徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る のすべてのチャプター: チャプター 121 - チャプター 130

427 チャプター

第121話

祐一は、肘をハイテーブルに預けたまま、静かに由奈を見つめていた。どれくらいそうしていたのか、誰にもわからない。黒のスーツをきっちりと着こなし、短く整えられた髪は艶やかで隙がない。由奈の知っている祐一は、いつも感情を表に出さず、何事にも淡白で、どこか距離を置いた男だった。けれど今、その瞳の奥には、はっきりとは掴めない熱が宿っているように見えた。由奈はグラスを握る指に力を込め、何事もなかったかのように視線を逸らす。祐一もまた視線を移し、声をかけてきた相手とグラスを合わせた。人前では、互いを「知らない者同士」として振る舞う――それは、いつも通りのことだった。そこへ、ようやく客の輪を抜けてきた智宏が、まっすぐ由奈のもとへ来る。「ここにいたんですね」「お話、終わったんですか?」「はい」智宏は軽く頷き、彰へと視線を向けた。彰が手を差し出す。「中道さん。お噂はかねがね」「影山敦(かげやま あつし)さんのお孫さんですね?」智宏も手を出したが、握手は一瞬で終わった。「祖父をご存じで?」「家同士の付き合いはありますが、個人的にはあまり」丁寧ではあるが、どこか探り合うような空気が漂う。由奈はそっとその場を離れようとした――その瞬間。前に出てきた男とぶつかり、唇が彼の胸元をかすめた。赤い跡が、黒い生地の上に残る。ふわりと漂ったのは、覚えのある洗剤の香り。由奈の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。祐一は視線を落とし、胸元の跡を確認すると、ゆっくりと顔を上げる。「……口紅、ついてますけど」低く落ち着いた声。それだけで、周囲の視線が一斉に集まった。由奈は一瞬表情を強ばらせたが、すぐに作り笑いを浮かべる。「すみません、滝沢社長、うっかりしてしまって」バッグからティッシュを取り出し、差し出した。「よろしければ、拭きましょうか?」祐一は動かない。ティッシュも受け取らない。「何あの人、運が良すぎ……」「影山家と中道家の御曹司に、滝沢社長にまで話しかけられるなんて!」「あんたもその顔だったら、話かけられるわよ」「はぁ、顔が違えば人生も違うってことか……」囁き声が、あちこちから聞こえてくる。由奈は数秒考え、柔らかく笑った。「……失礼しました。滝沢社長は、他人の物なんて使いませんよね。私の配慮不足でした」ティッシ
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第122話

祐一は、由奈が「あくまで他人」と言い切っても動じることなく、静かにグラスへ口をつけた。会場のあちこちで、二人の関係を探る視線が交錯したが、確かな答えを掴めた者はいない。由奈がその場を離れようとしたとき、彰がグラスを置いて人混みから出てくる。「由奈ちゃん、さっきは災難だったね。でも大丈夫。滝沢社長さえよければ、僕がそのスーツ、弁償しますよ」思わぬ申し出に、由奈は目を見開いた。祐一は胸元を軽く拭いながら、余裕の笑みを浮かべる。「影山さん、それは彼女のため、ということで?」「どういう意味です?」彰は落ち着いた口調のまま返す。「由奈ちゃんとは昔からの知り合いです。少し気にかけるくらい、自然でしょう」祐一はグラスを揺らし、淡々と言った。「もし、俺が嫌だと言ったら?」彰は少しも動じず、酒を注ぎ足す。「ここまで食いつくなんて……まさか、滝沢社長。由奈ちゃんにご興味でも?」由奈は黙って祐一を見た。祐一は小さく笑う。その笑みが本心かどうかは、わからない。「冗談を言わないでくれ」由奈の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。だがすぐに視線を外し、何もなかったように振る舞う。「なるほど、違うんですね」彰はわざとらしく頷く。「噂では、滝沢社長の恋人は中央病院の先生だとか。お二人はいつ結婚される予定ですか?」「え、滝沢社長って恋人がいるの?」「前に、元カノが帰国したって話を聞いたけど……あの人なんじゃないの?」「なるほど。滝沢社長って一途なんだなあ」元カノをどれほど愛しているのかという話が、容赦なく由奈の耳に流れ込む。聞きたくなくても、遮ることはできなかった。祐一は何も弁解しない。由奈に一瞬だけ視線を向け、グラスを置く。「良い知らせがあれば、いずれ皆さんに」その言葉に、周囲は早々に祝辞めいた言葉を口にする。由奈はそっと輪から抜けた。それに気づいた智宏が、後を追う。「池上さん、大丈夫ですか?」由奈は軽く首を振り、笑う。「平気です。ただ、人が多いのが少し苦手で」そこへ、彰がデザートを手に現れた。隣の智宏がまるで存在しないかのように振る舞う。「由奈ちゃん。キッズコーナーにあったデザート。甘くて人気らしいよ」「……私、子どもじゃないです」「僕にとっては、そうだけど?」彰は当然のようにデザートを差し出す。由
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第123話

由奈の瞳孔がきゅっと縮む。反射的に身をよじって抵抗しようとしたが、祐一はそれを予測していたかのように、片手で扉を押さえ、彼女を逃がさなかった。彼の口づけは、体温よりもずっと熱い。――前に彼がこんなふうに暴走したのは、薬を盛られたあの夜だけ。まさか、今回も薬を……?焦った由奈は、とっさに手を振り上げた。頬には当たらず、平手は彼の耳元をかすめる。顔を背けた祐一を、由奈は睨みつける。「祐一、よく見て。私は長門先生じゃないのよ!」祐一は歯を食いしばり、返事をしなかった。ただ、由奈の口紅が移った自分の口元に指を伸ばした。その仕草を見て、由奈ははっと我に返る。さっきの自分は、あまりにも取り乱していた。深く息を吸い、声の調子を抑える。「さっきはごめん……祐一、ちょっと変だったから。いきなりあんなことされると、私、どうすればいいか……」それでも、彼は黙ったままだった。しばらくの沈黙のあと、祐一はネクタイを緩める。「十時までに帰るように」それだけ言い残し、彼は由奈の横を通り過ぎて休憩室を出ていった。扉が閉まった瞬間、由奈の足から力が抜ける。背中をドアに預け、しばらく動けなかった。さっきの祐一は、明らかにいつもと違っていた。由奈は心から怖かった、と言っていいほどに。けれど、理由が分からない。あの一連の行動も、言葉も。――もしかして嫉妬?そう思った途端、可笑しくなって、由奈は小さく息を吐いた。ティッシュで口紅を拭い、塗り直す。少し間を置いてから、休憩室を出た。気をつけているつもりなのに、まさか彰と鉢合わせてしまった。「由奈ちゃん、どうして滝沢社長と休憩室に?」面白がるような表情に、由奈は言葉に詰まる。「……たまたま、です」彰は腕を組み、眉を上げる。「本当に?」由奈は気まずく視線を逸らした。なぜか、浮気現場を見られたような妙な後ろめたさがある。「まあ、言いたくないなら無理に聞かないよ」彰はそう言って、彼女の肩に手を置いた。「でもね、由奈ちゃん。もっと僕を頼っていいよ。何があっても、味方になるから」その言葉に、由奈の胸がかすかに揺れる。先生と弟以外で、無条件に自分の味方になると言ってくれる人なんて、今までいなかった。由奈は視線を落とす。「ありがとうございます、彰さん。でも……私と彼のことは、すごく複雑
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第124話

しばらくして、由奈ははっと我に返った。喉がひりつくようで、声も掠れている。「……しばらく作ってなかったから、作り方、あまり覚えてないかも」「違うな」祐一は即座に否定した。「覚えてないのではなく、作りたくなくなった、だな」由奈は思わず彼を見つめた。一緒に過ごして六年、こんなふうに気落ちする祐一を見るのは、初めてだった。今夜、どこまで酒が入っているのかは分からない。だが、意識が混濁するほどではないはずだ。むしろ、今の彼はいつも以上に冷静で、周りがよく見えているはず。由奈はぎゅっと両手を握り、視線を逸らす。「……いいよ、作っても。でも条件がある。浩輔のこと、これから先は一切、関わらないで」祐一は彼女をじっと見た。「条件はそれだけか?」「ええ。でも、絶対守ってほしい」由奈がスマホを取り出し、録音を始めようとする。祐一はテーブルに肘をつき、どこか力の抜けた笑みを浮かべた。「わかった、守るよ」返事を聞いた由奈は、そのままキッチンへ向かった。酔い覚ましのスープは、これまで何度も作ってきた。材料がどこにあるのか、考えなくても手が動く。祐一はキッチンに立つ彼女の背中を眺め、何か考え込むように目を細めた。その時、スマホの画面が点灯した。歩実からのメッセージだった。一瞬だけ目を落とし、返信はせず、そのまま画面を閉じる。やがて由奈がスープを持って戻り、テーブルに置く。エプロンを外しながら言った。「今夜は私、リビングで寝る。寝室を使って」「待って」由奈は足を止め、振り返る。祐一は穏やかな声で言った。「明日、実家に戻る、一緒に来てくれ。今日は早く休むように」由奈は唇を軽く噛みしめてから頷く。「……分かった」それ以上、言葉は交わされず、由奈は静かに自分の部屋へ戻っていった。……翌朝。朝食を済ませた二人は、そのまま滝沢家の本邸へ向かった。庭先で森田が出迎える。由奈は祐一の少し後ろを歩き、二人はリビングへ入った。そこには和恵のほか、千代たちの姿もある。「おばあさま、お義父さん、お義母さん、ただいま戻りました」由奈はいつも通り、丁寧に頭を下げた。将平が頷き、重い口調で切り出す。「由奈……例の写真の子は、一体どういうことなんだ?」一瞬、由奈は言葉に詰まった。視線が、無意識に祐一へ向く。千代に写真を
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第125話

和恵の目に、残念げな色がよぎった。由奈を無理に縛りつけることはできない――それは分かっている。祐一の命を助けた代わりに、彼女は六年の婚姻生活を手に入れた。だが、結局は「無理に結んだ二人は幸せにならない」という現実に敗れたのだ。由奈と和恵の姿が回廊の奥へ消えると、壁の陰から奈々美がそっと顔を出した。二人が去っていく方向を見つめ、さっき聞こえた衝撃的な話を反芻する。――離婚?聞き間違いじゃないよね?あの由奈が祐一と離婚したいって?思い返せば、ここ最近、どんな皮肉を投げても由奈は涼しい顔だった。理由は、これだったのか。「……だめだ。ちゃんと聞かないと」奈々美はリビングへ戻り、使用人に祐一の居場所を聞くと、慌ただしくゴルフコースへ向かった。芝生の上では、祐一がすでにラウンドに入っていた。グリーンの傾斜、フェアウェイ脇の障害物、すべてを読み切り、力加減を正確に調整する。――二打でカップイン。使用人がミネラルウォーターを差し出す。祐一は受け取り、キャップをひねった。「祐一さん!」奈々美が一直線に駆け寄ってくる。祐一は水を一口飲み、ボトルを使用人に返した。「どうした」「由奈が祐一さんと離婚するって、本当?」使用人が息をのむ。だが誰も口を挟まない――聞こえなかったふりをするしかない。祐一は視線をボールに戻したまま言った。「またくだらないことを」「聞いたんだから!由奈がおばあちゃんと話してるの、全部!」奈々美は前に立ちはだかる。「祐一さん、あの人が離婚を切り出すなんて、ほんと身の程知らず!別れるなら祐一さんから言うべきじゃない?あんな最低な――」「奈々美」祐一の視線が、静かに彼女へ移った。冷えた眼差しの奥に、わずかな怒りが滲む。「おじさんが海外留学までさせたのに、基本的な礼儀も身につけていないのか?」奈々美は言葉を失い、その場に立ち尽くした。次の瞬間、目元が赤くなる。「……前は、あの人の悪口を言っても、祐一さんはこんな言い方しなかったのに」「俺の前で言ったことがあったか?」「それは……」言葉が詰まる。そうだ。これまで由奈を貶すとき、祐一の前ではなかった。当時、彼が由奈のそばにいることすら少なかったのだから。だが、歩実が帰国してから、すべてが変わった。「でも……私が彼女のことをあ
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第126話

「歩実さん……怒らせちゃった?ごめんなさい、私、ただ歩実さんが気の毒で……」奈々美は、自分が言い過ぎたことに気づき、慌てて言い添えた。不用意な一言で、彼女を傷つけてしまったのではないかと不安になったのだ。歩実は、無理に口角を上げる。「大丈夫よ。分かってる。だって、私と祐一は、もう六年も前に別れてるんだから……」「六年なんて関係ないよ!」奈々美は食い気味に声を上げた。「別れても復縁する人なんて、いくらでもいる!歩実さん、諦めちゃだめだよ。絶対私の家族になるんだから!」「うん……ありがとう」そう答えて、歩実は通話を切った。画面が暗くなると同時に、顔に貼りつけていた笑みがすっと消える。彼女は振り返り、背後の男に視線を向けた。「由奈が祐一に別れを切り出したの。祐一は、そのつもりはなさそうだった。ねぇ、協力してくれるって約束、まだ有効?」男はゆっくりとスーツに腕を通し、ネクタイを整えながら答えた。「もちろんだ」そして、ふと歩実を見下ろし、指で彼女の顎をつまみ上げる。「ただし……条件がある。もう二度と、由奈に手を出すな」歩実は、その手の中で艶やかに微笑んだ。「分かってるわ」男が部屋を出ていくと、歩実の表情から一切の感情が抜け落ちた。どいつもこいつも……みんな、由奈のことばかり。テーブルの上に残された、飲みかけの赤ワインを見つめ、彼女は鼻で笑った。――由奈が真実を知ったら、どんな顔をするんだろう。その瞬間を思うと、胸の奥が妙に高鳴る。……滝沢家の本邸。由奈は和恵と並び、昼近くまで写経していた。以前、和恵から聞いたことがある。写経は心を鎮め、雑念を払い、外界に惑わされぬ精神を養うのだと。由奈自身は、そこまで信心深いわけではない。ただ、滝沢家の中では、彼女がいちばんこの時間を受け入れられる存在だった。書き終え、部屋を出て、静かに戸を閉める。回廊の先から、森田と祐一がこちらへ歩いてきた。森田が先を行き、祐一は少し距離を置いて後ろを歩いている。由奈に気づいた森田が、軽く会釈した。「奥さま、写経はもう終わりましたか?」祐一と視線が合いそうになり、由奈は何事もなかったように目を逸らす。「ええ。おばあさまがお休みになるそうなので、これで失礼します」和恵が休むと聞き、森田はすぐに部屋に入り、お香の準備
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第127話

久美子はしばらく呆然と立ち尽くしていた。何が起きたのか理解する前に、駿介が数名の医療スタッフを連れて駆けつけてくる。「奥様!」スタッフがすぐさま間に入り、恭子を引き離した。「ゆうちゃん!私のゆうちゃん――!」恭子は必死に叫び、なおも暴れようとする。「ここ、ここです!」駿介は慌てて、持ってきた人形を差し出した。それを目にした瞬間、恭子はぴたりと静かになった。人形を胸に抱きしめ、誰にも奪われまいとするように、何度も撫でる。「大丈夫、大丈夫……ママはここよ、ここにいるから……」駿介は額の汗を拭った。危うく、職務怠慢で責任を問われるところだった。ふと、青ざめた久美子に気づき、すぐに声をかける。「驚かせてしまって、申し訳ありません。お怪我はありませんか?」久美子はようやく我に返り、首を振った。「い、いえ……大丈夫です……」「それならよかったです」駿介は胸をなで下ろし、スタッフに目配せする。「奥様を病室に連れ戻してください」スタッフたちが優しく言葉をかけながら、恭子を連れて行った。エレベーターの扉が閉まるまで、久美子の胸の動悸が収まらなかった。そのとき、文昭が遅れて廊下に出てくる。「おい、お湯をもらいに行ったんじゃなかったのか?何を突っ立ってるんだ」久美子は黙っていると、文昭が彼女に近づいた。「……どうした?」「今……女の人を見たの」文昭はあまり気にも留めなかった。「そんなことより、早くお湯をもらってこい。浩輔の身体を拭いてやらないと、匂うぞ」「でもあの人、由奈にそっくりだったの。もしかして、あの子の本当のお母さんじゃないかって……」もし由奈が実の親と再会できるなら、それは喜ばしいことだ。久美子は由奈を二十年以上育ててきた。実の息子より気にかけていなかったとはいえ、情がある。「馬鹿なこと言うな」文昭は彼女の手から洗面器を取る。「似てる人ってこの世にいっぱいいる、親子だとは限らないだろ。ほら、行かないなら俺が行く」……由奈はパシフィスガーデンに戻ったところで、彰からの着信に気づいた。「彰さん?」「今日、病院にいなかったけど……異動になったのか?」「病院って……彰さん、どこか具合でも悪いのですか?」彰はナースステーションで書類にサインしながら話しているようだった。「い
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第128話

夜はすっかり更け、暖色の室内灯がガラス越しに淡くにじんで、外の冷たい街並みと溶け合っていた。まるで一枚フィルターをかけたような、静かな夜景だ。食事もひと通り終わり、由奈はスタッフを呼んで会計を済ませた。支払いが終わると、彰が指を組んで顎に当て、少し得意げに言う。「今回は、ちゃんと約束守っただろ?大人しく君に奢らせた」由奈は満足そうに口角を上げた。「はい、これで気が済みました」二人で店を出ると、彰がさっと先回りしてドアを開ける。由奈も忘れずに礼を言った。彼は由奈の少し後ろを歩きながら、スマホをちらりと確認する。「車、どこに停めた?」「駐車場が空いてなくて。前の下り坂のところに停めました」「じゃあ、そこまで一緒に行こう」由奈が振り返って何か言いかけた、その瞬間――不意に、遠くからエンジン音が近づいてきた。「危ない!」彰がとっさに腕を伸ばし、由奈を引き寄せる。不意を突かれ、由奈はそのまま彼の胸にぶつかった。次の瞬間、バイクが背後をかすめて走り抜けていく。風が唸りを上げて通り過ぎるほどのスピードだった。由奈はしばらく呆然としていたが、頭上から声が落ちてきて、ようやく我に返る。「大丈夫?びっくりしただろ」由奈は慌てて身を離し、顔色を少し青くする。「……うん、正直、かなり。助けてくれてありがとうございます」彰はバイクが消えた方向を一瞥し、肩をすくめた。「最近の若いのは、ほんと危ないことをするね」「そうですね……あ、車、もうすぐそこだから」由奈は気持ちを立て直し、バッグを肩に掛け直す。「もう送ってもらわなくて大丈夫です。一人で帰れます」彰は小さく頷いた。「じゃあ、由奈ちゃんが車に乗ってから帰るよ。じゃないと落ち着かない」仕方なく、由奈は彼の好意を受け入れた。停めてあった車に乗り込み、一度窓の外を見てから、エンジンをかけた。彰は由奈の車が見えなくなってから、スマホに届いたメッセージへと視線を落とした。……家に帰り、由奈が寝室のドアを開けると、ちょうど浴室から祐一が出てきたところだった。腰にはバスタオル一枚。広い肩や引き締まった上半身に、まだ水滴が残っている。由奈は彼の体を見たことがないわけではない。どの筋肉も主張しすぎることなく、均整の取れたラインで――目を引くのに、どこか節度があった。
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第129話

由奈の頭は一瞬、真っ白になった。だがすぐに気持ちを立て直し、低く言い切る。「……あれは切り取られただけです。彰さんとは、そんな関係じゃありません」「そうおっしゃっても、世論はそう受け取っていません。円滑に財産分与を伴う離婚を成立させたいのであれば、まずは目の前の問題を片づけましょう」「……分かりました」通話を切り、由奈はトレンド画面を見つめたまま動けずにいた。ここまで騒ぎになれば、義母の千代が何も言わずに済ませるはずがない。いずれ、話し合いの場は設けられるだろう。離婚そのものについては、正直、どんな結果でも構わなかった。子どもがいるわけでもない。最悪、何も受け取らずに身を引く選択だってできる。財産と、このパシフィスガーデンの家にこだわったのは浩輔のため。そして、池上家に育ててもらった恩を、少しでも返したかっただけだ。身支度を終え、リビングへ向かう。そこに祐一の姿を見つけ、由奈は思わず足を止めた。ダイニングテーブルに座り、片手で電話を取りながら、もう一方の手で静かに箸を進めている。電話の向こうの相手に、時折短く相槌を打っていた。「奥さま、おはようございます」果物の盛り合わせを持った鈴木がキッチンから出てくる。その声に、祐一が顔を上げ、通話を切った。由奈は椅子を引いて腰を下ろす。二人の間に、言葉はなかった。鈴木が再びキッチンへ戻ったあと、祐一は背もたれに体を預け、指先で軽くネクタイを緩めた。「トレンドの件だが――もう片付けさせた」由奈の瞳に、わずかに驚きが走る。祐一は水を一口含み、ゆっくりと飲み下す。そして、真っ直ぐに彼女を見据えた。「お互い、スキャンダルは一回ずつ。これで相殺だ。次はない」由奈が何か言う前に、彼はグラスを置き、上着を手に立ち上がった。そのまま玄関へ向かい、振り返ることなく出て行く。入れ替わるように鈴木が顔を出した。「旦那さま……あら?もうお出かけに?」きょとんとしながら由奈を見る。「奥さま、旦那さまはうどんを作ってくださったんです。温め直しますね」由奈は伏せたまま、最後まで何も言えなかった。以前なら、祐一は噂話など意に介さなかったはずだ。ましてや、自分で手を打つことなど。――相殺。心の中で、その言葉を繰り返し、由奈は小さく笑った。相殺だなんて。彰との件は
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第130話

綾香は息が切れるほど走り、ようやく建物の外に出た。足元がふらつき、膝が震えているのが自分でも分かる。その場で立ち尽くし、何度も左右を見回した。――由奈に、言うべきかだろうか。言わなければ、きっと一生後悔する。でも、口にした瞬間、自分の居場所は確実に失われる。スマホを取り出し、震える指で画面を点けたそのとき、背後に気配を感じた。次の瞬間、手からスマホが消えた。息を呑み、振り返った綾香の顔から、血の気が一気に引く。そこに立っていたのは、歩実だった。「まさか、今聞いたことを全部、池上先生に知らせるつもり?」綾香は唇を震わせたまま、何も言えない。歩実はふっと笑い、奪ったスマホを彼女の手に戻した。「いいわ。言いたいなら、言えばいい」声は柔らかい。だが、目は笑っていない。「ただし……病院で私に逆らった人間が、どうなるか。そこは、ちゃんと考えてからにして」一歩、距離を詰める。「この業界で生き残りたいなら、賢くなりなさい。後ろ盾もない人間はね、見えないふり、聞こえないふりを覚えなきゃ」歩実は彼女の耳元で囁き、微笑む。「それに……仮に池上先生を助けたとして、あなたに何の得が?彼女が、あなたに何を返してくれるの?……ねえ、綾香さん。人は自分のために生きるものよ」綾香が言葉を探す前に、歩実は軽く彼女の肩を叩いた。「よく考えて。私につくか、それとも――もう戻ってこないかもしれない人を選ぶか」そう言い残し、歩実は踵を返した。その背中が見えなくなった途端、綾香は力が抜け、壁にもたれながらその場に崩れ落ちた。頭の奥が、じんじんと鳴る。耳には、歩実の言葉だけが何度も反響していた。それは現実的で、残酷で、否定できない言葉だった。……一方、朝の騒動を知った千代は、案の定、由奈を呼びつけていた。リビングで、使用人たちが下がるのを待ち、千代は堰を切ったように声を荒らげる。「あんたたち、いったい何をしているの!祐一の噂が収まったと思ったら、今度はあんた?たとえ結婚は秘密だとしても、少しは自重しなさい。あんたたちの関係を知ってる人間たちが、滝沢家のことをどう思うか、考えたことがあるの?」「申し訳ありません。次は……」由奈は一度口を開きかけ、言葉を飲み込んだ。次はない――そう思い直し、言い換える。「……もう、次はあり
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