Todos os capítulos de 選んだのは、壊れるほどの愛~それでも、あなたを選ぶ: Capítulo 31 - Capítulo 40

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31.雨の引力

歩道にじんわりと染みていく黒いしみが、最初にそれが雨だと気づかせた。空は鈍い灰色の雲に覆われていて、まるですべての音を吸い込んでいるようだった。午後の街は湿り気を帯び、雨粒がコンクリートに弾ける音が、瑛司の耳に遅れて届く。傘は持っていなかった。それでも構わず、彼はその場所に立ち続けていた。蓮のマンションの前、歩道脇の電柱に背を預け、何度目かの缶コーヒーを片手に。カフェインも苦味も、もう味として認識していなかった。缶の表面を滑る水滴が指にまとわりつき、身体の芯に冷たさがじわじわと染みていく。時刻は午後四時をまわっていた。このまま暗くなるのを待つのか、それとも今日もこのまま何も起こらずに終わるのか。その答えが出ないまま、頭のなかでは、蓮の顔だけが繰り返し浮かんでは消えていた。細く降り始めた雨は、やがて本格的に地面を濡らし始めた。足元の水たまりに雲の影が揺れている。その一瞬だった。視界の端で、見慣れたシルエットが現れた。傘も差さず、ただ静かに雨に濡れながら歩く細身の男。黒いスキニーパンツに長めのシャツ、その上に羽織られた薄手のジャケットが、雨で身体に張りついている。蓮だった。心臓が一拍、遅れて脈打った。不意に、呼吸が浅くなる。瑛司は咄嗟に一歩踏み出した。舗道を打つ雨音がすべてをかき消しているのに、口から出た声だけは確かだった。「蓮!」蓮が足を止めた。傾いた視線が、ゆっくりとこちらを向く。その瞬間、胸の奥に沈んでいたすべてのものが一気に浮上してきた。蓮の顔が、濡れた前髪の隙間から覗く。睫毛には細かい水滴が滲んでいた。「なんで、連絡くれないんだ」声は予想以上に掠れていた。押し殺した感情が、喉の奥で焦げついている。蓮は一歩も動かず、ただそこに立っていた。「仕事の連絡はしてるよ」「そうじゃないだろ。俺が何を送っても、全部無視するく
last updateÚltima atualização : 2025-09-15
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32.裂け目の向こうへ

雨は、まだ降り続いていた。細く、冷たく、けれど容赦なく。街灯が灯り始めた舗道の上、無数のしぶきが弾けては消えていく。傘もなく濡れたまま立ち尽くす二人は、まるでその雨に包み込まれて、時間から切り離されたようだった。瑛司の腕の中に、蓮の身体は静かに収まっている。逃げようともしないが、寄り添ってくるわけでもない。ただ、受け入れている。それが一層、瑛司の胸を苦しくさせた。指先に触れるシャツの質感、ぬるりと肌に張りついた布の冷たさ。その下に確かにある温度だけが、ここが現実であると告げていた。だが現実は、どこまでも脆くて不確かだ。今、腕の中にいるこの男が、次の瞬間にはまた背を向けてしまうのではないかという予感が、脳裏を離れなかった。蓮の呼吸は浅く、胸の上下で分かる程度のかすかな動きだった。腕の位置を変えると、蓮の手がわずかに背中の布を掴んだ。その微細な動きに、瑛司の心臓が跳ねた。通り過ぎる車のライトが、濡れたアスファルトを照らしていく。水たまりに映る光は一瞬で壊れて、また新しく生まれる。この街の喧騒のなかで、二人だけが音のない場所に立っている。「……離れてた方が楽なのに」蓮の声は、胸の奥から漏れたようなかすれた響きだった。まるで自分自身に言い聞かせているような、独り言めいた口調。それを瑛司は、聞き逃さなかった。喉の奥が熱くなる。言葉を探し、ようやく短く吐き出す。「もう、無理だ」それが、嘘でも建前でもないことだけは、はっきりしていた。蓮の肩が僅かに揺れた。それが雨の冷たさによるものなのか、胸の内の波によるものなのか、瑛司には分からなかった。だが、蓮は逃げなかった。その事実だけを、信じるしかなかった。「ずっと、思ってたんだ」蓮が、ゆっくりと顔を上げる。濡れた髪が額に張りついていて、まぶたの縁に溜まった雨粒が今にもこぼれそうだった。
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33.ふたりの温度、重なる夜

窓の外では、まだ雨が名残惜しそうに軒先を叩いていた。細く、絶え間なく続く水音が、室内の空気をいっそう深く濡らしている。蓮の部屋にはほのかに香水と湿気が混ざり合った匂いが漂い、白いシーツがふたりの動きに合わせてわずかにしわを増やしていく。瑛司は黙ったまま、蓮の上に身体を重ねていた。肌が触れ合うたび、体温の違いが混ざり合う。夜の闇が室内を包み、明かりはベッドサイドの小さなランプだけだった。オレンジ色の光が蓮の頬を斜めに照らし、汗ばんだ髪がきらりと濡れて光る。息が絡む。蓮の唇が微かに開き、低く長い息が洩れる。瑛司の指先が蓮の首筋から鎖骨をなぞるたび、蓮の身体はわずかに跳ねて応えた。「…もっと」蓮の声が、夜の静けさを破るように響く。瑛司は無言で応じ、蓮の肩を両手で包み込む。ベッドの下でマットレスが軋み、ふたりの重さを静かに受け止めている。シーツが脚に絡み、汗ばんだ肌と肌が滑り合う感触があった。蓮の手が、瑛司の背中を這う。指先が背骨に沿って動き、爪が軽く食い込む。身体を求め合う熱が、部屋の湿度と混ざり合い、空気は次第に熱を帯びていく。瑛司は蓮の腰を引き寄せ、深く唇を重ねた。唇の柔らかさと、その内側の熱。舌を絡め合うたび、蓮の呼吸が荒くなった。蓮は目を閉じ、喉を震わせながら息をつぐ。その喉仏に舌を這わせると、低い呻きが零れた。背中に伝う汗の温度、耳元を撫でる瑛司の息。すべてが、蓮の感覚を飽和させていく。「瑛司…」呟きかけて、蓮ははっとしたように唇を噛んだ。その小さな震えを、瑛司は気付かないふりをした。それでも、蓮の腕が瑛司の背中に回り、強く抱きしめてくる。熱が、ますます強くなる。瑛司は蓮の太ももを手でなぞり、慎重に、しかし迷いなく身体を繋げていく。入口を押し広げると、蓮は首筋を小さく仰け反らせた。眉間に寄った皺が、そのまま快楽の色を帯びていく。「大丈夫か」瑛司が耳元で囁くと、蓮は「&
last updateÚltima atualização : 2025-09-16
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34.涙の理由

夜半、部屋にはまだ雨の音が滲んでいた。静寂のなかに、微かな水のリズム。外界のすべてが遠ざかり、ベッドの上のふたりの体温だけが確かな現実だった。瑛司の腕のなか、蓮の身体はしなやかに弧を描いている。絡み合った肌は汗ばんで、触れ合うたびに粘膜のようなぬめりを残した。熱く、湿った呼吸が重なり、シーツの皺にまで快楽の名残が染み込んでいく。蓮は目を閉じ、唇を噛み、吐息だけを頼りに身を預けていた。瑛司の動きが深くなるたび、無意識に手が彼の背中へ伸びる。指先は肌の上で彷徨い、時に爪を立てる。「苦しくないか」瑛司が低く尋ねる。「ううん…平気」蓮はかぶりを振り、瑛司の胸に額を押し付ける。互いの髪と額の汗が混じり合い、呼吸がひとつに絡まる。そのとき、ふいに蓮の喉から抑えきれない声が洩れた。その響きはどこか幼く、かすかに震えている。「…なんで、こんな」それが自分に向けた言葉なのか、瑛司に向けたものなのかも分からない。蓮の視線は宙に浮き、ベッド脇の暗がりに彷徨っていた。「蓮」名を呼ばれた瞬間、蓮は瑛司の胸の中で小さく身を強ばらせた。そのまま顔をそむけて、声を押し殺す。「なあ、どうした」瑛司が肩を撫でると、蓮はわずかに唇を噛みしめる。喉の奥で何かがせき止められているような気配。呼吸は浅く、熱を帯びた身体がかすかに震えていた。「…なんでも、ないから」蓮がそう言った。その声はひどく頼りなかった。シーツを握る手が、震えていた。「ほんとに、なんでもないのか」瑛司が再び問いかける。「うん…」短く、けれど明らかに嘘だと分かる声。次の瞬間、蓮の目尻から涙が一粒、頬を滑り落ちた。その雫は瑛司の肩に落ちて、熱を残した。蓮はそれを気づかれまいとしたの
last updateÚltima atualização : 2025-09-16
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35.言えない傷

ベッドの中、静寂がふたりを包み込む。外の雨音はさらに細くなり、まるで世界そのものが呼吸を潜めているようだった。カーテンの隙間から僅かに漏れる街灯の光が、淡い影を天井に浮かべる。夜は深く、しかし明け方にはまだ遠い。瑛司は仰向けのまま、隣で背を向けて丸くなった蓮を見つめていた。汗が冷えて肌に張り付いている。指先に残る涙の感触が、いまも消えなかった。シーツの中、身体のぬくもりは確かにあるのに、心だけが遠く離れた場所に置き去りにされている気がした。蓮の肩が時折、小さく震えている。呼吸は浅く、寝息ではない。未だ眠れていないのだと分かる。瑛司は、蓮の背中にそっと手を伸ばす。指先が肩甲骨のあたりに触れると、蓮は反射的に身を縮めた。その動きに、瑛司の胸にまた鈍い痛みが走る。「…蓮」ゆっくりと名前を呼ぶ。蓮は反応しない。それでも瑛司は、もう一度、今度は少しだけ強い声で呼んだ。「蓮。…なあ、どうして泣いたんだ」蓮はようやく振り返る。その横顔は、闇のなかでもはっきりとわかるほどに青白い。「何も…ない」その声は、あまりにも小さかった。けれど、瑛司は引き下がらなかった。「俺はお前のこと、何も知らないままでいたいわけじゃない。怖いなら、何が怖いのか、教えてくれ」少しだけ、祈るような声音になる。蓮は目を閉じる。長いまつげの影が頬に落ち、喉元がわずかに動く。「……関係ないよ、瑛司さんには」その一言が、瑛司の胸に重く落ちた。痛みを通り越し、心がじわりと冷えていく。「関係なくない」瑛司は、思わず強い声を出した。その声に自分自身が驚き、すぐにトーンを落とす。「俺は、お前に触れていたいだけじゃない。名前を呼んで、呼ばれて、それだけでよかった。でも、それじゃ足りない
last updateÚltima atualização : 2025-09-17
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36.消せない痕跡

玄関のドアが静かに閉じる音が、まだ部屋のどこかに残っていた。蓮はその音を聞きながら、壁にもたれて深く息を吐く。湿り気を帯びた朝の空気が、ゆっくりと部屋の奥まで沈み込んでいく。眠れぬ夜の熱も、涙の痕跡も、もう瑛司の背中と一緒に遠ざかったはずなのに、体の内側にはまだ重たいものが残っていた。カーテン越しの光は曇りがちで、空には夜の雨が描いたにじみが消えずに残っている。シーツの上には、瑛司が寝ていた場所だけ淡い窪みができていた。その温もりはゆっくりと消えつつあるが、手を伸ばせば、昨日までの現実がまだ指先にまとわりつく。蓮はしばらく動けずにいた。ベッド脇に腰を下ろし、両手で顔を覆う。涙の跡が瞼の裏で疼き、その理由だけが何度も胸の内で反芻された。なぜ泣いたのか。それは痛みか、安堵か、怯えか。身体だけを差し出していれば何も傷つかないと思っていた。なのに、名を呼ばれてしまった瞬間、自分の内側に閉じ込めていたものがあふれ出した。「名前」も、「涙」も、もう自分では制御できないのだと知ってしまった。昨夜の瑛司の手の重さや、唇が触れた場所の熱が、まだ肌に残っている。その痕跡だけが妙に鮮やかで、過去と現在が絡み合う。蓮は立ち上がり、ゆっくりとシーツの皺を指でなぞった。名残の体温も香水の残り香も、何一つ消すことができない。それでも、仕事へ戻るしかない。自分の人生を、自分の速度で取り戻そうとするたび、昨夜の涙だけが、どうしても胸の奥に残り続ける。窓を開けて、冷たい空気を吸い込む。都会の騒音が遠くから届き始めていた。タクシーのクラクション、歩道を急ぐ人の足音。日常が、少しずつ自分を外側から包み直していく。蓮は洗面台に立ち、水で顔を洗う。鏡に映る自分の目は、どこか腫れていた。昨夜の涙がまだ残っている。タオルで顔を拭いながら、小さく息を吐いた。「…消えないな」その小さな独り言さえも、部屋の静けさに
last updateÚltima atualização : 2025-09-17
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37.仮面の帰宅

玄関のドアを閉めた瞬間、外のざわめきが一気に遠ざかる。会社での会議と無数のやりとり、誰かの視線、積み上がる数字と喧騒。それらすべてが一枚のガラス越しに遠ざかり、東條瑛司は自宅の冷たい空気のなかに立ち尽くした。玄関に香るのは洗剤と柔軟剤の混ざった匂い。整然と揃ったスリッパが、どこまでも「家庭」という檻の記号のように目に入る。「おかえり」リビングの方から、少しだけ張りのある声が響く。美月がエプロン姿で立っている。ダイニングテーブルの上には湯気の立つ味噌汁、カレーの香り、サラダ、そして箸とスプーンがふたつ並べられていた。日常そのものの風景。けれど、その静けさが逆に瑛司には息苦しかった。「ただいま」靴を脱ぎながら瑛司は呟く。声はすぐに空気に溶けて消える。コートを脱いでハンガーにかけ、リビングへ足を運ぶと、美月が笑顔を作って迎えてくれる。「今日、仕事どうだった?」「うん。まあ、普通。大きなトラブルはなかった」「よかった。ご飯すぐ出せるから、手だけ洗ってきて」「分かった」洗面所へ向かい、蛇口を捻る。冷たい水が指先を伝う。手の甲に残るのは、仕事中に持った書類や紙の感触と、未だ消えない他人の香りのようなもの。自分の皮膚にすら違和感がまとわりついていた。鏡の中の自分は、会社のネームプレートを外しただけで、何も変わっていなかった。その目はどこか遠くを見ていて、誰かを待っているようにも見える。リビングに戻ると、美月が席についていた。「いただきます」と彼女が言う。その声に続いて瑛司も口を動かす。スプーンを持ち、カレーをすくい口に運ぶ。美月の料理は変わらず美味しかった。玉ねぎの甘さ、じんわりとした辛味。けれど、どれも味わうというより、胃に落とすだけだった。「会社で嫌なことあった?」「…いや。いつも通り」「最近、帰
last updateÚltima atualização : 2025-09-18
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38.真夜中の涙

夜が静かに降りていた。カーテンの隙間から街灯の淡い光が漏れ、寝室の壁にぼんやりと滲んでいる。ベッドサイドの時計は日付が変わる直前を示していたが、部屋にはどこか重たい沈黙だけが積もっていた。瑛司はベッドに仰向けになり、天井を見つめていた。隣では美月がシーツを握ったまま横になっている。どちらからともなく言葉を飲み込み、空気はぬるいまま、重力だけが増していく。美月が、ふいに背中を丸めた。小さく唇を噛んでいるのがわかった。吐息が少し震えている。「瑛司くん」呼ばれて、瑛司は顔をそちらに向けた。美月の声は低く、しかしどこか泣きそうな響きを含んでいた。「ねえ、最近…」言いかけて、美月は一度黙った。沈黙のなかで、自分の呼吸だけが妙に耳障りに響く。「最近、あなたのことがわからないの」美月はゆっくりとシーツの端を握りしめた。爪が食い込むほど力を込めている。「前は、もっと…なんていうか、普通に話せたのに。最近は、ずっと遠くにいるみたい」瑛司は答えられなかった。返すべき言葉が、どこにも見つからなかった。「ごめん、何か…」「違うの」美月がかぶりを振る。その動作のなかに、堪えていた涙が混ざった。「私、何か悪いことした?」「そんなことないよ」「でも…私はいつも、瑛司くんのこと考えてるのに」美月の声がかすかに震える。枕元に沈む涙の音が聞こえた気がした。「帰りが遅くても、朝ほとんど会話できなくても、仕事だから仕方ないって思ってた。けど、私が何かしたからじゃないって…本当に、そう思っていいの?」「美月」言葉に出すと、それだけで喉の奥が苦しくなる。「仕事で…色々あって」
last updateÚltima atualização : 2025-09-18
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39.沈黙のベッド

美月の嗚咽がようやく静まったころ、寝室には重たい沈黙だけが残っていた。瑛司は目を閉じたまま天井を仰ぎ、暗がりのなかで呼吸だけを数えていた。時折、シーツの擦れる音と、美月の浅い呼吸が交差する。窓の外では、かすかな雨音が夜の底に沈んでいた。どれほどの時間が流れたのか。隣から、美月がシーツの端をぎゅっと握り締める気配が伝わってきた。息を吸い、ゆっくりと吐き出しながら、美月が瑛司のほうに身体を寄せてくる。「ねえ、瑛司くん…」美月の声は震えていた。けれど、その奥にはどこか決意のようなものが混じっていた。「私たち…大丈夫だよね」瑛司は答えられなかった。返事を探しながら、言葉にならない思いだけが胸の奥に沈んでいく。「ねえ…ねえ、お願い。…触れてほしい」美月が、瑛司の腕にそっと自分の指を絡めてきた。その手は小刻みに震えている。涙で濡れた頬が、首筋に触れる。「私、もっとあなたを感じたいの」切実な声だった。いま、ふたりの間にあるものを確かめたくて、ただそれだけに縋るような響き。瑛司は美月の髪に手を伸ばし、頬に触れた。その柔らかな感触。けれど、胸の奥は妙に冷えていた。ゆっくりと身体を近づける。美月は瞳を閉じ、瑛司の胸元に顔を埋めた。互いの吐息が夜の空気に重なる。キスを交わしても、どこか遠い。唇の熱が、どうしても身体の奥まで届かない。美月がシーツの上で指を伸ばし、瑛司の手を引く。「ねえ…瑛司くん」その呼びかけに応えるように、瑛司は美月の背中に手を回した。けれど、熱は一向に生まれなかった。美月がパジャマのボタンを外す。淡い肌が月明かりに照らされる。それでも、身体のどこにも欲望が生まれない。美月は震える指で瑛司のシャツの裾を持ち上げた。
last updateÚltima atualização : 2025-09-19
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40.鏡の裏側

窓の外には、雨が降り始めていた。昼間の熱を洗い流すような細い雨脚が、時おりベランダの手すりを叩いている。部屋の中は暗いままで、天井の明かりはつけず、手元のスタンドランプだけが机の上をぼんやりと照らしていた。蓮はパソコンを開いたまま、スクリーンセーバーが淡く揺れる光景を、ただ黙って眺めていた。静けさが、壁の隅々まで沁みている。耳を澄ませば、雨の音と、部屋の奥で時折鳴る冷蔵庫の微かな唸りだけが聞こえてきた。時間の感覚はぼやけ、目の前に映る自分の指が現実なのかさえ曖昧になる。この静寂のなかで、蓮の心はどこにも落ち着く場所がなかった。ソファにもたれ、毛布に包まりながら、何度も頭を振る。消したい記憶が、波のように何度も蘇る。けれど、どれだけ目を閉じても、まぶたの裏には瑛司の顔が浮かんでしまう。「…最悪」自分でも呆れるほど弱い声が、暗がりに滲む。一度は決めたはずだ。もうこれ以上、誰かに心を明け渡さない。名前を呼ばせないことも、身体を許しても感情までは渡さないことも、全部、これ以上壊されないための防御だった。だけど。この数日の瑛司の声や熱、肌に残る香り、耳に焼きつく呼吸のリズム。どんなに距離を置こうと決めても、指の先まで、全部が瑛司で満ちていく。スマートフォンが手の中にあった。無意識に握っていた。ホーム画面の奥に、瑛司の名が未読のまま残るメッセージが一つ。指を伸ばせば、すぐにでも開ける。けれど、その一歩が踏み出せない。画面を伏せて、ソファの隅に放り投げた。蓮は、呼吸が浅くなるのを感じた。胸の奥に、苦しいくらいの熱と冷たさが混ざっている。まるで、目に見えない手で喉元を掴まれているみたいだった。それでも諦めたくなくて、立ち上がり、洗面台に向かう。鏡の前に立ち、ぼんやりと自分の顔を見る。髪は乱れ、目の下に影ができていた。唇がわ
last updateÚltima atualização : 2025-09-19
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