All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 131 - Chapter 140

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第131話

由奈は腕を引こうとしたが、簡単には抜けなかった。しばらくもがいた末、思わず苦笑が漏れる。「……祐一。前に言ってたよね。距離を置きたい、誤解されたくないって。自分で言ったこと、もう忘れたの?」祐一はわずかに眉をひそめた。確かに――そんなことを言った記憶がある。だが、彼女は気に留めていないと思っていた。手首を掴んでいた力が、ほんの少し緩む。「よく覚えてるな」「記憶力だけはいいの。あなたが忘れても、私は忘れてないことがある」由奈はその隙に、きっぱりと腕を引き抜いた。今のは含みのある言い方だった。何度も、何度も彼を試してきた。けれど返ってくるのは、いつも沈黙だけ。――かつての出来事は、彼にとっても悪夢だったのだろう。忘れられるなら、忘れてしまえばいい。由奈はどこか距離を保った笑みを浮かべる。「前みたいに、互いに関わらない関係でいいと思う。今日のことは……助けてくれてありがとう。でも、あれはあなたがすべきことだった。それ以上でも以下でもない。借りはないわ」祐一の返事を待つことなく、由奈は踵を返した。振り返りもせず、その場を後にする。祐一は庭に立ち尽くしたまま、彼女の背中を見送る。その瞳に、一瞬だけ複雑な気持ちがよぎった。……文昭と久美子は、病院からの帰り道、やけに周囲の視線を感じていた。すれ違う近所の人たちが、ひそひそと何かを囁いている。久美子には、この空気が嫌というほど分かる。どこの家でも、ちょっとした噂が立てばこうなるのだ。「おや、文昭さんじゃないか。帰ってきたのかい?」道端の露店の主人が声をかけてきた。日頃から遠慮のない性格で、噂話が大好きな男だ。「聞いたんだけどさ……あんたんとこの娘さん、金持ちの愛人してるって話、本当なの?」その一言で、二人の顔色が変わった。「ふざけるな!」文昭が声を荒げる。「そんなデタラメを言ったのは誰だ!」「さあねぇ。俺も人づてに聞いただけだよ。でも、この辺じゃもう広まってる」周囲には、いつの間にか野次馬が集まり始めていた。文昭は怒りで顔を真っ赤にする。「誰だ、そんな噂を流したのは!うちの娘が愛人なんて、するわけない!」「いやいや……」別の住人が口を挟む。「あんたずっと娘さんは結婚してるって言ってたよな?なのに、帰ってくるのは娘さん一人だけで、婿さんは一度も見たことがない」
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第132話

怒りがなかなか収まらない文昭はこのメッセージを目にした瞬間、「絶対に噂を流した相手を見つけてやる」と思った。だが、表示された住所を見て、思わず動きが止まる。――パシフィスガーデン。久美子も文昭の手からスマホを受け取り、画面を確認する。「パシフィスガーデンって、由奈たちの家じゃ……」文昭の表情が一段と険しくなった。「行ってみる。どこの誰が、こんなことをしてるのか、この目で確かめる」その言い方に、久美子は嫌な予感がした。夫の気性をよく分かっているからこそ、放っておけない。結局、二人はタクシーでパシフィスガーデンへ向かった。車を降りた直後、スマホにまたメッセージが届いた。そこに住所が記されている――近くの商業エリアにあるカフェの二階。久美子と文昭は顔を見合わせ、そのままカフェへ向かった。階段を上がり、二階のテラス席へ出ると、そこには若い女性と小さな男の子がいた。客は、その二人だけ。久美子は女性の顔をじっと見つめ、彼女が誰なのか、ほぼ確信していた。文昭が一歩前に出る。「さっきのメッセージを送ったのは、あんたか?」女性はコーヒーをかき混ぜながら、顔も上げずに答えた。「ええ、私です」そして、ゆっくりと視線を上げる。「池上文昭さんですね。私は長門歩実、娘さんから私の話は聞いていますか?」長門歩実……文昭は一瞬、言葉を失った。彼女は淡々と続ける。「ところで……ご子息の具合は、いかがですか?」文昭の手が、ぎゅっと拳を握りしめる。「……やっぱり、あんただったのか?」久美子が文昭を落ち着かせようと、彼の腕を掴んだ。そして歩実に向き直り、深く一息ついてから言う。「長門さん。浩輔があなたを拉致した件は、親として責任を感じています。あの子も……すでに、代償は払いました。これ以上、何か望むことがあるんですか?」「望むことって?」歩実は鼻で笑い、姿勢を変えて二人を見上げた。「もちろん、あなたたちの恥知らずの娘が愛人だってことを、世の中に知らしめすことですけど?いいですか?祐一と私は、もう子どももいます。それなのに、あの女が割り込んできた。そんな最低で恥知らずの行為を、親としてなんとも思わないんですか?」「ふざけるな!」文昭が怒鳴り声を上げ、顔を真っ赤にする。その迫力に、健斗の小さな体がびくりと震えた。「文昭!」久美子は
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第133話

健斗が二階から落下した瞬間、通りを歩いていた人々も、店内の客も一斉に悲鳴を上げた。「子どもが……子どもが落ちた!」通行人が慌てて救急車を呼び、数人が駆け寄って健斗の様子を確認する。その背後から、歩実が取り乱した様子でカフェを飛び出してきた。「健斗――!」人だかりを押し分け、彼女は一気に駆け寄ると、地面に横たわる健斗を抱きしめた。涙を流し、声を震わせながら、何度も繰り返す。「ごめんね……ママが守れなかった……ごめんね、健斗……!」そこへ、文昭と久美子も遅れて階段を駆け下りてくる。歩実は血走った目で二人を指さし、叫んだ。「この人たちよ!この人たちが、私の息子を突き落としたの!」一瞬で、空気が変わる。「なんてことするんだ!子ども相手に、ひどすぎる!」「そうだ!こんなことをするなんて、人間じゃない!」怒号が次々と飛び交う中、文昭は顔を真っ赤にして声を張り上げた。「でたらめを言うな!突き落としたのは、あいつ自身だ!」「そうです!」久美子も必死に訴える。「私たちは何もしていません!」だが、子どもが実際に落ちている以上、しかも二階には他の目撃者はいない。誰が嘘をついているのか、周囲には判断がつかなかった。歩実は健斗を強く抱きしめたまま、呆然と首を振る。「この子は、私のたった一人の息子よ……母親が、自分の子を傷つけるなんて、できるわけがないでしょ?」涙を流しながら、訴える。「あなたたち、娘を守るために、私に祐一と別れて欲しいでしょ?いいよ、私が引けばいい、この子まで巻き込む必要がなかったでしょ?」そして健斗を抱きしめながら声をあげる。「健斗、お願い……しっかりして……!救急車はまだなの?救急車……早く……」その必死な姿に、胸を打たれる者も少なくなかった。母親が、我が子を愛さないはずがない――そんな先入観が、自然と人々の心を支配していく。いつの間にか、非難の矛先は文昭と久美子に向けられていた。中には、飲み残しのコーヒーを二人にかける者までいる。久美子は反射的に文昭の前に立ち、かばった。コーヒーが彼女の服に飛び散り、洋服が一気に汚れる。狼狽える妻の姿に、耳元で飛び交う罵声――文昭の胸が、ぎゅっと締めつけられた。視界が揺れ、耳鳴りがし、息がうまく吸えない。胸の奥に、鋭い痛みが走る。「……っ」膝
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第134話

由奈はその知らせを受けると、まっすぐ病院へ駆け込んだ。向かった先は、霊安室だった。扉を開けると、遺体保存冷蔵庫の前から一歩も動かずに立ち尽くす久美子の姿があった。顔色は完全に失われ、医師がどれほど声をかけても、そこから離れようとしなかった。「池上先生……ご家族ですし、あなたから話していただけますか?」居合わせた医師が、気遣うように由奈を見る。医師が席を外すと、由奈はゆっくりと、一歩ずつ冷蔵庫へ近づいた。扉の向こうに横たわる中年の男――文昭。見慣れたその顔は、愛憎が入り混じるほどに、あまりにも身近で。胸の奥が、きつく締めつけられた。彼女は、死に慣れている。病院では、病死も事故死も、救えなかった命も、日常の延長線上にある。けれど――目の前にあるのが、育ちの親となると、話はまったく別だった。胸がひくりと震え、由奈は大きく息を吸って、ようやく立っていられた。視界が滲み、涙がぽろぽろと零れ落ちる。「……母さん、どういうことなの?」声が震える。「嘘だよね?私を離婚させないために……父さん、倒れたふりをしてるだけだよね??そうやって、私を引き止めようとしてるんでしょ?」久美子の返事がない。「答えてよ……お願いだから……!」由奈の悲鳴に、久美子はようやく現実に引き戻されたようだった。虚ろな目で娘を見つめ、乾ききった唇を、ゆっくりと動かす。「……嘘じゃない、お父さんは……亡くなったの」由奈の泣き声が、ぴたりと止まる。そのまま、しばらく立ち尽くしていた。やがて、深く息を吐き、感情を無理やり押し殺す。「……何があったの?」久美子は黙ったまま。由奈は彼女の肩を掴む。「母さん!お願い、ちゃんと話して!何が起きたの?」久美子は俯いたまま、声を落とした。「……長門さんよ」そして、あのカフェで起きた出来事を、一つ残らず語った。由奈は、表情一つ変えずに聞き終えた。長い沈黙のあと、踵を返す。「由奈、行かないで……!」久美子が慌てて彼女の腕を掴む。「証拠がないの……あの人には勝てないわ!」由奈は振り返りもしなかった。低く、冷えた声で言う。「証拠は……いずれ出るわ」そう言い残し、彼女は霊安室を後にした。……健斗は緊急手術の末、一命を取り留め、ICUから一般病棟へ移された。「祐一……本当に、怖かった…
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第135話

由奈は父の葬儀を終え、久美子を連れて帰ろうと病院を出た。建物を出たところで、彰と顔を合わせる。車から降りてきた彰は、二人の姿を見るなり足を止め、静かに声をかけた。「……大変だったね。話は聞いたよ」由奈は一瞬だけ視線を彷徨わせ、何も答えられずに唇を噛んだ。彰は久美子に向かって、丁寧に頭を下げる。「久美子さん、ご愁傷さまです」久美子は小さく頷いただけだった。表情は抜け落ち、視線も定まらない。人の形をしているだけで、中身が空っぽになってしまったようだった。「彰さん……」由奈が掠れた声で言う。「先に、母を家へ連れて帰ります」「その状態じゃ心配だ。僕が送るよ」少し迷ってから、由奈は頷いた。「では……お言葉に甘えて」彰は二人を乗せ、池上家へと車を走らせた。家の前に着くと、何も知らない近所の住人が声をかけてくる。「まあ久美子さん、娘さんと一緒?あらあら、その方は婿さん?」「婿」という言葉に、彰の手が一瞬止まった。久美子は何も聞こえていない様子で、反応すら示さない。由奈も、母を支えることに気を取られ、その言葉を受け止める余裕はなかった。愛想のない二人の態度に、住人は首を傾げる。「何よ、暗い顔して……縁起でもないわね」由奈は振り返らず、そのまま家の中へ入った。彰も手を貸し、久美子を寝室まで連れていく。ベッドに腰を下ろした久美子は、しばらく沈黙したあと、ぽつりと口を開いた。「……一人にして」由奈は胸の奥が締めつけられた。だが、突然夫が亡くなった今、久美子には気持ちを整理する時間が必要なのだと分かっていた。「……分かった。外にいるから、何かあったら呼んで」そう言って、静かに部屋を出る。リビングで待っていた彰が、由奈を見た。「久美子さんの様子は?」由奈は小さく頷く。「ひとまず……大丈夫でしょう」「由奈ちゃん」彰は一歩近づき、そっと彼女の肩に手を置いた。「無理しないで。僕にできることがあったら、何でも言って」その言葉を聞いた瞬間、由奈の中で張りつめていたものが切れた。「泣きたいなら、我慢しなくていいよ」由奈は思わず口元を押さえ、声を殺して泣き出した。彰は何も言わず、ただ静かに彼女を抱き寄せ、背中を撫でる。由奈の肩が、小さく震え続けていた。……三日後。文昭の葬儀は、簡素に執り行われた。だが、
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第136話

さすがに面目が立たなくなったのか、静子はついに本性を剥き出しにした。「小娘が、何を偉そうに言ってるんだい!文昭は私の息子よ。私がどう扱おうと勝手でしょ!」さらに声を荒らげる。「今日はね、あの子のものは全部――渡す気があろうとなかろうと、置いていってもらうよ!」その瞬間、乾いた音が部屋に響いた。由奈の平手が、静子の頬を打ったのだ。あまりにも突然の出来事で、誰一人として反応できなかった。「由奈!正気か!」由奈の叔父、義昭が声を荒らげる。「正気じゃないよ」由奈は淡々と答え、懐から果物ナイフを取り出した。刃先を向け、薄く笑う。「近づいた人から、刺すわよ」義昭の顔色が変わる。「ちょ、ちょっと待て。話し合おう、な?刃物を出す必要は――」「何を怯えてるの?」真理子が鼻で笑った。「相手はか弱い小娘よ。本気で刺せるわけないじゃない」由奈は小さく首を傾げる。「……私の職業、忘れてない?」手首を返し、ナイフを軽く操る。「私は医者よ。殺さずに、どこを刺せば一番苦しいかくらい、知ってるわ。それに、ここ――防犯カメラがないよね。あなたたちの証言だけじゃ、有力の証拠にはなれない。そうだね……最初は、叔母さんからにしましょうか」一歩、踏み出した瞬間。「ひっ……!」真理子は悲鳴を上げて後ずさりし、顔面が真っ青になる。「む、無理!この子、本当に頭がおかしい!」「い、一旦引くぞ!もうあいつに関わるな!」義昭が慌てて叫び、真理子たちを引き寄せ、逃げようとする。数人は蜘蛛の子を散らすように、その場を後にした。最後に、芳美だけが振り返り、由奈と久美子を見つめて、深く息を吐いた。そして何も言わず、静かに出ていく。――ようやく、式場に静けさが戻った。「由奈……」背後で、久美子が声を震わせる。目尻が赤くなっていた。「お母さんのせいで、あんたにこんな思いをさせて……ごめんね」由奈はナイフを置き、すぐに振り返る。「そんな言い方しないで。育ててくれた恩は、何にも代えられないんだから」久美子は首を横に振り、由奈の手を握った。「……もう、これ以上あんたの足を引っ張れないわ。あんたは、本当のご両親のところへ行くべきよ。もっと……幸せになれる場所が、きっとあるはずなの」由奈は一瞬、言葉を失った。それから、ゆっくりと久美子の手を握り返す。「……その話は
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第137話

身内以外の人間に、自分の取り乱した姿を見せられたくなく、久美子はそっと涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。「彰くん……来てくれたのね」この三日間、文昭の葬儀の段取りは全部彰が手伝ってくれていた。そのおかげで、久美子の中で彼への信頼は自然と芽生えていた。「手が足りないかと思って」彰は静かに頭を下げる。久美子はかすかに笑った。「もう大丈夫よ。あの人も……大げさな式なんて望んでないでしょうから」今のような修羅場を、文昭はあの世からでも見たくないだろう。文昭の遺骨は、その日のうちに霊園へと納められた。参列者は、久美子と由奈、彰、そして彰の運転手の四人だけ。それで、葬儀が終わった。……滝沢家の本邸。祐一は書斎でスマホを握りしめたまま、画面を見つめ続けていた。三日。由奈は一度も戻ってきていない。電話も、メッセージもない。「祐一!」怒鳴り声とともに、千代が勢いよく書斎に入ってくる。「どういうつもりなの!あの子を滝沢家に住まわせるなんて、正気じゃないわ!」祐一はスマホをしまい、ゆっくり顔を上げた。「子ども一人くらい、大目に見てやってくれ」「あんたの子でもないでしょう?」千代は苛立ちを隠そうともしない。「自分では産まないくせに、よその女の子どもを抱え込む気?」祐一は鼻すじを押さえ、目を閉じた。疲労が、隠しきれずに滲む。「一時的に、預かるだけだ」「私は反対よ!」彼は小さく笑った。「母さんに世話をしてもらうわけじゃないから、安心してくれ」「そういう問題じゃないでしょう?そんなことしたら、世間は滝沢家のことをどう見るの?由奈はどう思うの?」祐一は一体何を考えているのか、頭をかち割って中を覗きたい――そんな表情だった。祐一はネクタイを緩める。「母さんは、彼女のことが嫌いだろ?」「そうよ。でもね、私は分別はあるの!由奈は、今もうちの嫁よ。愛人の肩を持って、嫁を追い込むほど、私は愚かじゃない!」「愛人」という言葉が嫌いなのか、祐一は眉をひそめて言った。「……俺は歩実と付き合っていない」その反論に、千代は鼻で笑った。「その言い方じゃ、あんたたちに何もないなんて、誰も信じないわよ」「信じなくても結構、やってないことはやってないんだ」祐一はそれ以上、口論を続けなかった。屋敷を出ると、待機していた麗子が電話
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第138話

彼女の瞳に渦巻く憎しみを見て、祐一の胸は、湿った綿を詰め込まれたように重かった。数分間の膠着の末、彼は由奈の手首を掴んでいた力を、ゆっくりと緩める。「……すまない。救急車があんなに遅れるとは、思っていなかった」常に冷静で、プライドの高い彼が、頭を下げ、申し訳なさそうに謝罪をした。けれど――すべては、あまりにも遅すぎた。由奈の目は赤く染まり、喉の奥に鉄錆のような味が広がる。彼女は、乾いた笑いを漏らした。「胸痛や脳卒中の患者が最優先で処置されるってこと、あなたが知らないわけじゃないよね?」声が、次第に震えを帯びていく。「二階から、たった二メートルちょっとの高さから落ちた子どもが、数分も救急車を待てないと思う?より重篤な心筋梗塞の患者がいるのに?その数分が……父にとっては助かるかどうかの分かれ道だったのよ?」感情が決壊し、由奈の身体は制御できないほど震え出す。息がうまく吸えず、視界が揺れ、今にも意識が遠のきそうだった。祐一の胸がきゅっと締めつけられ、反射的に彼女を腕に抱き寄せる。「由奈!」「触らないで!」彼女は必死に拒み、突き飛ばしたその瞬間、力が抜けるように床へ崩れ落ちた。耳に残った最後の音は、切迫した祐一の声だった。七月の終わり、午前五時。窓の外はすでに白み始めている。由奈が再び目を開けると、視界に入ったのはベッド脇に吊るされた点滴だった。見慣れた室内の調度と、かすかに漂う消毒液の匂いで、ここが滝沢家の病院だと理解する。「……目が覚めたか」低く、掠れた声。由奈が顔を向けると、祐一が窓際のソファに腰掛け、雑誌を手にしていた。ジャケットは椅子の背に掛けられ、目元には隠しきれない疲労が滲んでいる。どうやら、一睡もしていないらしい。以前なら――こんなふうに寄り添われただけで、胸がいっぱいになっただろう。けれど、今はもう、何も響かなかった。由奈が起き上がろうとすると、祐一が眉をひそめ、雑誌を無造作に放り投げてベッド脇に立つ。そのまま、彼女の肩を押さえて寝かせた。「気が張りすぎてる。疲労も溜まってるんだ。今は休むべきだ」文昭が亡くなったあの三日間、由奈はろくに眠れていなかった。パシフィスガーデンに戻った時点で、限界だったのだ。由奈は不機嫌そうに言い返す。「……トイレに行くくらい、いいでしょ」祐
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第139話

離婚協議書は、弁護士によって速達の機密書類として、滝沢グループ本社に届けられた。宛名は祐一。「速達」かつ「機密」、しかも受取人が社長となれば、受付のスタッフは迷わず麗子へ回した。麗子は封筒を受け取り、差出人が南区法律事務所であることに一瞬だけ首をかしげた。ただ、こうした速達の書類は、本人以外が中身を知るべきものではない。そう判断し、余計な詮索はせず、書類を祐一に届けた。「社長、書類が届いています。南区法律事務所からです」祐一は契約書から目を離さぬまま、手を伸ばして封筒を受け取った。封を切ろうとした、その時――スマホが鳴った。画面を見れば、病院からの着信だった。電話に出て、短いやり取りのあと、彼は絞り出すように答える。「……わかった」通話を切ると、祐一は封筒を机の端に置き、片手で眉骨を覆った。親指でこめかみを押さえ、数秒、目を閉じる。「影山彰の動きを、少し見ておいてくれ」麗子は理由を問わず、静かに頷いた。「承知しました」……退院手続きを終えた由奈が久美子と病院の外へ出ると、彰はすでに車にもたれて待っていた。今日はデニムシャツに白いTシャツ、黒の細身のパンツをブーツに合わせた、肩の力の抜けた装いだ。もともと若々しい顔立ちも相まって、ぱっと見では大学生に見えるほどだった。由奈は一瞬、誰かわからず目を瞬かせる。「……彰さん?どうしてここに?」「私が呼んだのよ」久美子が先に答え、柔らかく笑う。「お父さんのことで、三日間も付き添ってくれたでしょう。お礼に、うちで食事でもと思って」彰は微笑み、二人のために車のドアを開けた。車が走り出すと、助手席の久美子は遠慮なく話しかけ始める。結婚はしているのか、恋人はいるのか、気になる人はいるのか――質問が途切れることはなく、彰も次第に苦笑いを浮かべた。見かねた由奈が口を挟む。「母さん、そろそろやめてあげて。お見合いじゃないんだから」久美子は振り返って由奈を見る。「それはそうだけど……由奈はいずれするでしょ?」由奈は言葉を失った。その時、彰がバックミラーに視線を向け、二人の目がぶつかる。由奈は慌てて目を逸らし、鼻先を軽く押さえた。「母は……冗談だから。彰さん、気にしないで」「大丈夫。気にしてないよ」彰はそう言って、穏やかに笑った。久美子は小さく息
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第140話

彰は、由奈の視線を追って振り返った。その先で、祐一と真正面から目が合う。男同士には、言葉を交わさずとも通じ合ってしまう空気がある。だがそれは、決して好意から生まれるものではなかった。彰はわずかに口元を緩め、含みのある声で言う。「滝沢社長。今日は病院で彼女に付き添っていなくていいんですか?」祐一は車を降り、こちらに近づくと、静かに彰を見下ろした。「影山さんは、俺のプライベートをどこまで把握しているつもりだ?」「半分くらいでしょうか」彰は一歩近づく。「少なくとも、滝沢社長ご本人よりは、事情を知っている自覚はあります」「睡眠医療のプロジェクト」祐一が淡々と続ける。「あれは、お前の担当なんだな?」彰の笑みが、ほんの一瞬だけ薄れる。「それが何か?」「いや、別に」祐一は彼を横目に、そのまま通り過ぎた。「ただ、それのどこまでが善意で、どこからが計算なのかと思っただけだ」彰の瞳の奥に、かすかな鋭さが宿る。祐一は由奈の前で立ち止まった。「もう退院したのか?」「あなたに関係ないわ」由奈が彰のほうへ向かおうとした瞬間、手首を強く掴まれる。振りほどこうとしたが、祐一はそのまま腕を回し、彼女を抱え込んだ。「影山さん。これで、彼女と俺の関係はわかったか?」由奈は激しく抵抗する。「やめて、祐一!」祐一は怒りを抑えたまま彼女を見下ろす。「俺は君の夫だ。他の男の手前、俺を無視するつもりか?」――夫。その単語に、由奈は一瞬だけ言葉を失った。彼が、他人の前で自分たちの関係を明かすなんて。……滑稽だ。彰は驚いた様子も見せず、由奈から視線を外して微笑んだ。「どう見ても、無理やりにしか見えませんが?」「彼女は自分の意思で俺と結婚した」祐一は手を緩めるどころか、由奈の顎に指をかけ、涙ぼくろのあたりを親しげになぞる。作り物のような優しい笑みを浮かべながら。「これでも、強要だというのか?」由奈は彼の手を払いのけ、正面から睨み返した。その冷たい瞳に、柔らかな笑みが浮かんでいるのが、かえって腹立たしい。――全部、彰に見せつけるための芝居だ。「確かに、私は自分の意思であなたと結婚した」由奈は顎を上げ、薄く笑う。「でも――結婚できるなら、離婚もできるでしょう?」離婚協議書は、すでに速達で滝沢グループに届いている。彼が
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