Todos os capítulos de 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ: Capítulo 41 - Capítulo 50

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41.境界線の夜

夜は深く、部屋の隅々まで静寂が染み込んでいた。東條家の寝室、シーツの上で瑛司は目を閉じたまま、眠れない夜の重さをじっと抱え込んでいる。隣には美月が小さく寝息を立てているはずだったが、その息遣いさえ瑛司には遠い音にしか思えなかった。頭の中には、蓮の姿しかなかった。名前を呼ぶこともできず、触れることもできないのに、昨日まで身体の奥に残っていた香りや熱、指先の感触だけが鮮やかに蘇る。瑛司は枕に顔を埋めた。シーツの匂いは洗剤と美月の香りしかなく、そこに蓮の痕跡はどこにもなかった。それでも、まぶたの裏には蓮の輪郭だけが幾度も浮かび上がる。なぜ、ここにいるのだろう。なぜ、自分はこのベッドに寝ているのだろう。静かな闇の中、問いは繰り返される。答えの代わりに胸の奥には、言葉にならない焦燥と空虚が膨らんでいく。ひとつ息を吸ってみる。部屋の空気は冷たく、静かだ。外ではまだ雨が降っている。窓ガラスを伝うしずくの音が、遠くの鼓動のように微かに響く。美月が寝返りを打った。シーツが僅かにきしみ、また静けさが戻る。そのたびに、瑛司はこの家のすべてからどんどん遠ざかっていく気がした。身体を動かせば、蓮の腕の中に戻れるだろうか。あの熱の中に、もう一度だけ身を投じられるだろうか。しかし現実には、ただ暗闇の中に取り残されたまま、朝を待つことしかできない。---そのころ、蓮もまた眠れずにいた。薄暗い部屋の中、毛布に包まったまま膝を抱える。雨の音がガラスを叩き、時折、部屋の空気を微かに揺らす。瑛司の名を呼びたかった。けれど、声にすればすべてが壊れてしまいそうで、ただ唇を閉じたまま夜に沈んでいく。窓辺にうっすらと明るみが射してきた。夜明け前の青白い光がカーテンのすき間から滲み、壁紙を淡く照らしている。けれどその光も、蓮の胸の内にある闇を少しも溶かさない。スマートフォンを手に取る。
last updateÚltima atualização : 2025-09-20
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42.遠回りの昼下がり

スタジオの天井から射し込む白い光が、床に幾筋ものラインを描いていた。レフ板と照明が何本も並ぶ中、スタッフたちの小さな声や機材を運ぶ足音が絶え間なく響いている。蓮は、その喧騒のなかで淡々とノートパソコンに目を落とし、時折カメラマンの方へ視線を送った。「蓮、これ、もう一パターン欲しいんだけど。服のシワが惜しい」三浦ハルカがレンズの向こうから声をかけてくる。短い黒髪をラフにまとめ、ジーンズにスニーカーという気取らない格好。だが、彼女の視線は常に被写体と全体の空気を見抜く鋭さを持っている。「分かった。モデルさん、上着だけ軽く羽織ってください」蓮は静かな声でモデルに指示を出す。その目線を、ハルカがさりげなく追いかける。「いつもより元気ないね、笠原ディレクター」ハルカが撮影の合間、レンズの後ろから声を落とす。「別に。眠いだけ」蓮は淡々と返した。ハルカは口元だけで笑い、シャッターを切る。その音が、スタジオの空気を切り裂くように響いた。「じゃあ昼休憩、ちょっと外行かない?」撮影が一段落すると、ハルカが蓮を手招きする。スタジオの外は初夏の陽射しが柔らかく、街路樹の葉の影が歩道に揺れていた。近くのカフェでテイクアウトしたコーヒーを手に、二人は歩道脇のベンチに並ぶ。蓮は小さく背伸びをして、息を吐く。「ほんと、昼なのに人が多いね」「土曜だもん。買い物かデートか…ああ、仕事だけど」ハルカは空を見上げて、カップのフタを外す。コーヒーの苦味と香りが、静かに混ざり合う。「蓮、最近顔色悪いよ」「そんなことない。化粧映えが悪いだけ」蓮は冗談のつもりで言ったが、ハルカはすぐに見抜いたように眉を上げる。「なにそれ。化粧しないくせに」「…じゃあ寝不足」「またそれか。あんた、何か隠してない?」コーヒーを飲みながら、ハルカはごく自然に蓮の横顔を見
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43.素顔の夜

ビル街の路地に溶け込むように、その店はあった。看板も目立たず、夜の闇のなかに小さな灯りだけがにじむ。ドアを押し開けると、ベルがかすかに鳴った。中は静かで、グラスのぶつかる音や低く流れるジャズ、バーテンダーの低い声が遠くで交じり合っている。カウンターの端に蓮とハルカは並んで座った。昼の喧騒とは別世界の、緩やかにほどける空気がそこにはあった。「とりあえず、おつかれ」ハルカがジントニックを掲げる。蓮はロックグラスの水滴を親指で拭い、軽くグラスを合わせた。氷が音を立て、グラスの表面を冷たい水滴が伝う。アルコールの苦味が喉の奥に染みていく。「今日も…バタバタだったね」「うん。蓮がいると現場が静かで助かるよ」「他の現場もみんな静かなんじゃない?」「いや、蓮と組むときだけ変な安心感がある」ハルカは唇の端を上げて笑う。その笑顔に蓮は少しだけ肩の力を抜いた。二人の間には昔から変な気遣いはない。年上だが姉でもなく、先輩だが上司でもない、けれど決して“遠い他人”にはならない距離。「でも、今日はちょっと様子違った」「…そう?」「うん。ま、誰だって浮き沈みあるよな。私だって撮影前に彼氏とケンカしたり、泣きながら現場入るときもある」「それは、ハルカさんだけでしょ」「なにそれ、偏見じゃん」ふたりは小さく笑った。しばらくは他愛のない話題が続く。店内のライトはやわらかで、蓮の肌を青白く照らしていた。バーテンダーが静かにグラスを磨き、カウンターの奥でカクテルシェーカーの音が響いた。「ねえ、蓮」ハルカがふと真面目な声になる。グラスの縁を指でなぞりながら、斜めに蓮を見上げる。「なんかさ…あんた、そういう『本気の恋愛とかできないタイプ』だと思ってたんだけど、最近、ちょっと違う気がするん
last updateÚltima atualização : 2025-09-21
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44.名前の呪い

グラスの底に残った琥珀色のウイスキーが、光を吸い込みながら静かに揺れていた。カウンターの端、夜更けのバーは客足もまばらになり、さきほどまでの賑やかさが嘘のように落ち着いていた。蓮とハルカの前には、氷の溶けた水滴だけが残る。ジャズの音色も遠く、バーテンダーの動きも緩慢になるこの時間帯――灯りが柔らかく二人の表情を照らしていた。ハルカがふと、空になったグラスを指先で転がした。しばらく蓮の横顔を眺めてから、ふと、ため息交じりに尋ねる。「ねえ、蓮。…前の男、まだ引きずってんの?」軽い調子。けれど、その目だけは逃げずに、蓮の輪郭をとらえている。蓮はすぐに答えなかった。口をつぐんで、しばしグラスの縁を指先でなぞる。その沈黙のあいだに、過去の風景が静かに胸の奥で広がっていった。KENの声、KENの手、優しさと支配、甘さと凍えるような孤独。名前を呼ばれた夜、それは愛ではなく、「逃げ場を失う呪文」みたいだった。「…忘れられてないかもしれない」やっと絞り出すように、蓮は呟いた。ハルカは黙って聞いていた。「なんか…昔のことだし、たいしたことないはずなのに」「名前を呼ばれると、怖くなるんだよ。抱かれてる時も、日常でも、KENに…何度も名前を呼ばれて。“蓮”って、その声が頭にこびりついて離れない」グラスの中の氷が、わずかにカランと鳴った。蓮の指がテーブルをさまよう。「好きって言われて、最初は嬉しかった」「でも、どんどん…“お前は俺のもの”みたいになっていってさ」KENが見せる笑顔と、その奥で熱を孕んだ執着と、夜中に腕をつかまれて、「どこにも行くな」「俺だけを見てろ」と囁かれた、あの夜の、肌を這う指の感触。声にならない不安と、それを見透かすようなKENの眼。「逃げたかったけど、結局逃げられなかった。名前を呼
last updateÚltima atualização : 2025-09-21
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45.それ、恋じゃん

バーの夜はさらに深くなっていた。店内の灯りはすでに最小限で、客の数もまばらになり、カウンターの奥でバーテンダーがグラスを丁寧に磨いている。静かに流れるピアノの旋律と、グラスを持つ手の余韻だけが、蓮とハルカの間に満ちていた。蓮は何度目か分からないため息をつき、指先で空のグラスをくるくると回す。ウイスキーの残り香と、ハルカが頼んだレモンピールの甘い匂いが、ゆっくりと空気に混ざる。「…やっぱり、私には蓮の考えてること、全部は分かんないわ」ハルカが小さく笑い、背もたれに身体を預けた。その眼差しはやわらかいけれど、どこか鋭さも残している。「別に、分かられなくていいよ」「そう言うけどさ」「だって、今の蓮って…」ハルカはグラスをカウンターに置き、蓮の顔をまっすぐに見つめる。「あんた、もうとっくに誰かに恋してんじゃん」唐突に放たれた言葉に、蓮は肩を竦めた。少し間をあけて、かすれた声を出す。「違う」「そうやってすぐ否定する。分かりやすいな、ほんと」ハルカは楽しそうに、口元で笑う。その声には責める響きも、悪意もない。ただ、長く蓮を見てきた“同業者”としての優しさがあった。「本当に、違うよ」「だって…」言いかけて、蓮は口をつぐむ。否定する言葉よりも、心のなかで瑛司の顔が浮かぶ。あの低い声、怒るときの強さ、抱きしめてくれた時の熱――無意識に、指先が膝の上で小さく動く。「何が“だって”なの」「ほら、顔に出てる」「出てない」「うそ」「…ほんとだって」ハルカはもう一度小さく笑った。カウンターの上に置いた手が、蓮のグラスのそばにすっと伸びる。「蓮。認めちゃえばいいじゃん。好きなんでしょ、その人のこと」「違う」
last updateÚltima atualização : 2025-09-22
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46.嫉妬という証明

仕事帰りのオフィス街、雨はもう上がっていたが、舗道には濡れたアスファルトが鈍い光を放っている。西の空はまだ雲が厚く、すれ違うサラリーマンたちの足元からは、しっとりとした湿度と焦りが立ち上っていた。瑛司は、書類を胸に抱えたまま、無意識に足早に駅へ向かっていた。一刻も早く家へ、ではない。スマホの画面を何度も見るふりをして、脳裏には、今日一日まとわりついて離れなかった蓮の横顔が浮かんでいる。ふいに、人だかりの向こうに見覚えのあるシルエットが見えた。髪の色、背の高さ、歩き方。蓮だった。その隣を、三浦ハルカともう一人、若い男性が歩いている。三人は仕事終わりらしく、楽しげに言葉を交わしながら、オフィスビルの前で立ち止まった。蓮はハルカに何か冗談を言われ、珍しく声を立てて笑った。その瞬間、瑛司の心臓がひどく軋んだ。普段、誰にも心を許さないはずの蓮が、あんな表情をする。それは瑛司には一度も向けられたことのない種類の微笑み――その事実が、胸を焼いた。三浦が蓮の肩に手を置き、もう一人の男が近づいて、何か書類を渡す。蓮が受け取りながら、軽く頭を下げる。その仕草一つ一つが、他人のもののように遠く感じられる。瑛司は、人混みに紛れて見えないふりをしながら、視線だけはじっと三人の様子を追っていた。――なぜ、こんなにも胸がざわつく。蓮が誰と仕事をしようが、どんな顔で笑おうが、それは彼の自由だと頭では分かっている。だが、どうしても、抑えきれない。グラス越しにしか見せてくれなかった無防備な笑顔。ベッドの中で、息を乱しながら縋ってきた声。名前を呼んでくれた、あの夜の熱。すべてが、瑛司の中に生々しく残っている。だが、蓮の世界には自分の知らない時間と顔がある。その事実が、恐ろしかった。蓮が自分以外の誰かと笑い合い、自分以外の誰かに手を触れられ、自分以外の誰かに名前を呼ばれる――それが、どうしようもなく怖い。オフィ
last updateÚltima atualização : 2025-09-22
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47.愛される資格

帰り道、蓮はビル街の隙間を縫うように歩いた。タクシーのテールランプが遠ざかり、街灯がぽつりぽつりと濡れた歩道を照らしている。足元の水たまりに街の明かりが揺れ、靴の底が微かに水をはじく音だけが耳に残った。冷えた空気のなかに、昼間のざわめきの名残と、雨上がりの匂いがまだ漂っていた。ハルカと別れた後、何もない帰路が、妙に長く感じられる。さっきまでの会話が、頭の奥でゆっくりと反芻されていく。「あんた、もうとっくに誰かに恋してんじゃん」「愛される資格なんて、考えなくていい」ハルカの声が胸の奥に残っている。蓮は歩きながら、無意識に右手でスマホを握りしめていた。冷たいガラスの感触と、掌の熱。画面を点けると、瑛司の名前が表示されたまま、指先が止まる。足は自然とゆっくりになる。夜風が、少しだけ汗ばんだ額を撫でていった。ビルの隙間から見上げた夜空は、雲が流れて、月が顔をのぞかせている。自分に愛される資格なんて、あるんだろうか。そう問いかけるたびに、胸の奥が苦く締めつけられる。KENとの過去。呼吸を奪うような執着、抱きしめられるたびに失っていった自尊心。名前を呼ばれることが、自分を支配する呪いに思えた夜。もう誰も、自分の名前で自分を縛らせたくない――それが“誰にも名前を呼ばせない”理由だった。なのに、いま、瑛司の名前を呼びたい。瑛司にだけは、自分の素顔を預けてしまいそうになる。怖いのに、なぜか救われるような気もしてしまう。信号待ちで立ち止まると、ポケットの中のスマホが重く感じられる。画面を点けると、未送信のままのメッセージ入力欄に、何度も消したり書きかけたりした「会いたい」「声が聞きたい」の文字が残っている。少し前までの自分なら、決してそんな言葉は送れなかった。弱さを見せることは、また傷つく入り口に立つことと同じだったから。でも、もう一度だけ、自分の心に触れてみたい。瑛
last updateÚltima atualização : 2025-09-23
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48.沈黙の通知

雨の音が窓の向こうでさざめいていた。部屋の灯りはすでに落ち、ベッドのシーツには二人分の体温がじんわりと残っている。隣では美月が、静かな寝息を立てて眠っていた。瑛司は目を閉じていたが、眠れていなかった。目の裏で、何度も繰り返し蓮の背中がよぎる。白い指先、揺れる睫毛、最後に見せたあの目――何かを言いかけてやめたような、壊れそうな光を湛えたあの目を、思い出すたびに胸がきしんだ。シーツがふと冷たく感じられ、寝返りを打つ。背中越しに、美月の静かな呼吸が聞こえてくる。触れようと思えば触れられる距離にある身体。でも、その温もりはもう、何ひとつ自分を満たさない。それでも瑛司は、その事実に言葉を与える勇気がないまま、ずるずると時間だけが過ぎていった。不意に、枕元に置いたスマートフォンが震えた。瑛司は反射的に上半身を起こし、画面を手に取った。通知欄に浮かんだメッセージ――『今夜は、眠れそうにない』その文面を目にした瞬間、心臓がひとつ、鈍く脈打つ。蓮の名前が、他人行儀なLINEの画面にさえ、何かを引き裂くような熱を残していた。そのときだった。「……今、なに?」美月の声が、まるで雨音の裏に忍び込んでいたかのように、唐突に響いた。瑛司の手がピクリと震える。「いや…仕事の連絡。ちょっと遅いよな、こんな時間に」そう言いながら、画面を伏せた。できるだけ自然に、何もなかったふうに。けれど、そうしようとする瑛司自身が、自分の行動に不自然さを感じていた。美月は体を起こさなかった。暗闇の中で、ただ瑛司のほうを見つめていた。寝息のリズムが変わり、部屋の空気がわずかに緊張を帯びる。「ふうん……誰から?」「……社外のスタッフ。ちょっと気になってた案件の話だよ」「そっか」そう呟いた美月の声は、穏やかだった。でも、その静けさが逆に、冷たい水のように肌を撫でた。瑛司
last updateÚltima atualização : 2025-09-23
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49.問い詰める声

朝の光が、キッチンの小さな窓から柔らかく差し込んでいた。瑛司はジャケットを着たまま椅子に座り、テーブルに並べられた朝食を前に箸を持った。温かい味噌汁の湯気がゆっくりと上がり、焼き魚の香ばしい匂いが部屋に広がっている。美月は黙ってコーヒーを入れていた。いつも通りの、何の変哲もない朝。けれど、昨日の夜からずっと続いている無言の圧力が、空気の中に色濃く漂っていた。「いただきます」と、瑛司が先に口を開いた。空気を変えたかった。少しでも、日常のリズムを取り戻したかった。美月は応えるように小さく頷くと、自分の席に座った。二人の間には一応の会話の型があった。天気の話、電車の混み具合、仕事の予定。だが今朝は、どれも出てこなかった。箸と皿が触れ合う音と、ポットの湯が静かに蒸気を吐く音だけが、室内に残されている。沈黙が苦しくて、瑛司は箸を置き、水の入ったグラスに手を伸ばした。喉が妙に乾いている。何も言わずに飲み干し、息を吐くと、美月が唐突に言った。「昨日の夜さ」瑛司はグラスを置く手を止めた。「スマホ、鳴ってたよね」瑛司は一瞬、返事が遅れた。頭の中に、昨夜のやり取りが蘇る。蓮からのLINE。『今夜は、眠れそうにない』そして、それを横目で見た美月の、あの静かな目。「うん。仕事の連絡だったよ」「こんな時間に?」「ちょっと、トラブルがあって…確認だけ」「誰から?」声は静かだった。だが、その静けさの中に、明らかな鋭さが混じっていた。瑛司は目線を逸らしながら答えた。「社外の…AD。最近入ったばかりの若い子で…ちょっと神経質っていうか」「ふうん」それだけ言って、美月は箸を置いた。目の前の味噌汁にはほとんど手をつけていない。視線が、真正面から瑛司をとらえる。「女でしょ」その一言は、凶器のように投げられたわけではなかった。それで
last updateÚltima atualização : 2025-09-24
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50.荷造りの手

午後の陽が傾き始めた頃、リビングのカーテン越しに柔らかな光が床を照らしていた。そこには、ひとつ、瑛司のスーツケースが開いたまま置かれていた。真っ黒なその外殻には、出張帰りの埃がうっすらとついていて、使い慣れた生活の一部だったはずのそれが、今は妙によそよそしく見えた。ソファの上にはたたんだワイシャツと、無地のTシャツが数枚積まれている。ベッドルームのクローゼットから持ち出した下着と靴下は、まとめて脇に置かれ、あとはただ、順番に詰め込むだけだった。だが、手が動かない。いや、動かそうとすればするほど、思考が重く絡まって指先が鈍くなる。部屋の奥からは、水の音が聞こえていた。美月がキッチンで食器を洗っている。リズミカルに流れる水音と、ガラスと陶器がぶつかるかすかな音。それだけが、部屋の中に響いていた。言葉は、ひとつもなかった。朝、美月が席を立ってから、二人の間にはそれらしい会話は交わされていない。いや、会話以前に、視線すら交差していなかった。瑛司は、無言でワイシャツを畳み直す。白のシャツに指を滑らせながら、ふと、クローゼットの引き出しに目が留まる。開けると、ネクタイが丁寧に並んでいた。紺、グレー、ストライプ、無地、そして唯一のワインレッド。全部、美月が選んだものだった。自分では買わない色も多かったが、言われるがままに身につけてきた。それが、夫という役割の、ひとつの「演出」だったのかもしれないと、今になって思う。瑛司はワインレッドのネクタイを指に取り、じっと見つめた。そこに染み込んだ日常の匂いが、微かに鼻を掠める。この家の洗剤の香り。アイロンの熱。誰かに手入れされることで保たれてきた“整った生活”の象徴。「これも持っていくの?」背後からふいに、美月の声がした。振り返ると、キッチンから戻った彼女が、無表情でスーツケースを見つめていた。エプロンの裾が濡れている。食器を拭きながら来たのだろう。彼女の瞳に、怒りも涙もなかった。ただ、静かな乾きが広がっているように見え
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