All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 561 - Chapter 570

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第561話

徹也は手にしていたグラスを静かにテーブルへ置くと、ゆっくり立ち上がって智宏の方へ向き直った。「お前たちがいるだろう?だから大丈夫だと思ってさ」先に部屋を出るよう、智宏は視線だけで駿介に合図する。駿介は一瞬だけ徹也を見てから、黙って部屋を出ていった。扉が閉まり、室内には二人だけが残る。智宏はデスクの向こうに腰を下ろした。「美羽さんの件はともかくとして。あなたの母親がああいう状況になってるのに、ずいぶん落ち着いているね。少しくらい様子を見に行こうとは思わなかったのか?」「母は自業自得だよ」徹也は本棚の前まで歩き、金融関係の本を一冊手に取る。「止めたんだけどね。聞かなかった」ページをめくりながら続ける。「靖彦さんと密会なんてしていれば、いずれバレるさ」まるで他人の話でもしているようで、表情は少しも動かない。智宏は指先で机を軽く叩く。その視線は鋭く、徹也の背中から外れない。智宏には分かっていた。徹也は、ただ世間話をするために自分を訪ねたわけではない。「それで、用件は?」徹也は本を棚へ戻すと、振り返っては困ったように笑う。「智宏。今日は本当に、少し話がしたくて来ただけだよ。お前と俺は立場こそ違うけど、年はそんなに変わらないだろ?だから、俺はお前のことを甥だなんて思ったことはない。弟みたいなものだと思ってるんだ」「叔父と兄弟ごっこする趣味はない」キッパリそう言うと、智宏は扉の方へ手を向ける。「他に用がないなら帰ってくれ」徹也の表情が一瞬だけ固まった。だがすぐ、苦笑に変わる。「相変わらず容赦がないな」ゆっくり歩み寄り、机の縁に両手をついて、少し身を乗り出す。「家の事情について、お前だって分かってると思うけど、俺には選択肢がないんだ。それに――俺の敵はお前でも、お前の父親でもない。だからお前たちと争うつもりはない」それだけ言い残して、徹也は部屋を出ていった。しばらくして、駿介が戻り、首を傾げながら問いかけた。「結局、あの人は何をしに来たんでしょう?」智宏はしばらく扉を見ていた。やがて静かに言う。「忠告だろうね。あるいは警告か」……由奈は澪の家を出たあと、病院へ向かった。ナースステーションで話を聞くと、看護師長が静かに説明してくれる。「お母さまは穿刺のあとも、意識障害が続いています。たまには覚醒しますが、継続時間
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第562話

真里はバッグの中に手を入れる。取り出したのは、精巧な木彫りの箱だった。中に何が入っているのか分からないが、箱だけでも美しく、芸術品だと言えるほどの逸品だ。真里はそれを由奈へ差し出す。「本当は娘がいたら持たせようと思ってたの。でも私は娘に恵まれなかったから、あなたにあげるわ」由奈は驚いて顔を上げる。「いえいえ、こんな大事なもの、私が受け取るわけにはいきません」「まだ中も見てないのに?」「こんな綺麗な箱に入っているのだから、真里さんにとってきっと大事なものに違いありません。だから、お気持ちだけで十分です」真里は少しだけ強い口調になる。「受け取りなさい」優しかったが、譲らない声だった。「あなたのお母さんとは親友なのよ。昔、私たちが約束したの。もし子ども同士が結婚できなくても、兄妹みたいにならなくても。せめて私は親友として、恭子の子供に何か贈るって」気づいたときには、箱はもう由奈の手の中にあった。返そうとすると、真里がそっと手を押さえる。「返さないで。これはもう、あなたのものよ」由奈は苦笑するしかなかった。「……ありがとうございます」真里は満足そうに笑った。しばらく話をしたあと、由奈は真里を玄関まで見送る。車に乗り込むのを見届け、そのまま走り去るまで見送った。静かになった入口で、由奈は手の中の木箱を見る。見た目以上に重く、揺らすことさえためらってしまうほどだった。夕方、由奈は車で青ヶ丘の自宅へ戻った。車を降りたところで、スマホが震える。祐一からのメッセージだった。【昨夜のバラ、受け取った?】由奈はすぐに画面を叩く。【受け取った。いま倉庫に置いてある】少しして返信が来る。【やっぱりな】由奈は眉をひそめる。【?】【そうやって放置するって分かってた】続けてもう一通届く。【直接届けに行くべきだったな】由奈は思わず笑う。【来ても玄関、開けないけど】送信した直後、父からの着信が入る。由奈は玄関の前で足を止め、電話に出る。「もしもし、お父さん?」「ああ。由奈、今夜、おじいさんが実家のほうで集まるようにって言ってる。君も来てくれ。徹也が戻ってきたんだ」由奈はわずかに動きを止めた。「分かりました。すぐ向かいます」通話を切ったあと、彼女は何かを考え込むように眉を寄せた。……中道家の広
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第563話

徹也は由奈のほうへ視線を向けたまま、穏やかな笑みを浮かべていた。柔らかく、礼儀正しく、どこにも棘のない表情だった。だが――その視線の奥には、何かを測るような静かな探りがあった。由奈が反応するより先に、奥の廊下から足音が近づく。信三が秀雄に付き添われてリビングへ姿を現した。そのまままっすぐ長テーブルへ向かう。「全員そろったか」美雪が立ち上がる。「はい。靖彦以外は」靖彦の名が出た瞬間、信三の表情がわずかに曇る。だがそれも一瞬だった。何事もなかったように椅子へ腰を下ろす。「座りなさい」そして使用人へ向けて言う。「料理を出してくれ」長テーブルの両側に、順に席が埋まっていく。由奈の正面にはちょうど徹也が座った。信三が口を開く。「今回はどれくらい滞在するつもりだ」当然、徹也に向けた言葉だった。徹也は目を細めて笑う。「しばらくは旅に出る予定はありません」信三の指先が軽くテーブルを叩く。使用人に酒を注がせながら言う。「それはいい。最近家のほうも色々と忙しい。お前がいれば助かる」徹也が残る――その言葉に、いちばん分かりやすく顔を輝かせたのは澪だった。他の者は特に反応を見せない。だが由奈には分かった。食卓の空気が、わずかに変わったことを。そのときだった。徹也の視線が、ふっと由奈の上をなぞる。それは探るような目だった。由奈はわずかに眉を寄せたが、表情は崩さず、静かに視線を伏せる。それ以上、目を合わせなかった。やがて使用人たちが料理を次々と運んでくる。信三が「いただきます」と言うと、それを合図に、全員が箸を動かし始める。「秀雄」信三が言う。「最近は家のことを任せきりで、苦労をかけたな」秀雄はすぐに答えた。「いえ、当然のことです」信三がうなずく。「海外のプロジェクトはどうなっている」秀雄は落ち着いた声で報告する。「準備段階はほぼ完了しました。来月には正式に始動できる見込みです。先方も我々の案には前向きで、現在は細部を詰めています」「そうか」信三は満足そうにうなずいた。そして視線を食卓の全員へ向ける。「こうして揃うのも久しぶりだ。最近のお前たちの様子も聞いておきたい」一拍置いて、秀明を見る。「秀明。お前はどうだ」名を呼ばれ、秀明が顔を上げる。「特に変わりありません。会社のことは智宏が見てくれています」信
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第564話

信三はもともと、斉藤家との長期的な協力関係を築きたいと考えていた。ビジネスの世界では、利害関係が変わりやすい。だが両家を婚姻で結びつければ、関係は揺らがないものになる。それが最も確実な方法だった。この席にいる者の中で、「政略結婚」という言葉の重みを本当に理解しているのは、秀明と智宏、そして澪くらいだろう。澪は思わず由奈を見る。テーブルの下で、指先がぎゅっと握りしめられている。けれど今の彼女には、何かを言える立場ではない。由奈は静かに答えた。「田辺さんは、私たちの研究室に大きな共同プロジェクトを持ってきてくださいました。とても感謝していますし、お付き合いが増えるのも自然なことだと思っています」その答えに、信三の目がわずかに細くなる。満足したようにうなずいた。「……そうか。それじゃ、先に食事にしよう」その一言で、皆が箸を取る。だが――秀明だけが動かなかった。手にしていたグラスを、重くテーブルに置く。澄んだ音が響き、視線が集まる。美雪が言う。「秀明?どうしたの?」秀明は何でもない顔で答える。「いや、なんでもない。手が滑っただけだ」……食事のあと、秀明は一人で庭へ出た。顔にはまだ陰りが残っている。「お父さん」由奈が追いつき、隣に並んで歩く。「もしかして、怒ってますか?」秀明は言葉に詰まる。「怒ってない」「じゃあ、おじいさんが言ってたことがまだ気になってます?」その問いに、秀明は目を逸らした。由奈は小さく笑う。「おじいさんは中道家のことを第一に考えているだけです。家の存続と発展が最優先なのは当然ですから」少しだけ間を置く。「お父さんは、私が嫌な思いをするんじゃないかって心配してくださった。でもおじいさんと正面から衝突すれば、親不孝だと言われる。だから何も言えずに一人で抱え込んでしまったんでしょう?」言葉は柔らかいが、核心を突いていた。秀明がため息をして、振り返って娘を見る。困ったような顔だった。「政略結婚の話、君が嫌がるんじゃないかと思ったんだ。父親として、何もできないと思われたくない」由奈は笑った。「そんなこと思ってませんよ。お父さんがいつも私の味方だって分かっていれば、それで十分です」その一言で、秀明の表情がゆるむ。それでも――胸の奥の迷いは残っていた。娘の結婚を止めるつもりはない。だが、
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第565話

由奈は車のそばまで歩み寄り、窓を軽く叩いた。祐一がロックを解除する。ドアを開けて助手席に滑り込んだ瞬間、車内に満ちていた清涼感のある香りに、かすかなアルコールの気配が混じって鼻をかすめた。由奈は眉を寄せる。「……お酒、飲んだの?」「一杯だけだ」低くかすれた声だった。由奈は半乾きの髪を後ろへ払いながら言う。「がんが治ったと思ったら、またタバコをはじめたの?」祐一は思わず吹き出したように笑い、指に挟んでいた火のついていない煙草を折った。「吸ってないよ」「それで、こんな時間にわざわざ呼び出して、何の用なの?」「顔が見たくなった」視線が、まだ湿り気の残る彼女の髪先に落ちる。「髪、ちゃんと乾かしてないのか?」「だって……メッセージ見たら、すぐ来たほうがいいのかと思って」そこで言葉を切り、由奈は顔をそらした。「あなたこそ、どうしてこんな時間まで起きてるの?」祐一の目に笑みが浮かぶ。彼は静かに身を乗り出し、距離が一気に縮まる。「一人では……眠れなくてな」体温と気配が急に近づき、由奈の思考が真っ白になる。「あなた……飲みすぎよ」「俺がお酒に強いって知ってるだろ」祐一は彼女の目をまっすぐ見つめたまま、口元にかすかな笑みを浮かべる。「一杯くらいじゃ酔わない」由奈のまつげがわずかに震える。無意識のうちに乾いた唇をそっと舐めた。その何気ない仕草ひとつで、祐一の視線が一気に熱を帯びる。由奈は頬の熱を感じながら、彼がさらに距離を詰めようとした瞬間、小さく声を落とした。「……防犯カメラに映るよ」祐一の喉仏が上下する。それでも彼は彼女の顔から目を逸らさない。「覗き見防止フィルム貼ってある」由奈が何か言うより早く、祐一はそのまま唇を重ねた。由奈の身体が小さく震える。最初は拳を握ったまま彼の胸に押し当てていた手も、やがて力が抜け、気づけばそっと胸元のシャツをつかんでいた。その反応に気づいた祐一は、探るようだった口づけをゆっくり深めていく。拒ませない強さを含みながら、それでも壊れ物を扱うような慎重さを残して。車内の空気が張りつめたように静まり返り、重なるのは互いの少し速くなった呼吸だけだった。しばらくしてようやく唇が離れる。祐一は満ち足りたような表情を浮かべ、こらえきれない笑みをにじませた。「やっぱり、週末だけでいいなんて言うんじゃ
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第566話

祐一が低く笑った、機嫌のよさは隠しようもない。そのまま自然な動きで、もう一度由奈を腕の中へ引き寄せる。顎を彼女の頭の上に軽く乗せ、深く息を吸い込んだ。髪に残るやわらかな香りが胸の奥まで沁み込み、ようやく落ち着きを取り戻せた気がした。「そばにいられるならさ。言うこと聞くどころか、君のペットにだってなってみせるよ」由奈は呆れたように黙り込む。祐一は少し間を置いてから、様子をうかがうように続けた。「それで……どれくらい増やしてくれるんだ?」由奈は彼の腕の中で体勢を整え、居心地のいい位置を見つけると、無意識に胸元のシャツのボタンを指先でいじりながら少し考えた。それから、ゆっくりと答える。「とりあえず……週に一日、増やしてあげる」「一日だけ?」不満そうな声だったが、その奥には隠しきれない笑みが混じっている。「けちすぎない?」「交渉しようなんて思わないで」由奈が顔を上げて睨む。祐一は即座に降参した。「わかった。一日でいい」あっさり引いたのは、負けを認めたわけではない。どうせ――これから先、いくらでも取り返せると思ったからだ。その頃、海都市の病院。和恵はドアに背を向けたまま、静かに眠っていた。病室の扉がゆっくりと押し開かれる。白衣姿の男が音も立てずに中へ入り、後ろ手に扉を半分だけ閉めた。室内の光がわずかに陰り、空気が重く沈む。足音を殺したままベッドのそばへ近づく。視線が、眠る和恵の顔に落ちた。窓から差し込むかすかな月明かりの中、マスクの上にのぞくその目には――温度がなかった。将吾だった。彼はポケットから小さな薬瓶を取り出す。手が、わずかに震えていた。「お母さん……」かすれた声が漏れる。「俺だって、こんなことしたくない。全部……お母さんが悪いんだ」彼はベッド脇のテーブルに置かれていた薬を手早くすり替えた。和恵が目を覚まさないことを確認すると、そのまま静かに背を向ける。来たときと同じように気配を消しながら病室を出ていく。わずかに鳴ったドアの「カチッ」という音だけが、静まり返った廊下に吸い込まれていった。……翌朝、由奈が研究所に出勤するとすぐ、倫也に呼び出された。ノックして扉を開ける。「おはようございます。何かあったんですか?」倫也は机の上に検査結果の資料を置いたまま言った。「結果が出ました」由奈は
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第567話

昼どき、由奈は紬と並んで昼食をとっていた。後ろの席では同僚たちが給料日の話題で盛り上がっている。その声が耳に入ってきて、由奈も思い出したようにスマホを取り出し、銀行からの入金通知を確認した。「お義姉ちゃん、給料もう振り込まれてた?」紬が身を乗り出すようにして聞いてくる。由奈はスープを一口飲んでから、穏やかに答えた。「私、この半年は受け取らないことにしてるんです」「えっ?」紬は目を丸くした。「それって……タダ働きってこと?」「自分で決めたことですよ」由奈は小さく笑う。「白石先生、いま少し大変そうだから。しばらくは私も協力しようと思って」「え?あの人ってお金持ちのボンボンじゃなかったの?」言いかけて、紬はふと思い出したように続けた。「でも確かに、最近はよく道端の定食屋さんに入ってるし、服だっていつも同じのばっかりだし……もしかして本当に困ってるんじゃ?」由奈は顔を上げた。「どうして、白石先生が定食屋さんに通ってるって知ってるんですか?」「あ、それは……」紬はぎこちなく笑った。「たまたま同じエリアに住んでて、よく見かけるだけ」「もう部屋、見つかったんですか?」紬はうなずく。「うん。谷川くんが探してくれたの。家賃は月七万円で、ワンルームだけど悪くないよ」「谷川くんって……?」「白石先生の助手をしてる大学生。すごくいい子なの」名前までは思い出せなかったが、倫也のそばにいた学生助手の姿には心当たりがあった。色白で眼鏡をかけた、おとなしい雰囲気の青年だった。社会に出たばかりの若者らしい素直さがある。紬もまた、大学を出てまだ数年の新人だ。学生に近い感覚を持っているのだろう。それに、あれだけ明るくて愛嬌のある彼女なら――放っておく人のほうが少ないはずだ。もっとも、紬の恋愛事情に踏み込むつもりは由奈にはなかった。……一方、貸し切りとなった高級レストランは、驚くほど静まり返っていた。窓際の席に座る祐一の向かいには、ワイングラスを指先で軽く揺らしている男がいる。秀雄だった。「さすが田辺さんです。プロジェクトは無事承認されました。こうしてご一緒できることを光栄に思います」秀雄はグラスを掲げ、祐一のと合わせる。祐一はグラスを置き、静かに口を開く。「俺が栄東市にいる間、中道さんにも随分お世話になりましたから。恩は
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第568話

「薬物中毒?」将平が眉をひそめた。「お母さんはずっと病院にいたんですよ。どうしてそんなことになるんですか?」担当医は恐縮した様子で頭を下げた。「今回の件については、当院側の管理体制に不備があった可能性も含め、現在調査を進めております。手違いなのか、あるいは別の要因があるのか――結果が出次第、必ずご報告いたします」将平の声が低く落ちる。「三日以内に説明を出してください。それが無理なら、通報します」医師は言葉を詰まらせながらも、責任者として、うなずくしかなかった。やがて医師が立ち去ると、将吾が兄を見る。「兄貴、これはどう見ても病院側のミスだろう。説明と賠償を求めれば済む話だ。通報してしまうと、かえって外聞が悪くなる」だが将平が答える前に、千代が将吾を見て、呆れたように小さく笑った。「まだ結果も出ていないのに、警察を呼ぶかどうかまで決める必要はないでしょ?」その一言で、空気が張りつめる。「千代さん、将吾はただお義母さんが心配なだけですよ。どうしてそんな言い方をするんです?」真由美がすぐに夫へ寄り添う。千代は肩をすくめた。「別に。ただ――この件にあんたたちが関係してるみたいに聞こえたものだから」その言葉に、二人の表情がわずかに強張った。とくに将吾。彼は何でもない顔を装いながら視線を外す。一瞬でも動揺を見せれば終わりだと、本能が告げていた。やがて看護師がICUから出てきた。「ご家族の方にお知らせです。和恵さんの容体は現在、ひとまず安定しています」その言葉に、千代と将平の表情が一気に緩む。だが、その後ろに立つ二人だけは違った。将吾は無意識に拳を握りしめるが、すぐに手をほどいた。――昨夜薬を替えるとき、和恵は眠っていた。たとえ彼女の意識が戻っても、自分が疑われることはない。そう自分に言い聞かせ、ようやく動揺が収まる。「滝沢将平さんはいらっしゃいますか?」再び看護師が声をかける。将平が前へ出た。「私です」「防護服に着替えてください。和恵さんがお会いになりたいそうです」案内に従って更衣室へ向かう将平の背中を、将吾はじっと見つめていた。垂らしたままの手が、静かに握り締まる。その目には、冷たい影が差していた。将平がICUにいたのは、わずか十分ほどだった。だが将吾にとって重要なのは、母の体調ではなく、母が兄に何を話
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第569話

由奈は顎を少し上げ、胸を張って答えた。「そうだと言ったら?」その返事を聞いた祐一の笑みが、さらに深くなる。「分かった」だが車が走り出してしばらくすると、由奈は早くも後悔し始めていた――どうして「手料理が食べたい」なんて言ったのだろう。これじゃ二人きりになる時間を自分から作ったようなものだ。食べたらすぐ帰ろう。泊まるなんて、絶対にあり得ない。祐一は横目でちらりと彼女を見た。何か言いたげに眉を寄せて考え込んでいる表情に気づき、口元がわずかに緩む。後悔しても、もう遅い。引き返す機会など与えるつもりはなかった。ホテルのスイートルームに着くと、由奈は祐一のあとについて部屋へ入ったものの、玄関で足を止めた。「……キッチンに食材、あるの?」祐一はコートを脱いでハンガーに掛け、袖口のボタンを外しながら答える。「何でも揃ってる」「じゃあ、作ってくれるものなら何でも食べる」由奈は広いリビングへ歩いていき、バッグをソファに置いた。そのまま大きな窓の前に立つ。近くの高層ビル群も、遠くの山並みも、はっきりと浮かび上がっていた。祐一は腕時計を外し、キッチンへ向かう。無駄のない動きでビルトイン冷蔵庫を開いた。中には新鮮な野菜や上質な和牛など、食材がきれいに揃っている。どう見ても、あらかじめ準備されていたものだった。由奈はキッチンの男の背中をちらりと見やり、小さく笑みを浮かべる。――やっぱり、男はこうやって働かせるものだ。ほどなくして、水の流れる音と包丁の軽やかなリズムが聞こえてくる。祐一の手つきは相変わらずよく、どこか優雅だった。彼が料理する姿を見るのは初めてではない。けれど以前はいつも歩実の存在が頭をよぎってしまい、自分は「想いが届かない側」に立っているという苦しさばかりが胸に残っていた。だから、こんなふうに落ち着いて彼を眺める余裕なんてなかった。同じシチュエーションを目の前にしても――まったく違う気持ちになるものだ。祐一がふと顔を上げた気配に気づき、由奈は慌てて視線を外し、何事もなかったように夜景へ視線を戻した。やがて料理がテーブルに並べられると、由奈はようやく窓辺から離れた。テーブルの上にはパイナップルとサイコロビーフのチャーハンが二皿。それにクリームマッシュルームスープ。しかも盛り付けまで丁寧だ。室内の照明は
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第570話

由奈が帰宅したのは、九時半を回ったころだった。頬をわずかに赤く染めたまま足早に階段へ向かうと、廊下で秀明と鉢合わせた。「由奈、こんな時間までどこに行ってたんだ?」こんな遅い帰宅を見かけるのは初めてだったのだろう。秀明は少し心配そうに声をかけてくる。「えっと……友だちとご飯を食べてきただけです」由奈は頬を軽くかきながら笑ってごまかした。「お父さんは?まだ起きてたんですか?」「ちょっと寝つけなくてな。下でお茶でもいれてこようと思って」「お茶?こんな時間に?」「平気平気。もう慣れてるからな。むしろ飲んだほうがよく眠れるくらいだ」冗談めかして笑うと、そのまま階段を下りていった。背中を見送りながら、由奈は小さく首をかしげる。きっと何か気がかりがあるのだろう。でも、聞いたところで教えてくれる人ではない。――明日、兄に聞いてみよう。……翌朝。秀明は早くから朝の散歩に出かけてしまい、朝食の席にいたのは由奈と智宏の二人だけだった。「お兄さん、最近お父さんって何か悩みごとがあるんですか?」智宏はパンをちぎり、ジャムを塗りながら視線だけを向ける。「どうしてそんなことを?」「昨日帰ったとき、なんだか元気なさそうだったから……ちょっと気になって」数秒言葉を選び、それから静かに付け足す。「少し心配で」それを聞いた智宏は何か思い当たったように笑った。「別に悩みってほどじゃないと思うけどね。もしあるとしたら――」意味ありげに視線を由奈へ向ける。「たぶん、由奈のことだ」「私?」「お父さんは、田辺さんが滝沢社長だってことを知らないだろ。なのにおじいさんは、田辺さんとあなたを結びつけようとしてる」そして少し声を落とした。「しかも最近は、斉藤家との関係をどうしても固めたいみたいでさ。理由はわからないけど」由奈は黙り込んだ。信三の判断はいつも、家の利益を優先しているように見える。けれど――美羽が亡くなったあの日。彼の顔には、確かに一瞬だけ悲しみが浮かんでいた。それに、花織と靖彦の関係が明るみに出たときも。もし本当に情がないのなら、とっくに靖彦を中道家から切り捨てていたはずだ。だがあの日、信三の顔にあったのは――見限った冷たさではなく、期待を裏切られた怒りだった。信三は……本当は何を考えているんだろう。戸惑いながらも、由奈
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