All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 721 - Chapter 730

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第721話

逸斗は怒りが爆発し、繰り返し男を蹴りつけた。自分を陥れるだけならまだしも、よりによって奈穂に危害を加えようとした黒幕だと――そんな濡れ衣、冗談ではない。奈穂は自分の命の恩人だ。それに自分にとって、特別な存在でもある。そんな彼女を、自分が害そうとするはずがない。正修がどう思おうと構わない。だが、もし奈穂までが、この件の黒幕は自分だと信じてしまったら――そう考えただけで、胸が締めつけられるように苦しくなる。「お、俺は……ゴホッ……本当に嘘なんか言ってない……」男は苦しそうに息をつきながら訴える。「俺に話を持ちかけた奴は、確かに言ってた……秦家の若旦那、秦逸斗の指示だって……!」逸斗はまた蹴りを入れようとした。だが、その瞬間――正修の存在を思い出す。ここで感情任せに暴れれば、ただの無能な道楽息子に見られるだけだ。逸斗は無理やり自分を抑え込み、再びソファに腰を下ろした。ぎこちない声で問う。「……こいつの言ってること、水戸さんも聞いたのか?」「聞いている」正修は淡々と答えた。逸斗は罵声を飲み込み、目を閉じる。しばらく沈黙してから、ようやく口を開いた。「信じるかどうかは勝手だが……この件は俺じゃない」「なら聞こう」正修はゆっくりと言う。「誰の仕業だと思う?」逸斗の指が、じわりと握り締められる。奈穂を狙い、なおかつ自分に罪をなすりつける。そこまで考えれば、答えはほとんど一つしかない。――音凛。確証はない。だが、最も可能性が高いのはあいつだ。……だが。逸斗はちらりと正修を見やり、咳払いをした。「さあな。俺に分かるわけないだろ。最近、特に誰かと揉めた覚えもない」「秦」正修の声は低く含みを帯びる。「よく考えてから答えろ」逸斗は視線を逸らし、正修と目を合わせないようにした。「どう考えろっていうんだ。とにかく俺は無関係だ。それだけは誓える。だが、誰がやったかなんて知らない。信じるかどうかは、お前の勝手だ」逸斗は室内のボディガードたちを見回し、鼻で笑う。「で?まさか俺を殴り倒すつもりか?」「望むならな」正修の表情は冷え切っていた。「そうしてやってもいい」逸斗の背筋が凍りつく。先ほどまで逸斗は、いくら正修でも京市で自分に手出しはできないと思っていた。自分は秦家の御曹司なのだから、
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第722話

正修の身にまとわりついていたあの鋭い殺気は、まるで一瞬で霧散したかのようだった。彼は淡々と「分かった」とだけ言い、介護スタッフはすぐに退出した。逸斗は状況が読めず、迂闊に動くこともできない。やがて返ってきたのは、正修の冷淡な一言だけだった。「もういい、失せろ」「九条、お前――!」逸斗は怒りで頭がくらくらする。だが正修はすでに逸斗を無視し、そのまま立ち上がって部屋を出て行った。逸斗はその背中を睨みながら立ち上がる。しかしすぐに去ることはせず、まだボディガードに押さえつけられている男の方へ歩み寄った。「こいつを俺に渡せ」言い終えるとすぐに、大柄なボディガードが逸斗の前に立ちはだかる。「申し訳ありません、秦様」逸斗はその男としばらく睨み合ったが、結局は引き下がるしかなかった。舌打ちし、悪態をついてから背を向けて部屋を出る。本当はそのまま奈穂の病室へ向かい、直接説明するつもりだった。だが――病室の前には複数の人間が控えており、どう見ても通してくれそうにはない。結局、逸斗は諦めるしかなかった。病院を出て車に乗り込むと、鬱憤を晴らすようにハンドルを拳で叩きつける。彼女に会えるかもしれないと思って来たのに。結局、会えなかったどころか、腹立たしい思いだけが残った。――忌々しいな、正修。逸斗は深く息を吸い、何度も吐き出して、どうにか怒りを抑え込む。だが今、自分にとって本当に許せないのは正修ではない。奈穂を害そうとし、なおかつ自分に罪を着せようとした――その黒幕だ。音凛か?他に思い当たる人物は、正直いない。だが先ほど、正修の前ではその名を出さなかった。どれほど音凛を憎んでいようと、それはあくまで秦家内部の問題だ。正修に介入の口実を与え、秦家に不利な状況を作るわけにはいかない。以前の逸斗なら、秦家がどうなろうと知ったことではないと思っていた。だが今は違う。――秦家がなければ、自分は何者でもない。認めたくはない。だがそれが現実だ。人材がひしめく京市では、自分の小賢しさなど大した武器にはならない。秦家を背後にしてこそ、より良く生きられるし、望むものを手に入れるチャンスも増える。彼は車の中から病院を見上げ、揺らぐ光を宿した目を細めた。……だが、それとこれとは別
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第723話

奈穂は軽くうなずいた。「ただ、あいつは何かを隠してる」正修は続ける。「知っていることがあるのに、口にしようとしない」「もし黒幕に心当たりがあって、それでも言わないとしたら……」「その相手と、深い利害関係があるってことだね」二人は自然と会話をつなぎ、まるで呼吸を合わせるかのように結論へ辿り着く。逸斗と強い利害関係を持つ相手――それは秦家の人間以外にあり得ない。映画を見ながらうとうとしていた奈穂は、正修の胸にもたれたまま、ほどなく眠りに落ちた。正修は静かに彼女を抱きしめ、腕の中で眠る小さな体を見つめる。その眼差しは、深い柔らかさに満ちていた。……すでに深夜。ニナは自分の部屋に戻らず、依然として北斗の部屋にいた。今日、彼女はこっそりと、市内へ買い出しに行く作業員に頼み、同時通訳用のイヤホンを二つ買ってきてもらっていた。大半の場面で会話に支障はなくなり、これで二人はスマホで文字を打って翻訳する必要もなくなった。今、ニナは北斗の部屋で、彼と酒を飲みながら話している。アルコールのせいもあって、彼女は次第に大胆になり、座る距離もどんどん近づいていく。「あなた、本当に素敵……」うっとりと彼の顔を見つめながら言う。「学生の頃、東洋から来た男性を見たことはあるけど……誰もあなたには敵わない」北斗は微笑む。「じゃあ、君は顔だけで好きになったのか?」「違う!」ニナは慌てて否定した。「顔だけじゃないわ。あなたの雰囲気も、それに……とにかく、私はあなたのことが大好きなの」そう言うと、彼女は腕を伸ばし、北斗の首に回した。もう余計なことは考えたくなかった。ただ、自分が彼を好きで、一緒にいたい――それだけでいい。北斗も彼女の腰に手を回し、引き寄せる。二人の距離はさらに縮まった。間近で彼の気配を感じ、ニナの頬が赤く染まる。その視線は、やがて彼の唇へと落ちていく。これまで彼女がした一番大胆なことは、彼の頬にキスをすることだけだった。もし――唇に触れられたら。そう思った、そのとき――「ニナ、あと数日で俺はここを離れる」と、北斗が不意に言った。その一言で、ニナの中に広がっていた甘い想像は一瞬で消え去った。彼女は戸惑い、目を大きく見開く。「離れる?どこへ……?」「別の場所へ行く」北斗
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第724話

言いかけて、北斗はふと首を振った。「いや……やめておこう。それは君にとって不公平すぎる」「何を言おうとしたの?」ニナは焦ったように問いかける。「ごめん、さっきは君に『俺と一緒に来ないか』って言いかけたんだ」北斗は苦笑する。「でも分かってる。そんなのは俺のわがままだ。自分が君と離れたくないからって、君に故郷を離れさせて、あちこち連れ回すなんて――それはあまりにも不公平だ」ニナは呆然とした。確かに、これまで勢いで「一緒に行きたい」と思ったことはあった。けれど、いざ現実として突きつけられると――どうすればいいのか分からない。もし本当に彼について行けば、異国に行くことになる。どれくらい帰れないのかも分からない。両親が許すはずもない。自分だって、家を離れるのは怖い。でも――同じくらい、彼と離れるのも嫌だった。初めて好きになった人。しかも、その人も自分を好きだと言ってくれている。ここで手放してしまったら――きっと後悔するのではないか。「ニナ?」北斗の声が彼女を現実に引き戻す。「もう考えなくていい。俺はそんなふうに、君を巻き込むことはできない」彼はどこか哀しげな目で彼女を見つめ、そっと頬に手を伸ばした。「たぶん、俺たちは縁がなかったんだろうな。こんな形で出会うなんて……運命は残酷だ。だからせめて、俺が出発するまでの時間を、大切にしよう。いいか?」その言葉を聞いた瞬間、ニナは彼に強く抱きついた。涙が止まらない。北斗は彼女の涙を優しく拭う。その手つきは柔らかいが、目の奥には冷たい光が宿っていた。――この子が、期待を裏切らなければいいが……しばらくして、ニナはようやく顔を上げる。覚悟を決めたように目を閉じ、そのまま北斗の唇にキスをした。北斗は応じることも拒むこともなく、ただ、目の前で自分に一途な想いを向けるその少女を、冷めた眼差しで見つめていた。初めてのキスに緊張しているうえ、相手が反応しない。どう続ければいいのか分からず、ニナは軽く触れるだけで唇を離した。「もう遅い」北斗は穏やかに言う。「帰ったほうがいい。遅くなると、ご両親が心配する」「帰らない」ニナは必死に首を振った。「ここにいる。あなたのそばにいたいの」きっと両親も、彼の部屋にいることは分かっている。「でも……」北
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第725話

翌朝、ニナはうつむいたまま、足早に部屋を後にした。ちょうどそのとき、朝食を届けに来た刀傷の男と鉢合わせになる。頬を紅潮させたまま慌てて立ち去るニナの姿を見て、男の表情は一気に冷え込んだ。部屋に入ると、北斗はベッドにもたれかかるようにして横になっている。男はゴミ箱をちらりと見て、表情をさらに険しくした。「頭がおかしくなったのか?ここで余計な女に情を残すなって言ったはずだ」北斗は気にも留めず、軽く笑う。「同じ男なんだ、少しは理解してくれてもいいだろ?」「お前……!」刀傷の男は思わず殴りかかりたくなる。だが上からの指示を思い出し、怒りを押し殺して朝食を強くテーブルに置いた。「二日後、ここを離れる」男は冷たく言う。「次は別の国だ」「そうか」北斗は気だるげに応じた。「その女に付きまとわれないことを祈るんだな」そう言い捨て、刀傷の男は部屋を出ていった。北斗は皮肉げに笑う。――付きまとわない?そんなわけがない。なにせ、自分はニナを連れて行くつもりなのだから。……二日後の深夜。刀傷の男ともう一人が北斗を車に乗せ、自分たちも乗り込んでその場を離れた。すでに次の目的地は決めてあり、車内ではルートを相談している。刀傷の男はバックミラー越しに北斗を一瞥した。「お前があの女を引き寄せたせいで、こんな時間に出発する羽目になったんだ」ニナが北斗にしがみついて離れないことを警戒しているのだ。「そうか?」北斗は気のない返事をする。男はさらに文句を言おうとしたが、隣の男に軽く制され、しぶしぶ口を閉じた。夜通し走り、やがて夜明け前――人気のない路肩に車を止め、少し休むことにする。周囲には人影もなく、あらかじめ食料と水は用意してある。車を止めた直後、刀傷の男がふと眉をひそめた。「……何の音だ?」「何が?」「音がした。トランクの中からだ」彼の顔色が変わり、すぐに車を降りてトランクを開ける。――そして、目を疑った。中にいたのは、一人の女。ニナだった。「お前……!」刀傷の男は怒りに任せてニナを引きずり出す。「どうしてここにいる!誰に言われてついてきた!」ニナは怯えながら何かをまくし立てる。だが男は同時通訳用のイヤホンを持っておらず、言葉が分からない。その隙を突いて、ニナ
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第726話

刀傷の男は今にもニナを力ずくで引き離そうとした。だが、もう一人の男がそれを制し、横へ引き寄せる。「何で止めるんだ?こんな女を連れて行けるわけないだろ!伊集院の野郎、完全に女に溺れてやがる!こんな状況でまだ色気づいてるなんて!」「落ち着け」もう一人の男は比較的冷静だった。「さっき伊集院が言った通りだ。今ここで送り返したら、余計なトラブルになる可能性がある」刀傷の男は顔をしかめ、周囲の人影一つない景色を見渡し、歯を食いしばる。「なら……いっそここで――」「それは駄目だ」男は即座に否定した。「人が死ねば、もっと面倒になる。もし今ここで殺したら、親が連絡取れなくなって確実に警察に通報する。こっちはすでに指名手配の逃亡犯を抱えてるんだぞ。さらにこの国の警察に追われる気か?それに、生かしておけば、たまに親に無事だと連絡させて時間を稼げる」「じゃあどうする?ずっと連れていくのか?」「しばらくはな。ここから十分離れてから……」最後までは言わなかったが、刀傷の男には意味が分かった。――ここから十分に離れてしまえば、たとえニナの両親が警察に通報したとしても手遅れだ。この辺りの警察が、彼らを突き止めることはまず不可能だろう。「くそったれ、伊集院め……!」刀傷の男は吐き捨てた。内心の苛立ちは収まらない。「いい加減にしろ。いくら腹が立っても、伊集院には手出しできないだろ。上の命令、忘れたのか?」しばらくして気持ちを落ち着けた二人は、再び車に戻った。ニナは彼らの姿を見るなり、さらに北斗にしがみつく。「ついて来るってこと、親には伝えてあるのか?」刀傷の男が険しい顔で問いかける。ニナが何かを答えると、同時通訳用のイヤホンをつけている北斗が代わりに訳した。「しばらく旅行に出るってメッセージは残してあるそうだ。心配しないでくれ、警察にも連絡するなって伝えてある」「あとで音声でも一度連絡させろ」男はぶっきらぼうに言う。「それと、俺たちの居場所は絶対に漏らすなと伝えろ」「大丈夫だ、分かってる」北斗は笑った。「俺について来ると決めた以上、やるべきことは分かってるよ」刀傷の男は衝動的に殴りたくなるのを必死でこらえ、仲間に運転を続けさせた。もはや食事や休憩どころではない。車は再び走り出す。ニナは北斗に抱きつき、満ち足りた表情
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第727話

「今日、中島先生に聞いたんだがな」健司はベッドのそばに腰掛け、やさしい笑みを浮かべながら言った。「もともとは手術から二か月後に退院させる予定だったが、今の回復具合なら、もっと早く退院できそうだ」「それは嬉しいね」奈穂はほっと息をついた。みんなが気を遣ってくれて、入院生活もできるだけ退屈しないようにしてくれてはいる。それでも、やはり家で過ごすのとは違う。「奈穂がここまで回復してくれて、本当に良かった」健司は彼女の手の甲をそっと撫でた。「ただし、無理はするな。ダンスに復帰するのも、絶対に焦るなよ。分かったな?」「大丈夫だよ、ちゃんと分かってる」奈穂は言う。「せっかくここまで治ったんだから、また無理して台無しにしたくないし」「それならいい。おばあちゃんが君のために退院祝いをたくさん用意してる。退院して家に戻ったら見られるぞ」奈穂はにこにこしながら聞いた。「じゃあ、お父さんは?私に何を用意してくれたの?」「え、えーと……女の子が何を喜ぶかなんて分からなくてな。何も用意してない。家に帰って、おばあちゃんのを楽しみにしておけ」「えー、ひどい!」奈穂はわざと拗ねたふりをする。健司はそんな娘を、変わらぬやさしさで見つめていた。娘の右脚が完全に回復する――それは、亡き妻への想いを抱える中で、ようやく少しだけ心を軽くしてくれる出来事だった。それでも、妻への想いは日ごとに募るばかりだ。もし母と娘がいなければ、自分はとっくに……そのとき、病室のドアがノックされる。「水戸会長、水戸さん。面会の方がいらしています」ボディガードが声をかけた。「誰だ?」健司が問う。「『橘(たちばな)』と名乗っています」その一言で、健司の顔色が一変し、目の奥に苛立ちが浮かんだ。「橘……?」奈穂は少し考える。そんな名字の知り合いはいない気がする。父の様子もどこかおかしい。「お父さん、どうしたの?知ってる人?」健司は曖昧にうなずき、立ち上がった。「知ってはいるが、親しくはない。君は気にするな。俺が行ってくる」そう言って、足早に病室を出ていく。奈穂はその背中を見送りながら、首をかしげた。――何かおかしい。「橘」という女性は、一体誰なのか。健司は病室を出ると、すぐ近くに女性の姿を見つけた。整った顔立ちの女性が
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第728話

かつて、健司の妻が亡くなったあと、彼に言い寄ってきた人間は少なくなかった。女をあてがおうとする者もいれば、純粋に彼に好意を抱いて追いかけてくる者もいた。だが、そのすべてを彼はきっぱりと拒絶した。やがて彼が亡き妻に一途であるという話が広まり、次第に彼に近づく者はいなくなった。誰もが知っていたからだ。彼の心には、ただ一人、妻しかいないということを。この先の人生でも、彼が愛するのはその妻ただ一人。他の誰かと共に歩むことなどあり得ない。だからこそ、この数年、健司の周囲はそういう意味ではずっと静かだった。だが、しばらく前、あるパーティーで由香と出会ってしまった。彼女は何を思ったのか、突然彼を執拗に追いかけ始めた。はっきりと何度も断っているのに、まったく諦めようとせず、しつこく付きまとってくる。そして今度は、ついに奈穂の前にまで現れようとしたのだ。「もう帰れ」健司は冷たく言い放つ。「娘には会わせない」「どうして?」由香はなおも笑みを崩さない。「もしかして、私の存在を知られるのが怖いの?大丈夫よ、あの子ももう大人なんだし、きっと理解してくれるわ」「黙れ!」健司は怒鳴った。「俺と君の間には何もない!何度もそう言ってるだろう!」近くにいたボディガードたちが、思わずちらりと視線を向ける。ただならぬ空気が漂っていた。「分かったわ、分かった。今日は会わない。それでいいでしょ?怒らないで」そう言いながら、由香は手にしていた花束を差し出した。「じゃあ、これだけ渡してくれる?せめて気持ちくらいは伝えさせて」健司は受け取るどころか、一歩後ろに下がった。「必要ない。娘と君が関わることは今後一切ないし、君の気持ちを受け取る必要もない。これ以上居座るなら、ボディガードに外へ放り出させる」「……もう」由香はため息をつき、名残惜しそうに彼を一瞥すると、ようやくその場を去った。健司は深く息を吸い、顔に浮かんでいた嫌悪と苛立ちを押し隠してから、病室へ戻る。本人はうまく隠したつもりだったが、奈穂には一目で分かった。「お父さん、大丈夫?」彼女は心配そうに見つめる。「何かあったの?」「いや……」健司はできれば話したくなかった。こんな面倒な話を娘に聞かせたくないし、何より――この年で女性に口説かれているなど、どこか気恥ず
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第729話

健司としては、宋原家の顔も立てなければならなかった。ましてや宋原家の息子・雲翔は、自分の未来の娘婿と幼い頃からの親友でもある。だからこそ、このところ健司はひどく苛立っていた。それでも、奈穂が手術を終えたばかりの今、彼女の前でそんな感情を見せるわけにはいかない。由香にもすでに警告してあった。奈穂の前には現れるな、と。それなのに、あの女は平然と病院に現れた。今日たまたま自分がいたからよかったものの、もし不在だったら――事情を知らない奈穂は、由香をそのまま中に入れていたかもしれない。あの厚かましい性格だから、何を吹き込むか分かったものではない。「宋原家の親戚だったんだね」奈穂は納得したように言った。「奈穂、もし今後またあいつがお前のところに来たら、相手にするな。追い払えばいい」「大丈夫だよ」奈穂は笑う。「もう子どもじゃないし、どう対応すればいいかくらい分かってる。それより、お父さんこそあまり気にしすぎないで。もしかしたら、ただの気まぐれで、しばらくしたら諦めるかもしれないし」健司は苦笑した。「そうだといいがな……」だが実際には、奈穂の手術前からすでに付きまとわれており、手術後しばらく経った今でも、由香に引き下がる様子はない。考えるだけで、気が滅入る。……病院を後にした由香は、その足で雲翔の母・智子とアフタヌーンティーに向かった。今回も健司に冷たくあしらわれたことで多少は落ち込んだものの、すぐに気持ちを切り替える。彼女はずっと思っている。健司はただ長い独り身に慣れすぎていて、まだ自分を受け入れられないだけだ、と。もう少し時間が経てば、きっと考えを改めて、自分を受け入れるはずだと。四十歳とはいえ、自分はちゃんと手入れもしているし、今でも十分きれいだ。どうして健司が自分と再婚し、これからの人生を共にしようと思わないのか、理解できなかった。――まさか、本気で一生やもめのままでいるつもり?智子と顔を合わせると、由香はすぐに笑顔になり、親しげに腕を取った。「お姉さん、久しぶりね。一緒にお茶するのが」「もう、聞いてよ……」智子は深いため息をつく。「最近、雲翔のことで頭が痛くて仕方ないの」「どうしたの?」「座ってから話すわ」二人は窓際の席に腰を下ろした。だが席に着くと、智子
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第730話

「でもね……分かるでしょ?九条家と水戸家はもうすぐ縁談が決まるのよ。それにうちの雲翔は正修の親友でしょう?あなたの今の行動、うちとしては正直立場が難しいの」その言葉に、由香ははっとした。――なるほど。どうして智子がわざわざ今日、自分を誘ってお茶に来たのか。その理由がようやく分かった。だが同時に、不快感も湧き上がる。自分の恋愛に、どうして他人が口を出すのか。由香は何も言わず、ただ紅茶を口に運んだ。智子はその様子を見て、わずかに眉をひそめる。別に恋愛を止めたいわけではない。だが、健司がまったくその気がなく、むしろ迷惑に感じていると聞いている以上、それでもなお付きまとうのは、どうなんだろう。このままでは、水戸家と宋原家の関係まで気まずくなりかねない。もう一言、忠告しようとしたそのとき――由香の視線がふと智子の背後へ向き、目を見開いた。「お姉さん、見て。あれ、雲翔じゃない?」「え?」智子は振り返る。店の入口近くで、確かに雲翔が若い女性と話しているのが見えた。「雲翔、恋人がいるって聞いたけど……あの子が彼女?綺麗だし、雰囲気もいいわね」由香は笑う。「違うわ」智子は雲翔と話しているあの女性を見つめながら言った。――あれは若菜ではない。「違うの?結構お似合いに見えるけど……」雲翔はその女性と長く話すことなく、すぐに別れた。どうやらカウンターへ向かうところだったが、そのとき智子と由香に気づく。一瞬驚いたような表情を見せた後、彼は二人のもとへ歩いてきた。「母さん、おばさん」「まあ、こんなところで会うなんてね」由香はにこやかに応じる。「本当だね、偶然だ」雲翔は軽く笑った。智子は不機嫌そうに「ふん」と鼻を鳴らす。「母さん……」雲翔は頭をかきながら、視線を逸らした。彼がここに来たのは、若菜がこの店のケーキを食べたいと言ったからだ。わざわざ自分で買いに来たのだが、それを母に知られれば、また小言を言われるに違いない。「さっきの女の子、誰なの?」智子が突然問いかける。「え?ああ……黒沢さんのこと?」雲翔は笑った。「あの人、一応バーのオーナーだよ。『女の子』って呼ぶのはちょっと失礼じゃないか」「親しいの?」一瞬、雲翔の表情がわずかに曇った。「まあ……そこそこ」あの一件
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