All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 551 - Chapter 560

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第551話

和馬は手首の痛みに顔をしかめながらも、目の前の男がただ者ではないことはすぐに察したらしい。それでも悔しさを押し隠せず、歯を食いしばったまま言った。「池上さん、美羽さんの死の真相を、本当に知りたくないのか?」由奈は落ち着いた声で答える。「身内のことは、身内同士でなんとかします。ご心配には及びません」「ちょ――」「彼女の話、聞こえなかったのか?」祐一が横から冷たく言い放った。「耳が悪いなら……病院まで送って、医者に見てもらおうか?」その言葉には別の意味が含まれていることを、和馬も理解したらしい。思わず喉を鳴らし、車のそばまで後退する。それでも指を突きつけて吐き捨てた。「覚えてろよ」そう言い残し、そのまま車を発進させて去っていった。車が見えなくなったあとも、祐一はしばらく由奈の後ろに立ったままだった。ふと指先で彼女の髪をすくい上げ、軽く唇に触れる。「あいつ、本当にしつこいな」「あなたがそれを言う立場じゃないと思うけど?」祐一は一瞬だけ固まり、それから小さく笑った。「まあな。否定はしない」由奈は向き直る。「それより、どうしてここに?」「会いたかったから来たんだ」あまりにも真っ直ぐすぎる返事に、由奈は言葉を詰まらせた。「……ずいぶん暇なのね」祐一は何も言わず、ただ笑っただけだった。そのとき、屋敷のほうから秀明と秀雄が出てくる。由奈と「義久」が並んで立っているのを見て、秀明は一瞬だけ目を見張る。その隣で秀雄が軽く笑った。「由奈さんと田辺さん、なかなかお似合いだと思わないか?」秀明は口元を引きつらせる。「うちの娘に釣り合う男なんて、この世にはいない!」二人の話し声が聞こえ、由奈は振り返ると、祐一と少し距離を取った。「お父さん」秀明はゆっくり歩み寄りながら祐一を見る。わずかに眉をひそめたが、それでも穏やかに挨拶した。「田辺さんがいらしていたんですね。せっかくですから、中でお茶でもいかがですか?」祐一はその視線をまっすぐ受け止め、落ち着いた様子で軽く頭を下げた。「美羽さんの件を聞きまして、お悔やみをと思い伺いましたが……今日はあまりタイミングがよくなかったようですね」すると横から、秀雄が自然に会話に入る。「お気遣いありがとうございます。今日は父の体調のこともあって、きちんとお迎えできる状況ではなくて」
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第552話

黙り込む由奈を見て、祐一はわずかに体を彼女のほうへ傾け、片手で頭を支えながら低く言った。「……俺に協力してほしいって、そういえばいいのに」思いがけない言葉に、由奈は一瞬きょとんとする。「協力って……何を?」「何でも」その言い方に、由奈は眉をひそめる。「どうせ条件があるんでしょ?」祐一の目がかすかに揺れ、唇の端に柔らかな笑みが浮かんだ。「あるにはあるけど……決めるのは君だ」数日後――美羽の事故を偽装した件について、関係者のひとりが警察に出頭し、花織の関与を証言した。花織はすべてが靖彦の仕組んだことだと分かっていながらも、反論の証拠を持っておらず、結局は何ひとつ言い返せないまま責任を背負わされる形になってしまう。ただ、あのとき自分を守る材料を残しておかなかったことだけが悔やまれた。やがて信三は花織に離婚届を送らせた。徹也を産んだ情だけは汲み取り、いくらかの金銭は渡されたものの、それをもって中道家との関係は完全に断たれることになった。信三自身も数日静養を続けたことで体調はだいぶ落ち着き、その頃になると神田夫婦が和馬を連れて見舞いに訪れる。表向きは弔意を伝えるためだったが、話題は自然と中道家との縁談の話へと移っていった。静華としても、もはや選り好みしていられる状況ではなかった。澪以外に、栄東市で娘を和馬に嫁がせようという家などほとんど残っていない。ここで決断を先延ばしにすれば、神田家の跡継ぎの問題にまで影響が出かねないのだ。信三もそこでようやく澪のことを思い出し、しばらく考え込んだ末、美羽の初七日が過ぎてから改めて結論を出すことにした。信三のその態度を知った澪は、中道家に対してかろうじて残っていた最後の期待までも完全に失ってしまう。それ以来、彼女は部屋に閉じこもる日が続き、誰にも見せないまま静かに涙をこぼしては枕を濡らしていた。それでも、自分の運命はもう決められているのだと理解し、抗うことすらしなかった。そんな娘の様子を見かねて、ケレンがそっと部屋の扉を開ける。ベッドの脇に腰を下ろした彼は、少し訛りの残る発音でやさしく声をかけた。「澪……お父さんと一緒に、F国へ来ないか?」澪は目を伏せたまま、小さく首を振る。「おじいさまが……許してくれないの」母が生きていたころはまだ守ってくれる人がいた。けれど今はもう
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第553話

寝室の大きな窓の前では、祐一がソファにゆったりと腰を預け、足を組んだまま本をめくっていた。斜めに差し込む午後の光がガラス越しに彼の横顔を照らし、高く通った鼻筋の影を静かに落としている。その光は長いまつ毛の先までやわらかく縁取り、どこか穏やかな空気さえまとわせていた。本のページの端を骨張った指で軽く押さえながら、電話越しに聞こえる由奈の声に耳を傾けると、祐一は唇の端をわずかに上げる。「……君は、本当に手厳しいな」「そっちだって、今までそうだったでしょ」祐一は小さく笑った。「分かった。じゃあ――週末限定で」由奈は続ける。「澪さんと神田家の縁談だけど……神田家のほうから引いてもらいたいの」自分が正面から反対すれば、信三の顔を立てられないだけでなく、靖彦がまたこの件を口実に騒ぎ立てるのは目に見えている。もうこれ以上、兄や父に余計な負担をかけたくなかった。祐一はその意図をすぐに察したらしく、静かに応じた。「分かった。任せて」数日後――由奈は秀明と智宏と一緒にリビングで朝食を取っていた。温かい味噌汁を数口飲んだあと、彼女はようやく口を開く。「お父さん……前から話そうと思ってたことがありますが、どう切り出していいか分からなくて」その言い方に、秀明の胸がどきりと鳴る。まさか――義久のことじゃないだろうな。もう付き合ってるとか……?とはいえ、さすがに自分から聞くわけにもいかない。秀明は表情を崩さないようにしながら言った。「何でも言ってみなさい。大抵のことは受け止めるつもりでいるよ」由奈は少し唇を噛んでから続けた。「研究所で進めてるAD患者向けの新薬の開発、今ちょうど臨床試験の段階に入ってて……そのことで相談があるんです」母はAD患者だった。今は症状が安定しているとはいえ、記憶が少しずつ薄れていく様子や感情の揺れを目の当たりにするたび、胸が締めつけられるように痛んだ。そして今、その臨床試験に最も適した対象が――母と同じ状態の患者たちだった。これは母にとっての希望であると同時に、同じ病気に苦しむ多くの人にとっての希望でもある。けれど。「母に協力してほしい」。その一言が、どうしても口から出てこなかった。父が聞いても、きっとひどい話だと思うのだろう。そのとき、智宏が静かに箸を置いた。「僕は由奈を信
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第554話

由奈は廊下の壁にもたれ、秀明を待ちながら窓越しに母の様子を見守っていたが、胸の奥にはどうしようもない無力感が静かに広がっていた。アルツハイマー自体は決して珍しい病気ではない――けれど、自分の大切な家族がそれを患った瞬間、じわじわと削られるような痛みは、とても他人には理解できるものではなかった。やがて病室の扉が開き、秀明が出てくると、落ち込んだ様子の由奈に気づいて足を止め、そのまま歩み寄った。「そんな顔しないで。お母さんが誰を忘れようと、君のことだけは忘れないさ」そう言って少し間を置いたあと、秀明は静かに続けた。「今行っている研究も、お母さんのために頑張っているんだろ。だから――君がやろうと思うことなら、父さんは全力で応援するよ」その言葉に背中を押されたように、由奈はゆっくり顔を上げた。目の奥は赤く滲んでいたが、涙だけはこぼすまいと堪えながら、小さく声を震わせる。「……ありがとう、お父さん」秀明はやさしく笑い、肩を軽く叩いた。「何かしてほしいことがあれば言ってくれ。父さんは必ず力になるよ」研究所では――「紬さん、この書類、各部署に回してもらってもいいですか?」男性職員に声をかけられた紬は、腕いっぱいに抱えた書類を持ち直しながら明るく笑った。「了解!実験の方は全然わからないけど、こういうことならいくらでもやるよ」そう言って軽やかな足取りで部屋を出て行ったが、紬の背中を見送っている別の男性職員が肩を寄せてきた。「なあ、そっちの部署にいるあの子って、なんかすごく気さくじゃない?頼みごとも断らないしさ。今度紹介してくれよ」話を振られた男性は困ったように苦笑する。「いや……やめといた方がいいですよ。あの人、ちょっと特別な立場っていうか……」「別にいいじゃん、顔合わせるくらい。俺も飲みに誘いたいだけだし、そんなに警戒しなくても――」と、からかう声が続いたそのときだった。「女子を誘って飲み会をする話なら、勤務時間外でお願いします」背後から落ち着いた低い声が割り込む。振り返った二人は一瞬で姿勢を正した。「し、白石さん……!」倫也は表情を変えないまま視線を横に移し、黙って立っていたもう一人の職員に声をかける。「あなたも、持ち場に戻ってください」「は、はい!」男性職員は慌てて頷き、逃げるようにその場を離れてい
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第555話

由奈は採取したサンプルを研究所の実験区画へ運び、そのまま倫也に手渡した。倫也はサンプルを確認するとすぐ助手に渡し、「βアミロイドとタウタンパクの解析を優先して進めてくれ」と静かに指示を出す。助手が実験室へ入っていくのを見届けてから、由奈は少し申し訳なさそうに口を開いた。「すみません……予定より何日も遅れてしまって」倫也は手袋を外しながら首を横に振る。「気にしないでください。中道家のことで身動きが取れなかったでしょう?こうして、戻ってきてくれるだけで十分ありがたいです」そう言ってから、ふと思い出したように視線を上げる。「……ところで、米林圭介のことはまだ覚えていますか?」由奈は一瞬だけ目を見開いたが、すぐにうなずいた。「ええ、もちろん」倫也は白衣のポケットに両手を入れたまま続ける。「海外で斉藤家の関係者と衝突があって、銃撃を受けたらしい。ただ――まだ遺体は見つかっていません」その言葉を聞いた瞬間、由奈の胸がざわついた。「じゃあ……凪紗さんは?何か分かっていますか?」倫也は静かに首を振る。「今のところ、何も情報は入っていません」――情報がない。あのクルーズ船爆発事件から、すでに一年以上が過ぎていた。凪紗が圭介に連れ去られてからも、同じだけの時間が経っている。生きているかどうか――その答えすら、まだどこにもなかった。……その頃――澪は神田家のリビングに座り、神田夫妻と信三たちが進めている結婚の話し合いを聞き続けていた。だが胸の奥では、不安と焦りばかりが募っていく。由奈が動いてくれる――それだけが、今の彼女の頼みの綱だった。話題の中心になっていたのは、結納金の金額だった。もともと静華と美羽の間で話がまとまっていた額は一千万円。結納返しについても、美羽が手厚く用意してくれる約束になっていた。けれど今は、その美羽がもういない。さらに澪自身にも後ろ盾がない以上、静華は同じ額をそのまま出すことに難色を示していた。そんな空気の中、美雪が静かに茶を口に運びながら言った。「澪は亡くなった姉の娘です。それに姉は中道家の長女。五百万というのは……少し見劣りする気がしますね」昇は一度、静華の方へ視線を送り、余計な口を挟まないよう制してから穏やかに言った。「結納金は結婚の支度金でもありますし、その代わりと言っては
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第556話

信三はボディーガードの方へ視線を向けた。相手はすぐそばまで歩み寄ると身をかがめ、耳元で何かを告げる。その言葉を聞いた瞬間、信三の表情がすっと消え、次の瞬間には冷たい視線が神田夫妻へと向けられていた。まだ状況が飲み込めていない静華と昇だったが、直後、昇のスマホが鳴る。彼の秘書からだった。通話を受けた昇の顔色がみるみる変わっていく。「……何だと?」思わず立ち上がる。和馬が売春行為の現場で逮捕された。その知らせはまさに青天の霹靂だった。昇は急いで通話を切ると、信三に向き直る。「申し訳ありません。結婚の件は……ひとまず延期させてください。まずはこちらの問題を片付けなければ」そう言い残すと、静華とともに慌ただしく席を立ち、そのまま足早に屋敷を後にした。去り際、二人とも信三の顔を見る余裕すらなかった。そもそもこの縁談が決まってからというもの、昇は和馬に外で問題を起こさないよう厳しく釘を刺していた。由奈の件を除けば、大きな不祥事はほとんどなかったと言っていい。それなのに今回の騒動は違った。栄東市中に噂が広まり、しかもトレンドの上位にまで上がってしまったのだ。澪はその場でスマホの通知を確認して、ようやく何が起きたのかを知る。そして胸の奥で、小さく息を吐いた。――助かった。……今回の和馬の不祥事は、文字どおり街中の話題になっていた。昇が長年築き上げてきた社会的信用も、一晩で大きく揺らぐほどの衝撃だった。報道によれば、和馬が捕まったのは複数の男女が入り乱れる部屋の中で、警察が踏み込んだときには本人はすでに意識を失っていたという。しかも、過剰な違法成分を含む精力剤を服用していた疑いまで浮上していた。週末になっても、その騒動はまだ完全には収まっていなかった。その頃――由奈は祐一の車の助手席に座り、ここ数日話題になっているニュース記事をスマホで読みながら眉をひそめた。「……これ、もしかしてあなたが仕掛けたの?」さすがにやり方が大胆すぎる。これでは和馬は今後、栄東市で完全に笑いものになってしまう。祐一は少し目を細めた。「俺じゃない。手を回したのは悠也だ」由奈は驚いて顔を上げる。「斉藤さん?彼も栄東市にいるの?」祐一は軽くうなずいた。そして少し間を置いてから、静かに言う。「……あいつこ
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第557話

映画が終わり、由奈と祐一は並んでシアターを出た。祐一は腕にジャケットを掛け、自然な仕草で由奈のバッグまで持っている。その振る舞いはあまりにも自然で、周りの誰がどう見ても――二人は理想的な恋人同士だった。暗かった通路が、出口に近づくにつれて徐々に明るくなる。その途中で、由奈はふと足を止めた。肩に落ちた髪を指先で払うようにして、彼の横顔を見上げた。「祐一って、コメディ映画があまり好きじゃなかったよね?」記憶の中の彼は、こういう作品を選ぶ人ではなかった。祐一は一瞬だけ言葉を詰まらせる。指先が無意識にバッグの持ち手をなぞった。「最近は観るようになった」短い答えだったが、由奈はそれ以上は聞かなかった。ロビーまで出たところで、由奈は何か思い出したように立ち止まる。「そういえば――米林圭介さんが銃撃に遭ったって、白石先生から聞いた」祐一の喉がわずかに動く。声のトーンが先ほどより低くなる。「……ああ。先週のことだ」よりによって、このタイミングで倫也の名前が出るとは思わなかった。だが、それを口にするわけにはいかない。「それでお願いがあるんだけど」由奈は彼の変化に気づかないまま続けた。少しだけ迷ってから言う。「凪紗さんの居場所、探してもらえない?」祐一は顔を上げた。視線が重なったその瞬間――もう何も考えられなくなり、「わかった」と即答した。由奈は少し驚いたように目を瞬かせる。ここまで迷いなく引き受けられるとは思っていなかった。その動揺をごまかすように視線をそらし、周囲を見回す。やがて少し離れたケーキの店を指さした。「あそこのミルクレープ、美味しいらしいけど、寄ってみる?」祐一は小さく笑う。「君が行きたいなら」本当なら――紬が立てた予定通り動くべきだった。けれど今日は、彼女の気分を優先したかった。店に入ると、ちょうど窓際の席が空いていた。由奈が腰を下ろした直後、祐一は自然な調子で店員を呼ぶ。「アイスアメリカーノを一つ。それとウーロンラテを一つ。ラテは砂糖少なめで、ホットでお願いします」由奈は思わず顔を上げた。「どうして私がウーロンラテ飲むって分かったの?」祐一は眉を少しだけ上げる。「当ててみる?」由奈は口を尖らせて椅子の背にもたれ、腕を組む。「紬さんでしょ。あの子よく飲み物とか買ってきてくれるし」祐一
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第558話

由奈は耳がじんわり熱くなるのを感じた。慌てて視線を落とし、何かに気を取られているふりをする。気がつけば空はすっかり暮れかけていた。街に灯りがともり始め、やわらかな光が夜の輪郭を描いていく。丸一日歩き回った帰り道、夜風は思ったより冷たい。薄着だった由奈は、思わず肩をすくめた。その様子に気づいた祐一が、何も言わずにジャケットを脱ぎ、そっと彼女の肩へ掛けた。「風邪ひくなよ」由奈は襟元を両手で握る。布地から漂う、かすかな香り。木のような落ち着いた匂いの柔軟剤。――昔、よく知っていた匂い。そして、頑張って忘れようとしていた匂い。その瞬間、記憶が不意に蘇る。かつて、歩実に職務を利用して追い詰められ、個室で危うい目に遭いかけたあの日。彰が自分を病院まで送り届けてくれたあと、病院で祐一が同じようにジャケットを肩に掛けてくれた。けれど、あのとき彼が示したのはただの独占欲だった。彰と距離が近かったことが気に入らない。それだけだった。だが今は違う。彼の視線には、はっきりとした気遣いがある。祐一は、由奈の目に浮かんだわずかな揺れを見逃さなかった。胸の奥が、何かに刺されたような感覚が走る。謝りたい。けれど、「すまない」という一言だけでは足りないと分かっている。過去を蒸し返せば、この穏やかな時間さえ壊してしまう気がした。彼女に本当に許してもらうまでには、まだ長い時間が必要だ。祐一は視線をそらす。「送っていく」由奈は小さくうなずいた。並んで駐車場へ向かう途中、花屋の前を通りかかる。店先では、身重の店主が客に花を勧めていた。その視線がふと由奈に止まる。「今日は七夕ですよ。彼氏さんに花、買ってもらわないんですか?」「七夕?」二人は同時に顔を見合わせた。由奈は、当然知っていて連れてきたのだと思っていた。けれど――祐一は軽く咳払いをする。誤魔化すように視線をそらし、ショーケースの中のバラへ目を向けた。そして店主を見る。「この店のバラ、全部ください」店主は目を丸くする。「全部……ですか?」由奈も固まる。祐一は迷いなく答えた。「はい、全部」財布を取り出す。「カード使えますか?」「つ、使えます!」祐一は持っていた万年筆で伝票に住所を書き込む。「包み終わったら、ここへ届けてもらえますか」「はい、もちろん!
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第559話

麗子は通話を切ると、すぐに一本のメッセージを送った。それから何事もなかったような顔で病室へ戻る。和恵はちょうど書類にサインをしているところだった。手元にあるのは株式譲渡の契約書で、サインを終えると、その控えを隣にいる弁護士へ差し出す。「この契約書は誰にも渡さないでください。滝沢家の人間にも、です」弁護士はすぐにうなずく。「承知しました」和恵は続ける。「それから、この契約書は私の遺言書に組み込んでください。私が死んではじめて、効力が発生します」麗子と弁護士は顔を見合わせた。弁護士が慎重に問いかける。「和恵様……それはつまり――」和恵は軽く手を上げて言葉を遮った。「この日のことは、ずっと前から覚悟していました」そのとき、病室の外では、奈々美が花束を抱えたまま立ち尽くしていた。扉の隙間から漏れてくる会話が、断片的に耳へ届く。その一言一言が、細い針のように胸へ刺さってくる。奈々美はそっと後ずさり、冷たい壁に背を預けた。花束を握る手に力が入る。ラッピングペーパーがくしゃりと音を立てた。母から、祐一がまだ生きていて、しかも由奈のそばにいると聞いたときから分かっていた。自分は、祐一の代わりにはなれない、と。そもそも、彼の代わりになろうと思ったことなんてなかった。むしろ、兄としてずっと尊敬していた。ときどき思うことさえあった。もし祐一が実の兄だったらどれだけよかっただろう、と。けれど今、和恵が株式譲渡契約を遺言に組み込み、滝沢家の人間にも知らせないと言った。その「滝沢家の人間」というのは、きっと自分の両親と自分のことだ。奈々美も、同じ滝沢家の人間だ。何もできない両親が切り捨てられるとしても、どうして自分まで同じような扱いを受けなければならないのか。唇を強く噛みしめる。口の中に、かすかな血の味が広がるまで気づかなかった。拳を握りしめた指先は白くなり、花の棘が掌に食い込んでいることにも気づかない。彼女はようやく理解した。自分は最初から、大切にされたことなど一度もなかったのだと。今まで見てきたものは、全部、自分の思い込みだった。奈々美は静かに背を向けた。足元に、花びらが数枚だけ落ちていた。……翌日。由奈が目を覚ましたのは昼近くだった。父も兄も出かけていると思い込み、昨夜倉庫に届いた大量のバラをどうにかしよ
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第560話

智宏は由奈の真剣な表情をしばらく見つめていた。やがて視線がやわらぎ、さっきまで寄っていた眉間の皺も少しだけほどける。少し間をおいてから、床に置いたラケットを拾い上げた。「試用期間中、か……」低い声だったが、どこか、ほんの少しだけ折れたような響きが混じっている。「分かった。あなたの決めたことなら、もう口出しはしない。でも約束してくれ。これから何かあったら、必ず僕に話すこと。じゃないと、本当にもう知らないからね」由奈はすぐに腕にしがみつく。「それなら――お父さんには言わないでくれますか?」智宏は指で軽く額を押し返した。「……今のところはね」和馬のスキャンダルが報じられてから数日後、神田家はかなりの費用をかけて報道を抑え込んだらしい。報道こそ消えたが、スキャンダル自体が人々の記憶から消えるには、何年もかかるだろう。昇は今回の件に相当腹を立てているらしく、和馬を国外へ出す準備を進めているという話だった。そして当然ながら、中道家との縁談も白紙になった。そもそも昇は世間体を重んじる人物だ。あれほどの騒動を起こした息子のもとへ、相応の家柄の娘が嫁ぐはずもない。婚約解消をいちばん喜んだのは、間違いなく澪だった。由奈が様子を見に訪ねたとき、顔を見た瞬間に駆け寄ってくる。「由奈お姉ちゃん!」由奈は思わず立ち止まる。「お姉ちゃん?」澪は大きくうなずいた。「うん。私のほうが一つ年下だから、当然でしょ?」以前とは違って、今は本当に、心からそう呼びたいと思っている顔だった。由奈は少し困ったように笑いながら、一緒にリビングへ入る。栄東市に来てから、澪とは何度も会ったわけではない。それでも自然に話せる関係になっていた。これも縁なのかもしれない。そして澪との会話を通じて、由奈は中道家の事情についても少しずつ知ることになる。美雪は公務員の家へ嫁いでおり、信三から特に重視されている存在らしい。そのせいで、美羽は昔から美雪と比較され続けてきたという。姉妹仲は、良いとも言い難い距離感だった。美雪には娘と息子が一人ずついる。息子は年をとってから産んだ子で、いまはまだ高校生。娘は澪より三歳年下で、家柄の釣り合う相手と結婚しているという。一方、秀雄は独身のままだが、大切に守られている息子が一人いるらしい。母親は女優だったという噂がある
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