All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 301 - Chapter 310

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第301話

由奈の頭が、一瞬で真っ白になる。だがすぐ、背後から倫也の声が落ちてきた。「いつも通りにやってください。今こそ、自分ができると証明しないと」彼女は唇を引き結ぶ。やがて落ち着きを取り戻し、ドリルで頭蓋骨を開け、続いてメスで脳組織を一層ずつ切開し、血腫を丁寧に除去していく。目の前に広がる生々しい光景に、倫也は激しいめまいを覚えた。顔色は見る間に青ざめていく。それでも、必死に踏みとどまっていた。「白石先生、少し休まれますか?代わりの先生を呼んできます」看護師が小声で声をかける。倫也は表情を変えず、手にしていた器具を由奈に渡した。「大丈夫です」由奈は終始、神経を研ぎ澄ませたまま、一瞬たりとも気を緩めない。そのころ、手術室の外では、実里が声を上げて泣き崩れていた。美夏と別の看護師がそばで必死に慰めている。「どうしてなのよ……うちの人、急に脳出血だなんて。やっとこれからいい暮らしができるはずだったのに!あなたが倒れたら、私はどうすればいいの……!」しゃくり上げながら泣き続ける彼女に、美夏はティッシュを差し出した。「石川さん、どうか落ち着いてください。きっと大丈夫です」「でも、頭の手術なんて……!」「先生方はみんな専門家です。信じましょう」実里はすすり泣きながら、ようやく口を閉じた。――四時間後。由奈は傷口の縫合を終え、患者のバイタルが安定しているのを確認する。その瞬間、室内にいた全員がようやく安堵の息をついた。そんな中、みんなを最も驚かせたのは倫也だった。重度の潔癖症で、血を見ることすらできない彼が、四時間も耐え抜いたのだ。由奈は微笑み、声をかけようとした。だが次の瞬間、倫也の体がぐらりと揺れ、そのまま彼女のほうへ倒れ込んでくる。由奈は慌てて彼を受け止めた。「白石先生!」……病室に運ばれた倫也に、裕人はずっと付き添っていた。そこへ皐月と夫、白石総司(しらいし そうじ)が慌ただしく駆け込んでくる。二人が入室するなり、裕人は立ち上がった。「総司さん、皐月さん……」「倫也はなぜ倒れたの?」皐月は顔色を変え、焦りを隠せない。「白石先生は……手術に入ったんです。血の匂いをずっと我慢していて……」「……正気なの?」皐月は愕然とした。「血を見ると発作を起こすって、本人が一番よく分かっているはずでしょう。
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第302話

二人の返事を待たずに、裕人は足早に病室を出ていった。ちょうどその頃、由奈は手術を終えた患者の様子を見に来たついでに、倫也の様子を確認しようと病室へ向かっていた。こそこそと出てきた裕人の姿を見つけ、首をかしげる。「稲垣先生?」彼はびくっと肩を震わせ、慌てて口元に指を当てた。「しーっ」「どうしたんですか?」「ご両親が来てるんです。中の空気、もう息が詰まりそうでさ!」由奈は面会窓から中をのぞいた。確かに、病室の中に二人の姿がある。背中を向けた皐月は、相変わらずしなやかで色気のある体つきだった。五十を過ぎているとは思えないほど、若々しく整ったスタイルだ。彼女に比べると、恭子はふくよかで、穏やかで上品な顔立ち。まさに東洋的な美しさを備えている。――名家の奥様たちは、美しさもそれぞれだ。皐月は華やかで艶やか、恭子は清らかで気品がある。そして由奈の義母である千代は、氷のように透き通った美しさを持っている。もう少し中の様子を眺めていたかったが、裕人が由奈の腕を引いた。「もう行きましょう。総司さんと皐月さんが言い合いになったら、巻き添えを食いますよ」「え?そんなに怖いですか?」「まぁ、親の世代って、若い頃いろいろあった人が多いんですよ」そう言ってから、裕人はふと由奈を見つめた。「それに、池上先生は滝沢社長の奥さんでしょう?総司さん、滝沢って苗字を聞くだけで機嫌が悪くなるんですよ」由奈は驚いて目を見開いた。何か聞き出そうとした、その時――看護師が慌てて駆け寄ってきた。「池上先生、大変です!患者さんのご家族が騒いでいて、どうしてもICUに入院したくなくて、一般病棟に移せって言ってるんです」「でも手術が終わったばかりで、まだ術後の観察が必要です。一般病棟では、異変があってもすぐには対応できませんよ」「そう説明したんですが……聞いてくれなくて」看護師は困り切った表情だった。由奈は深く息を吐いた。「私が話してみます」裕人も後ろからついてくる。「僕も行きます」二人がICUに入ると、すぐに実里の怒鳴り声が耳に飛び込んできた。「普通病棟に移してって言ってるでしょ!」他の患者の家族がなだめても、彼女は逆に怒鳴り返している。続いて看護師長が対応していたが、容赦なく罵声を浴びせられていた。「手術は成功したんだから、IC
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第303話

裕人と由奈は顔を見合わせ、しばらく言葉を失った。「滝沢社長って?」実里は顎を上げ、得意げに言い放つ。「もちろん、海都市のあの滝沢祐一社長よ!」由奈は眉をひそめた。「彼に命の恩人がいるなんて聞いたことがありませんが……」「ふん、知らないのも無理ないわ」実里は鼻で笑う。「うちの娘はね、子どもの頃に滝沢社長の命を救ったの。当時は、両家で縁談の話まで出たのよ。もしあのとき承諾していたら、今ごろうちの娘が社長夫人なんだから!」周囲の人たちは顔を見合わせる――どう聞いても、作り話としか聞こえないのだ。裕人は思わず吹き出し、腕を組んで由奈に顔を寄せた。「……先生の旦那さん、随分とモテますね」由奈は答えず、ただ実里をまっすぐ見つめた。「どなたであっても関係ありません。当院にいらっしゃる以上、病院の規則に従っていただきます。もしご協力いただけないのであれば、それでも構いません。改めて免責同意書にご署名をお願いします。一般病室に移したことで術後のトラブルに対応できず、万が一の事態が起きても、当院は一切責任を負いません。それでよろしければ、すぐに移動の手続きをいたします」看護師長の顔に驚きが浮かぶ。まさか、ここまで正面から言い返すとは思っていなかった。実里の表情が一気に険しくなった。「ちょっと、どういう意味よ?どうして私がそんな書類にサインしなきゃいけないの?人を助けるのがあなたたちの仕事でしょう!」「助けるためには、ご家族の協力が必要です。でも、あなたは協力してくださらない。それなのに責任だけ病院に押しつけるのは、おかしくありませんか。ご主人の命を軽く見ているのではありませんか?」由奈は一歩踏み出し、静かに言い切る。「それなら……今すぐ斎場に連絡しましょうか」「な、何を言ってるの?あなたの上司に苦情を言うわよ!」「その前に、選んでください。ここに残るか、今すぐ転院して火葬の手配をするか。治療をやめれば、費用も抑えられますよ」周囲の看護師たちは息をのんだ。由奈の言葉はあまりに大胆だったが、同時に胸のすく思いもあった。理不尽な家族に振り回され続けてきた彼女たちにとって、言いたくても言えなかった本音を代弁してくれたようだった。「あなた……!」実里は手を震わせながら由奈を睨みつける。「いい?私が電話一本すれば、滝沢社長はすぐに来るのよ
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第304話

由奈は苦笑いを浮かべながら言った。「そうですか、全部誤解だったんですね。じゃあ、まだ移動されますか?」実里は言葉に詰まり、顔がこわばる。そっと祐一のほうをうかがいながら、小さく答えた。「……大丈夫です。このままICUにいます」それだけ聞くと、由奈は振り向きもせず歩き出した。祐一も後を追おうとしたが、実里が慌てて前に立ちはだかる。「滝沢社長、もしお時間があれば、うちでお茶でも――」答えるより先に、麗子が実里の腕をさっと引き離した。「石川さん。すでにお金はお渡ししています。これで滝沢社長としての恩は返したことになります。今後、石川家のことに社長は一切関わりません。騒ぎを起こす際に社長のお名前を出すのも、お控えください」祐一は軽く袖を払うと、何も言わずその場を後にした。麗子もすぐに後を追う。冷たく突き放され、実里の胸中は穏やかではなかった。だが今は、それ以上に夫の容体が気がかりだった。祐一から受け取った金はすべて夫が管理している。もし万が一のことがあれば――自分は何も残らない。そんな不安が胸を締めつけていた。祐一は由奈に追いつき、腕をつかむ。「説明させてくれ」由奈はその手を振りほどき、振り返った。「何を?」「彼らとは特別な関係じゃない、ただ昔の恩を返しただけだ。安心してほしい。今後、彼らのことに口出しするつもりもない」――恩を返す、ね。由奈は小さく笑った。どこか含みのある声だった。「あなたって、本当に義理堅い人よね。人から受けた恩は、絶対に忘れない。でも……」そこで言葉を止める。祐一が目を細めた。「でも?」「別に」由奈はあえて話題を変える。「ご主人はくも膜下出血。脳血管疾患の中でも、致死率も後遺症率も高い病気よ。手術は終わったけど、まだ安心はできない。でも奥さんはICUの費用を惜しんでいる。滝沢社長からも説得してもらえない?」祐一はネクタイをゆるめた。「あの金を無駄に使わなければ、十分に暮らしていけるはずだ。医療費を惜しむ理由はない」「苦労したことがないあなたには分からないでしょうね」由奈は腕を組む。「貧しい生活が長い人ほど、節約が染みついているものよ。急にお金を手にしても、使うのが怖い。もちろん、滝沢社長が追加で出してあげるなら、それが一番いいでしょうけど」祐一の頬がわずかに動いた。視線は、由奈から
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第305話

由奈はその場に立ち尽くした。総司が自分に向ける強い不満が、痛いほど伝わってくる。何か言おうとしたその瞬間、ドアが勢いよく開いた。祐一が入ってくる。低く抑えた声が、病室の空気を張りつめさせた。「彼女は確かに俺の妻です。白石さん、息子さんが彼女にしつこく付きまとわないよう、きちんとお話しいただきたい」総司は祐一を見るなり、思わず彼の父である将平の面影を重ねてしまい、表情をさらに険しくした。「息子のことは私が一番よく分かっている。むしろ、自分の妻をきちんと躾けておいたらどうだ?」「お父さん、もうやめてください」「やめられるか!」「あなた、もう十分でしょう?倫也を困らせないであげて」皐月が見かねて口を挟む。総司は拳を握りしめ、手の甲に血管を浮かべた。「お前は黙っていろ!私は誰も困らせてなんかいない!」「本当に話が通じない人ね!」皐月もついに声を荒らげ、そのまま怒りをあらわに病室を出ていった。室内は、一瞬で静まり返る。由奈は深く息を吸い、これ以上ここにいるべきではないと判断した。「……失礼します」そう言って病室を出る。祐一は倫也と総司を一瞥し、何も言わずに踵を返した。そして、静かに由奈の後を追った。エレベーターを待っていた由奈に祐一が追いつき、静かに言う。「白石総司さんと俺の父とは昔から確執がある。さっきの言葉は気にしなくていい」由奈は振り向かない。「別に気にしてない」あんな言葉をいちいち気にしていたら、きっとまともに生きていけないのだろう。エレベーターに乗り込むと、祐一はゆっくり口を開いた。「……そんなにあいつのことが心配か?」由奈は少し驚いたが、当然のように答える。「友達を心配して何が悪いの?余計なお世話よ」エレベーターが止まり、由奈は先に降りる。祐一はすぐに追いつき、腕をつかんで振り向かせた。「君は友達だと思っていても、あいつはそうとは限らない」「どういう意味?」「俺は男だ。男が何を考えているかくらい分かる」祐一は少し身を乗り出した。「男と女の間に、純粋な友情なんて存在しない」由奈は唇を結び、腕を振りほどく。「そうね。あなたも長門先生と別れたあと、『友達』として連絡を取り続けていたものね。でも私は違う。少なくとも、私と白石先生は、まだそんな関係じゃない」胸を刺されたように、祐一の表情
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第306話

由莉奈はその場に立ち尽くし、手に握っていたカードを思わず強く握りしめた。母親の目を、どうしても直視できない。今日、父の部屋に忍び込んでカードを持ち出したとき、見つかってしまった。口論になり、父が手を上げようとしたので、思わず押し返した。そのまま家を飛び出したのだが、まさか父が脳出血になるなんて思ってもみなかった。「何か言いなさいよ!」実里は苛立ちを隠さず、彼女を突き飛ばした。由莉奈はよろめいて後ずさり、その拍子にカードを落としてしまう。実里はそれを拾い上げ、目を見開いた。「……どうしてお父さんのカードを持ってるの?」由莉奈は答えない。だが、実里にはすぐに分かった。次の瞬間、平手が飛ぶ。乾いた音が部屋に響いた。由莉奈の顔が横に振られる。「お父さんのカードを盗むなんて……あなた、何を考えてるの?」由莉奈は唇を噛みしめたまま耐えていたが、ついに堪えきれず、涙で赤くなった目で母を睨み返した。「私だって嫌だったの!このお金がどうやって手に入ったか、あなたもお父さんも分かってるでしょ?あの女に二千万を渡さなかったら、全部ばらされてたんだよ!私は二千万だけでいいって言ったのに、お父さんは絶対に出さないって……だから、盗るしかなかったの!」実里は言葉を失った。そのままソファに崩れ落ち、泣き出す。「どうしてこんなことに……やっといい暮らしができるって思ってたのに……やっぱり神様は許してくれないのね……」由莉奈は泣き続ける母を一瞥しただけで、何も言わずに自室へ戻り、ドアを閉めた。父が倒れて入院したことなど、まるで自分には関係のない出来事のようだった。そんなことより――由莉奈はポケットから一本の腕飾りを取り出した。古びた赤い紐に、光沢の失われた銅銭が結ばれている。銅銭には「延楽永宝(えんらくえいほう)」と刻まれていた。紐の長さからして、子どもがつけていたのだろう。これは今日、父の部屋を漁ったときに見つけたものだった。こんな古銭がいくらになるかは分からないが、そのうち質屋に持っていってみようと思う。……翌日。由奈は三郎の病室を訪れた。彼はすでに意識を取り戻しており、付き添いの介護士に水を飲ませてもらっているところだった。由奈は歩み寄る。「石川さん、具合はいかがですか?」三郎はまぶたを持ち上げて由奈を見た
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第307話

倫也がこちらへ歩いてくる。由奈は足を止め、静かに声をかけた。「体調はもう大丈夫ですか?」「ええ、おかげさまで」彼はうなずき、少し間を置いてから続ける。「昨日のことですが……父に代わって謝ります、すみません。あれは、あなた個人に不満があったわけではありません」「分かっています。私の『立場』の問題でしょう?」由奈は彼を見つめ、目を細めて笑った。「大丈夫です。気にしていませんから」倫也は眉をひそめる。「本当に、気にしていないのですか?」「いろいろ言われてきましたからね。全部気にしていたら、毎日誰かと衝突してしまいますよ」冗談めかした口調だったが、どこか達観した響きがあった。倫也はしばらく黙り込む。やがて由奈は、空気を変えるように話題を振った。「恭介先生と和恵さんって、仕事でも付き合いがあるんですよね?両家の関係がそこまで悪いようには見えないのに……まさか、お父さんがあそこまで滝沢家を嫌っているなんて。いったい何があったんですか?」「滝沢社長から聞いていないのですか?」由奈は首を横に振る。倫也は小さく笑い、それから静かに語り始めた。「……母は昔、滝沢社長のお父さんと交際していました。そして、その縁は父と結婚したあとも、完全には断ち切れなかったんです」由奈は思わず息をのむ。――想像していた以上に複雑だ。倫也は続けた。「父はずっとそのことを引きずっています。母が今もあの人を想っているのではないかと疑い続けている。だから将平さんを嫌い、滝沢家に関わる人すべてに偏見を持ってしまったんです」由奈の脳裏に、義父母の姿が浮かぶ。互いに一定の距離を保ち、口論になることはない。けれど、そこに温かな愛情は感じられなかった。将平が実家に戻るのは、決まって用事があるときだけ。和恵や祐一と食事をし、必要な話を済ませると、すぐに立ち去ってしまう。――将平も祐一も、親子そろって冷たいのは性格だと思っていた。だが違う。彼もまた、妻を愛していなかったのだ。由奈は我に返り、静かにうなずいた。倫也は彼女をまっすぐ見つめる。「両親のことを見てきたので、私は……将来を共にする相手とは、ちゃんと両想いでいたいと思っています」由奈は一瞬固まり、それから柔らかく笑った。「きっとその相手に出会えますよ」「どうしてそう言い切れますか?」「
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第308話

「退院?」三郎の顔に、不安がよぎる。「ここにいると、どうも落ち着かなくてな……」そのとき、点滴のボトルを持った綾香がカーテンを開けて入ってきた。「石川さん、点滴のお時間ですよ」「看護師さん、うちの主人はいつ退院できますか?」夫がそう言い出した以上、実里も同じ気持ちになった。綾香はにこやかに答える。「申し訳ありませんが、医師の判断になります。それに、まだ手術から三日も経っていませんから」夫婦そろって、あからさまに落胆した表情を見せた。その様子に気づき、綾香は点滴を準備しながら尋ねる。「ご自宅で何かお急ぎの用事でも?」三郎は慌てて首を振った。「い、いや……大したことじゃない。ただ、家が恋しくてな」綾香はそれ以上は聞かなかった。……夜。綾香は由奈の家で夕食を取りながら、ふと思い出したように口を開いた。「そういえば今日、石川さんが退院したいって言ってたんです」由奈はスープをよそいながら、顔を上げる。「退院したいって?」「ええ。あのご夫婦、ちょっと不思議で。奥さんも、ご主人が手術したばかりなのに止めないんですよ」由奈は軽く笑った。「年配の人って、入院を嫌がることが多いから。お金がかかるって気にするんですよ。節約したいんじゃないですか?」そのとき、インターホンが鳴った。綾香は立ち上がる。「私、出てきます」ドアを開け、外に立つ男を見た瞬間、慌てて身を引いた。「滝沢社長、こんばんわ……どうぞ中へ」祐一が室内へ入る。綾香は急いでキッチンへ行き、食器を用意しようとした。それを見た由奈が言う。「お腹が空いてたら自分で食べるから、気を遣わなくていいですよ」綾香は祐一のほうをちらりと見て、そっと食器を戻した。「……わかりました」祐一は椅子を引いて座る。「ずいぶん豪華だな」「自分のことは大事にしないと」彼は微笑んだまま、何も言わない。しばらくして、再びインターホンが鳴る。綾香がまた玄関へ向かう。ドアを開けると、麗子が二人のボディーガードとともに立っていた。足元にはスーツケースが二つ置かれている。麗子は軽く会釈し、祐一のもとへ歩み寄った。「お荷物をお持ちしました」――荷物?ボディーガードがスーツケースを中へ運び込むのを見て、由奈は祐一を見た。「ここに住むつもり?」「隣だ」こ
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第309話

翌朝、由奈は綾香と一緒に家を出た。すると、ちょうど倫也と鉢合わせる。「白石先生、おはようございます」綾香が先に声をかけた。倫也は軽くうなずく。そのとき、彼の視線が二人の後ろへと流れ、玄関のドアにもたれた祐一の姿を見つける。祐一は口元に薄い笑みを浮かべる。「白石さん、おはようございます」倫也は何も言わない。空気が、目に見えるほど張り詰めた。由奈は気づかないままエレベーターへ向かう。ただ、綾香だけが振り返り、二人をちらりと見た。――これ、なんて言うんだっけ。修羅場?やがてエレベーターの扉が閉まった。その様子を見届けてから、倫也が口を開く。「滝沢社長、会うたびにわざわざ挑発する必要はないでしょう」祐一は襟元を整えながら、何気ない調子で答えた。「そんなつもりはないが?」倫也は小さく笑う。「そのつもりがないなら、マンションを丸ごと買い取ったり、池上先生の隣に引っ越してきたりはしませんよ。私を警戒しているんですか?」祐一はゆっくりと目を上げた。指先で結婚指輪をなぞりながら、低く言う。「俺はまだ彼女と離婚していません。白石さんがあの手この手で彼女に近づこうとしているなら、警戒するのは当然でしょう」「あの手この手、ですか」倫也の声には、はっきりと皮肉がにじんでいた。「今の池上先生を見て、昔の自分を思い出さないんですか?彼女が長門歩実を警戒していたとき、あなたは安心させてあげましたか?」その瞬間、祐一の目が暗く沈む。倫也は静かに続けた。「もっとも、私はあなたの元恋人ほど無遠慮ではありません。池上先生が正式に離婚するまでは、一線を越えるつもりはありませんから」そう言い残し、彼はエレベーターへと歩き去る。廊下に祐一だけが残された。センサーライトの白い光が彼を照らし、顔の輪郭をいっそう冷たく浮かび上がらせる。周囲の空気まで凍りついたような静けさが、そこに満ちていた。……由莉奈は、例の銅銭を紐から外し、市内の質屋へ持ち込んだ。店主がそれを手に取った瞬間、ぴくりと身を震わせる。虫眼鏡で何度も確認し、顔色が変わった――本物の延楽永宝だ。しかし、なぜこのような品がここに?数年前まで、中道家にあったはずだ。店主は何かを思い出し、部下に栄東市のオークション会社へ連絡するよう指示した。待合室では、店員が由莉奈に水
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第310話

駿介の声が背後から響いたとき、智宏はようやく思考の渦から抜け出した。「……分かりました。僕が直接会いに行きます」電話を切り、振り返ると、駿介が一歩前に出た。「坊ちゃん、オークション会社から連絡が入りました」「銅銭の件なら、もう聞いた」「そうですか、早いですね」智宏は首のタオルを外し、静かに言う。「その女性の情報を」駿介はスマホを差し出す。智宏は画面を確認すると、顔を上げた。「車を用意してくれ」「かしこまりました」……一方、病院で、由奈は裕人とともにICUへ入り、三郎の様子を確認していた。実里はベッド脇に座り、食事を夫の口元へと運んでいる。「石川さん、お加減はいかがですか?」三郎は由奈をちらりと見て、すぐに目を逸らした。「だいぶ良くなりました。その……退院はできませんか?」実里も笑顔を作る。「先生、ここ数日主人は食欲がありますし、よく眠れています。もう回復したようなものですよね?」裕人がきっぱりと言う。「実里さん、退院できるかどうかは、患者さんご本人の意思だけで決められるようなものではありません。今退院して、万が一何かあれば、病院側の責任にもなりますよ」実里は口を尖らせかけたが、三郎が先に尋ねた。「あとどのくらいですか?」「明日、状態が安定していれば一般病棟へ移れます。五日後に抜糸。それまで合併症がなければ退院の手配をします」実里はほっと息をつく。「五日ですね……分かりました」目安が分かっただけでも安心したらしい。三郎はそれ以上何も言わなかった。ICUを出たところで、裕人がふと思い出したように口を開いた。「この前、総司さんに怒られたんですって?」「怒られたというほどでは……」「まあ、似たようなものでしょう。白石先生のことは、あなたのせいだって雰囲気でしたし」裕人は肩をすくめる。「総司さんの気持ちも分からなくはないんです。白石先生は血液恐怖症ですからね。もし何かあったらって、みんな内心ヒヤヒヤしているんです。総司さんも、まだ責任を感じていたのかもしれませんしね」「責任を感じるって?」由奈は足を止めた。「どうしてですか?」「白石先生、子どもの頃に誘拐されたことがあるらしいんです。半月ほど行方不明だったとか」由奈の呼吸が、わずかに止まる。裕人はその変化に気づかないまま続けた。「ご
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