All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 651 - Chapter 660

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第651話

由奈が再び目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。白い天井をただ見つめたまま、意識がどこか遠くに沈んでいる。そんなとき、ドアが静かに開き、倫也が入ってきた。「目が覚めたんですね」声に引き戻されるように、由奈はこめかみを押さえながらゆっくりと体を起こす。「私……どうしてここに……?」倫也は付き添い用の椅子に腰を下ろし、少しだけ表情を和らげた。「あなたも医者ですし、分かると思いますが、今は無理してはいけない時期です。あまり気を張りすぎないようにしないと」やわらかく諭すようなその言い方に、由奈はかえって違和感を覚えた。ぴたりと動きを止め、彼を見つめる。「……どういう意味ですか?」倫也は一瞬だけ言葉を選び、やがて静かに告げた。「あなたは妊娠六週目です。気づいてなかったんですか?」その一言で、時間が止まったように感じた。由奈は無意識に、自分の腹へと手を当てる。中道家のことで頭がいっぱいになっていたから――生理が遅れていることにすら、きちんと向き合えていなかった。まさか、それが妊娠だなんて。もともと自分は、妊娠しにくい体質だと診断されていた。だからこそ、こんなタイミングで妊娠するなんて思いもしなかった。何の準備もできていない。心も、状況も、追いつかないままだ。由奈の揺れる表情を見つめ、倫也も事情を察したらしい。少しだけ間を置いてから、控えめに口を開く。「滝沢家には……今は行かない方がいいでしょう。身を休めることを最優先にしましょう」由奈は視線を落とし、しばらく黙り込んだ。けれど、やがて小さく息をついて首を振る。「……いいえ、行きます」静かな声だったが、その奥に決意があった。「戸籍上は、まだ祐一の妻ですし……行かないわけにはいきません」わずかに言葉を詰まらせ、それでも続ける。「それに……おばあさまに、ちゃんとお別れを言いたくて」訃報を聞いた今も、どこか現実味がない。あの人が、もういないなんて……海都市を離れたあの瞬間が、永遠の別れになるなんて思いもしなかった。ふいに視界がにじむ。涙がこぼれそうになった瞬間、由奈は顔をそむけた。倫也は何も言わず、そっと視線を外す。気づいていても、あえて触れないまま。「……私も一緒に行きましょう」……祭壇の前には、黒い人影が静かに連なっていた。滝沢家はまだ今回の事故を発表し
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第652話

奈々美は視線をそっと引き戻し、歩み寄ってくる由奈をまっすぐに見据えた。胸の奥にくすぶる嫌悪は、今も消えていない。あの人さえいなければ。祖母に偏見を持たれることはなかったし、祐一に海外へ追いやられることもなかった。さらに、両親とここまで追い込まれることもなかった。由奈は、祭壇に掲げられた和恵の遺影を見つめ、ひとつ深く息を吸った。込み上げるものを押し込めるようにして、足を進める。やがて将平の前で立ち止まり、かすれた声で呼びかけた。「……お義父さん、ただいま戻りました」その一言に、将平が反応するよりも早く――隣にいた沙耶が、由奈をじっと見つめた。「この方が……もしかして?」「ええ、そうですよ」間髪入れずに口を挟んだのは、真由美だった。わざとらしく声を張り上げる。「祐一さんの奥さんです。去年、祐一さんと離婚騒ぎを起こしてね、そのせいで祐一さん、命まで危うくしたんですよ」わずかに間を置き、さらに追い打ちをかける。「そういえば――あの日、お義母さんとお義姉さんが事故に遭ったのも、この人に会いに栄東市へ向かう途中でしたわね」その言葉が落ちた瞬間、場の空気がざわりと揺れた。囁き声が、あちこちで広がっていく。「彼女のために……滝沢社長が半年も家を出たのか……?」「見た感じ、普通じゃない?どうしてあそこまで執着するのかしら」遠慮のない視線と言葉が、容赦なく由奈へと向けられる。軽蔑、好奇、興味本位――人々は様々な思いを抱いていた。由奈はすべてを受け止めながら、ただ静かに立っていた。真由美がわざと自分を貶め、松本家に悪い印象を植えつけようとしていることも、分かっている。案の定、剛志と昭子も彼女へと視線を向け、その表情は重い。少し離れた場所で、紬が指をいじっていた。反論すべきかどうか――迷いながらも、彼女は一歩踏み出そうとするその瞬間。「叔母さん、すでに滝沢家を出た人間を、わざわざ責め立てる必要はないでしょう」低く、よく通る声が背後から落ちた。由奈ははっと振り返る。そこに立っていたのは、祐一だった。黒いコートをまとった彼は、空気の冷たさをそのまま持ち込んできたようだ。数日見ない間に無精ひげが伸び、輪郭はかえって鋭さを増していた。いつもの穏やかさは影を潜め、近づきがたい冷えた空気を漂わせている。その視線に射抜かれ、真由美は
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第653話

その一言は、由奈の心に深く突き刺さった。――終わりにしたい、だなんて。あまりにもあっさりと、簡単に言ってのける。あれほど執着してきたのは彼だったし、いくら突き放しても諦めなかったのも――彼だったはずなのに。こみ上げる感情を押し隠すように、由奈は無理に笑みを浮かべた。もし今、鏡があれば――自分がどれほど歪んだ顔で笑っているか、はっきり分かっただろう。「終わりにしたいって……それ、本気で言ってるの?じゃあ、今までのことは何だったの?あれ全部、私を振り回してただけ?」祐一は何も言わない。由奈の胸の奥で、何かが決壊した。「最初からそのつもりなら、近づいてこなければよかったじゃない!勝手に私の生活に踏み込んで、今さら何もなかったみたいに引くなんて……そんなの、通ると思ってるの?」言い終えるや否や、由奈は彼の胸を強く押した。祐一は数歩よろめきながらも、由奈を支えようと反射的に手を伸ばす。だがその手は、すぐに振り払われた。「答えてよ!」祐一は長いまつげを伏せたまま、しばらく黙り込んだ。張り詰めた横顔の輪郭だけが、やけに鋭く浮かび上がる。やがて、絞り出すように一言だけ落とした。「……俺の無茶振りで、君の時間を無駄にしてしまって、本当にすまなかった」その言葉は、氷の針のように、まっすぐ由奈の胸へ突き刺さる。胸のいちばん柔らかい場所をえぐられたように痛んで、息さえうまくできない。由奈はかろうじて口元を引きつらせ、一歩後ろへ下がった。爪が食い込むほど強く掌を握りしめ、震えを押さえ込む。「……最後にもう一度だけ聞く。私たちの関係、本気で終わらせたいの?ちゃんと考えてから答えて。じゃないと――」「終わりにする」祐一は遮るように言った。その一言が、由奈の怒りも動揺もきれいに消してしまう。由奈は、喉元まで込み上げた言葉を無理やり飲み込む。――じゃないと一生、あなたの子どもには会わせない。そう言いかけていた自分に気づき、奥歯を噛みしめた。彼の言葉は、ただの弱音だと思っていた。滝沢家の状況が変わり、自分を守るために距離を取ろうとしているのだと――そう信じたかった。どんなことがあっても、隣に立つつもりだったのに。それを伝える機会すら、与えてはくれなかった。彼は本当に、自分と別れたいのだと――今さらようやく理解が追いつく。その瞬
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第654話

紬は、握りしめていた手をふっと緩めた。ひとつ息を吐いてから、隣の奈々美へと視線を向ける。「奈々美、そうやって私を利用しようとするの、やめて」淡々とした声だったが、はっきりと線を引く響きがあった。「あなたとは、違う世界の人間だから」奈々美は一瞬きょとんとした顔を見せ、それから肩をすくめる。「別にそんなつもりじゃないわよ。ただ、思ったことを教えてあげただけ」「本当にそう思ってるなら、あんな言い方しないでしょ」紬は一歩も引かなかった。「あなたが何を考えてるかくらい、分かるよ。確かに、白石さんのことは好き。でも――だからって、由奈お義姉ちゃんを敵に回す理由にはならない。私が好きなのは私の問題であって、由奈お義姉ちゃんには関係ないから」奈々美の表情がわずかに歪む。紬は小さく息をつき、呆れたように肩を落とした。「はあ……だから長門さんと気が合ったんだね。自分でどうにもできないことを、すぐ人のせいにする」言い終えると、軽く白い目を向ける。「そりゃ、和恵おばあちゃんにも祐一兄ちゃんにも好かれないわけだよ」それだけ言い残し、紬は振り返ることなくその場を離れた。残された奈々美は、しばらく動けなかった。その言葉は、まるで刃のように胸に突き刺さる。顔色がさっと変わり、悔しさに涙が滲みかける。――見下される視線。価値がないと言われるようなその感覚。それが、どうしようもなく腹立たしかった。……倫也は、由奈を池上家まで送り届けた。車を降り、見慣れた街並みを見渡した瞬間、由奈はわずかに足を止める。懐かしさと現実感のなさが、入り混じる。「ここがご実家ですね」倫也が隣から声をかけた。由奈は視線を戻し、小さくうなずく。「はい……昔とほとんど変わってません」少し間を置いてから、ふと思い出したように言った。「よかったら、上がっていきませんか?弟の浩輔、前にも会ったことあると思います」倫也は小さく笑う。「じゃあ、お言葉に甘えて」由奈は玄関の前に立ち、インターホンを押した。しばらくして扉が開く。現れたのは、清潔感のある短髪の青年だった。その姿に、由奈は思わず目を見張る。「……浩輔?」「姉さん、お帰り!本当に帰ってきたんだ!」浩輔の目がぱっと輝く。驚きと嬉しさがそのまま表情に出ていた。由奈はまじまじと彼を見つめる。「その髪……どう
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第655話

リビングへ戻ろうとした浩輔は、その言葉を耳にした瞬間、足を止めた。――生まれてくる子供?姉が妊娠したというのか?思わず息を呑み、壁の陰に身を引いて、会話に耳を澄ませる。由奈が妊娠という事実が、頭の中でうまく整理できないまま、ただ心臓だけが速く打っていた。一方で、由奈は何も答えず、沈黙が続く。時間だけが、ゆっくりと流れていく。窓の外の空が暗くなり始め、倫也がふっと息をついた。「……そろそろホテルに戻ります」空気を切り替えるような声音だった。そのタイミングで、浩輔は慌てて姿勢を整え、何事もなかったようにリビングへ出る。「え、もう帰るんですか?うち、部屋ありますけど……泊まっていきません?」倫也は軽く首を振る。「お気遣いありがとうございます。ホテルはもう予約してありますので」そう言って、あっさりと玄関へ向かっていった。浩輔はその背中を見送り、ドアが閉まるのを確認してから、くるりと振り返る。そして、そのまま由奈の向かいに腰を下ろした。少し沈黙したが、さすがに我慢できず、口を開いた。「……姉さん。もしかして、妊娠してるの?」由奈は静かに彼を見返した。「さっき……ちょっと聞こえちゃってさ」浩輔は気まずそうに視線を泳がせる。「その……赤ちゃんのお父さんって、やっぱり……」言葉を濁す。「――私の子どもだよ」由奈は、短くそう言った。「え?」浩輔は一瞬理解が追いつかず、間の抜けた声を出す。由奈は淡々と続けた。「今はそういう方法もあるでしょ。医療的に」人工授精――その意味を察し、浩輔は言葉を失う。由奈は少しだけ疲れたように息をつき、立ち上がる。「今日はもう休むね。ちょっと……いろいろあって」「……うん」浩輔は慌てて頷いた。「晩ご飯、食べる?」「あとで食べる」それだけ言って、由奈は自室のドアを閉めた。……池上家を出たあと、倫也はしばらく歩いた先で足を止めた。視線の先には、一台のピンクのスポーツカー。そのそばで落ち着きなく行き来している人影は――紬だった。考えごとに没頭しているのか、彼が近づいてきたことにも気づかない。「こんなところで、何をしてるんですか?」声をかけると、紬はびくりと肩を震わせた。慌てて振り返る。「えっ……あ、いや……ちょっと」目を合わせられず、言葉も曖昧になる。本当は、由奈と
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第656話

和恵の葬儀が終わり、その翌日になってようやく訃報が公開された。知らせが出るや否や、各メディアのトップを一斉に占める。事故の原因は、表向きには「ブレーキの故障」――ただそれだけ。だがネット上では様々な憶測が飛び交いながらも、世間の関心の多くは、和恵の死後における滝沢家の遺産分配へと向けられていた。その頃。滝沢家本邸のリビングでは、和恵の弁護士が遺言書を将平の前に差し出していた。将吾と真由美は一見、興味がなさそうに振る舞っているが、内心では誰よりもその内容を知りたがっている。将平は静かに封を切り、読み上げた。和恵は、ヤクモヘルスグループの株式をすべて祐一に。そして滝沢グループの株については――祐一と奈々美に、それぞれ半分ずつ。その一文が落ちた瞬間、真由美と将吾の表情が固まる。奈々美自身も、言葉を失ったまま将平を見つめた。「叔父さん、今なんて……?」将平は視線で弁護士に説明を促す。弁護士は軽くうなずき、淡々と口を開いた。「祐一様は海都市を離れる前、ご自身の持分を和恵様に預けておられました。これは非公開の扱いでしたので、祐一様が不在の間も、実質的な経営権は和恵様にありました。また和恵様は、ここしばらくの間、真由美様がグループを支えてきた苦労を汲み、ご家族の和を望まれていました。そのため、預かっていた半分の株式を奈々美様へ譲渡されています。結果として、現在お持ちの株式は祐一様と同等――今後は奈々美様も経営の一角を担われることになります」奈々美はその場に固まったまま、ただ前を見つめる。――おばあちゃんは、自分を嫌っていたはずなのに。失望していたはずなのに。どうして……一方で、真由美の顔色は見る間に悪くなっていった。この一年、彼女は社内での足場を固めるため、古参の幹部たちに働きかけてきた。だがそのすべてが、和恵の掌の上だったということになる。しかも、その半分の株を隠し通していた。祐一が、彼女に会社を握らせても平然としていたわけだ。将平がふと顔を上げ、将吾を見た。「将吾、お前はどう思う?」名を呼ばれ、将吾は慌てて表情を整える。だが内心の動揺は隠しきれない。「……お母さんのことは急すぎたし……もう、ここまで決めていたなら、お母さんの意思に従おう」その言葉に、真由美が横から口を挟む。「お義母さんが家族の和を望んでいたな
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第657話

真由美は自宅に戻っても、どうしても怒りを飲み込めなかった。将吾を睨むその目には、あからさまな非難が滲んでいる。「さっき、どうして何も言わなかったの?少しくらい取りなしてくれれば、将平さんだって気が変わったかもしれないのに!これじゃ何も手に入らなかったじゃない!」将吾はソファに腰を落とし、苛立ちを隠せずに息を吐く。娘がいるのを思い出したのか、声だけは抑えた。「奈々美、先に部屋へ戻ってくれ」奈々美が階段を上がっていくのを見届けてから、将吾はネクタイを乱暴に外し、テーブルに放り投げた。「お母さんが亡くなったばかりなんだ……少し空気を読んでくれないか」「何それ、結局は私が悪いの?」真由美は感情を爆発させる。「あの時お義母さんの薬を変えたのって、今日のためなんじゃ――」言い終わる前に、パシッという乾いた音がリビングに響いた。奈々美は階段の途中で足を止め、気配を殺して陰に身を隠し、そっと下を覗き込む。頬を押さえた真由美の目に、怒りが宿る。将吾に殴られたのは、これで二度目だ。彼女は笑った。怒りに歪んだ、冷たい笑みだった。「ははは、図星だった?お義母さんがいなくなった途端、親想いの息子ぶるつもり?だったら今すぐ将平さんに教えなさいよ――あの事故がどういうものだったのかをね!」「黙れ!」将吾の声は、低く唸るように響いた。胸が激しく上下し、その目の奥では、焦りと苛立ちが渦を巻いている。真由美の歪んだ顔を直視できない。今のやり取りを誰かに聞かれていないか、そのことばかりが、頭をよぎる。――殴るべきではなかった。今さらながらにそう思う。しかし、後悔したところで、もう遅い。彼女の言葉は、焼けた鉄のように胸に突き立てられ、じわじわと皮膚を焦がしていく。確かに、彼女の言う通りだ。母の薬をすり替えたあの日から、自分はもう引き返せない。それでも――すべてを暴かれることだけは、耐えられない。そんな彼とは違い、真由美はむしろ落ち着きを取り戻し、口元の血を拭いながら低く笑った。「今さら怖くなったの?祐一さんが戻ってきて、将平さんと一緒に実権を握った今じゃ、あなたはもう何も手に入らないのよ。それくらい分かってるでしょ?それなのに、何を取り繕ってるわけ?」「……もうやめてくれ」将吾は深く息を吸い、感情を無理やり押し込めた。「これ以上騒ぐな。奈々美
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第658話

二人は頷き、弁護士事務所を後にした。出口まで歩いてきたところで、背後から祐一が彼女を呼び止めた。「由奈」由奈は足を止め、振り返る。感情の読めない静かな声で返す。「まさか、今さら後悔したって言わないよね?」祐一はしばらく彼女を見つめていた。冷たい風にさらされるその顔に、やがてかすかな笑みが浮かぶ。「君には、何の不自由もなく、ただ幸せでいてほしい。たとえ、俺がいなくても」由奈の呼吸が一瞬詰まる。視線を逸らし、小さく答えた。「……そうするよ」それ以上は何も言わず、彼女は車に乗り込んだ。ドアが閉まった瞬間、シートに体を預け、顔を上げる。こぼれた涙を手の甲で拭った。それでも――窓の外にまだ立ち尽くす祐一の姿が目に入ると、次の瞬間には、涙が堰を切ったようにあふれ出した。そこには絶望も、恨みもない。報われなかった恋というわけでもない。それなのに――かつて祐一に黙って海都市を去ったあの日よりも、ずっと心が痛んだ。……逆方向へ走る車の中で、祐一は窓の外を見つめたまま、視線を動かさない。その目には、消えることのない寂しさが沈んでいた。指先では、小さな箱を弄んでいる。中に入っているのは、本来なら婚約パーティーで渡すはずだったダイヤの指輪。結局、渡されることはできなかった。車は滝沢グループ本社の前で止まる。そこにはすでに報道陣が押し寄せ、車が現れた瞬間、波のように押し寄せてきた。数十人の警備員が即座に壁を作り、群衆を押し返す。ボディーガードが前方を固める中、麗子が駆け寄ってドアを開けた。祐一が車から降りる。黒いコートに包まれた長身は、いっそう冷ややかで近寄りがたい。目の下にうっすら浮かぶ青みだけが、ここ数日の疲労を物語っていた。「滝沢社長!昨年の江川市爆発事故から生還されたのに、なぜ長く戻られなかったのですか?前妻のために滝沢家を顧みなかったという噂もありますが――」「今回海都市に戻ったのは経営権争いのためですか?」「滝沢将吾さんに滝沢家を出るよう求めた理由は?ご自身の不満により、和恵さんや千代さんに危害を加えたという疑惑については?」フラッシュが激しく瞬き、無数の問いが飛び交う。だが祐一は一切目を向けず、耳も貸さない。ポケットの中の箱を握りしめたまま、重い足取りでまっすぐ建物へ向かう。麗子は横でマイクを払
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第659話

この一件は、瞬く間に各大手ニュースサイトやSNSのトレンドを席巻した。ペンキを浴びながらも微動だにせず、堂々としていた祐一の姿は、ネット上で大きな議論を巻き起こす。【金持ちって心にも余裕があるんだね。すげえ】【いや、あのビジュアルは反則。自分だったら絶対泣いてたわ】【元妻ってどんな女?滝沢社長をここまで追い詰めるってヤバすぎ】【恋愛にのめり込むとこうなる見本だな】【親の面倒も見ないで、家のことを放り出す男に会社経営なんて無理でしょ。ちゃんと調査すべき】称賛と嘲笑。擁護と断罪。無数の声が、祐一に容赦なく突き刺さる。……その頃、海都市郊外の乗馬クラブ。静かなラウンジで、将吾夫妻は彰の祖父、敦とグラスを交わしていた。テレビには、ちょうど祐一が記者に囲まれている映像が流れている。「まさか将平さんが、甥にここまで容赦しないとはな」敦は画面から目を離し、将吾へと視線を向けた。将吾はグラスを指先で回しながら、ゆっくりと笑う。その声音には、どこか乾いた冷たさが混じっていた。「こちらが情けをかけたところで、あの子が手を緩めることはないでしょう」隣に座る真由美も口を挟む。「祐一は昔から頑固で、状況を読めないんですよ。自分一人で全部コントロールできると思ってる。そろそろ痛い目を見て、目を覚ます頃じゃないかしら。それに、商売なんてそんなものでしょう?勝った者が上に立ち、負けた者は地に落ちるんだから」敦は指でグラスの縁をなぞる。「ところで、祐一の弱点は……彼の元妻、だったな」真由美は一瞬だけ笑みを引っ込める。「ええ、池上由奈と言って、栄東市の中道家の令嬢なんです」思い出したように、わざとらしく続けた。「そういえばお孫さんの彰さんも、昔あの子に少し興味を持っていらしたとか。由奈がうまく誘惑したんだと思いますけど……その件、ご存じでした?」その言葉に、敦の表情がわずかに沈む。吾はすぐに真由美へ視線を送り、話を引き継いだ。「彰さんと奈々美の縁談は順調です。ですから、決して由奈を彰さんに接触させるようなことはしません。ご安心ください。それに――今の由奈には中道家と白石家の後ろ盾があります。たとえ祐一にとって由奈が弱点だったとしても、迂闊に手を出すよりも、そっとしておく方が得策だと私は考えます」「中道家と白石家の二家く
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第660話

翌朝、由奈は洗面所に駆け込み、朝食をほとんど吐き戻していた。喉の奥が焼けるようで、立っているのもやっとだった。物音に気づいた浩輔が、扉の外から声をかける。「姉さん、大丈夫?」返事がないのを不安に思い、ドアを開けて中へ入ると、便器に寄りかかるようにして崩れ落ちている由奈の姿が目に入った。「……っ、今すぐ病院行こう!」慌てて彼女を抱き上げ、そのまま玄関へ向かう。ちょうどそのとき、ドアの外に立っていた紬と鉢合わせた。状況を一目見て、紬の表情が変わる。「ちょっと、どうしたの?」「説明は後!とにかく病院だ!」浩輔はそのまま外へ飛び出した。「待って、私も行く!」紬も慌てて後を追う。……救急外来の廊下。浩輔と紬は並んで座り、落ち着かない様子で扉を見つめていた。やがて医師が出てくる。「ご家族の方は?」「はい、俺です。彼女の弟です」「お姉さん、普段から、つわりはひどいんですか?」その言葉に、浩輔は一瞬固まる。横で紬が首をかしげた。「つわりって……どういうことですか?」「え……あの……」浩輔は視線を落とし、言葉を探すが、何も出てこない。「患者さんの旦那さんは……いらっしゃらないようですね」医師は小さくため息をついた。「妊娠していること、ご存じなかったんですか?六週目です。吐き方がこの程度を繰り返すようなら、絶食の上で入院管理が必要になります。脱水や電解質の異常も調べなければいけません」「え……妊娠……?」紬が思わず声を上げる。「とりあえず入院を――」と浩輔が言いかけた、そのとき。「必要ありません」静かな声がして、診察室の扉のところに由奈が立っていた。壁に手をつきながら、なんとか身体を支えている。「姉さん、なんで出てきたの!」駆け寄る浩輔を、由奈は軽く首を振って制し、医師に向き直る。「昨日の夜から急に吐いただけで、普段はこんなことありません。ここ数日、食事も乱れていて……少し疲れていただけだと思います」医師はしばらく彼女の様子を見てから、頷いた。「では薬を出しておきます。吐き気が強いときだけ服用してください。妊娠中は、精神状態も大事です。ストレスや不安はできるだけ避けて、食事も少量をこまめに」「わかりました。ありがとうございます」……医師が去ると同時に、紬が一歩前に出る。「ねえ……
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