愛のない夫婦生活から、私はもう一度踊り出す のすべてのチャプター: チャプター 41 - チャプター 50

272 チャプター

第41話

心の中で何年も愛してきた拓海。どんなに屈辱的でも守り続けてきた結婚が、ついに完全に汚れてしまったのか。「電話してくるなんて思わなかった?」拓海は傍らに座る翔太を見て、歯を食いしばった。「俺は君の夫だぞ。俺が君に電話しなくて、誰が君に電話するんだ?」知佳は首を横に振り、バーにつかまって立ち上がった。「さあね。私には元カレもいないし」拓海の表情が変わり、眉をひそめた。「知佳……」しかし知佳は床からウェットティッシュの包みを拾い上げ、足を引きずりながらも平静に彼の前へ歩み寄った。一枚取り出して彼の首筋を拭き、口紅のついたティッシュをそのまま彼の上着のポケットに押し込む。「おばあちゃんがビール煮を作ってるの。いい匂いでしょ。もうご飯の時間よ」そう言って振り返りざまに付け加えた。「シャツは着替えるか、シャワーに入ってから入ったほうがいいよ。おばあちゃんに見られたら説明が大変でしょ。……まあ、説明する気がないなら別にいいけど」知佳は、拓海と結衣が親密な関係になるかもしれないと考えたことはあった。けれど、いざその日が来た時、こんなにも平静でいられるとは思わなかった。平静に痛みを感じ、平静に胸を押さえている――押さえていなければならない。それでもやはり怖い。この痛みが押し寄せて、自分を飲み込んでしまったら、どうやって幸せなふりができるのだろう。「翔太、ご飯よ」知佳は練習室を出てから声をかけた。この子、拓海と睨み合ってケンカでも始めないだろうね。拓海が心配なわけではない。いずれ平静に祖母へ離婚の結果を伝えられるとは思う。ただ、祖母に自分のめちゃくちゃな生活を見せたくなかった。「お前、何の権利があってここで飯を食うんだ?」拓海は取り繕うこともせず、直接翔太に詰め寄った。翔太は穏やかに笑った。「あんた、知佳が踊るのを見たことある?」拓海は一瞬、言葉を失った。ビジネスの世界では冷静で通る彼も、この問いの意味を理解できなかった。翔太はハハハと笑い、知佳のあとを追って家の中へ入っていった。五分後、拓海も中に入ってきた。シャツの襟元が濡れていて、洗ったばかりのようだった。「ばあちゃん」拓海は入ってくるなり、すぐに祖母に挨拶した。「あら、拓海が来たのね。座って。お茶碗とお箸を取ってくるわ」祖母は笑顔で言った。「いや、ばあちゃん
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第42話

しかし拓海は何も言わず、ただスマホを知佳に返して黙々と食事を始めた。口に合わない料理のはずなのに、彼はご飯を二杯もおかわりした。祖母が不思議そうに言った。「拓海、どれだけ食べてなかったの?」知佳はちらりと彼を見た。きっと昨夜から何も口にしていなかったのだろう。大切な人が病気になったのだから、一日や二日食べなくても不思議ではない。何も食べていなければ、どんなものでも美味しく感じるものだ。拓海が言った。「ばあちゃんの料理がうますぎて、つい食べすぎたよ」祖母は笑った。「あなたたち忙しいでしょうけど、時間があったらまた来なさい。私が作ってあげるから」「ばあちゃん」拓海は茶碗を手にしたまま、少し名残惜しそうに言った。「俺たちのマンションで、何人か住人が部屋を売りに出してるんだ。ばあちゃんもそこに一軒買わない?」祖母は笑って手を振った。「いいのよ、ここで十分よ。周りはみんな顔なじみだし、野菜や果物を育てるのも便利だしね。その時はあなたたちにも送ってあげるわ」実は、この提案は初めてではなかった。以前、祖母が転んだときにも拓海は同じことを言った。だがその時も祖母は「田舎の方が性に合ってる」と断っていた。それでも祖母は、知佳にだけはこう言っていた。拓海と結婚したからといって、際限なく求めてはいけない。彼のお金は、苦労して稼いだものであって、風に乗って転がり込んだものじゃないんだから。「分かった」拓海は残っていた汁を飲み干し、満足そうに息をついた。「中村さんの作る汁よりもずっと美味しい。ばあちゃん、何か秘訣でもあるの?」「この子ったら」祖母は思わず笑い出した。知佳はふと思った。今この世で、拓海を「この子」と呼べるのは祖母だけだ。しかも、拓海はそれをまったく気にしていない。もしこの結婚生活の中で、自分を本当に支えてくれている人がいるとすれば、それは祖母だ。祖母は本当に拓海に優しくしている。それは拓海を特別に評価しているからではない。祖母は、心と心で通じ合いたいと思っているのだ。自分が拓海に良くすれば、拓海も大切な孫娘に良くしてくれるだろうと信じて。食事が終わり、祖母が食器を片付けようとすると、翔太が立ち上がって手伝おうとした。思いがけないことに、拓海も同時に動き出し、競うように皿を片付け始めた。最後には拓海が勝ち、茶碗を持っ
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第43話

彼が今つけているのは、銀色の指輪だった。「遊びでつけてるだけだ。そんなに目くじら立てるな」拓海は平然とそう言い、指輪を外そうとはしなかった。知佳は軽く笑って、もう何も言わなかった。彼女ははっきり覚えている。以前、彼が結婚指輪を外した時、こう言ったのだ。会社で商談があるから、指輪をつけているとその雰囲気に合わない、と。この世に、結婚指輪をつけているせいで成立しない商談なんてあるだろうか?もちろん答えは分かっていた。ただ、当時の彼女はまだ「結婚」という痛みを味わっておらず、幻想を抱いていた。「指輪」の話題で後ろめたさを感じたのか、拓海はさっきまでの詰問調を少し緩め、口調がやわらいだ。「君のためを思って言ってるんだ、知佳。俺が自分で言うのもなんだが、この世界で、もう俺ほど君に良くする男はいないと思う。もちろん、俺は完璧じゃない。いろいろ欠点もある。でも、君に対しては誠実だし、裏表がない。俺の全財産だって、君の名義にできる。他の男がどういう下心を持っているか、分かったもんじゃない」彼女はあなたの家にいて、私はあなたの心の中にいる。拓海のこの言葉を耳にすると、どうしてもあの「名言」を思い出してしまう。知佳はこの言葉の殺傷力にもう耐えたくなくて、イヤホンをつけた。拓海はその様子を見て、言いかけてやめ、車を走らせた。知佳は音楽をかけなかった。感情が揺れているときは、音楽に引きずられて余計に落ち込む。どんな曲でも泣けてしまう。だから聞かずに、ただスマホをいじっていた。……けれど、結衣の投稿を「興味なし」に設定したはずなのに、なぜかまた表示された。指を絡めた二つの手。薬指にはどちらも指輪が光っている。違うのは、男性の手が飾り気のないリングをつけていて、結衣の手には鳩の卵みたいに大きなダイヤが乗っていることだった。投稿にはこう書かれていた。【銀の指輪をつけてあげたら、鳩の卵をくれた。こんな「投資」、利益率高すぎない?】そのあとには、こんな括弧書きが続いていた。【もうすぐ三十なのに、苦い薬が嫌で飲みたくないってどうしたらいい?あなたの優しさが一番甘い糖よ】前回の「スーパーのカート」の投稿と違って、今回はコメント欄が羨望の声で埋まっていた。知佳は結衣がどんな病気なのか知らない。ただ覚えているのは自分が怪我で死ぬほど痛か
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第44話

まあいいわ。どうせ自分が嫉妬していると思い込んでいるなら、もう説明するのも面倒だ。知佳は再びイヤホンをつけた。三十分後、車は自宅の地下駐車場に着いた。指輪はまだダッシュボードの上に置かれたままだった。彼女は取らずに、そのまま車を降りた。一人で必死に大切にしているものが、他人の目にはゴミのように映る。本当に笑い話だ。足の悪い知佳は、当然ながら拓海ほど速く歩けない。拓海はあっという間に追いつき、二人は一緒にエレベーターで家に戻った。拓海は二日間も同じ服のままだったから、かなり不快だったはずだ。だから家に着くなり、すぐ自分の部屋に入り、シャワーを浴びた。知佳は清潔なパジャマを手に、客室の浴室へ向かった。シャワーを浴びて出てくると、拓海はもう洗い終わっていて、客室のソファに座っていた。手には一冊の本を持ち、窓際で足を足台に乗せ、真剣に読んでいた。知佳は最初、この人を無視するつもりだった。だがふと気づいて目を見張った。彼の手にあるのはIELTSの問題集だったのだ。思わず駆け寄って、その本を取ろうとした。けれど、もともと歩くのが不安定な彼女が急いで近づくと、拓海は本を高く掲げた。彼女は届かず、足元がよろめき、そのまま彼の胸元に倒れ込んだ。二人がこんなに近づいたのは、いつ以来だろう。だが今は、IELTSの本を取り戻す焦りの方が、彼の懐にいる気まずさを上回っていた。彼が手を上げれば上げるほど、彼女は必死に取ろうとした。最後には、拓海は抵抗をやめ、手を下ろして、本を彼女の前に開いて見せた。知佳が覗き込むと、胸をなでおろした。よかった。彼の持っているのは、三年前に遊び半分でやったリーディングの一冊だった。正答率はたった三割。しかもびっしりと単語とその意味が書き込まれている。安心したのも束の間、別の問題に気づく。自分はいまだに彼の懐に座っていて、彼は本を両手で支えながら、その腕で彼女をすっぽり囲んでいる。つまり、完全に抱きしめられている状態だった。実のところ、彼らがこんなにも近づいたことは一度もない。だが、拓海はその状況にまだ気づいていないようで、真剣な顔で彼女の間違えた箇所を見つめていた。知佳が少し身じろぎすると、彼はかえって腕を強め、眉をひそめて言った。「どうしてこんな問題を間違えるんだ?これは明らかじゃないか
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第45話

あのときはあったのかもしれない。高校の頃、知佳は密かに彼に恋をしていた。でも、話しかけて問題を尋ねる勇気なんて、絶対になかった。もし声をかけたとしても、それは特別な状況で、やむを得ない時だけだったはずだ。彼はそれを面白い話だと思っているようだった。「覚えてるか?どんな状況で君が俺に聞いてきたのか。君、あの頃あまり喋らなかっただろ。すごく静かだった」「覚えてない……」彼女には、そんなもの懐かしむ気分には到底なれなかった。二人の結婚がこんな状態になっているのに、今さら昔の青春を振り返って何になるというのか。森川拓海、あなたの趣味は本当にノスタルジーなの?結衣ひとりじゃ、思い出に浸るのが足りないわけ?「俺が教えてやろうか?」彼は英語の本をめくりながら言った。「教科書なんて久しく見てないけど、君に教えるくらいならできる」彼は本を軽くひらひらと振った。そのとき、知佳は気づいた。彼の左手の薬指――そこにあったはずの銀の指輪が、もうなかった。それでいて、今から自分に英語を教えるって?笑わせないで。「いらないわ。どうせ勉強したって使わないし、暇つぶしにやってるだけ。ドラマを原語で分かればそれで十分」知佳はそう言って、彼の手を押しのけようとした。「そうか。君はあまり家から出ないしな……」拓海はそう言うと、本を脇に投げ出した。そして気づいた。今の二人の体勢、どう見てもおかしい。知佳は必死に彼を押している。拓海は眉をひそめ、そのまま彼女の手を掴んだ。「何するの?もう遅いの、寝たいの!」知佳は力を込めて身をよじった。だが拓海は片手で彼女の手を押さえ、もう片方の手で寝間着の中から指輪を取り出し、強引に彼女の指にはめた。それは、車の中で知佳が外した翡翠の結婚指輪だった。彼の表情は、喜んでいるのか怒っているのか分からない。ただ、決して嬉しそうではなかった。「勘違いするな。俺と結衣は、君が思ってるような関係じゃない。何度も言っただろ。誰も森川夫人の座を奪うことはできない。それより、あのダンスの男の方だ。俺が君を抱くと嫌がるくせに、あいつに抱えられて跳んだり回ったりするのは平気なのか?」「あなたの汚い想像で、私たちのことを語らないで!」知佳は思わず言い返した。「私たち?誰と『私たち』だ?あいつと?」拓海の顔には明らかな
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第46話

最近の天気は、夜になるといつも雨が降る。知佳が眠りにつくころ、雨粒が窓を叩く音がした。鼻先には茶の実のシャンプーの香りがふんわりと漂い、まるで昨夜、田舎で祖母と一緒に眠ったときのような安らかさに包まれていた。その夜は、特にぐっすり眠れた。知佳は目覚まし時計の音で目を覚ました。目を開けた時、ぼんやりとしていて、まだ祖母の家にいるような気がした。布団の中は寒くも暑くもなく、ちょうどよい温度で、呼吸にはまだ茶の実の香りが満ちている。そして祖母を抱きしめているような感覚があった。……待って。祖母を抱きしめている?その瞬間、完全に目が覚めた。そんなはずない。もう祖母の家から帰ってきているのに。慌てて目を開けると、目の前に見えたのは紺色の寝間着の襟。その上には喉仏と、青い無精ひげ。頭の中でガーンと音が響いた。知佳は反射的に寝返りを打ち、拓海の腕から抜け出した。どうしてこんなことに!?やっぱり主寝室のほうがいい。客室のベッドは狭すぎる。主寝室なら二人の間に三人分の距離が取れる。それが安全な距離だ。拓海もそのとき、ようやく動いた。まるで彼女に起こされたかのように。「最近、夜になるといつも雨が降るな。朝になると晴れてる」カーテンを開けながら拓海が言った。「雨音がうるさくて、夜よく眠れない」どういう意味?知佳は目でそう問いかけた。「会社に行く。今夜は遅くなる」彼はさっさと身支度を整え、それ以上何も言わず出ていった。拓海が何時に帰るかなんて、もうどうでもよかった。彼が出て行ったのを見届けてから、知佳は家の大掃除を始めた。試験の本は、初期に間違いの多かったものを少しだけ残し、あとはすべてまとめて中村さんに頼み、古紙回収業者を呼んでもらって売り払った。そして指輪も外してしまおう。ついでに換金してしまえばいい。どうせ売るなら、ペアで売ったほうがいい。家中を探したが、もう一つがどこにも見当たらなかった。ふと、家に金庫があることを思い出した。中には拓海の物ばかりが入っていて、開けてみようと思ったことなど一度もなかった。でも、もしかしたら。暗証番号は知らない。拓海の誕生日を試したが、違った。もちろん自分の誕生日でもない。考えてみると、玄関のオートロックの番号も、自分にとってはまったく意味のない数字の並
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第47話

ノートの最初のページに記されていたのは【結衣についての百の小さなこと】。一番最初に書かれていたのは、【結衣の誕生日は5月16日】。知佳の指先から力が抜け、ノートが床に落ちた。自宅のオートロックの暗証番号は52516。金庫の暗証番号は0516。つまりこの五年間、知佳はずっと、拓海と結衣の「家」に住んでいたのだ。突然、部屋の空気が薄くなったように感じた。胸を押さえ、大きく息を吸い込もうとしても、呼吸がうまくできない。「奥様」中村さんの声が外から聞こえ、ようやく息が戻った。「なに?」知佳はしゃがみ込み、ノートを拾い上げた。そして、二行目に書かれた言葉が目に入る。【結衣の好きな家を一軒、もしくは複数用意する。暗証番号は彼女の誕生日に】。もう、それ以上見る気にもなれず、ノートをそのまま金庫に放り込み、扉を閉めた。中村さんはドアの前で彼女を待っていた。「旦那様が運転手に、新鮮な蟹を届けさせました。どう調理しましょう?」「ピリ辛でいいわ」知佳は上の空で答えた。胸の奥が締めつけられて、息苦しい。「奥様、これはタラ……」中村さんはタラバガニだと言いかけた。ピリ辛にするのはもったいないと思ったが、知佳はもう聞いていなかった。彼女は何も言わず、物を持って中村さんを通り過ぎ、部屋を出た。森川拓海と別れるまであと26日。彼は【結衣についての百の小さなこと】を書き記していた。私は、結婚指輪を売って、別れまでのカウントダウンを記録する。約束の時間に、ヴィアンの店へ向かった。知佳は予定通り到着し、ペアリングをヴィアンに見せた。ヴィアンは親切にお茶を出し、「座って待っていて」と微笑んだ。だがそのとき、知佳は突然、体の中で違和感を覚えた。温かい液体が流れ出す感覚……知佳はすぐ立ち上がり、生理用品はあるかとヴィアンに尋ねた。生理が早まったのだ。「あるわよ、トイレのロッカーに入れてある。入ってすぐの棚に見えるわ」ヴィアンはトイレの場所を指差した。処理を終えて戻ると、店の中から声が聞こえた。聞き覚えのある声。まさかと思って顔を上げると、そこにいたのは結衣だった。本当に……どこにでも現れるのね。知佳は出て行くべきか迷っていると、店の入り口からもう一人、見慣れた姿が現れた。――拓海。今は午前中
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第48話

拓海は領収書を一枚ずつ見ていき、突然「フッ」と冷たい笑いを漏らした。「お客様……」ヴィアンは少し戸惑い始めた。一体何が問題なのか、まったく分からない。「君には関係ない。十個、全部出してくれ」拓海は荒々しい口調で言った。結衣も異変を感じ取り、小さく尋ねた。「拓海……?」そのときヴィアンは、後ろからゆっくり歩いてくる知佳に気づいた。気遣うように声をかける。「戻ってきたのね。体、大丈夫?」拓海と結衣は同時に振り返り、同時に知佳を見た。知佳の錯覚かもしれない。けれど、拓海の目はまるで火を噴いているように見えた。ヴィアンは知佳に挨拶し、さらに言った。「ちょっと座って待っててもらえる?二人に時計を見せ終わったら、あなたの指輪を見せてもらうから」「何の指輪だ?」拓海の声には警戒が滲んでいた。その視線は、カウンターの中に並んだ二つの翡翠のペアリングに落ちた。「この二つか?」彼はガラスの上を指で軽く叩き、その口調には威圧感がこもっていた。ヴィアンはますます困惑した。何が起きているのか、なぜ彼がそんなことを言うのか理解できない。これは客から買い取ったものにすぎない。なのに、なぜ彼がそんな聞き方をするのか?知佳は、ヴィアンが困っているのを見かねて口を開いた。「そうよ、この二つ」拓海の目にさらに怒りが宿った。「君、やってくれるな」それが皮肉であることは明らかだった。だが知佳は淡々と返す。「ありがとう。褒めすぎよ」「こっちに来い!」拓海は突然声を荒らげた。知佳は座ったまま、動かなかった。彼が歩み寄り、彼女の目の前に立つ。外であることを意識しているのか、怒りを押し殺していたが、その声音には嘲りが混じっていた。「まさか身内に裏切られるとはな。家を丸ごと売られても気づかないだろう」知佳は何も言わなかった。「そんなに金に困ってるのか?俺が渡してる金じゃ足りないのか?」「そういうわけじゃないわ」知佳は冷静に言った。「最近、断捨離してるの。使わないものは、全部処分してるだけ」「使わない?」拓海の声が低くなり、怒気を帯びた。「結婚指輪が使わないものだと?」知佳はまっすぐ彼を見た。「じゃなければ何?もし使うものなら、あなたは一度でもつけたことある?」拓海は一瞬言葉を詰まらせ、憤然とした。「いつか俺が君に売られても
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第49話

「本気なのか?」拓海の顔は険しかった。「ええ」知佳は冗談でも、嫉妬でも、駄々でもなかった。「いいだろう」拓海は短く頷いた。「後悔するなよ」彼はカウンターへ戻り、並んだ十個の時計を指さした。「全部買う!」ヴィアンはようやく状況を理解した。ようするに知佳が妻で、さっき出ていったのが愛人なのだ。彼女はショーケースの扉を閉め、はっきりと言った。「申し訳ありません、お客様。売れません」拓海は、まさか店員に拒まれるとは思わず、生まれて初めて高圧的な態度を取った。「分かってるのか?この店、俺がその気になればいつでも買い取れるんだぞ!」「ああ、破産しても構いません。私はたいした人間じゃありませんけど、自分の手から出たものが愛人の手につけられるなんて、絶対に嫌です」ヴィアンの小さな顔には、強い意志が宿っていた。「お前……」拓海の声には怒気がにじんでいた。そこで知佳が口を挟んだ。「馬鹿ね。売りなさいよ。高く売るのよ。クズ男なんてお金があることくらいしか取り柄がないんだから、彼をぼったくらなくて誰をぼったくるの?」拓海は怒りで顔を歪めていたが、その言葉を聞くと逆に笑った。「君は相変わらず、俺をぼったくるんだな」知佳は彼を無視して、ヴィアンに目で合図を送った。高くつけて。ヴィアンは促されるまま、十個の時計を並べ、市場価格の二倍の金額を告げた。拓海はぼったくりだと分かっていた。だが、知佳の軽蔑を含んだ視線を感じると、挑発に乗るように鼻で笑った。「カードで払う。全部買う!」「指輪も!」拓海はカウンターを叩いた。ヴィアンが知佳を見ると、知佳は静かに手を差し出した。売れ、という合図だ。ヴィアンは今度はためらわず、指輪にも同じく二倍の値をつけた。拓海は一秒も迷わずに支払った。すべて包み終えると、ヴィアンは紙袋を拓海に渡した。拓海はそれを受け取り、振り返って知佳を睨んだ。「それから君だ。車に乗れ!」知佳は怯まずに見返した。ええ、乗ればいいでしょ。車に乗り込むとすぐ、スマホが震えた。銀行からの入金通知――ヴィアンからの振込だった。続いてLINEの通知も届いた。【これはさっきの指輪のお金。全部あなたにあげるよ。私はいらない。知佳さん、悲しまないで】知佳は笑顔の絵文字を返した。悲しむことなんてないわ。一番つら
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第50話

「知佳!最近、挑発しすぎだぞ!」拓海の目には怒りが宿っていた。知佳は思った。最近、彼も苛立っている。あの、いつも冷静だった拓海はもういない。全部、結衣のおかげだ。「君を見誤っていたようだな」彼は言った。「前はずっと、君は優しくて、分別があって、物わかりのいい女だと思っていた。だが今の君はずいぶん騒がしいな。結衣を見てみろ……」「見ないわ。あなたが見ればいいでしょ。私の分まで、何度でも見なさい」知佳は結衣を褒める話なんて聞きたくなくて、言葉をかぶせた。何度も遮られて、彼は不快そうに眉をひそめる。「俺が見に行っても、後悔するなよ!」知佳はそれ以上相手にせず、本当にイヤホンをつけた。拓海は彼女をマンションの入口まで送ると、車を止めた。「降りろ。俺はまだ会議がある。夜は……」知佳は黙って車を降り、バンと勢いよくドアを閉めた。彼が夜に何をするつもりなのか、聞きたくもなかった。――夜。知佳は中村さんが作ったピリ辛蟹には一口も手をつけなかった。少し野菜を食べただけで部屋に戻り、フライトを調べて、首都行きのチケットを買った。直接首都に行っても、拓海に知らせなくても大丈夫よね?九時過ぎ、I-20の記入通知が届いた。早いな……彼女は心の中で歓声を上げ、一項目ずつ照らし合わせながら入力し、自分にまだ何が足りないか確認した。十一時ごろ、ドアの開く音がして、拓海が帰ってきた。知佳はパソコンを閉じ、ベッドに横になってスマホをいじるふりをした。外からは中村さんと話す声が聞こえる。「この蟹、妻の好みに合わせて作るよう言っただろ。どうしてまたピリ辛にしたんだ?」「奥様が……ピリ辛にしてって」中村さんの声には焦りがにじんでいた。「それで、彼女は一口も食べなかったのか?」「はい……」「飯を盛ってくれ」数分後、拓海が部屋に入ってきた。ネクタイを外し、シャツの一番上のボタンを開け、袖を緩めて腕まくりしていた。「出てきて、一緒に食べないか?」部屋に入るなり、彼は声をかけた。昼間の怒りはもう消えているようだった。過去五年間、彼はいつも遅く帰ってきた。家で食事をしないことも多かったが、どんなに遅く帰っても何か食べることがあった。そんな夜は、彼女にとってまるで祭りのようだった。忙しく立ち回り、蝶のように拓海の周りを飛び回
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