All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 581 - Chapter 590

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第581話

由奈は、祐一のあまりにも真っ直ぐで深い視線に耐えきれず、先に目をそらした。「私のいいところ……ほかにはないの?」「あるよ」「何?」祐一はさらにわずかに距離を詰め、彼女の耳元に唇が触れそうなほど近づいた。「頑固で、ほんと放っておけないところ。すぐ俺を突っぱねるし、気も強いし、挙げ句の果てには噛むし」思わず言葉に詰まり、由奈は彼を押し返した。「……どういう意味、それ」祐一は吹き出すように笑う。「どうも何も、そういうところが好きなんだよ。頑固なところも。いつも俺を避けようとするところも。気が強くて、噛みつくところも」由奈は一気に顔が熱くなり、耐えきれず視線を逸らす。これ以上この話を続けるのは危険だと判断し、無理やり話題を変えた。「そういえば……岩島のことだけど、あれ、結納にするなんて、一言も教えてくれなかったじゃない」「あれは母が用意してくれたものだ」その言葉に、由奈は思わず祐一を見上げる。「でも……あの人は……」千代が自分をどれほど嫌っているのか、知らないわけじゃない。それなのに――結納品を用意してくれるなんて。「母は君を受け入れてくれたんだ」祐一はやさしく彼女の頬に触れながら言った。「江川市でのこと、すまなかったと彼女の伝言を預かっている。あのときは、確かにやりすぎたって」少し間を置いて、静かに続ける。「これから先、俺たちの結婚に口出しはしないってさ。俺たちが何を決めても、君が何を望んでも、もう誰にも止められない」由奈は唇を噛み、彼の手をそっと外した。「そうだとしても……まだ婚約しただけよ。絶対結婚するみたいな言い方しないで」普段なら、この話になると祐一は少し寂しそうな顔になる。けれど今日は違った。隠しきれない笑みが、そのまま目元に浮かんでいる。「まあ、それはそうだが」実は、祐一は千代から聞かされたのだ。二人の離婚手続きは、そもそも完了していなかったと。つまり――由奈はまだ、祐一の妻のままだということ。二人は本当の意味では、まだ離婚していないのだ。今回の婚約も、その先の結婚式も。かつて挙げられなかった結婚式の埋め合わせだと思えばいい。……栄東市に、中道家の令嬢が婚約するという知らせはすぐに駆け巡った。やがて、地元の資産家や名士たちが、こぞって信三のもとへ祝辞を届け寄越した。婚約パーティ
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第582話

スマホの向こうから聞こえてくる気配に、祐一は静かに耳を澄ませていた。目元には、かすかな笑みが浮かんでいる。ドレスに着替え、こちらへ歩いてくる由奈の姿がもう、ありありと思い描けてしまう。「ねえ、聞いてる?」ほんの一瞬意識がそれたが、由奈の澄んだ声が彼を現実へ引き戻した。祐一はわざと落ち着いた声を作って、「ああ、聞いてるよ」と短く応じる。スタッフはすでに退室しており、由奈は窓辺へ歩み寄っていた。庭の静かな緑を眺めながら、少し言いにくそうに口を開く。「その……今夜だけど、もし都合が悪くなければ、私――」「大丈夫だ」言い終える前に、祐一が即座に言葉を重ねた。抑えきれない笑みが、口元に滲む。「今夜は空けてある。待ってる」通話を終えた瞬間、胸の奥に込み上げてきた喜びが一気にあふれ出した――彼女のほうから誘ってくれた。ということは。今夜は……泊まっていくつもり、ということだろうか。そこまで思い至った途端、祐一は顔を半分ほど手のひらに埋めた。胸の鼓動が大きく跳ねる。落ち着け。だめ……無理だ。立ち上がると、リビングを行き来しながら室内を見回す。どこか物足りない。このままでは、少し味気ない気がした。祐一はスマホを手に取り、フロントへ連絡を入れた。……「池上さんが婚約するって本当?」「本当みたいよ。もう中道家が、二か月後の婚約パーティーの準備まで始めてるって」そんな噂話を交わしている職員たちの背後を通りかかった紬は、ぴたりと足を止めた。思わず身を乗り出す。「え、婚約?誰が?」「池上さんだよ。知らなかったの?」「えっ?」紬は反射的に口を押さえ、周囲を見回してから声を潜める。「池上さんが?」「そうそう。うちのプロジェクトで一緒に動いてる、新しく入った株主の田辺さんと」紬はゆっくり背筋を伸ばした。まさかあの二人……本当によりを戻したとは。薄々そんな気はしていた。でも、あまりに急すぎる。――あの人は、どうするの?紬は思わず、倫也の執務室の方へ目を向けた。ちょうどそのとき、倫也の助手、谷川涼太(たにがわ りょうた)が部屋から出てきた。「谷川くん!」慌てて声をかける。「松本さん?」眼鏡を直しながら、彼は少し緊張した様子で立ち止まる。「どうかしましたか?」「あの、白石さんって中にいる?今日の様子どう
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第583話

祐一の言葉に、秀明はわずかに眉をひそめ、視線を由奈へ向けた。由奈は何事もなかったように頬を軽くかき、ただ曖昧に笑って何も答えなかった。祐一は急須のふたに指を添え、自分の湯のみへも静かに茶を注ぐ。「もし娘さんに地元から離れて欲しくないとおっしゃるなら――私が栄東市に残って、お義父さんたちのそばで暮らすことも考えています」秀明は茶をひと口すすり、淡々と言った。「確か、君は滝沢家の一人息子だったな。このまま栄東市に残ってもいいのか?」祐一の手が一瞬だけ止まる。だがすぐに顔を上げ、落ち着いた声で答えた。「確かに滝沢グループには後継者が必要です。ですが家を継ぐというのは、仕事だけの話ではありません。家族を守ることも同じくらい大事だと思っています」一度言葉を区切り、まっすぐ秀明を見つめる。「両親も頭ごなしに否定するような人ではありません。私が本気でやろうとしたことなら、きっと理解してくれるはずです。それに、栄東市と海都市の行き来も今の時代なら不可能ではありません。多少大変にはなりますが……私にとっては問題になりません」そして静かに続けた。「もちろん――娘さんが望んでくださること、そしてお義父さんとお義母さんが認めてくださることが前提です。無理にとは言いません。でも、この可能性のためにできることは全部やるつもりです」由奈は思わず顔を上げた。祐一の瞳の奥に、自分の姿がはっきり映っている。その奥には迷いのない決意があった。秀明はすぐには答えなかった。湯のみを手にしたまま、その言葉の重みを測るように、じっと祐一を見据える。リビングに静けさが落ちた。その沈黙に耐えきれず、由奈が口を開きかけたとき――秀明が湯のみを置き、ふっと笑った。「まあ、君たち二人のことはひとまず置いておくとしてだな。問題は君の母親――千代さんだ。昔うちの娘にどういう態度を取ったか、私はちゃんと覚えている。今さら由奈を認めたとしても、それならそれなりの筋は通してもらわんと。島ひとつ贈ればそれで終わり、って話じゃない。由奈のおじいさんは喜んでいたようだが……父親の私はそう簡単には済ませない」由奈は思わず息をのんだ――父は、自分が辛い思いをしていたことをずっと覚えていてくれた。胸の奥がじんわりと温かくなる。これが、家族に守られているという感覚なのだと初めて実感した。
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第584話

仕方ないというように、倫也は彼女を部屋へ通した。リビングの灯りはついていない。開け放たれた寝室のドアから、細くこぼれる光だけが室内をぼんやり照らしていた。倫也が間接照明のスイッチを入れると、ようやく部屋の輪郭がやわらかく浮かび上がる。紬は室内を見回した。「このマンション……けっこういいところ住んでるじゃない」「荷物を置いたら帰ってください」そう言いながら、倫也はコートの内ポケットから財布を取り出す。「手持ちはこれくらいしかないですけど、薬と夜食代です」テーブルの上に三万円を置いた。けれど紬は受け取らなかった。「ちょっと、それどういう意味?」少し眉をひそめる。「私、あなたのこと心配だったから来ただけなんだけど」「人に借りを作るのは好きじゃないので」紬は腕を組んだまま、ソファに腰を下ろす。「借りなんて思わなくていいってば。由奈お義姉ちゃんの同僚じゃなかったら、そもそも来なかったし」軽く足を組み替えて続ける。「それにさ、あなたは一応会社の責任者なんでしょ?あなたは自分のことをどう思っているのか勝手だけど、会社の人たちは心配するの。ほんとに倒れたりしたら大変なんだから」倫也はわずかに眉を寄せたが、何も言わなかった。紬は薬の入った袋を彼のほうへ押しやる。「ほら、まずは薬を飲んで」「だから、もう飲んでますって」倫也は困ったように笑う。「自分のことはちゃんと大事にしているから、そこまで心配しなくても大丈夫ですよ」紬は何か言いかけて――ふとテーブルに目を落とした。フルーツの入った皿の隣に、開封された解熱剤の箱があった。言葉が詰まる。「……ほんとに飲んでたんだ」「ようやく信じてくれました?」紬は少し気まずそうに笑って立ち上がる。「それならよかった。てっきり……その……」言いかけて、途中でやめる。「いや、なんでもない。私が考えすぎただけかも。薬飲んでるなら安心した」バッグを持ち上げながら振り返る。「ちゃんと休んでね。あ、夜食は温かいうちに食べて」そう言って、ほとんど逃げるように玄関へ向かった。ドアが閉まり、部屋は静けさに包まれる。倫也は視線を落としたまま立っていた。彼女が来た理由も、だいたい想像はついている。テーブルの上に置かれた薬の袋とまだ温もりの残る夜食を見つめたまま、彼はしばらく動かなかった。
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第585話

その頃――「由奈に謝れって言うの?」千代は表情をこわばらせたまま、向かいで静かに食事を続けている息子を見上げた。祐一はナイフとフォークをそっと置き、「はい」とだけ答えた。千代は思わず苦笑する。椅子の背にもたれながら、ため息まじりに言う。「岩島の所有権まで譲ったのよ?それでも中道家は納得しないっていうの?」「納得してないのは――向こうのお義父さんだよ」お義父さん。その言葉に、千代は息子をじっと見つめた。ここまであからさまに由奈の肩を持つとは思っていなかった。――本当に、とんでもない恋愛体質に育ったものだと、胸の奥で苦笑する。けれど怒っちゃいけないと自分に言い聞かせる。やっと取り戻した息子なのだから。もしかしたら息子に前世の借りでもあったのかもしれない――そう思えばいい。深く息を整えてから言った。「わかったわ、謝る。彼女の連絡先、教えてちょうだい」祐一が一瞬ためらう。千代はすぐに言葉を添えた。「安心して。彼女を困らせたりはしないわ」……夕方。仕事を終えたばかりの由奈のもとに、海都市の番号から電話が入った。一瞬だけ手が止まる。出ると、千代からだった。指定された店に向かうと、広い店内には彼女ひとりしかいなかった。祐一の姿はない。思わず視線で探してしまった由奈に、千代が先に口を開いた。「探さなくていいわ。あの子は来ていないから」椅子を示す。「どうぞ座って」それから店員に料理を運ぶよう合図した。席に着いた由奈は内心戸惑っていた。千代は本当に謝罪のために来たのだろうか――そう思った矢先、千代は静かに言った。「正直に言うわね。私はあんたと祐一の結婚に賛成しているわけじゃないの。私の目には、あんたが少し優しすぎる。滝沢家の女主人になるには向いていないと思っているの。今のあんたは、中道家のお嬢さんなのは知っているけれど……あんたのご実家はどういう状況になっているのか、多少は耳に入っているわ」由奈は静かに問い返した。「そこまでご存じだったのに……どうして岩島の所有権まで譲ったんですか?」それが知りたかった。以前の千代なら、絶対にしなかったはずの判断だったから。千代は松本家の長女として育ち、滝沢家に嫁いでからは、誰よりも家の利益を優先してきた人だ。祐一の結婚相手だって、本来なら名門同士の縁談
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第586話

和恵が生きている限り――あの株式の契約も会社も手に入らない。だから彼女を殺そうとした。その事実が胸の奥で静かに引っかかりながらも、由奈はしばらくして気持ちを立て直した。「……おっしゃりたいことは分かっています」千代をまっすぐ見て、静かに言う。「私たちが婚約することで、中道家の内輪揉めに祐一が巻き込まれるんじゃないかって……そう心配してくださってるんですよね?」千代は何も言わなかったが、その言葉を黙認した。由奈はやわらかく微笑む。「大丈夫です。中道家の問題は、彼たち自身が解決します。それに……うちには兄もいますから」その言葉を聞いた千代は、小さく息を吐き、頭を下げる。「江川市の件は……私も感情的になりすぎていたわ。本当に、ごめんなさい」由奈は少し驚いたように目を瞬かせたあと、千代の謝罪を受け入れる合図として、自分も小さく頭を下げた。やがて千代は頭をあげ、視線を落としたまま言った。「これで過去のことは水に流しましょう。時間があったら、一度海都市に戻っておばあさまの顔を見てあげて」由奈の表情がわずかに固まる。「でも私……祐一とは、もう――」「もう、なに?」千代が眉を寄せる。「離婚したって?」由奈は戸惑った。「え……違うんですか?」千代は首をかしげる。「あの子、あんたに話してないの?」由奈の胸がざわつく。「……何をですか?」千代はあっさりと言った。「離婚の手続き、結局終わってなかったのよ。法的には、あんたたち今も夫婦のまま」由奈の頭の中が、一瞬真っ白になった。……青ヶ丘の自宅に戻ったのは、夜八時半を過ぎたころだった。車を降りて顔を上げた瞬間、由奈は足を止める。少し離れた場所に祐一が立っている。車にもたれ、街灯の淡い光を横顔に受けながら、静かに彼女を待っている。由奈が近づくと、祐一は体を起こし、その表情をじっと見つめた。「母に何か言われたのか?」「別に」だが祐一の視線は外れない。まるで今の彼女の気持ちを一つ残らず読み取ろうとしているみたいに。由奈はその視線を真正面から受け止めた。そして口を開く。「ねえ」声が少し強くなる。「私に何か隠してること、あるでしょ?」祐一の体がわずかに固まった。例の件はもうバレている――そう悟った顔だった。由奈は思わず笑ってしまう。次の瞬間、手にしていたバッ
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第587話

「うちの娘を、そのまま帰さないつもりなんじゃないかと思ってな」それは誰に向けた言葉なのか――説明するまでもない。祐一は思わず苦笑した。「そこはご安心ください。婚約前ですし、由奈の気持ちはちゃんと尊重します」秀明は鼻を鳴らす。「ならいいが」そう言いながらも、視線は鋭いままだった。「それより今の君は、田辺の名前で通してるんだろう。婚約の場ではどうするつもりだ。田辺でいくのか、それとも滝沢で出るのか――そこはちゃんと考えておくように」祐一は静かにうなずく。「はい。整理しておきます」それ以上は言い訳もせず、その場に立ったまま、秀明と由奈が別荘の中へ入っていく背中を見送った。……その頃――紬は涼太とほか数人の同僚と一緒に、落ち着いた雰囲気のバーの個室で食事をしていた。場は思った以上に盛り上がっていた。「ねえ紬さん」女性の同僚が身を乗り出してくる。「池上さんが婚約する相手って、本当に紬さんのいとこなの?」紬はほんの一瞬だけ間を置いてから、うなずいた。「うん……そうだよ」すると男性の同僚が笑う。「じゃあ松本さんの家って相当すごいよな。中道家のお嬢さんと結婚する相手が親戚ってことでしょ?」涼太の隣に座っていた男性も話に乗る。「そりゃそうだろ。中道家って栄東市でもトップクラスの名家だぞ。普通の家じゃまず縁なんてできないって」「いいなあ……私もお金持ちの家に生まれてみたかったな」「それは来世に期待だな」笑い声が重なる。……紬は手元の焼き鳥を見つめたまま、ほとんど口をつけなかった。――やっぱり。まだ、自分はこの輪の中にちゃんと入りきれていない。そんな感覚だけが静かに残る。その変化を、涼太は見逃さなかった。「みんな、せっかくだし、カードゲームでもやろうよ」空気を切り替えるように言う。「いいね!」すぐに賛成の声が響く。紬も笑ってうなずいた。ゲームが始まってしばらくしてから、紬は席を立つ。「追加で料理と飲み物頼んでくるね」そう言って個室を出ていった。扉が閉まった途端――男性の同僚が涼太の肩に腕を回した。「なあお前さ……松本さんのこと好きなんじゃないの?」向かいの女性二人も顔を見合わせて笑う。「分かる。見てれば分かるよ。でも紬さんって、いわゆるお嬢様タイプでしょ?家も裕福なんだし、男な
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第588話

飲み会が終わったのは、夜十一時半を回った頃だった。紬は会計を済ませてから個室へ戻ろうとしたが、扉の前で足を止めた。中から、同僚たちの話し声が聞こえてきたのだ。「このあと場所変えて飲むんだろ?松本さんも呼ぶ?」女性の同僚が気軽な調子で言った。「もちろん呼ぶでしょ。さっきだって全部払ってくれたんだし。こっちが出さなくて済むなら助かるじゃない」涼太が困ったように口を挟む。「でもそれ、ちょっと悪くない?さっきは割り勘って話だったろ」「割り勘って言ったって、お酒は向こうが頼んだんだし、『私が払う』って言ってくれたんだからいいじゃない。わざわざこっちが出す必要ある?」「いや、でもさ……」「涼太、気にしすぎだって」男性の同僚が肩に腕を回して笑う。「松本さんはお嬢様なんだぞ。このくらいの金額、どうってことないだろ。本人が気にしてないのに、俺たちが気にしてどうするの?」「もういいって、その話」女性の同僚が小声で制した。「戻ってきて聞かれでもしたら気まずいでしょ」その一言で、三人は話題を変えた。紬はしばらくその場に立ち尽くしていた。握りしめた拳に力がこもる。――ほんと、自分はどうかしてた。涼太がいなかったら、最初から来てないのに。深く息を吸い込み、ゆっくりと扉を開ける。三人とも、まるで何もなかったかのように笑顔で迎え、さっきまでと同じ調子で話しかけてきた。バーを出たあと、歩きながら男性の同僚が振り返る。「このあともう一軒行くんだけど、松本さんも来る?」「そうそう、一緒に行こうよ」女性の同僚が親しげに腕を絡めてくる。その横で、涼太は握っていた拳を少しだけ緩めた。「もう遅いし……明日も仕事あるだろ。今日は――」「今日は遊びに来たんだからいいじゃない。松本さんだって会社に来てから、まだゆっくり遊んだことないでしょ?」口々に誘われる。もしさっきの話を聞いていなければ――たぶん、心が動いていた。紬はそっと腕を外した。「私は行かない。今日はもう帰る」三人は一瞬顔を見合わせた。男性の同僚がぎこちなく笑う。「え?どうしたの?さっきまで楽しかったじゃん」紬は唇をかみ、言い返そうとしたそのとき――「白石先生?」涼太が突然足を止めた。他の数人も続いて挨拶する。紬が振り返ると、そこには倫也が立っていた。白いシャツに、袖
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第589話

「笑いたいならどうぞ笑ってください。どうせもう慣れてるし」紬は小さくつぶやいた。せっかく楽しみにしていた夜だったのに、同僚たちの態度ですっかり台無しだ。これ以上、気分が落ちることなんてあるのだろうか――そんなふうにさえ思えてきた。倫也は小さく息をついた。「誰も笑ってませんよ。私はただ、忠告をしておきたかっただけです。人は見かけによらぬもの。友達を作る時は、外見や表面的な態度だけで相手の本質を判断してはいけません」紬は思わず顔を上げる。街灯の光が、倫也の輪郭をやわらかく照らしていた。その表情は淡々としているのに、どこか真剣で、読み取れない温度を帯びている。――もしかして……彼は自分を慰めているのか?そう思った瞬間、胸がどきりと跳ねた。紬は慌てて視線をそらし、バッグの持ち手を指先でいじる。「……分かってるよ。別に本気で付き合おうとしてたわけじゃないし。ちょっと合わせてただけだから」何かを誤魔化すように、声が少し掠れている。今夜はわざわざ時間をかけて身支度をして、楽しみにして出かけてきたのに。気が合うかもしれないと思っていた同僚たちに、あんなふうに言われて、しかもそれを倫也に見抜かれたなんて。情けないというのは、まさにこのことだろう。そう思った途端、胸の奥がじんと痛んで、鼻の奥が少しだけつんとした。その微かな変化に気づいたのか、倫也は数秒黙り込んだあと、「帰りましょう」とだけ言って歩き出した。「え?大丈夫、私ひとりで――」紬は慌てて手を振る。「別に送るなんて言ってませんが」「……」――なによ、それ。ちょっと感動しかけたのに。……とはいえ、二人の住んでいるマンションは隣同士の区画で、ほとんど帰り道は同じだった。ただ、倫也が少し早足で、紬が少しゆっくり歩いている――それだけの違い。けれど気のせいだろうか。倫也は本当はそれほど急いでいるようにも見えなかった。紬を待っているようで、でもきっちり距離は保っている――そんな歩き方だった。紬は唇を軽く噛み、足早に追いつく。「白石さんも今夜、あのバーにいたんだね?そんな場所、絶対行かないって思ってた」彼は振り返らないまま答えた。「ただの仕事の付き合いです。それに近いですし」「そっか」紬はうなずく。あのバーはマンションから二本先の通りにあるだけで、タクシ
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第590話

父も兄も、これまで会社の話を彼女の前でしたことはない。それだけに、智宏の表情に浮かんだわずかな影を見て、何か事情があるのだとすぐに察した。智宏もすぐに彼女に気づいた。由奈は何も聞いていなかったふりをして階段を下り、食卓の前に座る。「お父さんもお兄さんも、今日は早いですね」智宏はすぐ話題を変えた。「そりゃ早いさ。僕たちは規則正しい毎日を送ってるからね」少し笑いを含んだ声で続ける。「誰かさんと違って」「え?誰かさんって、私のこと?」由奈がきょとんとする。答えるより早く、秀明が鼻を鳴らした。「夜遅くまで男に連れ回されて、魂まで持っていかれそうになってただろ?」由奈は思わず吹き出し、父のカップにコーヒーを注ぎながら言う。「じゃあ、どうして婚約を認めてくれたんですか?」秀明が答える前に、智宏が口を挟んだ。「最初は反対だったよ。でも滝沢社長が出してきたあの契約が、お父さんの心を動かしたんだ」由奈は興味深そうに身を乗り出す。「どんな契約だったんですか?」秀明はコーヒーを一口すすり、ゆっくりと言った。「君の母方の祖父に関係する話だ。君のお母さんが病気になってから、石川家の産業は親族にかなり切り崩されてしまった。石川グループ自体も、衰退の一途をたどってる。以前、靖彦と美羽姉さんが中道家の名義で石川グループを買収しようと言ってきたが、私は断った。あいつらは結局、利益が欲しいだけだからな。だが滝沢さんの提案は違った。石川グループに資金を入れるだけではなく、普段の経営には口を出さないと約束してくれた。既存事業を整理して、他の親族たちの動きを抑え、正式な後継者が決まるまで支えるという内容だった。君の祖父も、その提案を受け入れた」由奈は黙って聞いていた。栄東市へ来る前から、石川家の状況は聞いている。祖父には娘の二人しか子供がいなかった。亜紀はもういない。母も病気だ。大きな家業を抱えていながら継ぐ者がいなければ、他人の手に渡るのも無理はない。けれど――「でも、お父さんやお兄さんでも同じ方法で支えることはできたんじゃないんですか?」その問いに、秀明はカップを置いてため息をついた。「婿が妻の実家の会社を継ぐなんて、外聞が悪い。それに君のお母さんの体のことは、向こうの親族も皆知っている。石川グループをお母さんと私に任せる形には反対したはず
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