All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 631 - Chapter 640

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第631話

由奈と紬、澪の三人は同じテントに入った。中は広く、あと二人くらいなら余裕で眠れそうな広さだ。やがて澪が寝息を立て始めると、起きているのは由奈と紬だけになる。紬はふいに寝返りを打ち、小声で囁いた。「由奈お義姉ちゃん」由奈も顔を向ける。「なに?」紬は少し迷うようにしてから言う。「もし――あくまで、もしもの話だけど。祐一兄ちゃんと仲直りしなかったら……白石さんと付き合ったりしてた?」「……どうしてそのことを?」由奈は首を傾けた。「最近、白石先生の名前よく出てきますね」「そ、そうなの?」紬はごまかすように体の向きを戻し、テントの外を見た。「別にそんなことはないと思うけど」由奈は微笑むだけで追及しない。「たとえ祐一と仲直りできなかったとしても、白石先生と付き合うことはないかな」「どうして?」紬は素直に首をかしげる。「いい人なのに」由奈は静かに答えた。「『いい人』の意味って、人によって違うでしょ。私にとって白石先生は大切な友達に近い存在であって、恋愛とは少し違うんです。もしいい人だから付き合うっていう理屈なら、私に親切にしてくれる人はみんな候補になっちゃいますよね」紬は言葉に詰まり、小さく口を尖らせた。「……そこまでは考えてなかったな」由奈は逆に問い返す。「じゃあ紬さんはどう思うんですか?白石先生のこと」「え?私は……まあ……いい人だとは思いますよ」由奈は意味ありげに笑った。その笑みに紬は慌てる。「なに、その顔」「応援してるよ」由奈はそう言って頭元の小さなライトを消した。「私はもう寝ますね。おやすみなさい」その直後――紬のスマホに一通のメッセージが届く。【コート、いつ返してくれるんですか?】画面を見た瞬間、紬の心臓が跳ねた。どう返せばいいのか分からない。深呼吸して気持ちを整え、しばらく悩んだ末にようやく返信する。【明日返す】それ以上返信は来ることがなく、紬はそのまま眠りに落ちていった。……翌朝、一行はキャンプ地をきれいに片づけ、ゴミもすべて回収してから、それぞれ車で帰路についた。由奈と智宏が青ヶ丘の家へ戻ると、玄関の前で智宏が足を止めた。振り返って由奈を見る。「キャンプの件、滝沢社長に説明しなくていいのか?」由奈は一瞬きょとんとしたあと頷く。「後でちゃんと話しますから、大丈夫です」智宏は
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第632話

由奈のまつ毛が羽のようにふわりと揺れる。「じゃあ、どうすれば満足してくれるの?」祐一は低く笑った。その声の余韻には、わずかに危うい響きが混じる。「由奈……その質問、わかってて聞いてるのか?」「別に」と、彼女はとぼけてみせる。祐一の指先が、そっと彼女の唇の端をなぞった。「俺がどれだけ我慢してるのか、わかってるくせに」由奈は腕を伸ばし、彼の首に絡める。そっと耳元へ顔を寄せ、小さく囁いた。「へえ……我慢してたんだ。てっきり、できないのかと思った――」言い終わる前に、唇が塞がれる。試すような彼女の触れ方とは違い、そのキスは一気に踏み込んでくる。逃げ場を与えないまま、深く、強く重ねられ、息が乱れる。気づけば、由奈は彼のシャツの胸元をぎゅっと掴んでいた。思考が追いつく前に、祐一は彼女を抱き上げ、そのまま寝室へと運ぶ。柔らかなベッドが沈み、彼の体が上から覆いかぶさった。片手でシャツのボタンを外しながら、どこか挑むように問いかける。「俺が、できないって?」由奈は言葉を失ったまま、ただ彼を見上げる。やがて自動カーテンが静かに閉まり、空気はじわりと真夏のような熱を帯びた。……どれくらい時間が過ぎたのか。由奈の乱れた髪が彼のたくましい腕に絡みつき、小さな体はそのぬくもりに溶け込むように寄り添っている。満ち足りた様子で、祐一は背後から彼女を抱き寄せ、わずかに湿った首筋へ顔を埋めた。由奈は指先をかすかに動かし、ふと身を返して彼と向き合う。「ねえ。斉藤さんが写真を送ってきたのに、どうして私に電話してこなかったの?」祐一は少しだけ黙り込んだ。やがて、かすれた声で言う。「……君の気持ちを感じてた」「え?」彼はどこか拗ねたような表情で静かに答えた。「昔、君が俺に突き放されていた時の気持ちをな」由奈は一瞬、言葉を失う。それからふっと笑みがこぼれた。「それで、どんな気分だった?」「いい気分じゃなかったな」祐一はやさしく彼女の髪を指で梳く。「でも、こうして待つしかなかった。君が俺を思い出して、俺を必要としたそのとき――今日みたいに、機嫌取ってくれるから」ずいぶんと堂々とした言い方だった。由奈は思わず呆れてしまう。――これ、本当に自分が知っている祐一なのか?……一方その頃。紬は、きれいに洗ったコートを持って研
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第633話

祐一はその言葉を受けて、横目で由奈を見やり、小さく笑った。「おじいさんの件は解決されないまま祝い事を進めるのは、適切とは言えません。延期は妥当な判断だと思います」秀明は彼を見つめる。「婚約が延びると聞いて、不満のひとつくらい出るかと思ったが」「まさか」祐一は肩の力を抜いたまま応じた。「そんなにせっかちな性分ではありません」由奈は俯き、スープを口に運びながら、「よくそんなことが言えるね」と心の中で呆れる。そのとき、智宏が箸を置き、軽く音が響く。「ごちそうさま」そう言って席を立ち、そのまま二階へと上がっていく。由奈はその背中を目で追い、ふと表情を曇らせた。秀明がそれに気づき、穏やかに言う。「心配しなくていい。あんなことがあってまだ日が浅いんだ、すぐに気持ちの整理がつくはずもない」祐一は由奈のお皿に料理をとりわけながら口をひらく。「お兄さんは感情に流されるような人ではない。きっとすぐに立ち直れるさ。今は言葉をかけるより、静かに見守ってあげるほうが大事だと思うよ」由奈の表情がわずかに緩む。確かに、今自分が何を言っても、兄はきっと本音を隠したまま、安心させるために取り繕うだけだ。「……そうね」由奈は小さく笑みを浮かべる。祐一は視線を戻し、秀明に向き直る。「ここ数日、おじいさんのことでお義父さんもお忙しいでしょうし……家のこと、手が回らないこともあるかと。時間はありますから、何かあれば遠慮なく言ってください」「そこまで言うなら、遠慮はしない」秀明は軽く手を振った。「ちょうど数日、家を空ける予定でね。娘と息子のこと、少し見てやってくれ」祐一はやわらかく微笑む。「お任せください」「このまま家に泊まってもらっても構わないが……」秀明はひとつ咳払いをして言う。「あまりやりすぎないように」食事中の由奈はむせかけ、顔を上げた。「ちょっと、お父さん、何言ってるんですか?」「別に何も。ただ、若いっていいなと思ってな」秀明は息をつき、食器を片付けながら席を立つ。由奈は無意識に首元へ手をやった。――まさか、祐一とのことがバレたのか。出かけるとき、跡がなかったと、きちんと確認したはずなのに。その仕草に気づいた祐一が、くすりと笑う。「安心しろ。そんな無神経な真似はしてない」由奈はじっと彼を見つめた。「……ねえ、どうしてお父
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第634話

真由美は窓辺に立ち、祐一が車を降りるのを見届けると、今までとは打って変わった様子で席に戻り、静かに彼を待った。扉が開き、祐一がボディーガードを一人だけを伴って中へ入ってきた。他の者たちはそのまま外で待機させる。かつてのような刺々しさは影を潜め、真由美はどこか自省したような口調で話し始めた。「祐一さんが言っていた独立の件、よく考えたわ。もう私も若くはないし、これ以上抗っても、どこまでやれるのかはわからない……結局は、若い人には敵わないものね。どうあがいてもあなたたちには及ばないなら、一歩引いて、せめて落ち着ける場所を確保するのも悪くないと思ったの」一度言葉を切り、少しだけ視線を落とす。「ただ……奈々美は何もしていないの。あの子のために、少しでも有利になるようにって動いてきただけ。でも……私の読みが甘かったわ」祐一はただ彼女を見つめ、口元にわずかな笑みを浮かべるだけだった。真由美の言葉には、殊勝さも混じっている。それは本心かもしれないが――どこまで信じていいものかは、別の話だ。真由美は祐一の沈黙に居心地の悪さを覚えたのか、少し身じろぎする。「祐一さん、あなたが私を信用してないのはわかってるわ。でも……ここまで追い詰められて、私もいろいろ考えたの。あなたのお叔父さんは軽率だったし、おばあさんにひどいことをしてしまった。とはいえ、あの人は滝沢家の血を引いてるの。だから……独立するのが、一番妥当な落としどころなんじゃないかって」しばらく沈黙が続いたあと、祐一がゆっくり口を開いた。「そう思っていただけているなら、よかったです」「みんな家族なのに、ここまでこじれてしまったのは、結局は名誉や利害の問題でしょう?少しでも譲り合って穏やかに収まるなら、そのほうがおばあさんも安心なさるはずよ」ため息をつきながら、真由美は本当に折れたように見えた。祐一は椅子の背にもたれ、指先で机を軽く叩く。規則のない音が、静かな部屋にかすかに響く。ふいに真由美が口を開いた。「祐一、あなたの条件は受け入れるわ。その代わり……ひとつお願いを聞いてもらえないかしら。安心して、無理なことじゃないわ」祐一は視線を上げる。「内容を伺いましょう」「私たち夫婦の問題に、奈々美は関係ないの。だから、あなたが海都市に戻ったあとも、あの子に手を出さないでほしいの」
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第635話

将吾の顔色が、あからさまに曇る。「何しに来た」麗子が現れた時点で、ろくな用件ではないとわかっている。将吾はちらりと秘書に視線を向けた。「今日は誰にも会わないって言っておいたはずだろ?」――さっさと追い返せ、という圧だ。秘書も断りきれず、ぎこちなく前に出る。「申し訳ありません、土屋様。本日は会長に予定が――」だが麗子はその言葉を軽く受け流し、穏やかに微笑んだ。「少しだけお時間をいただけませんか。真由美さんの件です」将吾の動きが止まる。何も言わないまま、視線だけが鋭く向けられた。麗子は秘書の脇をすり抜け、そのままソファへと歩み寄る。「真由美さんは、このところ栄東市にいらっしゃいました」「……何だと?」将吾が勢いよく顔を上げる。そんなの初耳だ。だがそれより、なぜ真由美が栄東市へ行ったのかという疑念が胸の奥で膨らむ。麗子は淡々と続ける。「滝沢社長がご無事で、しかも栄東市にいらっしゃると知り、お一人で向かわれたようです。信じられないようなら、半月前の搭乗記録を確認なさってください」その一言で、将吾の表情が一気に強張った。拳が、見えないところで固く握られる。搭乗記録は誤魔化せない――その一点だけで、麗子の話の信憑性は十分だった。やや間を置き、低く言い放つ。「……それで?栄東市に行ったから何だ。わざわざ私に報告する必要があるのか?」麗子は手にしていた書類袋から一枚の契約書を取り出し、テーブルに置いた。「ご確認を」将吾は迷いなくそれを掴み、開く。――「滝沢家から独立することに同意する」。その一行が視界に入った瞬間、瞳が大きく揺れた。さらに下へ目を走らせる。署名欄に記された名前は「滝沢真由美」。紛れもなく、本人の筆跡だった。「ふざけるな!」将吾は勢いよく書類を叩きつけ、立ち上がる。「お兄さんですら口にしなかったことを、祐一が勝手に決めるだと?要は私たちを滝沢家から追い出す気なんだろう!」怒声にも、麗子の表情は崩れない。むしろ静かに言葉を重ねる。「独立することに将吾様も同意していただければ、これまでのことは不問にすると、滝沢社長から仰せつかっております。和恵様もその判断を支持されています」一拍置き、淡々と続けた。「独立するとしても、あなたたちは滝沢家の一員であることに変わりはありません。それを追い出すと捉えるの
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第636話

夕方、祐一の車は研究所の前に早々と停まっていた。メッセージを一本送ると、スマホをポケットに収める。そのまま窓越しに外を眺めていると――まだ由奈の姿は見えない。代わりに視界に入ったのは、倫也だった。ドアに手をかけかけた、そのとき。ひとりの若い女性が駆け寄り、ひらひらと舞う蝶のように、彼の隣に並ぶ。祐一は目を細め、眉がわずかに寄った。――まさか。「社長、あれ……紬さんじゃないですか?」運転手が振り返る。祐一は視線を戻し、軽くこめかみを押さえた。紬は、倫也と由奈の関係をかき回すために送られたスパイのような存在だ。だが、まさかそのまま彼氏作りまで始めているとは思っていなかった。紬は祐一の車に気づく様子もなく、倫也に何かを話し続けている。やがて倫也が足を止め、ふと前方に視線を向けた。その視線につられて、紬も振り返る。祐一はゆっくりと車を降りた。紬は数秒固まる。そのまま視線を逸らし、見なかったことにしようとした矢先――「仮面、外したんですね」先に口を開いたのは倫也だった。祐一は薄く笑う。「もう正体も割れてますから。今さらつけても意味がありません」「偽装した死で姿を消し、周囲を欺いたうえで斉藤家の養子として栄東市に潜伏……さすが滝沢社長、ずいぶん手の込んだことをしますね」「褒め言葉として受け取っておきます」二人は向かい合ったまま、一歩も動かない。言葉は穏やかなのに、空気だけがぴんと張り詰めていた。その間に挟まれた紬は、二人を見比べながら、どう割って入るべきか迷っている。そこへ――研究所から由奈が出てきた。目の前の光景に、思わず足が止まる。少し遅れて、紬と目が合った。次の瞬間。「由奈お義姉ちゃん――!」紬はほとんど駆け寄る勢いで彼女の隣に並び、小声で訴える。「祐一兄ちゃんをどうにかしてよ……」由奈は小さく息をつくと、そのまま二人のもとへ歩み寄った。「どういうことですか?本気でやり合うつもりじゃないですよね」祐一は肩の力を抜き、軽く笑う。「まさか。俺はただの善良な市民だよ」その一言に、倫也の表情がわずかに固まった。――どの口で言うんだ。無言のツッコミが、そのまま顔に出ている。それを見逃さず、祐一は眉をわずかに上げた。「どうやら、白石さんも同じ意見みたいですね」「……」
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第637話

由奈は小さく首を傾げ、目を細めた。「どうして言い切れるの?」祐一は足を止め、振り返って彼女をまっすぐ見る。「紬は子どもの頃から見てきたから、性格くらいはわかる。苦労らしい苦労もしてこなかったし、唯一といえば、しょっちゅう金をだまし取られてたくらいだな。あれだけ無邪気なのも考えものだ」少し間を置いて、口元にうっすら笑みを浮かべた。「それでも、自分で稼ぐって言い出したんだ。だったらやらせてみるさ。ああ見えて、松本家の一人っ子だしな。本当に自力でやれるなら、むしろ歓迎だ。もっとも、何日かで音を上げて、また泣きついてくる気もするが」由奈は眉を上げた。「松本家って、娘には甘いって有名なんでしょ?そんな大事な一人娘、放り出して平気なの?」「雛はな、巣の外に出て初めて飛び方を覚えるんだよ」祐一はあっさりと言う。……麗子は、将吾の署名が入った書類を和恵のもとへ届けた。和恵は老眼鏡をかけ、静かにページをめくる。「……祐一も、ずいぶん手を回したものね」「真由美様が翻意される可能性は織り込み済みでしたので」麗子は淡々と答える。最初から、罠は仕掛けられていた。真由美が条件を受け入れたその時点で――もう逃げ道はなかったのだ。口約束など、いくらでも覆せる。彼女はそう高をくくっていた。だが、あの録音は将吾を揺さぶるための材料に過ぎない。真由美が署名した書類も、実際には効力のないもの。本物は――将吾がサインした一枚だけ。内容を確認したうえで自ら署名した以上、あとで否認する余地は残らない。和恵は書類を閉じ、静かにファイルへ戻した。「……独立してもらうのが、一番いい結果でしょうね」息をひとつ吐く。和恵の胸の奥に残るのは、いまだ消えない痛みだった。だがどれだけ憎もうと、相手は自分の息子だ。立派な大人に育てられなかった責任は、自分にある。完全に縁を切ることはできない。だからこそ――せめて、最後の体面だけは守らせる。「しばらく休まないとね」和恵は横になりながら、ふっと微笑んだ。「祐一が由奈を連れてくるまでに、少しは元気を取り戻しておかないと」「そうですね」麗子は丁寧に布団を整え、書類を手に病室を後にした。……その夜、真由美が海都市に戻ったのは、十時を回っていた頃だった。空港には秘書が迎えに来ており、そのまま車で市内へ向かう。
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第638話

真由美の笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。視線を逸らし、すぐに柔らかな表情を取り戻す。「栄東市?何のことかしら。私は江川市に出張してただけよ」「とぼけるな!」将吾は突如テーブルにあるカップを掴んで床へ投げた。陶器が割れる音が響き、空気が一気に張り詰める。立ち上がった将吾は、真由美を指さして怒鳴った。「栄東市に行って、祐一に会ってきたんだろうが!」その一言で、真由美の表情が崩れた。だが、今さらどうやってそれを知られたかなんて考える余裕はない。「……そうよ、行ってきたわ」観念したように口を開く。「でも、それは祐一さんを足止めするためよ!」「足止めするためだと?」将吾の声が低くなる。「なのに、滝沢家を出て、独立するって条件を飲んだのか?」「それはただの口約束よ、時間稼ぎに決まってるでしょ。私が本気でそんなもの――」言い終わる前に、将吾がスマホを操作した。流れてきたのは――自分の声だった。真由美の体が凍りつく。一瞬で血の気が引いた。まさか、あの時のやりとりが録音されていたなんて。「……これ、祐一さんが?」声が震える。「違うの、あなた、これは――」近づこうとした手を、将吾は荒々しく振り払った。真由美はそのまま床へ崩れる。その瞬間――「お父さん、何してるの!」階段を駆け下りてきた奈々美が、その光景を目の当たりにした。慌てて真由美のもとへ駆け寄り、体を支える。「お母さん、大丈夫?」真由美は呆然としたまま、将吾を見上げた。彼に突き飛ばされたのは、これが初めてだった。「あなた……私を信じてくれないの?」将吾は吐き捨てるように言う。「何を信じるっていうんだ?私を裏切って祐一に頭を下げたことか?それとも、独立することに同意する契約にサインしたことか?」「契約……?」奈々美がはっと顔を上げる。「何それ……?」「お母さんに聞け」将吾の視線が突き刺さる。だが真由美も同じように呆然としていた。「……待って、何の話?契約なんて、私――」「まだ白を切る気か!」将吾の怒声が重なる。「土屋が持ってきた書類に、お前の署名があった。あれが偽物だとでも言うのか?」その言葉に、真由美の足元がぐらりと揺れた。頭の中で、栄東市でのやり取りがよみがえる。――祐一のあの余裕。そして、あまりにもあっさりと自分を解放してくれたこと。その時
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第639話

半月後――本来なら由奈と祐一の婚約パーティーが行われるはずだったが、信三の裁判のため延期となった。秀雄の弁護団は控訴審で最大限の弁護を尽くし、さらに徹也が生前に殺人に関与していた証拠を提出。結果、当初六年とされた有期刑は三年へと減刑された。もっとも、当の信三は高齢であり、捜査にも全面的に協力していたことから、最終的には執行猶予一年という処分に落ち着いた。裁判所の外は、拍子抜けするほど静かだった。中道家が情報を徹底的に抑え、記者の目を避けていたのは明らかだった。信三は付き添いの者たちに囲まれ、そのまま車へ乗り込み、現場を後にする。車内で、彼は軽く咳き込んだ。秀雄がすぐに水を差し出す。「お父さん、今回の徹也の件ですが、もう少し考えてから行動すべきでしたね」信三はキャップをひねり、水を一口含んでから、淡々と返す。「放っておけば、いずれ中道家はあいつに潰されてしまう。それより、この件の詳しい状況は、美雪や秀明に知らせなくていい」秀雄は答えず、視線を落とした。しばしの沈黙のあと、信三が口を開く。「家の方はどうだ?」「大きな混乱はありません。多少噂が出ている程度です」声音は変わらず静かだ。信三はかすかに笑った。「構わん。その程度の風評はいずれ別の話題に埋もれる。中道家の根が揺らがなければ、問題にはならん」ペットボトルを元の場所に戻し、ふと思い出したように付け加える。「それと……お前の義兄のところにも、顔を出しておけ。今回、ずいぶん助けられた」秀雄は小さくうなずいた。やがて視線は窓の外へ移る。ガラスに映る自分の顔は、どこか濁っていて、感情を読み取らせないままだった。……一方その頃、由奈は午前中いっぱい、研究室にこもっていた。本来なら裁判を傍聴するつもりだったが、秀明に止められ、智宏も同様に行かされなかった。ふと顔を上げたとき、窓の向こうで手を振る人影が目に入る。紬だった。ほどなくして、由奈はマスクを外し、研究室の外へ出る。「最近バイト始めたって聞いたけど、どうしてここに?」そう言うと、紬は視線を泳がせ、指を絡めた。「えっと……由奈お義姉ちゃん、その……四十万くらい、貸してもらえませんか?」由奈が返事をする前に、彼女は慌てて付け足す。「バイトはしてるんですけど、月四万くらいしかなくて……家賃が十万ちょっとで。バ
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第640話

なんていいアイデアだと、紬は感心した。ちょうど倫也に近づくきっかけは欲しかった。まさか由奈からヒントをもらうなんて――紬は込み上げる笑いをなんとか押し殺し、わざと考え込むふりをする。「……たしかに、一理あるかも。じゃあ、今度白石さんに話聞いてみる」そう言って背を向けかけたが、こみ上げる高揚を抑えきれず、くるりと振り返って由奈の手をつかむ。「由奈お義姉ちゃん!今日からあなたは私の神様だよ!」言い残して、鼻歌まじりに去っていった。その背中を見送りながら、由奈は小さく目を見開く――彼女の気持ちを軽く試したつもりだったのに、見事に引っかかった。けれど、相手が倫也のような男なら、心が動くのも無理はない。互いに足りないものを補い合える関係だ。うまくいけば、それはそれでめでたいことではある。……その頃、信三は屋敷へ戻った。祝いの席など特に何もなく、いつも通り静かな夜だった。玄関ホールでは秀明と美雪が待っていたが、階段を下りてきたのは秀雄ひとり。「お父さんは?」と美雪が聞く。「もう休んでる。今日は何もやらなくていいってさ」「そう……本当は軽くでも席を設けようと思ってたんだけど」美雪は少し残念そうに肩を落とすが、すぐに首を振る。「まあ、めでたい話でもないしね。無理にやることもないか」彼女が戻ったあと、秀明は秀雄と連れ立って庭へ出た。「ここしばらく、お父さんのことでずっと走り回っていただろう?疲れたと思うし、よかったらうちで飯でもどうだ?」気遣うような誘いだったが、秀雄は軽く笑って首を振る。「今日は光俊とご飯を食べる約束してるんだ。悪いな」「光俊くんを国内へ連れ帰ったのか?」「ああ、しばらくの間だけな」「そうか。じゃあ今度、叔父として何かプレゼントを見繕ってやらないとな」秀明は別れの挨拶を言い、そのままゆっくりと歩き去っていく。秀雄はその背中を見送り、やがて静かに視線を落とした。……夜が更け、倫也が作り置きの弁当を温め終えたところで、インターホンが鳴った。扉を開けると、案の定という顔で口を開く。「……何か用ですか?」紬は彼を上から下まで眺める。ラフな部屋着だ。特別値段の高いものでもないのに、不思議と様になっている。――やっぱり顔がいいと何着ても成立するね。内心でそう感心しつつ、にやりと笑った
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