All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 431 - Chapter 440

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第431話

由奈は、祐一の腕の中でしばらく固まったままだった。頭が真っ白になり、何も言葉が出てこない。祐一の腕の力が、わずかに緩んだ。その瞬間、由奈ははっと我に返ると、すぐに彼の胸から離れた。そして慌てて話題を変える。「……飲みすぎてるのよ。土屋さんに連絡して迎えに来てもらう」祐一は小さく笑った。その視線が、まっすぐ由奈に向く。「君は……俺が酔ってるって思っても、今の言葉が本心だって、思いたくないんだな」由奈の胸の中はぐちゃぐちゃだった。けれど結局、彼の視線を避けることしかできない。祐一はゆっくり立ち上がり、コートを手に取る。「……じゃあ、酔ってたってことにしておくか」そう言ってエレベーターへ向かおうとした。その背中に、由奈は思わず手を伸ばし、袖をつかんだ。祐一がぴたりと止まる。振り返った彼の目に、かすかな期待が浮かんだが、由奈はすぐ手を離した。「お酒飲んでるんだから、土屋さんが来るまで待って。もしこのあと何かあったら……私が責任取ることになる」引き止めた理由は――未練じゃない。ただ、彼に何かあれば自分が困るから。それだけ。祐一の目に宿っていた光が、ゆっくり消えていく。そして彼は由奈の手を軽く振り払った。「……いい」そのまま歩き出した。由奈はその場に立ち尽くす。エレベーターへ向かう祐一の背中を、ただ見送る。胸の奥が、妙にざわつく。しばらく迷ったあと、由奈は急いで廊下を追いかけた。エレベーターには間に合わず、階段で下へ降りる。外に出ると――ちょうど祐一が車の後部座席に座るところだった。車が動き、赤いテールランプが遠ざかる。それを見届けて、由奈はようやく小さく息を吐いた。少しだけ、肩の力が抜ける。なんでこんなに落ち着かないのだろう。きっと――祐一に何かあったら、滝沢家に説明できないから。それだけだ。……翌朝。由奈が目を覚ますと、スマホにメッセージが届いていた。送信者は真里。由奈はすぐ内容を確認する。【東山家の奥様から聞いた話だけど、娘さんは米林圭介さんと一緒にいるそうよ。両家の結婚はもう発表されたって。披露宴は来月初めらしいわ】由奈はしばらく画面を見つめた。そして短くお礼を返信し、スマホを置く。やっぱり、凪紗は米林家にいる。しかも、結婚のことも公表された。両家が合意している以上――部
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第432話

歩実は数人に引き離された。床に倒されたままの弁護士は、まだ何が起きたのか理解できない様子で、呆然としている。監視員の一人が彼女の首元に目をやった。白い首筋に、赤い引っかき傷がいくつも浮かんでいる。監視員たちは顔を見合わせ、すぐに歩実の主治医を呼んだ。やって来た医師は事情を聞き、難しい顔をする。「自殺騒ぎのことは聞いていましたが……こちらに入院してから、身体の傷は順調に回復しています。ただ……」言葉を選ぶように続けた。「他人に危害を加える行動は、今回が初めてです」監視員はその言葉を聞きながら考え込み、一部始終をそのまま上に報告しようとした。だが、そのとき――さっき襲われた女性弁護士が歩み寄ってきた。首をさすりながら、落ち着いた声で言う。「彼女には自殺傾向がありますし、今みたいに突然人に危害を加える行動も見られました」一度間を置き、続ける。「心理的、あるいは精神的な問題がある可能性もあります。早めに精神鑑定を受けさせた方がいいのではないでしょうか」監視員は黙り込んだ。少し考えてから答える。「……上に報告して判断を仰ぎます」その一部始終を、綾香が少し離れた場所から見ていた。人が散り始めると、彼女はすぐその場を離れ、そして足早に由奈の執務室へ向かった。「池上先生!」机で書類を確認していた由奈の手が止まる。顔を上げると、綾香が息を切らして立っていた。「どうしたんですか?」綾香は机の前まで駆け寄る。「さっき、長門先生が人に襲いかかったんです!それで今、向こうの人たちが精神鑑定を受けさせようって話になってます」由奈はしばらく黙っていた。やがて静かに言う。「……そんなに都合よくいくでしょうか」綾香は眉をひそめる。「ですよね。引き継いだばかりなのに、いきなり襲うなんて」腕を組み、はっきり言った。「絶対、演技ですよ」由奈はゆっくり息を吐く。「たとえ演技でも、鑑定を受けたら結果は出ます。ただし……」綾香が顔を上げる。「ただし?」由奈は視線を落とした。「もし誰かが結果を書き換えたら――話は別です」綾香は息を呑んだ。由奈はすでに答えに辿り着いていた。もし鑑定する側に協力者がいるなら、鑑定結果を操作することも不可能ではない。それを止めるには――まず、本当の結果を知る必要がある。由奈はスマホを取り出した。検察
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第433話

祐一の言葉を聞いた幹部は、少し顔を曇らせた。「それは……」さすがに言葉に詰まる。祐一はカップの縁を指先でなぞりながら、淡々と続けた。「歩実は刑事事件の容疑者です。それなのに、皆本先生は正式な依頼もないまま、自ら精神鑑定を提案した」わずかに意味ありげな笑みを浮かべた。「……職業倫理に反しているとは思いませんか?」相手は黙り込む。祐一はさらに静かに言った。「殺人犯が減刑を狙って『精神疾患』を利用する例なんて、珍しくもありません」しばらく沈黙が続いた。やがて幹部はグラスを持ち上げる。「……言いたいことはよく分かりました」軽く祐一とグラスを合わせた。「結果は、こちらでも注意して確認させます」会食が終わり、祐一は何事もなかったかのように席を立ち、ゆっくり店を出た。夜風が少し冷たい。駐車場で車の前まで歩いたそのとき――祐一の身体がわずかに揺れた。ドアに手をつき、急に激しく咳き込む。車内にいた麗子が慌てて降りてきた。「社長、大丈夫ですか?」彼女はすぐポケットから予備のハンカチを取り出し、差し出す。祐一は口元を押さえていた手を少し離す。ハンカチを受け取ると、そのまま車に乗り込んだ。「問題ない、帰るぞ」麗子は一瞬ためらったが、何も言わず運転席に戻る。車がゆっくり動き出し、祐一はハンカチで手のひらを拭いた。そこには――数滴の血が残っていた。だが彼の顔色は少し青白いだけで、表情は終始落ち着いていた。……二日後、皆本奈緒(みなもと なお)は歩実の精神鑑定書を監視員に手渡した。監視員は書類に目を通す。「……精神障害の疑い」そう呟き、そして顔を上げた。「家族には知らせたんですか?」「すでに連絡しています」監視員は病室の方をちらりと見た。「つまり、あなたが彼女の弁護人になると?」奈緒は微笑む。「もし彼女が以前から精神疾患を抱えていたのだとしたら、児童虐待の件も、発作的な症状の中で理性を失った結果だった可能性があります。躁うつ病や統合失調症を患うシングルマザーが、発作の最中に子どもへ暴力を振るってしまう事件は、私も何件も扱っています。もし本当に病気が原因なら――法律は情状を考慮するべきでしょう。母親で、子どもを愛していない人なんていませんから」監視員は顔をしかめ、声を低くする。「皆本先生……長門
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第434話

由奈は唇を軽く噛んだ。自分と同じように、綾香まで落ち込ませたくない。そこで、話題を変える。「……凪紗さんって、この数日連絡がありました?」綾香は首を振る。「ううん、全然」それから、少し不安そうに眉を寄せた。「もしかして……何かあったんですか?」由奈は一瞬だけ迷い、静かに答える。「命の危険はないと思います。ただ……自由を制限されてるだけ」「じゃあ……本当に、無理やり結婚させられてるんですか?」由奈は小さく頷いた。「もう両家で結婚式の日取りも決まってるって」その言葉に、綾香は黙り込む。凪紗の気持ちを完全に理解できるわけではない。それでも――愛していない相手と結婚する苦しさくらいは、想像できた。そのとき、販売員が笑顔で近づいてきた。「池上様、先ほどご友人とご試乗いただいたお車はいかがでしたか?」由奈はバッグからカードを取り出し、差し出す。「それにします」販売員の表情がぱっと明るくなる。「ありがとうございます!」両手でカードを受け取った。「すぐにお手続きを進めさせていただきます!」車を受け取ったあと、由奈は綾香をマンションまで送り届けた。綾香が建物の中へ入っていくのを見届けたそのとき、スマホが震えた。見慣れない番号からのメッセージだった。画面を開くと、表示されたのはたった一行。――歩実の裁判の日付だった。送信者の意図は分からない。だが彼女にとっては、もしかしたら好機かもしれない。このまま歩実を逃がすなんて……そんなの、納得できるはずがない。その頃。ホテルの湖畔レストラン。テラス席で、祐一はボディーガードのスマホでメッセージを送信していた。そしてすぐに履歴を削除し、由奈の番号も消した。スマホをボディーガードへ返し、祐一は再び椅子に深く腰を下ろし、湖の向こうに広がる紅葉林を静かに眺めた。その静かな景色の中で――突然、後ろから声がした。「ずいぶん優雅ですね、滝沢社長。やっぱり噂どおり……癌は本当らしい」麗子が振り返る。そこにいたのは圭介だった。背後には外国人の男が二人、控えている。近くにいた祐一のボディーガードがすぐに前へ出て、道を塞ぐ。圭介の部下の一人が腕を上げ、今にも手を出しそうになる。しかし圭介が手を上げて制止した。「おいおい、そんなに警戒しなくてもいいでしょう?」祐一は麗子に目
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第435話

由奈は夕食をほとんど食べていなかったため、ちょうどお腹も空いていた。部屋に戻って服を着替えてから、倫也の部屋へ向かう。ここに来るのは、これが初めてだった。室内はかなり広く、驚くほど整然としている。まるでモデルルームのように、余計な物が一切ない。由奈は部屋をぐるりと見回した。「……家具、ずいぶん少ないんですね」「空間が広い方が好きなんです」倫也は上着を脱いだ。中には白い薄手のシャツ。襟はピンホールカラーで、きちんとした印象の装いだった。由奈がこんなにフォーマルな格好の彼を見るのは、初めてだった。「家の用事、もう終わったんですか?」倫也の動きがわずかに止まる。彼はテーブルへ歩き、袋から焼き鳥を取り出して皿に並べた。「たいした用事ではありません」そう言って一本差し出す。「どうぞ、味見してみてください」由奈は串を受け取り、椅子に座って一口食べた。「……うん、美味しいです」倫也は冷蔵庫へ向かう。「何か飲みますか?」「なんでもいいです」彼はジュースの缶を開け、由奈の前に置いた。由奈は受け取る。「ありがとうございます」焼き鳥を食べ終えたあと、彼女はジュースをぐっと飲んだ。その様子を見て、倫也がふっと笑う。「けっこう食べますね」由奈は動きを止めた。すると彼は続ける。「でも今のあなたなら、健康のためにも、もっと食べた方がいいですよ」由奈は少し眉を上げた。「……これ、最後の晩餐じゃないですよね?」倫也は思わず吹き出した。そして姿勢を正す。「何を考えているんですか?」由奈は肩をすくめる。「だって、帰ってきたばかりなのに夜食に誘うし、『もっと食べろ』って言うし……最後のご飯かと思いました」冗談のつもりだった。だが倫也の表情は、思いのほか真剣だった。「もし毎日食べたいなら、毎日作ってあげてもいいです」由奈は一瞬、言葉を失った。話題が急にそこまで進むとは思っておらず、どう返せばいいのか分からない。倫也は、視線を泳がせる彼女を見つめていた。そして、ふいに手を伸ばす。由奈は反射的に体を後ろへ引いた。「動かないで」突然の低い声。由奈は思わず動きを止める。「……?」彼は指先で、由奈の唇の端を軽くぬぐった。羽が触れるような、ほんのわずかな感触。「ついてます」倫也の指が、彼女の頬の近くで止まる。
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第436話

顔に水を浴びせられた梓は、一瞬呆然とした。次の瞬間、声を張り上げる。「何をしてくれたんですか?あなたの上司にクレームを入れますよ!」騒ぎを聞きつけ、研究室の職員たちが次々と集まってくる。だが、何が起きたのかは誰も分からない様子だった。「クレームを入れたければ、どうぞ」由奈は冷静に防犯カメラを指さした。「そこに防犯カメラがあります。あなたがここで何をしたか、全部記録されています。それに、あなたが皐月さんの側近だからって、私が我慢すると思わないでください。もしこの件が白石恭介先生の耳に入ったら――皐月さんでも、あなたを守れないんじゃないですか?」恭介の名前が出た瞬間、梓の顔色が変わった。唇を噛みしめ、怒りを飲み込みながら、低く言った。「……覚えてなさいよ」そう言い捨て、背を向けて去っていく。由奈はその背中を見送りながら、小さく吐き捨てた。「……ほんと、どうかしてるよね」隣にいた職員が、おずおずと口を開く。「池上先生、さっきのは本当に僕じゃなくて……彼女がぶつかってきて……」まだ顔が青ざめている。由奈は軽く首を振った。「分かってます。あなたのせいじゃありません」「でも、手が……」由奈は自分の手の甲を見下ろした。赤く腫れ上がり、熱がじんじんと広がっている。「ちょっと処置してきます」そう言って、由奈は研究室を出て、診療室へ向かった。その頃、倫也が研究室へ戻る途中だった。廊下の角で、職員二人が小声で話している。最初は気に留めなかった。だが、「池上先生」という言葉が耳に入り、倫也の足が止まった。「池上先生って、誰かに恨まれてるんですかね?さっきの女性、明らかにわざとでしたよ」「しかも『皐月さんの側近』とか言ってたよね。まさか……白石先生のお母様?」「それにしても、あんな熱いお湯……私だったら痛くて泣きますよ」その言葉を聞いた瞬間、倫也の目が、ふっと冷えた。同じ頃、白石家。リビングでは皐月と悠が向かい合って座り、お茶を飲んでいた。皐月はカップを置く。ふと思い出したように言った。「悠、おばあさまがね、あなたの縁談を考えているの」悠は少し驚いた顔をした。皐月は続ける。「私は、あなたが卒業して帰ってきてからでも遅くないって言っておいたけど……どう思う?」悠は穏やかに微笑む。「私は大丈夫ですよ」
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第437話

皐月は不満を覚えていた。だが、もともと倫也との関係は決して親密とは言えない。ここで強く出れば、親子の溝はさらに深くなるだけだ。皐月は深く息を吸い、気持ちを落ち着けた。そして梓をまっすぐ見据える。「どうして、わざわざあの人に絡みに行ったの?」「わ、私は……」梓は言葉に詰まった。皐月が由奈を好いていないことは、梓もよく知っている。だからこそ、少し嫌がらせをしたところで問題にはならないと思っていた。たとえ倫也が由奈の味方をしても、皐月が庇ってくれる。自分は白石家を追い出されることなどない――そう思っていたのだ。しかし今、皐月の様子は明らかに違った。「奥様、私は本当に何もしていません!ただ不注意でお湯がかかってしまっただけです!」梓は慌てて言い募る。「私はずっと奥様のお側で働いてきましたし、白石家のために尽くしてきました。そんなことをする理由なんてありません!」皐月はゆっくり目を閉じた。梓は、会社に入った頃からずっと自分のそばにいた。いわば、皐月が育てたような存在でもある。普段は大人しく、よく働いていた。だが――倫也が眉をひそめる。「そんなことをする理由がない?」彼は冷ややかに言い放ち、反論の隙を与えない。「私と池上先生は同じ研究室じゃない。なのに、どうしてわざわざあっちへ行った?」視線が鋭くなる。「偶然だなんて言うつもりなら――研究所の防犯カメラを確認するまでだ」梓の肩が大きく震え、顔から血の気が引く。彼女は、皐月が助けてくれると信じていた。だが今、皐月の視線には別の色が宿っていた。冷たく、重いその視線はまるで警告するかのようだった――自分の息子を振り向かせようとするなど、身の程知らずだと。梓は言葉を失い、そのまま警備員に外へと連れていかれた。執事も解雇の手続きへ向かう。倫也はそれ以上何も言わず、踵を返して出て行った。皐月はその場に崩れるようにソファへ座り込む。自分の側近が、そんな考えを抱いていたとは……それは皐月にとって、許しがたいことだった。正直に言えば――由奈よりも、梓の方がよほど受け入れられない。由奈は少なくとも中道家の令嬢だ。だが梓の家柄は平凡で、しかも三代前から問題が多い。母親は詐欺罪で服役した過去がある。前科のある家の娘を、白石家の嫁にするなど――ありえない。……夕方
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第438話

由奈は、祐一の姿を見つめていた。彼は人々に囲まれながら、隣にいる人と真剣な表情で何かを話している。その横顔からは、何を考えているのかまったく読み取れなかった。そのとき、隣で亜紀が小さく鼻で笑う。「聞いたわよ。あなた、滝沢社長と離婚騒ぎなんですって?」皮肉な声だった。「残念ね。長門さんのせいでこんなことになるなんて……だから彼女にそこまで執着するのかしら?」それは明らかな嘲りだった。だが由奈の表情は、驚くほど静かだった。「私が彼女と最後まで向き合うのは、祐一のためじゃありません」淡々と答える。「彼女が二人の人間の命を奪ったんです」一瞬だけ間を置き、続けた。「結婚すら経験したことのない叔母さんには、人の命が結婚より大切だってこと、分からないでしょうね」亜紀の顔色が変わった。しかしすぐに笑顔になる。「本当に、あの人の娘ね。人を苛立たせるところまでそっくりだわ」由奈は静かに亜紀を見つめた。「叔母さん、私たちは家族なのに、どうしてここまで対立しなければならないんですか?家族をみんな敵に回すのは、あなたが望んだ結果なんですか?」「家族?」亜紀は目を赤くして笑った。「私に家族なんていないわ」由奈は何も言わなかった。こういう人の心は、もう憎しみで満ちている。どれだけ言葉を重ねても届かないのだろう。そう悟り、由奈は静かに踵を返し、そのまま裁判所のロビーへ入っていく。後ろに残された亜紀の顔からは、すでに笑みが消えていた。第一審が始まる。歩実は二人の女性警官に挟まれ、被告席へと連れてこられた。彼女の目は虚ろで、表情もぼんやりしている。かつての華やかさや誇り高い態度は、跡形もない。今そこにあるのは、疲れ果てた姿だけだった。歩実はふと視線を上げる。祐一と由奈の姿を見つけると、まぶたがわずかに動き、顔に不安げな色が浮かぶ。だが――傍聴席に亜紀の姿を見つけた瞬間、その緊張は、わずかにほどけた。亜紀は祐一と由奈の方向をちらりと見た。そして由奈と視線が合う。その瞬間、唇の端に奇妙な笑みを浮かべた。由奈の表情は変わらない。だが胸の奥では、警戒が強まっていた。亜紀が何を企んでいるのか――それが読めない。もしかすると、この裁判の場で、歩実が無罪になる可能性もある。そう思うと、由奈の手は自然と握り締められていた。少し離れた席で、祐一
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第439話

「木下さん」奈緒が口を開いた。「その報告書がどこから出てきたものかは分かりませんが、もしそれが本物だという証拠を出せないのなら――裁判が終わったあと、あなたの評判にも大きな影響が出ますよ」彼女は賭けに出た。相手に決定的な証拠はないはずだ、と。精神鑑定の結果を改ざんしたことが明るみに出れば、巻き込まれる人間は少なくない。今回の件に関わった人間が、自分の評判や将来を捨てるような真似をするはずがない――そう信じていた。だが、その挑発的な態度を前にしても、木下はまったく動じなかった。「証人を呼びます」そう言うと、法廷の扉が開いた。入ってきたのは――鑑定を担当する医師だった。その顔を見た瞬間、亜紀が勢いよく席から立ち上がる。一方、奈緒の顔からも血の気が引いた。今になって、自分たちが追い詰められていることにようやく気づいたのだ。裁判官が証人に問いかける。「スクリーンに映っている二つの報告書。どちらが本物ですか?」証人――遠野勝男(とおの かつお)は喉を鳴らした。視線の端で、亜紀の方を見る。一瞬ためらう。だが、深く息を吸い込み、答えた。「……最初の報告書は、偽物です」「遠野さん!」亜紀が叫ぶ。法廷内が一気にざわめいた。裁判官が木槌を打つ。「静粛に!」場がようやく落ち着くと、裁判官は再び証人へ視線を向けた。「続けてください」勝男は観念したように、すべてを語った。精神鑑定結果を改ざんしたこと。その背後で指示していたのが亜紀であること。そして――奈緒も、その工作に加担していたこと。証言を聞くうちに、二人の表情は大きく変わっていく。特に奈緒は、完全に顔色を失っていた。彼女は自分のキャリアを賭けて亜紀に協力した。だが、まさか亜紀がここで失敗するとは思っていなかったのだ。木下は、青ざめた奈緒を見て口を開いた。「皆本先生。あなたは刑事弁護士でありながら、私利私欲のために警察を欺き、自分が容疑者の家族から依頼を受けたと偽りました。さらに偽の報告書を提出し、精神鑑定の結果まで改ざんして証拠を捏造した。被疑者を罪から逃れさせようとするのは、極めて悪質な行為です」彼は淡々と続ける。「これは、犯人隠避および証拠隠滅に該当し、法律によれば、三年以下の懲役または三十万円以下の罰金が科されます」その言葉が終わる前に、奈緒は椅子
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第440話

女性警官はすばやく動き、歩実をそのまま抱え込むようにして床へ叩きつける。さらに二人の警官が駆け寄り、彼女を取り押さえた。激しく抵抗する歩実は、強引に連行されていく。その叫び声は次第にかすれ、耳障りなものへと変わっていった。人が極限まで追い詰められると、ここまで表情が変わるものなのか――顔の筋肉は歪み、まるで鬼のように恐ろしい形相になる。特に、血が溢れ出したように赤いその目。由奈は思わず身をすくめた。「社長、そろそろ参りましょう」背後からボディーガードが静かに声をかける。祐一は答えなかった。ただ腕の中の由奈を見下ろす。そして突然――彼女を横抱きにした。そのまま大股で法廷を後にする。地下駐車場。「……祐一、もう下ろして」由奈は通り過ぎる人の視線を避けながら、小さく言った。祐一は何も言わず、彼女を地面に下ろした。今日の出来事は、由奈にとっても予想外だった。自分が持っていた証拠は、結局提出されなかった。歩実が負傷して入院したときから、すべての流れには誰かの手が加わっていた。結果として、亜紀さえも完敗した。由奈は顔を上げる。祐一も、ちょうど彼女を見ていた。視線がぶつかる。だが由奈は、思わず顔を背けた。歩実の逃げ道を完全に塞いだのは祐一だったのだろう。だが、養父母を失った悲しみも、あの頃に味わった屈辱や憎しみも、簡単に忘れられるものではない。だから祐一と向き合うと、心の奥が混乱する。感謝なのか、怒りなのか。自分でも分からない感情が渦巻く。由奈が黙っていると、祐一は腕時計をちらりと見た。「白石さんは来てないのか?」由奈は少し驚いた。「……どうして彼が来る必要が?」祐一は低く笑った。「チャンスをやるつもりなんだろ?」「私が誰にチャンスをあげようが、あなたに関係ないでしょ」由奈は急に腹が立った。そのまま背を向けて歩き出す。祐一は手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。由奈はよろめいて後ろに下がり、危うく転びそうになった瞬間――祐一の手が彼女の腰をしっかり支えた。唇の端を上げる。「ずいぶんと怒りっぽいな」からかうような声だった。「その気性、わざと俺にだけ向けてるのか?」由奈は彼の胸を押した。「いい加減離して」祐一は小さく笑い、名残惜しそうに手を離した。「送ってやるよ」由奈が何も言わない
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