All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 541 - Chapter 550

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第541話

由奈が帰宅したのは、夜七時を回った頃だった。玄関をくぐる瞬間から、いつもと違う重たい空気が家の中に漂っているのがわかる。リビングでは智宏と秀明が何やら話し込んでおり、そのそばには本邸付きの使用人が静かに立っていた。昼間に美羽が口にしていた言葉がふと頭をよぎり、由奈は胸の奥に小さな不安を覚えながら、そっと声をかける。「……何かあったんですか?」秀明はソファに腰を下ろしたまま俯いており、その知らせをまだ受け止めきれていない様子だった。由奈は智宏の隣まで歩み寄り、その横顔を見上げる。智宏はしばらく言葉を選ぶように唇を閉ざしていたが、やがて低く口を開いた。「……美羽さんが事故に遭ったんだ」由奈は言葉を失った。――事故?……現場となった白鷺湖はすでに警察によって封鎖され、岸辺には遠巻きに様子をうかがう人だかりができていた。やがてクレーン車が湖の中から事故車を引き上げる。水滴を滴らせながら姿を現したのは、数千万もする高級車――美羽が普段から乗っていた車だった。その様子は通行人によって次々と撮影され、動画や写真がSNSに投稿されていく。やがて、【中道家長女、車ごと湖に転落し死亡】という見出しが一気に拡散され、瞬く間にトレンドの上位に躍り出た。一方、秀明は由奈と智宏を連れて急いで本邸へ戻った。リビングには、すでに美羽の娘、澪の姿もあった。由奈が彼女と顔を合わせるのはこれが初めてだった。どこかハーフのような雰囲気を漂わせながらも、顔立ちは母親に似た東洋的な印象が強い。だが今はその面影すら薄れ、ソファに座ったまま虚ろな表情で動かない。泣き腫らした目は赤く腫れ上がり、まるで魂が抜けたようだった。その姿を見た瞬間、由奈の胸の奥にじわりと痛みが広がる。まだ二十歳そこそこの年齢で、母を失う現実を背負わなければならないなんて――あまりにも酷だった。リビングの空気は重く沈み込み、息をするのも苦しいほど張り詰めている。上座には信三が座り、無言のまま煙草を何本も続けて吸っていた。普段は鋭い威圧感を放つその目にも、今は赤くなり、疲労の色が隠せない。その沈黙を破ったのは智宏だった。「……どうして急に事故なんて起きたんでしょう」そう言いながら、彼はさりげなく靖彦と花織の方へ視線を向ける。花織は息を吸うことさえ怖いような様
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第542話

低く鋭い声で信三が場を制した。しばらく目を閉じて深く息を吸い込み、ゆっくりと瞼を開いたときには、その瞳に浮かんでいた悲痛の色はすでに消え、代わりに家長としての鋭さが戻っていた。「正式な報告が出るまでは、憶測はやめておけ。秀雄、腕のいい弁護士と探偵を手配しろ。警察の捜査には協力するが、こちらでも独自に調べる」その声は決して大きくはなかったが、揺るぎない意思が込められていた。リビングは再び静まり返る。ただ今度の沈黙は先ほどまでとは違い、見えない水面の下で何かが動き始めたような、不穏な気配を含んだ静けさだった。その光景を見つめながら、由奈の胸の奥に冷たいものがゆっくりと広がっていく。美羽の死は――まるで静かな湖に投げ込まれた大きな石のように、中道家の表面だけ保たれていた均衡を一気に崩してしまった。やがて人は一人、また一人と席を立ち、皆がそれぞれ帰宅していった。由奈は秀明と智宏の後ろについて歩きながらも、頭の中では昼間の出来事が何度も繰り返されていた。智宏が二度声をかけても気づかないほどだった。「由奈」三度目に名前を呼ばれて、ようやくはっと顔を上げる。気づけば二人とかなり距離が開いてしまっていた。慌てて足を速めて追いつく。智宏は歩調を落として彼女を待ちながら、心配そうに声をかけた。「さっきからずっと上の空みたいだったけど、どうしたんだ?何かあるなら言ってくれ、ひとりで抱え込まないようにね」その言葉に、由奈は数秒だけ迷ったあと静かに口を開いた。「……実は昼間、美羽さんから電話があったんです」智宏は一瞬足を止めた。「車に乗ってから聞こう」短くそう言って歩き出す。帰り道、由奈は昼間の電話の内容を一からゆっくり説明した。話を聞き終えた秀明は、深く息を吐いた。「まさか……あの人がそこまで追い詰められていたとはな。だが、命をかけるほど守りたかった秘密って何だ?」由奈自身もそれが気になっていた。「美容クリニックに何か預けてあるって言ってましたけど、もし本当に危険を予感していたなら……そこに残したものが証拠のはずです」秀明はそれ以上何も言わなかった。だが運転席で黙って話を聞いていた智宏は、ほぼ状況を察していた。……翌日、由奈は車を走らせ、美羽が指定していた美容クリニックへ向かった。建物の前に車を止め、深
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第543話

担当医は一瞬きょとんとしたあと、すぐに納得したように笑みを浮かべた。「そうだったんですね。では、こちらへどうぞ」由奈は案内されるまま、美容クリニックの貴重品保管室へと足を運んだ。美羽が使っていた金庫は二十九番で、暗証番号を知っているのは担当医だけだという。担当医が番号を入力すると、小さな電子音とともに扉が開き、中には封筒が一つだけ収められていた。「こちら、美羽さんが一昨日、光治療に来られたときに預けていったものなんです。ご家族の方が来たら渡してほしいって念を押されていて……個人情報なので、中身については私たちも確認していません」由奈は静かにうなずき、その封筒をバッグの中へしまった。「ありがとうございます。助かりました」「いえいえ」礼を告げて保管室を出た由奈は、そのままエレベーターで一階へ降りた。だが扉が開いた瞬間、視界に入ってきた人物の姿に思わず足が止まる。――靖彦。こんな場所で会うとは思ってもいなかった。胸の奥がわずかにざわついたが、由奈は深く息を吸って表情を整えると、自分から声をかけた。「靖彦さん、奇遇ですね」靖彦は足を止め、険しい顔で由奈を見た。「どうしてここに?」それは挨拶というより、問い詰めているような口調だった。由奈は微笑みを崩さないまま答える。「友達とここで会う約束をしてまして。靖彦さんこそ、こちらにはよくいらっしゃるんですか?」「まあね」そう言い残し、靖彦はそのまま由奈の横を通り過ぎる。怪しまれずに済んだ――と胸をなで下ろしかけたそのとき、背中に声が飛んできた。「待て」由奈の肩がわずかにこわばる。振り返ると、靖彦はじっと探るような目でこちらを見ていた。「友達って、誰なんだ?」一瞬、言葉に詰まる。適当に名前を挙げて切り抜けるべきか――そう考えた矢先、背後から明るい声が響いた。「お義姉ちゃん!」振り向く間もなく、紬が駆け寄ってきて由奈の腕に抱きつく。「待たせちゃった?」由奈は思わず目を瞬かせたが、すぐに話を合わせる。「ううん、今来たところ」そう言ってから靖彦に向き直る。「靖彦さん、この子がさっき話してた友達です」紬はぺこりと頭を下げた。「こんにちは」靖彦は軽く鼻を鳴らしただけで何も言わず、そのまま表情ひとつ変えずにエレベーターへ乗り込んでいった。扉が閉
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第544話

由奈は祐一の言葉をどうにも信用できず、結局バッグから封筒を取り出してその場で封を切った。中に入っていたのは――まさかのボイスレコーダーだった。他に何も入っていないと確かめてから、首をかしげつつ再生ボタンを押し、少し音量を上げた。次の瞬間――車内に流れ込んできたのは、耳を疑うような生々しい声だった。由奈は一瞬固まり、顔が一気に熱くなる。慌てて再生を止めようとするが、指がもつれてレコーダーを落としてしまう。座席の下に転がり込んだそれを拾おうと身をかがめた、そのとき――女の声がはっきりと聞こえた。聞き覚えがある。間違いなく、花織の声だ。そして続いて聞こえてきた男の声に、由奈は思わず息をのんだ。――靖彦だったのだ。由奈はレコーダーを拾い上げたその瞬間、録音はちょうど途切れた。さっきまでの気まずさなど一瞬で吹き飛ぶ。今の音声こそが、美羽の死に繋がった「秘密」だと直感した。祐一が肩を揺らして小さく笑う。「だから言っただろ。中身を確認しないほうがいいって」彼は音声を聞いても、動揺することなく、ごく普通に振る舞っていた。由奈は眉を寄せる。「このこと……最初から知ってたの?」「ああ、しかも知ってたのは俺だけじゃない。秀雄さんが一番早く知ってたはずだ。たぶん智宏さんにも話してある」由奈は言葉を失った。秀雄は、中道家の中でも特に人脈の広い人物だ。普段はあまり表に出てこないが、ひとたび裏で動けば、誰よりも多くの情報を集めてくる。だがそれでも――こんな秘密まで握っていたとは思わなかった。しかも彼は、このことを智宏には伝えていたのに、秀明にも信三にも話していなかった。きっと、彼なりの考えがあったのだろう。「じゃあ……美羽さんは、この秘密を知ったから殺されたってこと?兄も同じ秘密を知ってたのに……」祐一はエンジンをかけ、車を発進させた。「彼は運がよかっただけだ。運が悪ければ――あの日で仕留められてたんだろうな」その言葉で、由奈の中で点と点がつながった。兄が襲われた理由。そして、自分が遭ったあの事故の意味。すべてが――一本の線になる。あの事故の本当の目的は、自分に世論の矛先を向けさせ、智宏の注意をそらすこと。そして、その隙に智宏を襲撃し、さらに責任を美羽と神田家に押しつける。――実の姉でも、ここまで
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第545話

運転手は慌てて「はい、すぐに」と応じ、次の交差点で車を大きく切り返した。だが靖彦が再び美容クリニックに駆けつけたときには、美羽の担当医という医者はどこにもいなかった。靖彦は苛立ちを抑えきれず、廊下にあったゴミ箱を思いきり蹴り飛ばす。鈍い音が響き、周囲の空気が一瞬で張り詰める。――美羽は、自分と花織の関係を知っていて、あえて挑発するような態度を取った。つまり、彼女が何か証拠を掴んでいる可能性が高い。そして、美羽が頻繁に出入りしていたこの美容クリニック。最も目立つ場所が、証拠を隠すのに最も安全な場所になることもある。だが――自分は一歩遅かった。靖彦はふと、さっきここで顔を合わせた人物を思い出す。――由奈。あのタイミングで彼女がここに現れたのは、偶然か?一瞬の迷いのあと、すぐに結論が出る。――偶然かどうかは関係ない。少しでも疑わしいなら、潰せばいい。どうせなら、あの兄妹をまとめて仕留めよう。……三日後、美羽の死は関係者の間で広く知れ渡っていた。表向きの死因は「飲酒運転による事故」。警察の正式発表はまだだが、それは本当の死因ではないだろうと、誰もがよくわかっていた。中道家は盛大な葬式を執り行い、会場には美羽の生前の友人や、中道家と関わりのある人々が静かに集まっていた。由奈は黒のロングカーディガンに、同系色のベルベットのプリーツスカートを合わせ、控えめなメイクでその場に立っていた。秀明の隣に並びながら、弔問客の顔ぶれを一人ひとり目で追っていく。その中に、ひときわ目を引く人物がいた。――美羽の元夫、ケレンだ。智宏から聞いた話では、彼はY国の大学で教鞭をとる教授で、留学中に美羽と出会ったらしい。異国の文化に惹かれ、そのまま結婚に至ったが――家の反対を押し切ったその結婚は、長くは続かなかった。理由は価値観のずれだそうだ。ケレンは遺影の前に立ち、長いあいだ動かなかった。何を思っているのか、その表情からは読み取れない。ただ――こんな形で再び向き合うことになるとは、彼自身も想像していなかったはずだ。由奈は静かに視線を外し、再び会場全体へと目を巡らせる。そして、ふと気づく。――澪がいない。母親の葬儀に、娘が姿を見せないはずがない。違和感が胸に引っかかったまま、考えを巡らせようとしたそのと
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第546話

葬儀が終わったあと、由奈は秀明と智宏、そして信三とともに病院へ向かった。病室の中では、感情を抑えきれず取り乱している澪を、ケレンが必死に慰めていた。信三は秀雄に視線を向ける。「医者はなんて言ってる」「母親の死を受け止めきれず、強いショックを受けたため、自殺を図ったのだろうと……」信三は病室の中を一度静かに見やり、意味深な表情を浮かべた。「うちは、ここのところ問題続きだな。こうも立て続けに騒ぎが起きるとなると……裏で誰かが動いていると考えたくもなる」深く息をついたものの、病室に入るつもりはないらしい。「澪の父親がついていれば大丈夫だろう。それから見張りも一人残せ。もう二度と、自殺なんて騒ぎを起こさせるな」そう言い残し、信三は歩き出した。そして秀明のそばを通りかかったところで足を止める。「秀明。少し話がある、ついてこい」「はい」秀明がうなずくと、智宏に由奈を託し、信三とともに廊下の奥へと去っていった。やがてその場には、由奈と智宏だけが残された。智宏は病室に入って澪の様子を見に行き、由奈は中へは入らず、静かに廊下で待っていた。十分ほどして、ようやく智宏が戻ってくる。二人はそのまま病院を出て車に乗り込んだが、しばらくのあいだ車内には重い沈黙が流れていた。やがて由奈が、小さく口を開く。「ねえ、お兄さん……靖彦さんと花織さんのこと、お兄さんは前から知ってました?」ハンドルを握る智宏の手が、わずかに止まる。彼はゆっくりと由奈のほうを見る。「……どうして、そのことを?」由奈は視線を落としながら答えた。「美羽さんが亡くなる前に残したボイスレコーダーがあって……そこに、あの二人が付き合っている証拠が入っているんです」智宏の表情が険しくなる。「そのレコーダーを持ち出したところを、誰かに見られていないか?」「ううん……たぶん、大丈夫だと思います」少し間を置いてから、由奈は続けた。「でも、それを取りに美容クリニックへ行ったとき、靖彦さんに会ったんです。あの人があそこに現れるなんて不自然だし……もしかしたら……」言葉の続きを飲み込む。智宏は短く息を吐いた。「そのレコーダーは、今どこにある?」「家です。部屋に置いたままにしてあります」……そのころ――青ヶ丘。インターホンが鳴り、使用人が玄関へ向かうと、そこに靖彦が
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第547話

由奈は肩をすくめ、小さく笑った。「お兄さんの気持ちはちゃんと分かってますよ。でも、私だってそこまで間抜けじゃない。あんな大事なもの、本当に家に置きっぱなしにするわけないでしょ?」思いがけない返答に、智宏は一瞬言葉を失い、きょとんとした顔で由奈を見つめた。「……どういう意味?」「坊ちゃん、いったい何が……?」不安そうに様子をうかがう使用人に、由奈はすぐ笑顔を向ける。「大丈夫ですよ。お仕事に戻ってください」「は、はい……」使用人はそれ以上何も聞かず、少し戸惑いながらもキッチンへ戻っていった。智宏は両手を腰に当て、大きく息を吐く。さっきまで彼が必死に車を飛ばして帰ってきたのは――由奈がこの件に巻き込まれ、美羽と同じ目に遭うのではないかと恐れたからだった。由奈は中道家に戻ってきたばかりだ。靖彦は、さすがに今すぐ堂々と智宏に手を出すことはできないだろう。だがその代わりに、由奈を狙う可能性は十分にある。その不安が、ずっと胸に引っかかっていた。そんな彼の表情を見て、由奈はそっと手を伸ばし、智宏の腕をつかむ。「安心してください。私、無茶はしないから」静かに言ってから続けた。「それに、あの録音データはもう消してあります。復元もできません」「……消した?」「はい。あれは最初から『おとり』だったんです。靖彦さんが本当に証拠を盗みに来るかどうかを確かめたかったから、わざとレコーダーを家に置いたんです。しかも、この情報もそれとなく流しておきました」智宏は額に手を当てて苦笑した。「なるほど……由奈って、けっこう大胆だな。靖彦さんを堂々と挑発するなんて」「だって、秀雄さんもお兄さんも、花織さんと靖彦さんのこと知ってたのに、あえて表に出さなかったでしょ?」そして、少し言葉を選ぶように続ける。「つまり――あの二人の関係を暴いたところで、せいぜい競争相手が二人減るくらいの意味しかないってことですよね」少し間を置いてから、さらに言った。「でも……肝心の徹也さん。私のもう一人の叔父は、まだ姿を見せていません」由奈は腕を組んだまま続ける。「中道家でトラブルが続いて、美雪さんまで戻ってきているのに……あの人だけ一度も顔を出していません。美羽さんは異母姉とはいえ家族でしょう?普通なら、お葬式のときくらい顔を見せるはずです
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第548話

徹也の言葉を聞いたあと、靖彦の高ぶっていた感情はようやく少しずつ落ち着きを取り戻していった。信三がいま、どれだけ秀雄を重用しているのか――それは靖彦自身が一番よく分かっている。それに、ここ最近中道家のことは、ほとんど秀雄に任されていた。同じ息子であっても、自分が口を挟めない場面が増えている。しかも秀雄は、すでに海外の大型案件をまとめ上げている。もしさらに、由奈と啓太郎の養子との縁談まで成立させてしまえば――自分がここまで積み上げてきたものは、すべて無意味になってしまう。靖彦は奥歯を噛みしめながら言った。「……で、お前には何か手があるのか」「どうせお母さんとの関係は、もう隠しきれないんだろ?なら、彼女を切り捨てるしかないんじゃないか?」靖彦は思わず固まった。握っていたスマホに力が入り、指の関節が白くなる。「……お前、何言ってるか分かってるのか?」電話の向こうから返ってきた声は、冷たいほど静かだった。「駒を切り捨てて自分を守る――お前は昔から得意だったじゃないか」そして、淡々と続ける。「美羽さんのときみたいにね」その言葉に、靖彦の喉がごくりと鳴った。胸の奥で心臓が激しく打ち始める。自分はもう十分に正気を失っていると思っていた。だが――徹也のほうが、はるかに踏み込んでいる。「……彼女は、お前の母親だぞ。本気で言ってるのか?」靖彦の問いに、徹也は短く笑った。「彼女に選ばせたところで、俺たちを選んでくれるとは限らないだろ」そして淡々と言い切る。「中道家で家族愛なんて、一番あてにならないものだって――お前のほうがよく分かってるはずだ」通話が切れたあとも、靖彦はしばらくスマホを指先でなぞり続けていた。顔には、濃い影が落ちている。――自分に冷酷な一面があることは分かっている。だが徹也は、そのさらに先を行っている。今は味方だからいい。だが――この先も味方でい続ける保証は、どこにもないのだ。……そのころ、警察の捜査にも新しい進展があった。復旧された防犯カメラの映像には、美羽が運転していた車が出発前に何者かに細工されているらしい場面が映っていたのだ。さらに検視結果では、美羽の血液からアルコールは検出されなかった。つまり――あの事故は、飲酒運転ではなかった。秀雄はその調査資料を信三の前に差し出した。
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第549話

信三は眉をひそめた。「なんだと?」「……姉さんを階段から突き落としたのは、俺です」靖彦は声を震わせながら言い、やがて堪えきれなくなったように泣き出した。「でも……殺すつもりなんてなかったんです。あの日、俺は姉さんと言い争いになって……自分がやったことがバレるんじゃないかって怖くて……俺は――本当にどうかしてた。取り返しのつかないことをしてしまった」言い終わるや否や、靖彦は自分の頬を思いきり叩いた。乾いた音が、静まり返った室内に響く。もう一度。さらにもう一度。「やめろ」秀雄が腕を伸ばして制した。「落ち着いて話せ。自分を傷つける必要はない」「全部、俺の責任です……お父さん。俺は……お父さんを裏切るようなことをしてしまいました……」「私を……裏切った?」信三は靖彦の言葉を反芻するように低くつぶやき、ふと隣に座る花織へ視線を向けた。花織は椅子に座ったまま、固まったように動かない。「俺は……花織さんと関係を持ってしまいました」靖彦は絞り出すように続けた。「誘惑されたんです。あのとき、俺は判断を誤った……全部俺の責任です。俺が姉さんを死なせたんです」その一言は、まるで雷のように居間の空気を裂いた。花織は勢いよく立ち上がった。顔色はみるみるうちに血の気を失い、指先まで震えている。「な……何を言ってるの!靖彦さん、でたらめはやめなさい!私があんたを誘惑するなんて、そんなことするはずないでしょ!」信三の視線が氷の刃のように花織へ突き刺さる。妻と息子が関係を持っていた――そんな話が事実なら、自分の面目は完全に潰される。花織は完全に取り乱し、信三の足元へ崩れるように跪いた。「違います!本当に違うんです!私は何もしていません!」「何もしてない、だって?」靖彦は乾いた笑いを漏らした。涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃになっているが、その声だけは妙に冷静だった。「まだ言い逃れするつもりですか。最初に狙ってたのは秀雄さんだったでしょう。何度も近づいて、機嫌を取ろうとしてた。でも秀雄さんは相手にしなかった。……俺はこの家で一番役に立たない息子だって、自分でも分かってた。でも花織さんは言ったんです。『あなたのことを本当に分かってるのは私だけだ』って……お父さんがいなくなれば、中道家はいずれ全部俺のものになる、そのとき彼女は堂々と俺の隣に立てる――そ
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第550話

花織が連れ出されたあと、先ほどまで怒号が飛び交っていたリビングは、嘘のように静まり返った。その場に残された三人もそれぞれ眉を寄せたまま言葉を失っている。今のは本当に靖彦が衝動のまま口にした告白だったのか、それとも最初から仕組まれていた責任転嫁なのか――もし花織が本当に黒幕だったのだとしたら、あれほど簡単に取り乱し、数言で疑いを決定づけるような振る舞いをするだろうか。どこか、何かが噛み合っていない。信三は青ざめた顔のまま、湯呑みを握りしめていた。妻と息子が関係を持ったという事実が、鋭い棘のように胸の奥へ突き刺さり、呼吸さえ重くするほどの屈辱となって彼を締めつけている。長年この家の当主として家のことを仕切ってきた自分が、まさか妻と、最も気に留めていたなかった息子に裏切られていたとは――湯呑みの中の茶がかすかに揺れ、その表面に映った彼の目には、隠しきれない衝撃と怒り、そして深い屈辱が滲んでいた。乾いた唇を強く噛みしめるが、言葉は出てこない。ただ胸の奥で膨れ上がる怒りと失望が、今にも彼を飲み込みそうだった。やがてその極限まで高まった感情が血圧を押し上げたのか、不意に視界が揺れた次の瞬間、信三の手から湯呑みが滑り落ち、床に当たって鋭い音を立てて砕け散った。「お父さん!」「おじいさん!」近くにいた智宏が真っ先に体を支え、秀雄と秀明も駆け寄る。由奈もすぐにそばへ寄った。「お父さん、秀雄さん、いったんおじいさんを横にしてください。仰向けで安静に。脳への血流が落ちるのを防ぎます」落ち着いた声で指示を出しながら救急へ連絡を入れ、現在の状態を簡潔に伝えたあと顔を上げる。「降圧薬はありますか?ニフェジピン系のものでも構いません」「あります!」使用人がすぐに答える。「すぐ持ってきてください」使用人は慌てて二階へ駆け上がっていった。床に跪いたままだった靖彦も、少し迷ったあと信三のそばへ寄ってきた。いかにも心配している様子だったが、この場でそれを気にする者はいない。やがて使用人が薬を持って戻ってくる。由奈が受け取って投与しようとした瞬間、靖彦が手を伸ばして止めた。「お前に投与量が分かるのか?もし何かあったら責任取れないだろ」その手を秀明が強く払いのけた。「医者だった娘に口出しする資格が、あなたにないと思うが」由奈
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