All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 641 - Chapter 650

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第641話

たしかに――帰っておとなしくお嬢様をしていれば、欲しいものは何でも手に入る。今みたいにみじめな思いをする必要もない。実際、紬は苦労に慣れていない。アルバイトを始めてまだ半月、もう心が折れかけている。それでも――紬はわずかに視線を逸らし、小さく言った。「……いつかは、自分の力でやらなきゃって思ってるから」倫也は淡々と返す。「力が足りないのに無理をする。その結果の苦労を、自業自得と呼ばずして何と呼ぶべきでしょう。それとも、同情して欲しいのですか?」彼の声音は、あくまで穏やかだった。けれどその静けさは、彼女には皮肉のように響く。どこか突き放すような、不信の色さえ滲んでいた。――どうせ続かない、そう思っているのだろう。自分が本気で自立しようとしているなんて、きっと信じていない。確かに、自分がどこまで踏ん張れるのか、はっきりとは言えない。それでも――軽く見られるのは、やっぱり悔しい。まして、それが好きな人からだなんて。そう悟り、胸の奥がじわりと痛む。紬はぎゅっと拳を握り、まっすぐ彼を見据えた。「同情なんていらない!どうせみんな、私には無理だって思ってるんでしょ。松本家の娘だから、甘やかされて育って、そのまま用意された道を進むだけだって。でも、それは私の望んだ人生じゃない!私は操り人形じゃないし、やりたいことくらい、自分で決めたいの。見下すのは勝手だけど、できないって決めつける権利はないでしょ!」それ以上は何も言わず、紬は踵を返して走り去る。ドアの前に残された倫也は、わずかに眉を寄せた。しばらくして、小さく息を吐く。――言い過ぎたのは分かっている。だが、ああでも言わなければ、彼女の気持ちは断ち切れないのだろう。……同じ頃、秀雄は栄東市のテレビ塔にある回転レストランを貸し切り、妻と一緒に息子の誕生日を祝っていた。少年は十七、八歳ほど。整った顔立ちに、屈託のない明るさと自信がにじむ。大切に育てられてきたことが一目で分かる。その隣に座る女性はベレー帽をかぶり、化粧っ気は薄い。だが骨格の整った顔立ちと、どこか人目を引く気品を隠しきれていなかった。秀雄は息子――光俊に視線を向ける。「光俊、賑やかな誕生日パーティーを用意できなくてごめんな……がっかりしてないか?」光俊は首を横に振る。「ううん。家族で一緒にい
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第642話

「あの森川茜が、由奈お義姉ちゃんの叔父さんの彼女で、しかも子どもまでいるの?」由奈と同じくらいの衝撃を受け、紬は思わず声をあげた。由奈も、秀雄が女優との間に子どもがいることを知っていた。けれど、その女優が誰なのかまでは――今日まで知らなかった。森川茜。十六でデビューし、八年もの下積みを経て、二十四のとき映画「デイジー」で一気に名を上げた女優。だが同時に、最も賛否の分かれる存在でもあった。あの作品での大胆すぎる演技は、彼女を一躍トップに押し上げた一方で、「話題性先行の女優」という烙印も残した。男性からは熱狂的に支持され、女性からは嫌悪される――そんな極端な評価の中で、彼女は一度表舞台から姿を消している。三年後、彼女は復帰し、再び一線に返り咲いた今でも、その評価は完全には消えていない。「ねえ、無視しないでよ」頬を膨らませる紬の声に、由奈ははっと我に返った。「無視してませんよ。ただ……私も今日知ったばかりで、驚いてるだけ」苦笑してそう答えると、紬は机に突っ伏したまま顔を上げる。「その叔父さん、何も教えてくれなかったの?」「そんなに親しいわけじゃないし、そこまで踏み込んだ話、聞けるわけないでしょ」由奈が肩をすくめると、紬も「まあね」と頷いた。「でもさ、今まで二人が結婚しなかったのって……やっぱり彼女が芸能界の人間だからでしょ?」由奈は少し驚く。「そこまで読めるなんて、すごいですね」「そりゃね。似たような話、いくらでも見てきたし。知り合いのボンボンもさ、女優に入れ込んで、車だの家だの散々貢いでたのに、結局『家族が認めない』で終わったんだよ。年に何千万も使ってたのにね。まあ、そういうの、珍しくないよ。特にああいう家は」由奈は黙り込む。信三が茜を認めない理由。それは単に芸能人だからではない。――彼女に付きまとう数々の噂。過去の経歴。世間の評価。そのすべてが、名家にとっては受け入れがたいものなのだろう。……一方、その頃。茜との関係が表に出た直後、秀雄は本邸へと向かっていた。茜と光俊を家族として迎え入れるなら、今しかないと思った。書斎の扉を開けると、信三は背を向けたまま椅子に座っていた。「……あの親子の件で来たんだろう」秀雄は迷わず答えた。「はい」そして、一歩踏み出す。「お父さん。茜と籍を入れたいと思
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第643話

張りつめた空気の中で、信三が咳き込んだ。執事が煎じ薬の入ったカップを手に部屋へ入り、足早に机の前へ進む。「旦那様、お薬のお時間です。このあと吸入もございますので」信三は何も言わずにカップを受け取り、そのまま飲み干した。執事はそれを見届けると、今度は秀雄へ向き直る。「秀雄様、旦那様の体調はまだ完全に回復されていません。これ以上は……」「……お大事にしてください。失礼します」秀雄はそれ以上言葉を重ねず、踵を返して書斎を後にした。信三は空になったカップをテーブルに置く。執事がそれを片付けながら、ふと口を開いた。「旦那様、もし秀雄様が、あの親子をどうしても迎え入れるとおっしゃったら……?」信三の目が細くなる。「これまであいつは、誰よりも私の言うことを聞いてきた。だがもし今回、あの親子のために私に逆らうというなら――」一拍置き、低く言い切った。「先に手を打つしかあるまい」……青ヶ丘。帰宅してまだ二日だというのに、秀明はすっかり祐一の料理に心を掴まれていた。いつもなら祐一の名前を聞くだけでも顔をしかめるのに、今日は珍しく上機嫌だ。「気に入っていただけたのなら、これからも作りますよ」祐一が穏やかに言うと、秀明は箸を動かしながら答えた。「約束だからな?後で後悔しても知らないぞ。まあ、もっと早くこの腕前を知っていたらなあ。あの時、ハードルを少しは下げてやってもよかったかもしれない」それを聞いて、智宏がすぐに口を挟んだ。「お父さん、話が違うんじゃないですか?」秀明は肩をすくめて、どこ吹く風といった調子で言った。「人間、臨機応変が大事なんだよ」智宏は呆れたように箸を止める。「ただ美味しい料理に弱いだけでしょう」「お前な……ちょっと家に置いといたら、口が達者になったじゃないか」わざとらしく眉をひそめる秀明に、智宏はため息をついた。その時、外から戻ってきた由奈が、その光景を目にする。思わず足が止まった。――祐一が、父の隣に座っている。しかも、やけに自然に馴染んでいる。「由奈、おかえり。お腹空いてないか?」秀明が手招きする。「これ、全部祐一が作ったんだぞ。この腕で社長なんてやってるのがもったいないくらいだ。今度、うちの料理人にも教えてもらおう」由奈はかすかに口元を引きつらせた。……結局、料理で落とされたって
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第644話

答えは、もうとっくに出ていた。祐一はそっと由奈の手を取る。低く落ち着いた声だった。「家柄とか立場なんて、所詮は一つの基準にすぎない。誰にとっても同じ重さがあるわけじゃないよ。中道家のことに俺が口を出すのは違うけど……秀雄さんにその気があるなら、あとはおじいさんが折れるか、それとも最後まで通すか――結果を待つしかないな」由奈はじっと彼を見つめ、目を細めた。「中道家のこと、あれだけ詳しかったくせに……こういう時だけ口を出すのは違うって?」祐一は小さく笑う。「全部わかってるわけじゃないからな」一瞬だけ言葉を区切り、それから付け加えた。「……君のこと以外は」由奈はさっと手を引き、腕を組む。「ほんと口がうまいのね。どうりで、お父さんの態度があんなに変わるわけだ」祐一はわずかに身をかがめ、距離を詰める。楽しげに目を細めた。「じゃあ、頑張った甲斐があったね」……吉光町にある一軒家。広々としたリビングには、不自然なほどの静けさが満ちていた。水晶のシャンデリアの光だけが、磨き上げられた床に細かく揺れている。ソファに座る茜は、画面の中で見せる華やかな姿とは違い、わずかに緊張を帯びていた。それでも背筋は伸び、言葉には揺らぎがない。「今日はわざわざお越しいただいて、ありがとうございます。……光俊くんにも、会っていただけましたし」向かいに座る信三は両手を握りしめていた。視線は、奥の部屋で勉強に没頭する少年へ向けられている。背筋をまっすぐに伸ばし、脇目も振らず問題に向かう姿。その周囲には、学校で得た賞状やトロフィーが整然と並んでいる。やがて視線を戻し、手つかずの茶へと一瞥を落とした。「……よく育てているな」「それは……秀雄さんのおかげでもあります」「だとしてもだ」信三の手が止まる。ゆっくりと顔を上げ、その目が鋭く細められた。「私が来た理由はそこじゃない。この子が優秀なのは認める。だが――」言葉の続きを待つまでもなく、茜は静かに微笑んだ。「母親の出自がふさわしくない――そうおっしゃりたいんですよね。秀雄さんと縁を切って欲しいのは承知しています。でも、私は最初から結婚なんて望んでいません。そもそも、いわゆる名門の奥様には向いていませんし、今の仕事を手放すつもりもありません。光俊くんがいれば、それで十分です。あの子に好きなこ
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第645話

「秀雄、お前は――私の子どもの中でも一番頭が切れる。誰よりも信頼していたし、私の考えも一番よくわかってくれた」信三はゆっくりと歩きながら続けた。「もしあのとき、私の言う通り安藤家の娘と結婚していれば……今ごろ、中道家の後継ぎはお前の息子で、智宏ではなかった」その言葉に、茜がそっと秀雄の方を見る。秀雄は一度、深く息を吸い込んだ。「もしあのときお父さんの言う通りにしていたら……お父さんは満足したでしょう。でも、俺は――今の俺でいられたでしょうか」わずかに間を置き、続ける。「お父さん。正直に言うと、俺は弟たちが羨ましかった。少なくとも、彼らには自分で選ぶ権利がありました。けど俺は違った。期待されていたのはわかっています。でも、その期待は……俺にとっては、枷でもあったんです」信三の眉がぴくりと動く。「今日は……この二人のために、私に逆らうつもりか」「もしお父さんが彼らを認めてくれないのなら――私は、やるべきことをやるまでです」張り詰めた空気が、リビングを満たす。外に控えるボディーガードたちですら、息を潜めていた。そのとき、秀雄の背後にいた光俊が一歩前に出る。「すみません」まっすぐ信三を見据えた。「父を困らせるのは、やめてください」その口から、「おじいさん」という言葉は出なかった。これまで一度も会いに来なかった相手に、そんな呼び方はできなかった。信三はその様子を見つめ、ほんの一瞬、複雑な感情が目の奥をよぎる。「光俊、部屋に戻りなさい」秀雄は息子を巻き込みたくなかった。だが光俊は首を振る。「僕はもう子どもじゃありません。今年で十八歳です。お父さん、僕にも、家族を守れます!」その言葉に、秀雄は言葉を失った。気づけば、息子は自分よりも背が高くなっている。守られる側だったはずの存在が、いつの間にか自分を守れるようになっていた。「……もういい」信三はゆっくりと目を閉じ、そして開いた。「別に、この二人をどうこうするつもりはない。縁を切らせようと思っただけだ」淡々とした口調で続ける。「今日来たのは、ただ見たかったんだ。お前が十年以上も守り続けてきた相手が、どんな人間なのかをな」秀雄はわずかに目を見開く。信三は鼻を鳴らした。「……なかなか骨がある」それだけ言うと、顔を背けてその場を後にした。秀雄はしばらく
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第646話

信三は、あの親子を本気で傷つけようとしたわけではないと由奈が知ったのは、秀明と智宏が本邸から戻った後だった。表立って態度を変えたわけではない。ただ一歩だけ引いた――それだけで、今後はもう干渉しないという意思は十分に伝わった。どうして急に考えを変えたのか、由奈は気になって父に尋ねた。秀明は苦笑する。「おじいさんは昔からああいう人だ。何を考えてるかなんて、誰にも分からないさ」長年付き合ってきた彼でさえそうなのだ。秀雄を除けば、兄妹の中で誰一人として、その気性を読み切れる者はいない。由奈はそれ以上、何も言わなかった。……それから二日後、茜がようやくメディアの前に姿を現し、「未婚での出産」について説明した。「後悔はしていません。子どもの父親は、私が思っていた以上に、この子を大切にしています」その二言だけで、世間の詮索はひとまず収まった。なぜ秀雄が彼女と籍を入れていないのか――誰もが薄々事情を察してはいたが、それ以上は推測の域を出ることはなかった。やがて騒ぎも落ち着き、一週間。延期されていた婚約パーティーが、いよいよ明日に迫る。あの霧がかったような淡いブルーのドレスに、由奈はようやく袖を通した。最高級のシルクベルベットは、室内のやわらかな光を受けて、しっとりとした艶をたたえている。幾重も重なるレースが上へと流れ、取り外し可能なフィッシュテールの裾は、淡い霧がたゆたうように由奈の体を包み込んでいた。襟元には、パールとブルーのビジューで白木蓮がかたどられている。控えめな上品さの中に、確かな華やぎがあった。指先でそっとなぞると、雲のようにやわらかな感触と、手縫いならではのわずかな起伏が伝わってくる。「お嬢様、本当にお似合いです。どんな女優さんよりもお綺麗ですよ」試着を手伝っていた使用人が、思わず声を弾ませた。由奈は小さく笑う。「大げさですよ」「いいえ、本当です。奥様の若い頃にそっくりで……皆そう思っております。もし奥様が今のお姿をご覧になったら、きっと誇らしく思われますよ」長年この家に仕えてきた彼女の言葉には、確かな実感がこもっていた。母の話題に触れた瞬間、由奈は視線を落とす。本当は――この日を、いちばん見てほしかった人だった。そのとき、不意に鏡の中にもう一つの影が映り込んだ。使用人は一歩下がり
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第647話

翌日に行われる婚約パーティーは、派手なものではなかった。数か月かけて整えられた会場はそのままに、無駄な儀式は削ぎ落とされ、全体として落ち着いた構成になっている。中道家はゲストを迎えていた。今回の席には、恭子以外、信三も「体調不良で療養中」という理由で欠席している。招かれているのは中道家と親しい関係者ばかりで、信三が欠席した本当の理由に気づいている者も多かったが、誰も口には出さなかった。会場の外では、秀明と智宏が並んで客を迎えていた。招待客はほぼ揃っているにもかかわらず、千代たちの姿だけが見えない。「まさか遅れるなんてことはないだろうな……」腕時計を確かめながら、秀明が小さくつぶやく。やがて、ゲストたちは全員入場し、会場はにぎわいに包まれた。……控室では、由奈が身支度を終えていた。ゲストも揃った頃合いを見て、彼女はドレスの裾を軽く持ち上げ、立ち上がる。澪がバッグを持ち、そのすぐ隣で裾を整えながら付き添う。まだ会場へ入る前、来客対応をしていた美雪が足早に近づいてきた。「由奈さん、滝沢家のみなさん、まだ来てないの?」由奈は会場の中へ視線を向ける。上座が、ぽっかりと空いていた。千代も、和恵の姿もない。そして――祐一の姿も。一瞬だけ唇を引き結び、平静を装って答える。「何か用事で遅れてるのかもしれません。もう少ししたら来ると思います」「あと十分で始まるわ。連絡、取ってみて」由奈は静かにうなずいた。美雪は別の来客に呼ばれ、その場を離れていく。由奈は目を伏せ、わずかに眉を寄せた――祐一が遅れるなんて、ありえない。胸の奥に、じわりとした不安が広がる。「澪さん、スマホを……」受け取るとすぐに発信する。呼び出し音だけが、長く続く。だが応答はない。もう一度かけてみても――繋がらない。「由奈お姉ちゃん、大丈夫ですか?」澪が由奈の顔をのぞき込む。「祐一さん、出なかったんですか?」由奈は何も答えず、ただスマホを握りしめたまま、再び会場へ視線を向ける。その中に、紬の姿もない。見えるのは、悠也だけ。「悠也さん、呼んできてくれますか?」澪が頷き、悠也に近づくと、耳元で何かを囁いた。直後、悠也はグラスを置き、すぐにこちらへ歩み寄ってきた。「どうしたんですか?」「祐一の電話が繋がらないんです」「え……?
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第648話

「もともと延期してた婚約パーティーなんです。ここで中止にしたら、さすがにまずい。みんな見てるし……おじいさんやお父さん、それからお兄さんも困ってしまいます」由奈の言葉に、智宏は一瞬言葉を失った。彼女がそこまで周りを見ているとは、思っていなかったのだろう。視線を落とし、低く問いかける。「……まさか、全部一人で背負うつもりなのか?」由奈は小さく息を吐いて、顔を上げた。浮かべた笑みはぎこちなく、どこか無理をしている。「中道家の婚約パーティーなんだから、主役が中道家の人間であれば、形にはなるでしょ?」智宏が言葉を返す前に、由奈は悠也へと向き直った。「今日の婚約パーティーって、中道家の娘と斉藤家の御曹司ってことになってるでしょ?だから、あなたはその新郎です」「は?」悠也は一瞬固まり、すぐに顔を引きつらせて手を振った。「いやいや、ちょっと待って!そんなの無理って!新郎役に俺が?祐一に殺されるよ!」「そういうわけじゃないんです」そう言って、そっと澪の手を引いた。「澪さんだって、中道家の娘でしょ?」いきなり名前を出された澪は、その場に立ち尽くしたまま由奈を見返す。悠也も言葉を失う。さすがに想定外すぎる展開だった。「あの……言いたいことはわかりますけど」慎重に言葉を選びながら、悠也は続ける。「今日、あなたと祐一の婚約パーティーですよね?それを急に俺と澪さんが代わりにって……信三さんがどう思うか以前に、澪さんが了承してくれるかどうかさえわかりませんよ」澪はわずかにまぶたを震わせ、うつむいたまま黙っている。由奈は一瞬だけ目を閉じたあと、静かに言った。「二人とも、お願いです。形だけでいいんです。ほんとに結婚させるわけじゃないから」一拍置いて、さらに続ける。「どうしても無理なら……あなたが祐一の代わりに立つしかありません。どっちがいいのか、選んでください」もう迷っている時間はない。中道家を守る――それが最優先だった。智宏は深く息を吸い、悠也の前に立つ。「斉藤さん。この件、引き受けていただけるなら……借りは必ず返します。どんな形でも」しばしの沈黙。やがて悠也は、軽く舌打ちして息を吐いた。「……やるのはいいですけど、最終的に決めるのは澪さんです」由奈の視線が、澪へ向く。澪はゆっくりと顔を上げた。「……私、やります」……由奈は澪を
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第649話

パーティーの様子も、招待客がこの婚約式をどう思っているのかも、由奈にはわからなかった。ただ――ここにいればいい。パーティーが終わるまでじっとしていれば、それで中道家を守ることができる。そんなふうに、自分に言い聞かせていた。そのとき、扉の前でふっと気配が止まる。差し込んだ影に心臓が大きく跳ねた。一瞬、相手を祐一の姿が重なる。――祐一が来たのか?思わず顔を上げる。けれど、数秒の沈黙のあと。「……私です」聞こえてきたのは、倫也の声だった。現実に引き戻され、由奈はわずかに肩の力を抜く。「……どうしてここに?」パーティーには招いていたが、今は会場にいるはずだ。倫也は軽く顎でホールの方を示す。「主役が入れ替わってたから、気になってお兄さんに聞いてみました」その言葉に、由奈は目を伏せる。倫也は少し間を置いてから続けた。「滝沢家、何かあったみたいです。松本さんが昨日、急に休み取ってました。かなり慌てていました」「え……?」由奈の胸がざわつく。「……何があったか、わかりますか?」「いや。向こうは情報を締めてるみたいで、私のとこにも何も降りて来ていません」滝沢家に何かあった。その一言だけで、嫌な想像が頭をよぎる。まさか和恵に何かあったのか?だが、祐一が婚約パーティーを放り出すほどの事態――それは、「家や会社にトラブルが起きた」ってだけで済むはずがない。紬まで慌てて戻ったとなれば、巻き込まれているのは滝沢家だけじゃない可能性もある。……まさか。そこまで考えて、由奈は思考を止めた。顔色がみるみる白くなっていくのを見て、倫也がわずかに眉をひそめる。「心配なら――数日後、一緒に海都市に行きませんか?ヤクモヘルスグループと案件があるので、どうせ行く予定なんです。向こうの様子も見られますし」由奈は即座に頷いた。……婚約パーティーの翌日。中道家の屋敷には、関係者が集められていた。悠也と澪の姿もある。空気は、重かった。「滝沢家、どういうつもりなのよ」美雪が苛立ちを隠さずに口を開く。「あんな大事な場なのに来ないなんて……代役立ててどうにかしたけど、あんな茶番、人になんて言われてるのか……」式の準備を主に担っていたのは彼女だ。延期を経てようやく迎えた当日が、あんな形で崩れたのだから、無理もない。秀明も苦い顔で頷く。
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第650話

婚約パーティーから三日が過ぎたが、その日に起きたことは世間を騒がせるような大事には至らなかった。信三が自ら手配し、当日招いた客のもとへ謝罪と贈り物を届けさせたらしい。結果として、人々の認識は「中道家と斉藤家の縁談」という形で落ち着き、肝心の「誰が婚約したのか」については、あくまで中道家の内情として扱われた。……けれど由奈にとっては、そんな外の評価などどうでもよかった。浩輔から、近況についての報告を受けたあの日以来、祐一からは一切音沙汰がない。三日間、メッセージも電話も、何ひとつ返ってこなかった。不安が募る中で、彼女が気にかけていたのは、むしろ、和恵のほうだった。食卓で、ふと箸を止めた由奈に気づいた秀明が、静かに口を開く。「そんなに気になるなら、一度向こうへ行ってきてもいいじゃないかな」思いがけない言葉に、由奈は顔を上げた。少し迷ったあと、口を開く。「……実は、そのこと、私からもお願いしようと思ってました」「だろうな」秀明は軽く手を振る。「君からは言い出しにくいだろうと思って、提案しておいた。本音を言えば、海都市に行かせるのはあまり気が進まないが」そこまで言って、彼はふっと息をついた。「けどな。君はもともと海都市で育ったんだ。たまには、帰ってみたくなることもあるだろう」その言葉に、由奈は静かに頷く。「今回帰るついでに、浩輔にも会ってこようと思ってます」「浩輔……ああ、養父母のところの子か」「はい。今、あの子にとって家族は私だけですから。名目上とはいえ姉ですし、ずっと一緒にやってきたんです。顔くらい見に行かないと」秀明は少し考えたあと、やわらかく笑った。「それもいいな。もし本人が嫌がらなければ、智宏の会社に紹介してやってもいい。近くにいれば面倒も見やすいだろう」「縁故採用ですか?」由奈は思わず笑う。「縁故採用だとしても、悪いことばかりじゃない」秀明は真面目な顔に戻る。「能力があっても機会に恵まれない人間はいくらでもいる。親の代が築いたものは、本来、次の世代に機会を与えるためのものだ。誰もが持てるものじゃないからこそ、価値がある」少し間を置いて、言葉を続ける。「才能ある人間が、必ずしも評価してくれる相手に出会えるとは限らんからな」その意味を噛み締めるように、由奈は静かに頷いた。「……わかりました。本人に聞いて
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