All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 511 - Chapter 520

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第511話

本当にしつこい人だ。由奈は画面を見つめながら、短く返信した。【物忘れひどいから。明日のことは、また明日考える】一分ほどして、祐一から拗ねたようなスタンプが返ってくる。思わずため息が漏れたところで、「池上様、こちらのお部屋です」というスタッフの声に意識を引き戻され、スマホをしまう。ドアを押し開けると――室内には静華と、もう一人若い男がいた。どこか見覚えがある。……いや、違う。見覚えどころじゃない。次の瞬間、由奈の表情がわずかに硬くなる。あの宴会で、いきなり自分の手を掴んだ、あの男だ。「どうぞ、おかけになって」静華は柔らかな笑みを浮かべて言う。だが、隣にいる男の視線がまとわりつくように絡みつき、由奈は落ち着かない。とはいえ、この場で相手の言葉を無視するわけにはいかず、席に着いた。「うちのプロジェクトにご興味を持っていただき、ありがとうございます」慎重に切り出すと、静華は穏やかに微笑む。「中道家と神田家は、昔から付き合いがあるのよ。あなたは戻ってきたばかりだから、まだご存じないかもしれないけれど。でも大丈夫、これからはいくらでも、親睦を深める機会があるのだから」その言葉に由奈は違和感を感じ、わずかに眉をひそめた。「こちら、息子の和馬です。会ったことはあるでしょう?」紹介を受け、由奈は口元だけで笑みを作る。向けられる視線を正面から受け止めることなく、さらりと流した。「ええ。一度だけ」普通なら、あんな露骨に人を見つめたりはしない。けれど――この男は違う。その異質さに、胸の奥でじわりと不安が膨らんでいく。静華が話を続ける横で、由奈はそっとスマホを取り出し、視線を落とすふりをして位置情報を送信した。「お母さん、料理はもう頼んであるんだろ?早く出してもらってよ。池上さんを待たせちゃ悪いからな」和馬が苛立ったように口を挟む。静華は苦笑した。「ごめんなさいね、話に夢中で。すぐ用意させるわ」「いえ、お構いなく」ほどなくして料理が運ばれてきた。テーブルいっぱいに並ぶ品々。さらに別のスタッフがワインとデカンタを持って現れる。「お酒は少しだけでいいわ。まだ仕事の話があるから」そう指示してから、静華は由奈に向き直る。「池上さん、お酒は大丈夫?アレルギーがあるなら、別のものを」「車で来ているので、控
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第512話

「そんなことはないさ。これから僕たちは家族になるんだ。今のうちに関係を深めておいたほうがいいんじゃない?」由奈は眉をひそめた。「家族になるって……どういう意味ですか?」「君の叔母さんから聞いてないのか?君が僕と政略結婚するって話。母は君のことを気に入ってるし、僕もそうだよ」そう言いながら、和馬は椅子を引いて由奈の隣へ寄ってくる。由奈は反射的に距離を取った。それでも彼は気にする様子もなく、にやりと笑う。「女はみんな恥ずかしがると思うけど、でも安心して、今は僕たち二人しかいないから……試してみてもいいじゃない?」その言葉に、由奈の顔に露骨な嫌悪が浮かぶ。「すみません、神田さん。まだ用事がありますので、失礼します」立ち上がり、そのまま扉へ向かう。だが――取っ手に手をかけて引いた瞬間、違和感が走った。開かない。外から押さえつけられている。どれだけ力を込めても、扉はびくともしない。一瞬で状況を悟り、由奈の表情が険しくなる。「どういうつもりですか?今すぐ扉を開けさせてください。でないと通報しますよ!」背後から、ゆっくりと足音が近づく。「通報?別に僕たちは違法なことをしてないから、警察だって口を出せないさ。無駄な抵抗はやめておいたほうがいいよ」振り返った由奈は、思わず笑ってしまった。「何を言ってるんですか?私はあなたの家族でもなんでもありません。これは監禁です。父と兄が知ったら、ただじゃ済みませんよ」「知る頃にはもう手遅れだろうね」その瞬間、和馬の顔から笑みが完全に消え、欲望と悪意が剥き出しになる。「もう君は僕のものになるんだから、別に何も怖くないさ」次の瞬間、彼が飛びかかってきた。由奈は咄嗟に身を翻し、テーブルを挟んで距離を取る。だが数歩も走らないうちに――視界がぐらりと揺れた。足元が不安定になり、思わずテーブルに手をつく。――おかしい。一気に血の気が引く。「……まさか……ジュースに何か入れたんですか?」息を荒くしながら問いかけると、和馬は楽しげに笑った。「ジュースじゃない。食器だ。君が使ったグラスと皿に、ちょっとね」由奈の目が、怒りでじわりと赤く染まる。「……最低」吐き捨てるように言った。「そんな言い方しないで、冷静に考えてみてよ」和馬はまるで諭すように続ける。「僕と結婚すれば、そ
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第513話

祐一は由奈の体を受け止め、そのまま強く抱き寄せた。腕に力が入り、手の甲にはくっきりと血管が浮き上がる。床に倒れている和馬を一瞥したその目は、ひどく冷たかった。だが次の瞬間には視線を切り替え、由奈を横抱きにすると、背後の部下に短く言い放つ。「片づけておけ」それだけ言い残し、彼は駐車場へと向かった。車内に乗せられた由奈は、かすかに震えていた。恐怖なのか、疲労なのか、それとも別の何かなのか――自分でも分からないほど、感覚は乱れている。祐一は眉をひそめ、すぐに上着を脱いで彼女の肩にかけた。触れた指先に、異様な冷たさが伝わる。その瞬間、彼の目に鋭い影が走る。けれど、彼女を見下ろしたときだけは、その表情がわずかに緩んだ。「……とりあえず、ここを離れよう」低く言った、その直後。由奈が彼の袖をぎゅっと掴んだ。握るというより、縋りつくように。「……体が、変なの……」祐一の表情が一瞬で変わる。「すぐ病院に――」「嫌……」由奈は首を振りながら、さらに強く彼の服を引き寄せた。全身が冷えるのに、内側は焼けるように熱い。どこにも逃げ場がないほどに苦しい。無意識のまま、温もりを求めるように彼へと近づいていく。そして、耳元に触れた瞬間、祐一の体がぴたりと固まった。彼女の体は冷たいのに、吐息だけが、異様に熱い。――これは。薬を盛られたと、すぐに理解した。祐一は奥歯を強く噛みしめる。今すぐ引き返して和馬を叩き潰してやりたい衝動を、かろうじて抑え込む。由奈が落ち着かない様子で身を寄せてくるのを、祐一は半ば強引に押さえ込んだ。「由奈、落ち着け。すぐ病院に行くから」このままでは――自分も理性を保てられない。「……行かない」次の瞬間、由奈は彼の胸ぐらを掴み、そのまま体勢を反転させた。気づけば、彼女が上から見下ろしている。「……祐一が、治して」視線が揺れている。祐一はその目をまっすぐ見返した。声が低く沈む。「……本気で言ってるのか?」「もしかして……できないの?」挑発のような一言。次の瞬間――祐一はその唇を塞いだ。由奈の手が、力なく彼の仮面に触れる。そのまま外し、首の後ろへと腕を回した。静まり返った空間の中、抑えきれない感情が一気に溢れ出す。理性も、距離も、境界も――すべてが曖昧に
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第514話

その隣に、美羽の姿もあった。彼女はすかさず口を挟む。表向きは取りなすような穏やかな声音だったが、その目の奥には別の意図が滲んでいる。「静華さん、きっと何かの行き違いですよ。落ち着いて、ちゃんと話し合いましょう?」だがその言葉に反して、場の空気はむしろ冷え込んでいく。秀明は眉をひそめ、低く問いかけた。「神田さん、突然うちに乗り込んできて……一体、何の用ですか?」昨夜とは打って変わり、静華は冷え切った視線を由奈に向けた。「あら、それはご自慢の娘さんに聞いてちょうだい。昨夜、うちの和馬と一緒にいたはずよ。それで――理由もなく、あの子の頭を殴るなんてね。今、あの子はまだ病院よ。今日中に納得のいく説明をもらえないなら、信三さんに直接話をしに行くわ」秀明の視線が、静かに由奈へ向く。だが、由奈は何も言わなかった。「何かの誤解なんじゃないですか?」娘は理由もなく暴力を振るうわけがないと、秀明は信じている。だが静華は鼻で笑った。「誤解だろうが何だろうが、実際に手を出して、あの子を傷つけたのは事実でしょ?」秀明は押し黙る。その沈黙を見逃さず、美羽が一歩踏み出した。「秀明、若者同士のいざこざって、多少はあるよね。でも……由奈さんが手を出したのは確かなんだし、ここは一度、静華さんに謝った方が――」「もし、本当に由奈が理由もなく手を出したのなら、だ」秀明はぴしゃりと遮った。「その時は、こちらから正式に謝罪する」静華の顔色が変わる。「それって、どういう意味かしら?」「言葉通りの意味です。事実関係を確認するのが先です。そちらも言っていた通り、誤解の可能性があるなら、なおさらです。経緯をきちんと整理してからでなければ、公平な判断なんてできないでしょう」理詰めの言葉に、静華の苛立ちはさらに増していく。「怪我をしたのは、あんたの娘じゃなくて、うちの息子なのよ!」「……それで?うちの娘が傷ついたほうが、都合がよかったんですか?」「何を――!」「秀明!」美羽が間に割って入る。「そこまで言う必要ある?神田家との関係をこじらせる意味、ないでしょ。謝るだけの話じゃない」だが秀明は、ちらりとも彼女を見ない。「こちらに乗り込んできて、一方的に話を押し付けてくる相手の言葉を、そのまま鵜呑みにしろと?そもそも、当事者の由奈がまだ何も話し
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第515話

「いいえ」由奈は静かに首を振った。「気分が悪いって言ったら、和馬さんは帰っていいって。外に出たところで、ちょうど田辺さんに会って……そのあと、意識がなくなりました」一度、言葉を区切る。「気がついたら、ホテルの部屋に一人でした。あとで聞いたら、田辺さんが連れてきてくれたみたいです」落ち着いた口調だった。感情を抑えたぶん、かえって現実味がある。だが、その分――「……嘘よ!」静華が声を荒げた。「そんな話、通ると思ってるの?防犯カメラがあるのよ、あんたが出ていくところも全部映ってるはずよ!」防犯カメラ――その言葉にも、由奈は眉一つ動かさなかった。昨夜、一度だけ意識を取り戻した記憶がある。そして祐一が、あの場の処理をすでに済ませていることも知っていた。だから、証拠は残っていない。たとえ今から映像を探しても、都合のいい断片しか出てこないだろう。一方で、美羽は完全に言葉を失っていた。内心では焦りが募っている。だが、由奈が「覚えていない」と言い切った今、これ以上どうしようもできない。昨夜の薬は、確かに自分が和馬に渡したのだ。あの男の性格を考えれば、使わないはずがない。それなのに――結果は失敗。しかも由奈は口を閉ざしたまま。……完全に、計算外だった。苛立ちと焦りが、胸の奥でぐるぐると渦を巻く。「もういい」秀明がはっきりと言い切った。「話はこれで終わりです。あなたたちと食事をしたあとに娘が倒れたというのに、今度は娘のほうが悪いとでも言うつもりですか?」その声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。「食事に行っただけで倒れるなんて……そんな都合のいい偶然があると思いますか?」静華の顔が歪む。「秀明さん……いい度胸ね。覚えてなさいよ。ただじゃ済まさないから」吐き捨てるように言い残し、部屋を出て行った。残された空気は、重く沈んだままだった。美羽は一度だけ、意味ありげな視線を由奈に向けるが、結局何も言わなかった。むしろ何かを恐れるように視線を逸らし、そのまま足早に去っていった。由奈の指先が、ぎゅっと強く握りしめられる。昨夜、和馬が口にした言葉。あの一連の流れ。それらを繋ぎ合わせれば――すべては美羽の仕組んだことだと、十分に推測できた。「由奈」それまで黙っていた智宏が、ふっと笑う。「……和馬くんを、やっぱ
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第516話

紬は残っていたコーヒーを手に、由奈の前まで来ると差し出した。「はい、これ。お義姉ちゃんの分」由奈はそれを受け取り、軽く笑う。「今回は旅行じゃないんですよね?」紬は一瞬言葉に詰まり、視線を逸らしてぎこちなく笑った。「……祐一兄ちゃんのこと、もうわかってたよね」由奈はあっさりとうなずく。「まあね。だいたい察しはついてました」それ以上は突っ込まず、紬も曖昧に笑うだけだった。「じゃあ紬さんは?栄東市に遊びに来たってわけでもないんでしょ」その問いに、紬は表情を引き締める。「もちろん違うよ。今回はね、お義姉ちゃんたちにある人物を紹介しようって思ってるの」「ある人物?」「そう」紬は少し得意げに胸を張った。「出資してくれる人、探してるんでしょ?ちょうどいい人がいるの。その人が頷けば、話は一気に決まると思う」由奈は眉をひそめる。その反応を見て、紬はすぐに付け加えた。「安心して、祐一兄ちゃんじゃないから。ていうか、その人、海都市じゃうちどころか、将平叔父さんや和恵おばあさんでも尊重してる人だから」「そこまで……?」由奈は言葉を失う。思い当たる人物を頭の中で探るが、該当しそうな存在はほとんどいない。紬は少し考えるようにしてから、肩をすくめた。「ちょっと立場が特殊でね。ビジネスの場にはあまり顔を出さない人なの。でも、芸術とか医療、あと慈善活動にはかなり積極的に関わってる」そして一歩引いたように続ける。「私は紹介するだけ。あとはお義姉ちゃんたち次第で、ちゃんと口説いてね」由奈は小さく息をつき、まっすぐ頷いた。「それだけでも十分ありがたいよ。あとは自分たちでなんとかします」……一方、病院。和馬は頭を打たれたものの、幸い軽い脳震盪で済み、搬送後まもなく意識を取り戻していた。だが、静華は中道家での一件がどうしても飲み込めず、怒りを抱えたまま病室へ戻ってきた。母の顔色を見て、和馬が眉をひそめる。「どうしたんだよ、その顔」彼女が答える前に、後ろから美羽が入ってくる。静華をなだめるようにしながらも、和馬へ視線を向けた。「和馬さん、あの夜――由奈さんとは本当に何もなかったんですか?」「よくそんなことが聞けるわね!」静華は怒りをぶつけるように言い放つ。「うちの息子がこんな目に遭ったの、全部あんたのせいだから!」美羽は表情を崩
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第517話

夕暮れが迫るころ、由奈は同僚たちと軽く挨拶を交わして別れ、ひとりで駐車場へ向かった。通路のセンサーライトが順に点いていく中、ふと顔を上げる。その先に立つ人影を認めた瞬間、足がぴたりと止まった。祐一が、彼女の車のボンネットにもたれかかっていた。腕を組み、静かにこちらを見つめている。一見、気だるそうな姿勢。けれど、その視線には逃げ場を与えない圧があった。あの夜のこと。まだどう向き合えばいいのか、答えは出ていない。何もなかったことにするか、それとも――考えがまとまる前に、彼が先に口を開いた。「この前のこと、説明するつもりは?」由奈は一瞬、言葉を失う。「……何を説明すればいいの?」祐一はゆっくりと歩み寄る。距離が一気に詰まった。「君が言っただろ。俺はいまいちだって」由奈は言葉に詰まる。彼は小さく笑った。「俺の記憶だと、そう悪くなかった気がするが?」由奈の頬が一気に熱くなる。視線を逸らし、そのまま彼の横をすり抜けようとした。だが次の瞬間、腕を引かれ、体がふわりと引き寄せられる。気づけば、彼の胸の中だった。「こういう時は照れるんだな」耳元で囁く声に、思わず息が詰まる。「メモ残すときは、ずいぶん強気だったくせに」由奈は顎を上げて言い返す。「あなたの図太さに比べたら、あれくらい可愛いものでしょ」祐一の目が細くなる。その隙をついて、由奈は腕を振りほどいた。「それより――どうしてあの場所が分かったの?」「君が送ってきたからだろ、位置情報」「……え?」思わずスマホを取り出し、履歴を確認する。そして気づいた。――送り先を、間違えている。祐一と智宏の名前が、ちょうど上下に並んでいた。本来送るはずだったのは智宏のほう。だからあの夜、智宏は来なかった。帰らなかったことで、あんなに怒っていたのも――事情を理解した彼女を横目に、祐一は袖を整えながら淡々と言った。「中道家も見る目がないな。あんな男を君の結婚相手にするなんて」その言い方に、由奈は眉をひそめる。「全員がそうというわけじゃない。父も兄も、そんな人じゃないから」「……あの二人なら止めるだろうな、必死に」祐一は数秒、沈黙したあとで続ける。「でも、もし相手が俺だったら?」由奈は言葉を失う。その視線はまっすぐで、由奈は受け止めきれず、
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第518話

智宏とリビングへ足を踏み入れると、由奈はちらりと信三の隣のソファへ視線を走らせた。――やっぱり。そこには、神田家の親子が座っている。和馬はまだ頭に包帯を巻いたまま、病院着の上にコートを羽織っている。由奈を見た瞬間、その目に露骨な敵意をにじませた。けれど由奈は、そんな視線など意にも介さない。それよりも気になったのは――信三の隣に座る、見慣れない中年の女性だった。美羽と年はそう変わらない。それなのに、信三と並んで座っている。……その人が、信三の再婚相手なのか?「この子が秀明の娘かしら?あの宴の日は、徹也に付き添って地方にいてね。戻れなくて、本当にごめんなさい。あとでお詫びの品を送らせてもらうわ」やわらかな笑みを浮かべて口を開いたのは、その女性――花織だった。由奈に代わり、智宏が応じる。「お気遣い、ありがとうございます。それより、徹也さんはご一緒ではないんですか?」花織は穏やかに首を振った。「あの子は昔から自由人でね。こういう場には顔を出したがらないの」そのやり取りを遮るように、静華が苛立たしげにカップをテーブルへ置いた。「――そろそろ本題に入っていただけます?今は世間話をしている場合ではないでしょう」そのまま視線を信三へ向ける。「信三さん、この件、どう落とし前をつけるおつもり?お孫さんが戻ってきたと思えば、今度はうちの息子の頭を殴るなんて。当主として、きちんと筋を通していただきたいわ」信三は急かされる様子もなく、湯呑みをゆっくりと手に取ると、静かに口を開いた。「……智宏、お前はどう思う?」その一言で、場の視線が一斉に智宏へ集まる。美羽や靖彦、さらには花織までもが、彼の返答を待っていた。智宏は一度だけ由奈に視線を送り、安心させるように小さく頷くと、静かに言い放つ。「今回、責任を問われるべきは――神田家のほうではありませんか?妹に薬を盛り、尊厳を踏みにじろうとした件は棚に上げておいて……今度は被害者の顔をするんですか。妹の責任を問う前に、まず説明すべきことがあるはずです」和馬の視線が、わずかに揺れる。だが静華は、表情ひとつ変えなかった。「薬?何のことかしら。証拠でもあるの?それに――実際に怪我をしているのは、うちの息子よ」「妹が無傷なら、被害者ではないとでも?」智宏の言葉に、静華は一瞬言葉を詰まらせる。
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第519話

静華と和馬の顔色は、見るからに冴えなかった。とりわけ和馬は、頭を殴られた屈辱を飲み込めず、喉元で引っかかっているような顔をしている。本来なら――由奈を自分のものにして、思い通りに躾けてやるつもりだった。だが彼女に離婚歴があると知った今、そのプライドがそれを許さない。かといって、このまま引き下がるのも癪だ。その葛藤が、隠しきれず表情に滲んでいた。一方の静華は、もはや体裁を取り繕う気もない。「……信三さん、どうされるおつもりです?」冷えた声で切り出す。「正直申し上げて、こちらとしては納得できません。うちの息子は初婚なんです。それが、離婚歴のある女性と結婚するなんて――世間の笑いものですわ」その言葉には、露骨な軽蔑が含まれていた。信三の表情が、わずかに曇る。「……神田家が損をしたくない気持ちは分かった。だが、それはこちらも同じだ」静華はすぐさま反論しようと口を開く。「でも、そちらのお孫さんがうちの息子を――」「その前に」低い声が、場の空気を断ち切った。口を開いたのは――靖彦だった。それまでほとんど沈黙していた彼が、はっきりと割って入る。「薬を盛ったのは、そちらの息子でしょう?由奈さんだって被害者だ」その一言で、場の空気が一瞬にして凍りついた。美羽が驚いたように靖彦を見る。肘で軽く小突くが、靖彦は一切視線を向けない。ただ静かに、花織へと一瞥を送った。花織はその視線を受け、わずかに目を伏せる。何かを測るような沈黙が落ちた。由奈も思わず目を見開く――まさか、靖彦がこちら側に立つなんて。だがすぐに表情を整え、何も言わずに状況を見守った。静華は堪えきれず、机を叩いて立ち上がった。「うちの息子が薬を盛るなんて、証拠でもあるの?」「調べればすぐ分かるだろ」靖彦は面倒くさそうに言い放つ。「そういう類の薬を買った履歴くらい、追えると思うけど」その言葉に、静華の顔色が変わる。言葉を詰まらせた、その瞬間――「それなら、話は簡単ですね」智宏が穏やかに口を開く。その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。「神田さん。あの夜のこと、最初から最後まで――きちんと説明していただけますか?」その一言に、静華の表情がみるみる強張る。しばらく重い沈黙が流れたあと、彼女は唇を噛みしめ、ゆっくりと靖彦と美羽へ視線を向けた。「……なる
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第520話

由奈は自宅に戻り、車を降りた瞬間、思わず庭の一角へと視線を向けた。ツタに覆われた石造りの東屋。中の緑は庭師の手で丁寧に整えられ、乳白色の大理石の壁に映えて、どこか瑞々しい生命力を放っている。その東屋では、恭子が誰かをもてなしていた。柔らかな笑みを浮かべ、そばでは使用人が静かにお茶を注いでいる。やがて由奈の姿に気づき、そっと耳打ちすると、恭子が振り返った。「ゆうちゃん!」嬉しそうに手を振る恭子。由奈はその向かいに座る男へと視線を移す。背中を見た瞬間――誰なのか、すぐにわかった。「おかえり、ゆうちゃん」恭子は穏やかな声で続ける。「お友達が来てくれたの。ゆうちゃんがいなかったから、私がお相手してたのよ」祐一がゆっくりとまぶたを上げ、由奈を見据えた。由奈は視線を外しながら恭子のそばへ寄り、小声で囁く。「お母さん、こういう時はまず私に連絡してね。変な人だったらどうするんですか?」――変な人。祐一はその言葉をしっかり聞いていた。仮面でもつけていなければ、呆れた表情を隠せなかっただろう。「変な人?そんなことないよ」恭子はくすっと笑う。「だってこの方、ゆうちゃんのこと、すごくよく知ってるもの」……絶対、何か変なこと言ってる。内心で呆れつつ、由奈は唇をきゅっと噛み、祐一を睨む。口の動きだけで、はっきりと伝える。――余計なこと言わないで。祐一はわずかに目を細め、楽しげに返す。――何を?二人のやり取りを見て、恭子は何かを察したように微笑んだ。そっと立ち上がる。「じゃあ、ゆうちゃん。お友達とゆっくり話してらっしゃい。お母さんは部屋に戻るわ」そう言って、使用人も一緒に連れてその場を離れていった。祐一は肘をテーブルに乗せ、片手でこめかみを支えながら由奈を見上げる。「ずいぶん早かったな。もう少しお母さんと話したかったのに」「……何を話してたの?」「いろいろだよ。天気の話から世間話、それから――」わざと間を置き、口元に笑みを浮かべる。「君のことも」「祐一」由奈は目を伏せたまま、静かに言う。「前に言ったこと、忘れてないよね?私はあなたと復縁する気はない。だから、こんなことをしても時間の無駄よ」祐一はしばらく何も言わなかった。やがて、ゆっくりと口を開く。「……その話ならもちろん覚えてる」低く、少しかすれた声だっ
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