All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 591 - Chapter 600

618 Chapters

第591話

由奈は少し黙り込んでから、紬を見た。「本当に友達って呼べる人は、そんなに多くないんです。たぶん……二、三人くらいかな」紬は目を丸くする。「なんか少ないね?私なんて地元だったら、少なくても十人や二十人は思い浮かぶけど」由奈は静かに問い返す。「みんな、本当に心から信頼できる友達ですか?」「それは……どうだろ」紬は少し言葉に詰まった。昔から友達には困らなかった。けれど、それが自分の家の背景による部分も大きいことくらい、彼女だって分かっている。「正直ね、私も友達ってどんなものなのか、よく分からないの」由奈は肩をすくめた。「難しく考えなくてもいいと思いますよ。自然と気が合う人――言い換えれば、価値観がちゃんと重なる人とか。あとは、あなたが困ったときに手を差し伸べてくれる人」紬は一瞬ぽかんとして、それからじっと由奈を見つめた。「じゃあ……お義姉ちゃんって、まさにそうじゃない?」「私?紬さんに何かしてあげた覚えはないですけど……」紬はにっこり笑う。「江川市にいたとき、私を泊めてくれたじゃない。それって十分でしょ?」由奈は少し困ったように、それでもどこか優しい目で紬を見てから、椅子の向きを変え、机の上の書類を整え始めた。「あなたがそう思うなら……そういうことにしておきましょう」紬は少し考えてから、ぽつりと続けた。「だったら……白石さんも、そうかも」由奈は意外そうに振り向く。「え?そんなに仲良くなったんですか?」紬は言葉に詰まり、わざと視線を逸らした。「別に。仲がいいとかじゃないよ。ずっとあんな感じだし。ただ……昨日はちょっと助けてもらっただけ」由奈はくすっと笑ったが、それ以上は聞かなかった。一方、中道家の本家では――執事が税務署の担当者を見送ったばかりのところへ、智宏が戻ってきた。急ぐ様子もなくリビングへ入ると、信三は湯のみを持つ手を止め、ゆっくり視線を上げた。「長年やってきて、いまさら税務で不備が出るとはな。智宏、会社の管理を疎かにしてないか?」智宏は落ち着いた様子でソファに腰を下ろす。「去年までは問題ありませんでした」「ではなぜ今年になって問題が出たんだ?」信三の顔は険しい。「もし中道家が脱税などという不祥事を起こしたとなれば、栄東市での信用も地に落ちるぞ」智宏は静かに言った。「原因について、僕も知
Read more

第592話

母親のことを触れられると、徹也の表情がはっきりと曇った。だがそこに母親を気遣う色はまるでなく、声もどこまでも淡々としていた。「彼女のこと、俺より気にかけてるじゃないか」智宏は眉をひそめる。「あれだけあなたを後押ししてきた人だ。立場を失った途端、他人みたいな顔をするのか?」中道家の人間で、厄介な人物といえば――秀雄の次は徹也だと、智宏は思っている。冷酷で、しかも容赦がない。だからこそ、靖彦や美羽まで利用できたのだろう。徹也は鼻で笑った。「それは本人が選んだ道だ。誰のせいでもない」そして視線をまっすぐ智宏に向ける。「智宏。おじいさんがお前に期待してるのは分かってる。でも残念だけど、彼の思い通りにはさせない。中道家が犯した罪は、必ず償ってもらう。俺の邪魔をするなら……美羽と同じことになるだけだ」そう言い残し、徹也は背を向けて歩き去った。智宏はその背中を見送りながら、眉間に深い皺を刻む。「中道家が犯した罪は、必ず償ってもらう」――それは、いったいどういう意味なのだろう。その頃、書斎の窓の奥では、信三が静かに立ち、庭先でのやり取りをすべて見ていた。執事が薬の入ってるカップを持って近づき、静かに頭を下げる。「旦那様、お薬の時間でございます」信三は無言で受け取ると、顔色ひとつ変えず苦い薬を飲み干した。カップを置き、ふいに口を開く。「……智宏のことをどう思う」執事は少し驚いたようだったが、すぐに姿勢を正した。「智宏坊ちゃんは立派に成長なさいました。情が厚く、分別もあり、物事の運び方にも無理がありません」「高い評価だな」信三は視線を再び窓の外へ向ける。「では……徹也はどうだ」執事は数秒ためらい、目を伏せた。「徹也様のことは……私の口からは申し上げにくいことでございます」「構わん。言ってみろ」執事はゆっくりと言葉を選ぶ。「徹也様の成長を間近で見てまいりましたが……あの方は、旦那様にもご兄弟にも、どこか距離を置いておられるように見えます。どうにも……本心が読み取りにくい方で」それは長年そばで見てきた者なりの率直な印象だった。もっとも――本来なら彼が評価する立場ではなかった。末の息子として幼いころから最も可愛がられ、孫以上に目をかけられていた時期すらあったのだから。だが、いつごろからか。徹也という男は、次第に読
Read more

第593話

天光グループは、まさに中道グループの子会社と提携した企業だった。だが誰も予想していなかったのは――その天光グループに、徹也が入っていたという事実だった。取締役たちは一様にざわめく。天光グループは中道家の企業ではない。そこへ徹也が入ったとなれば――智宏の頬の筋肉がわずかに強張る。その時になってようやく、徹也がここへ現れた意味の重さに気づいた。「徹也、君……いつから天光に?」秀明が問いかける。徹也は軽く笑った。「ずいぶん前からですよ。もちろん、自分が中道家の人間だってことを忘れたつもりはありません。我々は競合であり、協力関係でもある。でも――身内であることは変わらないでしょう?」秀明は何も言わなかった。徹也は笑みを引っ込めると、隣に控えていた人物から書類を受け取った。「こちらが昨年の、天光と中道グループの共同プロジェクトに関する資金報告です」そう言って、資料をテーブル中央に置く。「まずは財務で確認してください」財務担当者が資料を手に取り、ページをめくった途端、顔色が変わった。「……おかしい。こんな数字、去年の照合作業には出てきませんでした」書類が智宏の手に渡る。その瞬間、彼の表情が一気に沈んだ。書類を持つ手の甲に血管が浮き上がる。紙の端が指先の力でわずかに歪んだ。ページを追うごとに、昨年の提携時には表に出ていなかった資金の流れが、容赦なく暴かれていく。意図的に隠されていたとしか思えない金の動き。金額は十二億にも及んだ。この資金は報告されていないため、税務署への申告とも一致しない。つまり、財務側の確認は最初から狂わされていたということだ。智宏は勢いよく顔を上げた。鋭い視線が徹也を射抜く。――まさか、去年の時点で仕掛けられていたとは。徹也はその視線を真正面から受け止め、口元にうっすら笑みを浮かべたまま資料を回収する。「智宏、今回はちょっと詰めが甘かったね。俺が気づかなければ、この帳尻は全部、中道グループ側の責任になっていたかもしれないよ」「徹也さん、それはどういう意味ですか?」女性取締役が戸惑った様子で口を挟む。「資金の流れについて嘘をついたのは天光側でしょう?どうして中道グループの責任になるんですか?」その場の他の役員たちも同意するように頷いた。だが徹也は即答した。「天光は中道グループの子会社へ資
Read more

第594話

税務問題は思っていた以上に厄介で、由奈が気にせずにいられるはずもない。由奈の問いに対し、智宏は否定しなかった。静かに息を吐く。「僕の判断ミスだ。気づくのが遅れた」責任を一人で抱え込むような言い方だった。由奈は兄の顔をまっすぐ見る。「理由が何であっても――私はお兄さんを信じてます」その言葉に、智宏の強張っていた表情がわずかに緩む。彼は由奈を見返し、それ以上弱い表情を見せまいとするように、軽く笑った。「……その一言で、十分だ」そのとき、病室の扉が開き、美雪が外へ出てきた。二人は同時にそちらを見る。「お父さんのそばにいてあげて」美雪は落ち着いた口調で言った。「何より体が一番なんだから」由奈は頷いた。美雪の背中を見送ってから、由奈は改めて智宏へ向き直る。彼はやはりどこか思い詰めたような表情をしている。「お兄さん。ここは私がついてるから、やらなきゃいけないことがあるなら、そっちを優先して」智宏は一瞬ぼんやりしたあと、小さく瞬きをした。「ごめんね……できるだけ早く戻るから」そう言って足早に廊下を去っていった。それから少しして、病院の廊下の向こうから足音が近づいてくる。由奈が顔を上げると、そこにいたのは祐一だった。後ろには駿介の姿もある。長椅子に座っている由奈の姿を見つけると、祐一はまっすぐこちらへ歩いてきた。「由奈」彼は由奈の前でしゃがみ込むように腰を落とした。背もたれに腕をつき、自然に距離を縮める。「遅くなってごめん」由奈は一瞬きょとんとした。「どうして謝るの?」祐一は迷いなく答えた。「一番そばにいてほしいときに現れなかったら、落ち込むと思って」あまりにも真顔で言うので、由奈は思わず苦笑する。「そんなことないよ……」――兄もいるし。そう言いかけてやめた。「お義父さんは?」祐一が尋ねる。その言葉に、後ろに立っていた駿介の目が一瞬大きくなる。由奈も一瞬だけ固まった。だがすぐに思い出したように口を開く。「大丈夫。急に血圧が上がっただけみたい。しばらく休めば落ち着くって」祐一は小さく頷いた。「そうか」立ち上がろうとしたそのとき――由奈が彼の手首をそっと掴んだ。祐一が振り返り、二人の視線が合う。「お父さん、今ちょうど寝たところなの。見舞いは起きてからにしてあげて」そして少し言
Read more

第595話

「ああ、しかもずいぶん前に。君が気持ちよさそうに寝てたから、起こさなかったんだ」秀明は新聞を畳みながら笑い、祐一の方を見る。「それにしても、君はずいぶん辛抱強いな」祐一は軽く笑った。「褒め言葉として受け取っておきます」由奈は額に手を当てた。まさかあんなにぐっすり寝てしまっていたとは思わなかった。「お父さん、お腹すいてませんか?夕飯、買ってきますよ」秀明が返事するより先に、祐一が口を開く。「もう用意してあります。連絡すればすぐ届きます」由奈は驚いて振り返る。「え、用意したって、いつ?」秀明がわざとらしくため息をついた。「ぐっすり寝てた人には分からないだろうな。起きるのを待ってたら、こっちはとっくに食べ終わってる」由奈は苦笑するしかなかった。ほどなくして夕食が届いた。店の名前を確認すると、高級料理店の健康志向メニューだった。秀明は感心したように言う。「ちゃんと減塩まで気を遣ってるのか」祐一は頷いた。「祖母も高血圧なので、普段から食事には気をつけているんです」その言葉を聞いた瞬間、由奈は視線を落とした。何か考え込むように黙り込む。秀明はその表情に気づき、少し考えるように間を置いてから、スープを飲みながら言った。「婚約パーティーが終わったら、一度和恵さんにも挨拶に行っておきなさい」由奈は思わず顔を上げた。祐一もわずかに動きを止める。「どうした?行きたくないのか?」秀明は淡々と続ける。「婚約までしておいて顔も出さないとなると、中道家の娘は礼儀がないと思われかねないぞ」言い方はいつも通りだったが――そこには明らかに二人の結婚を認める意思が込められていた。祐一は胸の奥で込み上げてくるものを抑えながら、声を落ち着かせる。「お義父さんが回復してからでも大丈夫です」秀明はそれ以上は何も言わなかった。……夜もだいぶ遅くなった頃、駿介が智宏の代わりに病院へ来た。智宏はまだ会社に残っているらしく、財務部も含めて昨年の帳簿を総点検している最中だという。税務問題の影響は、想像以上に大きかった。祐一は由奈を車で送り届けることにした。車内は静かだった。街灯の光が窓越しに差し込み、暗い車内を断続的に照らしては流れていく。祐一は運転しながら、横目で由奈を見た。「税務の件だが……君のお兄さんならきっと乗り切れる
Read more

第596話

夜が更けていった。由奈はベッドの上で何度も寝返りを打ったが、どうしても眠れない。何かが起きるかもしれない――そんな予感はしていたのに、まさか本当に「何も起きない」とは思っていなかった。これまで祐一と一緒にいれば、彼は決して距離を置こうとはしなかった。むしろ、隙があれば必ず踏み込んでくる人だったのに――今日はまるで別人のように慎重だった。変わったのは彼なのか。それとも、自分なのか。自分に魅力がなくなったのだろうか……そんな考えが胸に刺さり、由奈は思わず唇を噛む。もうすぐ三十歳になる――その現実が、妙に重くのしかかってきた。やがて彼女は布団を跳ねのけ、静かに部屋を出た。するとちょうどその瞬間、隣のドアも開いた。祐一が外へ出てくるところだった。廊下の薄暗い灯りの下で、ふたりは思いがけず視線を合わせる。一瞬、空気が止まったようだった。祐一の視線が、由奈の姿に落ちる。ホテルのガウンはゆるく羽織られているだけで、襟元は無防備に開いていた。やわらかな曲線が灯りの下に淡く浮かび上がっている――けれど、当の本人は気づいていない。祐一の喉仏がわずかに動いた。一瞬だけぼうっとしたが、それからすぐに視線を逸らした。「まだ寝てなかったのか」祐一の声はいつも通り落ち着いていた。「うん……そっちは?」「俺も」廊下には静かな沈黙が落ちる。妙に落ち着かない空気だけが、ふたりの間に漂っていた。由奈は部屋に戻ろうとしたが、なぜか足が動かない。その気配を察したのか、祐一が先に口を開いた。「コーヒーでも淹れようと思って」「……私の分もお願い」祐一は彼女の前で足を止め、少しだけ声を低くした。「寝なくていいのか?」由奈は息を整え、視線をまっすぐ向ける。「ちょっとね……場所が変わると眠れなくて」「そうか」祐一は数秒だけ彼女を見つめ、それからわずかに目を細めた。「てっきり――隣に俺がいないから眠れないのかと思った」由奈はすぐに問い返した。「そっちは?」祐一は低く笑った。「俺はそうだな」まっすぐすぎる答えだった。由奈が言葉を失っているうちに、祐一は肩に掛けていた上着を脱ぎ、そっと彼女に羽織らせる。「夜は冷える。風邪ひくぞ」顔を上げた瞬間、由奈の視線は彼の視線とぶつかった。祐一はそのまま彼女の横を通り過ぎようとし
Read more

第597話

由奈は車に戻ると、綾香に中道家の現在の状況についてひと通り話をし、半年前に中道グループの子会社が天光グループと進めていた共同プロジェクトについて調べてもらえないかと頼んだ。綾香はいま栄東市にはいない。だからこそ、この件を探っても不自然に思われる可能性も低い。「わかりました。少し時間はかかると思いますけど、調べてみますね」綾香は迷う様子もなく引き受けた。由奈は小さく笑って言う。「ありがとう。助かります」「いえいえ。池上先生には前に助けてもらいましたし、私にできることならなんでも言ってください」由奈は車を駐車場から出しながらイヤホンをつける。「そういえば……部署が変わったって聞きましたが、もしかして昇進もしました?」綾香は照れたように笑った。「そうなんです。池上先生が辞める前に院長に推薦してくれたおかげで、今の部署に異動できたんです。昼間の仕事はちょっと細かくて忙しいですけど……夜勤がなくなったのは本当に助かってます」「私は供給管理室を紹介しただけですよ。昇進まで決めたのは院長ですし、それも綾香さんの実力ですから」ICUから供給管理室へ異動しただけでも大きな変化だが、さらに看護師長を任されているのだから、それは評価されている証拠だった。もともと綾香は情報系の出身で、医療機器のシステム操作にも強い。海都市にいた頃から、その適性には気づいていた。「それでも、きっかけをくれたのは池上先生です」綾香は真面目な声で言った。「池上先生は、私の人生を変えてくれた大切な人なんですよ」由奈は少し照れたように笑い、しばらく雑談を続けたあと通話を切った。その頃、郊外のカフェ。山並みを望む静かなテラス席で、靖彦は一人の女性と向かい合って座っていた。給仕がスイーツと紅茶を運び終えると席を外す。靖彦は椅子の背にもたれ、湯気の立つティーカップを指先で回しながら口を開いた。「協力してほしいって言われてもさ……俺に何の得があるんだ?」向かいに座り、首にスカーフを巻いた女性――真由美は、静かにティーカップをテーブルに置き、ゆっくり顔を上げた。その表情には揺るぎない自信が浮かんでいる。「滝沢祐一が二度と海都市に戻れなくなり、私が正式に滝沢グループを掌握できれば……そのときは、あなたの望むものを手に入れるお手伝いくらいはできますよ」靖彦は鼻で笑っ
Read more

第598話

真由美は、靖彦がここまで用心深いとは思っていなかった。だが今は、とにかく頷くしかない。先のことは――そのときに考えればいい。「……わかりました」……由奈が母親の見舞いで療養院を訪れたとき、部屋の中には誰もいなかった。残っていたのは、ベッドを整えている医療スタッフが一人だけ。「母はどこに?」由奈が問いかけると、スタッフは手を止めて答えた。「中道恭子さんのことですよね?さっき、一人の男性が気分転換にって、庭に連れていかれましたよ」由奈は一瞬、言葉を失う。「……どんな人ですか?」父や兄の顔はこの病院で知られている。だから、そのどちらでもないとなれば――祐一か。そう思いかけたところで、スタッフが首をかしげた。「背が高くて、きれいな顔立ちの方でした。肌も女性みたいに白くて……あ、そうだ。その方、恭子さんのことをお姉さんって呼んでました」その瞬間、頭の中が真っ白になる。――徹也だ。由奈は踵を返し、ほとんど駆けるように階段を下りた。澪に連絡して番号を聞こうかと一瞬迷う。だが、庭に出たところで――二人を見かけた。恭子は車椅子に座っていて、その後ろには徹也がついている。彼は車椅子をゆっくりと押しながら、何かを話しかけていた。母の意識は、少し戻っているのかもしれない。二人は穏やかに言葉を交わしているようだった。「お母さん!」由奈はまっすぐ駆け寄る。恭子は顔を上げ、少し驚いたように目を見開いた。「……由奈?」その一言に、由奈は息をのむ。徹也を一瞥したあと、母の前にしゃがみこんだ。「覚えてるんですか?私のこと……」「覚えてるに決まってるでしょう」恭子は優しく微笑み、由奈の額にかかった髪をそっと撫でた。「あなたは私の大事な娘よ。忘れるわけないじゃない」胸の奥が、じんと熱くなる。アルツハイマーでさえなければ――母が娘を忘れるはずなんて、ないのだ。込み上げる涙をなんとか押しとどめ、由奈は立ち上がる。「徹也さん、母を外に連れ出してくれてありがとうございます。もう部屋に戻っても大丈夫ですよね?」「ああ、もちろん」徹也は肩をすくめ、あっさりと手を離した。ちょうどそのとき、医療スタッフが慌てた様子で駆けてくる。「中道さん――」何かあったのかと焦った様子だったが、全員が揃っているのを見て、ほっと息をついた。
Read more

第599話

奇妙な考えが、ふと由奈の胸に芽生えた。自分でも突飛だと思う。それでも、どうしても頭から離れない。一方で、徹也はそんな彼女の内心など知るはずもない。ただ、由奈が必死に自分と智宏の関係を探ろうとしているのだと受け取っていた。表情を崩さないまま、彼は小さく笑う。「本当はね、あいつとは親友になりたかったんだけど……でも、無理だったみたい」最後までは言わず、ふっと笑みを消す。そして、どこか含みのある視線で由奈を見た。「……お前のこと、ちょっと羨ましいよ」それだけ言うと、徹也は踵を返した。由奈が何か返す間もなく、そのまま去っていく。残された由奈は、しばらく動けなかった。――羨ましい?その意味がわからない。けれど今は、それを考えるよりも――胸に浮かんだ、あの「あり得ない仮説」を確かめたい。……翌日、澪は悠也と買い物に出かけていた。連絡先を交換してからというもの、二人はよくやり取りをするようになり、悠也は時折こうして食事や買い物に誘ってくる。ここ数日の付き合いで、澪も彼に対してそこまで警戒心はなくなっていた。見た目は徹也ほど整っているわけではないけれど、性格は悪くないし、話も面白い。その悠也が、ちょうどミルクティーの列に並びに行ったときだった。澪のスマホが鳴る。画面に表示された名前を見て、すぐに通話ボタンを押した。「もしもし、由奈お姉ちゃん?」「澪さん、今家にいますか?」「ううん、外。どうしたんですか?」少し間を置いてから、由奈が口を開く。「ちょっとお願いがあって……澪さんって、徹也さんと仲いいでしょ?家にも普通に行けますよね?」「うん、全然行けますよ」澪はあっさり答えた。普段から出入りは自由だ。「じゃあさ……徹也さんの私物、ちょっと借りてきてくれませんか?たとえば……使ってる歯ブラシとか」「え?」澪は思わず固まった。瞬きを繰り返しながら、信じられないという顔で言う。「ちょ、待って。なんで歯ブラシ?それ……普通にヤバくないですか?」由奈は苦笑いを浮かべながら、慌てて取り繕う。「いや、変な意味じゃなくて!ちょっと実験で使うだけなんです。歯ぐきの健康状態を調べるテストで……ほら、サンプルが必要でしょ?兄のはもう取ったんだけど、徹也さんとはそんなに親しくないから……」完全にその場しのぎの説明だった
Read more

第600話

由奈は振り返り、倫也に軽く笑みを向けると、スマホをポケットにしまった。「別に何も。ちょっと人に頼みごとしてただけです」「そうですか」倫也はそれ以上踏み込まず、話題を切り替えた。「それより今回の新薬、結果が出ました。かなりよくて、臨床第三相に進めそうです」「ほんとに?」由奈の表情が明るくなる。「はい。あなたが提供してくれた脳脊髄液のおかげでもあります。ただ、お母さんの症状に関しては、まだすぐにどうこうできる段階じゃないですが」その言葉に、由奈は静かに首を振った。「ううん、大丈夫です。すぐじゃなくても、道はあるはずですから。ここまで来られただけでも大きいですよ。これからもっといい結果が出るかもしれませんしね」「そうですね」倫也もやわらかく笑った。「まだまだこれからです」二人が並んで話すその背中を、ドアの陰から紬が見ていた。声をかけようとしたが――なぜか足が止まる。今ここに割って入るのは、場違いな気がした。小さく唇を尖らせると、そのまま踵を返す。急ぎ足で廊下を進んだそのとき――「わっ――」前をよく見ていなかった。清掃員のバケツに足を引っかけ、水を盛大にぶちまけてしまう。そのまま足を滑らせ、床に倒れ込んだ。「お嬢さん、大丈夫かしら?」慌てて駆け寄ってきた清掃員が手を差し伸べる。「……大丈夫です」紬はその手をそっと外した。怒鳴りつけようと思えばできた。いつもの自分なら、きっとそうしていた。けれど――言葉が出てこない。着ていたワンピースは、四十万はするブランド物だ。汚れた水をかぶって、台無しになっている。以前の自分なら、間違いなく文句をぶつけていたはずなのに。「紬さん?」騒ぎを聞きつけて、由奈と倫也も中へ戻ってきた。濡れた服と、倒れたバケツを見て、状況を察する。清掃員は慌てて説明した。「私が床拭いてたら、この子が急に――いや、その……」「もういいです」紬は遮るように言った。「弁償とかいりませんから」それだけ言うと、誰の顔も見ずに、その場を離れる。呼び止めようとした由奈も、思いとどまった。紬の性格を考えれば――今は見られたくないはずだ。……トイレの個室に駆け込み、紬はスマホを取り出した。祐一に電話をかける。着替えを誰かに届けてもらおうと思ったのだ。だが――「……つながらない」通
Read more
PREV
1
...
575859606162
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status