جميع فصول : الفصل -الفصل 150

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第141話

見物していた近所の人たちは、ひと通り騒いだあと、その場を離れていった。庭には、再びひっそりと静けさを取り戻す。由奈は祐一の腕を振りほどき、久美子のそばへ歩み寄った。「もうみんな帰ったわ。これ以上、演技する必要もないでしょう。祐一、ここはあなたが来るべき場所じゃない、もう帰って」祐一は視線を落とし、指先に残る由奈の体温を確かめるように、しばらく黙り込んでいた。やがて低く口を開く。「俺が帰ってもいいが、彼も一緒だ」彰はその言葉に、ただ薄く笑うだけで、答えなかった。「彰さんは、うちの客人よ。あなたの指示に従う義理はない」「由奈――」祐一は彼女を見据え、名だけを呼んだ。だが、その先の言葉は続かなかった。久美子が一歩前に出て、由奈をかばうように立つ。「祐一さん。彰くんは、私が招いたんです」その声には、疲労と悲しみ、そして消しきれない憤りが滲んでいた。「主人の葬儀の間、ずっと力を貸してくれました。そのお礼に、食事に誘っただけです。由奈の父親は、もういません。どうか彼に免じて、池上家を見逃していただけませんか。この家には、もう私しか残っていないんです……それでも、私まで目障りで、始末しなければ気が済まないのですか?」祐一の胸に、重たいものが沈み込む。表情を強張らせたまま、しばらく沈黙が落ちた。やがて、眉間の力がわずかに緩む。「……お義母さん。お義父さんの件については、申し訳なく思っています。必ず、真相は突き止めます」「――どうぞ、ご自由に」久美子はそれだけ言い残し、家の中へ入っていった。由奈も後に続く。振り返ることは、最後までなかった。彰は祐一の横を通り過ぎる際、ちらりと視線を向け、挑発するように微笑んだ。祐一の目に、冷たい光が宿る。……家の中では、久美子がキッチンに立ち、料理の支度をしていた。由奈も隣に立って手伝う。「そのうち、浩輔を転院させましょう」久美子は包丁を動かしながら、不安そうに言った。「前はね……お母さんが軽率だった。あの人の提案を受け入れて、浩輔を預けてしまった」声が震え、目元が赤くなる。久美子は慌てて顔を背け、涙を拭った。「今は、すごく怖いの。あの人が、浩輔に何かするんじゃないかって……」滝沢家相手に、池上家など到底太刀打ちできない。さっき庭先で言った強い言葉も、必死に自
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第142話

彰の車が見えなくなるまで見送ったあと、由奈はその場に立ち尽くした。自分でも何を考えているのか分からず、胸の奥に小さな違和感だけが残る。家に戻ろうと踵を返したそのとき、スマホが震えた。画面に表示された名前に、由奈は一瞬ためらい、数秒してから通話を取った。「……院長先生、どうされましたか?」「池上先生。上から正式に連絡があった。君への停職処分は解除で、病院への復帰が認められた。この間、君は加藤達夫先生を告発しただろ?調査の結果、彼はこの十年間、少なくとも数千万円の賄賂を受け取っていたことが確認された」由奈は目を細める。「……そんなに、ですか?」「ああ。正直、私も想定外だった。病院のお金をどれだけ私的に流用していたのか……患者の医療費まで、裏で抜いていたらしい」勉は一度言葉を切り、続けた。「加藤先生は、もう二度と病院に戻れないだろうから、君も、もう心配する必要はない。それと――彼の後任として、君を抜擢したい」由奈は眉をひそめた。「でも、私はすでに異動願を出しています」「異動まではまだ猶予があるだろう。それまでの間でいい。君に任せたい」由奈はこれ以上迷わず、その提案を受け入れた。「……分かりました」翌日。由奈は正式に病院へ復帰した。ナースステーションの前を通りかかった瞬間、数人の看護師が一斉に顔を上げる。隠しきれない好奇心が、視線に滲んでいた。「えっ、池上先生って停職中じゃなかった?」「昨日、上から処分解除の知らせが来たって聞いたよ。それどころか、リーダーに昇格なんだって!」「停職から一気にリーダー?どんなコネ……?」エレベーターから歩実が出てきて、その様子に気づき、笑顔で近づいた。「どうしたの?ずいぶん賑やかだけど」看護師たちは一瞬、言葉に詰まる。「池上先生が復帰して……リーダーになったそうです」その一言で、歩実の表情が一瞬だけ固まった。「……そう」無理に微笑みを作りながら、彼女は由奈がいる医局の方向を見やる。体の横に下ろした手が、ぎゅっと握りしめられていた。医局の中。由奈は整然とした机を見渡す。停職中、この席はずっと空いたままだった。バッグを置き、カーテンを開く。ガラスに映る自分の顔が見え――そして次の瞬間、視線が外の光景を捉え、瞳に冷たい光が走った。病院
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第143話

「それなら、訴えるしかないね」「……理由は?」祐一は由奈の前に立ち、身を屈めて見下ろした。「由奈。何を理由に訴訟を起こす?俺が不倫したとでも?それとも、君の言う私生児がいるからか?」至近距離で向き合っても、由奈の表情は驚くほど静かだった。そこには、もはや波紋ひとつない。「愛のない婚姻生活を続ける意味、あるの?」祐一は答えない。そのとき、由奈の視界の端で、ドアの外を横切る影が見えた。彼女はふっと笑い、祐一のネクタイを指先で整える。「まさか……私と離婚したくないなんてこと、ないよね?」眉をわずかに上げ、笑顔を見せる。だが、その瞳に笑みはなかった。「それとも――私を好きになったとか?じゃなきゃ、ここまで執着する理由がないでしょ?」祐一の手が、やさしく、しかし逃げ道を塞ぐように由奈の頬を包む。その瞬間、彼の目に冷たい光が走った。「由奈。自分が、どれだけ白々しい笑いをしているか、分かっているのか?」――祐一からすれば、その笑顔が目障りで、居心地が悪かった。彼女は、そうじゃなかったはずだ。由奈は、ゆっくりと笑みを消した。そして、彼にだけ聞こえる声で囁く。「あなたには、こういう偽りの笑いが一番お似合いなの」そう言い終えた瞬間、彼女は視線を扉へ向けた。「長門先生。盗み聞きするより、堂々と入ってきたほうがいいんじゃないですか?」扉の外で、歩実の体が強張る。――しまった。観念したようにドアを開け、彼女は中へ入ってきた。いつもの、優しくて、可哀想な表情を貼り付けて。「池上先生、誤解しないでください。わざと聞いていたわけじゃなくて……復帰されたと聞いて、ご挨拶に来ただけなんです。お二人がお話し中だったので、邪魔できなくて」「なるほどね。私と滝沢社長の関係、もうご存じですよね」由奈は軽く笑い、歩実に近づく。「実は、ちょうど離婚の話をしていたところなんです」腕を組み、歩実の前で立ち止まる。「よかったら、私と離婚するよう、長門先生も社長を説得してくれません?」祐一の表情が、一気に冷えた。「由奈!」「そんなに怒らなくても」由奈はわざと首を傾げる。「もし滝沢社長と長門先生の間に何もなかったのなら、どうして私は、あなたたちの関係に割り込んだ『愛人』だなんて噂を立てられたんでしょう?」歩実の顔色が変わり、拳が強く握られる
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第144話

「わかりました、お安いご用です」智宏はそう言って駿介を呼び寄せ、由奈に視線を向けた。「必要な人数を、駿介に伝えてください」駿介はすぐに由奈のそばへ進み、やけに腰の低い態度で頭を下げる。「何人必要でしょう?」由奈は、そのあまりの即断に少し驚いた。本当は、頼みごととしては図々しすぎないかと内心不安だったのだ。しばらく考えた末、控えめに口を開く。「そうですね……二人いれば十分かと」「二人じゃ足りないでしょう」智宏は顎に手を当てる。「こちらは人手には困っていませんので、四人を出しましょう。何をしてほしいのかは、駿介を通して指示してくださいね」「四人もお借りすると……お母さんは?」「母には、僕と駿介がついていますから。心配入りません」その時、ちょうど恭子が、話し声を聞きつけたように二人のそばへやって来た。にこにこと笑いながら、手にしている人形を掲げる。「ゆうちゃん、ママがここにいるわよ。ほら、こんなに可愛くしてあげたの」化粧を施された人形を見せられ、由奈も思わず微笑む。「とてもかわいいですね」「ゆうちゃんはママが産んだ子なんだから、一番かわいいのよ!」恭子は無邪気に笑い、由奈を見つめるその目には、純粋な喜びだけが宿っていた。その後、駿介は四人のボディーガードを連れて、浩輔の病室を訪れた。廊下に人を待機させ、由奈とともに室内へ入ると、ベッドに横たわる浩輔に目を向ける。「こちらの方が……池上さんの弟さんですね?」由奈は静かにうなずく。「そうですか……」駿介は小声で呟く。「それにしても、あまり似てませんね」「血はつながっていませんから」「あ、そうなんですね」由奈は苦笑しながら答えた。「私は池上家に引き取られた身なんです」「なるほど……」駿介は納得したように息をつき、「でも、弟さんとはきっと仲がよかったでしょう。人手が必要になったのは、彼を守りたいんですよね?もしかして……誰かに狙われているのですか?」セキュリティのいい私立病院に入院しているにも関わらず、なお警護をつけるのは、それなりの理由があるのだと、駿介は推測した。由奈はすべてを明かさなかったが、核心は隠さなかった。「……そうですね。少なくとも、今は中道家のみなさんしか信用できません」正確には、中道家という名門の影響力を、だった。……
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第145話

勉が答えるより先に、歩実が小馬鹿にしたような表情で由奈を一瞥した。「川口さんのおっしゃる通りです。院長、川口さんの奥様が患っているのは髄膜腫です。経験豊富な脳外科医でさえ、成功を断言できる手術ではありません。池上先生はまだうちにきて三年。どれだけ優秀でも、十年以上メスを握ってきた中井先生と比べて、経験で勝てるとでも?」その言葉に、弘志の顔色が一気に沈んだ。彼は院長をまっすぐ見据える。「斉藤院長。江川市ではこの手術ができないから、私たちは海都市まで来たんだ。こちらの医療水準を信頼しているからな。しかし、これほど経験豊富な医師が揃っている中で、なぜ若い女性医師を勧める?私に、妻の命を賭けろと言うのか?」「川口さん、それは誤解です。彼女は確かに若いですが――」「もう結構だ」弘志は言葉を遮った。「私は、妻を危険にさらすつもりはない。この病院で無理だと言うなら、別の病院を探すまでだ」弘志の態度に迷いはなかった。会議室内でも、次第に由奈を疑う視線が増えていく。歩実は、その様子を見て、唇の端をわずかに吊り上げた。――由奈がこの病院に入って三年でリーダーに抜擢されたこと自体、反発は少なくなかった。院長が彼女を重用すればするほど、周囲は「なぜそこまで」と疑いを深める。弘志が立ち上がり、関係者を連れて退出しようとした。勉でさえ引き留めきれないと誰もが思ったとき、由奈が静かに口を開いた。「……奥様のMRV画像を、拝見してもよろしいでしょうか」弘志は一瞬、由奈を見つめた。短い沈黙の後、彼は隣の秘書に視線を送る。由奈は手渡された画像を受け取り、確認に集中した。腫瘍は運動野に位置し、前後には重要血管が走っている。血管と腫瘍の間に残された操作スペースは、わずか二センチ。――確かに、これまで彼女が執刀してきた開頭手術の中でも、かなりリスクの高い部類だった。歩実がその様子をじっと見つめ、声をかける。「池上先生……この手術、どうしても受けるつもりじゃないでしょうね?実力も覚悟もないまま目立とうとするのは危険ですよ。もし失敗したら、責任を取れるんですか?」「手術はできます」由奈は画像から目を離さないまま、即答した。すでに頭の中では、腫瘍の立体構造が再構築されている。学生時代から積み重ねてきた実習と、脳構造への徹底した理解が、その判断を支えていた
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第146話

弘志は眉間に深い皺を刻んだ。その様子を見て、勉も横から口を挟む。「池上先生の言う通りです。池上先生は脳疾患の分野において、何十年も現場に立っている医師に引けを取りません。昔、彼女は――」「奥様の術後リスクを下げたいのであれば、私の提案を採用したほうがいいかと」由奈は、勉の言葉を遮った。「ご不安でしたら、中井先生に執刀していただきましょう」中井は、困ったように言葉を詰まらせた。「……二センチしかない隙間では、難易度が高すぎます。正直、私には……」由奈は小さく微笑んだ。「大丈夫です。どうメスを入れるか、私がしっかりサポートしますから」弘志は由奈をじっと見つめた。彼女が何も分からずに口を出している若手医師ではないと直感する。その空気を察し、歩実は居ても立ってもいられなくなり、勢いよく立ち上がった。「池上先生、正気ですか?人の命がかかっていますよ。遊び半分で口にしていい話じゃありません!」「……では、長門先生はこの手術ができるんですか?」「そ、それは……」「できないのであれば、余計な口出しは控えてください」由奈の視線は冷ややかだった。「海外での豊富な医学経歴をお持ちの長門先生なら、私が先ほど説明した内容も理解できていますよね?」その一言で、歩実は完全に言葉を失った。大勢の前で、恥をかかされてしまったのだ。他の医師たちは疑念こそ抱いていたものの、誰一人として異議を唱えなかった。それは、由奈の先ほどの説明に、内心では同意していた証でもある。加えて、招かれていた二人の専門医も、終始口を挟まなかった。結果として、歩実の強硬な態度だけが目立ち、彼女自身の力量を疑わせる形になってしまった。しばし沈黙した後、弘志は重く息を吐いた。「……わかった」彼は腹を括ったように言う。「あなたを信じる。ただし、必ず手術を成功させるように。万が一のことがあれば――この病院だけでなく、あなた自身にも責任を取ってもらう」そう言い残し、弘志は会議室を後にした。残った秘書が、淡々と翌日の手術についての指示を伝える。話し合いが終わり、由奈が会議室を出ると、廊下でちょうど祐一が弘志の秘書と話しているところだった。天井照明の光が彼の肩口に落ち、整った横顔を淡く照らしている。理知的で端正なその佇まいは、どこか人の視線を引き寄せた。「祐一!」
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第147話

秘書の顔に、一瞬だけ驚きが走った。もしこれが他の誰かの言葉だったなら、彼はきっと信じなかっただろう。だが、相手は祐一だ。海都市では、彼の言葉そのものが「権威」を意味する。その祐一が「できる」と断言する以上、相手には確かな実力がある。秘書と祐一が言葉を交わしている間、歩実は一言も挟めず、ただ沈黙していた。先ほどの、祐一が由奈を肯定した一言が、何度も頭の中で反芻される。その事実が、歩実の胸に黒い嫉妬を広げていく。――由奈が必ず成功すると、そう信じているのなら、失敗させてやるまでだ。……由奈は医局に戻ると、すぐに中井、助手医師、手術室スタッフ全員を集め、カンファレンスを開いた。すでに彼女の頭の中には、十を超える手術プランが構築されている。脳神経外科の手術は、ほんの数ミリの誤差が致命傷になる世界だ。精度への要求は、外科手術の中でも群を抜いて厳しい。「池上先生……」記録を取っていた助手医師が困ったように言う。「従来の方法で腫瘍を十分に露出させないとなると、正確な位置が判断しづらいのでは?二次元のMRI画像だけで位置を特定するのは、かなり危険です。操作を誤れば、腫瘍そのものを見失う可能性もあります」同席しているスタッフたちも、同じ懸念を抱いていた。従来の手法を使わずに行う開頭腫瘍摘出術は、いわば「目隠しをしたまま地雷原を進む」ようなものだ。誰にとっても、極めて難易度の高い挑戦だった。由奈は静かにパワーポイントを立ち上げた。「先ほど、三次元で再構築しました。腫瘍の位置は、ここです」スクリーンに映し出された立体図を見て、室内がざわめく。「これ……池上先生が作ったんですか?」「二次元画像だけで、ここまで正確な三次元画像を……?」「院長が先生を推したのも納得ですね」由奈は騒ぐ一同を見渡し、淡々と説明した。「これは、これまで執刀した脳腫瘍症例をすべて解析して導き出したものです。川口さんのMRV画像を見た時点で、腫瘍の位置をすでに把握していました」室内に、別の意味でのどよめきが走る。――これが才能というものなのか。三年でリーダーになるのも無理はない。手術方針が固まり、由奈はカンファレンスを終えた。全員が退室したあと、彼女だけが会議室に残り、資料を整理していた。静まり返った空間に、足音が近づく。祐一だった。
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第148話

「離婚しましょう。あなたを、自由にするわ」あの夜の言葉が、祐一の耳の奥で唐突に蘇った。表情を崩さぬまま、目元だけが一気に冷え込む。「離婚の件は、おばあさまももう同意してくれた。一切、口出ししないとも言ってた」由奈はそう言って、再び彼の手から自分の腕を引き抜いた。その瞬間、祐一の中で押さえ込んでいた感情が、音を立てて崩れた。彼は腕を伸ばして由奈を引き寄せ、数歩でガラス扉へと追い詰める。束ねていた髪留めを外され、黒く長い髪がほどけて肩から背へ流れ落ちた。祐一の腕が絡みつき、由奈の呼吸が一瞬、詰まる。次の動きを察し、由奈はとっさに顔を背けた。だが祐一は構わず、手のひらで彼女の頬を押さえ、逃げ道を塞いで唇を重ねる。由奈は歯を食いしばり、決して応じなかった。それでも祐一は距離を詰め、息を奪うように迫る。呼吸が限界に近づいた、その隙を逃さず、さらに踏み込んできた。わずかに身をよじれば、その分だけ彼は強く押し寄せる。抵抗は次第に力を失い、由奈は否応なく追い詰められていった。やがて唇を離した祐一は、指先で酸欠で赤くなった彼女の頬をなぞる。その表情は、危ういほど艶を帯びていた。祐一はいつも、自分の本性を巧みに隠して生きてきた。だが由奈の前では、決まって理性が揺らぐ。しかも今回は、歯止めが利かなくなりつつあった。「……持ち物をいくつか処分しただろう。代わりに、新しいものを用意しようと思ってる。ジュエリーか、バッグか――それとも服?」祐一は、あえて離婚の話に触れなかった。まるで、口にしなければ無かったことにできるかのように。由奈は苛立ちを隠さなかった。「何もいらない」「じゃあ、何が欲しい」「……父に、生きて欲しかった」祐一は彼女を見つめたまま、答えなかった。由奈は唇を拭い、彼を押し退けて距離を取る。「祐一。浩輔のことはさておき……父の件だけでも、私は一生忘れない。許すことも、できない」それだけ言い残し、彼女は会議室を出た。医局へ向かう廊下を歩きながら、怒りが込み上げる。無理やりキスされたことが忌々しくて、いっそ口を取り替えたい、という衝動すら覚える。「池上先生」呼び止められて顔を上げると、ナースステーションにいたのは綾香だけだった。彼女は周囲を一度確認し、素早く一枚の紙を由奈の手に握らせると、何事もなかっ
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第149話

手術で使用される薬剤は、すべて薬剤部に記録が残る。投与量は「不足」はあっても、「過剰」は決して許されない。過量投与を防ぐため、それが医療現場の鉄則だった。麻酔科医は誰よりも、その「余分な薬」が意味することを理解している。一瞬で状況を察し、顔色を変えて新人助手を振り返った。「なぜこの薬を持ってきた?」「わ、私は……」新人助手は、声も出せずに震え出す。由奈が一歩前に出た。「今回が初めての手術で、勝手が分からなかったんでしょう。幸い、重大な事故には至っていません。そこは考慮します」そう言って、由奈は手にしていた薬剤を麻酔科医に戻した。だが、視線を新人助手に向けたまま、静かに続ける。「ただし――あなたは、まだ手術室のスタッフとしては不適任です」その一言が引き金となり、新人助手は、ついに泣き出した。「長門先生に……言われたんです……麻酔薬は少しアレルギーがあっても問題ないって……少量だから、命に関わることはないって……」「長門先生だと?」麻酔科医の怒りが爆発した。「彼女は普段、手術室に入らないだろう!プロポフォールに対するアレルギー反応は、健常者でも決して低くない。ましてやアレルギー既往のある患者に使えば、呼吸抑制、循環不全、最悪の場合ショックを起こすぞ!」吐き捨てるように続ける。「手術中にそんなリスクを持ち込むなんて、殺す気か!」「池上先生が気づいてくれなかったら……私たち全員、取り返しがつかなくなっていました」その場にいたスタッフの表情から、歩実に向けられていた好意が崩れていくのが分かった。ほんのわずかな判断ミス、たとえ微量であっても、その結果は、患者だけでなく、医師全員の未来を左右する。由奈の表情も、次第に厳しさを帯びていった。――綾香が渡してくれた紙がなければ。そう思うと、背筋が冷える。歩実が、ここまで大胆な真似をするとは思っていなかった。患者の命を賭け金にするなど、正気の沙汰ではない。もし事故が起きていたら――祐一がいくら庇おうと、守り切れるはずがない。「……彼女をいったん外へ」由奈は我に返り、指示を出した。新人助手はスタッフに付き添われ、泣き崩れたまま手術室を後にする。その後、由奈は助手医師のもとへ歩み寄り、耳元で短く何かを告げた。助手医師は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに
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第150話

由奈は、祐一から向けられる熱のこもった視線を意にも介さず、弘志に近づいた。「川口さん。私は、自分の実力を言葉で証明しようとは思いません。信じるかどうかは、あなた次第です。でも、もし信じてくださったのなら――その信頼には、必ず応えます」弘志は一瞬言葉を失い、目を伏せた。先ほどまでの自分の態度を思い出したのだろう。やがて小さく頭を下げる。「池上先生……先ほどは、疑うようなことを言ってしまい、申し訳ない」顔を上げた彼の表情は、引き締まっている。「斉藤院長のおっしゃる通り、あなたは優秀な医師だ。それどころか……天賦の才があると言ってもいいだろう」「過分なお言葉です」由奈は静かにそう返した。弘志は由奈と言葉を交わし、妻が病室へ運ばれるのを見届けてから、その後を追った。手術室の外では、いつの間にか由奈を称える声が溢れていた。昨日まで飛び交っていた彼女への否定的な噂など、最初から存在しなかったかのようだった。人だかりの中心にいる由奈から、祐一の視線は一度も離れなかった。その様子を見て、歩実はそっと拳を握りしめる。――あれだけ由奈を貶めようとしたのに。たった一度、手術を成功させただけで、全部無駄になったなんて。「……祐一」歩実は弱々しく声をかけた。「私、池上先生のことを誤解してた。全部、私が悪かったの……」そう言ってから、由奈のほうを見る。「病院の名誉のことを考えていただけなの。もし手術が失敗していたら、私たち全員、職を失っていたかもしれない。手術が成功して本当によかった……」由奈は彼女を一瞥しただけで、何も答えなかった。「白々しいな」助手医師が歩実を見て、呆れたように笑う。「池上先生が麻酔薬の異常に気づかなかったら、今ごろ警察沙汰ですよ」「麻酔薬が、どうかしたんですか?」近くにいた医師が尋ねる。助手医師は鼻で笑った。「それは長門先生に聞いてください。一番よく分かってるはずですから」その場にいた全員の視線が、一斉に歩実へと向けられた。祐一は眉をひそめ、表情を曇らせる。歩実の瞳に、一瞬だけ動揺が走った。だが、すぐに取り繕う。「え?私は何も知りませんよ。何か、誤解があるんじゃないですか?」「患者さんのカルテには、プロポフォールアレルギーってはっきり書いてあります。医師でも看護師でも、見れば分かり
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