All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 601 - Chapter 610

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第601話

暮れかけた空の色が、ゆっくりと街を包み始めていた。由奈が自宅に戻り、車を停めて玄関を上がると、すぐに使用人が歩み寄ってきた。「お嬢さま、お帰りなさいませ……」何か言いかけた使用人の視線に導かれるように、由奈はリビングへ目を向けた。そこには、ずっと待っていたらしい祐一の姿があった。由奈は一瞬足を止め、それから近づいた。「どうしたの、急に」「会いたくなったから来た」祐一は静かに彼女を見つめる。思いがけないほどまっすぐな答えに、由奈は言葉を失った。空気を察した使用人が、そっと口を挟む。「ではお嬢様、田辺様、ごゆっくりどうぞ」数歩歩いたところで、ふと思い出したように振り返る。「田辺様、今夜はお泊まりになりますか?」由奈が言葉に詰まると、祐一が先に笑って答えた。「いえ、それはやめておきます。まだ早いでしょうから」事情を知らない人から見れば、彼は「田辺義久」で、由奈とは婚約したばかりのフィアンセ。今の関係で由奈の自宅に泊まるとなると、噂が立ちかねない。それに――中道家の人間たちも、まだ彼の本当の身分を知らない。「かしこまりました」使用人はそれ以上何も言わず、静かに下がっていった。リビングには、しばらく静かな空気が残る。窓の外で、暮色がゆっくりと部屋の奥まで入り込んできていた。やがて由奈が軽く咳払いをする。「てっきり、このまま居座るつもりかと思ってた」祐一は視線を外さない。「俺に残ってほしかったのか?」真正面から見つめられて、由奈は少し居心地が悪くなり、顔をそらす。「だってこの前、一緒に同じ部屋に泊まってたじゃない」「それはそうだが……あの時のこと、まだ怒ってるのか?」「怒ってるって?」祐一は椅子の背にもたれ、唇の端をわずかに上げた。「俺が……何もしなかったことが」由奈の頬が一瞬で熱くなる。手に持っていたバッグをそのまま彼に投げつけた。祐一は笑いながら受け止めると、彼女の腕を軽く引き寄せた。腰を抱き寄せられ、気づけば彼の膝の上に横向きに座らされている。「中道徹也のDNA、調べるつもりなんだって?」由奈は眉をひそめる。「どうして知ってるの?」「悠也から聞いた」「……」由奈は言葉を失った。「そういえば斉藤さん、澪さんと付き合ってるの?」祐一は片手で額を支えながら、少しだけ顎を上げて彼女
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第602話

電話は何度かけてもつながらなかった。花織は舌打ちしながら罵声を吐き、苛立った様子で何度もかけ直す。その拍子にテーブルの上のグラスを引っかけ、床に落として割ってしまった。乾いた破裂音が部屋に響く。その音を聞いた瞬間――まるで世界に見放されたような気持ちが胸に押し寄せ、彼女はようやく現実を突きつけられた。なんて滑稽なんだろう。ここまで来るために、彼女はあまりに多くのものを差し出してきた。棺桶に片足を突っ込んだような年寄りに身を委ね、従順な妻を演じ続けてきた。信三が死ねば、すべてが自分のものになる――そう信じて、ここまで耐えてきたのに。なのに、自分はあっさりと見捨てられた。情けのひとつすら、かけてもらえなかった。心が壊れそうになったその時、突然スマホが鳴る。靖彦からの折り返しだと思い込み、花織は慌てて通話を取る。「靖彦、どうして電話に出てくれなかったの――」「お母さん。俺だよ」スマホの向こうから聞こえた声に、花織の体が固まった。徹也だった。次の瞬間、怒りが一気に噴き出した。「今さら電話してきて、いったい何の用?私がこんな目に遭ったのは全部あんたのせいよ!あんたを今日まで育ててきたのは私なのに……よくもあんなことができたわね!」怒りで声が震える。靖彦が自分との関係を告白した一件が、すべて徹也の仕組んだことだと知ってから――彼女はずっと徹也を憎んでいた。恩知らずとは、まさに彼のことだ。「そうだね。お母さんには感謝してるよ」徹也の声には、ほとんど感情が乗っていなかった。「あなたがいなかったら、あんな苦しみを味わうこともなかっただろうし」そして淡々と続ける。「だからお礼に、プレゼントを用意したよ。気に入ってくれるといいけどね」「それ……どういう意味――」最後まで言い終わる前に、通話は切れた。花織はしばらく動けず、その場に立ち尽くしていた。数分後、スマホに一通のメッセージが届く。添付されていたのは――遥か昔の映像データだった。再生した瞬間、花織は頭を抱え、悲鳴を上げた。……翌日、澪は徹也の自宅を訪れていた。ここへは何度も来ているため、勝手もわかっている。「おや、澪様。また坊ちゃんにご用ですか?」リビングにいた執事が、穏やかに声をかけてきた。「馬場さん、徹也さんいる?」「坊ちゃ
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第603話

澪は思わず後ずさった拍子に、背後のキャビネットにぶつかった。中に収められていたいくつかの薬の箱、そして腕時計や高価そうなアクセサリーと一緒に床に落ちる。はっとして身を強張らせ、慌てて散らばった物を元に戻そうとするが、拾い上げた薬の箱に、見慣れない文字が並んでいた。気になってスマホで写真を撮った、そのときだった。廊下の外から、執事の声が聞こえてくる。澪は慌てて片づけを終え、急いでウォークインクローゼットを出ようとした。だが扉のところまで来た瞬間、外からドアが押し開けられる気配がした。逃げ場を失い、とっさに洗面室へ身を隠す。「先ほど澪様は本を借りに来たとおっしゃっていましたが、今はどこへ行かれたのか……」「わかった、下がってくれ」「かしこまりました」ドアの内側にぴたりと背をつけ、澪は息を殺して耳を澄ませる。顔はすっかり青ざめ、両手は強く握りしめられていた。――どうしよう。このタイミングで徹也が帰ってくるなんて……「澪ちゃん、もう隠れなくていいよ。いるってわかってるから」身体がびくりと固まる。迷っていると、外からさらに低い声が続いた。「出てこないなら、こっちも考えがあるからね」澪は大きく息を吸い込み、意を決して洗面室の扉を開けた。そろそろと歩み出るが、徹也の顔をまともに見ることができない。「て……徹也さん……ごめんなさい。勝手に部屋に入るつもりはなかったんです。ただ、ちょっと気になって……」徹也は静かに歩み寄る。「何を見た?」「わ、私は……」澪は唇を噛み、ぎゅっと目を閉じた。「徹也さんが女装趣味だってこと、絶対誰にも言いません!」一瞬、沈黙が落ちた。徹也はわずかに目を見開いたあと、しばらくしてから声を和らげる。「わかった……次はないからね」「怒らないんですか?」澪は思わず顔を上げた。「なぜ怒る必要があるんだ?」そう言って、徹也は彼女の頭を軽く撫でる。「ただ……これから先、俺を恨まないでくれれば、それでいい」その言葉に、澪の胸がきゅっと締めつけられた。「徹也さんを恨むなんて、そんなことあるわけないです。絶対に」徹也は小さく微笑んだ。澪が帰ったあと、徹也は一人で部屋へ戻った。クローゼットの中に置かれたあの肖像画を見つめ、それから鏡に映る自分へと視線を移す。そっと頬に触れる。さらに手を下
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第604話

花織の死は、中道家の中で思ったほど大きな波紋を呼ばなかった。信三に至っては、その知らせを聞いても表情ひとつ変えなかったほどだ。リビングには、智宏と由奈、そして美雪や徹也たちが顔をそろえていた。花織の死について報告しているのは、徹也だった。彼の顔色は青白く、目元にはうっすらと赤みが差している。沈んだ表情からは、深い悲しみを押し殺しているようにも見えた。「お父さん」徹也は信三をまっすぐ見た。「母が自ら命を絶ちました。葬儀をしてくれる実家の人間もいません。だから、息子である私が、見送りたいと思います」返事を待つ静かな時間が流れる。信三はティーカップをテーブルに置いた。ソーサーとカップが触れ合い、小さな音が静まり返った室内に響く。やがて、ゆっくり口を開いた。「あいつはお前の母親だ。見送ってやれ」「わかりました」徹也は深く頭を下げた。「でも徹也」美雪が口を開いた。「お母さんが自殺するような人にはとても見えなかったけど……」徹也は視線を落としたまま答える。「遺書は残っていました。ただ……もうこれ以上、彼女の傷をえぐるようなことはしたくないので、この場で読み上げるは控えさせてもらいます」少し間を置いてから、静かに続けた。「たぶん……彼女は、もう私に迷惑をかけたくなかったんでしょう」その意味するところは、この場にいる誰もが理解していた。花織は靖彦と付き合っていた――この件が信三に知られた時点で、それは事実上の「死刑宣告」と同じだった。由奈は終始、黙っていた。花織の死が、本当に自殺だったのか――そんな単純な話ではない気がしてならなかったからだ。やがて、話し合いが終わると、由奈は眉を寄せたまま庭へ出た。家から少し離れた場所、黄葉し始めた銀杏の木の下に、一台の黒い車が停まっている。風に舞った黄色い葉が、磨き上げられた車体の上に落ち、まるで金箔を散らしたように光っていた。由奈はそのまま歩み寄り、後部座席のドアを開けて乗り込む。車内は暖房がよく効いていて、身体にまとわりついていた冷気がゆっくりほどけていった。助手席に座っていた悠也が振り向く。「お疲れ様、滝沢夫人」由奈は一瞬だけ目を瞬かせた。――滝沢夫人。その呼び方が、妙にしっくりこない。「池上でお願いします」思わず言い返した。まだ婚約式だって済んでいない。そ
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第605話

祐一はわずかに眉を寄せた。「つまり……中道家の四男は、本当は女性だったってことか?」悠也は肩をすくめる。「そうとしか考えられないね。普通の女性があんな薬を飲む理由はない」由奈はすぐに問い返した。「副作用はどうなってますか?」悠也の表情が少し真剣になる。「あの薬が違法扱いされてる理由はそこなんです。依存性が強い。長期間使ったあとにやめると、強烈な離脱症状が出ます」少し間を置いて続ける。「身体の不調だけじゃない。精神的なダメージも大きいです。極端な話――一度飲み始めたら、墓まで付き合うことになる薬ですね。T国では、こういう薬を使ってる人たちの平均寿命が短いって言われてます。それにこの手の強力な薬は……下手すれば命を落とすでしょう」由奈は思わず息をのんだ。その瞬間、車内の空気が重く沈む。やがて悠也は途中で車を降りた。残った運転手がバックミラー越しに様子をうかがう。「滝沢社長……このあと、どちらへ?」由奈が口を開きかける。「ホテル――」「青ヶ丘へ」二人の声が同時に重なった。由奈は言いかけた言葉を飲み込み、視線を逸らす。頬がわずかに膨らんだ。――少し一緒にいてあげようと思ったのに。どうやら、その必要はなさそうだった。車が青ヶ丘に到着すると、由奈はまだ機嫌を直さないままドアを開け、そのまま先に降りてしまった。祐一はその背中を黙って見送る。膝の上に置いていた手が、わずかに拳を握った。由奈とは、まだ夫婦関係が続いている。そもそも政略結婚を受け入れたのは、彼女のほうだった。それなのに――自分が夫であるという事実を、いまだに受け入れてくれない。あの夜は、あんなにも彼を求めていたのに。――由奈。俺はいったい、どうすればいい?……由奈は少し荒い足取りのままリビングに入った。秀明がその様子に気づき、振り向く。表情を曇らせたまま階段へ向かう娘を見て、信三に何か言われたのだと思ったらしい。「どうした?誰かに何か言われたのか」階段の途中まで上がりかけた由奈は、はっとして振り返る。そして慌てて階段を下りてきた。「お父さん、もう退院したんですか?」「もう十分休んだ。いつまでも病院にいる必要はないからな」秀明は保温ボトルの蓋を開けながら言う。「そういえば駿介から聞いたぞ。君も智宏も本邸へ行ったらしいな
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第606話

あれほど副作用が強く、体への負担も大きい薬なのに、花織が何も知らなかったとは考えにくい。それに、本当に娘を大切に思っていたのなら、どうして徹也の性別を隠したりしたのだろうか。そもそも徹也と花織の関係も、世間で言われているような「仲の良い母子」には見えなかった。「由奈、どうして急に徹也のことなんて気にし始めたんだ?」秀明が顔を上げ、不思議そうに彼女を見る。由奈は慌てて言い訳した。「えっと……徹也さんとお兄さんの関係が普通じゃないって聞いたので、ちょっと気になって」秀明はしばらく黙り込み、窓の外――葉を落とした木へ視線を向けると、小さくため息をついた。「最近は中道家もいろいろあったからな。徹也のことも少し心配なんだ」由奈は目を伏せ、それ以上は何も言わなかった。……花織の葬儀は簡単だった。火葬を済ませると、そのまま静かに埋葬された。信三と靖彦を除き、中道家の人間は一通り顔を出したものの、あくまで形式的な参列に過ぎなかった。由奈は智宏と秀明のそばに立ち、他の参列者たちと同じように花織の墓前へ線香を一本手向けた。やがて墓地を後にしようとしたそのとき、久しく姿を見せていなかった靖彦と鉢合わせる。「……靖彦?」美雪が驚いた声を上げる。秀明と秀雄もそちらへ視線を向けた。靖彦は鼻で笑った。「死んだあいつと、今さら仲良しごっこしてもしょうがないだろ?生きてた頃だって、誰もあいつにいい顔なんてしてなかったくせに」「靖彦、それはどういう意味?」美雪が眉をひそめる。「どういう意味かって?美羽姉さんがいなくなった今なら、秀明兄さんと秀雄兄さんに聞けばいいだろう。二人とも、よく分かってるはずだ」その言葉がほのめかしているのは、言うまでもなく家族内の利害争いだった。美羽の死に続き、花織まで亡くなったことで、中道家からは二人の競争相手が消えたことになる。「あの人との関係を告白して、罪を全部押し付けたのはお前だろう。それが今さら善人面か。私たちだけが悪者だとでも言うのか?」秀明は呆れたように言った。同じ母親から生まれた兄弟とは思えない。どうしてこんなにも恥知らずで冷酷な弟がいるのか――そんな思いすらよぎる。靖彦は拳を握りしめ、顔色を険しくした。「もういい」秀雄が秀明の肩に手を置く。「墓前で騒ぐべきじゃない。彼女
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第607話

「誰だ!」徹也が鋭く声を上げ、警戒したように視線を向けてきた。由奈は息を整え、陰から出ようとした――そのときだった。別の方向から、澪がふらりと姿を現す。由奈は思わず立ち止まる。澪はその場に立ち尽くしたまま、徹也と靖彦を見つめていた。顔色がみるみるうちに青ざめていく。やがて、かすれた声で口を開く。「……徹也さん……今の話、本当なんですか……?お母さんを殺したのは、あなたたちだったんですか?」最後の言葉は、問いの形を保っていた。――まだ信じていなかったからだ。しかし、徹也は長いあいだ沈黙したまま、何も答えなかった。その沈黙だけで、十分だった。突然、靖彦が狂ったように笑い出す。「はは……はははは!」徹也を指差し、次に自分自身を指す。「俺は秀雄兄さんたちに敵わないから、お前に利用されたんだって?だったらお前自身はどうなんだ?」そして澪を指差した。「お前が一番可愛がってる姪の質問に答えられるのか?彼女の母親を殺した真犯人が、お前だって言えるのか!」澪はただまっすぐ徹也を見つめていた。だが、どれだけ待っても――答えは返ってこない。その瞬間、彼女はすべてを悟り、涙が一気にあふれ出した。――あの日、徹也が言った言葉。「これから先、俺を恨まないでくれれば、それでいい」母親を殺した相手を、恨まずにいられるのだろうか。澪は声を上げて泣きながら、その場を駆け出した。その瞬間、徹也の表情が変わる。「彼女を止めろ!」ボディーガードの一人がすぐに追いかけようとしたそのとき――由奈が飛び出した。「徹也さん!まさか澪さんまで殺すつもりですか?」徹也はわずかに目を細める。「由奈さん?ああ、そうか……なるほど」何か思い当たったように言う。「俺の部屋に澪ちゃんを行かせたのは、お前だったのか。ということは、お前も全部知っていたっていうわけだ」由奈は澪の前に立ちはだかった。「私が何を知っているかなんて関係ありません。問題なのは、あなたが何をしたかです。復讐のつもりなら、それでもいい。でも――関係のない人まで巻き込まないでください」「復讐?」靖彦がはっとして徹也を見る。「何のことだ?」徹也の顔色が一瞬だけ変わる。だがすぐに、陰鬱な表情へ戻った。「由奈さん、お前には恨みがない。余計なことはするな」それでも由奈は動か
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第608話

その場にいた全員の顔色が変わった。首を押さえた靖彦がその場に崩れ落ちる。「靖彦!」秀明が思わず駆け寄ろうとする。だが――「動くな」徹也が低く言った。血に濡れたナイフをそのまま由奈と澪の方へ向ける。「誰か一歩でも近づけば――次はこの二人だ」刃先が二人のすぐそばまで迫る。冷たい光を帯びた刀身が、由奈の頬に触れそうな距離まで近づいた。由奈は思わず息を止めた。指先がわずかに震えるが、それでも――目は閉じなかった。一方、澪は先ほどの光景にすっかり怯えきっていた。小さく震えながら、涙をこぼしている。智宏の顔色が一気に変わる。一歩踏み出しかけたその動きも、徹也の鋭い視線に止められた。「徹也!」怒りを押し殺した声が響く。「自分が何をしてるか分かってるのか!」その声には怒りだけでなく、かすかな焦りも混じっていた。秀明は血のついたナイフと震える由奈たちを見比べ、自分の娘が捕らわれていることにひどく不安を覚えた。「徹也……落ち着いてくれ。話があるならちゃんと聞くから……無関係な人たちを巻き込むな」秀雄も必死に徹也を落ち着かせようとする。「そうだ。俺たちは家族なんだろう?」静かに続ける。「まず救急車を呼べ。靖彦が死ねば、本当に取り返しがつかないことになってしまう。これからの人生は刑務所で過ごしてもいいのか?」「家族?」徹也は鼻で笑った。「よくそんな言葉が言えるな。俺が中道家の息子になった瞬間から――人生が終わっていたんだ」そして、さらに言い放つ。「そろそろ教えてやるよ。花織は俺の実の母親じゃない。信三に気に入ってもらうために代理出産を使い、俺の本当の母親を殺した。しかも俺の父親は、息子しか見ていない偽善者で、俺の母親のことなんて一度も気にしてはくれなかった」その言葉とともに、ナイフの刃先がわずかに動く。澪の首元の皮膚が切れ――小さな血の粒がにじんだ。「いやっ……!」澪が震えながら声を上げる。周囲の人間は青ざめたまま、誰も動けない。そのとき――智宏が前に出た。「徹也、落ち着いてくれ。あの二人を解放してくれないか?君が望むことなら……何でも受け入れるから」徹也は一瞬だけ動きを止め、智宏を見つめる。その目には、どこか寂しさが浮かんでいた。「……いいだろう。彼女たちは解放してやる。その代わり――お前が人
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第609話

もし、自分が無理に戻って盗み聞きなどしなければ。もし、見つかったりしなければ――兄を巻き込むこともなかったのかもしれない。そう思った瞬間、肩にそっと手が置かれた。「由奈」秀明は静かに声をかけた。「君のせいじゃない。自分を責める必要はないよ」そう言いながらも、彼の眉間には深い皺が寄っている。「それより……徹也の件について、いろいろ確かめなければならないことがある。いったん戻って、おじいさんと話してくる。智宏のことだが――」そこまで言って、彼はしばらく黙り込んだ。やがて奥歯を噛みしめるようにして続ける。「智宏は頭の回る子だ。きっと上手く立ち回れる。それに……徹也とは小さい頃から一緒に育った仲だ。そんな相手に、徹也が危害を加えるとは思えない」由奈はわずかに目を見開いた。確かに、兄に対する徹也の態度は、他の者に向けるものとはどこか違っていた。――今は、そこに賭けるしかなかった。……秀明は急いで中道家の本邸へ戻り、由奈は祐一のもとへ向かった。本当は頼りたくなかった。けれど、今はもう彼しかいない。向かう途中、綾香から電話が入る。「半年前の中道グループの子会社と天光の共同プロジェクトですけど、新しい株主側から話が持ち込まれた案件だったって分かりました。しかも中道グループ側もそれを承知のうえで合意して、契約まで結んでいます」「新しい株主が?」由奈は思わず問い返した。「はい。名前は中道徹也です」その名前を聞いた瞬間、由奈ははっと息をのんだ。なるほど。徹也は、あの時点で天光に入り込んでいたのだ。だからこそ、半年も前のプロジェクトだったとしても、資金の流れについて把握できていた。あの件に彼が関わっていたからだ。だが――智宏は、その事実を当時まだ知らなかったはずだ。由奈はホテルの前に車を停め、そのままロビーへ入り、祐一から渡されていた専用システムの予備カードで最上階のスイートへ向かった。ドアをノックして間もなく――扉が突然開いた。反応する前に、大きな手に腕を引かれ、そのまま室内へ引き込まれる。気づけば背後のドアに押しつけられ、祐一の体が覆いかぶさるように迫っていた。彼は顔を寄せ、唇と鼻先が由奈の首筋にかすかに触れる。くすぐったさに身をよじりながら、由奈は言った。「祐一……お酒飲んだの?」漂ってくる酒の匂いに
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第610話

祐一は一瞬言葉を失ったが、やがてかすれた声で言う。その一語一語は、喉の奥から無理に押し出されるようだった。「由奈……俺が一番後悔してるのは、君を六年間も傷つけたことだ。だから俺は変わろうとしてきた。でも……最後まで頑張って、それでも全部無駄だったなんて結果だけは、どうしても受け入れられない」彼は手を伸ばし、噛みしめられた彼女の唇にそっと触れた。指先は何か壊れやすいものに触れるように優しく、それでいて酔いからくる頑なさも混じっている。「そんな結末は……あまりにも残酷だ」由奈は動けなかった。彼の触れた場所が焼けるように熱く、ウイスキーの重たい香りが彼女の逃げ場を塞ぐ。祐一の黒い瞳を見返すと、その奥には揺れる火のような光があった。――彼は答えを待っている。必死で。「祐一、あなたの目的はもうとっくに達成しているよ」思ったよりも、自分の声は静かだった。「だから、こんなふうに確かめる必要なんてないの」薄暗い室内の灯りの下で、祐一の瞳が深く沈む。喉仏が小さく上下した。由奈の唇に触れていた手がゆっくりと下り、やがて彼女の首筋に止まる。指先の下で脈が速く跳ねていた。それがどちらの鼓動なのか、自分でも分からない。「いや、俺はただ――」言いかけた言葉を、由奈が遮った。「私の口から『好きだ』って聞きたかったの?そうすれば安心できるって?」ふっと笑う。「いいよ。聞きたいなら言ってあげる。私は、あなたとやり直そうって思ったのは本当。ずっとあなたのことを思っていたのも本当」そこで一度、言葉が揺れる。「でもね……そう思えば思うほど、自分が惨めになるの。これからどうやって浩輔と向き合えばいいのか分からないし……彼の両親の死に関わっている人を愛してるなんて……彼にどう説明すればいいのかも分からない」涙がこぼれ、言葉が途切れる。由奈はすぐに顔を背け、乱暴に涙を拭った。呼吸を整え、声を落ち着かせる。「ごめんなさい。今日は少し……気持ちの整理ができてなくて。あなたも酔ってるし、続きはまた別の日にしましょう」そう言って、振り返らないまま部屋を出ていった。扉が閉まる音が響いた瞬間――祐一の張り詰めていた体から力が抜けた。そのまま壁に体を預け、ゆっくりと崩れ落ちる。額を押さえた掌の下で、思考が濁っていく。酒のせいだけじゃない。感情そのもの
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