All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 471 - Chapter 480

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第471話

明夫がその言葉を口にした瞬間、由奈の背中に冷たい汗がにじみ、白衣の下に着ていたシャツまでじっとりと湿った。やはり気づかれている。彼は、とうに自分の正体を見抜いていたのだ。だが、ここで動揺するわけにはいかない。由奈は必死に平静を装い、静かに問い返した。「……凪紗さんは、あなたのところにいるんですか?」明夫は口元に薄い笑みを浮かべる。「彼女は俺の義理の娘だ。安心しなさい、粗末には扱わない」「それは……東山夫妻が逮捕された件があるから、ですよね」その一言で、明夫の表情から笑みがすっと消えた。由奈は落ち着いた声のまま続ける。「東山家と政略結婚したのは、東山夫妻に罪をかぶらせるためでしたよね?でも――あの二人、娘のことをそこまで大事にしているわけではありません。たとえ凪紗さんを人質に取られても、言われるままに罪をかぶるとは思えません」図星だったのか、明夫の目がわずかに沈んだ。「……本当に頭の回る子だ。昔、あいつらの手から逃げおおせたのも頷ける」そう言いながら、彼は手首の腕時計を指先で触れた。数秒の沈黙のあと、再び口を開く。「だがな――人間は、あまり賢すぎるのも考えものだ」由奈はまっすぐ彼を見据えた。「どうせ、あなたは私を見逃さないでしょう。だったら――あなたと私の間にあるのは、どちらかが倒れるまでの勝負だけです」明夫は意味深な目で彼女を見つめた。しばらく沈黙が続く。そのとき、ドアが開き、紗由理が入ってきた。すると、さっきまで漂っていた明夫の陰鬱な気配は嘘のように消え、彼はゆっくり立ち上がった。「では、池上先生。また改めて伺うよ」それだけ言うと、急ぐ様子もなく部屋を後にした。紗由理が席に戻り、ふと由奈の顔を見る。「池上先生、顔色が悪いけど……どこか具合でも悪いの?」由奈ははっと我に返り、慌てて首を振った。「いえ……大丈夫です。朝ごはんを食べてなくて、ちょっとお腹が空いただけで」「朝食はちゃんと食べないと。胃を悪くするわよ」「はい、気をつけます」その頃。紬は倫也を郊外にあるローズガーデン・ホリデーホテルへ連れてきていた。裏庭の湖畔にある屋外レストランには「本日終了」のプレートが出ている。だが二人はそのまま通される。どうやら貸し切りらしい。席に座る男は、こちらに背を向けていた。脚を組み、淡い色の襟付きニット
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第472話

「……なぜ賭けなんかを?」倫也が眉をひそめると、祐一は静かに言った。「がんが転移したんです。十日後には海外の病院に行って手術を受ける予定ですが――生きて戻れるかどうかはわかりません。それから……俺がここに留まっている理由は、由奈のためだけではなく、もう一人……米林明夫のためでもあるんです」その名前を聞いた瞬間、倫也の表情が険しくなった。「米林明夫が、あの誘拐事件の黒幕だとわかっていたんですか?」「はい」祐一はコーヒーを持ち上げ、ゆっくり口に含んだ。「それだけじゃない。奴にとって命取りになる証拠も、もう手に入れています」倫也は小さく息を吐き、かすかに笑う。「なるほど。だから死んだことにしたわけですか。あの男を油断させるために」肩をすくめる。「でも、本当に彼が信じると思いますか?」祐一は淡々と言った。「周りの人間が信じれば――やつも信じるでしょう」しばらく沈黙が流れた。やがて倫也は立ち上がり、そのまま帰ろうとした。その背中に、祐一が声をかける。「一つだけ頼みがあります」倫也が足を止める。「今日、俺に会ったこと――由奈には言わないでほしい。これも、彼女のためです」倫也は振り返らず、低く言う。「……言われなくてもそうするつもりです」そのまま歩き去った。倫也の姿が見えなくなると、紬は小さく舌打ちしながら祐一のそばにやって来た。「祐一兄ちゃんって、相変わらず落ち着いてるよね。だって今、お義姉ちゃん、あの人の家に住んでるんだよ?」その言葉に、祐一の手がわずかに止まった。指先がきゅっと握られる。だが表情は変えなかった。「俺たちはもう離婚してる。焦ったところで、どうにもならないだろ」紬は目を丸くする。「……本当に離婚したの?」祐一は短くうなずいた。紬は祐一の向かいの席に腰を下ろす。「もう……やり直す余地はないの?」祐一はゆっくりとまぶたを上げた。「もし離婚していなかったら、俺が『死んだ』ことを、きっと両親は彼女のせいにする。今の滝沢家は、ややこしすぎるんだ。由奈を巻き込みたくない」紬は腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。「そのややこしい状況って、真由美さんのことでしょ?あの人、かなり厄介だよ。祐一兄ちゃんが事故で死んだって知らせが海都市に届いた途端、すぐに滝沢グループの株主を囲い込み始めたんだから。しかも奈々美を海外か
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第473話

由奈は慌てて水を差し出した。「ただ聞いてみただけですよ。そんなに驚かなくても……」紬は水を一気に飲み干し、ようやく咳が落ち着く。それから、少し慎重な様子で口を開いた。「……もしかして、あの白石って人が、何か言ったの?」由奈は一瞬、動きを止めた。「どうしてそう思うんですか?」確かに、倫也の言葉で考えさせられた部分はあった。けれど、どうして紬がそこまで察するのだろう。紬は視線を泳がせながら言う。「えっと……実は、今日あの人にも同じこと聞かれたんだよ」「え?いつ?」由奈が問い返すと、紬は目をくるりと回した。「今日さ、ちょっとショッピングモールぶらついてたの。そしたら偶然会ってさ。いきなり祐一兄ちゃんが本当に死んだと思うかって聞かれて……私だってわからないよ?みんな爆発で亡くなったって言ってるし、叔母さんなんてショックで気を失ったくらいだし」由奈は唇を軽く結んだが、特に疑う様子は見せなかった。紬は内心ほっと息をつく。そして少ししてから、遠慮がちに尋ねた。「……その、お義姉ちゃんは……祐一兄ちゃんがまだ生きてるって思ってるの?」由奈は言葉に詰まり、顔をそらして窓の外を見た。「もう離婚したんだから、彼が生きていようが、死んでいようが……私には関係ありません」紬は首をかしげた。「でも、今の言い方だと……結構気にしてるようにも聞こえるけど?」「それは勘違いです」由奈はすぐに話を切り上げるように、料理を紬の皿に取り分けた。「ほら、食べましょう」紬は舌を出して笑い、それ以上は追及しなかった。……食事の途中、紬はウイスキーを注文した。気がつけば、二人ともすっかり酒が回っていた。夜九時。二人は肩を組み合うようにして、ふらふらとレストランを出る。「ねえ、お義姉ちゃん」紬は大きなげっぷをしながら、顔を近づけてくる。「祐一兄ちゃんと……あの白石って人、どっちがいいと思う?」由奈は久しぶりにここまで酔っていた。頭がぼんやりして、足元もおぼつかない。まるで雲の上を歩いているみたいだ。「もちろん――」彼女は笑いながら答える。「白石先生のほうがいいよ」「えっ?」紬は急に立ち止まり、酔いが半分ほど吹き飛んだ顔をした。「まさか本当に、あの人のこと好きになったの?」それじゃ、祐一が可哀想だ。由奈は階段の下でよろめきながら立
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第474話

祐一が由奈をスクエアタワーまで送り届けると、建物の前でうろうろしていた紬がすぐに駆け寄ってきた。「祐一兄ちゃん、お義姉ちゃんは――」言いかけたところで、紬の視線が祐一の首元に止まる。そこには、はっきりとキスマークが残っていた。「……彼女は飲みすぎたんだ」祐一は特に隠そうともせず、車から由奈を抱き上げた。紬は何か思い出したように慌てて前に立ちはだかる。「ちょ、ちょっと待って!このまま抱いて上がるのはまずいじゃない?私たち、今は人の家に居候してるんだし……もしあの人に見られたら――」「もう見られてる」祐一は淡々と言った。紬は一瞬固まり、彼の視線の先を追う。そこには、ちょうど別の車から降りてきた倫也の姿があった。あまりにもタイミングが良すぎる。紬は思わず二歩ほど後ずさりし、息もひそめた。倫也の視線は祐一の腕の中で眠る由奈に落ち、続いて祐一の首に残る唇の跡へと移る。長いまつげがわずかに伏せられ、すぐに淡々と視線を外した。「彼女、あなたの正体を見抜いていたらどうするんです?」祐一は軽く肩をすくめる。「彼女は酔ってます。俺だとは分からないさ」そう言ってから、ふと目を細めた。「由奈は……あなたのところに住んでるんですか?」倫也は答えず、そのまま建物の中へ入っていった。祐一は由奈を抱えたまま後に続く。ようやく我に返った紬も、慌てて走り出した。「ちょっ、置いていかないでよ!」四人がエレベーターに乗り込み、上階へ向かう。……部屋に入ると、祐一は由奈を寝室のベッドにそっと横たえた。靴と靴下を脱がせてやり、毛布を軽くかける。それからドアのところまで戻り、紬に言った。「面倒を見ててやれ」「……うん」紬が部屋に入るのを見届けてから、祐一はリビングへ出た。倫也のほうへ視線を向け、短く言う。「彼女を頼みました」それだけ言うと、すぐに玄関へ向かう。その背中に、倫也の声が落ちた。「ずいぶん余裕ですね。隙をついて彼女を奪うかもしれないとは、思わないんですか?」祐一は軽く手を振った。「白石さんの人柄は信じてます」そう言い残し、部屋を出ていった。……しばらくして、倫也は水を持って、寝室の前まで来た。しばし立ち止まったあと、軽くドアをノックする。紬がドアを開けた。倫也は黙ってグラスを差し出す。「目が覚めたときのために」
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第475話

由奈の頭にある名前が浮かんだ――米林明夫。あの男以外に、こんなことをする人間はいない。由奈はすぐに上着をつかみ、慌ただしく立ち上がって部屋を飛び出した。その背中を紬が追いかけてくる。「お義姉ちゃん!どこ行くの?」しかし由奈は振り返らない。慌てた足取りのままエレベーターに乗り込んでいく。その様子を見送りながら、紬は首をかしげた。少し迷ったあと、スマホを取り出してメッセージを送った。由奈はマンションを出ると、車を走らせながら綾香の電話番号にかけた。だが、何度かけても電源が入っていない。次に、病院へ電話を入れる。当直の看護師が出た。「綾香さんなら、今日は休暇を取っていますよ」その言葉を聞いた瞬間、由奈の胸が冷たく沈んだ――自分のせいだ。この頃、綾香はずっと凪紗の家に住んでいる。自分と関わっていたせいで、目をつけられたのだ。由奈はふと、ある人物のことを思い出した――以前、自分を訪ねてきた森川だ。すぐに彼が残した番号に電話をかける。数コールのあと、森川が電話出た。「もしもし、森川です」「お世話になっております。池上です。友人が……たぶん、誘拐されています。さっき、相手からメッセージが届きました」森川の声が一瞬で緊張を帯びる。彼はすぐ近くにいた部下たちを呼び寄せた。「そのメッセージ、こちらに転送できますか?」「できます。でも……」由奈はハンドルを握りながら言った。「相手は『一人で来い』と言っています。だから、私は先に向かいます」森川はすぐに答えた。「池上さん、相手の指示にはいったん従ってください。できるだけ時間を稼ぐんです。こちらもすぐに向かいます」少し間を置き、さらに続ける。「何より、自分の安全を最優先に。いいですね?」「……わかりました」通話を切ったあと、由奈は深く息を吸い込む。そしてアクセルを踏み込み、車の速度を上げた。三十分後、由奈はメッセージに添えられた住所――埠頭の近くに車を止めた。また、船だ。川辺に来るたび、あの爆発の光景が頭に浮かぶ。由奈は森川へ最後の位置情報を送信した。そのあと、メッセージ履歴と通話記録をすべて削除し、スマホの電源を切った。近くの船から、二人の屈強な外国人が降り、由奈の車の前で立ち止まった。由奈はドアを開けて外へ出ると、すぐにバッグを取り上げられ、徹
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第476話

森川が部下を連れて埠頭に駆けつけたとき、港に停泊していたはずの船はすでに姿を消していた。そこに残っていたのは、由奈の車だけだった。桜井が車の周囲を調べたあと、急いで報告する。「先輩、これ……おそらく池上さんの車です。でも、電話は電源が切られています!」森川は表情を曇らせた。「相手に電源を切らされたんだろうな」そう言うと、すぐに周囲の警官たちへ指示を飛ばす。「この周辺をくまなく調べろ。目撃者がいるかもしれない」しばらくして、女性警官が一人の男性を連れて戻ってきた。「森川さん、この方がこの車の持ち主を見たそうです。船に乗るところを目撃したと」男は五十代ほどで、釣り竿を抱えていた。どうやら釣りが趣味らしい。警察の質問を受けても、どこか要領を得ない様子で答える。「ええ、見ましたよ。今朝、釣りに来たときにはもう、その船が停まってたんです。さっき出ていくのも見ましたけど……あの女性、降りてこなかったんでね。知り合いの船に乗ったのかと思ってました」森川が尋ねる。「あの船を見かけたのは、朝何時ごろです?」「九時半くらいかな。だいたいその時間にここで釣りしてるんですよ。そうそう、ちょっと変だと思ったのは……船に外国人が何人か乗ってたんです。それで印象に残ってて」目撃者は事情聴取を終えると、そのまま帰っていった。森川はすぐに一本の電話をかけ、水上警察署に連絡を入れる。そして数名の仲間をその場に残して周辺の捜索を続けさせ、他の警官たちに水上警察署へ向かうよう指示した。そして森川自身は、一度署へ戻ることにした。……その頃、栄東市の中道家では。秀明のもとに一本の電話が入った。相手の話を聞いた瞬間、彼の表情が一変する。「……わかった」短く答えて通話を切ると、すぐに別の番号へ電話をかけた。「智宏、由奈が米林明夫に連れ去られたそうだ。今すぐ江川市へ向かえ。必ず無事に連れ戻すんだ」電話を切ったあと、秀明はその場で力が抜けたように椅子に座り込んだ。両手で顔を覆い、深く頭を垂れる。爆発事件のあと、中道家の問題に追われ、彼は由奈のことに十分手を回せずにいた。本当は、彼女を石川家へ一度避難させるつもりだった。だが由奈は、江川市で自分の仕事を続けたいと言い、彼もそれ以上は強く止めなかった。――あの時、無理にでも連れ戻していれば。胸に重い後
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第477話

「……今の話、信じていいんですか?」由奈は眉をひそめて言った。以前、亜紀が歩実と手を組んでいたことを思い出すと、どうしても彼女の言葉をすぐには信じられなかった。亜紀は淡々と由奈を見つめる。「別に、信じなくてもいいわ」表情一つ変えずに続けた。「言うべきことは、もう全部言ったから」そう言い残すと、亜紀はそのまま部屋を出ていった。由奈は眉間にしわを寄せたまま、彼女の言葉を何度も頭の中で反芻する。――逃げるか、逃げないか。結局は、賭けるしかない。……亜紀は外国人のボディーガードとともに廊下を進み、広いホールへと出た。そこでは明夫と健斗が食事をしている最中だった。健斗は明夫に対して警戒し、どこかぎこちない様子だった。これまで彼は、自分には母親しかいないと思い、父親や祖父がいるなど、考えたこともなかった。亜紀は健斗をじっと見つめる。すぐに、彼が歩実の息子だと察した。彼女は歩み寄り、椅子を引いて腰を下ろす。「まさか、この子を連れてきたとはね」明夫は健斗の皿に料理を取り分けながら、ふと顔を上げた。「……あの子に会いに行ったのか?」亜紀は一瞬だけ言葉に詰まる。だがすぐに、軽く笑って肩をすくめた。「何よ。あの子は私の姪なんだから。叔母として、少しくらい様子を見に行ったっていいでしょ?」「まさか、情が湧いたのか?」明夫は意味ありげに彼女を見つめる。「なんと言っても――あの子は秀明の娘だからな」亜紀はふっと笑みを消した。「……だったら何?別に私の娘じゃないから」明夫は何も言わず、ただ薄く笑った。大人たちの会話に、健斗は口を挟めずにいた。やがて食事を終えると、明夫が優しく彼の頭を撫でる。「健斗、そこのおじさんと遊んでおいで。欲しい物があったら、何でも言ってね」健斗はこくりと頷き、ボディーガードに手を引かれて部屋を出ていった。明夫はテーブルの上のナプキンを取り、口元をゆっくり拭う。「秀明にはもう知らせておいた。娘のこととなれば……あいつも姿を現すだろう」亜紀の表情が、一瞬だけ固まる。無意識に指先が強く握り締められたが、何も答えない。明夫はその様子をじっと観察し、くすりと笑った。「お前のおかげでわかったんだ。秀明が大事にしている娘が――昔のあの少女だったってな」亜紀は作り笑いのまま、彼を見返す。だが、それ以上の反応は
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第478話

「由奈!しっかりしろ!」「勝手に死ぬな、目を開けてくれ!」その声に突き動かされるように、由奈ははっと目を開けた。耳の奥に残っていた声は、次第に遠ざかっていく。視界がはっきりしてくると、そこは病室だった。消毒液の匂い、白いシーツ、静かな機械音――馴染みのある病院の空気に包まれ、胸の奥に張り詰めていた不安がゆっくりとほどけていく。額に巻かれたガーゼに触れながら、由奈はゆっくりと体を起こした。そのままベッドを降りようとした瞬間――「由奈!」病室の外に現れた智宏が、慌てて駆け寄ってきた。「まだ怪我してるんだから、ちゃんと横になってないと」そう言いながら、由奈の体を支えてベッドへ戻す。由奈は彼を見上げた。「……お兄さん?」そして、少し迷うように尋ねる。「私を助けてくれたのは……お兄さんだったんですか?」智宏は眉をひそめた。「……そうだよ。もしかして頭を打ったせいで、覚えてないのか?」そう言ったあと、ふっと表情を引き締める。「それより――本当に無茶をしたね。一人で米林明夫に会いに行くなんて、命がいくつあっても足りないのに」由奈は視線を落とす――昨夜見た人影は智宏じゃない気がする。それに、かすかに聞こえた声も……「……ごめんなさい」とにかく、今は素直に謝るしかなかった。自分が状況を甘く見ていたのは、事実だったからだ。智宏はため息をついた。「本当に、無事でよかった。もしあなたに何かあったら……僕、お父さんとお母さんに顔向けできない」「次はもっと慎重に動きます」「次?」智宏は椅子に腰を下ろし、きっぱりと言い切った。「次はない。これからお父さんも僕も、あなたのわがままをもう許されないから」そう言って、彼はドアの方へ声をかけた。「藤堂、入ってくれ」ほどなくして、駿介が顔を出す。いつも通りにこにことした笑顔で言う。「坊ちゃん、お嬢様、お呼びでしょうか」智宏は由奈の方を見て言った。「今日から、藤堂があなたのボディーガードだ」その瞬間、駿介の笑顔がぴたりと固まる。「え?坊ちゃん、それはさすがに急すぎません?一言くらい、先に知らせてくれてもいいじゃないですか」智宏は平然と答えた。「今、知らせただろ」「いやいや、今のは完全に『はいどうぞ』って私を引き渡しただけですよ」駿介はぶつぶつと不満をこぼす。「私、物じ
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第479話

その頃、江東区の漁村。亜紀は化粧台の前に座り、鏡を見ながら口紅を塗っていた。そのとき、突然ドアが勢いよく開く。ボディーガードが二人入ってくると、すっと左右に分かれて道をあけた。その奥から、重い足取りで明夫が部屋へ入ってくる。亜紀は口紅をテーブルに置き、何事もないように微笑んだ。「そんな怖い顔してどうしたの?何かうまくいかないことでもあった?」明夫は彼女の背後で立ち止まる。椅子の背に手を置き、ゆっくりと身をかがめて――鏡越しに彼女を見つめた。「……聞くことが違うだろう」亜紀の笑みがわずかに固まる。鏡の中で彼と視線がぶつかった。「どういう意味?」明夫の指が、ゆっくりと彼女の首筋をなぞる。「お前の姪が逃げて、大騒ぎになってるんだ。お前が知らないはずがないだろう」その声は静かだったが、冷たい怒りが潜んでいた。「それなのに、最初に出てくる言葉がそれか?」言い終えると同時に――彼は何の前触れもなく、亜紀の首を強く掴んだ。「っ……!」首の圧迫感に、亜紀は激しく抵抗する。必死にもがき、なんとか彼の腕を振りほどいた。「あなた正気?いきなり何をするのよ!」次の瞬間――パァン!鋭い音が部屋に響いた。亜紀の体は勢いよく化粧台に倒れ込み、テーブルの上の化粧品が床へ散らばる。頬を押さえたまま、彼女は呆然としていた。そして、信じられないものを見るように明夫を見上げる。「……今、私を殴ったの?」明夫は何も言わず、彼女の髪を掴んだ。そのまま顔を化粧台へ押しつけ、鏡に映る彼女の惨めな姿を無理やり見せつける。彼の目には、剥き出しの怒りが宿っていた。「俺が今までどれだけお前に金をかけてきたか、知ってる?不自由ない暮らしをさせて、どんなわがままも聞き入れてきた。それなのに――俺を裏切るのか?」さらに声を荒げる。「昔、お前がしたことを忘れたのか?あの時、俺が整形手術の金を出して海外へ送り出してやらなかったら……石川家も中道家も、お前をなぶり殺してただろう!」亜紀の顔は痛みで青ざめていた。だが、ここまで来れば、もはや取り繕うつもりもない。彼女は鼻で笑った。「よくそんなことが言えたわね。整形したあとの私の顔――誰に似てるか、あなたが一番よく分かってるでしょ?」声には、あからさまな嘲りが混じる。「私の意思なんて、一度でも聞いたことが
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第480話

「前に警察です!」運転手が叫んだ。「そのまま突っ込め」車が検問に差しかかり、明夫はゆっくりと窓を下ろした。警官が車に近づこうとしたその瞬間、明夫は拳銃を取り出し、発砲した。バンッ!銃声が響く。不意を突かれた警官は胸を撃たれ、その場に倒れ込んだ。他の警官たちが状況を理解する前に、明夫は続けざまに三発、引き金を引いた。その隙に車は検問を突破し、脇道へと逃げ込む。車内の空気は凍りついていた。誰もが顔色を失っているが、明夫だけは、まるで何も感じていないかのように平然としていた。その静けさの奥には、むしろ狂気に近いものもあった。命を投げ出す覚悟の――狂気。そのとき、前方の十字路に、一台の大型トラックが現れた。運転手はとっさにハンドルを切るが、避けきれず――ドンッ!車は路肩の標識に激突した。トラックのドアが開き、作業着姿の男が降りてきた。帽子とマスクで顔はほとんど見えない。だが背筋はまっすぐ伸び、体つきも引き締まっている。見たところ、まだ若い男だ。明夫は苛立った様子で車から降り、銃口をその男に向けた。男はすぐに両手を上げる。その瞬間――遠くからサイレンの音が近づいてきた。警察車両が次々と現場に到着し、事故車を包囲する。車の中から、負傷したボディーガードがよろよろと降りてくる。そしてその場にしゃがみ込み、両手を頭の上に置いた。明夫は咄嗟に作業着姿の男の腕をつかみ、自分の前へ引き寄せると、銃口を男の首筋に押しつけた。「これ以上近づくな!一歩でも動けば、こいつを撃つ!」森川はすぐに手を上げ、周囲に合図を送った。警察たちが一斉に動きを止める。「米林さん……」森川はゆっくりと前に出て、静かに呼びかける。「もうやめましょう。これ以上罪を重ねる必要はありません。今ならまだ引き返せます」「引き返せる?」明夫は鼻で笑った。「母が死んだあの日から、俺に引き返す道なんて残ってなかった。引き返すつもりもなかった!」「違うんです。あなたにはまだ息子と孫がいます。何もかも失ったわけじゃない」その言葉に、明夫は嘲るように笑った。「バカ言うな!お前たちに捕まえられたら、どうせ死刑だ。ただ一つ心残りがあるとすれば……昔の借りを、まだ全部清算できてないことだな」苦笑が浮かぶ。「まあいい。どうやら今回は神様が俺の味方じゃ
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