこに映っていたのは、瑛司だった。手には、小さな封筒のようなものを握っている。スーツは着ていない。黒のカーディガンにジーンズ、いつものオフィスの顔ではない、素の瑛司だった。一瞬、インターホンを切ろうとさえ思った。しかし、蓮の手はなぜか、扉のロックを解除していた。「…どうしたの」ドアを開けると、瑛司は数秒黙っていた。その静寂の中に、決意の匂いが漂っていた。「話がある」そう言って、瑛司はゆっくりと部屋の中へ入った。蓮は黙って玄関を閉める。室内の薄明かりの中で、瑛司は手にしていた封筒を差し出した。「離婚届の写し。今日、弁護士に正式に依頼した。来週には、正式に提出する」その言葉は、どこまでも落ち着いていて、飾りもなかった。だが蓮の背筋は凍るような冷たさに包まれた。「…なんで、そんなもん、俺に見せるわけ?」瑛司はその問いに、目をそらさなかった。「おまえを選んだから」その言葉が、空気を変えた。重く、湿っていた部屋に、ぴしりと細かいひびが走るような音がした気がした。
last updateÚltima atualização : 2025-09-26
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54.ひとりの夜

扉が閉まる音がした瞬間、部屋の空気が変わった。音が消えた。体温が引いた。空間にぽっかりと穴が開いたようだった。蓮は動けず、しばらく玄関の方をじっと見つめていた。去っていった背中は見えないのに、そこに焼きついている気がして、視線を逸らせなかった。暗い部屋に戻ってきたのに、まだどこかに瑛司の気配が残っているような錯覚に陥る。そこにいてくれたらいいのに、と一瞬思いそうになって、蓮は自分の胸をきつく抱きしめた。その感情が一番厄介だ。一番、壊される。「……違うって言えよ、バカ」かすれた声が口からこぼれた。何に対してだったのか、自分でもよくわからない。瑛司に向けたのか。それとも、いまにも崩れ落ちそうな自分自身にか。ソファに崩れるように座り込んだ。肘掛けに頭をもたせ、脚を抱え込む。部屋の灯りは瑛司が出ていく前のまま、薄暗く落ちていて、輪郭がぼやける家具たちが不安定に揺れて見えた。胸が痛かった。喉の奥も、肩の奥も、全部がじわじわと軋んでいた。自分で拒んだくせに、こんなに苦しくなるなんて思わなかった。叫びながら追い出したくせに、いまはもう泣きそうで。いや、泣いている。もうとっくに。頬を伝う熱を指で拭った。それでも次から次へと滲んできて、止めようとしても止まらなかった。瑛司の声がまだ耳に残っている。「逃げないから」優しい声だった。静かで、真っ直ぐで、あたたかくて。そういうものに、蓮は昔から一番弱かった。でも、同時に一番恐ろしかった。そんなものを信じて、もし裏切られたらどうする。期待して、信じて、手を伸ばして、もしその先にあるのが崖だったら。そのときはきっと、自分は二度と立ち上がれない。だから、壊れる前に壊す。それが、蓮の癖だった。防衛本能であり、傷を浅くするための生存術だった。なのに今は、壊し
last updateÚltima atualização : 2025-09-26
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55.戻る影

ソファに沈み込んだまま、蓮は動けずにいた。部屋の空気は重く、窓の外では風がビルの隙間を鳴らしている。あの声が耳から離れない。「逃げないから」そして自分が吐き出した拒絶の言葉も。「そうやって壊すんだ」時間が止まったようだった。スマホの画面は消えたまま胸の上にあり、身体の奥では鈍い痛みが脈打っている。泣き疲れた目が、天井の陰影を虚ろに追っていた。インターホンが鳴ったのは、そんな沈黙の底だった。単音の電子音が、場違いなほど明るく部屋に響いた。身体が一瞬跳ねる。音の正体を理解するまでに数秒かかった。夜のこの時間に、訪ねてくる相手など思い当たらない。宅配か…もしくは隣人か、何かの間違いか。不安と疑念が入り混じりながら、蓮はゆっくりと立ち上がった。インターホンのモニターには映像が映っていなかった。旧式のため、通話ボタンを押さないと確認できない。それでも、ほんのわずかでも「まさか瑛司では」という希望がどこかに生まれていた。そんな淡い幻想を抱いた自分が、今では滑稽に思える。ドアを開ける。チェーンはかけたまま、数センチだけ。そこに立っていたのは、瑛司ではなかった。「久しぶりだね」その声を聞いた瞬間、空気が変わった。蓮の背中が強張る。胸がすっと冷たくなる感覚。鳥肌が、腕の内側からじわりと立ち上がっていく。チェーン越しに覗いた顔は、見間違えようがなかった。KENだった。数年前、蓮の生活を壊しかけた男。優しい声で全てを侵食してきた、過去の亡霊。なのに、その顔は今も変わらず静かに微笑んでいた。「こんな時間に、何してるの」思わずそう問いかけていた。喉が焼けるように乾いていて、声が震えていたのが自分でもわかった。「会いたかったからさ」KENは相変わらず、柔らかな声音でそう言った。
last updateÚltima atualização : 2025-09-27
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56.触れられる恐怖

蓮がその足音に気づいたとき、時刻はすでに午前二時を過ぎていた。テレビもスマホも消していたため、玄関外の絨毯を踏む靴音がひどく鮮明に響いた。まるで部屋の中に誰かがいるかのように。心臓が跳ねた。息を殺しながら、蓮はソファに座ったまま玄関の方向へゆっくりと視線を移す。ノックはなかった。代わりに、静かに、だが確実にドアノブが回された。鍵はかかっていた。だがその音は、記憶の奥底を逆撫でするように、蓮の皮膚を薄く切り裂いた。ドアの向こうから、笑うような声が聞こえた。「鍵、変えたんだ」蓮は言葉を失った。背筋に冷たい汗がつうっと伝い落ちる。やめろ、と心の中で叫んでも、喉は乾いて音を作れなかった。「久しぶりに、話したかったんだけどな」その声の持ち主を、身体が忘れていない。目を逸らしたくても、記憶の奥から匂いまで蘇ってくる。「開けてよ、蓮」ノブがガチャリと回された。今度は少し強く。蓮は立ち上がり、ゆっくりと歩を進める。やめろ。開けるな。わかっているのに、動けてしまう自分が怖かった。チェーンをかけたまま、ドアをわずかに開ける。その隙間から覗いた男の顔は、少し痩せた印象だったが、あの笑い方は変わらなかった。KEN。「…何の用」喉がひりつき、掠れた声になった。「話したいだけだよ。怒ってる?まだ」蓮はチェーンを外さず、扉を強めに押し返した。「帰って」KENの顔が曇った。その瞬間の落差が、恐ろしかった。笑顔が不自然に引き攣る。「…そんな言い方、ひどいな。俺、おまえのこと…ずっと考えてたんだよ」蓮の指が、扉の縁で震える。「警察呼ぶよ」「できるなら、やってみなよ」KENの声が低くなる。次の瞬間、ドアが思いきり押された。チェーンが軋む音が響き、蓮は慌てて扉を閉めきった。鍵を二重にかけ、背中を壁に押し当てる。「そんなに俺が怖い?」
last updateÚltima atualização : 2025-09-27
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57.壊れるなら、一緒に

雨の匂いが、まだ部屋のどこかに残っていた。外はもう止んでいたはずなのに、窓ガラスにはまだ水滴がひとつ、またひとつと這うように残っている。蓮はそれを見つめたまま、背中をソファに預けていた。部屋の空気は重たかった。沈黙が二人を包んでいる。だが、それはもう恐怖のせいではなかった。少し前までなら、この静けさは喉を締めつけるように苦しく、逃げ出したくなるようなものだった。それが今は…ただ、深く沈むような静けさに変わっていた。瑛司は蓮の横に座っていた。言葉はないが、その距離が、今の蓮にはちょうどよかった。近すぎず、遠すぎず、逃げ場を与えながらも、確かに“ここにいる”と伝えてくる。やがて、蓮がぽつりと口を開いた。「…好きって、言うのが怖かったんだ」瑛司は顔を動かさずに、わずかに視線だけを向けた。「言ったら、壊れる気がしてさ。全部。あの人のときみたいに」蓮の声は落ち着いていた。感情に溺れているわけではなく、ようやく自分の言葉を紡げる場所にたどり着いたかのようだった。「俺さ、いつも“好きになるほう”だったんだ。好きになって、尽くして、傷つけられて、それでも縋って…ほんと、バカみたいだよな」乾いた笑いが短くこぼれた。だが、すぐにその笑いは消えた。「もう誰も信じたくなかった。信じたら、また…」言葉が途切れた。代わりに、肩がわずかに震える。瑛司は黙っていた。その沈黙が、蓮を否定しない。「でもさ、おまえだけは…なんか、違った」小さな声だった。「違ってほしかった」それが、蓮の本音だった。どんなに身体だけだと思い込もうとしても、心が先に奪われていた。そんな自分が情けなくて、でも、どうしようもなかった。「…壊れるのが怖いなら、俺が一緒に壊れてやる」瑛司の声は、低く、真っ直ぐだった。蓮は、はっとして顔を向けた。「え…?」
last updateÚltima atualização : 2025-09-28
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58.再生の夜

蓮の指先が、そっと瑛司のシャツの胸元に触れた。ほんのわずかな接触。だが、その震えはあまりにもはっきりと伝わってきて、瑛司はそれ以上、何も動かずにいた。静寂のなか、時の流れだけが部屋を満たしている。蓮の目は赤く滲んでいた。さっきまであれほどこらえていた涙が、もうこぼれかけている。それでも、自分の意思で手を伸ばした。誰に強いられたのでもない、誰かを喜ばせるためでもない、自分から…瑛司に触れた。「……瑛司さん」かすれた声が、静けさのなかで震えた。瑛司の瞳が、そっと細められる。呼ばれただけだった。それでも、蓮にとってはそれが全てだった。今までどれほどその名前を呼ぶのを怖がっていたか、どれほどその一言に自分の心を縛られていたか。それを口にしてしまった今、逃げ場はもうなかった。蓮は胸元を掴んでいた指に少しだけ力を込め、そのまま瑛司の胸に額を預けた。「俺……もう、どうしていいか、わからないんだ」涙が瑛司のシャツに染みる。けれど、瑛司は何も言わず、ただその背に腕を回した。ゆっくりと、ふたりの身体が近づいていく。瑛司は蓮の頬に手を添え、指先で涙をなぞった。蓮の瞳が、わずかに潤んだままこちらを見上げる。「やめたいなら、やめる。何も、無理はしない」「……違う」蓮は首を横に振った。「違うんだ、やめたいんじゃない。怖いけど……それでも、今は、ちゃんと触れたい」その一言に、瑛司の心がじんと熱くなった。蓮の唇が、瑛司の唇にそっと重なる。それは、儀式のようなキスだった。欲望のためではなく、確認のような、赦しのようなキス。何度も、何度も、短く唇を重ねるたびに、ふたりの間にあった壁が崩れていく。蓮が瑛司のシャツのボタンを一つずつ外していく。焦りも急き立てもない。シャツが脱がされる
last updateÚltima atualização : 2025-09-28
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59.朝、光の中で

カーテンの隙間から漏れた朝の光が、シーツの皺をなぞるように伸びていた。外の空は薄く晴れていて、夜の雨の名残だけが窓の端に、水滴となって静かに残っている。ベッドの上、瑛司は仰向けになったまま天井を見つめていた。身体の右側には、寄り添うように蓮が眠っている。蓮の額にはかすかに汗が浮いていた。寝息は浅く、でもどこか子どものように無防備で、静かだった。その頬に、瑛司の右手がそっと触れる。指の腹が触れた部分だけ、呼吸の熱が残っていた。「…まだ夢を見てるみたいだな」声はほとんど呟きのようだったが、蓮のまぶたがゆっくりと震えるように動いた。光がまつ毛の影を落とし、長い睫毛の奥で瞳がこちらを探しているのがわかる。「…瑛司、さん…」その言葉がこぼれた瞬間、瑛司はかすかに目を見開いた。いつもなら名前を呼ばれることはなかった。どんなに抱き合っても、触れても、決して呼ばれることのなかった名前。「ようやく、呼んでくれたな」目を伏せながら微笑むと、蓮は反射的に顔を背けた。恥ずかしさに頬が熱を帯びるのがわかった。「…なんか、今さら言うの…照れる」「いいよ。今さらでも、すごく嬉しい」瑛司の声には、にじむような安心があった。言葉ではなく、空気と目線と触れた指の熱が、ふたりのあいだをそっと満たしていく。蓮はゆっくりと体を起こしかけたが、瑛司の肩に顔をうずめるようにして、また横になる。その仕草があまりに自然で、まるで最初からそうしてきたかのように思えた。「…ねえ」「ん?」「昨日の夜…っていうか、明け方の、あれ…」蓮はそこで言葉を止めた。明確に名をつけるには、まだ少し恥ずかしさが勝っていた。でも瑛司は、その続きを待たずに答えた。「大丈夫。全部、大事だった」「…うん」「蓮が、蓮のままでいてくれたこ
last updateÚltima atualização : 2025-09-29
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60.コーヒーと日常

キッチンに立つ蓮の背中に、朝の光が柔らかく差していた。床に反射した窓の形が、タイルの上でゆっくりと伸びていく。瑛司はダイニングチェアに座り、その様子を黙って見ていた。Tシャツ一枚の背中がまだ少し細く見えるのは、夜の名残がそこにあるからかもしれない。それとも、ずっと気づかないふりをしてきた、その人本来の脆さに、ようやく触れたばかりだからか。蓮が鍋に残してあったスープを小鍋に移して温め始める。コンロの火が点き、音もなく炎が灯ると、蓮はカップを二つ取り出して、ドリップの準備にかかった。「…あのさ」「ん?」「コーヒーって、ちゃんと入れようとすると案外難しいよね」「そう?」「前さ、カフェでバイトしてた時に教わったんだけど。豆の挽き方も、お湯の温度も、抽出時間も…全部で味変わるんだって」「へえ」会話はぎこちなくはないが、どこか呼吸を計るような間がある。けれど、それは昨日までのような「心を閉ざすための間」ではなかった。むしろ、自分の感情をどう差し出せばいいのか、不器用に試しているような、温度を探る沈黙だった。ドリッパーから湯を細く落としていく蓮の手元からは、コーヒーの香ばしい匂いが立ち上ってくる。ゆっくりと膨らむ粉の山。その香りに、瑛司は肩の力が抜けていくのを感じた。「…昨日の夜さ」蓮が言った。ドリップを終え、ポットの蓋を閉じながら振り返る。「なんか、夢だったんじゃないかって思った」「うん」「朝起きたらさ、たとえば…瑛司さんが、もういなかったらどうしようとか」「いるよ」瑛司の返事は短く、でもまっすぐだった。それだけで蓮の表情は、少しほどける。コーヒーをテーブルに置き、次に温めたスープと、軽く焼いたトースト、トマトを添えた簡単な朝食が並ぶ。二人で向かい合って座り、しばらくは食器の音だけが空間に響いた。フォークが皿の端
last updateÚltima atualização : 2025-09-29
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