All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

翌朝。由奈が目を覚ますと、すでに家政婦がキッチンで朝食の支度をしていた。祐一はやはり帰ってこなかった――どうせ、あの母子のところで過ごしたのだろう。椅子を引き、箸を取ろうとしたとき、電話が鳴った。表示された名前を見て、由奈の胸がわずかに痛む。母の久美子からだった。スマホの向こうで泣き声が漏れる。「由奈……母さんね、あんたが滝沢家に嫁いで苦労してるのはわかってる。でも、今回だけはお願い……浩輔を助けてあげて」――「滝沢家で苦労してる」。その言葉は、鋭く胸に突き刺さる。母は何もかもを知っていた。それでも、自分が離婚を決意した時、味方にはなってくれなかった。由奈は箸を強く握りしめ、かすれ声で答える。「昨日、祐一に頼んだ」――とはいえ、それは池上家のためではなく、自分のためだ。「で、祐一さんはなんて?」「改めて話すって」ただ、そのままを伝えた。「そうか、ありがとうね、由奈。あんたなら浩輔を見捨てないと思ってたわ」久美子は安堵したように畳みかける。「安心して、浩輔の件が片付いたら、もう二度と迷惑かけないから」それだけ言うと、急ぐように電話を切った。まるで、由奈が気が変わるのを恐れているかのように。由奈はしばらく無言でスマホを見つめ、それから何事もなかったように食事を口へ運んだ。昼。病院に出勤した由奈がエレベーターを降りると、ナースステーションに歩実の姿が見えた。彼女は看護師たちと雑談をしていて、全員にプレゼントを配っている。ブランド物のリップだ。「長門先生、滝沢社長ってやっぱり太っ腹ですね!」「ほんとほんと、私たちまでおすそ分けなんて!ラブラブすぎて眩しいくらいですよ!」看護師たちが弾む声をあげる。歩実はにこやかに微笑んだまま何か言おうとしたとき、由奈の姿を捉えた。手に小さな箱を持って歩み寄ってくる。「池上先生、いいところに来たわ。これをどうぞ、全員に配ってるの」視線を落とすと、艶やかなリップが入った箱。ここで断れば、「気取り屋」だと噂されるのは目に見えている。由奈は無表情で受け取った。「ありがとうございます」そのまま歩実を避け、医局に入る。手にした箱は、机の引き出しに無造作に放り込んだ。――受け取ってはいたが、使うつもりはない。ほどなくして、歩実が入ってくる。相変わらず笑みを浮か
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第12話

由奈がまだ気持ちを整理しきれずにいると、祐一から突然メッセージが届いた。【君の態度次第で、弁護士を探してやってもいい】彼女は戸惑う――「態度次第」とは?歩実とその子どものために、早く妻の座を譲れということなのか。長い沈黙のあと、由奈はただひと言【わかった】と返した。その頃、祐一は返信を確認すると、秘書の麗子に命じた。「池上浩輔が勾留された理由を調べてくれ」「承知しました」麗子が去ってまもなく、祐一の母親、千代(ちよ)が派手なブランドバッグを持って部屋に飛び込んできた。「祐一!あんた、隠し子がいるって本当なの!?」祐一はネクタイを緩め、顔色ひとつ変えない。「隠し子?」「とぼけないで!」彼女は写真を机に叩きつけた。そこには祐一と歩実が幼稚園で健斗を迎える姿が映っていた。祐一の目が一瞬だけ陰を帯びる。「もうネット中に広まってるのよ!あんたに隠し子がいるって!木原家の奥さんの孫まで『あの子のお父さんは祐一だ』って言ってるわ!」顔を真っ青にしながら千代は続けた。「これは完全に不倫スキャンダルじゃない!」彼女は由奈が好きではなかった。けれど彼女はまだ滝沢家の嫁である以上、この騒ぎは家の恥になる。祐一は黙々とペンを走らせ、書類に署名を終えると口を開いた。「健斗は俺の子じゃない」「本当に違うの?」千代は疑わしげに目を細める。「違う」祐一は淡々と答え、わずかに視線をあげる。千代は言葉を失った。息子の性格はよくわかっているつもりだ。由奈との結婚は不本意だったし、今も子どもはできていない。もし本当にほかの女との間に子をもうけていたなら、今さら隠すはずがないだろう。しばらく考え込んだあと、彼女は声を落として言った。「どうせ由奈のことなんて好きじゃないんでしょう?だったら離婚したらいいじゃない。私がちゃんとした名家のお嬢さんを紹介するわ。一人くらい気に入る相手が見つかるはずよ」由奈との結婚が祐一の意思ではなかったことは、彼女もよくわかっている。だが家の重鎮である和恵に逆らえず、二人の婚姻に口を挟むこともできなかった。けれど、離婚を勧めれば息子ならきっと応じてくれる――そう信じていた。由奈を愛しているかどうか、ずっとそばで見てきた自分にははっきりわかっていたから。祐一は手を止め、眉間にうっすら不快の影を
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第13話

由奈は怪訝そうに顔を上げた。「滝沢社長、何かご用ですか?」祐一は落ち着いた声で問い返す。「今日、ニュースは見たか?」「ニュース?」彼女は首をかしげる。祐一は数秒だけ視線を絡め、そのまま淡々とした口調で言った。「……いや、何でもない」そう言うと、踵を返して歩き去る。由奈はその背中を見送るうち、浩輔の件を思い出して思わず呼び止めた。「滝沢社長!」祐一が立ち止まり、振り返った。その眼差しには、どこか冷ややかな色が浮かんでいる。「まだ何か?」胸の奥がちくりと痛む。――用がある時は彼から連絡が来る。けれど、自分からは近づくなということなのだろうか。由奈は唇を結び、意を決して言った。「弁護士の件、ありがとうございます。ただ……社長がおっしゃった『態度次第』というのは……この数日中に時間を作って、離――」「祐一!」離婚届という単語を出す前に、明るい声が彼女の声を遮った。振り向けば、歩実が小走りで駆け寄ってくる。由奈の姿を認めた瞬間、彼女の笑顔はかすかに曇ったが、すぐに祐一の腕を当然のように取った。「せっかく病院に来てくれたのに、私のところにも顔を出してよ」――これは、自分の立場を誇示する言動だと由奈は瞬時に理解した。もし彼女が知っていたらどう思うだろう。いま隣に立つ男が、他人の夫だという事実を。祐一が答えるより先に、歩実は由奈へと振り返り、笑顔を作った。「池上先生、この前祐一とは親しくないっ言ってたよね?でも、ずいぶん楽しそうに話してるじゃない。私、池上先生のことを紹介してあげようと思ってたのに」その口ぶりは、一見すれば「権威ある人に推薦してあげる」という親切めいた響きをまとっていた。滝沢家の長男であり、すでに会社の実権を握る祐一。政財界の人脈も潤沢で、資金力も申し分ない。しかも病院の株主として、最新の医療機器を寄付し、研究プロジェクトの支援までしている。院内の誰もが歩実を羨んでいた。突然部長に就き、さらに裕福で地位ある彼氏を後ろ盾にしているからだ。こうして彼女が由奈を祐一に紹介していると、妬む視線を向ける看護師もいた。だが祐一の注意は、歩実の言葉の中でも「由奈が自分とは親しくないと言った」という一点に向けられていた。氷の影を帯びた視線が、由奈を射抜く。由奈は苦笑いを我慢し、まっすぐ歩
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第14話

祐一は静かに視線を引っ込め、短く言い捨てた。「あんな人間、気にかけるだけ時間の無駄だ」そう言って背を向け、歩み去る。だが、その言葉は扉の向こうにいた由奈の耳にもしっかり届いていた。顔から血の気が引いていく。祐一の目には、浩輔はどうしようもない落ちこぼれとしか映っていない――けれど、由奈には反論できない。浩輔は人を大怪我させた。それは事実だ。姉として、由奈は弟のことをよく知っているつもりだ。確かに学業を投げ出し、喧嘩ばかりしてきたけれど、手を出すのはいつも相手が先で、これまで誰かに重傷を負わせるようなことはなかった。どうして今回だけそんなことになったのか。由奈も真相を知りたい。祐一が手を貸してくれること自体は感謝している。けれど、目の前で自分、そして弟を「あんな人間」と切り捨てたのは、胸に刺さる。だが、無理もない。池上家のことなど、祐一にとっては金に目がくらんだ卑しい家族、いい印象など抱いていないのだから。祐一の言葉を聞くと、歩実は勝ち誇ったように医局の中へ視線を送り、彼の後を追う。探るような態度はもう消えていて、わざと声を弾ませた。「祐一、池上先生はあんなに優しい人なのに、そんな言い方しなくてもいいじゃない」――祐一の口ぶりからして、彼は由奈を忌々しく思っているようだ。なら、二人に特別な関係などあるはずがない。歩実はほっとしたように祐一の腕に絡めた。「ねぇ祐一、今夜も一緒に健斗を迎えに行かない?それから食事でもどう?」「……あのトレンドは見たか?」その一言に、歩実の体が一瞬固まる。わざと撮らせた写真。どうせ祐一は自分のことが好きだから、あんな噂など気にしないと思っていた。ところが、騒ぎになる前に記事は消されてしまった。――つまり、彼はもう昔のように自分を想ってはいない。それでも、祐一が少しでも負い目を感じている限り、まだ望みはある。焦らず少しずつ彼を取り戻せばいい。歩実はそっと腕を離し、申し訳なさそうに俯いた。「その件……私も知ったばかりの。本当にごめん。ただ一緒に健斗を迎えに行っただけなのに、あんなふうに撮られるなんて……迷惑をかけてしまったね」「……あの子は俺の子じゃない。それに、仕事もあるから世話をするのも難しい。だからもう保育士を頼んである。これからは彼女に任せる」そ
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第15話

由奈は唇を噛み、目に影が落ちる。カバンを下ろしながら言う。「……ご飯、作ってくるわ」そのままキッチンへ向かい、手際よく動き出す。冷蔵庫には家政婦が用意してくれた食材がそろっている。昔、由奈に余裕があった頃は、祐一の帰りを待って毎晩のように料理をしていた。たとえ彼が夕飯の時間に間に合わなかったとしても、帰ってきたときは温め直して出していた。けれど彼は、一度も箸をつけたことはなかった。「そんなことしなくていい」と、いつも冷たく言われるだけ。六年間、妻としてできることはすべてこなしてきたが、ことごとく拒まれた。今になって、由奈はもう疲れ切ったのに、逆に妻の役目を果たせと言うのか?余計なことは考えまいと、由奈は料理に集中した。調味料を取ろうと棚を探し、お酢の瓶に手を伸ばす。だが、瓶は上段にあり、指先が届かない。そのとき、不意に背後から大きな影が差した。ひょいと伸びた腕が、あっさりと瓶を取り下ろす。すぐ背後に迫る熱――まるで体を包み込むように覆いかぶさる気配に、由奈の心臓が跳ねた。二人はもちろん、体を重ねたことがある。いつかの夜、浴室で壁に押し付けられ、背後から強引に求められた、あの熱。今の彼も、あのときと同じ温度を纏っていた。由奈は思わず息を呑み、慌てて横にずれて声を絞り出す。「料理がまだなの……外で待っていて」わざと距離を取ろうとする彼女に気づいたのか、祐一の瞳がかすかに陰った。次の瞬間、彼は由奈の腕を強く引き寄せ、胸に抱き込む。びくりと体が硬直する。「逃げるな。前に触れたとき、一度も逃げなかったじゃないか」その眼差しには、どこか嘲るような色が宿っていた。羞恥と悔しさで、由奈の頬が一気に赤く染まる――これも、彼なりの侮辱なのか。「……やめて。こんなの、よくないわ」「どこが?」「……」言葉に詰まったその瞬間、彼の掌が服の中に忍び込む。由奈は反射的に押しとどめたが、祐一はさらに強引に手を這わせ、鼻で笑った。「……キッチンでっていうのも、悪くないかもな」かつて見てきた彼の欲望の顔――本能のまま彼女を貪ろうとする表情だ。けれど、彼が歩実を抱いた事実を思い出すだけで、由奈の胸はどうしようもなくかき乱された。由奈は必死に顔を背け、迫る唇をかわした。「……いや。したくない!」彼の
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第16話

鈴木がくすりと笑いながら言った。「旦那様が朝食を作ってくださったんですよ。まさかこんなに料理上手だとは思いませんでした。奥様は本当に幸せですね!」由奈は、祐一の背中を見つめる。胸の奥で複雑な感情が絡み合っていた。祐一は料理ができる――それは祐一の従妹、奈々美(ななみ)から聞かされたのだった。奈々美は滝沢家の他の人間と同じように由奈のことを嫌っていた。しかも祐一と歩実が付き合っていたことを知っていて、由奈が嫁いできた時には、わざと歩実と比較したり、祐一がいかに歩実を大切にしていたかを誇らしげに語っていた。祐一は、歩実のために料理を覚えたのだ。彼は一度たりとも由奈のためにキッチンに立ったことがないのに、歩実のためなら、一から料理を覚えた。そんな彼が、気まぐれに朝食を作っている。由奈の心はざわめき、落ち着かなかった。長い結婚生活でずっと冷たくされてきたのに、最近のこの変化は何なのだろう。離婚後も恨まれないよう、妻に少しでもいい印象を残したいのか?「起きたか?おはよう」祐一が二人分の皿を運んできた。テーブルに並んだのは、イタリア風のラザニアだった。彼はひと皿を由奈の前に置き、ようやく椅子に腰を下ろす。「適当に作った。君が好きだろうと思って、甘めにしておいた」鈴木が彼女の椅子を引き、由奈は席に着く。皿を見下ろすと、胸の奥が冷たくなる――甘い味つけは、あまり好きじゃないのだ。けれど彼は一度だって、自分の好みを気にかけたことなどなかった。まあ、いい。いずれ離婚するのだから。「ありがとう」由奈は丁寧すぎるほどの声で礼を言った。祐一の瞳が細められ、じっと彼女を見つめる。鈴木が笑顔で言う。「奥様は本当に愛されてますね」由奈の表情は一瞬こわばった。――愛されてる、ね。ずいぶんと「重い」愛情だ。祐一はナイフとフォークを優雅に操りながら、さらりと口にする。「妻はいつも苦労してるからな。少しは気を遣わないと」「……」由奈は呆れて言葉も出なかった。だが鈴木はその言葉にうっとりしたような顔をし、まるで目の前に男の鑑がいるとでも言いたげに彼を見つめた。――こんな人、どこを探しても滅多にいないわよ、と言わんばかりに。やがて鈴木が下がると、食卓には二人だけが残った。由奈は祐一の言葉を気に留
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第17話

丸一週間、由奈は祐一の姿を見なかった。院長の勉から「長門先生を連れて学術大会に出席してほしい」と頼まれた時、それが祐一の提案だと聞いても、彼女は驚かなかった。当日、由奈は勤務用のスマホから歩実に連絡を入れ、支度するようにと伝えた。返ってきたのは「わかった」の一言。病院を出た後、由奈は彼女を待った。するとほどなくして、歩実から再びメッセージが届く。【ごめんなさい池上先生、先に行っててください。あとで祐一が送ってくれるので】由奈は画面を見つめ、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。【了解しました】とだけ返し、スマホを閉じる。車を走らせシャイニングヒルズに到着すると、偶然にも祐一の車と鉢合わせた。助手席から降りてきた歩実は、丁寧に着飾り、メイクまできちんと施している。その後から降りてきた祐一は、淡い色のカジュアルな服装をまとい、いつもの重々しさはなかった。初恋の相手と一緒にいると、雰囲気まで変わるようだ。姿を消したこの一週間、ずっと彼女と過ごしていたのだろう。胸の奥にざらつく感情を押し込み、由奈は視線を外して二人を追い越し、ビルの中へと入った。ロビーで、思いがけない顔と出会う。影山彰(かげやま あきら)だ。影山家は由奈の恩師、白石恭介(しらいし きょうすけ)教授と先代から付き合いがあったため、由奈が恭介のもとで学んでいた頃から彰と交流があった。「由奈ちゃん?」彰が歩み寄ってきた。軽く眉を上げ、いつもの調子で笑う。「奇遇だな。君も会議か?」「ええ」由奈は頷く。「元気にしてた?」由奈は微笑む。「ええ、おかげさまで。彰さんと白石教授は?」「僕は何とかやってるよ。白石教授はね、君のことをずっと気にかけてたよ」その時、背後から甲高い声が響いた。「池上先生、ちょっと待って、早いよ」振り返れば歩実がこちらへ向かってきて、背後には祐一の姿もある。歩実は彰を一瞥すると、由奈と見比べ、にやりと笑った。「こちらの方、先生の彼氏かしら?」祐一の視線が横から流れ、彰へと注がれる。その目はどこか陰を帯びていた。「しばらく会わない間に、影山さん、恋人ができたのか?」「……恋人?」彰は一瞬固まる。まさか由奈とのことを指しているのか?確かに由奈は美しく、彰のタイプでもある。何せ、昔は「医大一の美人」と呼ばれて
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第18話

「すみません……」思わず口をついた由奈は、ぶつかったのは祐一だとはっと気づく。けれど彼女は顔を上げることなく、彼と距離を取った。眉間には自然としわが寄る。さっき自分を引き寄せたのが祐一であることは、ほぼ間違いない。でも、どうしてそんなことをしたのかはわからない。考えたくもなかった。彼が自分を愛しているなどと、そんな余計な期待を抱くのは危険だから。最上階に着き、全員がエレベーターを降りる。由奈は一度も祐一を振り返らず、彰の後に続いた。広々とした宴会場で、席はすでに決められていて、由奈の席は彰のすぐ隣だった。一方で歩実の席は祐一の隣。そもそも祐一は医療関係者ではないのに、なぜこの場にいるかというと、彼が病院へ多額の寄付と医療機器の提供をしてきたからだ。彼が望めば、医学界の重鎮たちがこぞって招待状を送るだろう。歩実はふと振り返り、由奈が彰と親しげに言葉を交わす姿を見て、目に冷たい光を宿す。「祐一、池上先生と影山さんって、お似合いだと思わない?」探るような声音で問いかけた。祐一はスマホを無造作に操作しながら、気だるげに答える。「由奈じゃ、彼には釣り合わない」そう言われても、歩実は胸の奥がざわついた。一方の由奈は彰と話し中、ふいにスマホが震えた。画面を見て、息が止まった。祐一からのメッセージだ。【あの影山がそんなに気に入ったか?再婚して影山家の奥様にでもなりたいのか?】由奈は思わず唇を噛む。これは嘲笑なのか、それとも……祐一がこんなことでわざわざ連絡してくる人間だろうか。彼なら、由奈が他の男に惹かれても気にしないはず。……なのに、この言葉はまるで嫉妬のように響いた。嫉妬?まさか。そんなはずは――由奈が祐一の方に目を向けると、ちょうど彼が歩実の髪を耳にかけてやっているところだった。歩実は嬉しそうに笑い、甘い視線を向けている。祐一も特に拒むことなく、その様子は熱愛中の恋人同士さながら。その光景に胸の奥がじわりと痛む。由奈は耐えきれず、視線を逸らした。彰は二人の空気を察し、目を細める――これは面白い。由奈は祐一のメッセージを無視した。休憩時間。由奈が化粧室へ行き、パウダールームに立つと、歩実がすかさず隣に並び、リップを塗り直しながら話しかけてきた。「池上先生。どうもあ
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第19話

歩実は満足げにメイクを整えると、鏡に向かって口元をわずかに上げた。個室の方に視線を投げてから、軽い足取りでその場を後にする。……歩実が戻り、その少し後に由奈も会場へ戻った。大会のすべてのプログラムが終わる頃、由奈は彰や二人の医療界の大御所と共に会場を出てきた。「池上先生、彰くんから聞いたよ。白石教授の最後の弟子なんだってね。若いのにもう複雑な手術を独りで任されるとは、大したものだ」由奈は控えめに笑い、「お褒めに預かり光栄です、阿部先生。私なんかはまだまだです。ここまで来られたのは恩師のおかげですよ」と答える。阿部(あべ)と呼ばれた白髪の医師は手を後ろに組み、にこやかに笑った。「君も君の先生と同じで、まったく謙遜しすぎだな」二人の先輩医師に挨拶をして別れた後、由奈は彰と共に階下へ降りていった。そこではすでに人だかりができていて、歩実が「手首のブレスレットがなくなった」と訴え、防犯カメラ映像を確認したいとまで言っている。「長門先生、ブレスレットをどこでなくしたんですか?」「身につけているものなのに、不思議ですね」周囲は首を傾げる。歩実は涙目を作りながら由奈を見つけ、わざと声を上げた。「私……化粧室に行ってたけど、そこで池上先生と会ってから、ブレスレットがなくなったんです」その場にざわめきが広がる。多くは由奈のことを知っている同じ病院の関係者だった。「え?池上先生が?そんなはずないよな」「そうそう、先生がそんなことをするわけがないよ」そこへ祐一がゆったりと人垣を割って現れる。「どうした」「祐一……」歩実は駆け寄り、泣き声まじりで訴える。「祐一がプレゼントしてくれたあのブレスレットが、なくなってしまって……」祐一の眉がかすかに寄る。言葉を発する前に、周囲の一人が口を開いた。「長門先生は、ブレスレットがなくなったとき池上先生と一緒にいたって……」視線が一斉に由奈へ注がれる。祐一の目も。その瞬間、彰が両腕を組んで口を挟んだ。「誤解でしょう。由奈ちゃんが人の物を盗むような人じゃないですよ」しかしその言葉は火に油を注ぐ。祐一の目が鋭くなり、低い声が落ちる。「池上先生とはそれほど親しくもないはずなのに、随分と彼女を信頼してるんだな」その言葉に由奈の胸が重く沈み、息が詰まった
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第20話

歩実が由奈のバッグを開けると、中から本当にダイヤのブレスレットが出てきた。周囲の空気が一気に張りつめ、誰もが息をのむ。視線が一斉に由奈へと注がれた。「まさか池上先生がこんなことをするなんて」「信じられない……」「人のものを盗むなんて、医者失格でしょ?」「ブレスレットまで盗むとは、そこまでお金に困ってるのか?」四方から浴びせられる非難の声に、由奈は冷たい海に沈められたように体が冷えていく。顔色は青ざめ、けれどやがて瞳に冷静な光が宿った。間違いない。これは歩実が仕組んだ罠だ。そうでなければ、こんな自信満々で自分を糾弾できるはずがない。それはそうと、何度も自分を陥れたのは……やはり祐一のため?だが自分と祐一の結婚は公表されていない……どうして自分たちの関係を?「池上先生、いくら気に入ったからといって、私のブレスレットを盗るなんて……」歩実は悲しげな顔を作り、「これは値段より思い入れのある品なの。先生が好きでも、盗むなんて間違ってるわ」と言葉を重ねた。ざわめき、嘲笑、侮蔑。すべてが由奈の耳に突き刺さる。握りしめた拳に力がこもり、目には冷えた光だけが残った。祐一が彼女の変化に気づき、胸の奥に妙な不安が広がる。視線を冷ややかに周囲に走らせ、「これ以上止まっては皆に迷惑をかける、もう行こう」と言った。騒ぎを鎮めようとする祐一を、歩実は驚いた顔で見た。「祐一……」「皆さん、私が長門先生の物を盗んだと本気で思ってるんですね?」由奈は静かに声を上げた。祐一の眉が険しく寄る。彼女はそれを無視して歩実の前に進み出る。――パシッ。乾いた音が響いた。由奈が歩実の頬を打ったのだ。誰もが目を見張った。病院関係者たちからすれば、祐一を後ろ盾にしている歩実を、人前で叩ける者などいるはずがない。彰も思わず息をのんだ――由奈にこんな一面があるとは。大胆で、痛快。すっかり彼のタイプだ。祐一でさえ予想していなかったのか、思わず由奈の手首をつかむ。「何をしてる?」「何を、ですって?」由奈は彼の手を振り払い、充血した目で睨み返す。「私は盗みなんてしません。そんなことをする必要がないから」呆然と頬を押さえる歩実を横目に、由奈はかすかに笑みを浮かべた。「滝沢社長の目の前であなたを叩いた私が、どうして陰でこそこそ物を
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