All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 501 - Chapter 510

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第501話

倫也の唇に、ふっと柔らかな笑みが浮かぶ。そのまま由奈の方へ歩み寄った。「時間ぴったりですね」「もちろんです」由奈は周囲を見回しながら言う。「いい研究所ですね」江川市の研究所ほどの規模はないが、空間の整い方や雰囲気は申し分ない。とりわけ目を引くのは、室内のあちこちに配されたグリーンだった。垂れ下がる観葉植物や植栽が、白い壁面と溶け合うように配置され、空間にやわらかな生命力を添えている。倫也は小さく頷いた。「気に入ってもらえて何よりです。案内しましょうか?」「ぜひお願いします」由奈は微笑んで応じた。倫也が先に立ち、軽く手で合図する。二人は広い廊下を抜けていく。床から天井まで続く窓から差し込む陽光が、磨き上げられた床に反射し、微かに揺らめいていた。やがて南側の情報室へ。オフィススペースと実験エリアはきちんと区切られ、整然と配置されている。西側には休憩スペースもあり、デザイン性の高いソファと、自動コーヒーマシンが置かれていた。「白石先生、お疲れ様です。こちらのデータについて、ちょっとお伺いしたいのですが……」若い男性の研究員が駆け寄り、手にしていた資料を差し出す。倫也はそれに目を通し、いくつか指摘を加えた。男性は何度も頷きながら礼を言い、その表情にははっきりとした信頼がにじんでいる。彼が去ったあと、由奈はくすりと笑った。「ここで働いているみなさん、まさか全員白石先生の教え子だったりして」「もし私が弟子を取ると言ったら、そうなるでしょうね」まったく気負いのない口調だった。けれど、その言葉に誇張はないと由奈は思う。彼の実力なら――いずれ恭介よりも世間に広く知られる医師になるだろう。「白石先生、今日新しいメンバーが入るって言ってたでしょう?なのに人事がまだ――」慌ただしく入ってきた裕人は、言いかけて足を止めた。倫也の隣に立つ由奈の姿を見て、ぴたりと口を閉じる。「……あれ?」由奈も驚いたように目を見開いた。「稲垣先生?」裕人は腕を組み、呆れたように笑う。「なるほど。新しいメンバーっていうのは、池上先生でしたか」由奈は倫也の方を振り返る。「稲垣先生もこっちに移ってきたんですか?」「違いますよ」裕人がすぐに口を挟んだ。「休暇中に無理やり呼び出されただけです。食事と宿と飛行機代を出すって言うから来ただ
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第502話

由奈が何かを言う前に、祐一は運転手へ軽く合図を送った。車は静かに走り出す。――「デート」なんて言葉とは、どこか噛み合わない気がする。案の定、彼に連れて来られたのは、栄東市で最大規模を誇る高級クラブだった。エレベーターで最上階へ上がり、扉が開くと――そこは、眩いほどの光に満ちた別世界。豪奢な個室の中では音楽と笑い声が交錯し、人々はお酒を飲みながら話し合っていた。「田辺さん、お待ちしておりました」シャツ姿の中年男性が歩み寄り、祐一と握手を交わす。「初めまして、金井と申します。中道秀雄さんとは十年来の付き合いでして、彼から田辺さんの話は伺っております。本日お会いできて光栄です」祐一は軽く頷き、穏やかに応じる。「こちらこそ」促されるまま席につくと、由奈もその隣へ腰を下ろした。けれど、視線は自然と祐一へ向く。――どうして、ここに自分を連れてきたのか。疑問が胸の奥でくすぶる。席について間もなく、祐一の元に次々と名刺が差し出される。挨拶、雑談、そして一歩踏み込んだ会話へ。祐一はそのすべてを、あまりに自然に受け流していく。柔らかな笑みを浮かべながら、言葉を選び、相手の懐へと入り込む。まるで――こういったやり取りは、生まれながら身につけていたかのように。由奈は黙ってその様子を見ていた。できるだけ目立たないように、「透明人間」になりきるように。けれど次第に気づく。これは、ただのパーティーじゃない。誰もが言葉の裏で探り合い、視線の奥で値踏みし合う――ここは、静かな駆け引きの場だ。ふと祐一を見やると、その眼差しは終始穏やかなままだが、底の見えない深さを湛えている。しばらく経った頃、ひとりの身なりの整った中年男性がグラスを手に祐一に近づいてきた。「お隣の方は……恋人さんですか?以前、どこかでお見かけしたような……」由奈が答える前に、祐一が軽く笑う。「彼女は中道家のお嬢さんです。皆さんにも紹介するようにと、秀雄さんに頼まれまして」その一言で、相手の表情がはっと変わる。「なるほど、中道家のご令嬢でしたか!失礼しました。いや、どうりで見覚えがあると思いました」慌てて頭を下げる。由奈も静かに会釈をした。――これ以上「透明人間」でいるのは無理だ。男性に続き、由奈は次々と声をかけられ、名刺を差し出される。誰もが好
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第503話

由奈は周囲の人々を見渡しながら、静かに思考を巡らせていた。――これまで商売人と深く関わることはなかった。父と兄の窮地を思えば、今はただ、関わっている研究を成功させることに賭けるしかない――そう思っていた。けれど、この数日で嫌というほど思い知らされた。自分もまた、刃の上に立たされているのだと。中道家の人間は、冷酷で計算高い。自分の元に「チャンス」が訪れるその日まで、都合よく猶予を与えてくれるほど甘くはない。今の自分は――信三や秀雄が「田辺義久」を繋ぐための駒でしかない。もし相手が他の男でも、彼らにとって有益であるなら――自分は、迷いなく切り捨てられる。そうなったら、父や兄だろうと自分を助けることはできない。胸の奥に冷たいものが落ちる。由奈はそっと息を整え、感情の波を押し込めた。「……どうして、こんなことを教えてくれるの?」「今の俺は『田辺義久』だからだ」一拍置き、視線だけを寄越す。「君には、自分を守る武器を持っていてほしい。誰の前だろうと、隙を見せるな。気圧されるのも論外だ」言い終えると、そのまま立ち上がり、別のグループへと歩いていく。自然な動作でグラスを合わせ、すぐに会話へと入っていった。「滝沢家の跡継ぎ」としての彼とは違って、「田辺義久」は、こうして人と交わり、関係を築いていかなければならない。その役を演じる彼は、どこか本来の祐一とは違う顔をしている。由奈はふと考える。どうして彼は、この名前を使っているのか。そして、あの仮面の奥にある顔は――考え込んだところで、不意に声をかけられた。「こういう場所、初めてですか?」顔を上げると、若い男がグラスを手に、隣へ腰を下ろしていた。整えられたオールバックにどこか計算を含んだ笑み。由奈は無意識に祐一の方へ目をやる。――いない。さっきまで話していた人間たちもどこかへ消えている。「田辺さんをお探しで?」男はすぐに察したように続けた。「今、サンリアグループの取締役たちと外で話をされていますよ」そして名刺を差し出す。「僕は森川篤志。株式会社万大で人事をやっています」由奈はそれを受け取り、目を通した。森川篤志(もりかわ あつし)と名乗った男性は柔らかく笑う。「少し落ち着かないように見えましたが、大丈夫ですか?」穏やかな口調の裏に、探るよう
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第504話

由奈はその場に固まり、振り返ることはできず、かといって動くこともできなかった。目の前には、祐一の仮面。ほんのわずかに顔を近づければ――そのまま唇が触れてしまいそうな距離。息がかかるほど近いのに、触れないまま、時間だけが経っていく。どれくらいそうしていたのか。由奈はそっと唇を結び、小さく問いかけた。「……もういい?」祐一の視線は、彼女の唇に落ちていた。わずかに開いて、また閉じるその動きに――抑え込んでいた衝動が揺れる。けれど結局、それを押し殺すように目を細め、「……ああ、もういい」と低く答えた。その言葉を合図にするように、由奈はすぐにエレベーターへと入った。祐一は一瞬だけ視線を外し、周囲を確認してから、何事もなかったかのように後を追った。やがて金属の扉が静かに閉まる。――その瞬間を見届けてから。物陰に潜んでいた篤志が、ゆっくりと姿を現した。「ええ……田辺さんと池上由奈さん、かなり親しいようです」電話の向こうにいる相手へ、淡々と報告する。その相手――美羽は、手にしていたワインを飲むことすら忘れていた。「……ふん、秀明の娘も、なかなかやるじゃない」通話を切ると、冷えた笑みを浮かべる。「あの男と知り合ってまもないのに、すっかり仲良くなっちゃって」ソファに深くもたれていた靖彦が、足をテーブルに投げ出したまま口を挟む。「いや、あいつら、もっと前から繋がってたんじゃないか?」気だるげに言いながら、肩をすくめる。「海外から戻って間もない男が、急に秀雄さんの陣営に入ったし、秀明さんの娘とも親密な関係を築いた。普通はあり得ないだろ」美羽はその言葉に目を細める。「……確かに。もし前から通じていたとしたら――秀雄と秀明に、いいようにやられてるってことね」靖彦は体を起こし、りんごをひとかけらフォークで刺した。「とはいえ、焦る必要はないんじゃない?お父さんがあの二人をくっつけようとしてるだけで、まだ決まった話じゃない。どうにでもなる。神田家のあの出来損ない、結婚したくてたまらないんだろ?だったら――既成事実でも作ればいい」その言葉に、美羽の表情がぱっと華やぐ。グラスの中の赤い液体を揺らしながら、くすりと笑った。「そうね……私としたことが、そこを見落としてたわ」視線に、冷たい光が宿る。「既成事実を作ってしまえば、話は簡単
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第505話

由奈は、家族がすっかり寝静まっているものと思い込んでいた。足音を忍ばせながら、そっと階段を上がろうとする。――その瞬間、廊下の灯りがぱっと点いた。思わず肩が跳ねる。ゆっくり振り返ると、そこには腕を組んで壁にもたれる影があった。「お帰りなさい、遅かったね」智宏が、じっとこちらを見ている。「ただいま……まだ起きてたんですか?」「寝ようとしたら物音がしてね。てっきりコソ泥でも入り込んだのかと思った」からかうような言い方に、由奈は気まずそうに目を逸らす。「今日は白石先生の研究所を見学してて……そのまま食事が長引いて、ちょっと遅くなっちゃいました」「そうか。向こうはどうだった?」「すごく良かったですよ。医療情報研究所と共同でやってて、設備も人員もそろってるし……新しく雇う必要もないみたいで」智宏は数秒だけ黙り込んだ。やがて小さく息をつく。「あなたが心地よく働けるなら、それでいいよ」由奈は軽く頷き、そのまま自室へ向かいかける。だが、数歩進んだところでふと足を止め、振り返った。「お兄さんも、あんまり無理しないで。おやすみなさい」その一言に、智宏はわずかに目を見開く。すぐに視線を落とし、笑みを浮かべながら頷いた。やがて、由奈の部屋の扉が閉まる音が響く。智宏の顔から笑みが消え、疲れが滲み出た。彼はこめかみを指で押さえ、重く息を吐く――信三の言葉が、頭から離れない。祖父は妹を政略結婚の駒にするつもりだ。自分がどう考えようが関係ない。最初から、そのつもりで話は進んでいた。なら、自分も覚悟を決めるしかない。どんな結末になろうと――妹を、誰かの都合で差し出すつもりはない。まして、傷つけさせるなど論外だ。……翌朝。由奈が階下に降りると、テーブルには彼女の朝食だけが用意されていた。空いている席を見て、由奈は使用人に尋ねる。「お父さんたちは?」「旦那様は奥様の治療に付き添われています。坊ちゃんは、お仕事で外出されたようです」「そう……」それ以上は聞かず、由奈は静かに朝食を済ませた。その足で研究所へ向かう。オフィスに入ると、軽く挨拶を交わし、自分の席へ。資料を広げ、仕事に意識を切り替える。一方――ガラス越しの執務室では、倫也が外の様子を静かに見つめていた。その視線は、まっすぐ由奈へと向けられている。彼
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第506話

倫也は一瞬だけ言葉を止め、すぐに淡々と答えた。「気にしないでください。あの人、うまくいかないことがあるとすぐ顔に出るんです。そのうちあなたも慣れるでしょう」「……何かあったんですか?」由奈が踏み込むと、彼はその問いには触れず、手元の書類を閉じる。「いえ、特には。それより用件は?」その流れに、由奈も本題を思い出した。「あ、えっと……さっきADの標的治療プロジェクトの資料を見てて。既存薬の転用で開発期間を短縮してコストも抑えられるって書いてありましたけど、それって治療効果に影響は出ないんですか?」倫也は指を組み、しばらく彼女を見つめる。「薬の安定性と効果がきちんと担保できるなら――その方法はむしろ一つの突破口になり得ます」「でも、リスクは大きくないですか?既存薬の転用って、予期せぬことが起きる可能性もありますし……」由奈の声には、迷いがにじんでいた。倫也は小さく頷く。「確かにリスクはあります。ただ……科学っていうのは、試して失敗して、その先に進むものです。やらなければ、何も変わりません」その言葉に、由奈はふと息を止める。目の前の彼は、揺るがない確信を持っている。そのまっすぐさに触れた瞬間、思わず笑みがこぼれた。「そうですね……私、ちょっと考えすぎてたかもしれません」「母親のことを思えば、無理もありません」その一言で、由奈の表情にわずかな陰が差す。それを見た倫也は、組んでいた手をほどき、視線を少しだけ逸らした。「今夜……夕食、奢ってくれませんか?」「え?」思わず聞き返したが、彼は何事もなかったかのように続ける。「最近は懐が寂しくてね。それに、以前お礼としてご飯を奢ってくれるという約束がまだ残ってますよね?しかも二回も」由奈はくすりと笑った。「そうですね。ご飯、行きましょう」……同じ頃――秀雄が経営するホテルの最上階。そこは限られた者だけが入れるプライベートラウンジだ。そこで、智宏は静かに茶を口にしていた。向かいに座るのは、秀雄。透明なガラスの器に注がれた茶は、湯気を立てながら芳しい香りを漂わせている。「今日来てくれて嬉しいよ。お前が父親の後を継いでからは、あまりここに顔を出さなくなったからな」秀雄がゆったりと茶を注ぎながら言う。智宏は指先でテーブルを軽く叩く。「仕方ありません。お互い商売を
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第507話

智宏は写真を手に取った。そこに写っていたのは、男と女の二人。決して鮮明とは言えないが、輪郭だけで十分だった。――やはり、そうか。この二人の関係については以前から疑っていた。立場の変化も含めて、偶然にしては出来すぎている。ただ、決定的な証拠がなかっただけだ。まさか、こんなものを秀雄から受け取るとは。「……どういうつもりですか?」智宏が静かに問いかける。秀雄はカップを手に、淡々と彼を見上げる。「ただの土産だ。見返りは求めない」あまりにもあっさりとした言い方。智宏はそれ以上何も言わず、写真を懐に収め、ラウンジを出た。……夕方。倫也は研究所を出ると、由奈から送られてきた住所を確認した。すぐ近くだとわかり、そのまま歩き出す。百メートルほど進んだところで――「こっちです」店先で手を振る由奈の姿が目に入った。倫也は落ち着いた足取りで横断歩道を渡り、彼女のもとへ向かう。視線の先にあったのは、気取らない焼き鳥の店。「てっきり、もっと豪華な店に連れて行ってくれると思いました」由奈はくすっと笑った。「毎日ごちそうばかりじゃ飽きますよ。たまにはこういうので、気分を変えるのもいいでしょう?」「……単にあなたが食べたかっただけじゃないんですか?」「それもありますけどね」あっさり認める返しに、倫也は小さく笑った。二人はテーブルに腰を下ろす。由奈はスマホで注文を始め、倫也は手元のティッシュでさりげなくテーブルを拭いた。「メニュー、見なくていいんですか?」「任せます。好き嫌いはありません」「じゃあ、適当に頼みますね」程よい量を選び終えた頃、若い店員が近づいてくる。「本日、カップルセットがありまして――お二人でご注文いただくと三割引になります。よろしければ彼氏さんとご相談を――」一瞬、空気が止まった。由奈はわずかに困ったように笑う。「私たち、そういう関係じゃないんです」「あ……失礼しました」店員は慌てて頭を下げ、その場を離れていった。残された空気に、わずかな気まずさが残る。倫也は何事もなかったかのようにピッチャーから水を注ぎ、静かに口をつけた。その沈黙を破るように、由奈が口を開く。「……栄東市に来てから、どこに住んでるんですか?」「研究所の寮です」あまりに簡潔な答えに、由
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第508話

「彼女とは顔見知りなんだ。少し二人で話をさせてもらっても?」祐一はそう言って、さりげなく使用人に視線を向けた。一瞬だけ意外そうな表情を浮かべた使用人だったが、すぐに微笑み、「かしこまりました」と軽く頭を下げて、その場を離れていく。由奈は腕を組んだまま、少し顎を上げて彼を見上げた。「祐一、本当に大丈夫なの?兄に正体、気づかれるかもしれないのに」その言葉に、祐一は一歩だけ距離を詰め、わずかに口元を緩めた。「もうとっくに調べはついてるはずだ。ただ――俺の身分に隙はない。俺自身が何も言わない限り、相手もどうにもできないさ」由奈は唇を噛み、何も返せない。ふと、祐一が話題を変える。「焼き鳥、美味しかったか?」その一言で、由奈ははっと我に返る。「……まさか、尾けてたの?」祐一は小さく苦笑した。「今の俺に、その必要があると思う?」そう言ってから、わずかに表情を引き締める。「偶然見かけただけだ」由奈は言い返せなかった。今の彼は「田辺義久」として動いている。離婚した以上、彼女を監視する理由もない――理屈では、そうだ。由奈は視線を逸らしながら、軽く言った。「美味しかったよ。紹介してあげようか?」けれど、返ってきたのは思いがけない一言だった。「君が他の男と行った店には、行かない」一瞬、言葉の意味を掴み損ねる。けれどその目の奥に、ほんのわずかな――拗ねたような色が滲んでいるのを見て、由奈は思わず視線を外した。「……好きにすれば」ぶっきらぼうに言い捨て、そのまま彼の横をすり抜けようとする。その瞬間、手首を掴まれた。振り向く間もなく、祐一の腕がそっと彼女を引き寄せる。強引ではないのに、逃げ場を奪うような距離。「週末、空いてるか?」耳元に落ちる低い声に、由奈は眉をひそめた。「何?」「俺にも一度、食事に付き合ってくれないか?」拍子抜けするほど穏やかな誘いだった。もっと無理な要求をされるかと身構えていたぶん、返事に詰まる。唇を開きかけた、そのとき――「由奈?」背後から聞こえた声に、由奈ははっと息を呑む。反射的に祐一の腕を振りほどき、振り返った。「お父さん……」歩いてくる秀明の姿を見て、わずかに背筋が伸びる。秀明は一度娘を見てから、視線を祐一へと移した。「田辺さん、まだいらっしゃったんですね」祐一は一
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第509話

由奈は一瞬言葉に詰まり、慌てて首を振った。「いえ、そういうわけでは。ただ……おじいさんと秀雄さんに顔を合わせておけって言われて、それで会ってただけなんです」「そうか。無理なことを言われたりはしてないか?」秀明の問いかけに、由奈は小さく笑ってみせる。「大丈夫。あの人にどうこうされるほど弱くないし……私には、お父さんたちがいるでしょ?」その一言に、秀明の表情がやわらぐ。「はは、それもそうだな」それ以上は追及せず、二人は並んで家の中へと入っていった。……二日後。由奈は研究所の地下駐車場に車を滑り込ませた。天井一面に広がるガラスの採光窓から、柔らかな光が差し込み、閉ざされた空間とは思えないほど明るい。車を降りたそのとき、電話をしながら歩いてくる裕人の姿が目に入った。「おはようございます」声をかけると、裕人は驚いたように顔を上げ、通話を手短に切り上げる。「池上先生――あ、いや、今は中道さんって呼んだ方がいいですね」「どっちでもいいですよ」由奈は肩をすくめた。「これから出かけますか?」「ええ、ちょっと」裕人は何かを言いかけて、少し迷ったあと、意を決したように口を開く。「……あの、ひとつ頼みがあるんです。白石先生を、説得してもらえませんか?」「説得?何を?」裕人は息を吐き、言葉を選びながら続けた。「本来、白石先生が栄東市に来る必要はなかったんです。でもあの人、ちょっと……頑固で。家族にも黙って、慣れない土地で厄介なプロジェクトを引き受けて。出資もまだ決まってないのに、自分の資金を切り崩してまで続けてるんです」由奈の表情がわずかに強張る。「……家には、栄東市に来てることを言ってないんですか?」裕人は肩をすくめた。「言ってたら、止められてましたよ」それだけ言い残し、裕人は足早に去っていく。残された由奈は、しばらくその場に立ち尽くしていた。――倫也が栄東市に来ていることを、白石家は誰も知らない。その事実が、静かに胸に沈んでいく。やがて歩き出し、彼のオフィスの前に立つ。軽くノックをすると、倫也の声が聞こえた。「どうぞ」中に入ると、倫也は手にしていた資料を閉じる。「どうしました?」由奈はすぐには答えず、室内を見渡した。整ってはいるが、どこか温度のない空間。視線を戻し、彼を見つめる。「さっき、
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第510話

倫也の表情が強張り、掠れた声で笑った。「どうして、結末が同じだと?」「結婚って、そんなに単純なものじゃないんです。愛だけじゃ成り立たない。現実には、お金の問題もあるし、家同士の格差だってあります。たとえ当時、私はあなたと結婚したとして……池上家の娘だった私は本当に幸せになれたと思いますか?あなたは私の味方でいてくれたかもしれない。でも、そうじゃなかったかもしれない。どちらにしても――あなたのお母さんは、きっと祐一のお母さんみたいに、私を嫌っていたはずです。そうなれば、私は白石家でずっと気を張って、規則に縛られて生きることになります」少し息を整えてから、穏やかに続けた。「選ばなかった道が幸せかどうかなんて分かりません。でも今の私は、恋愛だけではなく、現実もちゃんと見ています。だから――最初から難しいと分かっている関係に、二人とも縛られるのは嫌なんです。あなたに、私のせいで家族とのあつれきを背負わせたくもありません」倫也は何も言わず、ただ彼女を見つめていた。その視線は深く、何を考えているのか読み取れない。重く沈んだ空気の中、時間さえ引き延ばされたように感じられる。やがて彼はぽつりと呟いた。「……ずいぶん慎重になったんですね」由奈は肩の力を抜いて笑う。「一度結婚に失敗してるんだから、慎重にもなりますよ」倫也はそれ以上、言葉を返さなかった。彼女が断ることは、ある程度覚悟していた。だが――ここまで理屈と現実で切り込まれるとは、思っていなかった。母が由奈に良い感情を持っていないことも、彼自身よく分かっている。もし彼女が自分を受け入れてくれたとして、この関係を守り切れる自信はあるのか。祖父は彼女の恩師だ。関係がこじれれば、彼女が最も避けたい状況になるのも明らかだった。沈黙の末、由奈が少しだけ声を落として言う。「資金のこと、一人で抱え込まないでください。恋人になれなくても……私たち、決別ってわけじゃないですよね?」最後の一言は、どこか遠慮がちだった。倫也は小さく息を吐く。「私がそんな人間に見えますか?」由奈はほっとしたように笑う。「それなら安心しました」……その日の午後、由奈は手元の名刺を頼りに何本も電話をかけた。最初は手応えがあった。だが、AD標的治療の研究だと分かった途端、相手の反応は一様に鈍る。最
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