جميع فصول : الفصل -الفصل 180

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第171話

祐一が病室の外に姿を現した途端、健斗はようやく少し落ち着いた。痩せ細った体を布団の中で丸め、小さな顔は血の気がなく、誰かが近づくこと自体を恐れているようだった。「健斗、ほら……祐一おじさんが来てくれたよ」歩実がそっと手を伸ばし、頭を撫でようとする。だが健斗はそれを避け、くるりと身を翻すと、祐一の胸に飛び込んだ。歩実の表情が一瞬だけ強張り、すぐに困ったような笑みに変わる。「健斗、今は過敏になっていて……私も、警護の人たちも、近づかせてくれないの」祐一はベッド脇に立ったまま、健斗を抱き留めた。眉間にわずかな皺が寄るが、何も言わない。健斗はしがみついたまま、黙り込んでいる。しばらくして、祐一はその小さく頼りない肩に手を置き、腰を落として目線を合わせた。なるべく優しく声をかける。「健斗、怖がらなくていい。おじさんがここにいるよ」健斗は我に返ったように瞬きをし、こくりと頷いた。だが、その瞳には、不安だけが浮かんでいる。歩実は彼の横に立ち、少し寂しそうに言った。「……この間の事故以来、健斗は誰にも心を開かなくて。私にも近づかないのに……あなたには、昔と同じなのね」祐一は静かに立ち上がる。「君は母親だろう。普通なら、君の方に懐くはずじゃないのか?」歩実の胸がひくりと跳ねた。思わず指先を握り締め、声に滲む悲しさを隠せない。「……私にも分からないの。もしかしたら、私を責めているのかもしれない。あの日、私がちゃんと見ていれば……あんなことには……」祐一は答えなかった。視線は、ベッドの健斗に注がれたままだ。布団を掴む小さな手。虚ろな表情。かつてはふっくらしていた頬が、今では同年代の子どもよりも明らかに痩せている。一方で、歩実は頭の先から足元まで整い、疲れた様子もない。彼女がきちんと世話をしていれば、子供がここまで憔悴するのはありえないはずだ。――本当は、子供を粗末に扱っていたのではないだろうか。そんな疑念が、自然と湧き上がる。祐一の探るような視線に、歩実は内心で焦りを覚えた。悟られてはいけないと思い、急いで口を開く。「このところ、仕事が立て込んでいて、健斗に十分向き合えなかったのは事実なの。でも、あなたのそばにいれば……健斗はきっと立ち直れると思う」長い沈黙の後、祐一が口を開いた。「歩実。健斗は……本当に、文昭夫
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第172話

祐一は静かに彼女を見つめた。その瞳には、わずかながらも複雑な色が混じっている。歩実は、自分の下心が丸出しになっていたことに気づき、反射的に手を離した。「あ……そういう意味じゃなくて、私はただ健斗のことが心配で……」「滝沢家でしばらく暮らしてもらうだけだ、心配する必要はないと思うが」祐一は眉をひそめる。歩実は言葉に詰まり、視線を伏せた。森田は一瞥しただけで、彼女の思惑を見透かしたようだった。「長門さん、坊ちゃんがあなたたち親子に気を遣い、こうしてお子さんを迎え入れてくれたんです。感謝するどころか、奥さまや坊ちゃんに面倒を見て欲しいなんて、思ってませんよね?」淡々と、しかし容赦のない一言が続く。「所詮この子には、滝沢家の血が流れていませんので」その言葉に、歩実は返す術を失い、顔色がみるみる白くなった。森田が健斗の手を取る。健斗は怯えたように引き抜こうとしたが、祐一の手がそっと頭に置かれた瞬間、森田にも悪意がないことを感じ取ったのか、大人しく身を委ねた。健斗の姿が廊下の奥へ消えると、歩実は深く息を吸い、無理やり笑みを作った。「祐一……健斗のこと、よろしくお願いします」祐一はジャケットを整え、喉の奥から短く「ああ」とだけ答えた。……それから丸三日、由奈は祐一と顔を合わせていない。言うまでもなく、彼はあの母子につききりなのだろう。その朝、由奈は手術の予定があり、七時には病院に到着していた。ナースステーションで患者のCTを確認していると、カルテをめくりながら歩実が医局から出てくる。すれ違いざま、わざと足を緩め、意味ありげに声をかけた。「健斗は祐一に連れられて滝沢家に行ったの。池上先生、まさか……子ども一人くらいで、気にしたりしないよね?」由奈は淡々と彼女を見返す。「ええ、もちろん。たとえあなたも一緒にそこへ引っ越そうと、私は気にしませんよ」歩実の笑みが一瞬で凍りつき、それ以上何も言わなかった。由奈も資料を手に、急いで手術室へ向かった。手術を終えた頃には、もう昼を回っていた。手袋についた血を洗い流していると、理由の分からない吐き気が込み上げてくる。――おかしい。これまで、こんな感覚はなかったのに。由奈は手袋を外すなり、トイレへ駆け込み、便器にしがみついた。朝食がすべて吐き出される。物音に気づい
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第173話

運転手は薬局で事情を確認すると、車へ戻り、窓越しに身をかがめて祐一に耳打ちした。祐一は一瞬だけ表情を揺らしたが、何も言わず沈黙し続けた。何を考えているのか、誰にも分からなかった。……一方、由奈は病院に戻ると、すぐに妊娠検査薬を使った。五分後、結果が出た。陰性だ。胸の奥に溜まっていた緊張を、ようやく吐き出す。――よかった。妊娠ではない。その後、由奈は薬剤部で胃腸を整えるための、効果が穏やかな漢方薬をもらった。通りがかった給湯室で、二人の看護師の会話が耳に入った。話題は、綾香だった。そういえば、あの手術の日、綾香が歩実の動きを警戒するよう忠告してくれて以来、彼女の姿を見ていない。どうやら、あの日を境に退職していたらしい。医局に戻ると、由奈はすぐに綾香へ電話をかけたが、応答はなかった。職員の履歴データから住所を確認し、午後の空き時間を使って直接会いに行くことにした。……由奈は車を細い路地の前で停めた。建物同士が密集し、道幅は狭く、車では奥まで入れない。ちょうどそのとき、綾香が近くのコンビニから出てきた。由奈の姿に気づき、目を丸くする。「……池上先生?」由奈は軽く微笑んで会釈した。その後、綾香は由奈を自宅に招き入れ、暖かいお茶を差し出した。「家族はみんな出かけていて、今は私一人なんです。池上先生、どうしてここに……?」由奈は正面から彼女を見つめる。「退職したって聞いたから」綾香は黙り込み、視線を落とす。「……長門先生のせい、ですか?」由奈が静かに尋ねる。「……いえ、私自身の都合です。もう、続けたくなくて」綾香は手を強く握りしめ、目を合わせようとしなかった。無理に問い詰めることはせず、由奈は一口、お茶を飲む。「私と一緒に、江川病院に来る気はないですか?」綾香は驚いたように顔を上げた。「え、先生が江川病院へ?」「随分前から異動願いを出してるんです。福利厚生は今の病院ほど良くないですけど、少なくとも、落ち着いて働けます」「……長門先生が理由、ですか?」由奈は少し間を置いて、微笑んだ。「彼女は、決定的な理由じゃありません」もし歩実が理由なら、半年前に彼女が帰国した時点で、もう動いていた。由奈は綾香の迷いを感じ取った。迷っているということは、まだ医療現場に未練があるというこ
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第174話

迎えに来る……?由奈は一瞬、耳を疑った。今日はどういう風の吹き回しなのだろう。返事をしないままでいると、受話器越しの声がわずかに低くなる。「……嫌か?」言い合うのも面倒だ。由奈は諦め、住所を教えた。「長田町近くのバス停にいる」短く告げると、祐一は「分かった」とだけ返して電話を切った。由奈がバス停のそばで待っていると、ほどなくして見慣れた車が道路の脇に静かに停まった。後部座席に乗り込み、何事もなかったようにシートベルトを締める。隣に座る祐一の視線が、じっと彼女に向けられている。しばらくして、彼は低く尋ねる。「体調はどうだ」由奈の手が一瞬止まる。けれど表情は変えずに答えた。「大丈夫。もう薬も飲んだから」祐一は眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。ふと用件を思い出し、由奈は彼を見る。「今夜のパーティー、着替えたほうがいい?」アンデル教授を歓迎する場は、それなりに改まった席のはずだ。祐一はシートに深くもたれ、片手で額を押さえた。「必要ない」それ以上、由奈は何も聞かなかった。夜七時。二人が到着したのは、海都市でも屈指の格式を誇るレストラン、京味軒だった。普通の個室ですら十分豪華だったのに、最上位の宴会場「龍吟」は、もはや桁違いだ。一晩の最低使用料だけで千七百万以上。それに、お金があっても、簡単には予約が取れない。由奈は足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑んだ。宮殿のような建築、彫刻が施された壁、玉石を思わせる装飾――これでは「一席千金」と言われるのも無理はない。祐一が姿を見せると、すぐに何人もの人間が声をかけてきた。地域の要職者、医師会で名の知れた教授や専門医たち。由奈にも顔見知りが何人かいる。一人、中年の教授が彼女に気づき、声をかけてきた。「これはこれは、脳外科の池上先生じゃありませんか。滝沢社長とご一緒とは」由奈は穏やかに微笑む。「たまたま、ご一緒させていただいただけです」祐一はちらりと彼女を見ただけで、何も言わず、差し出されたグラスを受け取った。由奈は数言会話を交わし、ワインの入ったグラスに口をつけようとした瞬間――祐一が無言で彼女のグラスを取り上げた。「体調が万全じゃないだろ?酒は控えたほうがいい」周囲が一斉に視線を交わす。由奈も祐一の予想外の行動にしばし言葉を失った。
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第175話

将吾が何か言いかけたその瞬間、真由美がすかさず言葉を被せた。「中道さん、前にお伝えできていなかったんですけど……実は由奈さん、祐一さんの妻なんです」祐一が由奈をこうした場に連れてきている以上、関係を明かしても不自然ではない。それに――真由美は、智宏が由奈にどんな感情を抱いているのか、測りかねていた。もし万が一、彼にその気があるのなら、この場で芽を摘んでおくに越したことはない。祐一はグラスを軽く揺らし、淡々と言った。「由奈が俺の妻だということ、中道さんはそんなに意外ですか?」智宏は、少し離れた場所で人と話している由奈に視線を向ける。以前、奈々美が見せた態度を思い出したのか、ふっと笑った。「ええ、とても意外でした。なぜなら――」数秒の間を置き、言葉を選ぶように続ける。「滝沢社長の奥さんには見えませんでしたから」祐一は視線を逸らさず、ただ黙って彼を見つめた。真由美が冗談めかして割って入る。「そんなことありませんよ、由奈さんは正真正銘、祐一さんの妻なんですから」「ですが、前にあなたの娘さんが池上さんにきつく当たっていたでしょう?知らない人からすれば、身内どころか仇同士に見えたかもしれませんね」智宏の一言に、真由美の表情が強張った。祐一の気配を察した将吾が、声を落として怒る。「だから言っただろ。奈々美のこと、ちゃんと見ておけって。どうしてまた由奈さんに突っかかるような真似をしたんだ!」奈々美が由奈に敵意を向けるのは今から始まったことではない。内輪のことなら目を瞑っていたが、祐一の前となれば、父親として形だけでも注意しなければならなかった。真由美は無理に笑顔を作る。「奈々美は昔から、思ったことをすぐ口に出す性格だから……」「率直なのと、考えなしなのは別でしょう」智宏はグラスを置き、二人の顔色など意に介さず言い切った。「娘さんの品性、少し心配になりますね」そう言い残し、彼は由奈のほうへ歩いていった。その背中を見送り、祐一は残っていた酒を一気に飲み干す。その頃、由奈はちょうど会話を終えたところだった。振り向くと、智宏がこちらへ向かってくるのが見える。「中道さん、こんばんは」微笑みながら声をかける。「こんばんは。今、何て呼びました?」由奈ははっと気づくように言い直す。「……お兄さん」その呼び方に、智宏は満
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第176話

歩実は海外で六年過ごしているだけあって、英語にはまったく不自由しない。周囲からの称賛にも、謙遜する様子はなかった。ふと視線を人混みの中の由奈へ向け、顎をわずかに上げる。まるで――「あなたがどんなに真面目にやってきても、私には海外で学んだ実績と学位がある」と、そう告げているかのようだった。それに、アンデル教授はM国の出身だ。歩実は、ここにいる誰よりも自分のほうが彼の目に留まるはずだと、疑っていなかった。脳神経外科のことなどさっぱり分からない奈々美ですら、周囲の反応に気を良くし、目を輝かせる。「ほら祐一さん、前も言ってたでしょ?歩実さんは本当にすごいって」そう言いながら、由奈を一瞥し、鼻で笑った。「どこかの誰かさんとは大違い。突っ立ってるだけで、何の役にも立たないんだもん」そう言われても、由奈は何も反論しなかった。歩実はその様子を見て、柔らかく微笑む。「奈々美ちゃん、そんな言い方しないで。得意分野が違うだけよ。池上先生は臨床では一流だもの。私なんかより、ずっと現場を分かっていると思うわ」「でもさ」奈々美は不満そうに口を尖らせる。「由奈って普通の学部出身でしょ?英語だって怪しいんじゃない?歩実さんみたいに海外で学んだ人間とは、比べものにならないよ」あからさまな侮蔑だ。それを聞いた智宏の表情が曇る。なぜかは分からないが、由奈が貶されるのを聞くと、胸の奥がざわつく。そして――祐一の態度も気に食わない。夫でありながら、妻を庇おうとしないなんて。智宏は、由奈が滝沢家で置かれている立場を思い、胸が重くなった。そのとき、秘書らしき人物がアンデル教授のもとへ歩み寄り、耳元で何かを囁いた。教授はさっきまで期待に満ちていた表情を緩め、少し残念そうに歩実を見る。「先ほどあなたが発表した神経幹細胞移植に関する見解は素晴らしい。だが――その内容は、すでに十年前、学術誌で発表されています。その論文をご存じですか?」歩実の表情が、わずかに固まった。もちろん、知っている。だが、当時は評価されず、専門家にも顧みられなかった論文だ。話題にすらならなかった、忘れ去られた研究。――まさか、自分の他に知っている人がいるなんて。それでも、もう十年も前の話だ。アンデル教授がその観点を評価したとしても、今さら本当の著者が名乗り出ることなどない。仮に現れて
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第177話

「……さすがにそれは言い過ぎでしょう」智宏はそう言って、眉をひそめた。彼もまた、由奈が英語を理解していないと思い込んでいる。アンデル教授のそばには通訳がいるのに、祐一と奈々美が、あえて由奈の前で英語を使い続けた――その意図は、誰の目にも明らかだった。智宏が由奈をかばうように口を出したのを見て、祐一は無表情のまま彼を見据える。その視線は静かだが、底知れぬ圧を孕んでいる。だが祐一が何か言うより先に、由奈が智宏の袖を軽く引いた。「いいんです。気にしてませんから」淡々とした声だった。自分が英語を理解していることを示す様子もないし、アンデル教授の前で真偽を争おうとする気配もない。――嘘は、所詮嘘。いくら取り繕っても、真実にはなれない。由奈にとって、それだけの話だった。智宏は表向きは頷いたものの、胸の奥のざらつきは消えなかった。……パーティーはそのまま続いていた。真由美は休憩室から出てくると、近くにいたサービス係を呼び止める。手にしていたグラスをトレーに乗せ、そっとチップを挟み込んで囁いた。「このお酒、あちらの中道さんに」サービス係が去るのを見送りながら、真由美は人の流れの中に立ち尽くす。智宏と由奈が、相変わらず並んで話している姿が目に入って、焦りが募る。――このままではいけない。智宏と奈々美との縁談だけは、何としても成立させなければならない。真由美はスマホを取り出し、奈々美に短いメッセージを送った。その頃、奈々美は歩実と祐一のそばで、楽しげに話し続けていた。祐一はグラスを軽く揺らしながら、興味なさげに相槌を打つだけ。歩実や奈々美が何を話しかけても、反応は淡泊だった。ふと、グラス越しに視線を滑らせる。その先に映ったのは、少し離れた場所に立つ由奈と智宏の姿。そのとき、サービス係が智宏のもとへ酒を運んできた。会話の流れもあってか、智宏は特に警戒することなく、グラスを手に取る。ゆっくりと喉を潤し、しばらくしてから――彼は、わずかな異変を覚えた。「……池上さん」声に力がない。「どうしました?」由奈はすぐに気づいた。智宏は額を押さえ、眉を寄せる。「少し……頭が、くらくらする」よく見ると、こめかみにうっすらと冷や汗が浮かんでいた。「休憩室で少し休みますか?支えます」智宏は一瞬迷ったが、歯を食
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第178話

「中道さん、いくらなんでもひどすぎませんか?うちの娘は親切心で休憩室までお連れしたのに……どうして、このような真似を……!」真由美が真っ先に声を上げ、場の空気を一気に掌握する。言葉の端々には、「娘が乱暴された」という前提が埋め込まれていた。将吾もまた、奈々美と智宏の縁談をまとめたいと考えていた一人だ。ここまで話が運んだ以上、自分が智宏を説得する手間が省ける。由奈は眉をひそめ、静かに口を開いた。「意識を失っていた人に、乱暴も何もありません」「……どういう意味?」真由美は声を尖らせる。「まるでうちの娘が自分から身を投げ出したみたいな言い方じゃない」「医学的な見地から、事実を述べているだけです」由奈は感情を交えず、淡々と続けた。「意識がない状態では、生理的に性行為は成立しません。酩酊状態と同じで、反応そのものが起きないんです」周囲に、気まずい沈黙が落ちる。だがその場には医療関係者も少なくなく、由奈の説明は正しいと認めざるを得ない。「理屈なんてどうでもいいわ!」真由美は声を震わせ、今にも泣き崩れそうな母親を演じる。「娘は傷ついたの!たしかに中道家との縁談は望んでいたけど、まだ何も決まっていない段階で、こんなことが起きた以上、中道さんにはきちんと責任を取ってもらうわ!」「滝沢家と中道家が縁談?」「なるほど……だから、か」ざわめきが広がる。祐一の視線が、由奈に向けて止まった。その表情は、次第に陰りを帯びていく。やがて彼は目を伏せ、低く言った。「中道さん。何か、言うことはありませんか?」由奈は思わず祐一を見た。指先が強く握り締められる。「祐一、あなたまで、理不尽に人を追い詰めるの?」祐一の瞳が冷たく細まる。「夫として、君が他の男を気遣うのを黙認するだけで精いっぱいだ。それに、君は何を約束してくれたか、もう忘れたのか」――それだけじゃない、彼女は彼の子を身ごもっている。ここまで独占欲を丸出しにする祐一は、まるで別人のようだった。由奈の胸に、言いようのない違和感が広がる。彼のことを理解したことが一度もないと、改めて実感した。歩実の表情もまた、すっかり強張っていた。「……もういいでしょう」智宏が、ようやく口を開いた。乱れた衣服を整えながら、淡々と周囲を見渡す。「滝沢家がそこまでして僕との縁談を望むなら、断る理由
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第179話

祐一がパシフィスガーデンに戻った時、時間は夜の十一時半を回っていた。玄関を開けると、リビングも寝室も灯りは落ち、家の中は静まり返っている。間接照明を点け、寝室の扉を押し開ける。外から差し込む淡い光の中で、すでに眠りに落ちている由奈の姿が目に入った瞬間、彼の顔がわずかに強張った。ベッド脇にしばらく立ち尽くしたのち、祐一は上着を脱ぎ、隣の部屋でシャワーを浴びた。……翌朝。カーテンの隙間から差し込んだ一筋の光が、枕元を淡く照らす。由奈はゆっくりと目を開いた。視界に映ったのは、至近距離にある男の端正で凛々しい横顔だった。祐一の腕は、彼女の腰骨の下あたりに回され、腹部を圧迫しないよう、細心の注意が払われている。その慎重な抱き方は、まるで大切なものを胸の奥に抱きしめるかのようで――新婚の夫婦が寄り添い合う、穏やかな朝を連想させる。だが、二人の間に横たわる溝はあまりにも深い。手を伸ばしても届かない、深海のように。そして由奈自身、もう彼の世界に踏み込む気はなかった。我に返り、そっと彼の腕を外す。その小さな動きで、祐一も目を覚ました。意味深に彼女を見つめ、「ずいぶん、よく眠っていたな」と低く言う。「昼間が疲れていると、眠りが深いだけ」由奈は淡々と答えた。かつては眠れず、祐一の帰りを深夜まで待ち続け、限界になるとソファで眠った日々もあった。あの頃の自分は、今思えば少し、頑なすぎたのかもしれない。人は、何かに執着しすぎると、ろくなことにはならない。何か言われるかと思ったが、祐一は小さく笑っただけだった。「妊娠したんだから、眠くもなるはずだ」――妊娠?由奈は一瞬、思考が止まった。「……今、なんて?」「薬局で何を買ったか、覚えてないわけじゃないだろ」祐一は落ち着いた様子で起き上がり、着替え始める。由奈も身を起こし、クローゼットへ向かう背中に声を投げた。「……薬局の人から聞いたの?」つまり、あの時点から自分が妊娠したと思われていたのか。それはそうと、もし自分が本当に妊娠していたら、きっと祐一は産ませてくれないだろう。すでに彼には、別の子がいるのだから、彼女が産んだ子など、受け入れるはずがない。シャツのボタンを留めながら、祐一は振り返った。「俺が聞かなかったら、いつまで隠すつもりだった?」由奈の顔色がわず
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第180話

午後、由奈は一度、滝沢家の本邸へ戻った。門の外では森田と数名の使用人が待っており、由奈の姿を見ると、穏やかに頭を下げる。「奥さま、和恵さまと千代さまは、リビングでお待ちです」由奈は小さくうなずき、彼女たちの後について屋内へ入った。リビングでは、和恵が花を手に、花瓶へ丁寧に生けている。その脇で、千代の視線が由奈を追い、やがて彼女の腹部に落ちる。次の瞬間、彼女は静かに口を開いた。「妊娠したなら、もっと早く教えなさい」「お義母さん、おばあさま、実は私……」そこまで言いかけた瞬間、勢いよく扉が開いた。外にいた使用人が止めきれなかったらしく、男の子がそのまま室内へ飛び込んでくる。健斗だった。由奈は彼を見ても、特に表情を変えなかった。彼がこの家にいることは、すでに知っていたからだ。使用人の顔色が一気に変わる。事の重大さに気づいたのだろう、慌てて追いかけ、健斗を連れ出そうとする。だが、健斗は腕を振りほどき、首を横に振った。「行かない!祐一おじさんに会いたい!一緒に遊んでくれるって、約束してくれたんだ!」和恵が何か言う前に、千代が立ち上がった。「何してるの?子供一人の世話もろくにできないの?」「申し訳ありません。すぐに連れていきます」使用人は青ざめた顔で健斗の腕を引く。健斗は抵抗し、声を荒らげた。「嫌だ、祐一おじさんに会うんだってば!」「いい加減にしなさい!」千代の叱責は容赦がなかった。「本当に礼儀の知らない子ね。ここに置いてもらっているだけでもありがたく思いなさい」その一声に、健斗は何かを思い出したのか、身体を強張らせた。顔から一気に血の気が引く。次の瞬間、床に、じわりと濡れた跡が広がった。彼はおしっこを漏らしたようだ。それを見るなり、千代は露骨に顔をしかめた。「……早く連れて行ってちょうだい」さらに口元を押さえて言う。「まったく、この歳なのにまだおもらしなんて」使用人たちは健斗を連れて扉へ向かい、外に出た途端、健斗は泣き声を上げて走り去った。森田が他の使用人に床を片づけさせたあと、和恵の背後に静かに控えた。やがて、和恵が顔を上げ、黙ったまま立っている由奈を見つめる。少し間を置いて、ため息交じりに言った。「ごめんね、あの子のことについて、祐一は、確かに配慮が足りなかった。でも、彼はあくまで一時的に滝沢
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