由奈は腕を引こうとしたが、簡単には抜けなかった。しばらくもがいた末、思わず苦笑が漏れる。「……祐一。前に言ってたよね。距離を置きたい、誤解されたくないって。自分で言ったこと、もう忘れたの?」祐一はわずかに眉をひそめた。確かに――そんなことを言った記憶がある。だが、彼女は気に留めていないと思っていた。手首を掴んでいた力が、ほんの少し緩む。「よく覚えてるな」「記憶力だけはいいの。あなたが忘れても、私は忘れてないことがある」由奈はその隙に、きっぱりと腕を引き抜いた。今のは含みのある言い方だった。何度も、何度も彼を試してきた。けれど返ってくるのは、いつも沈黙だけ。――かつての出来事は、彼にとっても悪夢だったのだろう。忘れられるなら、忘れてしまえばいい。由奈はどこか距離を保った笑みを浮かべる。「前みたいに、互いに関わらない関係でいいと思う。今日のことは……助けてくれてありがとう。でも、あれはあなたがすべきことだった。それ以上でも以下でもない。借りはないわ」祐一の返事を待つことなく、由奈は踵を返した。振り返りもせず、その場を後にする。祐一は庭に立ち尽くしたまま、彼女の背中を見送る。その瞳に、一瞬だけ複雑な気持ちがよぎった。……文昭と久美子は、病院からの帰り道、やけに周囲の視線を感じていた。すれ違う近所の人たちが、ひそひそと何かを囁いている。久美子には、この空気が嫌というほど分かる。どこの家でも、ちょっとした噂が立てばこうなるのだ。「おや、文昭さんじゃないか。帰ってきたのかい?」道端の露店の主人が声をかけてきた。日頃から遠慮のない性格で、噂話が大好きな男だ。「聞いたんだけどさ……あんたんとこの娘さん、金持ちの愛人してるって話、本当なの?」その一言で、二人の顔色が変わった。「ふざけるな!」文昭が声を荒げる。「そんなデタラメを言ったのは誰だ!」「さあねぇ。俺も人づてに聞いただけだよ。でも、この辺じゃもう広まってる」周囲には、いつの間にか野次馬が集まり始めていた。文昭は怒りで顔を真っ赤にする。「誰だ、そんな噂を流したのは!うちの娘が愛人なんて、するわけない!」「いやいや……」別の住人が口を挟む。「あんたずっと娘さんは結婚してるって言ってたよな?なのに、帰ってくるのは娘さん一人だけで、婿さんは一度も見たことがない」
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