جميع فصول : الفصل -الفصل 160

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第151話

その話を持ち出さなければまだよかったものの、触れられた瞬間、由奈の表情は一気に曇った。とりわけ、歩実のその白々しい態度が、彼女の神経を逆なでした。由奈は冷ややかに言う。「長門先生。本当に、自分が父の死と無関係だと思ってるんですか?」歩実は戸惑ったように、由奈を見返す。由奈は淡々と、しかし一つひとつ言葉を積み重ねるように続けた。「私の両親は、あなたと面識なんて一度もありません。それなのに『別れさせるために押しかけてきた』って……おかしいと思いません?両親はどうやってあなたの連絡先を知ったんですか?どうして、あなたが子どもと一緒にいたカフェに、都合よく現れたんです?」「そ……それは……」歩実は思わず視線を逸らし、言葉を濁した。由奈はスマホを取り出し、文昭のスマホにあったメッセージのスクショを彼女に突きつける。「これが何よりの証拠です。両親は、あなたに呼び出されていた。あなたがわざと焚きつけたんでしょう。挙げ句、自分の子どもを突き落として、私の両親のせいにしたんです!」周囲がざわめく中、歩実は目を赤くして声を荒らげた。「そんなこと、でたらめよ!」祐一の周囲に漂う冷え切った空気を察し、慌てて言い添える。「祐一、違うの!私は健斗の実の母親よ?健斗を突き落とすなんて、そんなことするわけないじゃない!それに私、本当に知らないの。池上先生のご両親がどうやって私を見つけたのか、あのメッセージも送ってない……本当に何も知らないの!」「真相は、健斗が目を覚ましたら、俺が直接聞く」祐一は歩実から視線を外し、由奈を見た。「麻酔薬の件も、上で正式に調査する。結果がどうなっても、俺は口出ししない。それでいいか?」由奈は彼と視線を交わし、かすかに冷笑した。彼が歩実を庇おうとしているのかどうか――そんなことは、もうどうでもよかった。由奈は静かに目を逸らし、助手医師とともに人混みを抜けていく。祐一の視線は、彼女の背中を追い続けていた。その表情は、底知れぬほど陰を帯びている。歩実は唇を噛み、ぎゅっと手を握りしめた。爪が食い込むほど力を込め、瞳の奥には濃い憎悪が滲んでいく。……夕方頃、由奈が病院を出ると、正面に彰の車が停まっていた。足を止めた瞬間、窓がゆっくりと下り、車内の彰が軽く手を振る。由奈は近づき、声をかけた
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第152話

由奈は言葉に詰まり、少し困ったように説明した。「母さん……私と彰さんは、そういう関係じゃないから」「分かってるわよ。だから『考えてみたら』って言ってるの」久美子は由奈の手を握り、諭すように続ける。「好きっていうのはね、後から育つものでもあるのよ」由奈は言葉を失った。――まだ、離婚すら成立していないのに。しばらくして、彰が電話を終えて戻ってきた。表情は明らかに曇っていたが、何があったかまでは、はっきり言わなかった。「ごめん、由奈ちゃん。久美子さんも。急ぎの用事ができてしまって……食事はまた改めて」久美子は少し残念そうな顔をした。今日の食事を由奈と仲良くなれるきっかけだと思っていたのだろう。けれど無理強いはせず、彼女はすぐに笑顔を作った。「そう?じゃあ仕方ないわね。また時間のあるときにいらっしゃい」彰は由奈に一度だけ視線を向け、そのまま池上家を出ていった。……海都市の京西区。開発予定地として確保されながら、長年放置されている空き地がある。人の気配もほとんどなく、夜になれば完全に孤立する場所だ。その空き地で、クレーンが低く唸りを上げていた。ワイヤーに縛られた男が、宙づりにされている。地面から六、七メートルはある高さだ。男の真下には、大型のガラス製水槽。中には、黒く光る体に鋭い歯を持つピラニアが群れをなして泳いでいた。男が意識を取り戻した瞬間、自分が置かれている状況を理解し、全身を震わせる。「な、なんだここは……!誰だ!下ろせ、今すぐ下ろしてくれ!」車のドアが開き、祐一が降り立つ。無造作にスーツのボタンを留めながら、男の方へ歩いてきた。合図を受け、クレーンがゆっくりと下降する。男の足先が水面に近づいたところで、ぴたりと止まった。「……あなた、滝沢社長……?」祐一の顔を認識した瞬間、男の血の気が一気に引く。祐一は薬指の指輪をなぞりながら、淡く笑った。「三浦聡、お前に辻元貴則という後ろ盾があった。余計なことさえしなければ、警察でも順調に出世できただろうに」吊るされている男――聡の顔色はみるみる青くなる。「何の話か分かりません……!俺はもう処分を受けました、懲戒免職にもなりました!どうして見逃してくれないんですか?」「影山彰と何を約束した?」祐一は感情のない口ぶりで尋ねた。「影山彰?知
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第153話

祐一は腕時計のバンドを緩め、しばし沈黙したあと、ふっと笑った。「お前に指示を出していたのは、加藤陽子だな?」聡はもはや隠す気力もなく、小さくうなずいた。陽子は直接聡と連絡を取らず、第三者を介して彼と接触していた。自分は姿を見せず、疑われないよう、徹底して裏に回っていたのだ。祐一の笑みが消え、視線が一気に冷え切る。「土屋」「はい」「辻元さん……署長になってから、かなり激務だったらしいな?」麗子は即座に理解し、静かに答えた。「ええ、そのようです」「なら、そろそろ休んでもらおう」それだけ言い残し、祐一は踵を返した。……夜。窓の外には、街灯と車の明かりが静かに瞬いている。由奈が風呂から上がると、テーブルに置いたスマホの画面が点いた。手に取って確認すると、祐一からのメッセージだった。【君の実家の前にいる】由奈は眉をひそめ、カーテン越しに外を見る。案の定、祐一の車が停まっていた。カーテンを閉め、返信はしない。だがすぐに、次のメッセージが来た。【出てこないなら、俺が入るが?】由奈は小さくため息をつき、上着を羽織って家を出た。庭を抜けると、車のヘッドライトが正面から照らしてくる。反射的に視線を逸らした、その瞬間。ライトが消え、祐一が車から降りてきた。由奈は苛立ちを押し殺し、低く言った。「こんな時間に、いったい何の用?昼間には言えない話なの?わざわざ夜に――」言い切る前に、腕を引かれ、そのまま強く抱き寄せられる。風呂上がりの身体から、ほのかな香りが立ちのぼっていた。状況を理解する間もなく胸元へ押しつけられ、薄手の上着がずれて、片方の肩があらわになる。和恵の誕生日の夜――奈々美に仕組まれた、あの出来事以来。祐一は、彼女に触れていなかった。腕の中の由奈は、力を抜けば崩れてしまいそうなほど柔らかく、祐一の喉が無意識に鳴る。身体の奥から、じわりと熱が立ち上っていく。その変化を、由奈はすぐに察した。一瞬、身体が強張り、顔にははっきりとした嫌悪が浮かぶ。「……ここ、外よ?いいかげん――」「俺のせいにするのか?」祐一は彼女の顎を掴み、逃げ場を与えない距離まで引き寄せた。低く、掠れた声だった。「君が、妻としての務めを放棄していたからじゃないのか?」――妻の務め。その言葉に、
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第154話

祐一の表情は一瞬で暗くなった。彼は腕を伸ばし、車体と自分の胸の間に由奈を閉じ込めるようにして低く問う。「……そこまでして、離婚したいのか?」由奈は顔を上げ、迷いのない目で彼を見返した。「そうよ」祐一は何も言わず、彼女を射抜くように見つめ続ける。その視線に、由奈の背筋がひやりと冷え、不快感から眉をひそめて顔を逸らした。「考えがまとまったら、また連絡して」彼の手を振り払い、歩き出そうとした瞬間――背後から、低く抑えた声が追いかけてきた。「離婚したいのは……影山のためか?」由奈の足が止まる。一瞬だけ表情が曇り、しかしすぐにいつもの落ち着きを取り戻した。「そうだとして、何か問題でも?」「利用されて、騙されてると分かっていても、あいつを信じるのか?」由奈は答えなかった。祐一は背後から近づき、彼女を見つめながら続ける。「影山は本気で君を助けるつもりなんてない。そんな男のために、俺と別れるのか?」由奈の指先がぎゅっと握り締められる。だが、数秒後には力を抜き、静かに息を吐いた。彼女は振り返り、まっすぐ祐一を見る。「私が離婚したいのは、彰さんのためだって、本気でそう思ってるの?」祐一は眉を寄せた。「それに……たとえ彼が私を利用していたとしても、あなたよりはマシよ」「由奈」祐一の目が冷え、彼女の腕を掴む。「いつまで、こんなことを続けるつもりだ」由奈は力を込めてその手を振りほどいた。「あなたこそ、これ以上付き纏わないで」そう言い捨てると、振り返りもせず庭を横切り、家の中へと入っていった。――その様子を、二階の寝室のカーテンの後ろから、久美子は静かに見ていた。由奈が玄関を抜け、階段を上がってくると、踊り場で久美子と鉢合わせる。「……母さん、まだ起きてたの?」「ええ。あの人、こんな時間にどうしたの?」「さあ……私にもよく分からない」由奈は首を振る。祐一がわざわざ来た理由は、浩輔の件が自分とは無関係だと伝えるためだけだったのか?それに、彰のことも気になる。考え込んだまま立ち止まっていると、久美子がそっと声をかけた。「由奈?どうしたの?」はっとして顔を上げ、由奈は微笑み、久美子の腕に自分の腕を絡める。「ううん、なんでもない。さぁ、あんな人のことなんて忘れて、早く寝ましょ」久美子は小
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第155話

彰は一歩距離を詰め、彼女の耳元に低く囁いた。「そんなことよりも――君が僕の体をあんなに物欲しそうに求めていたことを、滝沢に知られたら、まずいんじゃないのか?」歩実の表情が強張り、言葉を失う。「長門さんは、僕の言うとおりにしていればいいんだ。そうすれば、望みは叶えてやるさ」彰はそれだけ言い残し、部屋を出ていった。取り残された歩実は、その場に立ち尽くし、唇を強く噛みしめる。顔色は、先ほどとは明らかに違っていた。最初に彰と手を組んだとき、まさか身体の関係まで持つことになるとは思っていなかった。あの夜、酒の勢いで彼と寝た。それだけ。だがどれだけ言い訳をしても、その事実は彼女の立派な弱みになったのだ。けれど、構わない。祐一と結婚するまでの間、彼女にはまだ彰が必要だった。影山家は滝沢家ほどの財も権力もない。それでも、彰は彼女を満足させる術を知っているし、何より――使える男だった。実際、彼が裏で手を回してくれなければ、彼女がしてきたことは、とっくに祐一の耳に入っていたはずだ。そう思うと、歩実の口元に冷たい笑みが浮かぶ。――由奈って、本当に哀れな女だ。翌日。由奈は、弘志の妻、川口真里(かわぐち まり)の病室を訪ねた。弘志は以前とは打って変わり、終始にこやかで、由奈を見るなり熱心に礼を述べ、秘書に「池上先生に感謝の品を用意してくれ」とまで指示した。由奈は丁重に断り、真里の体調を確認しようとしたそのとき、真里が、じっと自分の顔を見つめていることに気づく。「……川口さん?」声をかけると、真里ははっと我に返った。「あ、ごめんなさい。先生……お名前は?」「池上由奈です」「そう……」真里は一瞬、遠くを見るような目をした。その様子に気づいた弘志が、身をかがめて尋ねる。「どうした?どこか具合でも?」真里は微笑み、首を振った。そして由奈に視線を戻す。「ううん。ただ……池上先生が、友人によく似ていて」由奈は思わず言葉を失う。「きっと、縁というものだろう」弘志が気軽に言うと、真里も同意するようにうなずいた。「ええ……きっとそうね」けれど、真里の視線はしばらく由奈から離れなかった。特に、笑ったときに三日月のように細くなるその瞳――若い頃の親友にあまりにもよく似ていた。由奈は長居せず、真里の体調に問題
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第156話

「……君に、彼女になった欲しいんだ」彰の端正な顔が、すぐ目の前にあった。女性と見紛うほどきめ細かな肌に、整った輪郭。明るく澄んだ瞳、高い鼻、そして形のいい唇――初めて彰に会ったときから、整った顔立ちだとは思っていた。ただ当時の由奈は、祐一のような、精悍で陰影のある顔立ちに惹かれていたのだ。急に言われたあまりに率直な言葉に、由奈はさすがに動揺する。「彰さん……それは……」突然すぎて、どう答えていいのかわからない。「ごめん、驚かせたね。本当は、君が離婚してから伝えるつもりだった」彰は視線を逸らさず、穏やかな声で続けた。「今すぐ返事はいらない。ただ、気持ちだけは知っておいてほしかった。答えを急かすつもりはないよ」由奈は唇を噛み、黙り込む。「……僕の気持ち、プレッシャーになってないよね?」彰は軽く笑う。「そう重く考えなくてもいいよ、断られてもちゃんと受け止める。僕はそんなに器の小さい男じゃないからね」その言葉に、由奈は少しだけ息をつく。「すみません……まだ離婚も成立していないのに、急にそんなことを言われても、正直すぐには受け止められそうにありません」彰は指を組み、顎を乗せる。「じゃあ、離婚したら――そのときは、僕にも可能性があるってこと?」由奈は言葉を失う。「はは、ごめん、もうからかわないよ。今日のところは、もう帰るね」彰は立ち上がり、ドアのところで振り返った。「でも、僕のこと……少しは考えてみて」そう言って、部屋を後にする。一人残された由奈は、こめかみを押さえた。――これは、どういう展開なんだろう。彰が自分に好意を抱いているのか?現実味がなさすぎて、ただ頭が痛くなる。そのとき、勉からメッセージが届いた。麻酔薬の件――調査結果が出たという。スマホ画面を見た瞬間、由奈の表情が沈む。歩実は無傷で切り抜け、看護師の田中が供述を変えて全責任を取ることになった。……結局、田中は麻酔薬の管理ミスを理由に解雇され、どの病院にも再就職できなくなった。周囲は皆、それが「真実」だと思い込み、彼女はしかるべき罰を受けたと信じた。田中は、ただの身代わりだったと知っているのは、ごく一部の人間だけ。だが、知っているとしても、彼らにはできることなんて何もない。由奈は、こういう結末にも、もう慣れてしまっていた。歩実を守
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第157話

由奈は視線を戻し、祐一がいないものとしてそのまま横を通り過ぎようとした。だが、祐一は薄く唇を結び、伸ばした手で彼女の手首をつかむ。そのまま軽く引き戻され、由奈はよろめきかけたが、どうにか踏みとどまった。「実家で顔を合わせたというのに、声もかけないのか?」祐一がそう言うと、数秒、由奈は言葉を失い、眉を強くひそめる。「滝沢社長って、そんなに暇な人でしたっけ……」以前、祐一に会うたび、少しでも話しかけたくて仕方がなかったのは自分のほうだ。けれど彼は、まともに取り合ってくれたことなど一度でもあっただろうか。――本当に、変な人だ。あれほど素っ気なかったくせに、こちらが距離を取れば、今度は向こうから話しかけてくる。「例の件、調査結果が出たようだな」祐一は彼女の淡々とした表情から目を離さず、眉をわずかに寄せた。声は穏やかだった。「由奈。君が歩実に思うところがあるのは分かっている。でも、もうここまでにしよう。もし彼女が気に入らないなら、院長に話して内科へ異動させる」それは、彼なりに精一杯譲歩したつもりなのだろう。由奈の胸が、ずしりと重く沈んだ。こみ上げてくるのは苦さばかり。「結局……長門先生のために、ずいぶん気を遣ってきたのね」祐一は目を細めた。「祐一、調査には口を出さないって言ってたよね?でも結局、彼女は一切責任を問われなかった。あなたのおかげで、きれいに逃げられたのよ」「由奈」祐一はじっと彼女を見据える。「俺は調査に介入していない。なぜ、そこまで彼女が犯人だと決めつける?」由奈はその視線を正面から受け止め、目を赤くしながら笑った。「彼女が、何度も私を陥れようとしたから。祐一……あなたは、彼女の言葉だけを信じて、私を信じたことが一度でもあった?私が接待の席で、あわや取り返しのつかない目に遭いかけた時……彼女が何も知らなかったって、本気で思ってるの?あんな大事な接待で、個室の場所を間違えた、で済む話?」さらに、畳みかけるように続けた。「階段から落ちた件だって、あとから防犯カメラで私の潔白は証明された。それでも、あなたは彼女が被害者だと思い続けた」祐一の表情は沈み込み、言葉は返ってこない。由奈は笑みを消し、冷えた声で言った。「麻酔薬の件も同じよ。あの看護師がまだ新人なのに、一人であんな危険なことをする度胸があ
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第158話

夫を亡くした今、久美子が頼れる存在は由奈しかいない。だからこそ、由奈のために実の両親を見つけてあげたいと思う一方で、もし見つかってしまったら、由奈が自分たちの元を離れてしまうのではないかと、そんな不安もあった。――我ながら身勝手だ。久美子は胸の奥で、ひっそりと自分を責めた。由奈は、そんな母の心の揺れに気づくこともなく、ふと思い出したように言った。「そういえば、中道さんって、私の命の恩人なの」「え?」「この間、熱中症で道端に倒れたことがあって、そのとき病院まで運んでくれたのが中道さんだったの。あのままだったら……車に轢かれてたかもしれない」久美子は一瞬目を見開き、すぐに柔らかく笑った。「それは……本当にご縁ね」けれど、何かを思い出したのか、その笑みは次第に翳りを帯びる。「由奈が羨ましいね。もしそんなご縁と巡り会えるのなら……私は実の娘に、もう一度会ってみたいわ。もう何年も経つのに、今どこで、どんなふうに暮らしているのか……何一つ分からないのよ」久美子の落ち込んだ様子に気づき、由奈は立ち上がってそっと隣に寄った。「母さんは……彼女を見つけたいの?」「もちろんよ」久美子は小さく息を吐く。「でもね、今どんな顔をしているのかも、わからないの」由奈は唇をなめ、考え込む。久美子が若い頃、やむを得ず手放した実の娘――年は、由奈とあまり変わらないはずだ。もし見つけてあげられるなら、それはきっと、久美子にとって救いになる。「母さん。彼女が生まれたとき、何か手がかりになるものはなかった?身につけてた物とか、体の特徴とか……」久美子はしばらく黙り込み、やがて視線を伏せた。「確か……彼女の手首に、小さな赤いほくろがあったの。それだけは、はっきり覚えてる」……昼過ぎ、由奈は再び職場へ戻った。受付前を通りかかったところで、看護師に呼び止められる。「池上先生、こちらは影山彰さんからです」差し出されたのはブルーローズの花束だった。「へえ……影山さん、池上先生にアプローチしてるんですか?」周囲にいた看護師たちが集まり、羨望の視線を向ける。由奈は困ったように息をついた。送り主が彰だと思えば、突き返すわけにもいかず、ひとまず受け取る。花束の中にはカードと、小さな四角いジュエリーボックスが入っていた。箱には、ブランドジュ
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第159話

「由奈、誰だったの?」キッチンから久美子の声が飛んできた。由奈は胸がひやりとした。文昭の件以来、久美子は祐一の名前を聞くだけでも気分を害する。今顔を合わせれば、きっと穏やかではいられない。「宅配よ、母さん。ちょっと外に出てくるね」そう言って由奈は言い訳をし、祐一の腕を掴んで外へ引っ張り出した。祐一は抵抗することもなく、されるがままについてくる。庭先まで出ると、由奈は手を放した。「祐一、いったい何の用?」「君……しばらく家に戻ってないな?」彼が言っているのは、パシフィスガーデンのことだった。由奈はひと息つく。「母のそばにいたいだけ。何か問題でも?」祐一はネクタイを緩めながら言った。「心配なら、お義母さんも一緒に住めばいい。俺たちの家に」――「俺たち」。その言い方に、由奈は思わず苦笑した。まるで六年間の冷遇など最初から存在せず、二人の間に深い絆があるかのようだ。「祐一、あなた、頭でも打ったの?最近随分変わったみたいだけど、昔はこんな人だったの?」「……忘れるな。俺たちは、まだ夫婦だ」「それなら、あなたも忘れないで。私は離婚するつもりよ」次の瞬間、祐一が腕を伸ばし、由奈を強く引き寄せた。彼女は体勢を崩し、彼の胸にぶつかる。諦めきれず身を捩っても、すぐ彼に押さえつけられた。「いいか、由奈。もし離婚の理由が、一刻も早く影山とイチャつきたいのなら――俺は、サインをしない」由奈は固まり、顔色がみるみる悪くなっていく。祐一の指が、彼女の目尻にある泣きぼくろをなぞる。低く抑えた声が耳元に落ちた。「花をもらったそうだな。ロマンチックだったろ。嬉しかったか?」「祐一……何が言いたいの」由奈の背筋に冷たいものが走る。「別に」彼は由奈の頬を包み込み、感情を押し殺した声で言う。「家に戻れ」「戻らない」「確か君のおばあさん、静子さんがこの家を欲しがってるようだな」言葉の意味を悟り、由奈は必死に身をよじった。「……ふざけないで。池上家はもうあなたに何の借りもないの。どうしてそこまでして私たちを追い詰めるの?」祐一は表情一つ変えない。「戻ってくれれば、何もしない」由奈が視線を逸らすと、祐一は彼女の髪を耳にかけ、顔をはっきりと見せた。「お義母さんが同居を嫌がるなら、住み込みの世話役も警備も手配する。そう
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第160話

壁に掛けられたアンティークの時計へと視線をやり、祐一は軽く口角を上げた。「時間どおりだな」由奈はその場に立ったまま、何も言わない。温もりの欠片も感じられないその目は、まるで自分と前世から恨みがあるかのようで、祐一は思わず小さく笑った。「戻ってくるの、そんなに嫌だったか?」由奈は少し戸惑っていた。祐一の機嫌も、意図も、ますます読めなくなったのだ。彼女は思わず自嘲気味に言う。「あなたも前は、私と同じ屋根の下にいるのを喜んでたわけじゃないでしょう」祐一は笑みを引っ込めた。「……過去のこと、そんなに気になってるのか?」由奈は答えず、話題を切り替える。「戻る約束は守ったわ。で、いつサインしてくれるの?」ソファに身を預け、指で額を覆いながら祐一は言った。「気が向いたらな」由奈はそれ以上何も言わず、別室へ向かう。ドアを閉めようとした瞬間、祐一の影がそれを塞いだ。驚いて一歩下がる。「祐一、何を――」「何って、言わなくても分かるだろ?」腰を引き寄せられ、数歩もいかないうちにベッドへ押し倒される。唇が重なった。由奈は恐怖に震え、彼の胸を押し返し、逃げようとする。「やめて……嫌、無理……!」荒くなった息の中で、祐一は彼女の涙を含んだ瞳を見つめ、動きを緩めた。低く掠れた声で囁く。「心配するな、痛くしない」以前、薬を盛られたあの夜の記憶が、彼女に消えない影を落としていた。だが今回は、祐一は確かに彼女の反応を気にかけていた。力の差は歴然で、逃げられないことも分かっている。由奈は唇を噛みしめ、そのすべてを受け入れることにした。部屋の灯りはいつの間にか消え、闇の中で感覚だけが鋭くなる。祐一は、まるで別人のように優しかった。一瞬、由奈は思ってしまう。自分も含めて、この優しさを拒める女が、果たしているのだろうか。過去の諍いも、彼の不貞も、この瞬間だけは忘れられた。激しく、逃げ場のない一夜だった。彼がぶつけてきた熱は二人を灰まで燃やし尽くし、二人の原点を容赦なく壊していった。由奈は、妥協した自分を憎み、堕ちていく自分を嫌悪しながら、自分はもう自分ではないと感じていた。二度抱かれ、それでも終わろうとしない。由奈は声が枯れるほど泣いて、ようやく祐一は理性を取り戻した。抱えられて浴室へ運ばれ、身体を洗われている間も、意識は
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