All Chapters of ワンナイトから始まる隠れ御曹司のひたむきな求愛: Chapter 31 - Chapter 40

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31:罪悪感の朝2

「お願い……」 美桜は懇願するように言った。「会社では、今まで通りにしてください。何もなかったことにして。お願い……」 美桜は陽斗が何かを言い返す前に、逃げるように部屋を飛び出した。 一人残された部屋で、陽斗は彼女が閉めたドアを見つめることしかできなかった。 美桜の心には翔への絶望に加えて、陽斗への罪悪感という新たな重荷がのしかかっていた。◇ 愛する人を腕に抱いた一夜が明けて、陽斗はこの上なく幸せだった。(そりゃあ本当は、ちゃんと告白して付き合ってから寝たかったさ。でも先輩は、俺を求めてくれた。拒まなかった。弱っているところにつけ込んで、卑怯だったかなとは思うけど……。あんなに弱っている先輩を、放っておけるわけはない。少しでも慰めになれたなら、それでいい) 腕の中で眠る美桜は、ひどく無防備だ。涙の跡が残る頬は痛々しいけれど、寝顔はとても可愛らしくていつまでも眺めていられる。 と。彼女が少し身震いをしたので、陽斗は部屋着のスウェットを引っ張り出して、着せてやった。(彼シャツならぬ、彼スウェット。うう~、先輩が俺の服を着ているだけで、こんなに幸せだなんて) 笑みがこぼれるのを止められない。 床に転がっていた美桜のワンピースを拾い上げ、畳んでソファの上に置く。冷蔵庫のミネラルウォーターを飲んで、またベッドに戻った。「先輩、これからは俺があなたを守ります。あなたを傷つけるものは、もう何もない。心配いらないですから」 美桜の髪に鼻先を寄せると、いい匂いがした。 陽斗は幸福感に満たされながら、もう一度まどろみ始めた。 ――ところが、目を覚ました美桜は出ていってしまった。 罪悪感に顔を青ざめさせて、逃げるように部屋を去っていった。「先輩の誠実さと真面目さを軽く見てしまった、か。そんなところも好きだけど……」 陽斗は肩を落とす。けれどすぐに目を上げ
last updateLast Updated : 2025-10-01
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32:空席の隣

 週明け、月曜の朝。オフィスには重苦しい空気が漂っていた。 昇進祝賀会で、誰もが佐伯翔の隣に河合玲奈がいたこと、そして高梨美桜が途中からパーティを退出したことを知っている。 朝礼の場で部長がわざとらしく咳払いを一つしてから、声を張り上げた。「皆に報告がある! 日頃から我々営業企画部と密に連携してくれている、営業部の佐伯課長が、同じく営業部の河合玲奈さんと先週末、婚約したそうだ! めでたいことだ、皆で祝ってやろう!」 部長のその言葉に、フロアは一瞬静まり返った。社員たちの視線が祝福されるべき主役の翔ではなく、彼の元恋人である美桜へと向けられる。同情しているものもあれば、探っているような視線もあった。 沈黙を破ったのは、翔の取り巻きである若手社員だった。 彼は営業部の方に手を振る。「お、おめでとうございます、課長!」 その声を合図にぱらぱらと、思い出したかのような拍手が起こった。心からの祝福とは程遠い、義務的で冷めた響きをしていた。 拍手と賞賛の裏で、ひそひそと囁き声が交わされる。 女性社員が隣の同僚に小声で囁いた。「嘘。婚約って、早くない? 高梨さんと別れたばっかりなのに……」「そもそも別れてたの? ついこの間、まだ同棲してるって聞いたけど」「佐伯課長は、高梨さんを捨てたのかしら? 見る目なさすぎ」 男性社員も呆れたように呟いた。「部長も、もうちょっと配慮すればいいのにな。公開処刑だろ、これじゃ」 隣の部署の女性社員のひそひそ声も聞こえる「やっぱりあの噂、本当だったんだ。河合さん、お腹大きいとか……?」「浮気も最低だけど、河合さんも略奪なんてよくやるよね」 気まずい空気の中、美桜はPCの画面だけを見つめていた。指先が氷のように冷たくなっている。祝福の言葉も、好奇の視線も、同情の囁きも、何もかもが彼女の心を傷つけてくる。 唯一の慰めは、営業企画部の同僚たちは美桜の人柄と仕事ぶりをよく知っていること。そのために彼女が
last updateLast Updated : 2025-10-02
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33:空席の隣2

「先輩、ここ、いいですか?」 その瞬間。美桜のテーブルの周囲だけ、社員食堂の喧騒が嘘のように静まり返った。箸を置く音、驚きに目を見開く顔、それにあからさまな好奇の視線が交差する。 すぐに囁き声の波が広がっていくのが、肌で感じられた。 近くにいた若い女性社員たちの声が聞こえる。「ちょっと見て、一条君、高梨さんのとこ行ったんだけど」「うそ、マジで? 勇気あるっていうか、何も考えてないっていうか」 少し離れた席のベテラン男性社員たちは、こんな事を言っていた。「一条君、男気あるな。あんな状況で、堂々と」「ああ。佐伯課長、あれ見たらまたキレるんじゃないか? 面倒なことになるぞ」 カウンター近くの他部署の女性たちも言う。「高梨さんも気の毒にねぇ……。あんな風に婚約発表されちゃって」「でも、火のない所に煙は立たないって言うし。なにかあったんじゃない?」 悪意、同情、好奇心。無数の感情が渦巻くその中心で、美桜は身を固くする。全ての視線と噂話が、彼女のプライドをじりじりと焼いていくようだった。「一条君。やめておいた方がいい。私と一緒にいると、あなたまで変な噂を立てられる。それに私、会社では関わらないでと言ったよね?」 美桜は心を押し殺して、小声で言った。 美桜の懇願に、陽斗は一瞬きょとんとした顔をした。そして自分のトレーの上にある唐揚げ定食に視線を落とすと、わざとらしくお腹を押さえる。「噂ですか。うーん? でも、腹が減ってる方が、俺にとってはよっぽど重大な問題です」 あまりにも堂々とした、少しだけとぼけた態度。明るく朗らかな態度で、彼女の周りに張り巡らされていた見えない壁を、いとも簡単に壊していく。 陽斗の行動は、「俺は噂なんて気にしないし、あなたの味方だ」と言葉以上に伝えていた。 彼は美桜の返事を待たずに、当然のように向かいの席に座る。 美桜の皿を覗き込んで、人懐っこい笑みを浮かべた。「あ、そのカボチャの煮物、美味しいですよね
last updateLast Updated : 2025-10-02
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34:プラネタリウムの星々

 週末、美桜は陽斗に連れられて、都心にあるプラネタリウムに向かっていた。 陽斗が運転する高級ドイツ車の助手席は、革のシートが柔らかく、乗り心地は最高だった。車内に流れるのは、陽斗が選んだという洋楽の落ち着いたアコースティックギターの音色。「この曲、いい曲だね」「先輩が好きかなと思って。俺も、最近よく聴いてるんです」 はにかむように言う陽斗の横顔を、美桜はそっと盗み見る。今日の彼はいつにも増して嬉しそうだ。運転するその口元は、自然と綻んでいる。「……そんなに嬉しい?」 思わず美桜の口から言葉がこぼれた。「え?」「ううん、なんでもない。嬉しそうだなと思って」 陽斗は一瞬きょとんとした後、観念したように少し照れた顔で白状した。「はい。嬉しいです」 信号が赤になり、車が滑るように停まる。彼は美桜の方へ向き直った。「先輩が、俺の誘いに乗ってくれたのが、本当に嬉しいんです。……断られるのも、覚悟してたんで」 素直な言葉。子犬のように感情を隠さないまっすぐな瞳。 美桜は自分の頬が熱くなるのを感じて、慌てて窓の外に視線を逸らした。「断ろうと思ったのよ。この前、あんなことがあったばかりだから」「何度でも言いますが、俺は気にしていませんよ」「私が気にするのよ。でもね……」 社内の息苦しい空気の中、陽斗の純粋な好意だけが救いだった。陽斗の存在が少しずつ確実に、美桜の心の凍てついた部分を溶かしていく。 車が再び走り出して、プラネタリウムの丸いドームが見えてきた。 ざわついていた心が、静かで涼しいドームの中に足を踏み入れた瞬間、すっと静まっていく。リクライニングシートに深く身を沈めると、頭上に満天の星空が広がった。 ドーム内が完全な闇に包まれると、心地よいアルトの女性ナレーターの声が、静かに響き渡った。『ようこそ、星の世界へ。今宵は皆さまを、星々が生まれ、そして死んでい
last updateLast Updated : 2025-10-03
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35:嫉妬の影

 三年間彼の成功を支えて、隣で輝くことが彼女の永遠だと信じて疑わなかった。 やがて映像の中の星が、赤く大きく膨張を始める。命の終わりが近づいているのだ。『しかし、永遠に輝き続ける星はありません。いずれ星はその命の終わりに、自らが持つ最後の光を全て解き放ち、宇宙で最も美しい光景の一つを描き出します』 スクリーンいっぱいに、色とりどりの光が爆発するように広がった。声も出ないほど美しい、星の最期の姿。美桜はその光景に釘付けになる。『私たちが今、夜空に見上げている星の光は、何万年も何億年も前に放たれたもの。もしかしたら、その光の故郷である星そのものは、もうこの宇宙に存在しないのかもしれません。ただその輝きの記憶だけが、長い旅をして私たちの目に届いているのです』 その言葉が、美桜の心に深く突き刺さった。(私の恋も、同じだ……) もう終わってしまった。翔の心は、もうここにはない。それでも、楽しかった記憶や、裏切られた痛みの「光」だけが、今もこうして美桜の心に届き続けている。 気づくと、美桜の頬を涙が静かに伝っていた。それはこの前のような絶望の涙ではなく、長くて辛い旅を終えた光をやさしく受け止めるような、穏やかで心が浄化されていく涙だった。◇ 上映後、二人は併設のカフェでコーヒーを飲むことにした。美桜は、久しぶりに心が晴れやかになっているのを感じていた。「ありがとう、陽斗君。すごく……綺麗だった。少しだけすっきりした、かも」「先輩には、笑っていてほしいですから」 陽斗は、少し照れたように言った。「俺、先輩が眉間に皺を寄せてる顔より、笑ってる顔の方が、100倍好きです」 彼はコーヒーカップを置くと、テーブルの上で美桜の手にそっと自分の手を重ねた。驚いて手を引こうとする美桜を、彼は少しだけ強い力で制する。「改めて言わせてください。俺、先輩のことが本気で好きです。だから、先輩が元気じゃないと、俺も元気が出ないんです」 真剣な眼差しと触
last updateLast Updated : 2025-10-03
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36:悪意の噂

 プラネタリウムデートの夜。翔は、玲奈行きつけの隠れ家バーでヤケ酒をあおっていた。週末に目撃した、楽しそうな美桜と陽斗の姿が脳裏に焼き付いて離れない。「くそっ! あいつら、俺の前でイチャつきやがって……!」 グラスをカウンターに叩きつけるように置き、翔は荒々しく息を吐く。自分から捨てたはずの女が、後輩と幸せそうにしている。その光景が、彼の歪んだ独占欲と嫉妬を掻き立てていた。「あいつら、必ず潰してやる。俺に恥をかかせたことを後悔させてやるんだ!」 隣で、玲奈は冷静にグラスを傾けている。「だからって、直接やり合うのは得策じゃないって言ったでしょ? もっと賢くやらないと。翔さんの評価を落とさずに、高梨先輩だけを悪者にして、社内で孤立させる、いい方法があるの」 玲奈の冷たい声に、翔は顔を上げた。「どうするつもりだ?」 玲奈は唇の端を歪めるようにして笑った。「簡単なこと。ちょっとした噂を流すの。最初は翔さんがそれっぽい話をすれば、後は勝手に広まっていくわ。私も後押しするからね。みんな、人の悪い噂は大好きなのよ」◇ 週明けのオフィス。昼休みの喫煙所で、翔は信頼する後輩や同僚数人に、さも被害者であるかのように「相談」を持ち掛けた。 翔はわざとらしく深いため息をついてみせる。心配した後輩が「課長、何かあったんすか?」と尋ねるのを待って、彼は「被害者」の仮面を被り、重々しく口を開いた。「いや、大したことじゃないんだが……。実はさ、高梨のことなんだけどな。俺からフったみたいになってるけど、本当は逆なんだよ。あいつ、若いのがいいってさ。一条に乗り換えられたんだ」「え、マジすか!? 高梨さんが、そんなことを……」 翔はさも沈痛そうな表情で首を振った。「いや、一条は悪くないんだ! あいつはいい奴だよ。ただ、高梨は昔からああいうとこがあってな……。面倒見の良さをアピールして、後輩に近づくのが上手いんだよ
last updateLast Updated : 2025-10-04
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37

 その日の夜、営業部の飲み会で、その後輩たちが噂の拡散役となった。「聞いたか? 佐伯課長、高梨さんに振られたらしいぞ。新しい相手はあの新人の一条だって!」「はあ? マジかよ! あの真面目そうな高梨さんが、後輩に乗り換えたのか?」「らしいぜ。課長、相当ショック受けてたよ。『俺も昔、断り切れなくて……』とか言ってたし、高梨さん、昔からそういうとこあったんじゃねえの?」 翔の言葉が「高梨さんは、昔から後輩を始めとした社員に手を出していた」という悪意に変換されて、増幅されていく。◇ 翌日、噂は他部署の女性社員たちの耳にも届いていた。給湯室での井戸端会議が、噂に最後の仕上げを施す。 女性社員が言う。「ねえ、聞いた? 営業企画部の高梨さん、新人の一条くんと付き合ってるらしいわよ」「えー! 佐伯課長と別れたばっかりなのに? ていうか、一条君ってまだ新人研修終わったばかりじゃない。で、指導役が高梨さんでしょ? そういう子に手を出すって、ちょっとねぇ……」「高梨さん、真面目そうに見えてやり手なんだねえ」「わかる。なんか、そういう『新人キラー』みたいな人、いるよね。面倒見がいいのを勘違いさせちゃうタイプ。……ああ、だからか。だから佐伯課長に捨てられたんじゃない?」 この瞬間、真実は完全に反転した。翔が玲奈と浮気して美桜を無惨に捨てたのではなく、「新人キラーだから、翔に愛想を尽かされて捨てられた」という、完璧に歪曲された物語が完成したのだ。◇ 噂が広まってから数日。美桜にとって、会社は針の筵(むしろ)と化した。 朝、出社して「おはようございます」と挨拶をしても、以前は笑顔で返してくれた同僚たちは、気まずそうに目を逸らすか、会釈を返すだけ。 給湯室に入れば、それまで弾んでいた女性社員たちの会話がピタリと止んで、あっという間に一人、また一人と去っていく。ランチに誘われることは、もちろんなくなった。
last updateLast Updated : 2025-10-04
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38

「見て、一条君よ。なんだかやつれてない?」「そりゃそうでしょ、あの高梨さんに捕まっちゃったんだから」「本当に可哀想……。いい子そうなのに、完全に騙されてるわよね」 美桜ははらわたが煮えくり返るような思いで、唇を噛み締めた。 極めつけは、定時後に起きた。 美桜が残業していると、総務部のベテラン女性社員が陽斗のデスクへやってきて、彼の机に栄養ドリンクを置いたのだ。「一条君、お疲れ様。これでも飲んで、元気出してね」「あ、ありがとうございます。でも……」「いいから、いいから。色々、大変でしょうけど、負けちゃダメよ」 その女性社員は慈愛に満ちた笑みを陽斗に向けた後、ちらりと美桜の方を一瞥した。その目には、侮蔑と非難の色がはっきりと浮かんでいた。(私のせいで。私が陽斗君の優しさに甘えすぎたから。この前のプラネタリウムも……あの夜のことも) 美桜自身の苦しみは、耐えられた。だが自分に向けられるべき悪意の余波が、何の罪もない彼にまで及んでいる。彼が「魔性の女に騙されている、哀れな被害者」として扱われている。 その事実が、美桜の心を何よりも強く締め付けた。(もう、やめさせなきゃ。私が、彼を解放してあげなくちゃいけない) たとえそれが、彼を深く傷つけることになったとしても。美桜は決意を固めた。◇「一条君。仕事のきりがついたら、屋上まで来てくれるかな」 心を決めた美桜は、陽斗のデスクまで行って話しかけた。陽斗は顔を上げて、不思議そうに首を傾げた。「構いませんよ。なにかありました?」「理由は後で話すわ」 そうして、しばらく後。 時間通りに屋上にやって来た陽斗に対し、美桜は練習した通りの冷たい表情を貼り付けた。 美桜の表情を見て、陽斗は心配そうに近づいてくる。「先輩、大丈夫ですか? 変な噂のことなら、俺が…&he
last updateLast Updated : 2025-10-05
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39:反撃

 美桜が去った後、陽斗は一人、冷たい風が吹き抜ける屋上に立ち尽くしていた。彼女が叩きつけるように放った残酷な言葉が、何度も頭の中で反響する。『あの夜も泥酔した女を抱いて、楽しかった?』 その言葉は、彼の心をナイフのように抉った。一瞬、本当に彼女に軽蔑されたのだと絶望が胸をよぎる。  だが彼はすぐに思い出した。涙を堪えるように、固く握りしめられていた彼女の拳を。苦痛に歪んでいた表情を。  そして雨上がりの夜、パート清掃員の女性に、自分の身を削るようにして優しさを差し伸べていた彼女の姿を。(違う……) 陽斗は、固く拳を握りしめた。(あれは、先輩の本心じゃない。俺をこのくだらない噂から守るために、ついた嘘だ) 悲しみは静かで底冷えのするような怒りへと変わっていった。彼女をここまで追い詰めた人間が、許せない。人懐っこい後輩の仮面の下で、一条家の血に流れる冷徹さ、静かに目を覚ます。(佐伯翔……。あんただけは、絶対に許さない) ◇  翌日のオフィス。陽斗の態度は、いつも通り明るく朗らかだ。しかし瞳の奥には、獲物を見定めるような鋭い光が宿っていた。 昼休み、彼はまず、他部署にいる気心の知れた同期社員に、さりげなく声をかけた。「なあ、最近、社内の空気が少しおかしくないか? 特に、営業部と営業企画部のあたりで、何か変な噂とか流れてたりする?」 同期はちょっと首を傾げた後に頷いた。「ああ、高梨さんと新人の噂だろ? 営業部の連中が、この前の飲み会で騒いでたのが発端みたいだぞ」 同期は眉を寄せて弁当の箸を陽斗に突きつけた。「というか、営業企画部の新人ってお前のことじゃん。何かあったのか?」「何もないよ。それなのに噂が流れてるから、変だと思って」「ふーん? まあ、俺はお前を信じてるよ」「おう、サンキュ。これお礼な」 陽斗は同期の弁当の横に緑茶のペットボトルを置く。「おっ、悪いな! また今度、同期の皆で飲みに行こうぜ」
last updateLast Updated : 2025-10-05
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40

 全ての外堀を埋めた陽斗は、ターゲットである翔の後輩、田中を給湯室で捕まえる。「田中先輩、少しよろしいですか。最近、高梨先輩のことで、色々とお話されているようですが」 田中はぎくりと陽斗を見た。「あ? なんだよ、一条。お前もあいつに――高梨さんに騙されてんのか?」 陽斗は完璧な笑顔を貼り付けたまま、だが一切笑っていない目で、田中を正面から見据えた。「俺は、高梨先輩を心から尊敬しています。ですから根も葉もない噂で彼女の名誉を傷つける人間を、見過ごすことはできません。先輩は、何か確実な証拠があって、あのような話をしたんですか?」「はぁ? 名誉を傷つける? 大げさだろ」「いいえ。社内にこれだけ噂が回っている以上、十分に名誉毀損が成立するレベルですよ」 陽斗は笑みを消す。  普段の人懐っこさとのギャップ、さらには「名誉毀損」という言葉、理路整然とした詰問に、田中は完全にたじろいだ。「いや、俺は佐伯課長から相談されただけで……その……」 陽斗は、狼狽する田中から欲しかった言質を引き出した。  彼は再び完璧な営業スマイルを浮かべた。「そうですか。大変参考になりました。ありがとうございます」と深く頭を下げる。 田中が逃げるように去っていくのを見送った後、陽斗の表情が抜け落ちた。(証言は取った。佐伯課長が噂の発生源で間違いない) スマホを取り出すと、誰かに短いメッセージを送る。『佐伯翔課長の周辺調査を開始してくれ。特に、河合玲奈との関係を重点的に』 彼の静かな反撃は、次のステージへと移行しようとしていた。 ◇  陽斗を突き放したことで、美桜の孤立は決定的となった。  ランチタイムでは、社員食堂の隅で一人、味のしない食事を喉に流し込む。彼女のデスクの周りだけ、まるで見えない壁があるように誰も近づかない。  噂は、美桜がこれまで築き上げてきた「真面目で誠実な人柄」と「丁寧で正確な仕事ぶり」という評価を、完全
last updateLast Updated : 2025-10-06
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