All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 441 - Chapter 450

622 Chapters

第441話

「俺たちはもう長い付き合いだ」明夫はゆっくり立ち上がり、亜紀の方へ歩み寄った。「お前のことはよく知っている」低い声で続ける。「結局、圭介の息子を使って俺を脅すつもりなんだろう?圭介はあの子を気にしていないが、俺は違う。あの子は米林家に残る唯一の血筋だし、俺の孫だ。将来、もう二度と生まれないかもしれない」亜紀はゆっくりと椅子に腰を下ろした。「東山家のお嬢様だって、子どもくらい産めるでしょ?長門さんが産んだその子であなたを脅したって無駄じゃない」「産むまで俺が待てるかどうかは別の話だ」明夫は彼女の前で足を止めた。そして突然、身をかがめて顔を近づけ、鼻で笑う。「お前が今から、俺に子供を産んでくれてもいいんだが」「正気なの!」亜紀は怒鳴った。彼女は「子供」という言葉を極端に嫌っていた。その言葉を聞くたび、思い出してしまう。あのとき、死産した子のことを。明夫はゆっくり体を起こした。そして背を向け、落ち着いた足取りで窓際へ歩いていく。「そういえば、圭介の結婚式には、お前がずっと忘れられなかった、あの中道秀明も招待してある」その名前を聞いた瞬間、亜紀の心臓が強く打った。「どうして彼を招待したの?」明夫は振り返った。「あいつのこと、まだ気にしているのか?」亜紀は答えなかった。明夫の目が冷たく光る。「あいつだけじゃない。白石家も、滝沢家も、それに江川市の名家はほとんど招待してある。みんなが集まったその時、俺は彼らに思い知らせてやるよ。昔、俺がどれだけ不当な扱いを受けたか、どれほどの苦しみを味わったかをな」亜紀は突然立ち上がった。「昔のことは、秀明さんと関係がないでしょ?」明夫は彼女を睨む。「関係がない?そんなはずがない」彼の目には狂気のような執着が宿っていた。「俺の女が、何年経っても忘れられなかった相手なら、殺してもおかしくない」亜紀は深く息を吸い、顔をそむける。「明夫さん、私たちはもう終わってる。私はもう、あなたの女じゃない」「終わってる?」明夫はゆっくり笑った。その笑みは陰鬱だった。「俺たちの関係が終わることなんてない。俺が死なない限りな」そして一歩近づく。「お前がどんな男を選ぼうと、俺が全部殺してやる。昔、あの男を始末したときみたいにな」その言葉を聞いた瞬間、亜紀の体がわずかに震えた。あの血に染まった光景が
Read more

第442話

圭介は一瞬だけ手を止めた。それから突然、片手で凪紗の顎をつかみ、ぐいと顔を上げさせる。「残念だったな。この人生で、俺は『女性に優しくすべき』なんて言葉、教わったことがない」凪紗は必死に涙をにじませた。今は弱いふりをするしかない。「……結婚式ではちゃんと合わせるから……スマホを取り上げないで、お願い」涙に濡れた瞳は、今にも壊れそうなほど脆く見えた。圭介は何も言わず、しばらく彼女を見つめていた。凪紗は、いわゆる絶世の美女というわけではない。むしろ、これまで圭介が付き合ってきた女性たちと比べれば、容姿は少し劣るかもしれない。だが――不思議と目を引く顔立ちだった。そして何より、あの独特の生意気さ。媚びもない、嘘くさい甘えもない。これまで出会った女たちとは、どこか違っていた。ふと、頭の奥に奇妙な考えが浮かぶ。もし、本当に彼女と結婚して、まともな夫婦になったら、案外、悪くないのかもしれない。その考えは、あまりにも馬鹿げていると思い、圭介は眉をひそめ、はっと我に返る。顎をつかんでいた手を離し、立ち上がった。「誰に、どんなメッセージを送ったかは知らない。だが――」彼はドアの前で足を止めた。「結婚式当日、もしお前の両親に何か起きてほしくないなら、黙って俺に合わせろ」そう言い残し、部屋を出ていった。凪紗はしばらく動けなかった。全身から冷や汗が流れている。――こんなにあっさり諦めるなんて、想像もしていなかった。胸の鼓動が、なかなか収まらない。……その日の午後、由奈は再び東山家を訪ねた。今度は佳苗が家にいた。ドアを開けた家政婦が、由奈の顔を見るなり言った。「あら、あなたは……」覚えていたらしい。「少しお待ちくださいね」そう言って奥へ入っていく。そのとき、二階の螺旋階段から声がした。「お客さま?」佳苗がゆっくり階段を下りてくる。家政婦が耳元で何かを伝えると、佳苗は玄関の方を見た。由奈の顔を見て、一瞬驚く。そしてすぐ思い出したように微笑んだ。「あら……あなた、滝沢社長の奥さまよね?どうぞどうぞ、入ってください」急いで家政婦に指示する。「お茶をお願い」由奈は軽く頭を下げ、中へ入った。二人はリビングへ向かう。佳苗はどこか機嫌がよさそうだった。他の使用人にも声をかける。「お菓子も用意してち
Read more

第443話

佳苗は立ち上がって微笑んだ。「まあ、こんな偶然ってあるのね。滝沢社長までいらっしゃるなんて」そう言ってから、由奈のほうへ視線を向ける。「もしかして、滝沢社長とご一緒じゃなかったの?」由奈は少し視線をそらし、唇を軽く結んで曖昧に笑った。「いえ……本当に偶然なんです」「おや、池上先生もいらっしゃるとは」そのとき、隆が口を開いた。「それならちょうどいい。お二人とも、うちで夕食を食べていってください」佳苗のほうを振り向く。「久しぶりに家が賑やかになるな」佳苗もすぐに笑顔で応じた。「ええ、じゃあシェフに言って準備させますね」そう言ってキッチンへ向かった。祐一は隆に勧められるままソファへ腰を下ろした。それはちょうど、由奈の真正面の席だった。由奈はわずかに顔をそむけ、視線を外す。テーブルの上のティーカップを手に取り、一口お茶を飲んだ。隆はふと由奈に目を向けた。「池上先生はうちの娘と仲がいいそうですね。今日来たのも、彼女のことでしょう?」由奈の手が一瞬止まる。それから静かに頷いた。「ええ、家にいると思っていたので……それで、訪ねてきたんです」隆は肩をすくめる。「あの子、ほとんど家に帰ってこなくてね。まあ、来週の結婚式には会えるでしょう。池上先生も滝沢社長と一緒に出席されるでしょうし」由奈は口元に笑みを浮かべたが、目を伏せた。隆の様子を見る限り、この縁談をとても気に入っているらしい。それは、米林家が仕掛けた罠だということを、どうやって伝えればいいのだろう。祐一はそんな由奈を横目で見ていた。どこか上の空な様子に気づいたのか、ふとカップを持つ手を止める。そしてゆっくり口を開いた。「米林明夫さんは、かなり野心のある人物だと聞きます。やり手で、抜け目もない。凪紗さんは隆さんの一人娘ですよね。そんな相手を、本当に信用できるのでしょうか?」隆は少し驚いたように目を瞬かせた。数秒考えてから答える。「確かに彼とはそれほど長い付き合いじゃありません。ですが、うちの会社の状況は滝沢社長もご存じでしょう。彼は、ノーラングループの株式を10%譲ると約束してくれたんです。それほどの条件なら、うちの資産なんて大したものではないでしょう」ノーラングループの株式の10%――それはもう、主要株主の一角に入る数字だ。現在のノーラングループの勢いを考えれ
Read more

第444話

由奈はその場で足を止めた。ゆっくり振り返り、祐一を見つめる。彼の表情は相変わらず穏やかで、何を考えているのかまったく読めない。由奈は何か言いかけたそのとき――廊下の向こうから佳苗が歩いてきて、二人の姿に気づく。「滝沢社長?池上先生?どうされたんですか、こんなところで」由奈が答える前に、祐一がさらりと言った。「妻がなかなか戻ってこないので、迷子にでもなったのかと思いまして、探しにきたんです」その言い方に、佳苗は思わず笑った。「まあ、滝沢社長ったら。うち、そこまで広い家じゃありませんよ。でも、外出先でも奥さまを気にかけていらっしゃるなんて。仲がよろしいんですね」祐一は横目で由奈を見て、柔らかく笑った。「ええ、まあ」その声音は、どこか甘やかな響きを帯びている。由奈は思わず彼を睨んだが、すぐに視線をそらし、佳苗のほうへ歩み寄った。「すみません、ちょっと長くなってしまって」「いえいえ、気になさらないで」佳苗はにこやかに手を振る。「それより、もうすぐ夕食の準備が整いますよ」三人で階段を下りる。ほどなくして食卓の用意が整った。由奈と祐一は、隆と佳苗とともに席につく。隆は家政婦に声をかけた。「私のワインを出してくれ。例の、しまってあるやつだ」由奈は少し驚き、祐一をちらりと見た。「……大丈夫なの?」小声で言う。「飲んで倒れたりしない?」祐一も彼女を見ていた。隆はその言葉を聞いて、はっとしたように顔を上げる。「あっ……そうでした。滝沢社長、今は体調が万全ではないんでしたね」少し気まずそうに笑う。「すみません、すっかり忘れていました。お酒はやめて、お茶にしましょうか」祐一はほんのわずかに唇を引き結び、それから落ち着いた声で言った。「お気遣いなく。東山社長と一杯くらいなら問題ありません」その言葉に、隆の表情がぱっと明るくなる。本来なら、自分の家で滝沢グループの社長をもてなすこと自体、かなり気を遣うことだった。それが、ここまで気さくに応じてくれるとは思っていなかったのだろう。「それならぜひ」隆は嬉しそうに笑い、場の空気も一気に和らいだ。由奈は横で黙ったまま、箸を動かしていた。佳苗が料理を取り分けてくる。「さあ、池上先生もどうぞ。体調のことならご本人が一番わかっているでしょうし、そんなに心配しなくても大丈夫です
Read more

第445話

由奈は、祐一の熱を帯びた視線を避けるように顔をそらした。「いいから離して」祐一は笑い、そしてあっさりと手を離し、何事もなかったかのように襟元を整えながら言った。「凪紗さんの件は、もう君が関わる必要はない」「何を言ってるの?凪紗さんは私の友達よ!」由奈はすぐに言い返す。祐一は静かに彼女を見た。「君に、この結婚を止める力があるのか?」「……」「結婚式が始まる前に、逃げるよう手助けするとでも?」由奈は答えなかった。祐一は淡々と続ける。「少なくとも、結婚式が予定通り行われると確信する今、米林家も凪紗さんをどうこうすることはない。だが今の段階で東山家に疑念を抱かせて婚約を破談にすれば――」少し笑う。「逆に彼女を危険な立場に追い込むことになる」由奈は唇を引き結んだ。まるで心の中を読まれたようだった。祐一はさらに言う。「だから君は、さっき東山夫婦に何も言わなかった。違うか?」由奈は黙ったままだった。確かに彼の言う通りだ。けれど、彼は自分が考えていた以上の可能性まで、すでに計算している。それが悔しかった。由奈はくるりと背を向ける。「もう帰る」それだけ言って歩き出した。祐一はその場に立ったまま、追いかけようとはしなかった。……翌日、由奈は刑務所を訪れていた。面会室のガラス越しに、歩実が座っている。由奈の前に姿を現した彼女は、以前とは別人のようだった。判決が下されてからというもの、彼女からはあの鋭さも、傲慢さもすっかり消えている。痩せ細り、顔色も悪い。まるで魂が抜け落ちたかのように、虚ろな表情をしていた。女性警官が合図を送ると、歩実はようやく反応した。重そうにまぶたを持ち上げ、ガラス越しに由奈を見つめる。その目には、何の感情も浮かんでいない。「……笑いに来たのなら、好きなだけ笑えばいい。もうあなたの勝ちなんだから」由奈は静かに言った。「本当に、私に負けたと思ってるんですか?」歩実は答えない。由奈は続ける。「あなたが負けたのは、私ではなく、あなた自身の虚栄心ですよ。もし昔、祐一と普通に付き合っていたなら――今の私は、ここにいなかったかもしれません」歩実は鼻で笑った。「……何も知らないくせに」声はかすれているが、どこか刺々しい。「私は、親なんていないの。物心ついたときには、もうあのクズみたいな養父と
Read more

第446話

歩実は思わず拳を握りしめた。顔色が瞬く間に冷え切る。「……何を馬鹿なこと言ってるの?」「口ではそう言っても、心の中ではもう全部わかったでしょ?」由奈は落ち着いたまま彼女を見つめた。「正直、もしあなたの手首にあるあの赤いほくろを見ていなかったら、私だって気づきませんでした」「そんな作り話はやめて!」歩実は一瞬で感情を爆発させた。「全部でたらめよ!仮に……仮にあの二人が私の本当の親だったとしても、それがどうしたの?私を産んだのに捨てたくせに!彼らのことなんて赤の他人よ、死んだって別になんとも思わないから!」歩実にとって、自分こそが捨てられた存在だった。だからこそ、今さら血のつながりなど気にしている理由もない。由奈はちらりと腕時計を見た。面会時間は、あと数分しか残っていない。静かな声で言う。「あなたを捨てたのは、お母さんじゃない。あなたは、池上家のおばあさんに連れ去られて売られたんです」歩実の表情が、わずかに揺れる。由奈は続けた。「お母さんが私を引き取ったのは――捨てられたあなたの代わりにするためでした。本当にかわいそうです。娘の手首のほくろを、ずっと覚えていたのに……結局、その娘の手で命を奪われたなんて」歩実はその場に固まった。脳裏に、ある光景がよみがえる。久美子が建物から落ちたあの日、自分は彼女の腕をつかんでいた。久美子は自分を見つめていたが、奇妙なことに――その目には憎しみがなかった。あのとき、久美子が言おうとしていたことなんて、まったく気にも留めなかった。だが今になって――彼女が言いかけたことを、なぜか理解してしまう。由奈は、彼女の反応を待たずに静かに立ち上がり、そのまま面会室を後にした。歩実は再び女性警官に連れられ、暗い通路へ戻される。天窓から差し込む一筋の光が、床の一部だけを照らしていた。だが、歩実が立っているのは影の中だ。彼女はかつて、養父のことを「どぶに這う虫のような人間」と見下していた。――けれど気づけば、自分もまた同じ虫になっていた。……刑務所の外へ出た由奈は、スマホの通知に気づいた。車の前で立ち止まり、画面を開く。送信者は――凪紗だった。彼女はウェディングドレスショップにいるようだ。……その頃、凪紗は試着室でウェディングドレスの試着を終えたところだった。圭介が付き添っていたが
Read more

第447話

由奈の背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。手のひらにはじっとりと汗がにじむ――まさか、自分が当時の子供だと気づかれたのか?そのとき、隣の凪紗が由奈の異変に気づいたようだった。すぐに口を開き、場の空気を断ち切る。「私、同僚とちょっとコーヒーを飲んでただけ、すぐ戻りますから!」明夫はゆっくりと視線を外した。表情には特に変化はなく、ただ穏やかな声で言う。「圭介と仲良くやってくれるなら、それでいい。私はまだ少し用事があってね。それじゃ」「はい、また後で」凪紗は小さく頭を下げた。明夫の視線が、ふと由奈の顔をかすめる。どこか意味ありげな眼差しだったが、何も言わなかった。そのまま、彼は二階へと上がっていった。……明夫の姿が見えなくなった瞬間、由奈はようやく息を吐いた。知らず知らずのうちに握り締めていた手が、ゆっくりとほどける。たとえ自分の正体がバレていなかったとしても――あの男に対する恐怖は、幼いころの記憶とともに骨の奥に刻み込まれ、簡単には消えない。「ねえ、さっきどうしたの?」凪紗が小声で尋ねた。「なんか、すごく怖がってたよね?」由奈は我に返り、乾いた唇を軽くなめた。そして苦笑する。「はい……ちょっと怖い人だから」「だよね」凪紗は即座にうなずいた。「あの人、ほんと陰気でさ。普通に怖いよ」口元を歪める。「この前も、あの人に見つかったときほんとビビったし」由奈は視線を向けた。「見つかった?」凪紗は何か思い出したように目を細める。「そうそう。そのときね、あの人――女と話してたの。今だって、女に会いに行ったかもしれないよ」声をひそめる。「あの時の女、ただの友達じゃないって感じだったし」由奈は眉をひそめた。「どうしてそう思うの?」凪紗はさらに声を落とした。「だってさ、雰囲気でわかるじゃん。どう見てもそういう関係って感じだったんだよ。しかも聞いた話だと、あの人もうとっくに離婚してるらしいし。再婚してないからって、彼女がいないわけじゃないでしょ?」由奈はしばらく黙って考え込み、ふと二階の方を見上げた。――あの女は、亜紀だろうか。あの日の裁判のことが脳裏によみがえる。一連の騒動の黒幕だったはずの亜紀は、なぜか何の処罰も受けなかった。逆に、精神鑑定報告書の改ざんに関わった弁護士だけが処分され、弁護士資格を剥奪された。
Read more

第448話

由奈が答えに詰まり、わずかに視線を落とす。その様子を見て、咲希はそれ以上追及しなかった。ただ穏やかに言う。「無理せず、自分の気持ちに素直になればいいんですよ」由奈は小さく笑った。そして、恋愛の話題からそっと距離を置くように、別の話に切り替えた。咲希は帰り際、由奈に連絡先を聞いてきた。番号を交換したあと、由奈がオフィスへ戻ると――待ち構えていたのは、裕人だった。「で?」開口一番、身を乗り出してくる。「咲希さんと何話してたんですか?」その様子に、由奈は思わずくすっと笑った。「そんなに気になるんですか?」裕人は腕を組んだ。「気になるに決まってるでしょ?で?咲希さんから何か面白いことを聞きました?」由奈はわざと考えるふりをする。「うーん……いろいろ聞きましたね。たとえば――」「たとえば?」裕人が食いつく。由奈はにやりと笑った。「彼女があなたのおばさんになるところだったこととか」裕人の顔が一瞬で崩れた。「はあ?」思いきり顔をしかめ、そっぽを向く。「何がおばさんですか。僕の叔父の元カノなんて、江川市から海都市まで並ぶくらいいるんですよ。あんな人を、咲希さんが本気で好きだったとは思えませんね」由奈は目を丸くする。「え?」そして、ふと思いついたように言った。「もしかして……稲垣先生、森先生のこと好きなんですか?」裕人は言葉に詰まった。「ぼ、僕は――」途中で止まり、じっと由奈を見る。そして眉をひそめた。「……っていうかさ。僕の片思いはわかるのに、なんで白石先生があなたのこと好きなのは気づかないんです?」その瞬間、由奈の笑みが消えた。何も言わず、手に持っていた書類を裕人の胸に押しつける。「これを提出してきてください」裕人はぽかんとする。「え、僕が?」「はい、お願いします」「いや、なんで僕が――」由奈はさらっと言った。「行かないなら、森先生に言っちゃいますよ。勤務時間中に受付の看護師さんを口説いてたって」裕人の目が見開かれた。「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!そんなことしてないでしょ!」顔を真っ赤にして叫ぶ。「まさか池上先生、こんな腹黒い人だったなんて!ずるいですよ!」由奈はにこっと笑った。「褒め言葉として受け取っておきますね」裕人はぶつぶつ文句を言いながら、書類を持って出ていった。……
Read more

第449話

梓はスマホを強く握りしめた。胸の奥に渦巻くのは、どうしようもない悔しさと怒り。そのとき、ふと一人の人物を思い出す。――皐月の運転手をしていた人間だ。以前、歩実が倫也の恋人を装って由奈を陥れたとき、その運転手を手配したのは、ほかでもない梓だった。あの騒動のあと、運転手は解雇された。だが、口止め料はしっかり受け取っている。だからこそ、口は固い。とはいえ、その金も、もうほとんど使い果たしている頃だろう。梓の唇がゆっくりと歪んだ――なら、もう一度金を積めばいい。そう思った瞬間、胸の中に自信が湧き上がってきた。……翌日、由奈は綾香と一緒に病院の食堂で昼食をとっていた。しかし、席についた瞬間から、妙な視線を感じる。周囲の人たちが、ちらちらとこちらを見ているのだ。綾香もそれに気づいたらしい。「ねえ……今、私たち見られてません?」由奈はご飯を食べながら肩をすくめた。「たぶんね。とりあえず、食べましょう」そのとき――少し離れた席から、ひそひそ声が聞こえてきた。「ねえ、あれって本当なの?池上先生って、既婚者なんだって?」由奈の手が一瞬止まる。「そうそう。既婚なのに白石先生とベタベタしてるって。旦那さん、知ってるのかな?」「さあね、不倫って、スリルあるって言うし」綾香が立ち上がった。「ちょっと、あんたたち――」だが由奈が手を伸ばし、彼女の腕を軽く引いた。綾香は不満そうに座り直す。さっきの看護師たちを睨みつけながら言った。「何も知らないくせに、好き勝手言うんだから」由奈は落ち着いたまま答える。「説明する必要はありません」数秒間、言葉を選ぶようにしてから、ふっと笑った。「だって――陰口叩く人って、そもそも頭使わないから」綾香は思わず吹き出した。由奈の声は大きくなかったが、当の看護師たちにもはっきり聞こえていた。彼女たちの顔が一瞬で真っ赤になる。しかし何も言い返さなかった。先に噂していたのは自分たちで、しかも本人に聞かれていたのだから。……食事を終え、由奈と綾香はそれぞれの科へ戻った。だが、それから間もなくして、病院のロビーが騒がしくなる。「池上由奈って医者を出しなさい!出てこないなら、ここで死んでやる!」騒ぎを聞きつけ、由奈はナースステーションへ向かった。そこには、大きなお腹を抱えた妊婦が床に
Read more

第450話

裕人はちらりと倫也の横顔を見た。先ほどのやり取りを聞いてしまったせいか、どこか気まずい空気が漂っている。思わず、少し同情してしまう。それでも――友人として、慰めの一言や二言をかけてやるべきだと思った。裕人は倫也の肩にぽんと手を置いた。「いやあ……なんか大ごとになってますね。でもさ、池上先生も仕方なくああ言っただけだと思いますよ。状況は状況ですし」その言葉を聞いた瞬間、倫也の表情がさらに冷えた。裕人は内心で「あっ」と思う。倫也は何も言わず、人混みの中へ歩き出した。「……私が少し席を外しただけで、ずいぶん大きな騒ぎになりましたね」低い声が、廊下に静かに響く。その声を聞いた瞬間、由奈の体がわずかに強ばった。振り向いたが、何も言わない。この騒ぎは一見、自分を狙ったものだった。けれど本当は――自分と倫也、二人の問題でもある。由奈はまだ離婚していない。それは紛れもない事実だ。そして倫也とは、確かに距離は近い。けれど――一線を越えたことは一度もない。それに、倫也の祖父は由奈の恩師でもある。たとえ倫也に想いがあったとしても、肝心な一歩をすぐに踏み出せるわけがない。そのとき、裕人が前に出た。いつもの調子でにやにやしながら、床に座り込んでいる妊婦を見下ろす。そして、彼女の手にある写真に気づいた。「おや?」すばやく手を伸ばし、写真をひょいと奪い取る。「おっと、これって池上先生の写真じゃないですか?」写真をひらひら振りながら、わざと大げさに言った。「へえ、最近の患者さんって、医者の写真を持って恐喝しにくるんですね」「だ、誰が恐喝よ!」女性は顔を真っ赤にして立ち上がった。「私は旦那のために来たのよ!この病院の医者が権力に媚びて、既婚なのに白石先生を誘惑して――そのせいで、うちの旦那がクビになったの!」裕人はくすっと笑った。「いやいや。あなたの旦那がクビになったのと、池上先生が白石先生を誘惑したかどうかって……何か関係あるんですか?」女性は言葉に詰まった。そして苛立った声で怒鳴る。「あなたって誰?関係ないなら口出ししないで!苦情入れるわよ!」裕人は振り返って大声で言った。「おーい白石先生、聞きました?この人、僕を苦情出すって」にやにやしながら倫也の横に立つ。「しかも、これってあなたと池上先生の名誉問題でもあるんじゃないですか?」―
Read more
PREV
1
...
4344454647
...
63
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status