All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 691 - Chapter 700

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第691話

立ち去る前、遠翔と澪は何度も振り返り、名残惜しそうに奈穂に手を振った。「お姉ちゃん、またね!」「お姉ちゃん、今度遊びに行くから待っててね!」奈穂も微笑みながら手を振り、うなずいた。二人が去ったあと、彼女はくるりと振り向き、正修の手を握ると、思わず小さくあくびをした。「私たちも早く帰ろう。もう眠くなっちゃった」「分かった」正修は握り返しながら言う。「でも、その前に一つ話しておきたいことがある」「ん?」奈穂は眠たげに目をこすりながら彼を見る。彼の表情がやけに真剣だったので、何かあったのかと少し緊張した。「どうしたの?」「さっき君が部屋にいる間、ある女性が来た」正修は言った。「以前、須藤さんのパーティーで会ったことがあると言っていたが、俺はまったく覚えていない」奈穂は頭がぼんやりしていたせいで、少し考えてから思い出した。この前、君江が開いたパーティーに、優奈という女性がいた。雅之の娘で、あの時もずっと正修に近づこうとしていたが、結局機会を得られなかった。まさか、さっき来たのも彼女?「俺は相手にしなかったが、従姉が少し話をしていた。その後、スタッフが彼女の名字が関山だと言っていた」正修は、先ほどの出来事を細かいところまで一つ残らず奈穂に説明した。すべて聞き終えた奈穂は瞬きをし、少し拍子抜けしたように言った。「うーん……特に大きなことが起きたわけでもなさそうだけど?どうしてそんなに真剣なの?」しかも、さっきの様子だと、かなり急いでこの話を伝えたがっていたように見えた。「君にすぐ報告しておきたかったからだ」正修の表情は真剣そのものだった。彼も愚かではない。あの女性の下心など、顔を見ればすぐ分かる。こういうことを奈穂に黙っておくつもりは、最初からなかった。その真面目な様子を見て、奈穂の口元には思わず笑みが浮かぶ。「分かった、分かった」彼女はつま先立ちになり、手を伸ばして彼の頭を軽く撫でた。「えらいえらい」正修は再び彼女の手を握り、瞳にわずかな危険な光を宿す。「その言い方はやめろ」「だって本当のことだもの」奈穂はまったく反省した様子もない。「何かあったらすぐ報告してくれるなんて、十分えらいでしょ」それにしても――スタッフが「関山」と言っていたなら、間違いなく優奈だ。奈穂はわず
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第692話

優奈は、二人が並んで去っていく後ろ姿を見つめながら、頭の中がぐらぐらするような感覚に襲われた。さっきは泣き疲れて、少し気分転換でもしようと思って外に出たのに、まさかエレベーターを降りた瞬間に、あの二人と鉢合わせするなんて。しかも奈穂は、明らかに自分に気づいていた。見たところ、誰かも分かっていたはずなのに、挨拶すらしてこなかった。正修が、何か話したのだろうか?少しくらい二人の関係をかき乱せたらよかったのに。だが、さっきの二人の様子は――どう見ても、仲睦まじい恋人そのものだった。自分の存在など、まったく影響を与えていない。そもそも正修は自分を一度も見ようとしなかったのだから、奈穂が彼のことで機嫌を損ねる理由などあるはずもない。そう思うほど、優奈はまた涙がこみ上げてきた。散歩する気力も失い、そのままエレベーターへ引き返すと、部屋に戻って再びベッドにうつ伏せになり、泣き続けた。一方、奈穂は車に乗るとすぐ、正修の胸にもたれかかり、うとうとし始めた。すると正修が、彼女の髪をそっと撫でながら静かに言う。「気にしなくていい」「ん……?」奈穂は眠そうに顔を上げる。「何を気にするの?」その様子に、正修は思わず小さく笑い、再び彼女の頭を胸元へ戻した。「何でもない」「関山優奈のこと?」奈穂は少し遅れて気づいた。「そうだ」「まあ……最初はちょっとイラっとしたけど、ずっと気にするほどのことでもないかな」奈穂は気だるそうに言った。「だって、あの人が私たちの関係に影響を与えることなんて、ありえないもの。わざわざ気にし続ける必要もないし」もし本当に気にしていたなら、さっきわざと正修の手を握って、優奈の前で仲の良さを見せつけていただろう。でも、そんなことをする価値もない。優奈のような相手には、最初から存在を意識しないのが一番だ。正修は奈穂を見下ろし、目の奥にやわらかな光を浮かべた。奈穂が不機嫌でないのなら、それで十分だった。家に着く前に、奈穂はそのまま彼の胸にもたれたまま眠ってしまった。車が停まった頃になって、ようやくぼんやりと目を開ける。「……もう着いた?」「大丈夫、そのまま寝ていていい」正修は優しくあやすように言い、車に用意してあったブランケットで彼女をしっかり包み込み、そのまま抱き上げて家の中
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第693話

正修はその言葉を、まるで人生哲学でも語るかのように真面目な顔で口にした。その様子があまりにも真剣だったので、奈穂は思わず笑ってしまう。二人はそのまま一緒にバスルームへ入り、ドアが閉まると、中の甘い雰囲気はすべて隠された。……安芸とほかの二人の医師は、すでに奈穂の治療計画と術後のリハビリ計画を完成させていた。翌朝、安芸から奈穂に電話がかかってきた。手術の準備がすでに整っており、いつ手術を受ける予定か決めてほしいという。前々から心の準備はしていたものの、いざこの時を迎えると、奈穂の胸にはやはり緊張がこみ上げてきた。少し考えてから、奈穂は言った。「家族と相談してから、日程をお伝えしてもよろしいでしょうか?」「もちろん」安芸は穏やかに答えた。電話を切ったあと、奈穂は視線を落とし、自分の右脚を見つめる。もう二度と踊れないと思っていた。それなのに今、完全に回復できる可能性が目の前にある。かつて母と一緒にダンスを習っていた頃の情景が、次々と思い浮かぶ。奈穂の目に、うっすらと涙がにじんだ。すでに身支度を整えた正修が、クローゼットから出てくる。彼女が起きているのを見ると、隣に腰掛け、体をかがめて彼女を抱き寄せ、額に軽くキスをした。「もう起きたのか?」さっきクローゼットに入った時は、まだ眠っていたのに。「今ちょうど起きたの。それで、中島先生から電話があって」奈穂は目を輝かせて彼を見る。「手術の準備ができたって言われたの」その言葉を聞いた瞬間、正修の瞳にもはっきりと喜びの色が浮かんだ。「それは本当によかった、奈穂」彼女を抱きしめる声には、抑えきれない嬉しさが滲んでいる。「これで君の右脚も、完全に回復できる」奈穂も彼を強く抱き返す。しばらく二人で静かに喜びを分かち合ったあと、彼女は再び口を開いた。「さっき中島先生に、手術の日をいつにするか聞かれたんだけど、まだ決めてないの」「焦らなくていい。ゆっくり考えればいい」正修は彼女の頭を優しく撫でた。「どんな時でも、必ずそばにいるから」「うん、分かってる」奈穂は彼の胸にもたれた。「それとね、今夜は実家に帰ろうと思うの。この嬉しい知らせを、直接父とおばあちゃんに伝えたいの」「分かった」……夕方、奈穂は水戸家へ向かった。「奈穂、帰ってきたのね
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第694話

「大したことじゃない。会社のことで少しな」健司は曖昧に答えた。奈穂は今、会社にも関わってはいるものの、すべての業務を把握しているわけではない。知らないことがあっても不思議ではない。健司はすぐに表情を和らげ、何事もなかったかのように奈穂と楽しそうに話し始めた。先ほどの不機嫌そうな様子は、まるで最初からなかったかのようだった。奈穂もそれ以上深くは考えなかった。「今夜は家で食事していくでしょう?奈穂の好きな料理を多めに作らせるわ」恭子は奈穂の手を握り、優しく言った。「食事のことは後でもいいの」奈穂は笑みを浮かべる。「おばあちゃん、お父さん。今日は、とても大事な話があるの」「どうしたの?」恭子は最初、何か問題でも起きたのかと身構えたが、奈穂の顔に浮かぶ笑顔を見て、少し安心した。「いい知らせなの」奈穂は胸の高鳴りを抑えながら言う。「中島先生から連絡があって、手術の準備が整ったそうなの。私の右脚、ついに回復できるの」「本当か?それは嬉しい!」その知らせを聞いた瞬間、恭子も健司も大きく心を動かされた。以前、奈穂の右脚が回復可能だと分かった時も喜んでいたが、いよいよ手術が現実になると、その喜びはさらに大きなものになる。喜びのあまり、恭子の目から涙がこぼれた。「奈穂……今まで本当に大変な思いをしてきたのに、これからまた手術を受けるなんて……」手術を受ければ完全に回復できる。それはもちろん嬉しい。だが、孫が手術台に上がると思うと、どうしても胸が締めつけられる。本来なら、奈穂がこんな苦しみを経験する必要などなかったのだ。もし北斗と水紀がいなければ、奈穂の脚もここまで悪くならなかったのに。「おばあちゃん、どうして泣くの?」奈穂は困ったように笑ったが、ティッシュを取り出して恭子の涙を拭きながら、自分の目元もわずかに赤くなっていた。健司は顔を少し横に向けた。その表情は、恭子にも奈穂にも見えない。「奈穂が心配なのよ」恭子は奈穂を見つめながら言う。涙はなかなか止まらなかった。「心配してくれるのは分かってる。でも大丈夫よ。中島先生も、お父さんが手配してくれたお二人の先生も、皆とても優秀な先生だもの。三人の先生がついてくれているなら、きっと手術は成功するし、そんなにつらい思いもしないはず」恭子は急いで涙を拭き、
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第695話

奈穂はうなずいた。実のところ、彼女自身も健司と同じ考えだった。「それなら……手術は明後日にしようかな」奈穂は少し考えてから言った。「あまり先延ばしにもならないし、準備する時間も二日あるから」健司も賛同した。「いいと思う」「私たちの奈穂が、これからもずっと元気でいられますように」恭子はこみ上げる涙を必死にこらえながら言った。「おばあちゃん、安心して。きっとそうなるから」奈穂はほほえんだ。自分の人生は、これからきっともっと良くなっていく。自分を愛してくれる人も、愛する人も、きっとこれからますます幸せになっていく。過去の出来事を振り返る必要なんてないし、悔やむ必要もない。自分は決して、過去に縛られる人間ではないのだから。……だが、奈穂とは対照的に――北斗は、どうしても過去に戻りたいと願っていた。再び夢にうなされ、北斗ははっと目を覚ました。荒い息をつきながら、目の前に広がる闇を見つめる。しばらく、自分がどこにいるのかさえ分からなかった。やがて思い出す。あの二人の男に連れて来られたのは、とある国の辺鄙な農場だった。この農場はあまりにも人里離れており、農場主一家と数人の作業員のほかには、周囲にほとんど人影がない。ほかに人のいる場所へ行こうとすれば、何時間も車に揺られなければならないほどだ。よくもまあ、あの二人はこんな場所を見つけてきたものだ。北斗はようやく、乱れた感情を落ち着かせた。先ほど、夢を見ていた。夢の中で彼は、大学時代へ戻っていた。まだ奈穂と付き合っていた頃だ。夢の中で彼の前には、美しく飾られたバースデーケーキが置かれている。小さなキャンドルが灯り、温かな光を放っていた。奈穂は向かい側に座り、笑いながら彼に願い事をするよう促している。夢の中の彼は、目を閉じた。何を願ったのかは分からない。ただ、目を開けた瞬間――向かいに座っていた奈穂の顔が、怒りに満ちていた。「奈穂、どうしたんだ?」夢の中の奈穂は突然立ち上がり、彼の頬を思い切り打った。「北斗、私が知らないと思ってるの?とっくに裏切って、水紀と関係を持っていたんでしょう?この裏切り者!」彼は恐怖に震え、その場にひざまずいて必死に許しを乞う。すると突然、夢の場面が切り替わる。気づけば、彼は教会に
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第696話

そう言うと、大きなお腹を抱えた水紀が北斗に向かって飛びかかってきた。その瞬間――北斗ははっと目を覚ました。先ほどの夢を思い出し、彼は苦笑した。まったく、因果応報だ。すっかり眠気は覚めてしまったが、部屋の中には彼一人しかいない。車椅子はドアのそばに置かれており、ベッドからは少し距離がある。両脚の自由を失った今、気分転換に外へ出ることすら簡単ではない。彼は仕方なく再び横になり、無理やり目を閉じた。結局、夜が明ける頃になって、ようやく少しだけうとうとした程度だった。朝になると、北斗は車椅子に座り、部屋の前で日差しを浴びていた。軽やかな足音が聞こえ、彼が振り向くと、一人の若い女性がこちらへ歩いてくるのが見えた。手には皿を持っている。北斗は彼女を知っていた。農場主の娘、ニナだ。ニナはとても整った顔立ちで、明るく朗らかな性格をしており、全身から若々しい活力があふれている。彼女は北斗の前まで来ると、皿を差し出した。頬にはうっすらと赤みが差している。皿の上には、焼きたてと思われるクッキーが並んでおり、ほのかに甘い香りが漂っていた。北斗は自分を指さしながら尋ねる。「……俺に?」ニナは北斗の言葉を理解できないが、彼の仕草から意味は伝わったようで、こくりと頷き、何か言葉を添えた。だが、彼女の言葉も北斗には分からない。彼は皿を受け取り、膝の上に置いてから微笑んだ。「ありがとう」ニナは嬉しそうに笑った。だが彼女はすぐに立ち去ろうとはせず、北斗の隣の段差に腰を下ろし、ときおり彼をちらりと見つめる。彼への好意は隠しきれていない。北斗は、ニナが自分に気があることに気づいていた。ここに来たばかりの頃から、彼女は何度もこっそり自分を見ていたのだ。だが、今の自分にそんなことを考える余裕はない。いずれ必ず帰国するつもりだ。そして再起し、奈穂を正修のもとから奪い返す。ニナなど、自分にとっては取るに足らない通りすがりの存在に過ぎない。とはいえ、今はこの農場に身を寄せている以上、農場主の娘と良好な関係を保っておくのも、悪くはない。そう考え、北斗はクッキーを一枚取り、口に運んだ。そしてニナに向かって親指を立て、美味しいと伝える。ニナの頬はさらに赤くなり、少し照れくさそうに頭をかいた。
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第697話

二人はスマートフォンの翻訳アプリを使いながら、こうして一言ずつやり取りを続けた。ほとんどの場合、北斗の返事はそっけないものだったが、それでもニナはとても嬉しそうだった。彼女は明るく、素直で、自分の好意をまったく隠そうとしない。昼になるまで話し込み、やがて母親に呼ばれてようやく立ち上がった。名残惜しそうに北斗を一度振り返り、それから去っていく。彼女がいなくなると、ほどなくして刀傷の男がやって来た。北斗の車椅子の横に立ち、冷めた口調で言う。「追われる身のくせに、女を口説く余裕があるとはな」北斗は鼻で笑った。「考えすぎだ」「考えすぎかどうかはともかく、ここで余計な情のもつれを作るな」刀傷の男は淡々と続ける。「しばらくしたら俺たちはここを離れる。面倒を増やすな」「この状態で、どうやって情のもつれを作るっていうんだ」北斗は苛立った様子で言う。「心配しなくていい」刀傷の男は北斗を一瞥し、それ以上は何も言わなかった。「もうすぐ食事だ。中へ入るぞ」そう言うと、刀傷の男は車椅子を押して室内へ向かう。その途中で、北斗がふいに口を開いた。「国内……何か動きはあったのか?」「どの件についてだ?」刀傷の男は無表情のまま答える。北斗は言い淀み、しばらく迷った末、結局口にした。「奈穂は……最近どうしてる?」刀傷の男は突然、鼻で笑った。北斗は自分が嘲られていると分かり、少し腹を立てる。「何がおかしい?ただ気になっただけだ」「彼女と婚約者は、お前を捕まえて刑務所に送り込もうとしているのに、それでも彼女が最近どうしているか気になるのか?」「もういい!」北斗は苛立ちを隠さず言う。「奈穂のことを聞いただけだ。あの男の話はしていない!」正修の名を聞くだけで、胸の奥に怒りがこみ上げる。やがて力が抜けたように、北斗は車椅子にもたれかかり、自嘲気味に笑った。「人を本気で愛したことがあるか?なければ、今の俺の気持ちは分からないだろうな」刀傷の男は嫌そうに北斗を見たが、何も言わなかった。北斗と奈穂の間に何があったか、詳しくは知らない。だが、二人が付き合っていた頃、北斗が別の女に手を出したという話は耳にしている。そんな男が、いまさら何を愛情深いふりをしているのか。だが北斗は、相手が何を思っているかなど知る由もない。こ
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第698話

ニナは思った。もし北斗と結婚できたなら――彼はここに残ってくれるかもしれない。そう考えると胸が高鳴る。彼女はスマートフォンを手に取り、北斗の国の料理の作り方を検索し始めた。この地域は通信環境があまり良くなく、レシピ動画は頻繁に途切れたが、それでも彼女は真剣に学び続けた。頭の中では、北斗が自分の作った料理を食べ、嬉しそうに笑う姿ばかりが思い浮かんでいた。……奈穂の手術前夜。彼女はすでに病院に入院しており、恭子、健司、正修、そして君江がずっと付き添っていた。病室いっぱいに人が集まっている様子を見て、奈穂は思わず苦笑する。「本当に大丈夫だから、ずっとここにいなくてもいいのに」そう言っても、皆の顔には心配と緊張の色が浮かんでいた。やがて恭子が口を開く。「奈穂の言う通りね。こんなに大勢いたら、ゆっくり休めないわ。私たちは一度帰りましょう。正修がここで付き添ってくれるから。明日の手術の時に、また来ればいい」「ご安心ください」正修は穏やかに微笑む。「奈穂のことは、俺がしっかり支えます。ずっとそばにいますから」正修の奈穂への想いは、誰の目にも明らかだった。だからこそ、誰一人として不安には思わなかった。「奈穂、ちゃんと落ち着いてね。あまり緊張しないのよ」恭子は奈穂の頭を優しく撫でる。「食べたいものがあったら、何でも言ってちょうだい。おばあちゃんが作ってあげるから」「分かった、おばあちゃん」奈穂は素直に頷く。その笑顔は恭子の目にはとても愛らしく映り、胸がいっぱいになるほどだった。健司も奈穂に言葉をかける。「三人の医師はどなたも優秀だし、手術の準備も万全だ。心配することはない」そこまで言うと、彼の表情はさらに柔らかくなった。「右脚が完全に治って、また踊れるようになったら……きっと、お母さんも喜ぶだろう」奈穂の目が少し潤む。「うん……完全に治ったら、お母さんに会いに行って、直接この嬉しい知らせを伝える」健司との会話が終わると、君江も近づいてきた。だが、口を開く前に――突然泣き出してしまった。「うう……奈穂ちゃん……」奈穂は思わず苦笑する。「もう、泣かないで。私は大丈夫だから。ほら、どうして君江が泣いてるの?涙、拭いて」恭子がティッシュを渡し、君江は礼を言いながら涙を拭いた。「どう
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第699話

正修はよく分かっていた。奈穂は家族や友人の前ではずっと笑顔で、まるでまったく不安がないかのように振る舞っている。だが本当は、心の中で緊張しているのだ。手術を受けるのだから、それも右脚の手術だ。医師たちを信頼していないわけではない。むしろ彼女は心から信頼しているし、彼らが最善を尽くしてくれることも分かっている。それでも、こういう時に「緊張しない」と思っても、本当に緊張せずにいられるものではない。少し考えてから、正修は口を開いた。「将棋を持ってきたんだ。一局どうだ?」「いいよ。でも、どうして将棋なんて持ってきたの?」奈穂は不思議そうに尋ねた。「退屈するかもしれないと思って」正修は立ち上がり、駒を取りに行く。「それに、君が将棋がとても強いことは前から知っていたが、ちゃんと対局したことがなかったからな」「そんなに大したことないよ、普通にちょっと強いくらい」そう謙遜したあと――彼女はあっという間に正修を完膚なきまでに打ち負かした。王手をかけられたのを見て、正修は椅子の背にもたれ、苦笑する。「負けたな」「ふふ」奈穂は軽く礼の仕草をした。「いい勝負だったね」「やはり奈穂は強いな」正修は愛おしそうに彼女を見る。「時間がある時に、もっと教えてくれ」「いいよ」奈穂は楽しそうに笑う。「でも授業料はもらうからね」「分かった」正修はうなずく。「いくらでも払う」彼の表情も口調も至って真面目だったが、奈穂はなぜか、その言葉に少し違う意味を感じ取ってしまった。耳たぶが一気に熱くなる。まずい、自分は少し変な方向に考えすぎているのではないか。「奈穂?」正修が不思議そうに呼ぶ。「どうした?」「な、何でもない」奈穂は軽く咳払いをした。「今から教えてあげる。もう一局やりながら説明するね」正修に異論はない。将棋は彼女の好きなことだし、気をそらせば不安も少し和らぐだろう。それに、彼自身も奈穂の棋力には素直に感心していた。奈穂は対局しながら、より良い指し方を丁寧に教える。彼女は真剣に教え、正修も集中して学んだ。正修の理解は早かったが、それでも最後まで一度も勝つことはできなかった。「仕方ないな。奈穂は天才だ」正修は笑う。「素直に完敗を認めよう」将棋に関しては、奈穂は本当に天賦の才がある。一晩学んだ
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第700話

「脚が治って、また踊れるようになったら……私、あなたに踊ってみせてあげてもいい?」奈穂の声には、抑えきれない期待が滲んでいた。「私、踊るのが結構うまいんだから」「もちろん、楽しみにしている」正修は微笑む。「君が踊る姿を見るのが待ち遠しい」「でも……もうずっと踊っていないし、うまく踊れなかったらどうしよう?感覚を忘れてしまっていたら……」そう言いながら、奈穂の表情には再びわずかな不安が浮かんだ。脚が完全に治ったとしても、以前のように踊れるとは限らないのではないか。そんな考えが、ふと胸をよぎったのだ。「大丈夫だ。ゆっくり取り戻せばいい」正修は真剣な口調で言う。「奈穂、自分を信じてほしい。君には才能があるし、何より踊ることが本当に好きなんだろう。回復したあと、いくらでも時間はある。焦る必要はない。君の未来はまだ長い」奈穂は静かにうなずいた。「うん……そうだね」しばらく言葉を交わした後、正修が時計を確認する。もうすぐ十一時だった。「明日は手術だ。今夜は早く休もう」「うん」奈穂は目をこすった。確かに少し眠くなってきていた。正修は彼女をそっと抱き上げ、ベッドまで運び、優しく寝かせる。掛け布団を丁寧に整えながら言った。「おやすみ」「どこにも行かないでね」奈穂は彼の手を握った。「もちろん」正修はその手をしっかり握り返す。「ずっとここにいる。安心して眠れ」そう言って、彼は身をかがめ、彼女の額に軽く口づけた。奈穂の唇に小さな笑みが浮かぶ。彼がそばにいるだけで、心は自然と落ち着いていく。やがて彼女は静かに眠りについた。その夜は、穏やかな夢だった。……翌日。奈穂は、皆の心配と緊張が入り混じった視線に見送られながら、手術室へ向かった。中に入る直前、彼女は振り返り、笑顔で手を振る。「そんなに心配しないで。終わったらまた会えるから」皆がうなずく。君江の目にはすでに涙が浮かんでいたが、どうにかこらえていた。だが手術室の扉が閉まった瞬間、ついに涙がこぼれ落ちた。「もう、この子ったら……」恭子は苦笑しながらティッシュを差し出す。「昨日の夜から、いったい何回泣いているの?」「だって……気持ちが複雑なんです。嬉しいし、でもすごく心配で……」君江は鼻をすすりながら答えた。「おばあ様、笑わないで
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