All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 571 - Chapter 580

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第571話

千代は一瞬言葉を失い、驚いたように目を見開いた。「お義母さん……いったい誰が、こんなことを?」和恵は苦く笑った。「あの子しかいないでしょ?もし私のことが心配して、やらなきゃよかったって反省してくれているのなら、責めるつもりもなかった。でも……結局、あの子は私を失望させたわ」その言葉を聞いた瞬間、千代の胸にある人物の顔が浮かぶ。「まさか……将吾さん?どうしてそんなことを……」実の母親を殺そうとするなんて。和恵は静かに息を吸い込んだ。「理由なんて決まっているわ。例の株式よ。ヤクモヘルスを将吾に継がせなかったのは、あの子に商才がなかったからなの。それに、彼のそばに、滝沢家を狙っている真由美がいる。けど、あの子は私の気持ちを理解しようともしなかった。たとえ一生、大きな成功を手にできなくても、堅実に生きてさえいれば、家族が困らないだけのものは残したつもりだったのに……」小さく息をつく。「もしかしたら私は、あの子のことを、一度でも本当に理解したことがなかったのかもしれないわね」千代はそっと和恵の身体を支え、枕を腰の後ろに差し込んだ。「将吾さんがそこまでするなんて……真由美さんに何か言われた可能性はありませんか?」和恵は静かに首を振った。「もう理由なんて構わないわ。今の状況は、すべてを語ったもの」そう言ってから、ふと思い出したように千代の手の上へ自分の手を重ねた。「千代さん。あんたは松本家の長女なのに、こんなにも長い間、滝沢家のために尽くしてくれた。本当に……娘のように思っているの」少し間を置いてから、やわらかく続ける。「私が祐一に由奈との結婚を勧めたこと……恨んでいない?」千代の表情がわずかに強張った。視線を落とし、小さく息を整えてから答える。「もう昔のことですから。今さら恨んでいるなんて、そんなことはないですよ」和恵は微笑んだ。「やっぱり、一度は恨んだのね」「お義母さん……」「祐一のことが心配だったのは分かっているわ」和恵はやさしく言った。「江川市での出来事、あんたも聞いたでしょ?あの子はもう、自分で選んで歩いていける年齢なの。私たちがいつまでも守ってあげなきゃいけない子どもじゃないのよ」静かに言葉を重ねる。「どんな選択をしたとしても、母親の私たちは……ときには引くことも必要なのよ。そうしないと――私と将
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第572話

由奈は二人のもとへ歩み寄り、徹也に向けて軽く頭を下げた。「また会いましたね、徹也さん」徹也は穏やかに笑い、手にしていたグラスを置くと、隣にいた澪へ視線を向けた。「澪ちゃん、買い物がしたいって言ってただろう。俺のサブカードを使っていいから、好きなだけショッピングしてきて。少しだけ、由奈さんと二人で話がしたい」「わかりました!ありがとう、徹也さん!」澪はぱっと顔を輝かせ、嬉しさを隠しきれない様子で立ち上がる。徹也がそばのボディーガードに目配せすると、相手は無言で頷き、澪とともにその場を離れていった。二人きりになるのを待ってから、徹也が静かに言った。「どうぞかけて」由奈は慌てる様子もなく腰を下ろし、やわらかな笑みを浮かべる。「私にお話とは、何でしょうか」「そんなに警戒しないで」徹也は茶を注ぎながら穏やかに続けた。「お前は智宏の妹だ。俺がお前に危害を加えるつもりはない。それに……秀明兄さんにも昔は世話になったからね」由奈はグラスを手に取り、指先でなぞりながらも、口元の笑みは崩さない。「そうなんですね。では今日私を呼び出したのは、まさか世間話だけ、というわけではありませんよね?」「それでも構わないだろう?」徹也は肩の力を抜いた口調で言った。「俺、長い間栄東市に戻ってこなかったけど、秀明兄さんが実の娘を見つけたって聞いてね。仕事に追われていなければ、すぐにでも戻りたかった。気を悪くしていないか?」由奈は彼をまっすぐ見つめた。澄んだ瞳の奥に、かすかな探るような光が宿る。「まさか。兄からも以前、徹也さんのお話は聞いていましたし……私もお会いするのを楽しみにしていました」その言葉に、徹也の動きがわずかに止まった。「智宏が俺のことを?彼はなんと?」由奈は少し首を傾げる。「私が栄東市に来たばかりの頃、中道家の皆さんを紹介してくれた時に簡単に説明しただけです」そう答えながら、由奈はさりげなく彼の表情を観察した。兄の名前が出た瞬間――徹也の表情が、不思議なほど柔らいだ気がした。どこか満ち足りたような、かすかな愉悦すら滲んでいた。二人は仲がいいのだろうか?だが、兄が彼を語ったときの表情は、決して同じようなものではなかった。考え込む間もなく、徹也が口を開いた。「つまり……中道家の事情は、ある程度わかってるってことだね」由奈はグラスを
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第573話

由奈はボディーガードとともにレストランを出て、少し離れた場所に停められている車へと歩いていった。後部座席の窓がゆっくりと下がり、祐一の横顔が、街灯の明かりと影のあいだに浮かび上がる。ボディーガードが車のそばまで進み、ドアを開けた。由奈は車に乗り込みながら言う。「偶然この辺に来た、ってわけじゃないよね?もしかして、私のことつけてるの?」「別につけてないよ」祐一はかすかに笑い、彼女へ視線を向ける。「君一人で対応しきれないんじゃないかと思ってさ」由奈は腕を組んだ。「別に大丈夫だったけど」祐一はそれ以上なにも言わず、ただ静かに笑っていた。「おばあさまが中毒で倒れたって聞いたけど」由奈は数秒ためらう。「……もう、大丈夫なの?」祐一は小さくうなずく。「心配いらない。命に別状はないよ」……その二日後。和恵が正式にICUを出たという知らせが、将吾と真由美の耳にも届いた。将吾はリビングの中を長い時間行き来し続け、表情は重く沈んでいる。「ほんとにしぶといわね、あの人……あれでも死なないなんて。祐一さんが戻ってきたら、私たちもう打つ手がなくなるじゃない」真由美は苛立ちと焦りを隠せない。祐一が生きていると知って以来、ろくに眠れていなかった。将吾は足を止め、鋭く真由美をにらみつけた。「慌てるな。いま対策を考えてるところだろう」声は低く抑えられていたが、その奥には剥き出しの苛立ちが滲んでいた。「やつは身分を隠して栄東市に潜んでる。すぐ戻れるはずがない。まだ時間はある」「でも……万全の手を打っておかないと」将吾は窓辺へ歩み寄り、外の曇った空を見つめながら言った。「今やるべきことは、混乱のうちに社内で様子見してる連中をこっち側に引き込むことだ。それと――」一拍置いて続ける。「栄東市で、祐一の足を止める人間を用意しなければ」真由美は一瞬言葉を失ったが、その意味を理解すると静かに立ち上がった。「……わかった。その件は私が動くわ」一方――靖彦は、自分と花織の関係を暴かれて以来、ほとんど自宅から出ていなかった。酒を飲んでは眠り、目が覚めればまた酒をあおる。そんな自堕落な日々を繰り返していた。そのとき、使用人がスマホを手に寝室のドアを叩いた。「靖彦様、お電話です」「誰だ」不機嫌そうに吐き捨てる。「それが……知らない番号で。海都市
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第574話

「そうだとしても、まだ話はまとまってないよね?」秀明はソファに腰を下ろしたまま、不機嫌さを隠そうともしなかった。祐一はわずかに口元へ笑みを浮かべると、静かに湯のみをテーブルへ置いた。そして落ち着いた口調で言う。「秀明さんのおっしゃる通りです」一拍置き、続ける。「ですが信三さんが気にかけてくださって、こうして時々声をかけていただいていますので……厚かましくも、お邪魔させていただいている次第です」控えめで礼を尽くした言い方だった。理由も説明しながら、同時に信三の顔も立てている。秀明はなおも言い返した。「ほんと、口が達者ですね」まだ何か言おうとしたそのとき、信三が静かに口を開いた。「秀明、お客さんの前だ。そんな言い方は失礼だろ」さすがに秀明も口を閉じた。しかし納得したわけではない。目の前の湯のみを手に取り、一気に茶を飲み干すことで、胸の内の苛立ちを押し込める。由奈はその様子を見て、内心ため息をついた。とはいえ口を挟むつもりはない――祐一が父とうまくやれないなら、それまでの話だ。むしろここをどう乗り切るかも、彼の力量のうちだと思っている。そう考えながらそっと視線を上げると、ちょうど祐一と目が合った。由奈は眉をわずかに上げる。――大変そうだね。そんな気持ちがにじむ、少し意地の悪い視線だった。だがそのやり取りに気づいた者はいない。代わりに場の空気を和らげるように、秀雄が穏やかに口を開いた。「すみません、田辺さん。うちの弟は昔からこういう性分でね。どうか気にしないでください」そう言いながら祐一の湯のみへお茶を注ぐ。「これは今年の新茶です。父がぜひ出せと言っていまして」祐一は視線を戻し、軽く頭を下げた。湯のみを手に取り、ひと口含む。「……いいお茶ですね。香りが澄んでいて、あと味もやわらかい」静かに続ける。「信三さんのご趣味の良さがうかがえます」信三は白くなった髭を撫でながら、満足そうに笑った。「ただの道楽だよ。庭いじりをして、茶を飲んでいるだけだ。田辺さんもお茶に詳しいのか?」祐一は穏やかに首を振った。「詳しいというほどではありません。ただ父が好きでして、自然と覚えただけです」啓太郎は西条市の出身で、あの土地は古くから茶文化で知られている。彼が茶に造詣が深いことは、信三も以前から聞いていた。しばらく二人の会話が
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第575話

「ぶっ――!」秀明は口に含んだ茶を思わず噴き出した。信じられないという顔で、どこか照れたように視線を伏せている娘を見つめる。祐一も同じだった。――婚約。その二文字が、耳の奥で何度も反響している。膝の上に置いた手が無意識に強く握られ、指の関節がわずかに白くなる。胸の奥では抑えきれないほどの喜びが静かに湧き上がっていた。もしここに他の人間がいなければ、本当にいいのかと、何度でも確かめるように彼女を抱きしめていただろう。信三の顔には、たちまち満面の笑みが広がった。「いいじゃないか。これもめでたい話だ」そしてすぐ秀明を見る。「秀明、お前はどう思う?」その一言で固まっていた秀明が我に返る。表情は複雑だった。「……私の意見って、まだ意味あります?」信三は即座に頷いた。「よし、これで決まりだ」……帰りの車の中は静まり返っていた。由奈は父の顔を見なくても分かる――きっと、拗ねているのだ。いきなり「婚約」を言い出したのは、やはり少し無謀だったかもしれない。「……お父さん」声をかける。だが返事はない。「もしかして……怒ってます?」小さく尋ねると、秀明は窓の外を見たまま言った。「怒るわけないだろ」そう言いながらも、声はどこか拗ねている。「君は悪くない。悪いのは向こうだ。口のうまい男は昔から嫌いなんだ。人の娘を丸め込むような相手は特にな」さらに続ける。「第一、彼の顔だってまだちゃんと見てないだろ。変な仮面なんかつけたままで……それで普通、好きになれるか?」運転席の運転手が思わず口元を押さえた。――会長、感情移入しすぎだ。それでも秀明は止まらない。「海外には妙な術があるって聞いたことがある。もしかして変なのでもかけられたんじゃないのか?」「お父さん……」由奈は小さく息を吸い込む。「実は、ずっと言おうと思ってたことがあるんです」秀明は即座に手を上げた。「言わないでくれ」そしてため息をつく。「どうせ聞きたくない話だ」由奈は視線を落とし、小さくつぶやく。「でも言わなかったら、あとでまた『隠してた』って怒るでしょ」「ここまで隠してきたなら、最後まで隠し通せばいい」秀明はこめかみを揉みながら言う。「婚約の件だって、君の気持ちはもう決まってるんだろ。ここで反対したら、今度は私が悪者になる」結局、折
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第576話

【祐一兄ちゃん、千代さんが会いに行ってるって!】紬からのメッセージだった。祐一の口元に浮かんでいた笑みが、わずかに消える。画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。何を考えているのか、自分でも整理がついていないようだった。ホテルに戻ると、ちょうど千代がロビーで待っていた。紬のボディーガードを通じて祐一の宿泊先を突き止め、直接ここまで来たらしい。行き違いになるのを恐れて、ラウンジにも入らず、ずっとロビーで待ち続けていたという。ホテルの支配人やスタッフが入れ替わり立ち替わり声をかけている。対応に失礼があってはならないと緊張しているのが伝わってきた。祐一がロビーへ足を踏み入れると、すぐに視線の先に、丁寧に立って待つ一団が見えた。彼は一度視線を落とし、そのまま静かに歩み寄る。「どうしてここへ?」その声を聞いた瞬間、千代がはっと顔を上げた。周囲のスタッフも一斉に振り向く。支配人が安堵したように口を開いた。「田辺さん、この方はお知り合いで?」長年ホテル業に携わってきた彼の目は確かだった。千代は名前しか名乗っておらず、ホテルの宿泊客に会いたいとだけ言ったが、身のこなしも装いも、身につけている宝飾も――明らかにただ者ではない。少なくとも名家の奥方クラスだと分かる。偶然にも、このホテルの最上階スイートを長期で押さえている「お得意さん」が祐一だ。この二人に何らかの繋がりがあると、支配人が判断した。祐一は仮面を外していなかった。それでも声も、体格も、そして目元さえも――千代には一瞬で分かった。「……母です」その一言で、支配人たちは素早く頭を下げ、その場を離れていった。人払いが済んでから、千代がゆっくり近づいてくる。目は赤くなり、震える手が持ち上がる。祐一は動かなかった。叩かれても構わないと思っていた。だが――その手は途中で止まり、そっと彼の仮面に触れ、そして静かにそれを外した。露わになった顔、輪郭、そして傷痕。それらを見た瞬間、今までずっと強くあろうとしてきた千代は耐えきれず、結局涙を流した。祐一の身体がわずかに震え、掠れた声で言った。「……母さん」千代は目元に手を当て、横を向いたまま涙を押し殺そうとする。「生きてたの……どうして……どうして知らせてくれなかったの……」祐一は何か言いかけて、結局謝罪の
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第577話

千代はうどんのスープまで残さず飲み干した。器を置いたあと、何を話せばいいのか分からなくなったように、しばらく黙り込む。その沈黙を破ったのは祐一だった。「おばあさまは……大丈夫だったか?」千代は頷いた。「命に別状はないわ。あんたの叔父さんが薬をすり替えていたことには気づいていたの。だから、あえて少しだけ飲んだのよ。命に関わらない程度に」そして静かに言う。「最後に、あんたの叔父さんに悔いる気持ちが残っていないかって確かめたかったらしいけど……結局、彼はもう目の前の利益しか見えてなかったみたい」祐一はグラスに水を注いだ。「これまで叔父さんもきっと……思うところはあったはずだ」千代はため息をつく。「彼、もともと商売に向いてなかったから、おばあさんは会社を任せなかったの。けど本人は、兄ばかり可愛がられて、自分だけが冷遇されているって思ってるでしょうね」そう言って祐一のほうを見て、少し疲れた表情になる。「祐一……こっちの用事が済んだら、海都市に戻ってきてくれる?」祐一は短く答えた。「ああ、戻るよ」その一言で、空気が少し落ち着く。「ただ……」祐一が水の入ったグラスをテーブルに置き、小さな音が鳴った。「叔父さんたちは、もう俺が栄東市にいることに気づいているかもしれない」千代がはっとする。「だからおばあさんにあんなことを?」祐一は頷いた。「でなければ、前から動いていたはずだ」千代の表情が曇る。しばらく考え込んでから言った。「今はまだ、お父さんが家をまとめてるから大丈夫だけど……次はどうなるか分からないわ」その不安を察した祐一が言う。「土屋に見張らせているから、心配しなくていい。好きにはさせさい」千代はようやく息をついた。「そう……」そのあと、祐一がふと口を開いた。「もう一つ、話しておきたいことがある」……翌朝。由奈は階下に降りてきたが、父の姿が見えなかった。椅子を引いて座りながら尋ねる。「お父さん、もう出かけたんですか?」雑誌を読んでいた智宏が視線を上げた。「そうだよ。大事な娘が、自分を傷つけた元夫と復縁して婚約まで決めたんだから。しばらくは立ち直れないんじゃないか?」由奈は言葉に詰まる。味噌汁をかき混ぜながら小さく言った。「……前世からの腐れ縁なのかも」そしてふと思いついたように顔を上げる。「ね
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第578話

由奈は、二人の間に流れる張り詰めた空気を見つめながら、しばらく状況を飲み込めずにいた。互いの関係が良好なのか、それとも決裂寸前なのか――判断がつかない。やがて智宏は、淡々とした顔で徹也の手を静かに払いのけた。「僕の大事なものに手を出した時点で、僕たちは敵だ」そう言い切ると、由奈の方へ視線を向ける。「行こう」その声で、由奈はようやく我に返った。黙って彼の後に続き、二人はそのままリビングへ向かう。背後では、徹也が去っていく二人の後ろ姿を見送っていた。無意識のうちに指先をこすり合わせながら、視線が重く沈んでいく。由奈は先ほどのやり取りの意味を整理しきれないまま、詳しく聞こうと口を開きかけたが――気づけば、もうリビングの前まで来ていた。中はすでに賑やかな空気に包まれていた。靖彦の姿こそ見えないが、美雪と澪、それに祐一もいる。「由奈、ちょうどいいところに来た」そう声をかけてきた信三は上機嫌のようだ。彼は湯呑を卓上に置いてから続けた。「中道家もしばらく慶事から遠ざかっていたな。秀雄の進めている案件に加えて、今回の婚約の話までまとまれば……まさに重ねての吉報というわけだ」秀雄が穏やかに微笑む。「ええ、その通りですね」「ところで、秀明はどうしたの?」美雪が口を挟んだ。「こんな大事な席に顔を出さないなんて……」その時、智宏が祐一の正面の席に腰を下ろす。二人の視線がぶつかると、祐一はわずかに目を細め、楽しげな笑みを浮かべた。「お義父さんがいらっしゃらなくても構いませんよ。お義兄さんが同席してくださっているだけでも、十分にありがたいですから」その言葉に、智宏の眉がぴくりと動いた。だが、何も返さない。美雪と信三も一瞬言葉を失う――まだ婚約の段階だというのに、もう「お義父さん」や「お義兄さん」などと呼び方を変えたことに驚いたのだ。とはいえ、信三は気に留めた様子はなかった。当主としてすでに美雪に婚約パーティーの準備を進めさせているところだったからだ。本来なら母親の恭子が取り仕切るべきことだが、体調の事情もあり難しい。そのため今回は美雪に任されている。美雪はうなずくと、由奈へ向き直った。「婚約パーティーのことだけど、何か希望があるなら遠慮なく言ってね。あなたは中道家の娘なんだから。結婚のことを粗末にはしないわ」「わかりました、よ
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第579話

信三は椅子の肘掛けに手を置き、指先で静かにトントンと叩いていた。相手の誠意には十分満足していたが、それを表には出さない。「田辺さんがここまで立派な結納を用意してくださったのに、中道家が釣り合うものを出さなければ、世間の笑いものになってしまうでしょう」政略結婚とは、要するに「等価交換」だ。中道家は栄東市でも指折りの名家だ。少しでも悪評が立てば、株価にまで影響が及ぶ。一方で田辺家は海外に強い影響力を持ち、港湾物流やエネルギー貿易のルートを握っている。それは中道家の海外展開にとって、まさに欠かせない後ろ盾だった。だからこそ、この縁談には大事な意味を持つ。中道家の令嬢の持参金も、それに見合うものでなければならない。「智宏」信三は智宏に視線を向けた。「秀明が由奈のために用意した持参金とは別に、栄東市東にある『ゴールデントライアングル』の譲渡契約を、私からの結婚祝いとして贈ろう」秀雄は一瞬言葉を失った。何か言おうとするより先に、「あの土地って……」と、美雪が思わず声を上げる。信三は軽く手を上げて、それ以上言わせなかった。「これで決まりだ。由奈、お前はどう思う?」その瞬間、居合わせた全員の視線が一斉に由奈へと集まった。岩島の所有権も、「ゴールデントライアングル」という土地も――どちらも将来価値の計り知れない資産だ。由奈はしばらく考え、静かに微笑んだ。「おじいさんのご判断に従います」信三は豪快に笑った。「いいだろう。ではこれで決まりだ。智宏、帰ったら秀明にも伝えておきなさい」「分かりました」智宏は短く答えた。そのとき、祐一が長い指で契約書の端を軽く叩いた。「では――未来のお義父さんへのもう一つの契約書も、一緒に渡していただけますか」場の空気が、わずかに引き締まった。……「お父さん、栄東市のあの土地って、香織さんのものじゃなかったんですか?どうして由奈さんに……」書斎に入るなり、美雪は尋ねた。信三は窓際の寝椅子にゆっくりと腰を下ろした。「あの土地なら、もうとっくに取り戻してある。ただ――徹也のことがあって、今まで言わなかっただけだ」「でも……徹也が知ったら、恨まれるんじゃ……」信三は目を閉じたまま言った。「昔、靖彦と美羽があの土地を巡ってひどく争っただろう」少し間を置く。「一度も争いに首を突っ込まなかった
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第580話

澪は一瞬きょとんとしたあと、悠也を見上げた。少し戸惑いながらも、礼儀正しく手を差し出す。「……は、はじめまして」その手を軽く握った悠也は、感心したように笑った。「指の形まできれいですね。人柄がそのまま出てる感じがします」からかう様子はまったくなく、手もすぐに離れる。こんなふうに褒められたのははじめてなのか、澪はどう返していいかわからず手を引っ込めた。「い、いや、そんなことは……」「あなたは十分きれいですし、もっと自信を持っていいと思いますよ」さらりと言ってから、悠也はスマホを取り出した。「あ、せっかくだから、よかったら連絡先交換しませんか?」澪は迷ったように由奈を見る。由奈は肩をぽんと叩いた。「いいんじゃないですか?」それでようやく安心したのか、澪は頷き、二人は連絡先を交換した。悠也がさらに何か言いかけたところで、祐一が横から口を挟む。「悠也、君は仕事をしに来たんじゃないのか?」「別にいいでしょ?仕事のついでに友達を作ったって」悠也は肩をすくめた。「色々手伝ってあげてるんだから、これくらいの自由はくれよ」祐一は小さく笑う。「女性の友達の連絡先、もういっぱい持ってるんじゃないのか?」「……」悠也は苦笑いを浮かべると、祐一の腕をつかんで少し離れた場所へ引っ張った。「そんな言い方はないだろ?俺の顔が丸潰れじゃない」祐一はポケットに手を入れたまま、真顔で返した。「相手は中道家の人間だ。本気にさせておいて振ったりしたら、俺が困る」「別に誰も振ってないだろ?」悠也は呆れた顔をする。「むしろそれ、お前のことじゃないのか?」「俺がいつそんなことを――」「元カノいたじゃない。俺はいないけど?」祐一は言葉を失った。少し離れた場所で二人がひそひそ話しているのを見ながら、由奈は腕を組む。「ねえ、話終わった?」呼ばれて、悠也はすぐに笑顔に戻り歩いてくる。「誤解されそうなので言っておきますけど、実は僕、カウンセラーをしておりまして、連絡先を持っている女性のほとんどは、お子さんを連れて来院される患者さんですからね。プライベートでは連絡を一切取っていません。自分で言うのもなんですが、こう見えても真面目ですから」由奈はわざとらしく頷いた。「へえ、よく分かりました」「じゃあ、僕はこれで」悠也は澪に軽く会釈してから、「また連
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