All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 531 - Chapter 540

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第531話

店の前に停まった車に気づいたオーナーは、運転手の顔を確認するとすぐに表情を緩めた。「おや、白石さん、仕事帰りですか?今日もいつものお酒で?」倫也は軽くうなずく。「はい、いつものもので」常連客の顔はだいたい覚えているオーナーだが、とくに倫也のことは印象に残っていた。店ではあまり売れないメーカーのビールを、なぜか彼だけは気に入ってよく買っていくからだ。そのやり取りを聞いていた紬が振り返り、倫也を見た瞬間、ぱっと表情を明るくした。まるで救世主でも見つけたかのように、勢いよく駆け寄る。「えっ、白石さん?ちょうどよかった!」突然声をかけられた倫也は眉をひそめる。オーナーは二人を見比べながら首をかしげた。「お二人は、知り合いなんですか?」倫也が答える前に、紬が先に口を挟む。「はい、昔からの知り合いなんです!で、さっきのモバイルバッテリーの利用料金、いくらでしたっけ?払います!」オーナーは手をひらひら振った。「数百円だけですし、常連さんのご友人ってことで、今回はサービスしますよ」そう言って店の奥へ酒を取りに戻っていく。紬は満面の笑みで頭を下げた。「ありがとうございます!本当に助かりました!」その様子を見ながら、倫也が淡々と口を開く。「どうしてここに?」紬は振り返って肩をすくめた。「ちょっと道に迷っちゃって……でもすごい偶然だね。こんなところで白石さんに会うなんて」「道に迷った?」「そうそう、それで――あの、一万円貸してもらえません?」倫也は無言で彼女を見た。「どうしてですか?」「それは……ちょっと詐欺に遭っちゃって、今お金持ってないの」紬は表情を曇らせながら、一気に事情をまくしたてる。「お義姉ちゃんに迎えに来てもらう予定だったんだけど、今いる場所を教える前にスマホの電源が落ちちゃって……だからここまで歩いてきたの。しかもカードも制限かかっちゃって使えなくて、さっきのモバイルバッテリーもオーナーさんが代わりに借りてくれたし……ほんと今、手持ちゼロなの」倫也は黙って最後まで聞き、短くうなずいた。「それなら、滝沢社長に連絡すればいいのでは?」紬は言葉に詰まる。深く息を吸い込み、気持ちを立て直してから言い返した。「たまたま白石さんに会えたんだから、あなたに助けを求めたほうが早いじゃない。わざわざ祐一兄ちゃんに連絡
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第532話

紬は目を細めて笑いながら言った。「名誉が傷つくっていうなら、それは私のほうじゃない?私だって気にしてないのに、白石さんのほうが気にするの?」「気にする」倫也はそっけなく視線を外し、小さく続けた。「松本さん、『鉄面皮』って言葉、知ってます?」紬は一瞬きょとんとしてから、眉をひそめる。「……それって、私のこと言ってるの?」「さあ。自分で考えてみたらどうですか」そう言い残すと、彼はそれ以上説明する気もないままエンジンをかけ、車を走らせてしまった。「ちょっと待ってよ!」遠ざかっていくテールランプを見送りながら、紬は地団駄を踏むように足を鳴らし、思わず振り上げた手を慌てて引っ込める。危うく、そばの街路樹に指を突き立てそうになるところだった。「鉄面皮って……難しい言い方ばっかりして!」深く息を吸っても、胸の中のむしゃくしゃはまったく収まらない。海外にいた頃はもちろん、西条市にいたときだって、こんなふうに男性に相手にされなかったことなんて一度もなかったのに。……でも。さっきの冗談は、少し言い過ぎだったかもしれない。そもそも倫也が由奈とうまくいかなかったのは、自分が横から余計なことをしたせいも、多少はある。紬はしばらく真面目に反省していたが、その途中でスマホが鳴り出した。画面を見ると――由奈からだった。……由奈が紬の送ってきた位置情報を頼りに、道路脇で待っていた彼女を見つけた。無事だと確認して、由奈はようやく胸をなで下ろす。車に乗り込むなり、紬は一万円を貸すよう頼んできた。理由も聞かず、由奈はそのままお金を渡す。すると紬はすぐ車を降りてコンビニへ駆け込み、数分後には慌てた様子で戻ってきた。「早く出して!」何が起きたのか分からないまま、由奈はとりあえず車を発進させる。走り出してすぐ、バックミラーをのぞいた彼女は思わず目を見張った。コンビニのオーナーらしき人物が店の外まで追いかけてきている。いったい何があったのか。「……紬さん、店のものでも壊したんですか?」「いや、壊してないよ」「じゃあ、どうして店の方が追いかけてきてるの?」紬は背もたれにぐったりと体を預けながら、あっけらかんと答えた。「スマホの電池が切れちゃってたでしょ?そのときお金も持ってなくて、オーナーさんが代わりにモバイルバッテ
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第533話

騒動が完全に落ち着いてから二日後、由奈はようやく研究所へ復帰した。裕人が江川市へ戻って以降、倫也はほとんど研究室に張りついたままの状態で、新薬開発のデータ解析に追われ続けており、同じ部署のスタッフですら顔を合わせる機会が減っているほどだった。長く現場を離れてしまった自覚のある由奈は、復帰するとすぐに核心プロジェクトの進捗確認に取りかかる。二時間ほど資料を整理したあと、報告のため倫也のオフィスを訪ねると、彼はちょうどスクリーンいっぱいに表示されたAD治療薬のパイプラインデータを見つめながら、眉を寄せているところだった。由奈は軽くノックをする。倫也が顔を上げ、静かに入室をうながした。由奈はスクリーンのデータに視線を向けながら尋ねる。「何か問題でもあったんですか?」「次の段階に進めるには、臨床側の要求を裏づける大規模データがまだ足りません」彼は指先で机を軽く叩きながら、再びスクリーンへ視線を戻す。「これまでの実験結果自体は悪くないんです。ただ、代謝経路のシミュレーションを回したら、いくつかの重要酵素の活性が想定とずれていました。血中濃度の安定性にも影響が出ています。このまま第Ⅲ相まで進めば、失敗する可能性がかなり高いです」由奈も自然と表情を引き締める。しばらく考えてから口を開いた。「もしAD患者の髄液サンプルをある程度まとめて確保できたら、深度シーケンスで遺伝子レベルの差異を洗い直せると思います。突破口になる可能性はありませんか?」倫也は一瞬だけ動きを止め、由奈の方を見た。「……できますか?」由奈は迷わずうなずく。「やります。全力で」そのまま退出しようとしたところで、倫也が再び声をかけた。「怪我のほうはもう大丈夫ですか?」ネットで騒がれていた件は当然彼も知っていた。ただ、どんな立場で気遣えばいいのか分からず、これまで言葉にできずにいただけだった。由奈は肩をすくめて笑う。「もう平気ですよ。ほら、普通に動けてますし」そして少しだけ表情をやわらげて続けた。「それより、稲垣先生が戻ってから、白石先生はずっと一人で回してるんですよね?無理しすぎないでください」倫也は視線を落とし、小さく笑った。「わかりました。気をつけます」由奈は軽く会釈してオフィスを出た。すると廊下で職員が声をかけてくる。「池上さん、所長がお呼びで
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第534話

由奈は我に返ると、昌也に軽く頭を下げて挨拶を済ませ、そのまま祐一の後を追って研究所の廊下へ出た。歩幅の大きい彼に追いつきながら、由奈は小声で問いかける。「ヤクモヘルス傘下の製薬会社を統合するって……あれ、おばあさまの会社だよね?田辺義久の立場で進めるつもりなの?」祐一は足を止め、振り返った。「そうだが、それが何か?」当然だと言わんばかりの口調だった。「おばあさまは知ってるの?」「知らない」あまりにもあっさりした返答に、由奈は思わず息をのむ。「祐一……おばあさま、まだ入院中なのよ。そんな話を勝手に進めて――」言い終える前に、祐一が静かに口を挟んだ。「そんなに心配なら、顔を見に行けばいい」そう言って彼は自然な仕草で手を伸ばし、由奈の耳元にかかった髪を軽く払う。「おばあさまも喜ぶと思うよ」耳のあたりがくすぐったくなり、由奈は反射的に一歩距離を取った。「……もう家族でもなんでもないから、さすがに行きづらいよ」祐一は小さく笑う。「家族じゃないからって、行っちゃいけないのか?」由奈は言葉に詰まる。本当は――行きたくないわけじゃない。ただ、どう向き合えばいいのか分からないだけだ。祐一はそんな彼女の様子を見て、ふっと口元をゆるめたあと、表情を少しだけ引き締める。「ヤクモの件は、思いつきで決めたわけじゃない。ちゃんと考えて動いてるし……おばあさまも反対しないさ」その言い方には、不思議な確信があった。由奈はそれ以上追及せず、黙ってうなずいた。……ヤクモヘルスグループ傘下企業が統合対象になるという話は、その日のうちに将吾の耳に届いた。現在はヤクモヘルスの経営を任されている立場とはいえ、最終的な決定権は依然として和恵が握っている。今回の統合の話についても、将吾は最後になってようやく知らされたのだった。将吾は会社を飛び出すようにして病院へ向かい、手土産を抱えて和恵の病室を訪ねた。ここ最近は体調が少し持ち直していたとはいえ、病状そのものは依然として安定しているとは言えず、和恵はまだ入院療養を続けている。大げさなほどの手土産を抱えて現れた息子の姿を見た瞬間、和恵はだいたいの事情を察した。新聞を静かに畳み、穏やかな声で言う。「ヤクモヘルスの統合の件で来たんでしょう」将吾はベッド脇に手土産を置きながら、抑えき
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第535話

「ええ。たとえ赤の他人に会社を渡すことになっても、あんたには任せない」和恵のその一言は静かだったが、ためらいはなかった。その瞬間、親子の間にある絆が音もなく断ち切られたようだった。将吾は拳を強く握りしめる。長い間押し殺してきた感情が一気に噴き出したのか、目の奥には抑えきれない憎しみが滲んでいた。そのとき、麗子がドアをノックして病室に入ってきた。将吾は言葉を飲み込み、暗い表情のまま踵を返して病室を出ていく。去り際、行き場のない苛立ちをぶつけるように、ドアを強く閉めた。突然の物音に麗子は肩を震わせるが、すぐに視線を和恵へ戻す。沈み込んだ様子の彼女を見て何か声をかけようとするものの、どこまで踏み込んでいいのかわからず、言葉を選びかねて立ち尽くした。やがて和恵がぽつりと呟いた。「私は……きっと、母親として失格だったのね」もしそうでなければ、実の息子とここまでこじれるはずがない――そんな思いが、その声にはにじんでいた。麗子はすぐには否定できず、少し考えてから静かに口を開く。「そんなことありません。誰だって完璧にはなれませんし、長所があれば短所もあります。でも和恵さんは、お母さまとしてだけじゃなく、滝沢家のためにずっと尽くしてこられました。お二人の息子さんやお孫さんのことも、誰より大事に思ってこられたはずです。将吾さんも、きっと今は気持ちが行き詰まっているだけで……落ち着けば、和恵さんのお気持ちはわかってくださいます」和恵はゆっくり顔を上げ、少し濁った目で窓の外を見つめた。零れたため息には、積み重ねてきた年月の重さと、どうしようもない無力感が滲んでいる。「小さいころから、将吾はずっと思っていたはずよ。私が将平ばかりひいきして、自分のことなんて見ていないって。でもね、将平は性格が落ち着いていて、滝沢家を背負う立場だったから、どうしても厳しくせざるを得なかったの」少し間を置き、和恵は続けた。「その分、将吾にはせめて気楽に生きてほしいと思っていたの。もともと繊細で傷つきやすい子だったから……重いものを背負わせたくなかった。でも結局、それが逆に伝わらなかったのね」麗子はそっとぬるめの水と薬を差し出しながら、やわらかく声を添える。「和恵さんのお気持ちは、いつか必ず将吾さんにも伝わります。血のつながった親子ですから、乗り越えられな
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第536話

「まさか……あなたが迎えに来るなんてね」由奈は自分を嘲笑いに来たのだと、美羽が決めつけているようだった。視線にも声にも、露骨な警戒がにじむ。「どうせ私の失敗を見物しに来たんでしょ。でも残念だったわね。私はそんな簡単に折れるつもりはないから」由奈は落ち着いたまま、静かに首を振る。「今日は、そういうつもりできたわけじゃありません」それでも美羽は顔をそむけたまま、まるで信じようとしない。由奈は焦ることなく言葉を続ける。「あの事故のことも、兄が襲われた件も……私は最初から、美羽さんがやったとは思っていません」その一言に、美羽の眉がわずかに動いた。横目で由奈を見るが、何も言わない。由奈は視線をまっすぐ向けたまま続ける。「美羽さんは、娘さんを政略結婚から助けたかっただけです。だから兄ではなく、私を狙っていました。もし最初から兄を消すつもりだったなら、もっと前に動いていたはずです」美羽の表情が変わる。「……それ、どういう意味?」引っかかったのは、最後の一言だった。「兄を襲った人たちは、静華さんの部下だったと兄が突き止めています。でも――静華さん自身が指示した形跡はありません」由奈は落ち着いた声で続けた。「つまり、犯人は確かに静華さんの部下ではあるけれど、静華さんの命令で動いたわけではない、ということです。そして中道家の中で、静華さんといちばん親しかったのは――美羽さん、あなたです」その瞬間、美羽の顔色が変わった。「ちょっと待って!私がやったことなら認めるわ。でも、やってもいないことまで勝手に押しつけないでちょうだい!」由奈は動じない。むしろ、その反応を待っていたかのように静かに言葉を続けた。「美羽さん、おかしいと思いませんか?」一歩近づき、まっすぐ彼女を見つめる。「あなたは何もしていないのに、疑いの矛先があなたと静華さんに向くようになっています」わずかに間を置く。「誰かが意図的に、そう見えるよう仕向けている可能性があります。私たちの目を美羽さんに向けさせて、さらに正面から衝突させていれば……その間に、本当の黒幕だけが逃げられます」美羽は言葉を失った。そんな可能性を――これまで一度も考えたことがなかった。あまりにも出来すぎた流れだったのに、疑問にすら思っていなかったのだ。由奈はさらに静かに言う。
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第537話

由奈は祐一をちらりと見た。「役職が高くなればなるほど、責任も重くなるでしょ。そういうの、私は好きじゃないから」祐一はそれを聞いても何も言わず、ただ静かに笑った。もし彼女が本当に名声や肩書きを求めるような人間だったなら、海都市にいた頃から、名前は広く知られていたはずだ。何より、あの有名な論文を十年ものあいだ匿名のままにしていた彼女が、今さら世間の評価にこだわるとは思えない。こうして、彼女のことを知れば知るほど、祐一の胸の奥に積もるのは尊敬よりもむしろ痛みだった。そして同時に、過去の自分への嫌悪もまた少しずつ深くなっていく。ふと由奈が振り返ると、祐一がいつの間にかだいぶ離れていることに気づき、不思議そうに眉を寄せた。「……何してるの?そんなにゆっくり歩いて」祐一はその声ではっと我に返り、歩幅を速めて彼女の横に並ぶと、口元にわずかな笑みを浮かべたまま言った。「景色が綺麗だったから、見惚れてしまってね」由奈は周囲を見回す。廊下に並んでいるのは、どこにでもあるような観葉植物ばかりで、所内のあちこちで見慣れているものと変わらない。「どこにそんな景色が?」祐一は視線を静かに彼女へ移した。そのまなざしは深く、まるで揺れない水面の奥をのぞき込むようだった。「目の前にあるだろ」由奈は一瞬言葉を失い、わずかに咳払いをして顔をそむけた。「……何バカなこと言ってるの?」そう言いながら歩く速度を少しだけ速める。年を取ると、男ってみんなこんなふうに痛いセリフを口にするのだろうか。少し早足になった彼女の背中を見送りながら、祐一は低く笑った。その笑いには、張りつめていた何かがほどけたような安堵と、失いかけていたものを取り戻した人間だけが抱く静かな愛おしさが混じっていた。やがて二人が研究室に到着すると、ちょうどそのタイミングで倫也と鉢合わせになった。倫也は隣に立つ助手とデータの確認をしていたが、顔を上げた瞬間まず由奈を見て、それから自然な流れで彼女の隣にいる男へ視線を移す。祐一の顔の大半は仮面で隠れている。それでも、雰囲気や顔の輪郭までは隠せない。由奈はわずかに唇を噛み、紹介しようと一歩前に出た。「えっと、こちらは――」「大丈夫です」倫也は静かに言葉を遮った。「さっき所長から聞きました」祐一は笑みを浮かべ、そのまままっ
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第538話

紬は上機嫌で挨拶を済ませると、そのまま由奈の向かいの席に腰を下ろし、持ってきたコーヒーを机の上にそっと置いた。「はい、これ。お義姉ちゃんの分」由奈は顔を上げて、コーヒーを見てから少し笑う。「ありがとう。でも、てっきりすぐ飽きて来なくなると思ってました」「そんなことないよ!」紬はすぐに否定してから、少しだけ肩を回した。「ここ数日、引っ越しでバタバタしてたから、ちょっと疲れて休んでただけだって」そう言いながら何気なく倫也の執務室の方へ視線を向けると、ブラインドがきっちり閉められているのに気づき、目を丸くする。「えっ、珍しくない?あんなに閉め切ってるなんて」そして次の瞬間、いたずらっぽく笑った。「もしかして誰か隠してたりして?ちょっと見てくるね」「ちょっと待っ――」由奈が止めようとしたときには、もう遅かった。紬は軽い足取りのまま執務室のドアの前に立ち、こっそり隙間を作ろうと取っ手に手をかけた、その瞬間だった。内側から突然ドアが開く。予想外の出来事に体勢を崩した紬は、そのまま中へよろめき込んだ。祐一は咄嗟に一歩横へ身を引く。倫也も立ち上がって手を伸ばしたが間に合わず、紬はそのまま勢いよく床に膝をつき、結果として彼の足元に倒れ込む格好になってしまった。一瞬、空気が止まる。あまりにも気まずい構図だった。由奈は思わず額に手を当てる。……本当に世話が焼ける子だ。倫也は数秒だけ動きを止めたあと、何事もなかったかのように手を引いた。「この間の件の謝罪なら、別に土下座しなくても許しますよ」紬は顔を真っ赤にしながら立ち上がり、スカートについたほこりを払う。「別に謝罪なんかじゃないって。それより……誰だよ、いきなりドアを開けたの」文句を言いながら振り返った瞬間、目に入った人物を見てぴたりと固まり、そして、慌てて倫也の後ろへ回り込んだ。祐一はその様子を見て、低く笑う。「もう実家に帰ったんじゃなかったのか?」紬は一瞬言葉に詰まり、それでもなんとか笑顔を作った。「帰ってもやることないし……家にいても迷惑かけるだけだから、こっちでバイト続けようかなって思って」祐一は目を細める。「バイト?本気で言ってるのか」彼女の性格を知らないわけがない。「俺と一緒に帰るんだ」紬は唇をきゅっと結ぶ。「嫌、帰らない」
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第539話

夕食の時間になると、花織と靖彦は何事もなかったかのように信三と同じ食卓を囲んでいた。食事のあいだ、花織はいつも以上に信三の世話を焼き、料理を取り分けたり体調を気遣ったりと細やかに気を配っていたが、その様子を見ている美羽は、胸の奥からこみ上げてくる嫌悪感を必死に抑えていた。信三も、美羽の表情の変化には気づいていたようだった。だが気遣う様子はまったくなく、ただ淡々と言った。「この前のような騒ぎは、もう二度と起こすな。中道家の長女なら、お前も弟を見習って、もう少し行動を慎むべきだ」そして、少し間を置いて続ける。「昔、私の言うことを聞いて、あの留学生と結婚さえしなければ……今ごろお前も妹と同じように、もっと余裕のある暮らしをしていたはずだ」美雪は信三の勧めに従い、公務員のもとへ嫁いだ。確かに、いまの生活は安定していて、不自由もない。かつての美羽も、一度は思ったことがある。あのとき衝動のまま元夫を選ばなければ――自分の結婚は、あんな形で終わらなかったかもしれない、と。けれど今、父に求めていたのは過去を責める言葉ではなく、ほんの少しの気遣いだった。花織と靖彦の裏切りだけでも、胸は十分に苦しい。それなのに父は、また過去を蒸し返した。胸の奥が引き裂かれたような気がした。美羽は静かに笑う。「そうですね。妹はいいところに嫁いだから、義実家に守ってもらえます。彼女の娘だって、変な相手に嫁がされる心配なんてありません」そして箸を置きながら、続ける。「でも私は違います。離婚したとはいえ、一度嫁に出た娘なんて所詮『よその人間』。後ろ盾もないから、自分の一人娘さえ守ってあげることもできないんです」その言葉に信三の顔色がわずかに変わる。何か言いかけたそのとき、隣にいた靖彦が穏やかな声で割って入った。「姉さん、そんなに怒らなくてもいいだろ。お父さんだって心配してそう言っただけだ」そして続ける。「それに神田和馬だって、ちょっと気まぐれなところがあるけど、神田家には昇さんがいる。澪ちゃんが不自由するようなことはないはずだよ。子どもができれば、いずれ神田家でも立場は強くなるだろうし」もし昨日までの美羽だったなら、その言葉で自分を納得させようとしていたかもしれない。けれど今は違う。昼間の出来事を思い出した瞬間、胸の奥が冷えきる。美羽は小
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第540話

――まさか、本当に何かが起こるのだろうか。一方、用事を一通り済ませた美羽は家に戻った。胸につかえていたものが少し軽くなったのか、迷いなく花織の部屋へ向かう。ノックすると、ほどなくしてドアが開いた。花織はまだ髪も乾ききらないまま、体にバスタオルを巻きつけた姿で立っている。目の前に立つ美羽を見た瞬間、その表情がわずかに固まった。「……あら、誰かと思ったら、美羽さんだったのね」「ええ。靖彦じゃなくて、がっかりしました?」その名前を出された途端、花織の顔色が目に見えて青ざめ、ドアノブを握る指に力が入る。「何を言ってるのかさっぱりだわ。立ち話もなんだし、中に入って話しましょう」花織は平静を装って身を引いたが、美羽は一歩も動かなかった。「結構ですよ。どうせ今、使用人たちは昼休みでいませんし、父も留守――昨日と同じ状況ですから」そう言いながら、美羽の視線が花織の体に巻かれた、まだ湿り気の残るタオルへと滑る。口元には、露骨な皮肉が浮かんでいた。「父も年ですしね。あなたは満足できなくなって、もっと若い相手に目を向けたってわけですか?」「美羽さん、いったい何を言ってるの?」「とぼけないで」胸の奥に溜め込んできた悔しさが一気に噴き出し、美羽の声は自然と鋭さを増していく。「昨日この部屋から漏れ出た声、全部聞こえていましたよ。あなた……気持ち悪いと思わないんですか?義理の息子に手を出すなんて……徹也くんがこのことを知ったら、どう思うんでしょうね」次の瞬間、乾いた音が廊下に響いた。「黙りなさい!」花織の平手が、美羽の頬を強く打った。だが美羽はひるまなかった。むしろ相手が取り乱したことで確信を強めたように、小さく笑ってそのまま叩き返す。二人はその場でもみ合いになり、廊下の防犯カメラの真下で取っ組み合いの状態になる。その時、物音に気づいた靖彦が駆けつけ、慌てて美羽の腕をつかんで引き離す。「姉さん、何してるんだ!」勢いよく引かれた拍子に足元がもつれ、美羽は階段から落ちかけたが、とっさに手すりにつかまって踏みとどまった。乱れた化粧のまま顔を上げた彼女の目は、血がにじむように赤く染まっている。「靖彦……私たちはきょうだいでしょ?それなのに、この女のために私を裏切るの?」「何わけのわからないことを言ってるんだ!」靖彦は視線をそらし
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