All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話

由奈は、しばし彼を見つめたまま考え込んだ――自分はもうすぐ、海都市を離れるのだ。男性もその迷いを察したのだろう。無理強いするつもりはないとばかりに、穏やかに言った。「急なお願いをして、本当にすみません……」「いえ……ただ、海都市にいられる時間があまり長くなくて。短期間ならお手伝いできますけど、今後となると……」「それで十分です。短い間でも、助かります」由奈は彼の連絡先を追加しながら尋ねた。「お名前を伺っても?」「中道智宏です」一瞬、由奈の動きが止まる。――中道智宏(なかみち ともひろ)?まさか、自分の知っているあの中道家の人間なのか?「あなたは?」「池上由奈です」連絡先を交換すると、由奈は軽く会釈してその場を後にした。智宏は、何か思い当たることがあるかのように、去っていく彼女の背中を静かに見送った。……パシフィスガーデンに戻り、駐車を終えた由奈は、ふとバックミラーに映る一台の車に気づいた。祐一の車だった。運転手が後部座席のドアを開けると、歩実が健斗を抱いて降りてくる。続いて、祐一も降りた。歩実が何かを言ったのか、祐一は自然な仕草で健斗を抱き上げた。健斗は彼の首に腕を回し、小さな顔いっぱいに幸福そうな笑みを浮かべている。由奈は、無意識のうちにハンドルを強く握りしめていた。覚悟はしていても、こんな光景を見せられると、胸の奥がざらつく。――マンションに入るまで待とうか。そう思ったものの、すぐに首を振った。自分は何も悪いことをしていない。当然、避ける必要もない。由奈はシートベルトを外し、車を降りた。ドアを閉める際、手が滑り、鈍い音が空気を切り裂く。祐一が振り返る。一瞬だけ目を見開き、しかしすぐに何事もなかったかのように視線を戻した。歩実はわざと祐一に身を寄せ、まるで夫婦であるかのように微笑んだ。「あら、池上先生。偶然ね。今日は健斗の足のCT検査があって、祐一が病院まで付き添ってくれてたの。まさか帰ってきてすぐバッタリ会うなんて」由奈は乾いた笑みを浮かべる。「あなたたちが何をしていようと、興味ありません。わざわざ説明しなくて結構です。私は、あなたたちの保護者ではありませんから」その一言で、歩実の笑顔がぴたりと固まった。祐一の視線が由奈に留まる。その瞳の奥には、感情を測りかね
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第112話

由奈の反応を見た瞬間、祐一の顔が一気に曇った。彼女の手首を掴み、強引に自分のほうへ引き戻す。「どういうつもりだ?」祐一に掴まれるまま、由奈は身体を震わせた。唇の色は血の気を失っていく。「……気分が悪いの」祐一は彼女をじっと見据え、すべてを見透かしたように目を細める。その視線がどこまでも冷え切っていた。「本当か?それとも、ただ俺に抱かれたくないだけか?」いつからだろう。彼女が、こんなにも露骨に自分を拒むようになったのは。最初は、拗ねているだけだと思っていた。だが、今は違う。そんな単純なものではないと、はっきり分かる。由奈は彼を見つめた。その目は虚ろで、まるで魂の抜けた人形のようだった。「祐一……私は人間よ。血が通ってるし、喜怒哀楽もある。あなたの都合のいい道具じゃないの。あなたはもう、私を愛していないでしょ?それに長門先生も戻ってきた。だったら、無理に私に触れなくてもいいんじゃない?」祐一は、彼女の言わんとすることを理解しながらも、正面から向き合おうとはしなかった。手を伸ばし、彼女の後頭部を押さえて距離を詰める。「もう一度聞く……俺に、抱かれたくないのか?」由奈は深く息を吸い、顔を背ける。「そうよ」祐一の口元に、冷えた笑みが浮かんだ。「ふん……そのうち、そう言えなくなる」彼はベッドのそばに置いてあったジャケットを手に取り、そのまま部屋を出ていった。ドアが閉まり、室内に残るのは、由奈の沈黙だけだった。……翌朝。由奈は、けたたましい着信音に起こされた。通話ボタンを押した途端、耳に飛び込んできたのは、文昭の怒鳴り声だった。「由奈!お前は一体何をしたんだ!」由奈は一気に目が覚め、上半身を起こす。「……何があったの?」「浩輔に会いに病院へ行ったら、警備に止められた!祐一の指示だと言うんだ!」文昭の声は怒りに震えていた。「浩輔を滝沢家の病院で治療させてもらってるのは分かってる。だがいきなり面会禁止になったのはなぜだ?お前、何か祐一の機嫌を損ねることをしたんじゃないのか?浩輔の今の状態、お前にも分かってるだろう!何があっても、あの子のために我慢することくらいできないのか!浩輔は、お前のせいでああなったんだぞ!植物状態のまま、一生ベッドで生きることになってもいいのか!」言葉の一
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第113話

真希はまるで意に介さない様子で、声を荒げた。「金持ちに体を売ろうとしてるって言ってるの。何、図星を突かれて逆ギレ?ほんと、長門さんの言う通りよ。あんたみたいな女って、恥もなく男にすり寄って――」言い終わる前に、乾いた音がロビーに響いた。由奈の平手が、迷いなく真希の頬を打った。一瞬で、周囲の視線が集まる。真希は呆然と立ち尽くし、数秒遅れて状況を理解した。怒りに任せて手を振り上げた瞬間、由奈がその手首を掴み、もう一度頬を打ち抜いた。真希の身体がよろめき、横を向く。「あんた、よくも私を殴ったわね!」彼女は頬を押さえ、声を張り上げた。「警備員!早くこの人を捕まえて!」ほどなくして警備員が駆けつけた。真希は由奈を指差し、声を尖らせる。「この人よ!いきなり暴れて、私に暴力を振るったの!早く警察に突き出して!」由奈は表情を崩さず、低く言った。「ここにいる皆さんも見ていたはずです。理由もなく私を侮辱したのはそちらですよ。私は滝沢社長に用があって来ただけ。それを、女だからという理由で卑猥な噂を捏造された。同じ女性として、恥ずかしくありませんか?」一拍置き、続ける。「それとも、これが滝沢グループの企業理念ですか?女性が来ただけで、根拠もなく尊厳が踏み躙られると?」周囲の女性社員たちの表情が、次第に変わっていく。「……最低」「自分も女なのに、ああいう言い方するんだ」「あんな下品なことを言うなんて、ほんと引くわ……」真希の顔から血の気が引いた。「ば、バカを言わないで!だってあんた、予約もなかったじゃない!」「予約がないことと、人格を貶める発言は別問題です」由奈は淡々とスマホを取り出した。「できれば自分から連絡したくなかった。でも、あんなことを言われた以上、直接滝沢社長に連絡するしかなさそうですね」フロントがざわつく――まさか、由奈に祐一の連絡先を知っているなんて。真希の肩が、びくりと震えた。だがすぐに気を取り直し、強がるように胸を張る。――何年もここで働いてきた。女性のクライアントだって、数えきれないほど見てきた。でも、この女の顔には見覚えがない。どうせ、はったりに決まっている。真希は腕を組み、鼻で笑った。「どうぞ、かけてみなさいよ。社長と知り合いだなんて、冗談もほどほどにして」由奈は無
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第114話

由奈は操り人形のように、彼の膝へと腰を下ろした。自分でも嫌悪を覚えながら、祐一の胸元に手を伸ばし、無言でボタンを外していく。最後の一つを外したところで、手はベルトの金具の上で止まった。室内の冷房は強く、冷気が肌を刺す。指先が、わずかに震えた。祐一はソファの背にもたれたまま、動かない。「……どうした。続けないのか?」由奈は深く息を吸った――最悪、犬に噛まれたと思えばいい。そう自分に言い聞かせ、金具に触れた、その瞬間。手首を掴まれ、体が前へと引き寄せられる。言葉を発する間もなく、唇を塞がれた。「……っ」強引な温度に、由奈の心はどうしても追いつかない。無意識のうちに、彼を拒むように身を捩った。祐一は彼女の両手を押さえつけ、さらに距離を詰める。逃げ場を失った恐怖に、由奈は必死で歯を立てた。血の味が、微かに広がる。祐一は動きを止め、ゆっくりと離れた。その表情から、あらゆる感情が消えている。由奈は凍りついた――まずい。「ごめん……まだ、心の準備ができてなくて」祐一の手が彼女の顎を掴み、顔を上げさせる。「前みたいにするのが、そんなに難しいか?」難しいに決まっている。あの頃の自分は、無知で、愚かで、身の程を知らなかった。愛されていないと分かっていながら、心を動かせるはずだと信じていた。結果、滑稽な道化になっただけだ。本当は、深く傷ついたのは自分のほうなのに……感情が一気に溢れ、由奈の瞳から涙がこぼれ落ちた。真珠のように、祐一の指の上へと落ちていく。祐一の動きが、ほんの一瞬止まる。指先に、涙の熱が伝わったかのように。由奈はその冷たい横顔を見つめ、思わず口にした。「……私を、愛したことは?」祐一は眉をひそめ、取るに足らない問いだとでも言うように答えた。「社長夫人の座なら、君にやってもいい。言うことを聞くならな」やはり、そういう答えしか返ってこない。そう考えながら、由奈は、かすかに笑った。妻になれても、愛されることはない。「……私が従えば、浩輔を盾に取るのはやめてくれる?」「ああ、大人しく従ってくれればな」その答えで、十分だった。これ以上、期待する必要はない。少し自分が汚れるだけで、池上家への恩は返せる。そう思えば、耐えられる。由奈は再び、彼の服に手を伸ばした。だが、祐一は
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第115話

翌日。由奈がリビングに出ると、鈴木がテーブルに置いていた料理を片づけていた。皿の中身を捨てながら、もったいなさそうに呟く。「せっかくの料理なのに、食べてもらえないなんて……この暑さじゃ、すぐダメになっちゃいますよ」由奈は唇をきゅっと結んだ。料理は、昨日彼女が作ったものだった。祐一にも、ちゃんと連絡を入れている。でも、帰ってこなかった。やはり、昨日のことが相当気に障ったのだろう。「奥様、おはようございます」鈴木は片づけを終え、由奈を見上げた。「こちらの料理ですが……」由奈は小さく笑って答える。「昨日、祐一のために用意したの。帰ってくれると思って」「旦那様、お忙しかったんでしょうね」そう言ったあと、何か思い出したように鈴木が声を弾ませる。「そうだ、朝ごはんを持っていかれては?以前はよく、奥様が作っていらっしゃったじゃないですか」由奈は少し考え、うなずいた。簡単な朝食を用意し、弁当箱に詰める。それを手に、由奈は滝沢グループ本社へ向かった。昨日の一件ですでに顔が知られていたのか、受付係は彼女を止めなかった。むしろ笑顔で声をかけてくる。「社長にご用件でしょうか?」由奈はカウンターに弁当箱を置いた。「これを社長……秘書の土屋さんに渡してもらえますか?」受付係は一瞬きょとんとしたが、すぐに頷いた。「かしこまりました」由奈が去ったあと、弁当箱は麗子の手に渡った。「……池上さんから?」麗子は首を傾げた。自分宛て、というのがどうにも腑に落ちない。だがすぐに、麗子はその真意に気づいた。代わりに祐一に渡して欲しいのだろう。けど同時に戸惑いも生じる――朝食を作ってくれるなんて、もしかして由奈は祐一とよりを戻そうとしているのだろうか。麗子は弁当箱を持って、祐一の執務室へ向かう。室内では、祐一が窓際に立ち、誰かと電話をしていた。通話が終わるのを待ち、ノックをする。「社長」「どうした」「由奈さんから、朝食です」祐一は目を細め、彼女の手元の弁当箱を見た。昨夜は夕食。今日は朝食。やっていること自体は、以前と変わらない。だが、どこか決定的に違っていた。――浩輔のためなら、彼女はなんでもやってくれるらしい。祐一は表情を整えた。「そこに置いておけ」「かしこまりました」麗子が弁当箱をテーブルに置いた、そのと
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第116話

【長門先生のお子さん、父親って滝沢社長だったの?】【え……長門先生と滝沢社長に、子どもがいるの?】爆弾を落としたような噂が、グループ内を一気に駆け巡った。業務の合間を縫って、チャットは子どもの話題で埋め尽くされていく。その画面を眺めながら、由奈は乾いた笑いを浮かべた。――歩実が、わざわざ写真をこのグループに投げた理由。どう考えても、自分に見せつけるためだ。由奈は写真をタップし、静かに保存する。トーク画面に戻った直後、【このメッセージは送信取り消しされました】という文字が表示された。【ごめんなさい、みなさん。間違って送ってしまいました】【えー、長門先生、今さら消しても遅いですよ。もう見ちゃいました!】冗談めいた返信が、次々に流れてくる。【本当にごめんなさい。送信ミスでした。内緒にしてくださいね】そのやり取りを見つめながら、由奈はほんのわずかに口角を上げた。――内緒、ね。だったら、少しだけ手伝ってあげよう。由奈は保存した写真を開き、義母の千代のトーク画面へと転送する。【お義母さん、どうやらお孫さんができたみたいです】その頃、千代は数人の友人と美容サロンでフェイシャルエステを受けていた。由奈からメッセージが届いたのを見て、少し眉をひそめる。トーク画面を開いた瞬間、彼女はベッドから勢いよく起き上がった。「ちょっと、千代さん、どうしたの?まさか旦那さんが浮気でも?」隣の友人が怪訝そうに尋ねる。「するわけないでしょ!」千代は苛立たしげに言い返し、ブランケットをはねのけて立ち上がると、そのまま祐一に電話をかけた。コール音が二度鳴り、すぐに繋がった。「もしもし、母さん?」千代は冷静に問いかける。「……今、どこにいるの?」「外だ」「誰と?」祐一はベンチから立ち上がり、メリーゴーラウンドの方へ一瞥すると、煙草を取り出しながら答える。「友人と、少し話を」「話?子どもの話かしら?」煙草を取り出す指が、ぴたりと止まる。祐一は目を上げた。「……どういう意味だ?」千代は、彼の嘘を見抜いたように苦笑した。「祐一。あんた、歩実と子どもを連れて遊園地にいるんでしょう?あの子はあんたの子じゃないって言ってたじゃない。それ、嘘だったの?」祐一の顔がわずかに曇る。「その話、誰から聞いた?」歩実親子
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第117話

「いえ、ただ、池上さんと気が合うと思って」智宏は母親に視線を向けた。「それに、母もあなたに懐いていますし、これは、あなたが受け取るべき報酬ですよ」由奈はコーヒーカップを手に取り、少し間を置いてから口を開いた。「中道さん、失礼を承知でお聞きしたいんですが、お母さんは……どうして今の状態に?」二人は由奈が知っている中道家の人間かどうかは定かではないが、身なりや立ち居振る舞いからして、明らかに一般家庭ではない。そんな家が、精神に障害を抱える女性を妻に迎えるとは考えにくい。先天的というより、何か衝撃的な出来事があってこうなったのだろう。智宏は指先でテーブルを軽く叩いた。「実は……僕には妹がいたんです」由奈は一瞬、言葉を失う。「……妹さん?」彼は小さく頷いた。「母は妹を出産しました。でも、医師からは死産だったと告げられて。自分の子どもが目の前で亡くなった――その瞬間から、母の精神は不安定になったんです。正気なときもありますが、そうでないときは多い。今もずっと、妹は生きていると信じているんですよ」「……そうだったんですね」由奈は、隣で人形にミルクを飲ませている恭子を見つめた。「子どもを失うなんて……母親にとって、きっと大きなショックだったんですね」胸の奥が、ちくりと痛む。――こんなふうに、親に想われる子どもたちが羨ましい。由奈は、生まれた瞬間に実の親から捨てられた。愛されることを知らないまま育ったからこそ、誰かの愛を求めて必死になっていた。そんな自分はすごく惨めで、滑稽なのだ。でも、もういい。今の自分には、守るべきものも、失うものもない。……午後、ひと雨降った。中道家の運転手に送られ、由奈がパシフィスガーデンに戻り、エレベーターを降りた瞬間、煙草の匂いが鼻を突いた。祐一が、エレベーター横に立っていた。その眼差しは底の見えない暗い海のようだ。「……あの写真、母に送ったのは君か?」――やっぱり聞かれたのか。由奈は否定しなかった。「ええ、そうよ」祐一の目が細くなり、空気が不穏になる。「なぜその写真を持っている?」由奈は事前に用意していたチャット履歴を見せ、パッと笑顔になる。「あなたの初恋が、わざわざ仕事用のチャットグループに送ったのよ?おめでとうございます、滝沢社長。これで滝沢家も跡継ぎに困りませんね
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第118話

陽子はこの店の常連で、しかもVIPのようだ。スタッフたちは彼女一人でどれほどの売り上げを立ててきたかをよく知っている。そのため、店に入るなり、忙しくお茶を出したり席を勧めたりと、露骨なまでの厚遇ぶりだった。「池上先生って、お給料はいくらくらいなの?」陽子は手元のブランドバッグを指先でなぞりながら、値踏みするような目を向ける。「その収入で、よくこういうお店に来られるね。若い人って、背伸びしたがるものだけど……無理は身を滅ぼすわよ?」由奈はふっと笑った。「なるほど。じゃあ、ご主人が違法すれすれのことをして得たお金で散財するのは、背伸びじゃないんですね。留置所にいる加藤先生が聞いたら、どう思うでしょう?」「……っ、何を言ってるの!」その一言で、陽子の顔色が変わる。「その話を、まだ持ち出す気?」恭子が、陽子を睨みつけ、鼻を鳴らした。「この意地悪な人、ゆうちゃんに怒鳴るなんて。罰が当たるわよ」「誰が意地悪ですって!?この年寄り――!」恭子は一瞬たじろぎ、由奈の背中にさっと隠れる。そして半分だけ顔を出し、子どもみたいに首をかしげた。「年寄り?年寄りって、誰のことかしら?」「……あんた!」隣のスタッフに小声で制されたのか、陽子は大きく息を吐き、「頭のおかしい人間と張り合うつもりはない」とでも言いたげな表情になる。「本当、似た者同士が集まるものだね」由奈は一歩、距離を詰め、意味深に言う。「ええ、そうかもしれませんね。だからあなたも、長門先生のために、後ろ暗いことをしたんでしょう?」陽子の肩が、わずかに揺れた。視線を逸らし、強がるように言い返す。「……何を言ってるの?心当たりがないわよ」「心当たりがあるのかどうか、あなたが一番わかってるでしょ?特に、三浦聡って名前、聞いたことがありますよね?」由奈は陽子を睨み、彼女のどんな些細な表情も見逃さない。陽子の不自然な反応こそ、彼女が浩輔の件に関わっている何よりの証拠だ。次の瞬間、陽子の指がバッグをぎゅっと握り締めた。顔をあげ、強気に言い切る。「知らないわ、そんな人。勝手な妄想で絡まないで」そう言って、苛立ったようにスタッフを振り返る。「もういいから、この人たちを外に追い出して。目障りよ」スタッフが困った顔で口を開こうとした、そのとき――店の入口から、智宏がボディーガード
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第119話

「……中道、ですって?」陽子の表情が、みるみる強張っていく。「あ、あんた……あの中道家の人間なの……?そんなはず、ないでしょう……!」――栄東市の中道家。その名が出た瞬間、由奈でさえ息をのんだ。彼の「中道」という苗字を、てっきり別の漢字だと思い込んでいた。まさか、南部を牛耳る財閥の御曹司だとは。そして同時に、滝沢家が縁談を狙ってた、あの中道家でもあるのだ。スタッフが小声で陽子に囁く。「加藤様……そのカード、本物です」陽子の足元が、わずかに揺れた。それでもなお、信じきれない様子で首を振る。――南部一の名家。その当主の妻が、精神疾患を抱えているなんて、どう考えてもありえないのだ。「この店、貸し切りだと言いましたよね」智宏はスタッフへ視線を向ける。口元には柔らかな笑みを浮かべたままだが、その目は一切笑っていなかった。スタッフは一瞬で理解し、陽子のそばへ歩み寄る。「……恐れ入りますが、先にお帰りいただけますか?」陽子は唇を噛みしめ、由奈を睨みつけたまま踵を返そうとした。「待ってください」由奈の声が、後ろから響く。胸がひやりとした――まさか、まだ浩輔の件で自分を問い詰めようと?由奈は静かに彼女を見据える。「さっき、中道さんのお母さんにひどいことを言いましたよね。謝罪は?」由奈の言葉を耳にして、智宏は思わず彼女を見た。――栄東市では、母に近づいてくる女は後を絶たなかった。だが、その目的はいつも分かりやすい。自分に取り入ること、利益や肩書きを得ること。そんな思惑ばかりだ。けれど、由奈は違う。見返りを求めるような視線を、これまで一度も向けてこなかった。初めて会ったときから、なぜか心に引っかかる存在だった。彼女を助けたのは偶然だったはずなのに、そこには見えない縁のようなものを感じてしまう。何より、警戒心の強い母が、理由もなく彼女に懐いた――それ自体、これまでにないことだった。中道家の名を前に、陽子はもはや強く出られない。歯を食いしばり、屈辱を飲み込むようにして、絞り出すような謝罪を口にした。それを見た他のスタッフたちも、慌てて頭を下げる。誰一人、由奈に促されるまでもなかった。由奈は、子どもをあやすような声音で恭子に声をかける。「恭子さん、ほら。ちゃんと謝ってもらえましたよ。もう大丈夫ですね?」
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第120話

夕暮れ時。智宏は自らハンドルを握り、由奈をパシフィスガーデンまで送り届けた。由奈が車を降りようとしたそのとき、彼がふと口を開く。「今夜、八時以降は空いていますか?」ドアに手をかけたまま、由奈は振り返った。「どうかしましたか?」「夜にパーティーがあって。海都市に来てまだ日が浅く、知り合いも多くないので……もしよければ、僕の連れとして来ていただけませんか?」智宏は彼女を見つめ、念のためといった調子で付け加えた。「報酬は、上乗せします」由奈は迷うことなく頷いた。「いいですよ」あまりに即答だったためか、智宏は一瞬言葉を失い、それから小さく笑った。すると由奈は、急に真剣な表情になった。「報酬は、増やさなくて大丈夫です。恭子さんの顔を立てる、ってことで」一日二百万円。それ以上を求めるほど、彼女は欲深くなかった。智宏の目に、はっきりとした驚きが浮かぶ。やがて、目元を和らげて微笑んだ。「では、あとで迎えに来ます」彼の車が去ったあと、由奈は部屋に戻り、シャワーを浴びた。タオルで髪を拭きながら、引き出しを開ける。中には、使われないまま並ぶ化粧品の数々。……そういえば。自分も、かつては身だしなみに気を配る女だった。鏡に映る顔を見つめると、六年間、愛してもらおうと祐一に合わせ、卑屈になっていた自分の姿が浮かぶ。次の瞬間、由奈は決めた。過去を忘れ、我慢も無理もせず、自分らしく生きようと。……夜の帳が下り、街は光に満ちていた。智宏は車のそばで由奈を待っていた。そこへ、ゆっくりと歩いてくる一人の女性が視界に入る。Uネック、ベルベット素材のクラシカルな赤いドレス。足元は華奢なストラップヒール。長い髪はゆるく巻かれ、肩口に柔らかく落ちている。濃い顔立ちの彼女は、過度なメイクをせず、唇にだけ紅を差していた。それが、かえって端正な目鼻立ちを際立たせている。智宏はそんな彼女を見て、率直に言った。「とても似合っていますよ」「ありがとうございます」由奈も、自然に笑みを返す。由奈は、今夜の会がチャリティーパーティーだということだけを聞いていた。主催は、どこかの企業の会長。招待客は多くないらしい。会場は――京味軒。海都市随一の高級レストランだ。食事だけでなく、国内で唯一、古美術の競売資格を持つ飲食店としても知られている
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