All Chapters of ワンナイトから始まる隠れ御曹司のひたむきな求愛: Chapter 111 - Chapter 120

154 Chapters

112:三角関係の頂点

 プロジェクトは佳境を迎えていた。この日、キックオフ以来の大きな節目となる、K-Tech社とクロフト博士も参加するリモート戦略会議が開かれた。 ガラス張りの会議室の空気は、期待と緊張で張り詰めている。その中心で、リーダーとしてモニターの前に立つ美桜の姿があった。彼女は堂々とした態度で、先日来の課題であったAIの学習モデルに関する最終提案を、自らの言葉で澱みなく説明していく。「――以上が、フェーズ2におけるAIの自律学習モデルの最適化案です」 説明を終えた瞬間、モニターの向こうから、腕を組んだクロフト博士の鋭い声が飛んだ。「高梨リーダー。君の理論は美しいが、机上の空論だ。そのモデルでは、市場の突発的な『ノイズ』――例えばSNSでの炎上による瞬間的な需要変動――に対応しきれず、大規模な誤発注を引き起こす危険性がある。そのリスクをどうヘッジするのか?」 このプロジェクトの根幹を揺るがす、極めて専門的かつ意地悪な質問。チームのメンバーたちが息を呑む。 しかし美桜は動じなかった。「ご指摘、ありがとうございます。博士のおっしゃる『ノイズ』への対策ですが、お手元の資料34ページをご覧ください。通常の学習モデルとは別に、SNSのトレンドワードをリアルタイムで解析する『センチメント分析エンジン』を並行稼働させます。これにより、AIは論理的な需要予測と、人々の感情的な消費行動という、二つの異なる軸で判断を下します。いわば、AIに『直感』を持たせる試みです」 美桜の凛とした声が会議室に響き渡ると、完全な沈黙が落ちた。モニターの向こうのクロフト博士は、眉間に深く刻まれたしわもそのままに、じっと美桜を見つめている。彼の探るような視線に誰もが固唾を呑んだ。 不意に、博士の厳格な表情がふっと緩んだ。そして滅多に見せることのない、心の底から楽しそうな笑い声を短く漏らした。「はっ……面白い。実に面白い。高梨リーダー、君はAIに『詩』を教えるつもりか。論理とデータの集合体であるAIに、市場という名の『感情』を読ませようという発想。クレイジーだが、最高に刺激的だ。このプロジェクト、君がリーダーで正解だったようだ」
last updateLast Updated : 2025-11-13
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 K-Tech社の中村が、興奮を隠せない様子で身を乗り出した。「高梨リーダー、素晴らしい! その発想があれば、市場の不確定要素というリスクを、我々の独壇場となるビジネスチャンスに変えられる!」 モニターの向こうでは、蒼也が「見事だ、高梨さん」と呟いて、満足げに頷いている。 そして隣に座る陽斗。彼は、まるで自分のことのように誇らしげに胸を張り、テーブルの下で固く拳を握りしめていた。そのまっすぐで熱烈な眼差しが、「先輩が世界で一番すごいです」と何よりも物語っている。 チームのメンバーたちからも、「すごい……」「まさか博士を納得させるなんて……」という囁きが聞こえ始め、やがてそれは割れんばかりの拍手へと変わった。儀礼的なものではない。心からの尊敬と賞賛が込められた、熱い拍手だった。 その輪の中で、翔と玲奈だけが苦虫を噛み潰したような表情で身を強張らせている。 美桜は降り注ぐ賞賛の音を浴びながら、初めて自分の力で勝ち取った手応えに、胸が熱くなるのを感じていた。◇ 会議室が、安堵のため息と興奮のざわめきに包まれた。張り詰めていた空気が一気に解けて、メンバーたちは口々に美桜の功績を称えながら、高揚した表情で席を立ち始める。美桜もようやく肩の力を抜き、熱くなった頬を冷ますように小さく息を吐いた。「先輩」 ふと、すぐ隣から低い声で呼ばれて顔を上げる。そこに立っていた陽斗の表情に、美桜ははっと息を呑んだ。 陽斗にいつもの人懐っこい笑顔はない。彼の瞳の奥には、これまで見たことのないような、抑えきれない感情の光が宿っていた。 陽斗が美桜の腕に手を伸ばす。その指先は、わずかに震えているようにも見えた。「先輩、少しだけ……二人で話せますか」 ひどく真剣な声だった。 周囲の喧騒が、急に遠くなる。美桜が何かを言う前に、陽斗は彼女の手を掴むと、周囲に気づかれないよう会議室を抜け出した。 美桜は強い引力に抗うことができず、手を引かれるままに人気のない廊
last updateLast Updated : 2025-11-13
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「今日の会議、本当にすごかったです。誰よりも輝いていて、かっこよくて……。みんなが先輩を見てた。それが、すごく誇らしかった。でも……」 彼は言葉を切り、悔しそうに唇を歪める。「でも、同時に、すごく怖くなったんです。先輩が、俺の手の届かない、遠い場所へ行ってしまうんじゃないかって」 同時、陽斗は美桜のすぐ横の壁に、片手をついた。 逃げ場のない至近距離。彼の体温と、わずかに乱れた呼吸がすぐそばに感じられる。美桜は冷たい壁と彼の熱との間で、身動きが取れなくない。 心臓の音が、耳の奥でうるさいくらいに鳴り響いている。 陽斗は燃えるような瞳で美桜を見つめながら、ほとんど懇願するような声でささやいた。「嫌です。他の誰にも、渡したくない。先輩は……俺だけの先輩でいてほしいんです」 いつも美桜を支えてくれた彼の優しさ。 美桜を誰にも渡したくないという、初めて見せる激しい想い。その二つが陽斗の眼差しから、美桜へと注がれていた。(陽斗君……) 情熱的な告白に、美桜の思考は完全に止まってしまった。何かを言わなくてはと思うのに、喉が詰まって声にならない。ただ、彼の熱に浮かされたように、その瞳を見つめ返すことしかできなかった。◇ 美桜は自席に戻り、高揚した気持ちを抑えるように深く椅子に腰掛ける。するとそのタイミングで、デスクの隅に置いていた私用のスマートフォンが、短く震えた。 画面に表示された通知に、美桜は目を見開く。プライベートなメッセージアプリの送り主は、『如月蒼也』だった。(どうして、会社のチャットじゃなくて、こっちに……?) 戸惑いながらもメッセージを開くと、そこには短いながらも彼の率直な賞賛の言葉が綴られていた。『今日の君は、僕が見込んだ通りの、いや、それ以上のリーダーだった。素晴らしいよ』 飾り気のない言葉が、じわりと胸に沁みる。陽斗がくれる太陽
last updateLast Updated : 2025-11-14
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 蒼也からの着信。タイミングの良さに、美桜は思わず小さな声を上げた。 周囲の同僚が訝しげにこちらを見ている。美桜は慌てて「すみません」と小さく会釈すると、人目を避けるように廊下の隅へ移動した。まだ鳴り続けている通話ボタンを恐る恐るスライドさせる。「も、もしもし……」 声が、少し上ずっているのが分かった。 耳に当てたスマートフォンから、蒼也の低く落ち着いた声が聞こえてくる。その声にはどこか楽しんでいるような、微かな笑みの色があった。「高梨さん? 僕だ。少しだけ、声が聞きたくなった」 彼の声は、周囲の喧騒を気遣うように低く抑えられている。しかし口調に迷いはなく、一言一言がはっきりと耳に届いた。「美桜さん、君はもう三ツ星商事という小さな池にいるべきじゃない」「え……?」 唐突な言葉に、美桜は言葉を失う。スマートフォンの冷たい感触だけが、やけに現実的に感じられた。 蒼也は美桜の戸惑いを意に介さず、続ける。「君の才能が本当に花開く場所は、もっと広くて、速い流れの中だ」(私の、才能……) 翔は私の能力をただ利用しただけだった。(でも蒼也君は、私の可能性を信じてくれている?) それは美桜が心の奥底でずっと求めていた、渇望にも似た承認だった。 そうして一瞬の沈黙の後。 電話の向こうで蒼也が息を吸う、ごくわずかな音が聞こえた。彼の声のトーンが少しだけ低く、個人的な響きを帯びる。「僕は、高校の時からずっと君を見てきた。君のその才能が、誰にも正当に評価されずに、窮屈そうにしているのを。……もう、見ていられないんだ」 美桜の心臓が大きく跳ねる。 これはただの仕事の話ではない。「君が最も輝ける場所は、僕の隣だ。……美桜さん、僕の隣で、本当の君になってほしい」(蒼也君の、隣……) 
last updateLast Updated : 2025-11-14
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 その夜、美桜はアパートの部屋で窓の外の夜景を見つめていた。テーブルの上には、陽斗との思い出が詰まったオフホワイトのマグカップと、蒼也との時間を象徴するギャラリーのパンフレットが並んでいる。 陽斗を思うと胸が温かくなる。絶望から救ってくれた恩人。一緒にいると心から笑える、陽だまりのような存在。彼を失うことなど考えられない。 蒼也を思うと背筋が伸びる。自分の能力を信じ、未知の世界を見せてくれる存在。彼の隣にいれば、もっと輝ける自分になれるかもしれないという期待。(陽斗君のいない日常なんて考えられない。でも蒼也君が提示してくれた未来に、こんなにも心がときめいている……。私、どうしたらいいの……) 陽斗がくれる、陽だまりのような温かさ。 蒼也が見せてくれる、新しい世界の眩しさ。 どちらも、今の美桜にとってはかけがえのないものだった。 簡単に選ぶことなどできるはずもない。 美桜は答えを出せないまま、ただ窓の外に広がる夜景を見つめていた。 ◇  美桜がクロフト博士を相手に見事な切り返しを見せ、会議の主役となった日から数日後の夜。 翔は新橋のガード下にある煙たい居酒屋のカウンターで、一人で焼酎のグラスを煽っていた。安酒が喉を焼く。テレビの野球中継の騒々しい音も、周囲のサラリーマンたちの楽しげな笑い声も、今の彼にはただ耳障りなだけだった。(くそっ、美桜のやつめ……! あの恩知らず、俺の顔に泥を塗りやがって!) 美桜、陽斗、蒼也。あの三人が組んで自分を追い詰めている。営業部エースとしての地位もプライドも、すべてが崩れ落ちていく感覚。その怒りと焦りが、翔の心を黒く塗りつぶしていた。 翔が焼酎のグラスを空にした時だった。 居酒屋の油と煙の匂いが染みついた空気の中に、場違いなほど軽やかなヒールの音が響く。入り口に立ったのは、華やかなワンピースに身を包んだ玲奈である。 彼女は汚れた床を見下ろして眉をひそめる。うんざりした様
last updateLast Updated : 2025-11-15
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116:最後の罠

「噂とか、会議での嫌がらせとか。そんな生ぬるいことしてるから、高梨先輩にいいようにやられるのよ。見てなさい、このままじゃ翔さんは、ただの『元カノに負けた男』で終わるわよ」「何だと……!」 翔が玲奈をにらむが、彼女は全く動じない。玲奈の目は、獲物を見定める爬虫類のように冷え切っていた。彼女は身を乗り出し、翔にしか聞こえない声で囁く。「私に、いい考えがあるの」 玲奈は赤いネイルが施された指先で、グラスの水滴をなぞる。「私の元カレ、ちょっとワケありでね。腕はいいんだけど、アングラな仕事をしてるITエンジニアなの。彼ならうちの会社のサーバーにだって、外からこっそり侵入できる」 彼女が提案したのは、元カレの技術を使って会社のセキュリティログを操作するという、犯罪行為そのものだった。 美桜のPCから、会社の外部サーバーへ機密情報が送信されたように見せかける、完璧な偽装工作。玲奈の口元には、悪魔的な笑みが浮かんでいた。「さすがにそこまでは。そんなこと、バレたらクビじゃ済まないぞ」 翔の声はかすかに震えていた。これは社内政治の駆け引きではない。一線を越えた犯罪だ。 ためらう翔の頬に、玲奈はそっと手を添えた。慰めるようでありながら、拒絶を許さない響きを持っていた。「バレなきゃいいのよ。それに、もう後がないでしょう? ここで高梨先輩を引きずり下ろさなきゃ、翔さんの未来はない。あなたは、このまま負け犬で終わるつもり?」 その言葉が、翔の最後の理性を焼き切った。 脳裏に、自分を賞賛の目で見つめる役員たちの顔が浮かぶ。それから一転、自分を追い抜いて嘲笑うかのように輝いている美桜の姿。 称賛していた役員や同僚たちが、最近は冷たい目を向けてくる。美桜は活躍する一方だとというのに、翔はどんどん落ちぶれていく。(あいつの成功は、俺のおかげなんだ。それなのにどいつもこいつも、俺をバカにしやがって!) 屈辱が恐怖を上回った。「いいだろう。やってやろうじゃないか」 翔は残っていた焼酎を一気に飲み干すと、グ
last updateLast Updated : 2025-11-15
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 先々週末、陽斗が作ってくれたオムライスのあの優しい卵の味。隣で笑いながらラグビーの話をしていた時の彼の少年のような横顔。思い出すと、胸の奥に陽だまりのような温かい場所が広がる。彼と一緒にいる時の、ありのままの自分でいられる安心感。 すると今度は、蒼也と訪れたギャラリーの、ひやりとした静寂が蘇る。美桜の知らない世界を、的確な言葉で解き明かしてくれた彼の低い声。バーで隣に座った時に感じた、洗練された香水の香り。思い出すと、背筋が伸びるような心地よい緊張感と共に、未知への扉が開くような高揚感が胸をよぎる。 温かさと高揚感。安心と緊張。 全く質の違う二つの感情が、代わる代わる心に押し寄せては、彼女を混乱させる。 落ち着かない心の揺れを振り払うように、美桜は目の前の数字の羅列に意識を強制的に引き戻した。(だめ、だめ。今は仕事に集中よ) 複雑な感情から逃れるために、仕事に没頭するしかなかった。 ――と。美桜は営業部のデスクの方から、突き刺さるような視線を感じた。ふと顔を上げる。そこには、こちらを憎しみに満ちた目で見つめる翔と玲奈の姿があった。(何かしら。あの二人、前と雰囲気が違う気がする) 彼らの空気がこれまでとは違う危険なものであることを、美桜は直感的に感じていた。◇ 午後、プロジェクトの資料に集中していた美桜は、デスクの横に人の気配を感じて顔を上げた。 そこに立っていたのは、玲奈だった。だがいつもの彼女とはまるで違っている。完璧にセットされているはずの髪は少し乱れ、華やかなはずのメイクの下の肌は青ざめている。彼女は何か言いたげに唇を震わせて、美桜の視線に気づくと、怯えたようにわずかに肩を揺らした。(河合さんの様子がおかしい) 美桜は警戒心を解かずに、目線で言葉の先を促した。「高梨、先輩……」 細くすがるような声だった。「少しだけ……お時間を、いただけませんか」 ただならぬ様子に、美桜は頷くしかない。二人が向かったのは
last updateLast Updated : 2025-11-16
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「先輩が、翔さんの過去の失敗を全部まとめた『秘密のファイル』を持ってるって言うんです。それを役員に見せて、翔さんを会社から追い出すつもりだって、思い込んでるみたいで……」(秘密のファイル? 何の話? そんなもの、あるわけがない) 突拍子のない話に、美桜は眉をひそめる。「待って、河合さん。何の話? 秘密のファイルなんて、あるわけないでしょう。私はそんなこと、絶対にしない」 きっぱりと否定する美桜に、玲奈は泣きじゃくりながら一歩近づいた。「でも、今の翔さんには何を言っても無駄なんです! 『プロジェクトのデータをめちゃくちゃにしてやる』って、昨日の夜も息巻いていて。お願いです、先輩! このままじゃ、先輩だけじゃなくて、チームのみんなの努力が壊されちゃう!」 玲奈は泣きながら美桜に取りすがった。 美桜は戸惑いとうんざりした気持ちがないまぜになる。「お願いです、先輩。このままでは、彼が本当にプロジェクトの妨害をしかねません。リーダーである先輩から、翔さんに直接『ファイルなんてない』とPCを見せて、彼の妄想を解いてあげてください。プロジェクトを守るために、お願いします!」 玲奈の言葉に、美桜は固く唇を結んだ。(また翔の問題。どうして私が対処しないといけないのかしら) 苛立ちがこみ上げる。だが玲奈がしゃくり上げながら続けた「プロジェクトのデータをめちゃくちゃにしてやる、と翔さんが……」という言葉が、美桜の思考を個人的な感情から、リーダーとしての判断へと切り替えさせた。(これはもう、ただの痴話喧嘩じゃない。プロジェクトそのものへの、明確な妨害予告だ) リーダーとして、チームの成果を脅かすリスクを放置することできない。ここで翔の暴走を止めなければ、被害はチーム全体に及ぶ。(陽斗君に相談する? ……ううん、だめ) 真っ先に彼の顔が浮かんだが、すぐにその考えを打ち消した。これ以上、彼を美桜の過去に付き合わせるわけにはいかない。それに、嫉妬に駆られている翔の前に陽斗を連
last updateLast Updated : 2025-11-16
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 夜8時。ほとんどの社員が帰宅して、静まり返ったオフィスの一角。プロジェクトルームの明かりだけが煌々と灯っていた。美桜はその中央に一人で立っていた。(これで、このくだらない騒動も終わりになる) リーダーとして、この問題を解決する。その決意だけが、彼女をこの場に立たせていた。 やがてドアが乱暴に開けられる。息を切らした翔が、血走った目で部屋に飛び込んできた。一歩遅れて、彼を心配するそぶりを見せる玲奈が続く。 翔はわざとらしく乱れた髪をかきむしりながら、震える指を美桜に向けた。「お前……! やはりいたか。俺を陥れるためのファイルを、ここで作っていたんだろう!」 芝居がかった怒声に対し、美桜は冷静だった。彼女は首を横に振る。「翔、落ち着いて。あなたの妄言に付き合うのは、これで最後にするわ」 彼女は毅然とした態度で自分のノートパソコンを手に取ると、大型モニターの前に立った。ケーブルが「カチリ」と音を立てて接続され、美桜のデスクトップ画面が巨大なモニターに映し出される。その一連の動作に、一切の迷いはない。 美桜は翔と、その背後で怯えた表情を作る玲奈に向き直り、モニターを指し示した。「見て。これが私のPCの全データ。あなたの言う『秘密のファイル』なんて、どこにも存在しない。これで、分かっ……」 その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。「そんなはずはないッ!」 叫び声と共に、翔が美桜を全体重をかけて突き飛ばしてきた。「きゃっ!」 予期せぬ衝撃に、美桜の体は簡単によろめいた。デスクの角に腰を強かに打ち付ける。一瞬、視界が白く飛んだ。 美桜は大勢を立て直すために顔を上げる。するとPCの方から「カチリ」と、何かが差し込まれる小さな音が届いた。視界の端では、玲奈が素早く動く影が見えた。(……今の音は何?) だが美桜が音の意味を理解するよりも早く、玲奈はすでにUSBメモリを高々と掲げていた。 赤いネイルに挟まれた黒
last updateLast Updated : 2025-11-17
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「何事だ!」 そこに立っていたのは、営業部長と、厳しい顔つきのセキュリティ担当者。どちらも翔が事前に連絡して呼び出していたのだ。 翔は今度は正義の告発者の仮面をかぶり、震える指で美桜を指差した。「部長! ご覧ください! 高梨が、会社の最重要機密を外部に持ち出そうとしています!」 美桜の視界に全ての登場人物が映る。彼らは、それぞれの役割を演じきった役者のように見えた。 玲奈の唇が、勝ち誇った笑みを浮かべている。 その隣で翔は侮蔑の色を隠そうともせず、歪んだ口元で美桜を見下している。 部屋の入り口に立つ部長とセキュリティ担当者の目は、既に罪人を見るかのように冷え切っていた。(ああ、そうか) 玲奈の不自然な涙と、翔の芝居がかった怒り。人気のない夜のオフィスという舞台設定。完璧すぎるタイミングで現れた証人たち。 バラバラに散らばっていた点と点が、美桜の頭の中で一本の線で繋がった。(全部、仕組まれていたんだ……) 全身から急速に血の気が引いていく。ただの不運な事故などではなかった。初めから終わりまで、美桜を社会的に抹殺するためだけに、計算され尽くした罠だったのだ。◇ 美桜は、セキュリティ担当者に両脇を固められるようにして、小さな会議室へと連行された。そこは普段プロジェクトで使うガラス張りの部屋とは違う、窓のない小さな部屋だった。 白い壁とスチールの長机、パイプ椅子が数脚あるだけの殺風景な空間。部屋の空気がやけに冷たく感じられた。 長机の向こう側には、部長と、初老のコンプライアンス担当役員が座っている。部長は気まずそうに視線を泳がせて、役員は感情の読み取れない無表情で美桜を見ていた。「高梨主任、座りなさい」 役員の低い声が響く。美桜がパイプ椅子に腰を下ろすと、机の上に一つの証拠品が置かれた。玲奈が掲げていた、あの黒いUSBメモリだ。「まず、これについて説明してもらおうか。セキュリティ担当者が中身を確認したところ、プロジェクトの最重要機密である
last updateLast Updated : 2025-11-17
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