All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 411 - Chapter 420

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第411話

歩実の目に、あからさまな苛立ちが走った。「あなたたち、誰?気安く話しかけないで」その言葉に、先頭に立っていた短髪の女の笑みがすっと消える。次の瞬間、何の前触れもなく手が振り上げられ、乾いた音が留置場に響いた。歩実は勢いよく床へ倒れ込む。はっと我に返ったときには、すでに三人に取り囲まれていた。短髪の女が歩実の髪を乱暴につかみ、無理やり顔を上げさせる。「ここがどこだか分かってるの?その態度はないんじゃない?」「……ひ、人違いじゃないの?」三人の目に宿る敵意を察し、歩実はとっさに声の調子を落とした。「人違い?してないよ。あんた、長門歩実でしょ?」女は手のひらを滑らせ、顎を強くつかむ。「自分が何してきたか、忘れたとは言わせないよ」肩がびくりと震える。歩実は女を突き飛ばした。「何のこと?ここは警察署よ?手を出したら、あなたたちだって無事じゃ済まないわ!」少し太った女が腕を組み、鼻で笑う。「へえ、ここが警察署だって分かってるんだ。前にあんたも、同じことやらせたくせに」「……どういう意味?」一瞬、思考が止まる。だが、短髪の女は考える隙を与えなかった。鋭く蹴りが入る。「っ……!」腹部に衝撃が走り、息が詰まる。続けざまに拳と足が落ちてきた。「やめて……!」歩実は丸くなり、必死に身をかばう。だが三人は容赦しない。その間、壁の隅にあるはずの監視カメラは、いつの間にか電源が落ちていた。やがて、歩実がほとんど動かなくなった頃。「何をしてる!」当直の警察官が駆け込んできた。床に横たわる歩実は、全身が焼けつくように痛む。耳鳴りがひどく、周囲の声が遠く霞む。骨が折れたのではないかと思うほどの激痛。額の端から、熱い液体が頬を伝って流れていく。――痛い。ただ、それだけがはっきりしていた。そのとき、ふいに脳裏にある名前が浮かんだ――池上浩輔。……一方その頃。由奈は警察署を出たあと、真里の招きで麻雀の席へ向かった。集まっていたのは、沙也加と麻央。初めて触る牌に、由奈は少し緊張していたが、真里が一通り教えると、二、三局で流れをつかんだ。気づけば、かなりの額を勝っている。「初心者ボーナスってやつね」麻央が笑う。「これが本気のレートだったら、今ごろ私たち、財布が空っぽになっちゃったわよ」沙也加が八筒を捨て
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第412話

由奈はスマホを握ったまま、バルコニーへ出た。「……今、なんて?」「長門先生が、警察署から病院に運ばれて緊急手術になったんです」綾香の声はひどく抑えられている。「脾臓破裂による大量出血と脳震盪。さっきやっと一命は取り留めて、今はICUです」由奈は眉をひそめた。「警察が病室の前を固めてます。さっき様子を見たけど……正直、かなりひどいです。失禁もしてましたし。でも、おかしくないですか?今、勾留中だったんでしょ?どうしてこんなことに……」由奈も、その点が引っかかっていた。一瞬、これは歩実の常套手段ではないかと思った。同情を引き、保釈を狙うための「自作自演」。だが、命の危険を伴うほどの「苦肉の策」など、そう何度も使えるものではない。「因果応報じゃないですか?」綾香が鼻で笑う。「前に、あの人が浩輔さんにやったこと、今度は自分に返ってきただけですよ」由奈は、ほんのわずか言葉に詰まった。……本当に、そうだろうか。偶然にしては、出来すぎている。しかも、あまりにも。「池上先生?」沈黙が長いのを気にしたのか、綾香が声をかける。由奈は我に返った。「知らせてくれてありがとう。状況はよく分かりました」「ううん。役に立てたならよかったです」綾香は明るく言って、通話を切った。由奈が室内に戻ると、真里がショールを羽織って出てくる。「もう帰るの?」「はい。今日は本当にありがとうございました」「遠慮しないで。時間があれば、またいつでも来てちょうだい」真里はそう言って、由奈の手をやさしく包んだ。……目を覚ました瞬間、歩実は異変に気づいた。体が、動かない。そして――左耳が何も聞こえない。「……耳……?」痛みに耐えながら上体を起こそうとすると、すぐに看護師が駆け寄り、肩を押さえた。「長門さん、まだ起き上がっちゃいけません!」「どうして……どうして左が聞こえないのよ!」歩実は看護師の腕をつかみ、半ば錯乱したように叫ぶ。その声に反応して、警察官が病室へ入ってきた。「耳が聞こえないの!全部、あいつらのせいよ!」首筋に血管を浮かべ、必死に訴える。「刑事さん、あの人たち、最初から私を狙ってたの!裏で誰かが指示してたのよ!そう……池上由奈!あの女が黒幕よ!」警官はまず彼女を落ち着かせるよう、低い声で言った。「事情はきちんと
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第413話

歩実はベッドの上で呆然と天井を見つめていた。頭が重く、意識は濁った水の中に沈んでいるようだった。――自分が、切り捨てられる側になるなんて。転落する前は、誰もが彼女に味方していた。けれどひとたび立場を失えば、同じ人間たちが、まるで示し合わせたかのように背を向ける。急に、昔のことが恋しくなった。祐一が、まだ彼女を宝物のように扱ってくれていたあの頃。あのときの彼女は、すべてを手にしていたはずなのに、それでも満たされなかった。だからこそ、圭介とあんな愚かな関係を持ってしまったのだ。圭介が与えてくれる金銭的な余裕を享受しながら、祐一の信頼と甘やかな愛情も手放せなかった。迷いがなかったわけではない。後悔だって、何度も胸をよぎった。それでも最後は、罪深い欲望に負けた。――もし、あのとき圭介と関わらなければ。妊娠もしなければ。四億を受け取って海外へ逃げなければ。結末は、違っていたのだろうか。そう思った瞬間、目の奥が熱くなる。込み上げてくるのは悔しさよりも、激しい後悔だった。自分が、選ぶ相手を間違えたのだ。廊下の足音に、はっと我に返る。警察官が一人の人物を伴って入ってきた。亜紀だと思い込んで顔を上げた、その瞬間――視線の先に立っていたのは、由奈だった。歩実の表情が凍りつく。「すみません、少しだけ二人で話をさせてもらえますか」由奈は穏やかに微笑んだ。警察官はうなずき、病室の入り口へ下がる。扉が閉まるや否や、歩実は勢いよく身を起こし、由奈の手首をつかんだ。「あなたがやったんでしょ!」歯ぎしりするような声。左耳が聞こえなくなってから、世界は半分閉ざされた。人の声が遠く、眠りから覚めたときは、静寂が怖くて息が詰まる。そんな自分を受け入れられない。けれど由奈の前で弱さを見せるわけにはいかなかった。自分がこんな目に遭ったのは、すべて由奈の仕業だ――そう思い込まなければ、立っていられない。由奈は手首を振りほどかず、静かに見つめ返す。「私が、何をしたんですか?」「弟のことで腹いせしたのよ!私に復讐したんでしょ!」歩実の声は震えていた。「今の私を見て満足?あなたは私を憎んでるだろうけど、結局、あなたも私と同じよ!絶対に許さない。あなたも、いつか全部失うから!」しばらくの沈黙のあと、由奈が口を開く。「証拠はあ
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第414話

歩実は、はっと息をのんだ。床に散らばった一枚の証明写真――そこに写っている顔に視線が吸い寄せられる。そして、書類に大きく印字された「DNA鑑定」という文字が、やけに目に刺さった。そばにいた付き添いの介護スタッフが慌ててしゃがみ込み、床に落ちた書類を拾い集める。何気なく中身を見てしまい、思わず動きが止まった。「……DNA鑑定?」一瞬戸惑ったあと、書類を歩実へ差し出す。だが歩実は、手を伸ばそうともしなかった。視線をそらし、首を振る。「見ない!そんなの、全部嘘よ!捨てて!」介護スタッフが戸惑っていると、歩実は突然、頭を抱えて叫び出した。「騙されないわ!鑑定なんてどうせ偽物よ!早く捨てて!」鋭い悲鳴がICUの静けさを切り裂く。すぐにナースステーションが騒ぎになり、看護師と医師が駆け込んできた。廊下で待機していた警察官も慌てて入ってくる。歩実は激しく息を吸い込み続け、呼吸が乱れていた。過換気によるアルカローシスの症状だ。「酸素を!」看護師がすぐに酸素マスクを装着する。「何があったんですか?」と警察官が尋ねるが、医師と看護師は首を振った。「詳しいことは……」そのとき、介護スタッフが手にしていた書類を差し出した。「これを見てから急に……」警察官は書類を受け取り、ざっと目を通す。そしてベッドの上で取り乱している歩実を見て――すべて察したように、静かに息をついた。……由奈が外科棟の前に着いたときだった。人通りの多い廊下で、ふいに大きな影が進路を塞ぐ。「……あ」思わず足を止め、顔を上げる。そこに立っていたのは、白衣をまとった倫也だった。端正な顔立ちに、穏やかな佇まい。「紳士」という言葉が、これほど似合う人はいないだろう。由奈は軽く会釈する。「白石先生、お疲れ様です」倫也は小さくうなずいた。「もう何日も経ちましたけど、私たちがいつ会っていたのか、思い出しました?」由奈は一瞬言葉に詰まる。「それが、まだ全然……」気のせいか、倫也の表情に一瞬だけ寂しさがよぎった。だがすぐに消える。「あなたの頭の中は、滝沢社長のことでいっぱいなんでしょうね」「いや、本当に思い出せないんですって……」由奈は小声で言いながら、ふと思いついたように顔を上げた。「ヒント、もらえません?」倫也はふっと笑う。「思い出せない
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第415話

由奈の表情が、すっと曇った。白石家が江川市でも屈指の名門であることは、彼女だってよく知っている。倫也の将来の結婚相手が、家柄の釣り合う相手になるだろうことも理解していた。だが、梓の言い方と態度には、さすがに神経を逆なでされた。由奈が言い返そうと口を開きかけた、そのとき――「日野さん、あなたが兄の決定を代弁できる立場じゃないと思いますが」玄関の方から、若い女性の声が響いた。日野梓(ひの あずさ)は一瞬固まり、慌てて一歩下がる。「お、お嬢様……」――お嬢様?由奈がそちらへ目を向けると、ひとりの少女がゆっくりと室内へ入ってきた。二十歳そこそこだろうか。人形のような姫カットの長い黒髪に、雪のように白い肌。暖色の宮廷風ナイトドレスの上から、ざっくりとしたニットカーディガンを羽織っている。その瞳は美しく、どこか倫也に似ていた。倫也に妹がいるなんて、由奈は初めて知った。少女――白石悠(しらいし ゆう)は、由奈と目が合うと柔らかく微笑み、すぐに梓へ視線を移す。「この方、兄の客人ですよね?」穏やかな声だったが、その奥にははっきりした圧があった。「今の話、もし兄に聞かれたら……あなた、困るんじゃないですか?」梓は慌てて弁解する。「それは奥様のご意向で……」「たとえ母の意向でも、さっきの言い方は母の言葉そのままじゃないでしょう?」その一言で、梓の顔色がみるみる白くなる。悠は終始やわらかな口調のまま、静かに続けた。「母が二人の交際に反対しているとしても、客人の前であんな言い方はしません。あなたが母のもとで働けているのも、母が引き立てたからでしょう?あなたの仕事は、与えられた役目をきちんと果たすこと。白石家のことを決める立場じゃありませんよ」柔らかな声なのに、妙な迫力があった。梓はいたたまれなくなり、そのまま立ち去ろうとする。だが――「ちょっと待って」悠が呼び止めた。「謝罪はまだですよね?」梓は言葉に詰まり、明らかに不満そうな顔をした。それでも、結局は由奈に向き直る。「……失礼しました」短くそう言って、足早に部屋を出ていった。由奈は悠へ軽く頭を下げる。「助けてくださって、ありがとうございます」悠はくすっと笑う。「いえ、当然のことです。白石家の評判が、ああいう人のせいで落ちるのは困りますから」そう言
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第416話

悠がそう言うと、恭介も頷いた。「そうだな、時間があれば、一緒に食事をしよう」由奈は断ることもできず、結局その申し出を受け入れるしかなかった。やがて昼食の時間になり、皐月が会社から戻ってきた。後ろには梓の姿もある。皐月は由奈をちらりと一瞥したが、すぐに視線を逸らし、椅子を引いて席に着いた。「総司はまだ会社か?」恭介が尋ねる。皐月はナイフとフォークを手に取りながら答えた。「ええ、少し仕事が残っているみたいで。戻るのはもう少し遅くなるそうです」そう言うと、今度は由奈に目を向ける。「お料理、お口に合ってるかしら?」由奈は微笑んだ。「好き嫌いはないので、大丈夫です」皐月は何気ない口調で続ける。「そういえば、お義母さんの千代さんとは、もう何年もお会いしてないの。お元気かしら?」一見ただの世間話のようだが、実際は由奈の立場をそれとなく思い出させるための言葉だった。――まるで、祐一と別れたら自分がそのまま白石家に嫁ぐとでも思われているかのようで、由奈は心の中で小さくため息をつく。だが、わざわざ正面から反論する気はなかった。由奈は笑みを崩さないまま、穏やかに言う。「皐月さんは、義母と親しくされているんですか?私はあまり聞いたことがなくて……今度義父に伝えておきますね。皐月さんが義母のことを気にかけていらしたって」倫也は目を伏せ、ふっと小さく笑った。どうやら自分の出番はなさそうだ。皐月は言葉に詰まり、顔色が変わって思わず恭介の方を見る。――彼女と将平の過去は、白石家が気にしないわけがない。恭介は相変わらずゆっくりと食事を続けており、会話など気にも留めていない様子だ。すると後ろに立っていた梓が、思わず口を開いた。「池上さん、少し言動には気をつけた方がよろしいかと」由奈が何か言うより早く、倫也の表情から笑みが消えた。「あなたこそ、言動に気をつけた方がいいんじゃないか?」梓は一瞬で固まり、慌てて視線を落とす。唇をきゅっと噛んだ。恭介もようやく、皐月がわざと意地の悪いことをしていると察したらしい。「客に対して、最低限の礼儀はわきまえるべきだろう。そばに置く人間にも、そのくらいは教えておくものだ」皐月はわずかに眉を動かし、梓を横目で見た。「私の配慮が足りませんでした。梓さん、あなたも池上さんに謝って」梓は唇を引き結ん
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第417話

「兄は……」悠が言いかけたそのとき、倫也から電話がかかってきた。彼女はすぐに通話ボタンを押す。「うん、大丈夫、池上さんはちゃんと送り届けるから安心して」電話の向こうで倫也が何か言ったらしく、悠の表情に一瞬、残念そうな色が浮かんだ。軽く相づちを打つと、彼女は通話を切る。由奈は気になって問いかける。「さっき言いかけたことですけど……」悠はくすりと笑った。「それは……直接兄に聞いたほうがいいと思いますよ」由奈はそれ以上何も聞かず、車内は静かな空気に包まれた。……ホテルに戻った由奈は、廊下で二人の男とすれ違った。一瞬、見覚えがある気がする。もう一度視線を向けて、ようやく思い出した。歩実の監視を担当していた、あの警察官たちだ。由奈はそのまま彼らとすれ違い、数歩進んでから振り返る。二人はそのままエレベーターに乗り込んでいった。――何をしに来たのだろう。そんな疑問が頭をよぎる。部屋に入ると、リビングの大きな窓の前に祐一の姿があった。傍らには麗子が立っている。「長門さんに会いに行かれるんですか?」麗子が静かに尋ねる。祐一はまだ由奈が帰ったことに気づいていない。「ああ、そろそろ一度顔を出すべきだろうな」淡々と答える声。由奈は無表情のまま二人の背後を通り過ぎた。足音に気づいた麗子が振り返る。「奥様……」だが由奈は何も言わず、そのまま寝室へ入っていった。閉まったドアを、祐一はしばらく黙って見つめていた。……翌朝。由奈と祐一は、いつものように向かい合って朝食を取っていた。祐一は昨日のことに一切触れない。いつものような弁解も、説明もない。もっとも――彼が何を言おうと、由奈はもう気にしていなかった。由奈はゆっくりと味噌汁を一口すする。……ふと、手が止まった。今日の味噌汁はやけにあっさりしている。むしろ、由奈の好みに近い味だ。そのとき、将平が遅れてリビングに入ってきた。「今日はずいぶん質素な朝食だな」テーブルを見て、彼は何気なく古賀に声をかける。だが古賀が答える前に、祐一が淡々と言った。「俺が作った」由奈の手がぴたりと止まる。味噌汁を見つめながら、胸の奥に複雑な感情が広がった。将平は眉をひそめる。「お前が?料理なんてしてたのか」「ホテルにこもってると暇でね」祐一はさらりと答える。
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第418話

倫也は、話題を逸らした。「米林社長は帰国されたばかりだそうですね」「そうなんです」圭介は軽く肩をすくめる。「数年離れただけなのに、国内はいろいろと変わりましたね。人も、状況も」そう言いながら視線がゆっくりと由奈へ落ちた。口元に意味ありげな笑みが浮かぶ。「それに、江川市総合病院にこんな美人の先生がいるなんて。俺、全然知りませんでした」その視線に、由奈は胸の奥がざわつくのを感じた。――米林。その苗字を聞いた瞬間、もう彼の正体は察していた。明夫と関係のある人物だ。とはいえ、あの事件が起きた当時、圭介は倫也と同じくらいの年齢だったはずだ。つまり、犯人とは同じ人物ではない。そう自分に言い聞かせ、由奈は静かに息を整える。「恐縮です」淡々と返すと、圭介は小さく笑った。「池上先生、ずいぶん控えめなんですね。なるほど……それもあって――」意味深に言葉を切る。その続きを、あえて言わない。倫也はわずかに眉をひそめたまま、由奈の前に立ち続けている。「そういえば、米林社長は東山家のお嬢さんと縁談が決まったとか」圭介は軽く笑い、倫也の肩に手を置いた。「ええ、式を挙げるときは、ちゃんと招待しますよ。白石先生も来てくれますよね?」倫也はちらりと視線を向けると、すぐに逸らす。「そのときは、喜んで」圭介は短く笑い、そのままエレベーターへ向かった。扉が閉まる。その姿が完全に見えなくなったとき、由奈はようやく小さく息を吐いた。だが胸の奥の重苦しさは消えない。――あの人が、米林圭介。倫也が振り返る。「怖かったんですか?」突然の問いに、由奈は一瞬言葉を失った。……気づかれていたのだろうか。「いえ……もう大丈夫です。さっきは助けてくれてありがとうございました」「いえ。それより、昨日のことですが……すみませんでした」思いがけない言葉に、由奈は目を瞬いた。「どうして白石先生が謝るんですか?」「あなたを呼び出したのは私なのに、あんな思いをさせてしまいました」倫也の声は静かだったが、どこか真剣さが滲んでいる。それはただの謝罪というより、どこか自分を責めているような響きだった。由奈は視線を落とす。「白石先生」倫也は黙ったまま彼女を見つめている。ふと、由奈は小さく笑った。「白石先生って、冷たそうに見えるけど……実
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第419話

歩実は小さな化粧鏡を手に取り、リップをそっと塗り直した。以前のような完璧なメイクではない。それでも――祐一に会う以上、せめて少しでも元気な姿でいたかった。そこへ看護師がベッドの横に来て、カーテンを静かに引き開ける。次の瞬間、歩実の視界に一人の男の姿が映った。背筋の伸びた長身。端正な顔立ちは、以前よりもいっそう鋭く、近寄りがたい雰囲気をまとっている。祐一だった。「……来てくれないと思ってた」歩実は微笑んだ。だがその目には、どこか恨めしげな色が滲んでいる。「あなたが癌だって聞いた時、ずっと考えてたの。これって……もしかして報いなのかなって」祐一は表情を変えないまま、静かに彼女を見つめた。「その様子だと、ずいぶん苦労したみたいだな」歩実は一瞬だけ目を見開く。すぐに身を乗り出し、祐一の手をつかんだ。「祐一……あなた、本当はまだ私のことを気にしてるんでしょ?」声が震える。「私たち、あんなに長い間一緒にいたのよ。昔はすごく愛し合ってたじゃない。もし池上先生が現れなかったら、あなたは変わらなかったはずよ!」歩実は必死に言葉を重ねた。「認めるわ。私、後悔してる。あの時あなたと別れたこと……本当に後悔してるの。でも、あの時はどうしようもなかった……帰国したら全部話すつもりだったの」彼女の瞳に、強い感情が宿る。「でもあなたの隣に池上先生がいた……悔しかったし、嫉妬もしてた。あの人に負けたくなかっただけなの!」だが――祐一の目は、最後まで変わらなかった。冷たく、静かで、何の感情も浮かんでいない。その視線に気づいた瞬間、歩実の瞳から希望の光がゆっくりと消えていく。彼女は力なく手を離した。祐一は袖口を軽く払う。「君にとっても、俺が唯一の選択ではなかったんだろ?俺がいなくても……米林圭介がいるじゃないか」歩実の顔が凍りついた。血の気が引き、真っ白になる。「……もう、知ってたの?」「調べるのに、ずいぶん時間がかかったけどな」歩実は呆然とした。「……いつから?」祐一は淡々と答える。「影山との一件を知った頃からだ」歩実は慌てて首を振った。「違う!あの人には何も言ってない!」祐一は小さく笑う。「別に、あいつが教えたなんて言ってない」歩実は言葉に詰まった。祐一は続ける。「影山が君を助けたのは、滝沢家への恨
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第420話

歩実の片耳は、外部から受けた衝撃で鼓膜が剥がれ、すでに壊死していた。それでも彼女が手術を拒み続けていたのは、ただ一つ――逃げ出す機会を待っていたからだ。彼女はずっと思い込んでいた。自分をこんな惨めな姿にしたのは、留置場にいるあの憎たらしい女たちのせいだと。だが――すべてを仕組んだのは、目の前に立つこの男。かつて、あれほどまでに自分を守り、甘やかしてくれた男だった。祐一が自分を憎んでいることは、歩実も分かっていた。それでも――彼が本当にここまで冷酷になれるとは、どうしても信じたくなかった。だって、あの時。彼は確かに自分を見逃したのだから。だからこそ、心のどこかで思っていた。まだ少しは、自分への情が残っているのではないかと。……本当に、滑稽だ。男なんて、「愛している」と言っていたくせに、ある日突然、何もかもが消えてしまう。歩実の頬を涙が伝い落ちる。だが次の瞬間、その瞳に浮かんだのは――激しい憎しみだった。その衝動のまま、彼女はテーブルの上にあった物をつかみ、祐一めがけて投げつけた。祐一はとっさに腕を上げて受け止めたが、衝撃で腕を打たれる。由奈が思わず前に出ようとしたが、その前に看護師と医師が駆け寄り、歩実を押さえつけた。歩実はベッドに押し倒されながらも、歪んだ笑みを浮かべて叫ぶ。「祐一、私だってあなたを愛してなかったのよ!最初からね!」彼女は笑いながら叫び続ける。「あなたが滝沢家の跡継ぎだから選んだだけ!今じゃ、愛する女に嫌われて――おまけに癌だなんて!」歩実は狂ったように笑う。「報いよ!それがあなたの報いなのよ!」まるで完全に理性を失ったようだった。ICUの中に、彼女の絶叫が響き渡る。やがて医師が鎮静剤を注射する。薬が体に回るにつれ、歩実の抵抗は次第に弱まり、叫び声もゆっくりと途切れていった。それでも、かすかなうめき声だけは耳に残り続ける。白衣の医師や看護師たちが忙しく動き回る。その白い影が、由奈の視界を何度も遮った。由奈はその場に立ち尽くしたまま、ただ一点を見つめている。祐一の背中だった。高くまっすぐな背中。その姿は、どこかこの場所に溶け込めず、ひどく孤独に見えた。その時、祐一がふいに振り向く。そして――由奈と目が合った。その瞬間、祐一はわずかに目を見開いた。だが由奈は何も言
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