All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 491 - Chapter 500

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第491話

美羽は、由奈の言葉の裏に込められた意味を察したのか、たちまち顔をしかめた。「……それ、どういう意味?私が心の狭い人間だって言いたいわけ?」その場の空気がぴりりと張り詰める。すると、秀明がふっと笑った。「由奈の言うことも、別に間違っちゃいないだろう。姉さん、普段から贈り物を受け取るのには慣れてるみたいだし……それなりに『うまい汁』も吸ってるんじゃないのか?」美羽の顔色が、さっと曇る。「話をすり替えないでよ」「姉さんが手土産の話にこだわるから、聞きたくもなるだろう?」秀明の口調はあくまで穏やかだった。だがその奥には、かすかな鋭さが潜んでいる。「それに――」彼は一瞬、声を低くした。「私の娘のことを、とやかく言われる筋合いはない」由奈は横で黙ったまま、静かに周囲の様子を観察していた。一人ひとりの表情が、微妙に揺れる。この家の人間は、皆どこか仮面をかぶっているようだった。同じ血を分けた家族のはずなのに――妙に温度がない。……利益の前では、家族の情なんて紙みたいに薄くなるものだろうか。胸の奥で、そんな思いがかすかに揺れる。一方で、智宏はカップを持ち上げ、静かに茶をすすった。まるでこの空気をまったく気にしていないかのようで、むしろ、こうなることを最初から予想していたような落ち着きだった。そのとき、ずっと黙っていた男――秀雄が口を開いた。「相変わらずだな、秀明。口が減らない」半分冗談のような調子だった。「褒め言葉として受け取っておくよ」秀明は軽く笑う。秀雄は中央に座る信三へ視線を向けた。「お父さん。秀明が娘を見つけるまで、ずいぶん苦労したようです。この子も智宏と同じ、れっきとした中道家の血筋。どうされますか?」信三は、ゆっくりとカップを置いた。彼はすぐには答えず、由奈をじっと見つめた。「名前は由奈、だったな」低く落ち着いた声だが、威厳を帯びている。「恭子によく似ている。秀明がこれほど庇うのも無理はないな」わずかな間を置き、続けた。「中道家に戻った以上、私たちは家族だ。数日後に、お祝いの宴会でも開こう」由奈は一瞬、意外そうに目を瞬かせた。だがすぐに小さく頭を下げる。「ありがとうございます」「宴会」という言葉を聞いた美羽は、露骨に不満げな顔をした。とはいえ、その場で口を挟むことはせず、ただ大きく白目をむいて
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第492話

帰りの車内で、秀明は声を上げて豪快に笑った。「君が緊張して固まるんじゃないかって心配してたんだぞ。まさかあんなふうに、逆に場を仕切る側に回るとはな」由奈は父の腕に軽く腕を絡め、いたずらっぽく笑う。「お父さんとお兄さんの顔に泥を塗るわけにはいきませんから」「私たちは図太いから、多少のことじゃ恥もかかんさ」その言葉はつまり――たとえ由奈が何か失敗しても、父と兄が必ず守る、という意味だった。由奈は目を伏せた。胸の奥が、じんわりと温かくなる。よかった。父も、母も、そして兄も、本当に自分を愛してくれている。その事実が、静かに心を満たしていった。ふと思い出したように、秀明が言う。「そうだ。由奈の『お帰りなさい会』は、どうせなら盛大にやろう。智宏、段取りは君に任せた」「分かりました」智宏は短くうなずく。「すぐホテルに連絡して、特別メニューを組ませます」そして視線を由奈へ向けた。「何か希望があれば遠慮なく言って。主役はあなたなんだからね」由奈は少しだけ唇を引き結んだあと、静かに答えた。「特にありません。でも……お父さんが盛大にって言うなら、その通りにしましょう」その一言に、秀明はすっかり機嫌を良くした。車内は、すっかり和やかな空気に包まれた。……青ヶ丘に到着し、由奈が車を降りた時、スマホが震えた。画面を見ると、見覚えのない番号。発信地は――海都市。由奈は少し迷ったあと、智宏に「電話に出てきます」と目配せして、少し離れた場所へ歩いた。通話ボタンを押す。「もしもし」すぐに、女の声が返ってきた。「写真、見た?」由奈の眉がわずかに寄る。「……どちら様ですか?」どこか聞き覚えのある声だった。電話の向こうで、女は小さく笑う。「あら、もう忘れちゃった?まあ、一年も経てば無理もないか」その口調を聞いた瞬間、由奈の脳裏にある人物が浮かぶ。眉間にしわが寄った。「……奈々美?」そして声を低くする。「あの写真、いったいなんですか?」奈々美の声が、どこか含みを帯びた調子で響く。「祐一さんがまだ生きてるって聞いて、驚かないの?」――祐一が、まだ生きている。その言葉を聞いた瞬間、由奈は黙り込んだ。去年クリスマスの夜、あの出来事のあと、彼はもしかしたら死んでいないのではないか――そんな予感は、どこかでず
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第493話

由奈は智宏の腕に手を添え、姿を現した。身にまとっているのは、深いブルーのベルベットのロングドレス。胸元はリボンを編み上げたデザインで、うなじの後ろで結ばれた蝶結びのシルクリボンが、むき出しの背中をなぞるように垂れている。絞られたウエストラインと、体に沿って落ちる縦のドレープが、彼女のしなやかな体の曲線を美しく際立たせていた。きらびやかな宝石など、あえて身につける必要もない。そこに立っているだけで、華やかで上品な存在感を放ち、思わず視線を奪われてしまうほどの美しさがあった。秀明はグラスを手に持ち、招かれたゲストたちに声をかける。「本日はお越しいただき、ありがとうございます。娘は栄東市に戻ったばかりで、まだ土地勘もありません。これから仕事の面でも、皆さまにご指導いただければ幸いです」すると客の一人が笑いながら応じた。「中道社長こそご謙遜を。これからはむしろ、お嬢様に助けてもらうことの方が増えるかもしれませんよ」「はは、それはありがたい話です」その様子を横目に、智宏がふと由奈の方を振り向く。「やっぱり、うちの妹は目立つね。ちゃんと見張っておかないと、どこの馬の骨ともわからない連中に口説かれかねない」冗談めかした口調に、由奈はくすっと笑った。「そんな人、ここにはいないでしょ?」「念のため、ってことだよ」由奈は会場を見渡しながら、ふと尋ねる。「おじいさんは?まだ来ていないんですか?」その言葉に、智宏はわずかに間を置き、考え込むように眉を寄せた。それからほどなくして、本邸から使いがやって来た。だが、姿を見せたのは秀雄だけだった。栄東市にいない美雪はともかく、ほかの者は誰一人として姿を見せない。秀雄は用意してきた贈り物を部下に持たせ、由奈の前へ差し出させた。由奈はそれを受け取り、軽く頭を下げる。「ありがとうございます」「家族なんだ、遠慮することはない。お前のおじいさんは今日体調が優れなくてね。代わりに俺が来たんだ」彼は信三が来られない理由だけを簡単に説明したが、他の者が来ていない理由には触れない。だが、由奈にはおおよそ察しがついていた。言葉を返すより先に、秀明が歩み寄ってくる。「兄さんが来てくれただけでも十分だ。しかも贈り物まで、気を遣わせてしまって」「姪への贈り物だ、気にしないでくれ」秀明は、彼
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第494話

息がうまく続かない。ほのかに酔いも回っているせいで、由奈の体は祐一の腕の中で、まるで綿のように柔らかく崩れていた。祐一は鼻先で彼女の耳たぶをかすめる。熱を帯びた唇が首筋へと滑り、触れる寸前で止まり、また離れる。そのとき、由奈の指が彼の仮面に触れた。祐一はすぐにその手をつかみ、低く声を落とした。「キスしておいて……今度は仮面まで外す気か?」由奈は眉をひそめる。「祐一、今さら芝居なんてやめてくれる?」祐一の目が細くなる。「今、俺のことを何て呼んだ?」「あなた――」言いかけた瞬間。リビングの方から足音が近づいてくる気配がした。由奈はとっさに手を引き、祐一の腕の中から身をすり抜けると、急いでドレスの裾を整えた。「田辺さん、こんなところにいらしたんですね」そう声をかけたのは秀雄だった。その呼び方に、由奈は思わず固まる。「……田辺さん?」秀雄は仮面の男を見てから、驚いた由奈へとちらりと視線を向けた。何か考えているような、意味ありげな目だった。祐一は袖口を軽く整え、穏やかに笑う。「少し休憩できる場所を探していたら、偶然、お嬢様とお会いして……どうやらお酒が少し回っているようでした」由奈はじっと彼を見つめる。秀雄は軽く笑うと、由奈に説明した。「こちらはセイランドから来られた田辺義久さん。俺の客人なんだ」――田辺義久(たなべ よしひさ)。由奈は思わず笑いそうになる。どう見ても、祐一なのに。「そうなんですね」由奈は言いながら彼を見る。「挙動不審だったので、てっきり顔も見せられないような怪しい人かと思いました」秀雄は思わずきょとんとした。だが祐一は怒るどころか、むしろ楽しそうに笑った。「誤解を招いてしまったようなら、すみません」由奈はそれ以上何も言わず、くるりと背を向けて二階へ上がっていく。祐一はその後ろ姿を、微笑みながら見送った。秀雄は二人のやり取りから、何かを感じ取ったらしい。とはいえ、目の前の男を祐一と結びつけるほどではない。ただ――自分の客人が、秀明の娘に興味を持っていることだけは理解した。もしうまく取り持てば、一つ貸しを作ることにもなる。それは決して悪い話ではない。秀雄は穏やかな声で言った。「田辺さん、うちの姪は中道家に戻ってきたばかりでしてね。弟がずいぶん甘やかして
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第495話

宴会は午後まで続き、やがて客のほとんどが帰っていった。残っているのは、会場の後片付けをするスタッフと、テーブルの上のグラスや皿を片付ける使用人たちだけだった。秀明は秀雄と田辺義久を名乗る男を見送り、戻ってくる。その背中に向かって、ようやく智宏が口を開いた。「お父さん、あの人……どこかで見た気がするんです」「誰のことだ?田辺さんか?」「はい」智宏は少し間を置いてから、低く言った。「滝沢祐一に似てるんです」その言葉に、秀明の足がぴたりと止まる。振り返り、息子を見た。「何を言ってる。あの人はとっくに――」「もし、死んでいなかったら?」秀明はしばらく考え込み、やがて眉を寄せた。「……その話は、由奈の前ではするな」少し声を落とし、続ける。「あの人の正体は、セイランドに人をやって調べさせる」斉藤啓太郎はそれなりの有名人だ。もし彼の養子の名を騙る者がいたら、調べればすぐに露見するはずだ。……由奈はドレスを脱ぎ、部屋で普段着に着替えていた。化粧台の前に座り、ゆっくりとメイクを落としていく。最後にリップを拭き取るとき、指先が唇に触れた瞬間、ふいに脳裏に蘇った。階段の上での、あの息が詰まるほどのキス。祐一が仮面をつけていたのは、顔を隠すためなのか、それとも、別の理由があったのか。――田辺義久。滝沢祐一。どう考えても同じ人物だ。なのに、どうして祐一は認めないのか。聞きたいことは山ほどある。そのとき。「ゆうちゃん?」ドアがそっと開き、恭子が顔をのぞかせた。由奈は振り返る。「お母さん?」恭子は部屋に入ると、手にしていた箱を差し出した。中身はやはり、彼女が隠してきた宝石とアクセサリー。「ゆうちゃんがパーティーに出るでしょう?きれいにしていなきゃ。これはね、お母さんが大事にしまっておいた宝物なの。ゆうちゃんにあげる」恭子の容体は不安定だった。昨日、宴会のことはちゃんと理解していた。発作を心配して自分から出席を控えたほどなのに――今はもう、忘れてしまっている。その様子を見て、由奈の胸がきゅっと締めつけられた。箱を受け取り、目の奥が少し熱くなる。「すごくきれい。お母さんの宝物、ちゃんと大切にするね。しまっておいてもいい?」「もちろんよ。もし足りなかったら、また持ってるね!」恭子は嬉しそうにうな
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第496話

二日後――調査を任せていた人物から秀明のもとへ連絡が入った。義久は啓太郎の養子で間違いない、という。「本当なのか?」そう問い返すと、相手は迷いなく答えた。「ええ。斉藤さんご本人がそうおっしゃいました」当人の証言があるなら、疑う余地はない。秀明はようやく肩の力を抜き、通話を終えるとすぐに息子へ電話をかけた。結果を伝え、余計な心配はするなと念を押すためだ。その頃、智宏は由奈と外で食事をしていた。父からの電話を受けても、わざわざ席を外すことはしない。ただ――その知らせを聞いたとき、彼の表情にわずかな戸惑いが浮かんだ。「……わかりました」短くそう答えて通話を切ると、智宏は由奈のほうへ目を向ける。ちょうどその瞬間、由奈も顔を上げた。「まだ仕事があるんですか?」「いや。今日はお父さんが会社にいるから、僕は行かなくていい」そう言ってスマホをしまい、テーブルに並ぶデザートを彼女の前へとそっと押し出す。それを見て、由奈は思わず顔をしかめた。「お兄さん、私を太らせるつもりでしょ」もう十分食べているのに。智宏はくすっと笑う。「よく食べるのはいいことだ。それに――ぽっちゃりした方が可愛いよ」「そうですね」由奈はさらりと言いながら、デザートを一口食べる。「でも太りすぎたら、嫁にも出せないって、誰かに文句を言われるかもしれませんよ」智宏は呆れたように微笑む。そのとき――駿介が近づいてきた。身をかがめ、智宏の耳元で何かをささやく。話を聞き終えると、智宏は箸を置き、ナプキンで口元を軽く拭った。「由奈、ちょっと出てくるから、ここで待っててくれ」「はい」由奈は素直にうなずいた。智宏が駿介とともに席を立って、ほどなくして、一人のウェイターが彼女の前にやって来た。「お客様。ある男性のお客様が、二階へお越しいただきたいと」由奈は一瞬だけ目を瞬かせる――誰なのか、なんとなく見当はついていた。……ウェイターに案内され、由奈は二階へ上がった。個室の扉を開けて足を踏み入れた瞬間、まず目に飛び込んできたのは――長身の男の背中だった。体に沿う黒のタートルネックのニットが、広い肩と引き締まった腰のラインを際立たせている。脚には仕立てのいいスラックス。そこから伸びる足の輪郭は、まっすぐで長く、しなやかな力を秘めていた。
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第497話

「やったことないから、できないわ」由奈は顔をそむけた。祐一は彼女の手を取り、くるりと体の向きを変える。由奈を自分に背を向けさせると、その背後に立ち、横からそっと体を寄せた。「俺が教える」由奈はしぶしぶキューを握るが、構えがぎこちない。祐一は迷いなく手を伸ばし、彼女の腕や肩の位置を軽く直した。距離が近すぎる。ほとんど抱き寄せるような姿勢になり、空気がどこか曖昧に揺れる。由奈は何度か狙いを外した。球は思うように転がらない。祐一が半歩、さらに近づく。「集中して」耳元に落ちる声は、低くかすれていた。由奈は唇を噛み、余計なことを頭から追い払う。それから十分ほどして、ようやくコツをつかんできた。祐一はその様子を眺めながら、手元のグラスの酒を飲み干す。熱を帯びた視線は、ずっと彼女に向けられたまま。由奈が振り返った、その瞬間――祐一の手が彼女の後頭部を包み込む。次の瞬間、濃い酒の香りが唇の奥まで流れ込んできた。突然のキスだった。けれど由奈は、彼を押しのけなかった。祐一は片手で彼女を抱き上げ、そのままビリヤード台の上へ座らせる。顔を仰いだまま、再び唇を重ねた。まるで――彼女を自分の中に溶け込ませてしまいたいかのように。由奈も、危うくそのまま沈み込むところだった。だがその時――スマホが震えた。智宏からの着信だった。由奈は慌てて唇を離す。息を整えながら言った。「……もう行かないと」祐一はかすかに笑った。危うく理性が切れかけていたところだった。この電話がなければ、本当に止まれなかったかもしれない。「また明日」由奈は何も答えなかった。そのまま急いで個室を出ていく。廊下で深く息をつき、気持ちを落ち着かせてから電話を取った。「もしもし、お兄さん」「どこに行ってた?」「二階のお手洗いに」ちょうどその時、智宏は顔を上げ、階段を下りてくる由奈の姿を見つけた。ようやく安心したように息を吐く。由奈が席に戻ると、智宏は少し呆れたように言った。「お手洗いなら一階にもあるだろ?」由奈は唇を軽く結ぶ。「……混んでたから」そのとき、智宏の視線がふと彼女の口元に止まった。リップが少し崩れている。しかも、唇がわずかに腫れていた。「由奈、唇はどうした?」「え?」彼女は一瞬固まり、慌てて手で口元を
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第498話

二人は我に返った。秀明はすぐに笑みを作り、軽く手を振る。「いや、なんでもない。智宏と少し話していただけだ」智宏も黙ってうなずいた。「そうだ、さっき白石さんと何を話していたんだ?」秀明はふと思い出したように尋ねる。倫也に対する印象は決して悪くない。むしろ好感を持っている。だが――白石家となると話は別だ。娘がその家に関わるとなると、どうしても気がかりが残る。もし由奈にその気がなければいいが……そこまで考えたところで、秀明は思わずため息をついた。由奈は少しだけ背筋を伸ばす。「白石先生から、プロジェクトに参加しないかって誘われたんです」そして真剣な目で父を見た。「ADの標的治療の中核技術で……もし実用化できたら、お母さんの病状にも役立つかもしれないって。だから――私は引き受けました」その表情を見て、秀明の胸の奥がじくりと痛む。本来なら、親である自分が子どもを守るべきなのに。なのに子どもたちのほうが、家族のためにあれこれ考えている。――情けないな。秀明は心の中で苦く笑った。……一方その頃。中道家の本邸では――美羽が信三にある相談を持ちかけていた。「由奈さんを神田和馬くんと結婚させるのはどうかと思うんです」理由は単純だ。先日の宴会のあと、和馬はすっかり由奈に心を奪われたらしい。それ以来、和馬の母親が何度も様子を探りに来ている。信三はその話を聞き、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。「神田家には、もともと澪を嫁がせる予定だったんじゃなかったか」美羽は視線を落とし、残念そうに笑う。「どうやら和馬くんは……澪には興味がなかったみたいで」信三は静かに言った。「興味がなかったのか、それとも別の事情か――お前が一番わかっているはずだ」美羽は一瞬、言葉を詰まらせる。「お父さん、それはどういう……」信三は答えず、書道の手本を手に取って眺める。そして淡々と言った。「秀明の娘の縁談はもう決めてある。相手は神田家ではない」その一言で、美羽の表情がわずかに固まった。膝の横で握った手に力が入る。だが信三はそれ以上話す気はないらしく、適当な理由をつけて彼女を部屋から追い出してしまった。階下へ降りた美羽の顔は、露骨に不機嫌だった。ソファに座っていた靖彦が彼女を見て、くすっと笑う。「どうやら交渉が失敗したみたいだ
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第499話

表向きは「一緒に仕事をする」という話だが、実際は彼女を利用して相手に取り入ろうとしているだけだろう。下手をすれば、いつか適当に結婚させられるかもしれない。――そんなことは、由奈ははっきりと分かっていた。けれど、自分は中道家に来たばかりだ。ここであまりにきっぱり断れば、父や兄の立場を悪くしてしまう。それに幸い、相手は見知らぬ人ではない。適当にやり過ごすことくらいならできるはずだ。「……分かりました」由奈が頷くと、信三はますます満足そうに目を細めた。秀雄はカップを置き、由奈に視線を向ける。「このあと会社に行くんだ。一緒に来なさい」由奈は微かに笑みを浮かべたが、何も答えなかった。……祐一がTOテックを買収してから、社内の人間が知っているのは「社長が交代した」という事実だけだった。裏の事情までは知らない。給与や福利厚生も変わらないとなれば、古参の社員たちがそのまま残るのも当然だ。いま、人事部長が三人を連れて社内を案内している。そのうち一人は秀雄、もう一人は新しい社長の祐一。相手が相手だけに、人事部長はやけに張り切っていた。――由奈のことは完全に秘書扱いだ。各部署を一通り回り終えたところで、秀雄が足を止めた。スマホを取り出し、軽く掲げる。「田辺さん、少し電話に出てきます」祐一は軽く頷いた。秀雄が離れると、その場には由奈と祐一だけが残る。空気が、ふっと妙に静かになる。由奈はその場に立ったまま、少し離れた観葉植物に視線を落とした。平静を装ってはいるが――背後から注がれる、あの熱のこもった視線をはっきり感じている。「……見ないで」彼女は顔を背けた。祐一の目の奥の笑みが、いっそう深くなる。「どうやら、君の叔父さんは俺たちに二人きりの時間を作ってくれたみたいだな」由奈は腕を組んだ。「それ、あなたが厚かましく頼んだんじゃないの?」「それは誤解だな。今回は本当に違う」由奈は眉をひそめ、唇を結んだ。二人の間に、再び沈黙が落ちる。遠くで社員たちが小声で話す声だけが、かすかに聞こえてきた。「ねえ、あれが新しい社長?」「でも、隣の女性は誰?すごく綺麗だけど……もしかして社長夫人?」――社長夫人。祐一はその呼び方がすっかり気に入ったらしい。彼は自然な仕草で腕を伸ばし、由奈の肩を引き寄せた。
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第500話

祐一は由奈を中道家の本邸まで送り届けた。車から降りた由奈がドアを閉めようとしたとき、扉の方から心配そうな表情で歩いてくる智宏に気づく。動きがふっと止まった。「……お兄さん?」智宏は彼女のそばまで来ると、まず運転席に座る仮面の男へ視線を向け、眉をわずかにひそめた。由奈は車から離れ、智宏の方へ歩み寄る。「どうしてここに?」「お父さんはあなたを一人で行かせてって言ってたけど……やっぱり心配でね」そう言いながら、智宏はもう一度車内の男を見た。その視線が、静かに鋭くなる。「田辺さん。どうして妹と一緒ですか?」祐一は片手でハンドルを握ったまま、淡々と答える。「それは……信三さんに聞いてもらった方が早いです」その一言で、智宏の目つきが沈んだ。何かを察したらしい。「お嬢さんは無事に送り届けましたので。これで失礼します」祐一はゆっくりと窓を上げ、そのまま車を走らせた。智宏は車が遠ざかるのを見届けてから、ようやく視線を戻す。「……あいつに何かされなかったか?」由奈は一瞬きょとんとしたあと、首を横に振った。「いえ、何も」それから少し間を置き、彼女は問いかける。「ねえ、お兄さんは……あの人のことを知ってますか?」その問いには、二つの意図があった。――兄があの人の正体に気づいているのかどうか。もし気づいていないのなら、今の身分を知っているかどうか。智宏は由奈を見つめた。自分でさえ、あの男を見たとき「似ている」と思ったのだ。ましてや由奈なら、なおさらだろう。しばらくして、彼は小さく息をつく。「彼は……あの人じゃない」由奈の表情が、わずかに固まる。「お父さんが調べさせた。あの人は海外で有名な資産家、斉藤啓太郎の養子だ」「でも、顔が……」「由奈」智宏は静かに言い切った。「彼はあの人じゃない」本当のところ、智宏にも確信はなかった。けれど――今は、そうであってほしいと願っている。由奈は唇を引き結び、視線を落とした。「……わかりました」その後、智宏は駿介に頼んで由奈を青ヶ丘の家まで送らせ、自分は信三の書斎へ向かった。信三は机に向かい、新聞に目を通していた。そこへ廊下から、使用人の声が響く。「智宏さん、信三様が誰も入れるなと……」「入れなさい」信三の低い声が、室内から返る。それでようやく扉が開い
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