All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 451 - Chapter 460

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第451話

見物していた人たちは、いつの間にかすっかり散っていた。裕人もそれ以上その場に残る気はなかったらしい。倫也の肩を軽く叩き、そのまま立ち去っていった。廊下には、重たい沈黙だけが残る。しばらくして、由奈はようやく我に返った。倫也があんな形で騒ぎを収めるとは、思ってもいなかった。しかも、自分の評判まで顧みずに。人前で、既婚の女性を好きだと認める。それがどんな意味を持つか、倫也が分からないはずはない。世間からどれほど非難されるかも、きっと理解しているはずだ。それでも――あえて、ああ言った。由奈は小さく息を吸った。「白石先生……そこまでしてもらう必要はなかったのに」倫也は振り向いた。先ほどまで張り詰めていた表情が、わずかに和らぐ。「今回の騒ぎは、もとを言えば私が原因です。なら、私が責任を持って片付けるべきです」一瞬、由奈を見つめる。「あなたが気にする必要はありません」それだけ言うと、倫也は由奈の返事を待つこともなく、彼女の横を通り過ぎていく。白衣の背中が、ゆっくりと廊下の奥へ遠ざかっていった。由奈はその姿を黙って見送り、胸の奥で複雑な気持ちが込み上げてくる。一方そのころ、麗子は、病院で起きた一連の騒ぎをすべて祐一に報告していた。祐一はソファに腰掛け、雑誌をめくっている。麗子の話を聞くと――ページをめくる手が止まった。とりわけ、「離婚したとしても、倫也とはただの友人」と由奈が言ったと聞いたとき、祐一の眉間にかかっていた冷たい影が、わずかに薄れる。雑誌を静かに閉じた。「……なるほど。今回の件は、皐月さんの身近な人間が関わっているらしいな。なら、彼女に対応を任せよう」麗子は思わず眉をひそめた。「それでは、白石倫也さんにチャンスをあげることになるのでは?」祐一と由奈の関係は、いまだに冷え切ったままだ。だからこそ、自ら動き、由奈の信頼を勝ち取るべきではないだろうか。しかし祐一は首を横に振った。「それはない」その言葉は、倫也にチャンスはないという意味なのか。それとも、自分が決してチャンスを与えないという意味なのか。麗子は一瞬戸惑ったが、結局それ以上深く追及することはしなかった。……皐月のもとにも、すぐに騒ぎに関する報告が届いていた。話を聞き終えた瞬間、皐月の顔色が一気に険しくなる。「梓さんも馬場さんも……なんて
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第452話

「そうか。それなら安心だ」鉄雄はそう言って、英治の胸を踏みつけていた足をゆっくりとどけた。だが次の瞬間、声の調子がすっと低くなる。「だったら――今日中に金を用意してもらおう。でなきゃ、俺も遠慮はしない」典子は慌てて何度も頷いた。「わ、分かりました!」床に倒れている英治を必死に起こしながら、何度も頭を下げる。「今日中に、必ずお金はお返しします!」そう言うと、典子は英治のスマホを取り上げ、震える指で梓の番号を押した。数回のコールのあと、電話がつながる。「もしもし、馬場さん?何か用?」冷たい声だった。典子は一度息を整えてから言う。「……典子です。例の報酬の件ですが、六百万を今すぐこちらに持ってきてください」電話の向こうで、梓が不快そうに息を吐いた。「典子さん、話はもうまとまってるでしょう?今さらそんな大金を要求するなんて、ぼったくりですよ」典子は歯を食いしばる。「私たちは、あなたの言う通りに動きました。でも結局、皐月さんに全部知られてしまった。それでも私たちは、あなたの名前を出さなかったんです。六百万は妥当な金額でしょう!」一気にまくし立てる。「とにかく今すぐ六百万を持ってきてください!じゃないと、困るのはあなたのほうですよ!」梓が何か言い返そうとした、その瞬間――電話は一方的に切られた。……梓はスマホを握ったまま、しばらく動かなかった。脅されたことよりも、別のことが気にかかっていた。皐月はすでに馬場夫妻のことを調べ上げている。二人はまだ自分の名前を出していない。だが――いつ裏切るかは分からない。あの夫婦が追い詰められれば、いずれ口を割る。もしその前に、二人を始末しなければ……梓はゆっくりと息を吐いた。そして机の引き出しを開ける。中から取り出したのは、小さな薬瓶だった。もしあの夫婦が分別をわきまえ、金を受け取って黙って姿を消すなら――ここまでやるつもりはなかった。だが、欲に目がくらみ、限度を知らないというのなら。責任は、自分たちにある。梓はしばらく薬瓶を見つめてから、スマホを取り出し、短いメッセージを送った。それからコートを羽織り、静かに家を出ていった。……ほどなくして、梓は馬場夫妻の住むアパートに到着した。扉をノックする。しばらくして、ゆっくりと扉が開いた。典子が顔をのぞかせる。
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第453話

看護師長にぴしゃりと言われた瞬間、看護師たちは一斉に口をつぐんだ。それぞれが慌てて持ち場へ戻り、何事もなかったかのように仕事を始めた。その間、皐月は倫也の執務室の前まで来ていた。ドアをノックし、中へ入る。室内には倫也のほかに、裕人の姿もあった。裕人は立ち上がり、軽く頭を下げる。「おはようございます、皐月さん」皐月は小さくうなずいた。「倫也と二人で話がしたいの」「分かりました」裕人はそれ以上何も言わず、ちらりと倫也を見た。どこか心配そうな視線だったが、すぐにドアへ向かう。部屋を出ると、静かにドアを閉めた。部屋には、倫也と皐月だけが残る。倫也は手元の書類を机の上に置いた。「……話って、なんですか?」皐月は一度視線を落とす。「馬場夫妻の件だけど……全部、調べはついたわ」一拍置いて、続けた。「まさか梓さんまで関わっていたなんて、思わなかったけど……」その声には、わずかな疲れがにじんでいる。「でも安心して。もう片付いたから」皐月は指先を軽く握りしめた。今回の件は、彼女にとっても予想外だった。何より怖かったのは――倫也に、自分が裏で糸を引いていたと思われることだった。そう思いながら顔を上げ、視線はまっすぐ倫也に向けられていた。わずかな表情の変化も見逃すまいとするように。だが――倫也はすぐには答えなかった。椅子の背にもたれ、指先で机を軽く叩く。何かを考えているようだった。しばらくして、ようやく口を開く。「つまり、今日ここに来たのは……それを伝えるためですか?」皐月は少し戸惑ったように言った。「だって、心配だったから……」言い終える前に、倫也が静かに言葉を重ねる。「大丈夫です。今回の件が、お母さんの指示じゃないことくらいは分かっていますから」皐月は一瞬、言葉を失った。それを聞いて――喜べばいいのか、悲しめばいいのか分からなかった。少なくとも、息子は自分を疑ってはいない。けれど――それで二人の距離が縮まったわけでもない。皐月は静かに立ち上がった。「……じゃあ、私は帰るわ」そう言ってドアへ向かう。だが、不意に足を止め、振り返った。「倫也。あなた、本当に――池上さんじゃないと駄目なの?」部屋の空気が、静かに張りつめる。倫也はすぐには答えなかった。しばらく沈黙したあと、淡々と口を開く。「……そう
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第454話

二日後――米林家と東山家の結婚式は、港に停泊した豪華クルーズ船の上で開かれた。招待客の人数は決して多くないが、その顔ぶれは江川市で名の知れた実業家ばかりだった。岸の駐車場には高級車がずらりと並び、船へ向かう人々は皆、華やかな装いで、まるで盛大な宴へ向かうかのようだった。船のタラップの前では、東山夫妻と新郎新婦が並び、客を出迎えている。「足元に気をつけてくださいね」佳苗は笑顔で声をかける。客から祝福の言葉をかけられるたび、夫妻も丁寧に応じていた。そのとき、佳苗の友人の女性が受付係にご祝儀を渡し、微笑みながら言った。「佳苗さん、こちらが噂の婿さん?」彼女は圭介を見つめ、にこやかに言う。「米林さん、ほんとに立派な青年ね。お嬢さんは幸せ者だわ」佳苗は一瞬だけ言葉に詰まった。だがすぐに笑みを作る。何か言う前に、圭介が先に口を開いた。「お褒めいただき恐縮です」女性は満足そうにうなずいた。だがふと、隣に立つ凪紗の表情に気づく。明らかに不機嫌そうだった。その場の空気が、ほんの一瞬だけぎこちなくなる。「えっと……」女性が何か言いかけた、そのとき。隣にいた中年男性が慌てて腕を引いた。「ほら、挨拶はまた今度でいい。中へ入ろう。ここで立ち止まると邪魔になる」「え?でも……」女性は首をかしげる。「せっかくのおめでたい日なのに、新婦さん、全然笑ってないじゃない」男はすぐに言葉を遮った。「余計なこと言うな」そう言うと、女性の腕を引き、さっさとクルーズ船の奥へ入っていった。凪紗は手にしたブーケをぎゅっと握りしめる。唇を噛んだまま、何も言わない。その横で、圭介がそっと身を寄せた。他の人には聞こえない小さな声で囁く。「少しは笑ったらどうだ?合わせる約束だっただろ」次の瞬間――凪紗は無理やり笑顔を作った。だがその笑みは、泣き顔よりもぎこちない。それでも、無表情のままよりはましだった。佳苗は、そっと娘の様子をうかがう。だがそのとき、圭介が凪紗へ向けた鋭い視線と、威圧的な表情を目にした。ほんの一瞬のことだった。すぐに圭介は、また穏やかな笑顔へと戻る。佳苗の笑顔が、わずかに固まった。何かを考えるように、そっと目を伏せる。その頃――由奈も車で港の駐車場に到着していた。車を停め、ドアを閉める。歩き出したとき、近
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第455話

由奈は肘で祐一の脇腹を軽くつつき、小声でささやいた。「祐一……これ、ただ私にくっつきたいだけでしょ?」祐一は当然のように彼女の腰へ腕を回し、人混みをかき分けながら歩く。「自分の妻を抱き寄せるのは、当たり前のことだろ」周囲から見れば、二人は仲睦まじい若い夫婦そのものだった。夫の目には隠しきれない愛情がにじみ、妻も頬をほんのり赤らめながら、自然に寄り添っている。まるで絵に描いたような幸福な光景だった。その様子は、倫也の目にも入っていた。由奈がふと彼の存在に気づき、視線を向ける。その瞬間、わずかに表情が固まった。だがすぐに目を逸らす。祐一は真正面から倫也を見据えたまま、由奈を抱き寄せて歩み寄った。「白石さんも出席されるとは、意外ですね」倫也は淡々と答える。「滝沢社長もいらしているんです。こちらも、それなりの礼儀は尽くさないと」「なるほど」祐一は一瞬言葉を切り、意味ありげに彼を見つめた。「もしかしたら今夜、白石さんにもいい出会いがあるかもしれませんよ」倫也は何も答えなかった。そのとき――会場のステージから、明夫の声が流れ始めた。だが妙なことに、明夫本人の姿は会場にはない。大型スクリーンに映し出された映像を通して、招待客へ挨拶しているのだった。祝辞が読み上げられ、会場は祝福の空気に包まれる。誰もが新郎新婦の幸せを祝う、穏やかな時間に浸っていた。そのとき、一人の給仕がグラスを手に由奈のもとへ歩み寄る。「どうぞ」そう言って差し出したグラスと同時に、彼女の手のひらへ小さな紙切れを滑り込ませた。由奈は何も言わず、それを握り込む。グラスを近くのテーブルへ置くと、人混みから静かに離れた。その異変に、祐一と倫也は同時に気づく。由奈はホールを抜け、スタッフや警備の視線を避けながら歩いた。防犯カメラの死角を選び、人気のない隅へと身を滑り込ませる。そこでようやく、紙を開いた。書かれていたのはいくつかの名前だけ。おそらく凪紗からのメッセージだろう。その中には、由奈の恩師である恭介の名前、そして弘志の名前も含まれていた。今日、恭介は来ていない。代わりに来ているのは倫也だ。だが、弘志とその妻の真里は確かにこの会場にいる。由奈は眉をひそめる。米林家と東山家が大勢を招いている。それなのに、なぜこの数名だけ紙に乗っているのだ
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第456話

クルーズは全速力のまま、開けた水域へと進んでいた。そのとき――突然、アンカーが水中へと叩き落とされた。高速で進んでいた船体に、強烈な衝撃が走る。制御を失ったような揺れに、ホールにいた乗客たちから一斉に悲鳴が上がった。テーブルの上のワイングラスは次々と倒れ、シャンデリアが大きく揺れる。由奈も足を取られ、危うく転びそうになったが、とっさに揺れるテーブルに手をついて体を支えた。混乱する人々の中で、スタッフや警備員が必死に秩序を保とうとしている。ついさっきまで宴の熱気に包まれていた会場は、今や不安と戸惑いで満ちていた。由奈は凪紗と圭介の姿を探したが、どこにも見当たらない。次の瞬間、背後から突然、腕を引かれた。気づけば柱の陰へと引き寄せられている。顔を上げると、そこには祐一の焦った瞳があった。「さっきも言っただろ。俺のそばを離れるなって」由奈は言葉を詰まらせながら問い返す。「……祐一は、最初からわかってたの?」祐一は短く答えた。「ああ。だから来るなって言ったんだ」「じゃあなたは?」由奈はすぐに問い返す。「どうして来たの?」祐一はしばらく彼女を見つめたあと、静かに言った。「俺が死んでも……君は気にしないんだろ」由奈は言葉を失った。そのとき、再び船体が激しく揺れた。落とされた巨大なアンカーが川底の岩にこすれ、船体が大きくきしむ。少しでもバランスを崩せば、このまま横転して沈みかねない――そんな不安定な揺れだった。足元が大きく崩れ、由奈はバランスを失い、そのまま祐一の胸に倒れ込んだ。祐一は片手で柱をつかみ、もう一方の腕で彼女をしっかり抱き止める。周囲では子どもの泣き声が上がり、大人たちは怒号と不安の入り混じった声を上げていた。やがて揺れは、少しずつ収まっていく。人々は恐る恐る窓の外を見た――だが、どこにも岸が見えない。クルーズは川の真ん中で、完全に停止していた。「どういうことだ?なんで進まないんだ!」「船が故障したんじゃないのか?早く救助を呼べ!」「……スマホ、圏外だ!」「こっちもだ!全然つながらない!」せっかく落ち着きかけていた空気が、通信不能の事実で再びざわめき始める。そのとき――ステージの巨大スクリーンが、再び点灯した。映し出されたのは、明夫だ。先ほどの祝辞のときとは違い、今の彼はどこか楽し
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第457話

現場が一気に混乱に包まれたのを見て、弘志は声を張り上げた。「皆さん、落ち着いてください!」だが、その声は誰の耳にも届かない。スクリーンに表示された爆弾のカウントダウンを見た瞬間、人々の理性は一気に崩れ去った。死の恐怖に直面したとき、人間の心ほど脆いものはない。人々は出口へ向かって一斉に押し寄せたが――ホールの扉は外から鍵がかけられていた。いくら押しても、叩いても、びくともしない。全員、この船の中に閉じ込められていた。しかも――外にいたはずの警備員たちの姿が、いつの間にか一人もいなくなった。その頃、倫也は数人の船員とともに下の階から上がってきた。だがホールに入った時、そこはすでに完全なパニック状態になっていた。倫也は急いで由奈と祐一のもとへ歩み寄る。「船に残っている救命ボートは一隻だけです。他の予備のボートは全部持ち去られていました。おそらく……全員がこのホールに集まっている間に、向こうの連中はとっくに船を離れたんでしょう」その言葉を聞いた弘志の顔が、わずかに青ざめる。「救命ボートが一隻だけ……何人乗れるんですか?」倫也はスクリーンのカウントダウンをちらりと見た。「……十人ちょっとです」そして静かに付け加える。「時間的にも、もう厳しいでしょう」弘志は唇を噛んだ。「そうですね……仮に泳いで逃げるとしても、岸までは遠すぎて無理でしょう。それに、ここには年寄りや子どももいます」そう言いながら、彼は振り返った。「高岡さん、あの件のことなんだが――」だが、そこにいるはずの同僚の姿が、もう消えていた。弘志は目を見開く。「……高岡さんは?どこへ行った?」祐一が、下の階へ通じる扉をじっと見つめながら言った。「おそらく、救命ボートのほうへ」その一言で、由奈はすべてを悟る。「まさか……自分たちだけで逃げるつもりですか?」弘志の顔が怒りで歪む。「高岡さん、あいつ……正気か!」すぐ部下に彼を止めさせようとしたが、もう遅かった。窓を叩き割ろうとしていた男が、外を見て叫んだ。「救命ボートだ!ボートに乗ってる人間がいるぞ!」別の誰かが叫ぶ。「俺たちを置いて行く気か!」その言葉が終わるか終わらないかのうちに――ドォン!!凄まじい爆発音が響いた。衝撃で窓ガラスが激しく震える。さっきまで怒号を上げていた人々は
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第458話

「そ、そうだ……きっとこの船に妨害装置があるんだ!探そう!」由奈の言葉に、周囲の人々ははっと我に返った。わずかでも生き残る可能性があるなら、誰だってそれにすがりたい。一斉に船内を探し始める。祐一はその様子を見ながら、由奈をちらりと見た。「意外と頭、回るじゃないか」由奈は思わず彼を睨みつけた。こんな状況で冗談を言うなんて――呆れと苛立ちが胸に広がる。それ以上は相手にせず、彼女はすぐに背を向けた。他の人たちと一緒に、船内の機器を片っ端から調べ始める。そのとき――振り返ろうとした倫也が、ふと足を止めた。そして祐一を見つめる。「滝沢社長は……この船から出られないことを、あまり心配していないようですね」祐一はわずかに眉を上げた。「白石さんだって、ずいぶん落ち着いてるじゃないですか」倫也は何も言い返さず、ただ、静かに視線を外した。――十五分後。スタッフたちが集めてきたのは、十着の救命胴衣と六つの浮き輪。それだけじゃ到底足りない。それでも――皆の努力が報われた。船内の奥から、ついに電波妨害装置が見つかったのだ。一人の男が装置を叩き壊そうとした、そのとき。「待て――!」祐一が声を上げた。だが、一歩遅かった。ガンッ、と鈍い音が響き、妨害装置は床に叩きつけられて砕け散った。その瞬間――周囲の空気が、不気味なほど静まり返る。そして、スクリーンに映るカウントダウンが、突然加速した。ピッ、ピッ、ピッ、ピッ――鋭い電子音が、会場に響き渡る。一瞬で、人々の顔色が青ざめた。もう誰も、譲り合おうとはしない。残されたわずかな救命胴衣や浮き輪に、人々が一斉に群がった。子どもの泣き声、大人たちの怒鳴り声、そして、無情に刻まれていく秒針の音。その光景は、まるで――人間の本性をむき出しにした地獄のようだった。由奈はその場に立ち尽くしていた――妨害装置がなくなれば、助かる可能性がある。そう思っていた。けれど――違った。もし、自分があんなことを言わなければ――耳の奥で、ずっとキーンという音が鳴っている。周囲の声がほとんど聞こえず、頭もうまく働かなかった。そのとき――誰かが彼女の腕を強く掴んだ。「行くぞ!」引っ張られるまま、由奈は走り出す。体が追いつかない。相手が誰なのかも分からない。ただ――その
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第459話

由奈が再び目を開けたとき――そこは病室のベッドの上だった。ぼんやりとした視界の中で、ベッドの脇に座る人影が見える。そこにいたのは、智宏だった。「……目が覚めたのか?」彼はほっとしたように身を乗り出す。「どこか痛むところはない?」「……お兄さん」由奈の声はかすれていた。喉が焼けるように乾いている。「ここ……どこ?」「病院だよ」智宏は彼女の手をそっと握った。「あなたは意識を失ってたけど、救助隊がすぐに来てくれたんだ」その言葉を聞いた瞬間――由奈の頭に、あの光景が一気によみがえる。爆発。炎。そして――「……祐一は?」彼女は勢いよく体を起こした。「祐一はどこなんですか?」智宏は一瞬、言葉を失った。そしてわずかに視線を逸らす。その一瞬の沈黙だけで、由奈にはすべてが分かってしまった。胸が締めつけられる。呼吸ができない。「……祐一は、本当に……死んじゃったんですか?」智宏はゆっくりと言った。「……あの爆発だ。助かるのは、かなり難しい」その言葉を聞いた瞬間、由奈は胸を押さえ、大きく息を吸った。「……私、間違ってたのかな。私が……妨害装置を探そうなんて言わなければ……みんな、もっと早く逃げられたかもしれないのに」涙が溢れる。「もし祐一が私を突き飛ばさなかったら、祐一だって逃げられたはずなのに……私、祐一に死んでほしいなんて思ってなかった。本当に……そんなつもりじゃなかったの……」言葉は次第に途切れ、最後は嗚咽に変わった。その姿を見て、智宏はたまらず彼女を抱き寄せる。「由奈」智宏は静かに言った。「あなたのせいじゃない」由奈は彼の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。この結末を、受け入れることができない。それ以上に――祐一がいなくなったことを受け入れられるはずがない。彼はもう、自分の世界から完全に消えてしまったのだ。そのころ、病室の外に立っていた倫也が、由奈たちの会話をすべて聞いていた。ドアノブに手をかけるが――結局、その手は静かに離れた。倫也は何も言わず、背を向けて歩き去った。……事件から三日後。クルーズ爆発事故のニュースは、各メディアのトップニュースとなった。船に乗っていた数百人の乗客のうち、六人が死亡、二十五人が負傷。それ以外の乗客は全員救助された。そして――死亡者リストの中には、祐一の名前があっ
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第460話

「中道家のほか人間のことなら、僕が対処しますよ」穏やかな口調で、智宏が口を開いた。「お父さんは石川家のことに集中してくれれば大丈夫です。それから、妹のことは――」そう言って、智宏はやわらかな目で由奈を見つめる。「由奈はやりたいことを、好きなようにやればいい」由奈は思わず目を見開いた。凍りついていた胸の奥に、かすかな波紋が広がる。「智宏の言う通りだ。石川家のことは、こっちで何とかする。だからお父さん、あまり心配しないでください」秀明がそう言って、勝之をなだめた。その言葉を聞き、勝之もようやく安堵したように息をついた。食事を終えると、智宏が由奈をスクエアタワーまで送り届けた。車を降りる直前、ふと智宏が口を開く。「由奈、これからも江川市に残るつもりか?」由奈は数秒、黙り込んだ。「……江川市での生活、けっこう気に入ってるんです。それに先生とも約束したし、今進めているプロジェクトを途中で投げるわけにはいきません」そう言ってから、彼の方を振り向く。「もしかして……中道家で何かあったんですか?」「いや、何もない」智宏は彼女の頭にそっと手を置いた。「ただ聞いてみただけだ。心配しなくていい。あなたは自分のやりたいことに集中すればいいんだ」そして思い出したように続ける。「そうだ。スクエアタワーはもう出たほうがいい。江浜区にマンションを買っておいたんだ。ここより警備がしっかりしてるし、あなたの職場からも近い。落ち着いたらに引っ越してくれ」「すみません、お兄さん、また負担をかけてしまって……」「そんなことないよ。あなたは僕の大事な妹だから、家を用意するくらい当然だよ」兄からの温かい気遣いに由奈は心から感謝し、微笑み返した。それを見て、智宏がぽつりと言う。「……やっと笑ったね」由奈は一瞬言葉を失い、視線を落とした。胸の奥に、また静かな痛みが広がる。祐一のことで由奈がずっと落ち込んでいるのを、智宏はよく知っていた。だからこそ、その姿が余計に胸に刺さる。しばらく世間話をした後、由奈は智宏と別れ、建物に入った。部屋の前に立ち、鍵を取り出したとき、ちょうど帰宅した倫也と鉢合わせる。あの日、水の中で由奈を庇った倫也も負傷し、病院で腕を何針も縫ったばかりだった。「白石先生、お怪我はもう大丈夫ですか?」「問題ありません」倫也は短く
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