All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 481 - Chapter 490

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第481話

由奈は二日後に退院し、智宏とともに亜紀の葬儀に参列した。だが、葬儀に姿を見せた人は驚くほど少なかった。会場にいたのは秀明と智宏、そして亜紀の秘書を含めて、わずか数人ほど。亜紀の実家である石川家の人間の姿は、ほとんど見当たらなかった。亜紀がいったい何をしたのか――石川家の人々がここまで距離を置く理由を、由奈は知らない。それでも、彼女が亡くなったにもかかわらず、弔ってくれる家族がほとんどいないという現実を目の当たりにして、胸の奥にやりきれない思いが広がった。墓地を出ると、駿介が車のそばへ歩み寄り、後部座席のドアを開けた。「由奈」声をかけたのは秀明だった。「これまで、私たちと過ごす時間が少なかったのは事実だ。だから、何かあっても頼りづらいと思うことがあるのかもしれない。でもね――家族というのは、頼るものなんだよ。私たちは、頼られて迷惑だなんて絶対に思わない。だから、安心してほしい」思いがけない言葉に、由奈は一瞬、言葉を失った。秀明の真剣なまなざしを見ているうちに、胸の奥に小さな後ろめたさが芽生える。中道家とは、切っても切れない血のつながりがある。それでも二十年以上、離れ離れで生きてきた。由奈にとって、これまで「両親」といえば文昭と久美子だった。自分が池上家の子ではなく、本当の両親が別にいると知ったとき――再会の喜びは、確かにあった。けれど同時に、どうしても拭えない遠慮が残った。中道家で育ったわけではない自分が、もし厄介ごとを持ち込んだら――実の両親は、迷惑に思うのではないか。そんな不安が、心のどこかにずっと残っていた。「お父さん、ごめんなさい。私……」言いかけた由奈の言葉を、秀明はやさしく遮った。「娘が、父親に謝る必要なんてないよ」そう言って、軽く背中を叩く。「むしろ謝るべきなのは私の方だ。中道家はいま、少々事情が込み入っていてね。ゆっくり君と過ごす時間も取れず、不安な思いをさせてしまった」由奈は首を振った。「いえ、これは私の問題なんです。嫌われたらどうしようって、勝手に思っただけで」秀明は表情を引き締めた。「自分の子どもを疎ましく思う親なんていないさ。少なくとも、私と君の母親は絶対にそんなことはしない」その言葉に、由奈はようやく安心したように微笑み、うなずいた。車に乗り込んだあと、秀明がふと思い
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第482話

その後、なぜか花織は長女の美羽、そして三男の靖彦と手を組むようになった。最近、美羽は海外にいる夫と離婚騒動を起こし、子どもを連れて中道家へ戻ってきた。そして花織と結託し、秀明の会社や、さらには石川家にまで手を伸ばそうとしているらしい。理由は単純だった。いまや石川家は、かつての勢いを失っている。一方で秀明は、自分の会社を切り盛りしながら石川家の面倒まで見ている状態で、すべてに手が回らない。そのうえ秀雄と、美雪の立場もまだはっきりしない。味方なのか敵なのか――どちらにも転びかねない。「つまり今の私は、敵に挟み撃ちにされている状態というわけだ」秀明は苦笑まじりにそう結んだ。話を聞き終えた由奈は、思わず言葉を失う。中道家の事情が、想像していたよりずっと複雑で、誰が聞いても頭が痛くなるような話だった。由奈の表情が曇ったのを見て、智宏がすぐに口を開いた。「大丈夫だよ。そのへんは、僕がなんとかするから」あまりにさらりと言うものだから、秀明は鼻を鳴らした。「簡単に言うがな。君の叔父さんや叔母さんは、誰一人一筋縄じゃいかないんだぞ」そして思い出したように付け加える。「そういえば、美羽が、君の縁談まで勝手に決めたらしいな。君のおじいさんも承知したとか聞いたが……どうするつもりだ?」その言葉に、由奈は思わず智宏を見た。――縁談?智宏はわずかに眉をひそめたが、表情はほとんど変わらない。「僕の結婚を、あの人たちに決められる筋合いはありません」……その後、秀明が江川市に残り、智宏はさらに数日ほど滞在してから栄東市へ戻っていった。由奈にとって、秀明と二人きりで過ごすのはこれが初めてだった。最初は少しぎこちなかったが、秀明が智宏の幼い頃のいたずら話や、若いころの妻との思い出をあれこれ語ってくれたおかげで、父娘の距離は少しずつ縮まっていった。冬の江川市は、海都市ほどの厳しい寒さではない。それでもある日、空からちらちらと雪が舞った。もっとも、地面に積もるほどではない。白い雪の欠片は、触れる前に静かに溶けていく。その間も由奈は、何度か警察署を訪れては凪紗と綾香の行方を尋ねた。だが、進展はなかった。その日も、結果を聞いたあと警察署のロビーを出たところだった。ふと遠くの駐車場を見ると、森川が一人の男と話しているのが目に入った。男
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第483話

少し離れた場所で、祐一は車内から窓越しに由奈を見つめていた。ガラスに映る彼の横顔――その半分には、焼けただれた痕が残っている。近くで見れば、肌の色の違いはより一層はっきりと分かるだろう。冷たい風の中に立つ由奈の姿は、どこか頼りなく見えた。細い肩が、寒さに耐えるようにわずかに縮こまっている。その姿が、祐一の胸を締めつける。今すぐ車を降りて、彼女のもとへ行きたい――そんな衝動が込み上げる。「社長、そろそろ出発の時間です。斉藤さんからも急かされていまして……」運転手が振り返って言った。祐一はかすれた声で答える。「……ああ」車はゆっくりと動き出した。そして、由奈の目の前を静かに通り過ぎていく。たった一枚のガラスを隔てて――二人はすれ違った。……一年後。ナノ医薬品の研究プロジェクトが、ついに初めての実用化に成功した。正式な上市は、明日。その前夜、盛大な祝賀パーティーが開かれていた。会場には医療業界の重鎮たちが顔をそろえ、さらに多くの資本家や企業関係者も姿を見せている。本来ならアンデル教授も出席するはずだったが、海外にいるため参加できない。そのため今回の主催は、恭介が務めることになった。壇上でのスピーチを終え、会場が拍手に包まれる。続いて、歓談の時間へと移った。壇を降りた恭介は、由奈を自分の隣に呼び寄せた。「皆さん、こちらが以前お話しした私の教え子、池上由奈です」紹介され、由奈は丁寧に頭を下げる。「池上由奈……どこかで聞いた名前だな」一人の年配医師が首をかしげる。だが、すぐ別の人物が笑いながら口を挟んだ。「白石先生が目をかける学生なんです。ただ者じゃないに決まってますよ」由奈は慌てて首を振った。「そんな……とんでもないです。今の私があるのは、すべて先生のおかげです」その控えめな答えに、恭介は思わず笑った。やがて話題は、倫也の結婚の話へ移っていく。恭介は少し困った顔をしたが、そこへ皐月が歩み寄ってきた。「倫也の結婚の話なら、まだまだ先ですよ」穏やかな笑みを浮かべて言う。「まだ気に入った相手がいないんですか?」誰かが冗談めかして尋ねる。皐月はちらりと由奈の方へ視線を向け、柔らかく微笑んだ。「気に入るだけじゃダメですからね。倫也にふさわしい相手でないと」そして続ける。「そういえば、蒼井家のお嬢
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第484話

恭介の秘書が千代のそばへ歩み寄り、耳元で何かをささやいた。それを聞いた千代は、ようやく顔を上げると、恭介たちのほうへ向かって歩き出す。一方、由奈は黙ったままだった。千代が自分をどう思おうと、特に気にする様子もない。やがて千代が壇上に立つ番が来る。まずはナノ医薬品の研究成果に対して祝辞を述べ、会場の空気が落ち着いたところで、ふいに言葉を続けた。「プロジェクトの今後の協力についてですが――滝沢家は、白石家と共同で進める予定です。ただし、ひとつ条件があります」その一言で、会場がざわめいた。さすがは滝沢家の人間。白石家が仕切るこの宴席で、堂々と条件を突きつけるとは――恭介は千代を見据え、眉をひそめた。「千代さん、その条件とは?」千代はわずかに顎を上げ、はっきりと言い放つ。「池上由奈を、このプロジェクトから外してください」一瞬で、会場中の視線が由奈へと集まった。事情を知らない者は、彼女が滝沢家に何か不興を買ったのかと首をかしげる。だが事情を知る者は、誰もが胸の内で同じことを思っていた。――彼女は、祐一の元妻だ。恭介の眉間のしわがさらに深くなる。やはり、こう来たか。倫也は思わず前へ出ようとした。だが、その腕を皐月がそっと押さえて止める。滝沢家の問題に、この場の誰も軽々しく口を挟みたくはないのだろう。まして赤の他人のために、千代の機嫌を損ねるのは得策ではない。気まずい沈黙が会場に落ちた。しばらくしてから、恭介が低い声で口を開く。「千代さん……個人的な確執を、この場で公にするのは、少々ふさわしくないのでは?」千代は軽く鼻で笑った。由奈に一瞥を投げ、それから再び恭介へ視線を戻す。「では、後ほど改めてお返事をお伺いします」宴の終わりを待つこともなく、千代はそのまま席を立った。――その瞬間から、会場の空気が変わった。由奈は一気に注目の的になる。本来なら和やかに進むはずだった宴席も、どこか気まずく白けた空気に包まれた。結局、進行は中断され、しばし休憩が入ることになった。……控室のドアが開き、紬が中へ入ってきた。まだ怒りの収まらない様子の千代を見ると、そっと歩み寄る。「叔母さん……さすがに少し言い過ぎじゃありませんか。あれは祐一兄ちゃん自身の選択で、池上さんと――」「もういい」千代の鋭い声が、
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第485話

「分かりました」皐月はかすかに微笑むと、そのまま控室を後にした。……控室を出た皐月は、宴会場の入り口付近で倫也と鉢合わせる。一瞬だけ表情が揺れたが、すぐに何事もない顔を作り、歩み寄る。「倫也、どうしてここに?」倫也の表情は冷ややかだった。「千代さんを招待したのは、お母さんですか」皐月は答えない。その沈黙が、何よりの答えだった。「どうしてです?」倫也はまっすぐ彼女を見つめる。その目に、一瞬だけ失望の色がよぎった。皐月は視線をそらし、手をきつく握りしめる。「……あなたと池上さんのことを、見過ごすわけにはいかないの。あの子は、あなたにはふさわしくないわ」「ふさわしいかどうかは、私が決めることです。あなたとは関係ありません」「けど私はあなたの母親よ」その言葉に、倫也の声がわずかに低くなる。「母親、ですか……では、私が誘拐されたとき――あなたたちは、親として責任を感じましたか?」押し殺した怒りが、言葉の奥ににじんでいた。その一言は、皐月の胸を鋭く刺す。「……倫也」「どうしてこんなやり方で問題を解決しようとしているのか、よくわかりません」倫也の声は抑えられていたが、不満ははっきり伝わってくる。「私の恋愛は自分で決めていい、かつてはそう言ってくれましたよね。なのに彼女だけは選んではいけない。それは……彼女が滝沢社長の元妻で、お母さんが好きだった人が、彼女のお義父さんだったからですか?」皐月の指がわずかに強くなり、バッグの紐が軋んだ。「……黙りなさい!」自分の感情が揺れたことに気づき、皐月は深く息を吸い込んだ。「もうその話をしないで」息子とこれ以上言い争う気にはなれず、彼女はそのまま足早に立ち去った。一方その頃、由奈は恭介に声をかけた。「先生。事情は理解しています……先生を困らせたくありません」そして、きっぱりと続けた。「私はプロジェクトを抜けます」恭介はわずかに目を見開いた。しばらく沈黙し、視線を落とす。「……君は、怒ってもいいのにな。ヤクモヘルスグループの技術は、我々の研究にとって重要だ。もし君を残せば、他の研究者たちが研究を続ける機会を失うかもしれない。だから……決断ができなかった」由奈は、あっさりとうなずく。「分かっています。私は自分の意思で抜けると決めました」恭介が何か言おうとしたとき
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第486話

「……いつ頃、戻るつもりですか」倫也が低く尋ねた。由奈は視線を落とす。「さあ……状況次第ですね。どうせこの手じゃ、もうメスを握ることはできませんし。いっそ、仕事を変えてみても悪くないかもしれません」倫也は何も言わず、唇をきつく結んだ。……宴会場を後にした由奈のスマホが鳴った。画面に表示された名前を見て、彼女は通話ボタンを押す。「もしもし」電話の向こうから、智宏の明るい声が響く。「由奈、今は祝賀パーティーの最中だろ?おめでとうって言おうと思ってさ」だが話しているうちに、彼は気づいた。受話器の向こうの由奈が、ほとんど口を開かないことに。「……由奈?どうしたんだ」由奈ははっと我に返り、慌てて目元を拭う。「ううん、なんでもありません。ちょっと……目にゴミが入っただけ」「宴会場なのに……ゴミ?」言いかけてから、智宏はふと何かに気づく。「……誰かに何か言われたのか?」「いえ」「由奈。僕にまで隠し事?」しばらく沈黙が続く。そして――「……お兄さん。私、家に帰りたいです」由奈は長いこと、「家」と呼べる場所に戻っていなかった。智宏はそれ以上追及しなかった。胸の奥が、鈍く痛む。「分かった。藤堂に迎えに行ってもらう」「うん……ありがとう、お兄さん」通話を切ると同時に、智宏はすぐ別の番号へ電話をかけた。相手は、祝賀パーティーに出席している部下だった。宴で何があったと聞くと、部下は少し言いよどみながら答える。――千代が由奈を公然と追い詰め、プロジェクトから追い出したと。話を聞き終えた智宏の顔は、次第に暗く沈んでいった。「……滝沢家と取引している子会社はあるか?」「はい。栄東市に二社あります」「その二社――滝沢家との提携をすべて解消しろ」電話の向こうで、相手が思わず息をのむ。「ですが、それでは中道グループにとって不利になるのでは……」「中道家が、滝沢家と組まなきゃいけない理由はない」数日後。中道グループは一方的に滝沢グループとの提携解消を発表し、滝沢グループの株もすべて手放した。その知らせを聞いた真由美は、オフィスで激しく机を叩きつけた。「どうしてこのタイミングで中道家が手を引くのよ!」秘書は慌てて頭を下げた。「その……千代様が関係しているのではないかと……」「お義姉さん
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第487話

「聞いた?池上先生、辞めたらしいよ」「え、うそでしょ。どうして急に?」休憩室で薬の準備をしていた看護師たちが、ひそひそと噂話に花を咲かせていた。一人の看護師が廊下の様子をちらりと確かめ、小声で続ける。「滝沢家を敵に回したから、仕方なく辞めたって聞いたけど……」「本当?なにそれ、詳しく教えてよ!」そのとき、ちょうど廊下を通りかかった裕人が、休憩室から聞こえてきた会話に足を止めた。扉の陰でしばらく耳をそばだてていたが、やがて顔色を変え、そのまま倫也の執務室へ一直線に向かう。「白石先生!」倫也は書類に目を落としたまま、顔も上げない。「池上先生が辞めたって、本当ですか?」「ああ」あまりにもあっさりした返事に、裕人は目を丸くした。「ああって……それだけ?白石先生、池上先生のことが好きなんじゃないですか?なのに、どうして――」その言葉を遮るように、倫也がゆっくり顔を上げた。「好きだからって、引き止める理由にはならない」その言葉を聞いた裕人は、ますますやりきれない顔になる。「まったく……あなたって人は……」吐き捨てるように言うと、彼は苛立った足取りで部屋を出ていった。一人残された倫也は、書類の山の下から一枚の紙を取り出す。――異動申請書。相手のことが本当に好きなら、縛るのではなく、近づくのだ。その頃、空港。由奈はVIPラウンジのソファに腰掛け、静かに搭乗を待っていた。彼女は淡い緑のワンピースをまとい、足には白いショートヒールのブーツ。長い髪は後ろでまとめられ、凛とした気品を漂わせている。「ママ、あのお姉さん、すごくきれい!」背後の席から、幼い声が聞こえた。振り返ると、女性の膝に、四、五歳くらいの女の子が座っている。由奈は微笑んだ。「ありがとう。あなたも、とても可愛いよ」そう声をかけると、女の子はぱっと頬を赤くし、母親の胸に顔を隠してしまった。その様子に、由奈はくすりと笑う。改めて母親を見ると、三十五、六歳ほど。整った顔立ちに、落ち着いた気品をまとっている。着ている服は有名ブランドではなさそうだが、生地が上質なのが一目でわかる。女性は由奈に視線を向け、やわらかな笑みを返す。「そのワンピース、とても素敵ですね」「ありがとうございます。こちらはお嬢さんですか?」「ええ。リリっていうん
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第488話

駿介は一瞬、言葉に詰まった。「それが……どう説明したものか……あまり詳しく話すと、坊ちゃんに給料を差し引かれそうでして」由奈はくすりと笑う。「差し引かれた分なら、私が出してあげます。だから話して」その言葉に、駿介はにやりと口元を緩めた。「それなら、ありがたく。お嬢様、旦那様からお聞きかもしれませんが、中道家の事情は少々複雑でして」車を走らせながら、彼は続ける。「お嬢様の祖父、信三様には、娘が二人、息子が四人いらっしゃいます。旦那様――秀明様は、次男なんです」駿介の話によると、信三の最初の妻が亡くなったあと、彼は二十五歳も年下の若い妻を迎えた。その女性――花織が産んだのが末の息子、徹也だ。年齢は智宏と三歳しか離れていない。徹也が生まれてからというもの、信三は遺言を三度も書き換えた。本来、上の兄弟たちに分配されるはずだった資産の一部を、徹也と花織側へ回したのだ。その決定がきっかけで、兄弟の間には大きな溝が生まれた。考え方の違いが、決定的な対立へと変わってしまったのである。由奈は静かに頷いた。「その話なら、父からも聞いています。今は花織さんが、美羽さんと靖彦さんを味方につけたんでしょう?」少し考えてから、続ける。「それに……美羽さん、最近海外のご主人と離婚でもめているとか。娘さんを連れて中道家に戻ってきて、石川家にも何か働きかけているって聞きました」駿介は感心したようにうなずく。「さすがお嬢様、よくご存じで」だからこそ――今、智宏と秀明は休む暇もなく動き回っているのだ。由奈は窓の外を見ながら、ふっと息をついた。でも……自分には、まだ何の力にもなれていない。そんな思いが胸をかすめる。やがて車は、とある高級料理店の前で止まった。駿介が先に降り、案内する。「こちらです。栄東市では有名な老舗でして。中道家の系列なんですよ」店内は落ち着いた高級感に満ちていた。二人が入ると、フロントのマネージャーが駿介の姿に気づき、すぐさま歩み寄ってくる。「藤堂さん!お久しぶりですね。最近はお忙しかったんですか?」駿介は手をひらひらと振った。「まあね。今日はうちのお嬢様を例の席に案内してくれ」「お嬢様……?」マネージャーは由奈を見て、きょとんとする。中道家の「お嬢様」といえば、これまで聞いたことがある
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第489話

駿介は目を見開く。「秀雄様のお客様……ですか?」由奈は駿介に静かに言った。「私、栄東市に戻ったばかりですし、周りに迷惑をかけたくないんです。普通の席で大丈夫ですよ」駿介は何か言いかけて、結局口をつぐんだ。「……わかりました」マネージャーはほっとした様子で微笑み、二人を比較的にゆったりした席へ案内する。同じ頃、二階の個室。扉の前には二人のボディーガードが立ち、静かに待機していた。お菓子を載せたトレーを持った店員がノックして中へ入る。部屋の奥、仕切りの向こうに、男の後ろ姿がぼんやりと見えた。「奈々美さんが、あの写真を手に入れたそうです。あなたが生きているかもしれないと知った以上、真由美さんも、しばらくは落ち着いて眠れないでしょうね」そう言ったのは、男の傍らに立つ女――麗子だった。以前のきびきびしたショートヘアは伸ばされ、艶のある黒いロングヘアに変わっている。装いは相変わらず端正で無駄がなく、落ち着きを感じさせた。そして、静かに茶を味わっている男――言うまでもなく祐一だった。グレーのスーツに身を包み、ベストが引き締まった腰のラインを際立たせている。袖口からのぞく腕時計が、冷たい光を放っていた。祐一は指先でカップの縁を軽くつまみ、立ちのぼる茶の香りを確かめる。湯気の向こうに浮かぶ横顔は、以前と変わらない冷ややかな輪郭。だが――どこか、かつてとは違う雰囲気をまとっていた。祐一はわずかに目を伏せ、琥珀色の茶へ視線を落とす。「俺が生きているかもしれない――その情報だけでも、彼女を十分に動揺させられるだろうな」そう言ってから、ふと話題を変えた。「それより、TOテックの買収はどうなっている?」麗子はすぐに答える。「現在、交渉中です。おそらく……明後日には結果が出るかと」祐一は何かを考え込むように沈黙し、ゆっくりと茶を口に含んだ。そのとき。廊下の奥から聞こえてきた声が、ふいに彼の意識を引き戻す。「さっき一階にいたあの美人、本当に智宏さんの妹さんなの?」「私も初めて聞いたわ。中道家にあんなお嬢様がいたなんて」「藤堂さんが言ってたんだから、間違いないでしょ」どうやら店員たちが噂話をしているらしい。祐一がいる個室の扉が開いていることに一人の店員が気づき、慌てて扉を閉めた。部屋は一瞬で静まり返る。
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第490話

その日の夜、由奈は久しぶりに家族と食卓を囲んだ。食事のあいだ、恭子はずっと由奈の皿に料理を取り分けている。美味しそうなものが出てくるたび、迷わず娘の前へ。「ゆうちゃん、もっと食べなさい。たくさん食べて、早く大きくならないとね」由奈は思わず笑みをこぼし、素直に頷いた。「うん、ありがとう、お母さん」その隣では、秀明が恭子の皿に料理を取り分け、彼女が食事するのをサポートしていた。「うちのゆうちゃんは、もう十分大人だよ。心配しなくてもいい」恭子は軽く彼の手を押し戻し、少しだけ頬をふくらませた。「自分で食べられるわよ。ゆうちゃんが見てるんだから」「はいはい」秀明は苦笑しながらも、彼女の言うことには素直に従う。由奈はその様子を見つめながら、どこか子どものように嬉しそうな母の顔に目を細めた。そして、ふと智宏の方へ顔を向ける。「お兄さん……お母さんの具合、どうですか?少しは良くなりましたか?」智宏は静かに答えた。「ときどき正気に戻ることはある。でも、長くは続かないんだ。ただ、薬のおかげで状態は落ち着いているよ」由奈は目を伏せた。何か考え込むように、しばらく言葉を失う。……夕食のあと。使用人に案内され、由奈は自分の部屋へ向かった。そこは、ヨーロッパの宮廷を思わせる優雅な寝室だった。恭子が娘を恋しがる気持ちを少しでも和らげようと、秀明が自ら設えたものだ。何十年ものあいだ誰も住んでいないが、ずっと丁寧に手入れされてきた。由奈は荷物を片付けると、バルコニーへ出た。山の中腹に建つ青ヶ丘の邸宅。高台にあるため、眼下には街の灯りが広がっている。夜風が涼しく、遠くのビル群のネオンまで見渡せた。そのとき、スマホの画面が、ふっと光る。メッセージだった。差出人は見覚えのない番号。何気なく開いた瞬間――由奈の動きが止まった。そこに添付されていたのは、一枚の写真。写っている男の顔を見た途端、彼女は息を呑む。見慣れているはずなのに、どこか遠い。懐かしく、そして――信じられないほど、よく知っている顔。由奈はしばらく、画面を見つめたまま動けなかった。……翌朝。あの写真のせいで、由奈はほとんど眠れなかった。だが秀明は、娘が慣れない環境で眠れなかったのだと思ったらしい。「今夜は、恭子が普段使っている安眠効果のあ
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